アヤカシ・オーヴァドラヰヴ

夢咲蕾花

第1話 三珠双龍神社

 三珠山みたまやま伊月県いつきけん北西部の立花郡たちばなぐんにある、標高九八〇メートルに達する山だ。

 その中腹に開墾された村、三珠村は山菜と獣の肉、川魚を糧に日々を過ごしていた。工芸品は、毛皮や牙や骨、木々など自然のものを使った防寒具や、草花から採った染料で色をつけた染め物。また材木の流送を行っている。

 故にそれを脅かす存在の発生は、村にとって死活問題を意味していた。


 夜半。三珠双龍神社みたまそうりゅうじんじゃの裏手にある山道に、ひた走る影が見える。

 一つは四つ足のケモノ。姿勢を低くして障害物を避け、踏んだ雑草を腐らせながら疾駆する。

 悪臭とも腐臭とも違う、死臭のような——穢れの臭い。それが漂う。嫌な気配と置き換えてもいいかもしれない。とにかく独特なモノが、周囲に漂い風に運ばれてくる。


 それを追うのは一人の少年。

 十四かそこらの若者だ。手には刀を一振り。両手の甲に、青い石が嵌め込まれた籠手当てのようなものを取り付けている。

 あおぐろい袴姿で、黒い長着に、藍色の羽織に袖を通している。

 顔立ちには幼さが残るが、意志のつよそうな紫色の目は、迷いなく「敵」を追っていた。


 少年——燎真りょうまの襠高袴越しの脛が、腐った草花を散らす。地面を踏みしめる足には足袋に武者草鞋。

 黒髪が風に揺れ、猛禽類のようにも思える目はまっすぐ前を向いて、狼のような生物を睨んでいた。


「神社の近くで穢物けものが湧くなんて、世も末だな」


 吐き捨てながら、左手に取り付けてある綺麗にまとまった籠手に妖力を込めた。第三関節から先の指——つまり付け根から先には装甲がなく、掌と甲を覆っているだけ。

 籠手自体は肘まであり、その手の甲にある青い石が光り輝き、その手で抜き身の刀身をなぞる。すると刀に青い妖力の膜がまとわりつき、美しく煌めく。


 龍気式浄化カラクリ籠手——〈龍ノ手たつのて〉だ。


 酸性のヘドロをぶっかけられて爛れたような狼が、金色の目を剥いて吠えた。

 これが穢れに堕ちた生物――穢物。

 見窄らしく縮れた体毛に、焼かれたような皮膚。リンパが腐ったような悪臭と色を示し、歩く都度足元の草花が腐っていく。


 空気が腐っている。燎真はそう感じた。早く祓い葬らなければ、汚染が——穢れが広がる。


 燎真は踏み込みと同時に下段から擦り上げるように刀を振り上げた。狼が反応し、後ろに下がった。素早い切り上げは狼の鼻面を薄く裂いて、掠める。

 舌打ちが一つ。狼が足をたわめて飛びかかってきて、燎真は左に転がってそれを回避した。

 頬に触れた腐った草が、ヘドロのように溶ける。頬がかすかにチリチリと痛んだ。

 すぐさま起き上がって、刀を中段に構え直す。


美琴みことぉ!」


 大声で仲間の声を呼ぶが、反応はない。

 一人でやれ、ということか。大した姉弟子だ。

 燎真は姿勢を低く重心を落とし、切り掛かる。横薙ぎに一閃、狼が後ろに跳んで避けるが、さらに踏み込んで袈裟に振り下ろす。左耳と左目を切り潰した。悲鳴が上がり、狼が怯んだ。


「はあっ!」


 声を張り上げ、燎真は大上段に構えた刀を真一文字に振り下ろした。

 頭部を綺麗に断ち割った一撃で、穢物が末期の痙攣を残して絶命した。脳髄の破片と頭蓋のかけらが溢れている。

 初めて穢物を仕留めたときは忌むべき生物と知っていても、呼吸が乱れて死骸を直視できなかったものだが——もう慣れた。


 生命活動が停止したことで穢れが浄化されていく――極めてゆっくりと。周りの草花が未だ徐々に腐っていくのが見え、燎真は左手をかざした。妖力で一定の力場を作り、穢れを浄化することにした。

 死骸だけでなく、周囲に散った穢れを吸い込み浄化する。それは龍脈炭りゅうみゃくたんから抽出された龍気を借りれば容易いことだった。そしてそのためのカラクリは、今燎真の両手の甲に取り付けられており、

 しかし――


 グルル、と唸り声が聞こえてきた。燎真は集中を乱され、ハッと息を呑む。

 そこには新手が一頭。狼の穢物が、周辺の雑草を腐らせながら歩いてくる。

 すぐさま浄化の妖力を練らねばと思い、しかしそこにどこからともなく青い妖力を纏った矢が飛んできた。

 ドスン、と狼の頭部を一点に射抜き、一撃で死に至らしめる。

 静かな裏山に、燎真の荒い呼吸だけが木霊する。


「油断しちゃだめでしょう」


 茂みを掻き分けて出てきたのは、燎真と同じ袴装束の少女。その色は、赤紫色を基調としている。違うのは袴や小袖の色だけではない。そもそもからして彼女は人間ではなかった。

 青銀色の髪の頭頂部には狐の耳があり、腰からは尻尾が三本生えている。耳も尾も先端だけ青い。

 彼女は妖怪――妖狐だった。気位の高そうな、高慢そうな顔立ちをしている。形のいい小ぶりな鼻を中心に、吊り目がちな目と桜色の唇が瑞々しい口元。餅のような白い肌。

 美女だが、何かにつけて燎真をこき使うので、燎真が夢想する美女像からかけ離れる――そんな少女だった。

 籠目美琴かごめみこと。燎真の姉弟子である。


「わかってるよ」

「わかってないから言ってんでしょうに。さあ、祓うわよ」


 美琴は弓を背負い、呼吸を落ち着け穢れを祓う。燎真もそれに倣い、己が仕留めた狼の穢れを祓うのだった。

 祓った穢物から爪やら牙が残り、それを回収する。これが討伐の証となるのだ。


「帰ろうぜ。夜食食って、寝よう」

「そうね、そうしましょう。明日も早いわ」


 泰冥たいみょう十六年、夏の始まりが近づく頃。

 少年と少女に、大きな変化が迫っていた。


×


 始まりに曰く、まず最初に虚無が漂っていた。


 そこに、原初の光が生じた。光の慈母神、最強の座を未だ誰にも譲らぬ女神・陽之慧ひのえの誕生だ。

 同時に、それによる最初の差異が、闇を産んだ。親子にして姉妹である闇の荒神・常闇とこやみが現れ、両者は争った。


 その争いのエネルギーと余波が、宇宙を形作った。その争いの具現が、彼女らの弟で神に成り損なった狭真はざまで、彼は呆れて姉妹の元を去った。


 やがてさんざめく星々が集まり、攪拌かくはんと天秤を司る星の女神・ステラミラが、壮大な、宇宙規模の姉妹喧嘩を仲裁した。


 三女神は手を取り合い、己らの楽園を築いた。

 それがこの星、揺籃球ようらんきゅうであった。


 途方もない時間が流れ、世界中で様々な神が興り、滅んだ。


 そのうちの一つが、この瑞穂国みずほのくにの基盤となる双龍神話の夫婦龍――双龍神、天龍アマツタツヒコと地龍ダイヂタツヒメであった。


×


 書き写していた内容がキリのいいところまで行ったので、燎真は正座の姿勢を崩した。


 三珠双龍神社の氏子や巫女は住み込みである。ここを家として過ごし、同僚を家族として過ごす。

 故に居住用の建物もあり、ここがそれだった。


 茅葺きの屋根に、石造りの鳥居。その鳥居には龍の牙を思わせる意匠が施されている。

 拝殿には、朝早くから生真面目な村人がやってきて供物と護符を交換してもらっていた。

 地元住民の好意あってこその我が神社——神主はそう言っていた。そして、だからこそ力ある我らは奉仕せねばならんのだと。


 それはそうと——。


(座学ってのはケツが痛くてしょうがねえ)


 燎真は心の内で吐き捨てた。

 すでに同じことを何度も書かされているが、たとえ居候に過ぎぬ身でも双龍神社にいる以上は双龍神話は抑えておかねばならないらしく、座学の合間を縫ってこのような写本作業をやらされる。

 おかげで難しい漢字を書いたり読んだりできるようになったが、はっきり言って面倒臭い。


 ちなみに今の部分は双龍神話の前にある創世神話だ。宇宙の発生と同時に生まれた、きっと幾星霜も昔の三女神の存在。おそらく、姉妹喧嘩に嫌気がさした男の半神。

 その狭真様とやらの気持ちはよくわかる。女の喧嘩はまこと面倒臭い。


 隣では美琴が生真面目な顔で写本を続けていた。筆に墨をつけ、丁寧な筆致で書き記していく。誦じているほどだろうが、それでも一字一句間違わぬように手本の巻物に目をやって書いていた。

 燎真は筆を手に取って続きを書こうかとも思ったが、気が乗らず、落書きし始めてしまう。

 狐の顔を帳面に描いていると、


「馬鹿者」


 後ろで仁王立ちして見ていた神主・喜馬英二郎きばえいじろうが竹刀で燎真の肩を叩いた。


「いってっ」

「何をしとるか。真面目に書を記せ」

「なんでだよ。呆れるほどやったろ、これ」

「集中力を高める修行だと毎日言っておろうが。お前は昨日、油断して不覚を許したと聞いたぞ」


 美琴め。チクったな。

 隣で涼しい顔をしている妖狐少女を恨めしそうに睨む。

 英二郎は妖怪ではなく人間であるが、その貫禄や身に纏う雰囲気は妖の者といって差し支えない。優秀な妖術師であり、祓葬師ばっそうしだった。その両手の甲には浄化用のカラクリ——龍ノ手が取り付けられている。


「失礼します。神主様、みんな、朝食の準備ができたわよ」


 部屋に入ってきたのは巫女装束の化け狸、紫苑しおんだった。栗色の内巻きの髪を鎖骨のあたりまで伸ばし、狸らしい柔らかな笑みを湛えている優しそうな女性。

 ふわっとした雰囲気で、狸の尾を二本揺らしている。村の連中からも器量良しとして知られ、下心ありきで神社に来る男も多い。

 燎真に秋津あきつ姓をくれたひと——養母ははだ。自分はあの妖の養子となっているのである。


朝餉あさげの時間か。道具を片付けてから来るように。いいな。書は我ら瑞穂の民の魂。ぞんざいに扱うなかれ」


 英二郎はそう言って、腕を袂に突っ込んだまま去っていった。紫苑は困り笑いを浮かべながら「急いでね」と添えて、神主に続いて部屋を出ていく。

 燎真はこれ幸いとバケツで筆を洗い、臭くならないように拭う。二人は書道道具をしまい、それを部屋の後ろのタンスに入れると、部屋を出ていった。神主の英二郎なんかは大陸文化を尊重して文房四宝なんて言うが、燎真たちはもっぱら書道道具と呼んでいた。


 と、燎真は窓を閉めようとした時外に見知らぬ女が立っているのを見た。参拝客だろうか。わざわざこんな田舎の神社に——と思ったが、神社仏閣巡りが趣味の者もときどき見かける。そう言う類だろう。

 観光客らしくあちこちを見て回っていて、少ししてから物珍しそうに土産物売り場を眺めていた。


「燎真?」

「ああ、悪い」


 燎真は戸を閉めて部屋をあとにした。

 縁側を進んでいると、さっきの女がこちらをじっと見ていた。角が生えている。鬼だ。

 一体何用か。燎真は疑問に思ったが、すぐに神主が出ていって何事か話している。


 燎真はただの客じゃないなと思ったが、多分自分には関係ないことだと決め、関わりを持たないことにした。

 美琴も不思議そうな顔をしているが、それより朝餉である。居間に向かうと、そこには神社に仕える氏子や巫女たちが揃っていた。


「ごめんなさい、遅れました」


 燎真たちはそう言って末席の座布団に腰掛けた。誰も咎めるような視線は送ってこない。

 並んだ朝食が湯気を立てており、川魚の塩焼きに卵焼き、味噌汁と漬物、山菜たっぷりの炊き込みご飯。


「神主様は先に食べていろとのことです。それでは、いただきます」

「いただきます」


 燎真たちは食事にありついた。氏子や巫女たちは丁寧な所作で食べるが、食べ盛りの燎真はがっつくように食べる。それをまるで弟や息子を見るような目で、周りは微笑ましく見ていた。

 そのように食事をしていると、神主の英二郎が戻ってきた。


「燎真」

「ふぁい」


 卵焼きをもごもごさせながら英二郎を見上げる。


「食べ終わったら儂の書斎に来なさい。……美琴もいたほうがいいかもしれんな」

「「……?」」


 一体どうしたと言うのだろう。なにか悪さをしただろうか?

 英二郎は難しそうな顔で上座に座り、手を合わせて「いただきます」と言った。

 紫苑が心配そうな顔で燎真と美琴を見て、それから英二郎を見やった。

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