週刊誌は本当に嘘か

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週刊誌には嘘もたくさんあるだろうが、とはいえ、真実を暴き出す装置でもある。昭和の頃の卑近な事例でいえば、桑田真澄が不動産投資に失敗した云々が週刊誌によく書かれていた。それらのひとつひとつを現実と照らし合わせたら真実でない部分も多々あるのだろうが、桑田真澄がメジャーリーグへの意欲を示したときに、ナベツネが「球団に借りている金はどうなるんだ」という発言をして、ああやはり、不動産投資の失敗を球団に処理してもらったのは確かなのだ、と思ったわけである。まさに「あることないこと」の典型ではあるが、尾ひれが鈴なりのように連なっていたにせよ、不動産投資のトラブル自体は間違いなくあったと思われる。とはいえ、それを知ってどうするのかという側面もあろう。桑田真澄が不動産投資に失敗したとか、知らなくてもいいことである。昭和の頃であれば、隣近所のプライバシーは筒抜けであり、壁などあってなきがごとし、隣人との境界は近所の噂話に踏み荒らされ侵略されていた。専業主婦のおばさんが足で情報を集め、それぞれの家庭の事情を井戸端会議で拡散させていたのである。昨今では隣に住んでいるのが誰なのかわからないくらいにプライバシーは守られている。一般人は噂話から逃れることができたのだから、有名人も噂話から逃れられてしかるべき、という論を立てることもできる。隣近所のプライバシーを知らなくても生きていけるのだから、有名人のプライバシーも知らなくてもよさそうである。われわれの世界認識は、確実に確認した事実で成り立っているのではなく、フランスに行ったことがないのにフランスを知ったつもりになるような想像力が基本であるし、空白のパネルを想像で埋め合わせた世界を生きている。もしかすると、ひとりひとりバラバラの宇宙を生きているかもしれないのだが、他人と肩が触れ合うからには「世界はひとつ」である必要もあろうし、有名人というのは、そのような想像力で像を結ぶ中心点とも言える。有名人は生贄なのか英雄なのか、ともかく「世界はひとつ」という幻想の担い手であり、ひとびとの共通の話題なのであろう。さて、週刊文春に関して言えば、プライバシーの詮索というよりは、人民裁判的な素材の提供である。誰もが知る人物を道徳的課題として俎上に載せて、世間の誰もがこの話題を知っているのだから「世界はひとつ」となる。少なくとも、松本人志とか伊東選手の弁護士の横暴さを見ると、まったくプライバシー権の問題ではなく、「事実無根」だと脅しているわけだから、民衆としては干戈を交えるしかない。弁護士は害悪であり、嘘を平気で並べ立てる事件屋である。彼らも阿呆ではないから、というより司法試験合格者として、裁判の勝ち負けの予想は付いており、旗色が悪いとなれば、ただひたすら場外乱闘である。脅して脅して脅して脅して、さらに脅して脅して、最後は示談というシナリオだろう。ここに正義があるわけがない。とりあえず松本人志も伊東選手もプライバシー権で争っているのではなく、怪しげな行為について「事実無根」だとして恫喝しているのだから、そこはきちんと見極めなければならないし、この手の弁護士を許してはならない。
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