渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

オリジナル曲

2024年02月06日 | open

敷石 ~shikiishi~
 

1968年フランス、パリ5月


オリジナル曲というものは、世界
の中で唯一自分自身が作った曲の
事だ。
私のこれもそう。
かなり古い友人夫婦を歌った
「うた」
だ。
妻は1970年代には業界で知られ
たジャズシンガー。夫のほうは

私の二輪の師匠だ。元慶應→同
志社の歳上の闘志だった。
その後、二輪雑誌でライターを

やっていた。

桑田佳祐さんもそうらしいが、他
の多くの人もそうだろうと思う。
曲が頭に浮かぶ時は、歌詞と曲が
同時に浮かぶ。
それを整理整頓していくとシンガー
ソングライターの曲が成立する。
私の場合も全てそれだ。
フォークの伊勢正三さんもそうら
い。
こうしたシーンは誰にでもある。
ほら、鼻歌を適当な歌詞で歌いた
くなる時もあるでしょ?
たとえば独ヲタアッキーのお腹
餅の歌のように。
あれは、シンガーソングライター
の基礎。

ダンスでもそうだ。
ベーシックな技法はあっても、表
現場面にあってはアドリブだ。
バレエのような系統とは違って。

Jazzなどは典型で、フレーズの予
定調和はあるにしても、基本は
Jazzのジャムはアドリブだ。

その場での思いつき。
この活力。
シンガーソングライターの動的
態様のすべてはそこにある。
それは、プロという商業職種や
アマという立場には規定されな
い。
これはスピーチでも全くそうだ。
私の場合、少年時代の弁論大会
やスピーチ、大学時代の現場で
のアジテーションや社会人にな
ってからの冠婚葬祭でのスピー
チも、すべてアドリブだ。
原稿を読み上げるだけの国会議
員のような無様な事はしない。
自分の言葉で、自分で考えて、
自分で語る。
私はそれだが、でも、それが
ホントってやつなんじゃない?
作られた原稿を読み上げてる
だけだと、「未曾有→みぞうゆ
う(麻生)」とか「云々→でん
でん(安部)」とか言って、お
ばかを全世界に曝け出す。自分
の言葉で自分で言う事をしてい
ないからだ。

あとさ。
自分自身で作った自分の曲って
演りたいじゃん。音楽をやって
いる奴ならば。

それについて、技法の巧拙や
何かをゆえなく揶揄中傷する
のってのは
極めて程度が低い。
表現世界にいない人間ほど、そ
うした事をやりたがる。
自分自身で何かを作って、ある
事を創造して、状況を突破した
り、何かに向かって切り拓こう
とした行動実績があるのかと
問いたい。過去の人生で一度
でも。

それらは表現者とは無関係な
種族なので
よく分からないけ
どさ。

でも、思う。
そういうのって、「馬鹿野郎と
言うな!この馬鹿野郎」と言っ
てるような気がする。
心が不自由なのだなぁと思う。







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