歴史

ゆるっと解説 大河と歴史の裏話
『世相が変われば、歴史解釈も変わる!?』

史料をベースに、脚本家が独自の視点で、時代の荒波を生き抜いた人々の人間ドラマを描く大河ドラマ。『どうする家康』も、最新の時代考証研究の成果を踏まえつつ、脚本家の古沢良太さんが多彩なアイデアを盛り込んで書いています。その執筆を支える縁の下の力持ちが、時代考証。本作の時代考証を手がける小和田哲男さんと、平山優さん、そして『どうする家康』制作統括・磯智明の3人によるトークイベントが、5月4日に愛知県安城市の本證寺ほんしょうじにて開催されました。その模様を3回に分けてお伝えします。本證寺は三河一向一揆の舞台としてドラマにも登場した場所そのもの。今も当時の姿をとどめる歴史的建造物でのイベントとあって、話題も縦横無尽に盛り上がりました。当日の会場にみなぎっていた熱い空気をライブ感覚あふれる完全採録で感じ取っていただければ幸いです。イベントの司会進行は安城市教育委員会の齋藤弘之さんです。掲載を快諾してくださった安城市教育委員会には、この場を借りてお礼を申し上げます。

小和田哲男(公益財団法人日本城郭協会理事長)
1944年静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在は、静岡大学名誉教授。文学博士。
NHK大河ドラマでは、1996年『秀吉』、2006年『功名が辻』、2009年『天地人』、2011年『江~姫たちの戦国~』、2014年『軍師官兵衛』、2017年『おんな城主 直虎』、2020年『麒麟がくる』、2023年『どうする家康』の時代考証を担当。

平山 優(歴史学者)
1964年東京都新宿区生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県立中央高等学校教諭を経て、現在は健康科学大学特任教授。NHK大河ドラマでは、大学院に在籍中の1988年に『武田信玄』時代考証担当・上野晴朗さんの助手としての参加を皮切りに、2016年『真田丸』、2023年『どうする家康』の時代考証を担当。

磯 智明(NHKメディア総局第3制作センター ドラマ チーフプロデューサー)
1966年東京都生まれ。1990年NHK入局。NHK大河ドラマでは演出として『毛利元就』『風林火山』、制作統括として『平清盛』『どうする家康』を担当。

~ 世相の変化 そして歴史解釈の変化 ~

今回のドラマにおける一揆の描き方で心に残ったのが、一揆勢は決して反逆や謀反ではなく、家康との「義と義としての争い」として描かれているという点でした。よくいわれているのは、40年前の滝田栄さん主演の『徳川家康』では、反逆する一揆勢を正義の家康が成敗するという一方的な視点から描かれていたのですが、それから大きく変化しました。
こうした時代観・歴史解釈の変化について、40年間で大きく変わったわけですが、まず、制作の側から磯チーフプロデューサーに、その解釈の変化についてお話をお願いしたいと思います。

【磯】
40年前当時は、70年安保の時代に実際に若いころに身を投じた世代が制作スタッフにもまじっていたでしょうし、オイルショックなどどこか当時の世相を反映していたように思います。我々の『どうする家康』での民衆の暮らしへの視線、生活者の権利の描き方についても、やはり今の世相が反映しているかもしれません。歴史研究の進展によって得られた、さまざまな新しい情報、ディテールを取り入れつつ、それを元にしてドラマを作るわけですから40年間に描写の変化が生じるのはもちろん当然のことですが「歴史研究の成果をどのように解釈してドラマを作るのか」においても変化が生じる可能性は大いにあるわけです。ですから40年前に書かれた大河ドラマの台本を今、映像化したとしても、違和感が生じることはいっぱいあると思います。今見てくださっているお客さんの「歴史観」や「価値観」も大事にしなくてはなりません。

歴史というものはあたかもそこに唯一の事実があって、そこにたどりつけば「真実」を手にすることができるかのように思いがちです。僕も大河ドラマの仕事をやっていなければそんなふうに思っていたでしょう。でも実際に「歴史」を解釈する仕事に関わってみると、史料が発掘され、情報も日々どんどんどんどん更新されていきますし、今の歴史研究家の方々の興味の方向が変われば研究成果も更新されていきますし、これまではわからなかったことがわかってきたりします。「歴史」の捉え方って、時代によって変わっていくものなんだな……ということを大河ドラマの仕事をしていると実感させられます。その一方で「当時なにを食べていたのか」「どんな着物を着ていたのか」衣食住にまつわる新しい発見を知ると、戦国時代だからといって必ずしも今より生活が貧しかったかというと、そうとも言い切れない面もあるように思えたりしますから、もし50年後に徳川家康をドラマ化したら、また今回とは全然違ったものになるかも……と思うんですよね。作っていて気を使いますが、そこがおもしろいところでもあります。

では、「歴史と、その解釈」について、専門家おふたりの立場ではいかがでしょうか。

【小和田】
今の話の続きになりますが、「民衆の捉え方」に対する歴史観が近年変化してきていると思います。これまではどうしても「支配者に抑圧されてきた被支配者」という捉え方が一般的でしたが、むしろ支配の下にあってもいろいろと頑張ってギリギリ暮らしていたんだという民衆の意識や民衆生活の実態についての新しい研究が、近年成果を得てきていることが大きいと思います。「一揆」と聞くとみなさんどうしても、江戸時代の百姓一揆で農民たちが武装蜂起する事態を想像されるかと思いますけれど、むしろ「一揆」という言葉は、一つという字のあとにレ点を入れると「揆を一にする」と読めます。つまり「思いを一つにする」という意味……いわゆる「連合体」なんですね。支配される立場ではなくて、むしろ「民衆による自治」みたいな意味をもっていたわけです。その辺りに中世史の研究家たちが近年注目していて、織田信長に抵抗した伊賀惣国そうこく一揆だとか、あるいは紀州一揆であるとか、加賀一向一揆なんかももちろんそうなんですけど、いわゆる「一揆」の構造についてもかなり見直されてきています。今回の『どうする家康』でも三河一向一揆が3回にわたって放送された背景には、そのような事情もあろうかと思います。

【平山】
黒澤明監督の『七人の侍』(1954)はよくできた映画で、その影響力の大きさに今もって驚かされることがあります。あの映画では、武器の使い方も知らない百姓たちに侍が戦い方を教えるという描き方がなされていましたが、現在の歴史学では否定されています。実は中世では、民衆が普通に武器を所有していて、軍事訓練もしており、自分たちの権利は自分たちの力で擁護していたのです。これを専門用語で「自力じりき」と呼びますが、自前の武装で自分たちの身体と権益をまもる自力の村、自力の町という地縁共同体が日本全国に存在していました。そもそも戦国大名が、武器の使い方も知らない民衆を戦に動員しても意味がないじゃないですか? 戦闘経験がある者たちだから、戦に動員する意味があったわけです。なのでそろそろ『七人の侍』の歴史観から脱却しませんか?というお話を私はあちこちでしています。

『どうする家康』の三河一向一揆では、「義」と「義」のぶつかり合いとして描かれていましたが、そもそも戦争というものは、それぞれが持つ理屈…お互いが持っているそれぞれの「義」がぶつかり合うから戦争になるわけです。三河一向一揆の前に家康がどんな状態だったかというと、永禄の大飢饉ききんの真っただ中にいて、今川との闘いが永禄4年から続き、2年たっても解決の見通しが立たないという窮状に陥っていました。史料によると家康の家臣たちは本證寺など一向宗の寺院から銭や米を借りているんですよ。借りないとやっていけなかったわけです。地元に残っている「永禄一揆由来」という史料を見ると、家康ですら一向宗寺院に対して矢銭(やせん…軍資金のこと)を貸してくれ、と頼んだが断られたという話も出てきます。断った根拠として一向宗寺院が主張したのが「不入権」だったのです。「不入権」こそはお寺の存立の基盤であり、多くの人たちの生活を守る基盤である、と主張していました。

ただ家康と一向宗寺院との間には、考え方に違いがあったんです。不入権それ自体は家康を含めた領主側も確かに認めてはいたけれども、それはあくまで「本證寺の堀の内側の寺域に対しては不入権を認めよう」と限定する考え方だったのです。しかし一向宗の人たちはどう考えていたかというと、自分たちが金融活動をした結果、自らの経済力で堀の外にある田畑を購入したとしても、そこにも不入権は適用されると認識しており、そこに賦課される税にまで「不入権の有効範囲」だと主張して拒んだとみられるのです。堀の外をめぐる両者のぶつかり合いが、三河一向一揆につながったわけで、そういう事情についても、古沢さんはよく描いてくださったなぁと思います。

また、みなさん、ぜひ第1回から見直してみてください。家康の成長ぶりを感じていただけると思いますよ。いろんな人たちの死を看取る経験を経て、いろんな人たちの苦悩を目にして、家康自身が『厭離穢土おんりえど欣求浄土ごんぐじょうど』という旗印の言葉の重さを背負っていくようになる姿、その覚悟のほどを松本潤さんの姿を通してみなさんにも感じていただけると思います。ぜひ、繰り返し見ていただきたいです!!(場内拍手)

~ 「どうする家康」の 今川義元 像~

見方の変化という点では、野村萬斎さんが演じられた今川義元も、従来の、信長に討たれた愚鈍な人物像とは異なり、「人望も厚い有能な統治者である義元」「家康にもたいへん大きな影響を与えた人物」として描かれていたと思います。これは、制作側がイメージした義元像でしょうか。

【磯】
今回の今川義元の人物像は、今川家についてご研究されている小和田先生にいろいろとご相談させていただきました。脚本家の古沢さんも「家康の思想の根幹を形づくった、元になったものは何だったのか」に興味をお持ちでした。今川が治めていた駿河は、当時日本でも有数の文化都市でした。駿河で最高レベルの学問に触れた経験が、その後の家康にとって非常に大きい意味を持ったはずです。幼少のころから人質とはいえ今川家で英才教育を施された家康は、かなりのインテリでした。その知識があったからこそ後に江戸幕府を開いた時にも、堅固な組織による政治を執り行うことができたし、民衆を治めることもできた。戦国時代っていうのは戦に次ぐ戦の日々だったので、おそらく勉強や研究に費やせる時間はそんなに持てなかったでしょうから、そういう意味では「家康の思想の根幹を形づくったのは、彼が駿河で過ごした少年時代」だったと考えられるし、それはすなわち、家康が今川義元と結んでいた関係、絆に基づくものだったといえると思います。幼少のころに知識を得た家康は、信長や信玄にもまれて成長していく過程で、いつも家康の胸中には今川義元からの教えに立ち返る思いがあったでしょう。

第1回で今川義元から「国を治めるにはどうあるべきか」と問いかけられ、「王道と覇道、選ぶべきは王道である」ことを教わり、その教えは家康に対して生涯にわたって影響を与え続けていくんですけども、ドラマでもそのような「家康と義元との出会い」を作ろうと考えました。「なぜ、家康がゆくゆく天下人になれたか?」その秘密を探っていくとやはり、少年期に大きな意味合いがあったのだろうなぁと思うわけです。ですから生まれて間もないころに、母親・於大の方と引き離されてかわいそうだったとか、実の父親から引き離されて今川家で人質生活を送ることをつらかったに違いないとか、これまでによく目にしていた子どものころの家康の描かれ方は、実際にそういうこともあったとは思いますが、そこからちょっと離れて、今川義元と家康との関係に絞って少年時代、青年時代をドラマ化する方法を、今回は取ってみました。お母さんやお父さんとの生き別れの悲しみより、今川義元から得た教訓のほうが、のちのち天下人となる家康の成長を描いていく際に生きてくる大事な要素だと思ったからです。

今度は、史料から読み解ける史実の義元像について、ご専門の小和田先生にぜひお伺いしたいと思います。

【小和田】
私は静岡に住んでいまして、静岡市民からは結構ブーイングです(笑)。「なんで第1回で死んじゃうんだよ!!」(笑)。
確かに桶狭間の戦いが第1回でしたから、しかたありませんけど。私はずいぶん前から「今川復権」をスローガンに掲げておりまして、実は私の最初の研究論文も今川義元に関するものだったんです。大学の卒業論文が今川だったんです。それ以来今川をずっと追いかけているわけですが、どうしても今川というと世間的には「なんで桶狭間でぶざまな負け方をしたんだ?」とそしられがちですが、実際に今川義元を追いかけていくと「いやいや、そんなもんじゃないよ」となります。

例えば有名な川中島の戦いで、武田信玄と上杉謙信は5回も戦っている。その中で第2回戦では、今川義元があいだに入って、武田信玄と上杉謙信とを和睦させていますから。それはつまり両者と互角に渡り合える力の持ち主だったということですよね。それとやはり東海道が駿河、遠江、三河を通っていますから、物流の拠点でもあったし、しかも当時はいわゆる太平洋岸海運……海を使った流通も非常に盛んで現在の静岡県でいうなら、焼津、清水があまりにも有名ですけれども、そういった港も持っていて、戦国大名の中ではいわゆる強豪戦国大名のひとりだったと言っていいと思います。そんな今川義元のところに竹千代が人質として……私はよく「カッコつきの人質」という言い方をするんですけども、普通の人質とは違って完全に優遇された人質ですよね。なぜかっていうと『どうする家康』でもすでに登場している瀬名…有村架純さんが演じていらっしゃいますけれども、瀬名が義元にとっては重臣である関口氏純の娘だからです。家康と瀬名との結婚を第1回で義元は許しています。普通は自分の重臣の娘と人質とを結婚させるなんて常識的にもあり得ませんので、相当優遇されていた「人質」だったと言えましょう。

瀬名のドラマにはちょっと裏話がありますので、御披露しましょう。最初、古沢さんの脚本を読んだ時に私は「ちょっと待った」をかけようとしたんです。家康(当時の名は元康)と瀬名が「恋愛結婚」するストーリーだったからです。当時あの松平家くらいの家だと、恋愛結婚なんてありえないんです、普通はね。大体は親が決めます。竹千代の場合はその時すでに父親は死んでいましたから、親代わりの義元の斡旋あっせんがあって、要するに義元が取り持った縁だったわけですから、私は当然今川義元のお声がかりの結婚だと思っていたのに、ふたを開けてみれば恋愛結婚するストーリーだった。……でも考えてみれば今も当時も男女がひとりずついれば恋愛だってまあ起こり得るといえなくもないわけで、恋愛結婚もいいかなぁと思い直し「まぁ…いいか」と(場内 笑)。

竹千代時代も単に優遇されていただけではなくて、義元の軍師でもあった太原雪斎たいげんせっさいから、兵法だとか軍略だとかのみならず、人間としていかに生きるべきかという哲学、あるいは今風に言いますと、上に立つ者としての帝王学、リーダーシップまでをも若いころにきちんと学ぶ機会を持てたので、あれだけの武将に育ったんだという側面もあります。私はやはり、今川義元のもとで18歳から19歳まで生活できたことは、家康にとっては非常にプラスに働いたと考えます。その辺りを『どうする家康』でしっかりと描いていただいて、非常に満足しているところです。義元は財力にも恵まれていましたから、京都からお公家さんをたくさん招きました。和歌の名門・冷泉為和れいぜい ためかずや、蹴鞠しゅうきくの名手・飛鳥井雅綱あすかい まさつななどの面々が集められて、それらが駿府のいわゆる今川文化として芽吹いていく……家康もそういう環境のもとで生活していたわけです。武断政治ではない、後に文治政治をおこなっていく際に、8歳から19歳までのカッコつきの人質としての今川家での生活経験がいつもひとつの心のよりどころとして家康の中にあり続けたのでしょう。

ゆるっと解説 大河と歴史の裏話『文化人としての 武田信玄・今川義元を描く』

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