頭と手足の二重性
この世界は、頭の役割をする人間、手足の役割をする人間に分かれている。だが、ここには欺瞞が有り、完全な手足だと人間のプライドが許さない。手足だが、実は頭であるという二重性が必要なのである。天皇崇拝者は天皇の手足であるはずだが、実際は、天皇(頭部)を操縦しようとしているわけである。お山の大将の多くが馬鹿であるのも、やはり、頭と手足の問題である。取り巻きのイエスマンたちは、唯々諾々と従っている手足に見えても、実際は頭なのである。手足として御輿を担ぎながら、御輿(頭部)を操縦しているのである。であるから、お山の大将はチヤホヤされているように見えても、リスペクトされていないのである。というか、人間は他人をリスペクトなどしないし、相手が優秀なら憎悪しかない。(もしくはリスペクトすることがあるとしても、それは遠い他人が対象であり、主従関係ではあるまい)。頭部と手足という文脈であれば、やはり、「こいつは馬鹿だな」と思いながらヨイショすることになる。人間それぞれが主体性をもっているから、生じる問題である。絶対服従の奴隷(完全な手足)というのも、いないわけではないが、それが好きな人はいないだろうし、奴隷から抜け出すためには、革命ではなく、とりあえず大将をヨイショしてコントロールすることなのである。「こいつは馬鹿だな」という方が大将になりやすいので、われわれの政治的世界はいつも暗澹としている。これはわれわれにも原因があるのかもしれない。優秀な人間にコントロールされるのはプライドが許さないから、馬鹿を担ぎ上げようとするのである。