「……またおかしなのが来ないといいのだけど」
行商人ドロテア・メローは、宿泊している宿のベッドの上で、何者かの顔の形に見える天井の染みを凝視しながらぼんやりとそう、呟いた。
おかしなの、というのはつい一月前、都市マルトより西にある地方都市ザハクの
行商人にとって、冒険者という存在は切っても切れない関係にある。
都市から都市へ、また村から村へと行き交い、生活必需品やその土地の特産品などを仕入れ、売却し利益を得る職業にとって、最も問題なのは道中の安全だからだ。
もちろん、売買の結果も重要だが、それが良かったからと言って自分自身が死んでしまっては何の意味もない。
中には旅に出るたび命がかかっているような大きな商いに挑戦し続けるような賭博師もいなくはないが、少なくともドロテアはそういう商人ではない。
これから先も絶対にやらない、とまでは言えないし、一生に一度くらいはそういうことをしなければならない瞬間がある、というのも分かる。
ただ、幸か不幸か今のところ、それをしなければならない、という機会は得たことがなく、これからもしばらくはなさそうだ、と思っている。
今はコツコツと稼ぎ、ある程度の資金を貯めて、それからそれなりの大きさの街に自分の店を持つ。
まずはそこからだ。
そう思って同じく商人である父親のところから独立して二年、頑張って来たのだが、ついこの間もトラブルに遭った。
護衛に雇った冒険者の男が、依頼主が女だと舐めてかかって来て、護衛料のつり上げを求めてきたのだ。
通常なら、そんなことを言われた場合には護衛依頼そのものをキャンセルする。
しかし、その男がそんなことを言い始めたのは行商の旅も中盤に差し掛かったところであり、その場でキャンセルなどしてしまえばドロテアの命すら危うい。
そんな状況であった。
そのため、ドロテアはその提案を了承するほかなかった。
後に
加えて、護衛料の上乗せ部分についても事前に協議し、文書になっていて、依頼料の上乗せ理由はそれにこじつけられて
そういうことであれば直接本人に文句を言おう、と思ったのだが気づいた時にはすでに男は街を出ていて、見つけることも出来ない状態になっていた。
最初からそうするつもりで立ち回っていたのだろう、と思わざるを得ないある意味で鮮やかな去り際だった。
極めて腹立たしかったのは言うまでもない。
だからといって出来ることもなく……犬に噛まれたと思って諦めるしかない。
行商人として独立して二年、そんなことが一度もなかったわけでもない。
むしろ何度もあって、十分に気を付けているつもりではあった。
しかしまだまだ足りなかった、というわけだ。
今にしてドロテアが独立したいと父に言ったとき、父がぽつりと言った台詞が身に染みた。
「……女には行商人は難しい」
別にドロテアにそれを辞めろと言いたかったわけではなかったのだと、今なら分かる。
しかし、あのときのドロテアにはそうとしか聞こえず、喧嘩別れのような形で家を出ることになった。
あれから家には帰れていない。
会いたくないわけではない。
合わせる顔がない、というのが実際のところだ。
おそらく父が言いたかったのは、護衛料のつり上げ、のようなトラブルに男の場合よりも遥かに巻き込まれやすい、ということだった。
周囲の同輩……男の行商人にもそれなりに顔見知りはいるが、ドロテアが巻き込まれたトラブルについて話すと、彼らもそういうトラブルはあるとは言うが、しかしドロテアほど頻度が多い訳でも、またふんだくられる額が高いわけでもない。
やはり、女だから舐められているのだ。
そう深く思わざるを得なかった。
だが、だからといってこの仕事をやめるつもりはないし、むしろ奮起した部分もあった。
それでもやってやると、それだからこそやってやると、そんな気持ちが、トラブルに出遭う度に強く湧き出してくるのだ。
トラブルから学んだこともないわけではない。
ただ、次の冒険者に男性を選ぶ気には流石にならなかった。
次は女性冒険者に頼もうと思った。
女性冒険者の数が男性冒険者のそれに比べて遥かに少ないことは分かっているから、毎回という訳にはいかない。
円滑に行商の予定を消化するためにも、我儘は言えない。
しかし、流石に次は、一旦休憩を挟んでから、という感覚である。
とは言え、女性冒険者だからと言ってトラブルにならないとも言い切れない。
心配事は尽きない。
せめて、まともな冒険者が来てくれることを祈るのみだった。
先ほどの独り言はそんな心情から出た言葉だった。
そんなドロテアの部屋の扉が、
――コンコン。
と叩かれ、
「どうぞ」
というとそこから宿の女中が現れ、身を起こしてベッドに腰かけていたドロテアに言った。
「お客様がお見えです。依頼を受けた冒険者の方だということですが……」
来たか。
今回は、騙されないようしっかりと交渉しなければならない。
ここからが戦いだ、とドロテアは心を引き締めて立ち上がり、宿の一階、食事処と休憩所を兼ねた広間へと向かった。
◆◇◆◇◆
強大な魔物と相対するかのような気持ちで広間に入ったドロテアだったが、中に入って驚く。
というのは、広間にはテーブルとイスがいくつか設置してあり、今そこに腰かけている人物は一人しかいなかった。
つまり、その人物こそが、ドロテアの依頼を受けた張本人、ということになるのだが、どう見ても……。
そう、どう見ても、ドロテアよりもいくつか年下の、少女にしか見えなかったのだ。
彼女は立ち止まったドロテアを見て、依頼人だと推測したらしく、立ち上がってこちらに近づき、笑顔を向けて尋ねて来た。
「……ええと、失礼ですが、ドロテア・メローさんでしょうか?」
それにドロテアは停止していた頭を必死に動かし、答える。
「え、ええ……。私がドロテア・メローです。貴女は……私の依頼を受けてくれた……?」
「はい! 初めまして、私、今回依頼を受けた鉄級冒険者のリナ・ルパージュと申します。どうぞよろしくお願いします!」
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