物識り揃いの日本の人たちだが、意外なことを知らないことが、ときどきあって、
例えば自分たちが普段使っていて、そのなかで思考していて、そのなかで怒ったり、笑ったりしている「日本語」が少なくとも最近までは五本の指に必ず入る程度に「美しい言語」とされていることを知らない人が多かったのには、びっくりさせられた。
英語でもフランス語でもいいから、グーグルで検索すれば一目瞭然で、無類のグーグル検索好きの日本の人が知らないのは、なんだか不思議な気がする。
欧州人が初めに日本語に気を惹かれたのは、(それこそグーグルで検索すると「音は評価されない」と出てくるが)実は「音」が先で、小津安二郎や成瀬巳喜男の映画は、欧州人は頭が不便なので字幕に頼って観なければならなかったが、「完璧」をスクリーンに投射したような小津映画を観ていると、どうも日本語という言語は音が変わった言語だと気が付き始めた。
1990年代のことです。
そのころは小津安二郎は、日本でも、いったん、「忘れられた映画」になっていて、神戸震災の年だったから、1995年だったか、日本人である叔母の夫を手伝って、東京中、小津映画のVHSがあるはずだというので、クルマで探し回ったので、どれほど小津映画が忘れ去られていたか、自分でも一端を証言できそうです。
日本の人の関心対象の変化をそのまま映しているとも言えるが、いまのようなメイド喫茶で、「御主人さま」と改まってみせる若い女のひとたちのサービスが売り物の街ではなくて、おなじ「オタク」でも、電子工作や自作PCの「オタク」の街で、そこから派生したものは、なんでも揃って、お目当てのパーツを買いに来た、遠く欧州やアメリカからやってきた「オタク」たちや、アメリカや欧州でおなじことをやれば売る側も買う側もお縄になるので、崩壊前には、CPUを買いにきたソ連人たちがスーツケースいっぱいに詰め込んでガード下の店に札束を積み上げていたような街だった秋葉原で、虱潰しに店を当たったが、それでもひとつも見つからなくて、叔父と甥は落胆していた。
映画といえば、なんとなく日比谷、という土地鑑だったらしい叔父の提案によって、今度は有楽町から銀座を捜索して、ここもダメで、横浜に移動して、とやっているうちに、草臥れ果てたが、
なんとはなしにボーゼンとした顔付きの見かけとは異なって、賢い甥の提案によって、松竹映画大船撮影所の跡地に出来ていたモールの、小さなCDビデオ店に行ってみて、初めて、小津映画の全巻が一挙に手に入って、大船に行けば寄らない訳にはいかない、観音食堂で、叔父と甥、ふたりで凱歌をあげたのをおぼえている。
文化探索のアンテナが極度に発達していて、年柄年中、新しい文化のアイデアを世界において物色して、アレンジして、といえば聞こえはいいが、要するにマネッコで、自分たちの文化を常に裕かなものにしてきたフランス人たちは、もうとっくに知っていたのではないかとおもうが、万事が田舎者の英語人は、そのころ、やっと、「どうも日本映画は、黒澤明という特殊な天才がひとり孤高の天才として屹立しているわけではなくて、他にもすごい監督がたくさんいるようだ」ということに気が付き始めていて、小津の名前が、じわじわと知れ渡り始めていたころだった。
特に外国映画に興味を持っているわけではない英語社会一般の様子は、そんなものだったが、
公平を期すために述べると、ヴィム・ヴェンダースの「東京画」が公開されたのは、1985年のことです。
わしが生まれた頃にはもう、少なくとも大陸欧州の映画コミュニティには小津の名声は轟きはじめていたことになる。
日本で公開されたのが1989年で、全体にわし実感としての社会の反応と十年ほどずれているが、この、欧州や英語世界で小津が「復権」してから、4,5年で日本でも小津の名前が再び囁かれ始めたのは、わし記憶と合致している。
1995年に日本を立ち去ったころには「小津」の名前は日本の街中には影も形もなくて、2000年に戻ってきたときには「小津はすごい」という人がたくさんいたからで、
実は「小津安二郎」の名前は、欧州経由で復活したのではないかと、いまでもおもってます。
秘すれば花、色には出にけり、翻訳を通しても歴然として隠しようもない、定評がある書き言葉としての日本語の表現の美しさは、主に村上春樹の小説で伝播した。
第一世代移民と言っても、子供時代に移住したこともあって、英語世界に産まれた人間よりも遙かに、圧倒的に、優れて英語的な表現に満ちたカズオ・イシグロとは異なって、村上春樹の、多分、本人も加わって英語に翻訳された英語は、通常の英語人が観たことがない微妙な表現に満ちていて、読んでいて心地よくて、ストーリーはどうでもいいや、とは言わないが、その表現がもたらす快適さによって、知られていきました。
もっとも、文学好きのほうは、村上春樹などは、世間で人気があるものは歯牙にも掛けない、悪い癖で、断然、谷崎潤一郎で、大叔父を訪ねてやってきたバークレーの核融合研究者の、若い人というか、若いおっちゃんというか、若おっちゃんの、マキオカシスターズを語り出したら止まらない、その凄まじい熱狂は、後々まで、大叔父の家の語り草になっていた。
そうこうしているうちに、「日本語は世界有数の美しい言語である」という事実は、押しも押されぬ、引いても引き倒せない、動かしがたいものになって、英語世界にも定着して、世界文明のイナカモンである英語世界の、そのまた田舎のオーストラリアとニュージーランド、Australasia でも、それ以前は単純に「職を得るために有利だから」で、洪水のように押し寄せてきて、
ウインストン・ピータースのような煽動政治家が「このままではニュージーランドは日本人の国になってしまう。日本人たちが我が物顔にのし歩いて、子供たちが日本語で話すことを強制されるニュージーランドになっていいのか」という演説をぶって歩いて、たちまちのうちに自分が設立した政党を、泡沫党から、支持率1位にまで押し上げてしまうほど羽振りがよかった日本に出稼ぎに行くか、当時はたいへんな勢いで進出していた日本企業に就職するか、オカネの興味で高校の外国語習得志望が、フランス語についで2位だったものが、最近は、日本がビンボに成り果てたのも相俟って、文化上の興味から、日本語を熱心に勉強する人が増えていった。
その結果、普段はおくびにも出さないが、流暢に日本語を話す有名人もたくさんいて、アメリカ全土や、UK、カナダ、オーストラリア、フランスやドイツを含む非英語圏欧州でもヒットチャートの1位になったSomebody That I Used to KnowのGotyeなどは、ギョッとするほど日本語が達者です。
自分自身についていえば、例外ではなくて、日本映画が始まりで、初めはもともと、あれは初版だけなのかも知れないが、ゲール語でスタートするという不思議な怪獣映画「ゴルゴ」が好きだった下地で、夜の闇を基調とした雰囲気がそっくりの、1954年の日本映画「ゴジラ」が好きで、「ラドン」「モスラ」に触手をのばして、好きが嵩じて、市場にあるはずがない「マタンゴ」やガイラにまで手をのばして、飽きがきたころが、うまい具合におとなたちが小津、小津と言い出すタイミングで、小津の「お茶漬けの味」を観て、一発で陥落してしまった。
decencyという。
たいていのハリウッド映画などには欠片も感じられないものが、全編に満ちていて、いったい何度観たか、友だちと遊び呆けて、酔うと、両親の住む実家には「映写室」というヘンテコリンな部屋があるが、その椅子に深々と腰掛けて、ひとりで、decencyに満ちた失われた世界に耽っては泣き狂っていた。
あれは「秋刀魚の味」かな?
笠智衆扮する男寡夫(やもめ)が、北竜一扮する、年が懸け離れた後妻をもらった旧い友人に対して、なごやかな同級生たちの寛ぎの酒宴のさなかに、唐突に
「おまえは不潔だよ」と言い放つところがあったりして、小津映画の、そうした、なんともいわれないピンとした感じが好きでたまらなかった。
いま考えてみると二十代の、右も左も判らない自分は自分なりに、野放図に乱雑さをましてゆく英語世界に、うんざりしていたのだとおもいます。
日本語を習得しはじめると、自然と、「より美しい日本語」を求めて、日本語表現の宝庫というべき現代詩の世界に踏み込んでいくことになった。
それで出会ったのが鮎川信夫であり、西脇順三郎で、この詩人たちが使う「透明な言語」にすっかり「やられて」しまう。
もうひとり、日本語の世界というよりも言語宇宙全体を、ひとつの島宇宙からもうひとつの島宇宙へと縦横に疾走できたのが岩田宏で、
ちょっとアルフレッド・ジャリのLe Surmâleの自転車乗りをおもわせる、この圧倒的な言語運動能力を持った詩人が詩集を出した出版社が、この奇跡のように日本語世界にあらわれた詩人の友人で、当時の現代詩の世界では有名だった出版人伊達得夫がつくった「書肆ユリイカ」という出版社で、まさか自分がこの「書肆ユリイカ」の後身である出版社「青土社」から、しかも日本語で本を出すことになるとはおもわなかった。
出版社の性格自体は詩神の饗宴のような当時から、そうしなければ生き残れないのでしょう、商品としての「文化」を、ちょうど誰かが「パルコ商売」と呼んでいて、こちらは逆に西武グループというのは、そういうマーケティングだったのかと、千ヶ滝に忽然と西武美術館があったりする不思議の理由が判ったような気がしたが、同じ会社は同じ会社なので、
なんとなく、いま流行りの言葉で伊達得夫に(光栄にも)「呼ばれた」ような気がしました。
この青土社から幾冊も著書をだした日本のシュルレアリスト巖谷國士と、年齢差を超えて、紛れもない友人となり、人にはわかりそうもない共感や、やはり他人には不可視の不協和音(と言っては巖谷先生に失礼だが)を奏でたりすることになったのも、やはり偉大な出版人伊達得夫が案外、傀儡の糸を握っているからなのかも知れません。
日本語を、趣味で、習得を始めてからいままでの十数年で、日本語が言語には稀な、急速な転落の道を辿って、瓦解、と呼ぶのが最も適切なていたらくとなって、いまでは見る影もない姿で、
なにより現実から乖離した観念遊戯の、つるりんとしてノッペラボーな言語になりさがったのは日本語人に限らず、広く知られている。
こういう他言語世界の「実状」のようなものは広まって定着するのに時間がかかるのが通例なので、十年か二十年か、伝播に時間がかかるでしょうけど、やがては世界中の日本語ファンに失望につぐ失望を与えて、やがて、いま普遍語としての寿命を迎えたように、言語そのものとしても寿命を迎えるに違いない。
徴候はすでに、数年前からいくらでも見られて、なにしろ現代の世界の変化に言語がついていけなくなって、更に悪いことに言語が届かない暗がりのような場所に、多くの重要な事象が(日本語人から観れば)身を潜めて、影のように、目を凝らしても見えないものになっていった。
簡単にいえば日本語は「世界を説明できない言語」になってしまった。
こうなってしまえば、こちらに出来ることは、腐った部分をよけて、熟した部分だけを皿に取り分けて愉しむ妖鬼のように、少しでも美しい日本語を、残しておくことくらいのもので、
なにしろ他の言語からやってきた人間がやることではなくて、不適任もいいところだが、
適任も不適任も、別に社会から期待されてやっているわけではないので、こっそり美しい日本語表現を書き付けておくくらい、勘弁してもらおうと、おもっています。
例えばスペイン語では、最近、面白い現象が起こっていて、もともとラテン語の簡潔表現能力を潜在的な言語能力として持っているが、若いひとたちがテキストメッセージのために簡潔表現を掘り起こして、英語のu r やIMHOというような凡庸な表現とは次元を異にする、古典ラテン語への先祖返りと見紛う簡潔表現が遍く使われていたりする。
インターネットが普及し、アクセスが簡単な情報が文字通り桁違いのいまの世界では、あっというまにマルチリンガルが当たり前になったので、多分、用途によって異なる言語を「使う」ことが普通になってゆくのでしょう。
そのときでも、陽炎のような、たゆたい、きらめく、宮廷の女のひとたちの揺らぎに満ちた日本語という言語が、美しい言語として、生き残っていることを希望しています。
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