「コンプレックスの克服」という定義とは
去年の11月頃に、ちょっと自分では重いイベントがあった。
これはnoteに書く意義はあるかもしれんと思い、今思い立って書き始める。
Xのスペースでは話をしたので、知ってる人は居るかもですが、その重いイベントというのは、知り合い(元同級生)の妹がオーバードーズで自害してしまい、葬式に行ってきたという話。
その妹さんが、とにかく皮肉屋で人のウィークポイントばかりを突く嫌われ者だった。葬式には親族以外は、私を含めて3名しか参加しないという惨状であった。
表題にもある通り、その妹さんにはコンプレックスがあった・・・と思う。今思えば、確か授業を理解出来ず留年を食らっていたという話を兄貴(同級生の知人)から聞いたことがあった。
会話してる分には全く分からないのだが、どうも「教えられる」という状況に対し非常に抵抗感があったらしく、授業中に急に大声を出したり気絶したりすることがあった、という話を聞いた事がある。
性格上な話ならしょうがないのかもしれないが、それによって「不勉強」という副作用が生まれてしまったようだ。
状況を考えれば当たり前の話なのに、彼女はそれを受け入れられなかったのかもしれない。だからあんな皮肉屋になったのかもしれない。
(成人になった後も何回かはコンタクトがあったが、性格はもっと酷くなっていたのを記憶してる)
最終的にはこうなってしまった。ほとんどの人に疎まれながら、彼女は亡くなった。
どうすれば良かったのか、という点を自分に置き換えて考えてみるが、やはり学歴コンプレックス→自分の教養の無さ、という点をどう向き合うかが肝心なんだろうと思う。
安直に考えれば「もう1度勉強しなおす、もしくは授業という手法ではなく勉強し、資格等で代用する」事なんだろうけど、多分普通に学業を全うした人の溝は永遠に埋まらないだろう。
私の結論は「自分を認める事」だと思う。
自分は人と違う、出来ると思い込むから人との比較ばかりになり、どんどん虚栄の壁を厚くして自分を守ることになるんだろう。結局それは役に立たないどころか、人に疎まれる原因を作る事になる。
自分のスペック、というのは未来を見据えれば無限にある。ただし、今の自分を見た時に勿論有限であり、伸びしろが予測できる事になるだろう。
自分を認める=諦める、というイメージで捉えてしまうかもしれないが、諦めるという言葉には「自分を明らかにする」という意味も含まれているという話を住職の人に聞いた事がある。
今現在出来ないなら、今出来ないと「認め」、未来にそれが出来るようになりたいのなら今やればいいし、そこまで望んでいないなら諦めればいい。それを整理し「出来ない」と堂々と言ってしまえば良いんだと思う。私はそれを決して頭が悪い人間だとは思わない。
逝ってしまった妹さんが何らかの力でこの文章を見れるんなら、こう伝えたい。
「来世があるのなら、次の自分は良い部分も悪い部分もまず”認めろ”」と。
そして「他人が人に勝り、悔しいならまず自分を上げろ」と。
故人に厳しい口調だが、正直その妹さんには度し難い態度も取られた事があったのでね・・・
もし、サポートしてくださっても期待に応える事はできないかもしれません(´・ω・`;)ご了承願います('ω')

