現存する十二の天守
多くの城が建てられてきましたが、明治維新以降は「廃城令」や戦争によって当時のまま残る城は少なくなってしまいます。
現代にまで現存している天守は全部で十二ヶ所。そのなかでも国宝に指定されているのは兵庫県姫路市の姫路城、愛知県犬山市の犬山城、長野県松本市の松本城、福井県坂井市の丸岡城、島根県松江市の松江城、そして、京都の二条城です。
城郭建築は桃山文化の象徴でもある。残念ながら信長の安土城は残っていないが、姫路城や二条城は観光地として開かれているから、実際に見に行くことはできる。どちらも城としてだけでなく、美しい名所として楽しめるぞ。
秀吉に仕えた茶聖「千利休」
茶人として知られる「千利休」はもともと堺の商人の息子でした。彼は17歳で茶道を習い、後に織田信長が堺を直轄地としたときに、信長に召し抱えられることになります。そこで千利休は独自の茶道具や懐石料理を考案、さらに茶の湯の儀礼を定めて茶道を確立しました。
そして、本能寺の変、山崎の戦いのあとは、豊臣秀吉に仕えることとなります。秀吉の命令によって、千利休は京都乙訓郡大山崎町に半年かけて茶室「待庵」をつくりました。
信長、秀吉という時代を代表する武将に仕え、時の正親町天皇へ献茶するなど華々しい功績を持ちながら、しかし、千利休が追及したのは閑寂の中に奥深い美を感じる「わび」「さび」です。その精神に基づいて千利休は「わび茶」を大成させます。
大衆から大名にまで広がる茶の文化
「わび茶」を大成させた千利休ですが、彼は豊臣秀吉の不興を買ってしまったために切腹して亡くなってしまいます。しかし、茶道は千利休亡きあとも生き続け、教養として人々の間に広がっていきました。
一方、武士の間に茶の湯が広まったのは織田信長の時代。彼は家臣のうちでも功績をあげたものだけに茶の湯の参加を許すという許可制にしたのです。そのため、茶の湯に出入りするのが武士の間で一種のステータスとなったのでした。
城の内側を華々しく彩った障壁画
城を見学したことのある方ならご存知かもしれませんが、城の内部の襖や衝立、天上などあらゆるところには多くの場合豪奢な絵が描かれています。
金箔の地に青や緑で描く「濃絵(だみえ)」といい、ぱっと見ただけで豪華絢爛な印象を受けますね。金は権力の象徴でもありましたから、この時代は特に黄金が好まれたのです。
その中心となったのが、室町時代の絵師・狩野正信を祖とする「狩野派」でした。なかでも「狩野永徳(かのうえいとく)」は信長と秀吉の両方に仕え、狩野派の全盛期を築きます。彼の作品は「洛中洛外図屏風」などの現在で国宝に指定されているものも少なくありません。
また、庶民の生活や都市の様子をテーマにした風俗画や、日本にやってきた南蛮人(ポルトガル人)を題材にした南蛮屏風などが描かれるようになり、桃山文化の絵画は従来の文化から一戦を越えたのです。
阿国歌舞伎のはじまり
室町時代に成立した「猿楽(能)」は、安土桃山時代になると大名や貴族などの上流社会だけでなく、庶民にも愛されるようになっていました。人々には娯楽を鑑賞する文化が根付いていたのです。
そんななか、1603年に出雲大社の巫女「阿国(おくに)」が京都の五条や三条、北野神社で興行を始めます。この興行では、黒い法衣に首から吊った鉦(かね)を叩きながら念仏踊を踊ったり、派手な衣装で男装をして胸に十字架を付けて踊ったりする「かぶき踊」を行いました。
「かぶき」とは、「傾(かぶ)く」という意味で、つまり、江戸幕府の体制や規範を拒否したアウトローたちのことです。幕府にとっては悩みの種である彼らは、しかし、庶民には恰好よく思われ人気がありました。
阿国が演じた「かぶき踊」は、まさに、この「かぶき者」を模したものであり、さらにそこに男装など性別的倒錯が加わって、彼女の踊りは爆発的な大ヒットとなります。四年後には、江戸城中で勧進(お寺の建立、修繕の寄付を募ること)のための「かぶき踊」を演じるまでになったのです。
活気ある時代の華やかな文化
群雄割拠し、各地で天下取りの争いが続いた時代。「桃山文化」は織田信長や豊臣秀吉のもとで花開きました。従来の城とは一線を画す城郭建築に、庶民への芸能の浸透。緊迫を使った豪華絢爛な障壁画や、宗教色のない風俗画が描かれ、それらは現代にまで受け継がれたものも少なくありません。戦いの時代とはいえ、「桃山文化」は非常に活気のある文化となりました。