安土桃山時代日本史歴史

3分で簡単「桃山文化」どんな時代?何がある?歴史オタクがわかりやすく解説

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戦国大名としての実力を現した信長は、非凡な才能で天下を目指した。しかし、残念ながら明智光秀の謀反によって阻まれてしまうわけだな。その明智光秀を討ったのが、豊臣秀吉だ。彼は農民出身でありながら実力主義の信長の下でめきめきと力をつけ、ついに信長の後継者にまで上りつめたんだ。

2.桃山文化その1-城の変化

山城から平山城・平城へ変遷

桃山文化の特徴となる城郭建築。それ以前の城は険しい山を利用した「山城」が主流でした。しかし、戦国時代になると小高い丘や台地に城を築いた「平山城」や平地に築く「平城」へと変わっていきました。山という天然の要塞がない代わりに、城を幾重にも堀で囲ったり、堅牢な石垣を積んで防御力を上げたのです。

また、戦国時代以降の城には、城のシンボルとなる「天守閣」というものがつくられました。天守閣は城の中でも一番高い建物で、物見やぐらの他、天下に城主の威厳を見せつける役割を持っています。

しかし、天守閣は高いところにある分、登っていくのも一苦労しますよね。そのため、戦のない普段は物置として使われていました。また、実際に城を攻められたときに天守閣を籠城の場とするために、石落としなど多くの工夫がされたのです。

信長の築いた「安土城」

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by D-one – photo by D-one, CC 表示-継承 2.5, リンクによる

1575年、武田勝頼と対決した「長篠の戦い」の翌1576年、織田信長は琵琶湖東岸の安土山(滋賀県近江八幡安土町)に安土城を築きました。

戦国時代の城は、基本的に攻城戦を想定してつくられます。しかし、安土城はそういう従来の城とは一味違いました。

まずは「天守閣」です。信長は不便な場所にある天守閣を居住区としました。安土城には大型の天守閣があったとされ、信長はそこで生活していたと推測されます。それに、安土城には石落としなどの防御策が一切なかったのです。

さらに、安土城には中央の礎石がひとつ足りません。そこには心柱ではなく、円筒形の仏塔があったのではないかと推測されています。また、城郭の中に堂塔伽藍のある寺院(摠見寺、臨済宗)が建てられたのも、日本では安土城が最初で最後。戦国時代の城でありながら、非常に宗教色の濃い場所でもあったのです。

これらのことから、信長は安土城を戦いのための城ではなく、政治を行うための城と定めてつくったのでしょう。

しかし、信長の安土城は現存せず、豊臣秀吉と明智光秀の「山崎の戦い」のあとに焼失してしまいました。

秀吉と国宝「姫路城」

image by PIXTA / 39766530

日本の国宝とされる兵庫県姫路市の「姫路城」。現存する城郭建築の最高峰とされ、別名を「白鷺城」といいます。築城されたのは南北朝時代に遡り、その後に豊臣秀吉の家臣・黒田孝高(黒田如水)が秀吉に献上。秀吉は姫路城の大改修を行って近世城郭へ変化させました。そのときに石垣で城を囲い、天守をつくって「姫路城」へと改めます。さらに、城の南部に城下町を発展させて、姫路城を播磨国(兵庫県)の中心地にしました。山崎の戦いのあと、秀吉自身は大坂城へ移りますが、姫路城には秀吉の弟・豊臣秀長が入ります。

そして、姫路城が現在の姿になったのは、1600年の関ヶ原の戦いのあとのこと。播磨姫路藩の初代藩主となった「池田輝政」が八年の歳月をかけて姫路城を再び大改修。城全体を白い漆喰で塗った優美な姿になったのでした。

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