我々スタッフ、伊賀を越えてみました!
第29回「伊賀を越えろ!」いかがでしたか?実は脚本家の古沢さんと我々スタッフ、取材のため家康の伊賀越え推定ルートを歩いてみました(2021年夏)。地元には今もいろんな伝承が残っていて、興味深い限り!取材メモとともにその行程を記しますので、ぜひ家康の気持ちになったつもりで伊賀越えを体感ください!
6月2日
- 早朝
- 家康、堺の妙國寺を出発して京へ向かう。目的は信長に帰国の挨拶。
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妙國寺(戦後の再建)
- 本多忠勝が信長のもとへ先行。家康、家臣団と河内街道を北上。
- 正午
- 忠勝、河内国枚方で茶屋四郎次郎と出会い、本能寺の変を知り引き返す。
- 午前2時
- 忠勝と茶屋が飯盛山西麓にて、家康に信長横死を知らせる。
- 「知恩院で腹を切る」という家康を、忠勝らが説得。
議論の末、海路を捨て「伊賀越え」を選択。枚方から進路を東にとる。
- 夜
- 山道に入り尊延寺を経て、木津川の草内の渡しに到着。
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木津川
草内の渡し場 跡
この碑の向こうに木津川
- 忠勝が槍(蜻蛉切)を振り回して、村人に道案内をさせる。
庄屋の息子を人質にとり、柴船を無理やり買い取って渡河。
6月3日
- 夜明け
- 全員が木津川を渡り切ると、忠勝は槍(蜻蛉切)の石突で船を破壊。
対岸には山口秀康の出迎えが60~70名待っていた。
- 山城国 宇治田原城(山口秀康の館)に入り、しばし休憩。
酒井忠次の申し出により、家康の馬(若すぎた)を良馬と交換する。
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宇治田原城址
今は茶畑になっている
- 時刻不明
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1日遅れて木津川にさしかかった穴山梅雪が草内付近で野伏せりに襲われて自害する。
家康と別行動をとった理由・時期は不明。
梅雪の衣装はきらびやかだったとされる。宣教師フロイスの報告書「三河の王は兵士及び金子の準備が十分で、物を与え、あるいは脅して通過する。穴山は出発が遅れて部下も少数。不幸にも一度ならず襲われ、まず部下と荷物を失い、最後に自身も殺された」
穴山梅雪の墓
- 正午
- 馬を替えて宇治田原城を出発。
- 午前3時
- 遍照院で休息。夕食をとる。小川城からの警護兵と合流。
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遍照院
遍照院から見た風景
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怪しいけれど親切だった
甲賀衆 多羅尾光俊
- 午後9時
- 近江国 小川城に到着。家康は警戒して城に入らない。城主・多羅尾光俊(宇治田原城主・山口秀康の父)が名物の干し柿と新茶を振る舞い、村人が赤飯を炊く。最後に人質を出してようやく安心した家康は城に入り、赤飯を手づかみで口にする。光俊は家康に将軍地蔵を道中のお守りに献上。
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多羅尾氏の小川城址
- ドラマの中でも赤飯が活躍!
さてここからが伊賀です!国境にある峠の名は御斎峠。今もここから伊賀盆地が一望できますが、ドラマでも触れたように当時は650にも及ぶ砦が所狭しとひしめいており、たびたび伊賀を攻めた仇敵信長の盟友・家康の首を狙うのは必定。伊賀越えは一か八か、家康にとって大きな賭けだったと思われます。
6月4日
- 早朝
- 近江国 小川城を出発。御斎峠に到達。
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御斎峠から伊賀盆地の展望
赤点は伊賀の中世城館(砦)があった場所
他国に類を見ない高密度!
- ドラマで描いた御斎峠からの展望 霧が発生しやすいのは伊賀の特徴
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今も伊賀に残る3mの高い土塁に囲まれた家屋敷。中世城館の名残を留めている。
- 午前
- 御斎峠を越えて伊賀に入る(②のルート・諸説あり)。伊賀越え開始。
家康は虚無僧、忠勝は馬子、忠次は樵、半蔵は山伏に変装したと伝わる。
半蔵がのろしを上げて200人の伊賀者が集まる。
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ちなみに伊賀越えのルートは諸説あって、①桜峠 ②御斎峠 ③信楽越え などもそれぞれ根拠がある魅力的な説です。よってドラマでは追手の目をくらますため、家康、左衛門尉、数正が三手に別れたという設定にしました。
- 桜峠説(①のルート)では、宮田という地侍が家康を湯に入れて接待。
人質まで出す。宮田は後日、家康から御礼に「山川」という名馬を拝領。
本隊は桜峠を通る一方で、別部隊(多羅尾か?)は御斎峠の道端にあった十王石仏を輿に乗せ、おとりにして御斎峠を下ったという伝承もある。
- 甲賀市の浄顕寺にある十王石仏
十王石仏なのに、石仏は9体しかない。なぜならそのうち1体が駕籠に乗せられ、家康の身代わりとなって御斎峠を下ったため。 おとりになった1体は、後に江戸まで運ばれ、今は増上寺の愛宕山にあるらしい…。
- 午前
- 伊賀 音羽郷で一揆に襲われるが撃退。
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家康襲撃伝説が残る音羽郷