歴史

ゆるっと解説 大河と歴史の裏話
『前代未聞! 三河一揆を3週にわたって』

史料をベースに、脚本家が独自の視点で、時代の荒波を生き抜いた人々の人間ドラマを描く大河ドラマ。『どうする家康』も、最新の時代考証研究の成果を踏まえつつ、脚本家の古沢良太さんが多彩なアイデアを盛り込んで書いています。その執筆を支える縁の下の力持ちが、時代考証。本作の時代考証を手がける小和田哲男さんと、平山優さん、そして『どうする家康』制作統括・磯智明の3人によるトークイベントが、5月4日に愛知県安城市の本證寺ほんしょうじにて開催されました。その模様を3回に分けてお伝えします。本證寺は三河一向一揆の舞台としてドラマにも登場した場所そのもの。今も当時の姿をとどめる歴史的建造物でのイベントとあって、話題も縦横無尽に盛り上がりました。当日の会場にみなぎっていた熱い空気をライブ感覚あふれる完全採録で感じ取っていただければ幸いです。イベントの司会進行は安城市教育委員会の齋藤弘之さんです。掲載を快諾してくださった安城市教育委員会には、この場を借りてお礼を申し上げます。

小和田哲男(公益財団法人日本城郭協会理事長)
1944年静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在は、静岡大学名誉教授。文学博士。
NHK大河ドラマでは、1996年『秀吉』、2006年『功名が辻』、2009年『天地人』、2011年『江~姫たちの戦国~』、2014年『軍師官兵衛』、2017年『おんな城主 直虎』、2020年『麒麟がくる』、2023年『どうする家康』の時代考証を担当。

平山 優(歴史学者)
1964年東京都新宿区生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県立中央高等学校教諭を経て、現在は健康科学大学特任教授。NHK大河ドラマでは、大学院に在籍中の1988年に『武田信玄』時代考証担当・上野晴朗さんの助手としての参加を皮切りに、2016年『真田丸』、2023年『どうする家康』の時代考証を担当。

磯 智明(NHKメディア総局第3制作センター ドラマ チーフプロデューサー)
1966年東京都生まれ。1990年NHK入局。NHK大河ドラマでは演出として『毛利元就』『風林火山』、制作統括として『平清盛』『どうする家康』を担当。

~ 時代考証の変遷 大河ドラマの場合 ~

お待たせいたしました。本日は、トークイベント「大河ドラマ『どうする家康』時代考証のウラ側」にお越しくださいまして誠にありがとうございます。本日、司会を務めさせていただきます、安城市教育委員会の齋藤でございます。よろしくお願いします。それでは、ご登壇いただくみなさまを紹介させていただきます。今回は、大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当されておられますおふたりと、ドラマの制作統括をお招きしました。まず、みなさんおなじみの静岡大学名誉教授の小和田哲男先生、続いて歴史学者の平山優先生、そしてNHKの磯智明チーフプロデューサーです。どうぞよろしくお願いします。『どうする家康』は、すでに第15回まで放送され(イベント開催日の5/4時点)、毎回楽しみに拝見しております。まず、磯チーフプロデューサー、今回、なぜ徳川家康という人物を大河ドラマで取り上げるに至ったのか、あらためて教えていただけますか。

【磯】
今最も活躍されている脚本家・古沢良太さんに、大河ドラマの執筆をお願いしたわけですが、その時にまず「どういう題材をやりましょうか?」といろいろアイデアを出し合う中で、古沢さんの「徳川家康をやりたい」という思いが結局は決め手になりました。何本か大河ドラマに関わってきた僕自身は、どちらかというと徳川家康には悪い印象しか持っていなかったんですね。真田に対して、最後の最後まで立ち向かう大きな壁になる悪役……、何を考えているかよくわからないたぬきおやじ的キャラクター……。大河ドラマのストーリーを考える際には、どちらかというと「悪役」としての使い勝手がいい人物という印象でした。
でも古沢さんは家康をとても評価していらっしゃる。「それはどうしてなんですか?」っていたら、「織田信長や武田信玄のようなすごいチカラは彼にはないけれども、ものすごい努力をして、家臣たちの協力も得て、あの戦国の世を治めて天下統一というそれまで誰も成し遂げなかったことを実現した。その裏には、ものすごいドラマがあったはずだ」と。古沢さんのお話を聞いていくうちに「今までに見たことのない徳川家康の人物像を描くことができるかも」「手の届かない雲の上にいるような人という印象しかなかった家康を、もっともっとみんなが理解できて共感できる人物として描くことができるかも」という思いが強くなってきたんです。

こうした歴史ドラマのなかで、今回のトークテーマとさせていただいている時代考証とはどのような作業なのかお話しいただきたいと思います。まずは、磯チーフプロデューサー、ドラマの時代考証とはどんなものなのか教えていただけますか。

【磯】
僕が若いころに最初に就いた大河ドラマが『毛利元就』でした。台本を読んでわからないことを調べるのは助監督の仕事でした。そのころは先生とFAXでやり取りをしていました。また先生を局にお招きして、受け取った台本の原稿に対してレクチャーしていただくこともありました。例えば主役がここに座るとしたら、ほかの人物たちの配席はどうする?と「席次」を決めたり、当時の食事のメニューはどんなふうだった?とか教わったりしていましたね。今と比べると “のどか” でしたね。当時は大概まずは「原作」を採用して、原作を脚色した台本に対して必要なところを判断していくのが、当時の時代考証の一番大きな役割だったわけです。

ところが最近は、時代考証の役割も変化してきました。『龍馬伝』(2010)以降、大河ドラマの作り方も時代考証の関わり方も、大きく変化しました。インターネットとSNSの普及で、歴史に詳しい方、歴史を愛する方がご自身で盛んにリサーチされる時代になり、さらに現地にまで足を運んで検証を試みる方がどんどん増えてきました。そうなると大河ドラマの内容に関しても「複数の学説がある中で、大河ドラマはなぜこちらを採用したのか」という質問が我々にも寄せられるようになりました。原作そのものが採用している学説や通説に対しても、「時代考証的に正しいといえるかどうか」までの判断が必要になり、それもあってここ十年間、大河ドラマは原作をほぼ採用せず、オリジナルでストーリーを組み立てる方向にかじを切って、今に至っています。歴史研究は常に進行していて新しい発見もなされるので、原作自体が最新の歴史研究の観点から見ると古びてしまう場合もあり、大河ドラマも常に「最新の研究成果」への対応を迫られているのが、2010年以降の現状です。

そのころから時代考証も複数の先生にお願いするようになり、風俗、美術、衣装、……ことあるごとに考証を入れています。そうしていかないと、目の肥えた視聴者のみなさまに耐えられるものを作っていけない状況です。ストーリーを考える段階ですでに、例えば三河一向一揆でもそうですけど、「最新の学説の内容は?」「以前はどのように考えられていたのですか?」「今、どういうことまでわかっているんですか?」をひと通りリサーチしてそこからストーリーを作っていくようにしています。以前は書きあがった台本を元に時代考証をしていましたが、今はむしろ、書く前にストーリーの方向性を決める段階からいろいろとご相談させていただいています。

例えば戦略を練る軍議の場面を書くならば、そこで使われる「地図」の正しい内容はどうすればいいか、一枚一枚時代考証の先生方にお知恵を拝借しています。録画して「一時停止」で地図をじっくりご覧になられる方も多いので……。「証文」の内容を一字一句ご覧になる方もいらっしゃいますしね。そうしたひとつひとつに対して丁寧に作業しています。複数ある「学説」のどれを採用したのか、その根拠を問われたらちゃんと答えられるようにしていますし、家康についてはもちろんのこと、今川家に詳しい小和田先生、武田家に詳しい平山先生、豊臣家に詳しい柴先生と、周囲の戦国大名それぞれにお詳しい方のご意見をお伺いしながら制作しています。

どのような経緯で、時代考証として大河ドラマと関わられるようになられたのでしょうか。小和田先生いかがでしょうか。

【小和田】
私は東京学芸大学の竹内誠先生のご紹介で、大河ドラマに関わるようになりました。竹内先生はそれまでにもNHKドラマの時代考証を数多く手がけていらっしゃいましたから、NHKの方から「適任者を推薦してほしい」との依頼があったのかもしれません。私とは学会でお会いしたりお酒をご一緒したりする旧知の間柄でしたので、戦国時代の大河ドラマには私が適任だとお考えくださったようです。しかし実はNHKから頼まれる前から私は、自宅のテレビの前に陣取っては、戦国時代の大河ドラマについては自主的に時代考証しておりました(場内爆笑)。
しょっちゅう「この話本当はこうだよ」とか言っちゃうもんだから、娘に「お父さん黙ってて。うるさい」なんて言われたりしましたが、1996年の『秀吉』から正式に時代考証を依頼されて、以来ずっと関わっております。

磯さんがおっしゃった通り、2010年ごろからオリジナル企画が主流になってきました。原作を脚色した台本が出来上がってくると、間違いがないかチェックを入れる……というのが私の仕事だったんですが、そもそも原作に(時代考証の観点から)間違いがあっても「これ違うよ」と言うと、「原作は勝手に変えられません」ということになって、私の立場も板挟みになってしまう。一番最初に私が困ったのは、2006年、司馬遼太郎さん原作『功名が辻』の時のことです。原作者が生きておられれば、「いや、最近の研究はこうですよ」と直しを入れることもできるんですが、原作者が亡くなっている場合はできないので「原作ないほうがいいんだけど」とNHKの方に言ったこともありました。私が関わった作品だと2016年の『軍師官兵衛』からは脚本家の方がオリジナルで書いてくださっています。

台本チェックの具体例として、わかりやすい例をひとつふたつ紹介します。『秀吉』で「あ、これ時代考証やっていてよかった」と思った箇所がひとつあったんです。秀吉は天正18年1590年、小田原城を攻めるために近くにお城=石垣山城をつくりましたよね。最初の台本の秀吉のセリフに「わしはこの石垣山の上に城をつくりたいと思う」と書かれていました。しかし秀吉が城をつくるまでは、その山は石垣山とは呼ばれていなかったんです。あらかじめ当時の地図を調べていた私は、「本来、その山は笠懸山かさがけやまと呼ばれていた」とお伝えしました。石垣山の名前は、秀吉が築城したあとの、お城の石垣にちなんでできた呼び名だったんです。セリフは「わしはこの笠懸山の上に城をつくりたいと思う」というふうに訂正されました。

もうひとつ。これは2006年の『功名が辻』に登場する武将のひとり、山内一豊(やまうち かずとよ)の例です。それまでは大体みなさん、「やまのうちかずとよ」と発音されていました。ところが台本作成の直前だったんですが、私が関係した掛川城天守の復元終了を祝う竣工しゅんこう式の時に、たまたま私のすぐお隣にひとりのご老人が座られて、向こうから「やまうちです。よろしく」と言われまして、その方が山内一豊から17代目になるのかな?山内豊秋さんという方で。わたしも「えっ?」ってなりまして。「やまのうち」じゃないんですか?って。「いや、ウチはやまうちですよ」ということで、『功名が辻』以降は「やまのうち」ではなくて、「やまうち」と発音されるようになった。同じような例として「浅井」を「あざい」と読むとか「尼子」を「あまご」と読むとか、そういう細かい訂正をしています。

もうひとつだけ。『功名が辻』で、完成した掛川城の天守閣から周囲を見渡す場面。「富士山は見えますか?」とスタッフに問われて「ええ。見えますよ。ただし山梨側から見た映像を使ったほうが無難です。宝永山が映っちゃマズいから」と答えました。富士山の側火山・宝永山ができたのは1707年に宝永大噴火があったあとですからね。ところができた映像を見てびっくり。あまりにも目の前の富士山が大きすぎる。「大きさまで言わなきゃなんなかったかぁ…」という失敗談です(笑)。

では、平山先生はいかがでしょうか。お聞きするところでは、初めての関わりは1988年の『武田信玄』だったと。

【平山】
私が最初に関わったのは23歳で大学院に入った時でした。大河ドラマ『武田信玄』の放送が決まりまして、当時の監修が磯貝正義先生、時代考証が上野晴朗先生でした。私は上野先生からお声がけいただきまして、当時の大河ドラマの制作スタッフ陣と初めてお会いしました。上野先生は台本のチェックはされるんだけど、そのほかは私にほぼ「丸投げ」となりました。いろんな思い出があります。例えば武田信玄が、甲斐国一宮浅間神社に願文を捧げ、柏手を打つという場面がありました。「その願文の文面を考えてくれ」と頼まれたのです。それはたまたまNHKに打ち合わせに行った時に、その場でいきなり依頼されました。でもそのぐらいの文書の内容は、頭に入っていたのですぐにその場で書いて渡して、その設定当時の信玄の花押を、史料の写真を探してコピーし、すぐそのあとでお渡ししたこともありました。

私が大学院生だったころなので、まだ昭和62・63年のことです。当時は、当然のことながら、まだ携帯電話もなかったころなので、自宅はもちろん、私が大学院の時に所属していた研究室、図書室、さらに私のアルバイト先(予備校)などにも、NHKから電話がかかってきたのです。当然、いないことのほうが多いわけです(自宅とアルバイト先が一番連絡がつきやすかったかな)。そうすると研究室などに行くと「平山、昨日の午後、どこにいたんだ?」って言われて、「どうしたのですか?」って言ったら、「NHKから電話で『至急調べたいことがある。教えてほしいことがあるから電話ください』と伝えるように言われた」って言われました。「大学のゼミをしている最中にかかってくることがあるから、ちょっと困るのだよね」と小言を言われたこともあります。

急いでNHKに連絡を入れたら「北条氏康の手紙を美術スタッフが今作っているんだけど、氏康の花押(サイン)が欲しい」って言われたんですよ。なので「設定はいつですか?」って聞いたら確か永禄十年頃、信玄の駿河攻めの直前くらいだったと記憶してるんですけど……、そのころの花押を探し出して、コピーを取ったんですよ。「一応コピー取りましたけど、どうしたらいいですか?」って聞いたら「先生、今いる場所を教えてください。バイク便をそっちに向かわせますから」って。バイク便の人に託してNHKに送った記憶があります。今もバイク便なんてあるのかな。昭和ど真ん中のエピソードです。あの当時、私がもし本業がある立場だったら、そう簡単には動けなかったと思いますが、大学院生だったからなんとかなったと今も思います。

ところで、昔の大河はもっと重厚だったとよく言われるんですけども、『武田信玄』の時なんて時代考証通りではないことなんて、たくさんありました。例えば第4回川中島合戦の場面、宍戸錠さんふんする原虎胤(はら とらたね)が出てきたんです。脚本の草稿をチェックしていて「史実では、原虎胤は、川中島の戦いには出陣していません」と言ったんですが制作陣が「いや…錠さん出したいんで是非」(場内爆笑)。あと上條恒彦さん演じる村上義清が、原虎胤と一騎打ちして首をはねられる場面が最初の台本にはあったんですが、史実では死んでないですから(場内爆笑)。で、「けがをして戦線離脱する」と変更してもらいました。

武田信玄の駿河侵攻では、寿桂尼じゅけいにが今川館に乗り込んできた信玄に会ったりしています。それはありえないのですよ。だって、寿桂尼は、永禄11年3月に死去しているのですから(信玄の駿府制圧は、同年12月13日)。そんな思い出が結構いろいろとあります。電話をして質問してくる助監督さんたちがたくさんいらっしゃって、それはもういろんな相談を受けたことを懐かしく思い出します。でも磯さんがおっしゃったように、あのころはまだまだのどかで、うるさく言われることはなかったですね……懐かしく思い出すといえば……宍戸錠さんたちと飲みに行ったことも(笑)。昭和の銀幕の大スターって、みっぷりがすごくって。まだ僕は23でしたので……、かなりびっくりしました。

では、ドラマ制作の立場から、こうした時代考証の先生方からの助言をどのように生かしておられるのでしょうか。

台本作成前のリサーチがますます重要になっています。先ほどの宍戸錠さんの件ではないですが「いるはずのない人がいる」なんてことは生じないようにもちろん精査してはいますが、ストーリーを作成する際に例えば「もし家康と信玄が遭遇するとしたならば、時期はいつだったら、そして場所はどこだったらあり得るか」などを前もって相談したりしますね。いろんな記録を読み解いて「この時期には家康も信玄も、極めて近い距離にいることだけは間違いない」との結論を得て「もし会っていたと考えるならば、物理的にはこの時期にこの場所でならあり得ますかね…」「会いに行くとしたらどんなメンバーになりますかね」などを前もって相談したりしましたね。家康の若いころについては記録が少ないので、どういう物語を作っていけるのか、その可能性を探るためにも、事前の相談が必要でした。小牧・長久手の戦いや上洛以降は、もう少し記録も増えてくるのですが……。

~ 前代未聞! 三河一向一揆 前・中・後編 連続3本 ~

ドラマとの関わりでいえば、私(齋藤)は、安城市教育委員会でこの本證寺をはじめとした文化財保護の業務に携わっているのですが、先日、ドラマ担当のADさんから「空誓の起請文きしょうもんの画像が欲しいので、メールで送ってほしい」と電話をいただき対応したことがありました。起請文とは、現代風にいえば誓約書、契約書のことです。今回のドラマで三河一向一揆の大将として描かれた本證寺第10代空誓上人は、一揆終結の17年後、1581年に石山合戦後の本願寺内部の混乱の中で起請文を書いています。それが現存していて、以前に安城市史だよりに写真付きで紹介されたことがありましたので急いで送りました。どうする家康第9回に家康と空誓が一揆和睦の起請文を交わす場面があり、ここでの参考にされたのだと、ドラマを見てわかりました。この場面、家康と空誓の目と目が合う、心理描写が見事だったと思いました。

このように、今回の「どうする家康」では、この本證寺が中心となって家康と争った三河一向一揆が3回にわたって描かれたわけで、まずはそのことに驚いているのと同時に、ドラマの裏側で、どのようなやり取りがあったのかとても興味を持っています。そして何より、市川右團次さんの熱演がすばらしかったと思います。では、まず磯チーフプロデューサーに、なぜ3回にわたって描くことになったのか、また、演じられた市川右團次さんのことなど、ドラマの裏話をお聞かせいただきたいと思います。

【磯】
脚本の執筆を古沢さんにお願いすることが決まって、では家康の物語をどういうふうに描いていきましょうか?と相談していくわけですが、「徳川家康の一生」は、すでに歴史好きにはよく知られてはいるので、どういう視点で描いていくか、なかなかすぐには考えがまとまりませんでした。で、「とにかく家康にゆかりのある場所を全部見ましょう」と決めました。実際そこに行って、その土地に住んでいる方たちにお話を聞いて、現在進行中の研究内容についてもお話を聞いて、それを手当たりしだいに全部やってみましょうと、古沢さんと話しました。で、半年くらいかけて家康ゆかりの場所をほぼ全部回ったんですよ。岡崎から始まって、上之郷城も行きましたし、家康が松平家から今川家に船で行く途中に、織田家に奪われていった中で、じゃあその時家康はどんな気持ちになったんだろうなぁ…と想像したくて、実際に船を出してもらって進路を全部たどって、見て回ったりしたんです。せっかく見て回ったんですけれど、平山先生から「今はその学説は否定されています」とあっさり言われてしまって、日の目を見ずに終わったリサーチも少なくなかったんですけれども(場内爆笑)。

そんな経験を続けている途中、2年前にこちらの本證寺にもお邪魔してご住職に案内していただいた時に、壮大な堀があって「これは我々が想像していたのと違うぞ」と感じました。40年前の大河ドラマ『徳川家康』で三河一向一揆を描いた回では、ムシロに「生活を良くしろ」などと書いた安保闘争のプラカードみたいなものを持って行進するような描写があったりするんですけど、「さすがに今はああいう表現はしないですね」と話しました。ここには寺内町と呼ばれる生活空間がもともとあって、人々の暮らしがあって、いわば自治が行われていたわけです。だとしたらむしろ、当時ここで暮らしていた人の立場から見たら「自分たちが普通の暮らしをしていたところに、家康が侵入してきた」と感じたはずだ……とのお話も伺いました。一向一揆についても、鉄砲の弾も見つかっているし、堀も残っているし、当時の戦いの壮絶さについてもお話を伺って、それらを実際に自分たちの目で見てしまうと、やはり「三河一向一揆」は「家康三大危機」のひとつといわれるだけあって、家康にとっても相当な大事件、大きな危機だったに違いない、と想像力をいたく刺激されました。「一向一揆を取り扱うには、かなり本腰を入れて取り組まないとマズい!!」という思いが、どんどん強くなっていったわけですね。

そのような衝動に突き動かされていろいろ調べていったところ、一向一揆をドラマのストーリーにまとめるのは非常に難しいことが明らかになってきます。まず登場人物がやたら多すぎる。しかも、同じ家康の家臣だった者たちが、一揆に加担する側と一揆を弾圧する側との二つに分かれて、内戦を繰り広げることになる。昨日までひとつの家だった人間たちがお互いに戦うことになるので、見ているお客さんにとっても混乱しやすい、とっつきにくい話なんです。そんな複雑な状況をどうしたらドラマのストーリーとして描けるんだろうと悩みました。その結果、後に三方ヶ原の戦いで活躍する夏目広次を「家康側について一揆を鎮圧する側に回ったことにより、かわいい身内にやいばを向けなくてはならず苦悩する人物」として描いてみる。またいつもは本音を隠してクールな戦略家を装っていたはずの本多正信を「家康に背いて一揆に加担する側の熱い一面もある人物」として描いてみる。夏目広次も、本多正信も、どちらも今後のストーリーにおいて大きな役割を果たす登場人物なので、その2人を軸に物語を構築していけるかも、と考えました。

それでも本證寺の中に住んでいる人たちの暮らしぶりをどうやったらお客さんに理解してもらえるか、という課題は残ります。「どんなふうに暮らしていたか」がわからないと、一向一揆を起こす人たちがどんな生活を守ろうとして家康に抵抗したのかをわかってもらえないわけです。筋立ての基本としては当然、家康と空誓の対決をクライマックスに配置したい。そう決めている以上は逆算すると、家康と空誓とが対決するより前に、2人が一度出会う機会を物語上作っておいたほうがいいんじゃないか、となりました。第7回で、平八郎や小平太を引き連れて寺内町に潜入して本證寺に行った家康は、民衆のそこでのふだんの暮らしぶりをまず目にする。そこで目にした風景が意味するものを、後に一向一揆鎮圧の戦いを通して家康は改めて身にしみて知っていく……という流れを組める、と考えたわけです。一向一揆の勢いが増していく中で、夏目や本多ら、家康の近くにいた家中の者たちの動向も描けますよね。家康を裏切っていった本多が「なぜ裏切ったのか」を描くこともできます。それらを通して、当時の三河一向一揆とはどういう戦いで、それが後の家康にどのような教訓を与えたか?についても深堀りしていくと「結構ボリュームあるストーリーになりますねぇ…」と。

「でも大河ドラマは1年間、全部で48回しかない。家康の生涯には、描かなきゃならない重要な事柄がほかにもたくさんありますけど…」「……」「じゃあ…もう、思い切ってここで3回分使っちゃいますか? 48分の3、三河一向一揆に使います?? うーん。コレは結構な大勝負になりますよ」なんて言いつつ、結局3回分をかけて描く方向に舵を切りました。それはやっぱり、ここ本證寺に実際に来て、いろいろなものを拝見したからに尽きます。ここまで当時の様子がそのまま残っている場所って、ほかにはないんですよ。三方ヶ原に行ってもなんにもないですし、上之郷城も跡地としての山があるだけ。大坂城も公園になっています。「桶狭間の戦い」の痕跡を桶狭間で探しても跡形もないですからね。ここ本證寺がこのように実際に当時の姿のまま残っているというのは、脚本家や我々スタッフにとっても、これ以上なく大きなインパクトがあるんですよね。それを目の前にした時の経験があまりにも大きくて、「どうすれば映像化できるか」というモチベーションを大いにかきたてられた結果、3回分使ったストーリーとして構成する結果となりました。ここに初めてリサーチに来たのがちょうど2年前の5月のことでしたから、完成した番組をご覧いただいたみなさまを前にして、ここ本證寺に招かれてこのようにお話ししていること自体が、なんだか不思議な気がしてきます。

2分ダイジェスト

空誓上人はみなさまにもテレビでご覧いただきました通り、市川右團次さん(実年齢は59歳)に演じていただいたんですが……キャスティングの経緯についてお尋ねだったかと思いますのでお答えします。史料によりますと当時、空誓さんはまだ二十代の若者でした。それがなぜ、右團次さんだったのか? 台本を作っているとやはり空誓さんって、物語の中でかなりの人格者として登場するんです。家康に対して説教する場面もありますし。しかも空誓が話すのは、当時の人々の生活や、戦乱の世のつらさについての話です。それらは空誓自身の言葉としてきちんと話されないと、家康には伝わらない大事な内容です。しかも最終的に家康は空誓から得たものを自らに対する教訓として『厭離穢土おんりえど欣求浄土ごんぐじょうど』という言葉を自らの旗印に掲げるまでに至るわけですね。

家康がのちのち何度もかみしめたくなるような言葉を吐く人物として空誓を成立させる際に、実年齢二十歳前後の若者を起用できるだろうか、と悩みました。寺内町の民衆に説教する場面は、演技力に加えて、言葉遣いの重厚さ、発声する際の活舌の良さなどを求めたくなる。家康と一緒に空誓の説教を聞いているのが、山田裕貴さん演じる平八郎だったり、杉野遥亮さん演じる小平太だったりしますから、彼らが説得力を感じるような言葉を吐く空誓でいてもらわなくてはなりません。悩みに悩んだ末に時代考証の先生方にはたいへん申し訳ないけれども、史実は一度脇に置いて、ここはあくまで物語を成立させることを優先して人選しようと決めました。番組を見たお客さんから「当時の空誓はこんな年齢じゃない」とクレームが来たならば、素直に謝ってしまうか、それとも「いや、右團次さんが演じてくださっていますが、あくまでも二十歳という年齢設定でやっています」と言い張るか(場内爆笑)もうどちらかしかないと……まぁそれくらいの覚悟を持って、右團次さんをお招きしようと決心したわけです。

右團次さんは歌舞伎界で活躍されていて所作も非常に美しくていらっしゃいます。戦国時代ですから後の世と比べて立ち座りの所作は多少乱れていても許されるところもありますが、さすがに門徒役の方たちのたたずまいは大事にしなくてはならないと考えると、歌舞伎界から右團次さんを空誓役としてお迎えできて本当に良かったと思います。結局放送後も空誓の年齢については何のクレームも来ませんでした。説得力をもった空誓の言葉の重みを、みなさんにも感じていただけて、納得していただけたのかな、と思っています。

時代考証の立場から、三河一向一揆を3回にわたって描くことについては、どのようなやりとりがあったのでしょうか。

【平山】
戦国時代の一向宗の門徒の人たちの生活や、寺内町という空間をあれほど丁寧に描いた映像はこれまでなかったと思います。そもそも今は「浄土真宗」っていいますけど、当時は「一向宗」という呼ばれ方をしていました。「一向」とは「ひたすら、いちず」という意味です。つまり阿弥陀仏を信仰し、ひたすら念仏を唱える信者たちのことは総じて一向宗と呼ばれていましたので、浄土真宗以外に時宗なども含めて、みな一向宗だったわけです。けれど、いつのまにか浄土真宗の人たちが一向宗の代表のようにいわれるようになっていったのです。この乱れた世の中でさまざまに傷ついている人たちが、寺内町や寺院において、阿弥陀様を信仰し、一生懸命ただひたすら、阿弥陀様にすがる姿がドラマでも印象的に描かれていました。また歩き巫女みこなど、芸能に携わる人たちがいっぱい寺内町に入ってきていました。これも忠実な描写なんです。ドラマで、自分は人を殺してしまった、などの前科がある罪人たちが、空誓さんの周りをボディーガードとして警護していました。浄土真宗には「悪人正機あくにんしょうき」という教えがありますよね。「悪人正機」とは「悪い人たちだって、仏様は救ってくださる」という、親鸞しんらん聖人の教えでした。かつては他人をあやめたような人たちも心から悔い改めて、そして阿弥陀仏にすがって寺内町に身を寄せていたわけで、その辺りもちゃんと描かれています。戦国の浄土真宗はアウトローとの親和性が強いので、そこも良く描けていたのではないかと思います。

本證寺の寺内町もCGでその巨大な全貌が描かれていますが、戦国期の本證寺の寺内町の規模は、およそ310メートル × 320メートル…敷地でいうと東京ドーム2個半の面積が実際にあったんです。たくさんの民家があり、町場がつくられていました。しかも発掘の調査の結果だと、「短冊状地割」が出てきていないので、きちんとした区画がなくきわめて雑然とした状態で家屋や店が並んでいたと考えられます。ドラマの中で描かれていた通り、いろんな種類の人たちが集まっていました。「ここは毎日、店が開いているんだ」と家来が家康に語るセリフがありましたが、常設店舗っていうのは三河ではおそらくこの寺内町ぐらいしか当時は存在していなかったと思われます。そういった様子がほんの短いセリフやドラマの流れの中でうまく説明されていたなぁと私は思っております。安藤わたる先生はじめ浄土真宗の研究者のみなさまにも考証に入っていただきました。歴史学者でも専門が違うとよくわからないことがたくさんあります。今回「どうする家康」の時代考証をするにあたって、自分の書斎はもう資料でいっぱいなのですが、それでも一向宗関係の論文集とか著作、資料を、もともとこれまで持っていた分を再び手に取って掘り起こすだけではなく、現時点で探して手に入るものは全部買いそろえて全部読みましたので、結構、時代考証、力を入れているんですよ!!(場内大きな反応)

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