「……お前に縁談の話が来ている」
父の執務室に呼ばれ、出し抜けにそう言われたとき、私……エソル家の次男、ディーグ・エソルにもチャンスが与えられたのかもしれない……そう思った。
なぜなら、父の言う“縁談”の相手が、その辺の小さな商店の娘などではなく、ミステラの街でも一、二を争う大商会、メロー商会の娘であったからだ。
勿論、それと争っている商会は我が家……エソル商会であり、どちらかと言えば今は我が家の方が勝っていると言って良い。
ただ、将来的にどうなるかは分からないところだった。
勢い、という点で見ると、ミステラの街でも老舗である我が家より、比較的新興の商会であるメロー商会の方に分があった。
抜き去られる可能性もあると、父が大分前から危惧していたことを知っていた。
そんな父が、言うのだ。
ライバルの店の娘と結婚しろと。
これはつまり、ミステラの街で行われる商会同士の戦いのキャスティングボートを、私が握れる、ということに他ならない。
驚いた。本当に驚いた。
考えてみると、生まれてこの方、自分にはそういうチャンス、というものが与えられた試しがなかった。
大商会の主の息子、その次男として生まれ、いずれエソル商会を継ぐことが決まっている兄を持つことになったのがまず不幸の始まりだった。
もしも兄が、能力的に私よりずっと劣っていたなら……ある意味で私は救われ、二番手の地位だろうと補佐だろうと、喜んで手伝ったかもしれない。
少しばかりの優越感と、それに勝る兄弟の絆がそこにあったかもしれないからだ。
しかし実際には、兄は私よりも百倍優れた男であり、どんな分野においても敵うことがなかった。
商人としてもそうだ。
兄は父の元で商人としての実力を着々とつけていき、気づけば大きな取引先をいくつも自ら引っ張ってくるようになっていた。
従業員たちにも好かれ、弟にも優しい兄……。
それはそれは理想的で、だからこそ私は兄を憎んだ。
せめて、私が完全な無能であれば、やはり兄に何も言わずに従ったと思う。
だが、悲しいかな、私には少しだけだが、商人としての才能があった。
兄に遅れること数年、兄には及ばないまでも、商会の中でそれなりに評価されるだけの仕事をこなし、親の七光りのみでなく、実力で重要な地位を占めるところまでは出来た。
出来てしまった。
だからこそ、最大の目の上のたんこぶが、殊更に気になりだした。
兄さえいなければ。
そうすれば、私がこの商会を継ぐことが出来たのに。
そんな思いが拭いがたく私の背中にのし掛かっていく。
愚かだと、誰もが言うだろう。
くだらないと皆が笑うだろう。
私も。
私も同様にそう思う。
だが、実際にその立場に立ってみると……振り払えない黒い気持ちがどうしても目の前を暗くしていく。
年を経るにつれ、どうにかして兄を排除しよう、と、そんな決意が決まりかけていた。
たとえば、兄とて、その筋のものに暗殺でも依頼すれば、なんとかなるのではないかと思った。
他の人間がやるならともかく、兄や父の予定は、他の誰よりも詳しい私だからこそ、出来るのではないかと。
そして実行に移しかけたその矢先のことだ。
父が、私に縁談の話を持ってきたのは。
それは救いだった。
人を、家族を殺める覚悟を決めていた私に、やり直すチャンスが与えられたのだと、そう思った。
この世に存在するどんな息子よりも救いがたく、どんな弟よりも愚かな私にも、人としての心くらいはわずかにある。
出来ることなら家族を手にかけたくない。
それくらいの思いは、まだあった。
くだらない欲望さえなければ、仲良く、父と兄と商会をもり立てて行きたい気持ちもあった。
兄は憎かったが、しかし同時に愛してもいた。
だからこそ、この商会から離れ……しかし、同規模の商会においてトップに立てる未来が与えられる。
それは私にとって救いだったのだ。
それなのに。
「……申し訳ない。ディーグ君。私では止められなんだ……娘は、出奔してしまった。行商人になる、と言ってな」
メロー商会の会頭が私にそう言って頭を下げた。
隣には父がいて、難しそうな顔をしているが、少し考えてからメロー商会の会頭に言った。
「……仕方がないですな。こういうことは、色々な事情がうまく噛み合わねば……。ディーグ、今回のことは残念だが……」
私の肩に、ぽん、と父の手が置かれた。
優しい、慰めの気持ちが伝わってきた。
メロー商会の会頭もその瞳に宿るのは真実からの申し訳なさそうな気持ちだ。
これは……本当に、仕方がないと思った。
詳しく聞けば、メロー商会の会頭の娘は、行商人になりたいと言って出て行ったらしい。
会頭はゆくゆくは店を継がせるつもりで商会で修行させていたようだが、会頭が思っていたよりも娘の方は冒険心が強いタイプだったようだ。
自分の力を試したくなり、そして出て行ってしまったと……。
その娘の気持ちを、私はよく理解できた。
私の場合、兄に対して暗い気持ちと、離れたい気持ちを抱えてきたが……会頭の娘の場合は、実の父親に向けてそれを持っていたのではないだろうか。
父親の商会にいたままでは、父親に勝つことは永遠に出来ない。
だからこそ、勇気を振り絞って出奔した。
それは私には出来なかったことだ。
父にその可能性を示され、今の立場を保証されてさらにその先に新たな可能性を用意されて初めて、やろうかなと思った、その程度の勇気しか、私にはなかった。
だからこそ、尊敬の気持ちが湧き……私はメロー商会の会頭に言った。
「いえ……ご息女とのことは残念に思いますが……大商会の跡継ぎの地位を捨て、自らの力のみで一旗揚げようとするご息女の勇気には頭が下がる思いです。その決意を、私などとの婚約などで邪魔するわけには参りません。どうか、お気になさらずに。そして、ご息女がその道を切り開かれることを祈っております」
「……貴方は出来た人だ。ディーグ殿。私も、貴方が娘と婚約して我が商会を継いでくれることを楽しみにしていたのだ。本当に申し訳ない……」
深く頭を下げる会頭。
後になって思えば、このとき、私はエソル商会を辞め、一からメロー商会でやらせてくれないかと両会頭に頼めば良かったのだろうなと思う。
だが、今思ったところで意味のないことだ。
ここから一年半が経ち、メロー商会の会頭に一人息子が生まれた。
娘とは相当年が離れているが、奥方は後添えであるために若く、だからこそ可能なことだった。
もちろん、そういうことだからメロー商会はいずれその息子が継ぐことになるのだろう。
それは、私もそれでいいと思った。
私が継ぐという未来もあったが、それは過去のことで、今はもう存在しない可能性なのだから、うらやむだけ無駄というもの。
父とメロー商会の会頭の心からの残念そうな面持ちをあのとき見て、黒い気持ちの大半は晴れていた。
それなのに……。
なぜだか……私の心は再度、黒く染まっていった。
いつ頃からなのか……。
思い出そうとすると、靄がかかって晴れない。
しかし、気づけば近くにいたアマポーラの姿が頭に浮かんだ。
アマポーラ。
旅の魔術師。
今の私の右腕……でも、いつからそうだったのだろう?
いくら考えても分からず、しかし、今の私は、アマポーラと、盗賊崩れと共に、メロー商会の娘……ドロテアを付け狙っている。
彼女さえ行商人を辞めれば、ミステラに戻ってきて、自分との婚約が成り、そして私はメロー商会を継げると……そう深く思って……いや、そんなこと出来るわけが……。
頭が酷く痛い。
私は、私は一体どうしてしまったのだろう。
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