身を切って、自分を犠牲にして、無私の行為を繰り返してきた羽生結弦…彼の人生を雑な記事で汚させていいのか

日野百草 ファンしか知らない羽生結弦

※前編から続く

目次

なぜ、あの羽生記事は世に出たのか

 是非はともあれ、記事として松本人志の一連のスクープはしっかりとしたものになっている。前編で書いたようなレトリックは少なく「直球」である。大手出版社の週刊誌ともなれば正規、非正規問わず大人数が関わっている。編集部内でもそれぞれの班やグループ(会社による)でそれぞれに記事を書いているので必ずしも一定のレベルというわけでも整合性があるわけでもない。

 ともあれ、この羽生結弦の記事そのものは

「この通りの出来」ということだ。

はっきり言って、稚拙としか言いようがない。というか、出さなくてもいいレベル、である。

 ではなぜ「この通りの出来」なのに出してしまうのか。これも経験上だが四つある。

 ひとつ目は「追ってはみたがたいしたネタではなかった、それでももったいないのでいろいろ膨らませて書いた」

 ふたつ目は「以前の記事が当たったのでたいした内容でなくとも追い記事で一定数稼げると踏んだ」

 三つ目は「記事のノルマが足りないのでそれを埋めるため」

 最後に「記者個人が興味を持った(好感、私怨など)のでとにかく書いた」の四つである。

 四つめは完全な個人に対する私の憶測でしかないので省くとして、他の三つのいずれかがこの記事に当てはまるように思う。個人的にはひとつ目とふたつ目のハイブリッドのような気がするが、誰かがこの内容をリークした、もしくは記者が聞きおよび当たってみた、しかしどうも羽生結弦を主題として書くには苦しい内容だった。でも、それまでの記事の反響が他社の結果も含めそれなりの数字だったので出した、という具合のような気がする。そうでなければ天下の文春、ちょっと出来が悪すぎる。

雑な記事を撒き散らしているという現実はある

 とはいえ、こんな姿勢で羽生結弦に限らず一方的に書かれては堪ったものではないが、案外とこんなもの、ということが多い。

 毎週雑誌一冊を作らなければならない週刊誌、ネットに至っては毎日配信の日刊状態なのでひたすら記事を量産するしかない。だからTwitter(現、X)から適当に拾って書いてを繰り返すような行為で、大手のスポーツ新聞社までいわゆる「こたつ記事」を書き散らしている。私はこたつ記事すべてを否定はしないし、むしろ有用な場合もあると考えているが、それが他人の迷惑どころかねつ造のような形となるなら最悪である。

 1月24日、デイリースポーツ新聞社の媒体「よろず~ニュース」が「仁藤氏、射殺された安倍氏は“自業自得”と主張」と書いて裁判で負けたが、これなどはTwitter(現、X)の当該人物のアカウントにこんな直接的な文言はない。ツイートの大半を引用したことはともかく、デイリースポーツ側の「記事を読めばわかる」という主張は先の手口やら、レトリックとしての話なのだが、苦しい。

 実際、判決は見出しのみを対象にデイリースポーツ側の敗訴とした。

 本稿で言及している羽生結弦の文春記事も酷い話なのはもちろんだが、このデイリースポーツの件は首相の射殺事件であり、それに対しての意見を、実際に書かれていない「自業自得」という言葉でタイトルとして括ってしまった。さすがにこの括りでは無理筋だ。当該人物およびその団体が誹謗中傷などで実際に被害を受けていることが立証されていることもあり、いくらなんでも、という話である。

 私も高校卒業後、最初の勤め先がこのデイリースポーツ新聞社のアルバイト社員であった。まあ、下っ端も下っ端の立場から見ても、「当時からこんなもの」という感想はあるが、地方紙の雄、神戸新聞社傘下でもこうした雑な記事を撒き散らしているという現実はある。

羽生結弦がこれまでにどれだけ身を切って、自分の私的な人生まで犠牲にして

 それにしても許せないのは、羽生結弦がこれまで、どれだけ身を切って、自分の私的な人生まで犠牲にして、多くの人々のために無私の行為を繰り返してきたというのか、そうした行為をこんな雑な記事1本で汚すことだ。

 自分が何者になるかもわからない、資金もない、協会も頼りない(あくまで私見)、人生すら見えない、それどころか被災者でもあった時代に出版した自伝『蒼い炎』の印税全額を寄付した高校生、羽生結弦が、それ以降もどれだけフィギュアスケートを志す子どもたちのため、被災した東北のため、そして多くの艱難辛苦があってもこの国で、いや世界で生き続ける人々、生きようとした人々のために身を切ってきたか。それを誇るでなく、言い立てるでなく続けてきた。羽生結弦とはそういう人だ。それを、謂れもない記事で汚す。

 羽生結弦のプライベートを書き立てることもアレだが、この仙台の新リンクについて羽生結弦のリンクだ、税金だと、そうではないのに書き立てる。これはさすがに酷い。まして書き手は個人名を名乗らず「週刊文春」編集部。この程度の内容で編集部の体をとって記者自身は隠れて書く。天下国家に反駁するための匿名でもあるまいし、天下の文春ともあろうものが、恥を知れ。

 ということで、私はこうして書くことにした。

 もっとも、まったくこの文春の記事は話題になることもなく、地元仙台でも何にもリアルな声は上がらず、PV(ネットニュースでどれくらい読まれたかの指数)もどうやらたいしたことはないままに尻窄みの状態となった。

 これほど出来が悪いのでは、さすがに文春のブランドでも読まれないということだ。

 それでも、羽生結弦のこれまでの生き様を汚したことには変わりない。この程度では汚れる生き様ではないが、それでも腹が立つ。理不尽かつ雑な内容で汚した。

 だから書いた。そういうことだ。

羽生結弦は、大丈夫だ。私たちも、大丈夫だ

 こうして蒸し返すことは嫌だが、繰り返し書かなければ、端緒に声を上げなければやりたいようにされてしまう。その「やりたいようにする」側にもなれるメディアの一員である私だからこそ、自戒も込めてここに綴った。

 もっとも、佐賀公演の大成功もあって、書こうかどうかの佐賀入り前に比べれば、若干おだやかな気持ちになってしまっているのだが。

 その日の江北駅。終電を待つ佐賀の夜もまた、羽生結弦の見上げた夜だった。

 こうして私たちは羽生結弦と、いつも同じ空を見ている。星がなくとも星は雲の先にある。月がなくとも月も雲の先にある。羽生結弦と共に。

 何度でも書く。羽生結弦は、大丈夫だ。私たちも、大丈夫だ。さあ横浜、そして『notte stellata』が待っている。

 (了)

この記事の著者
日野百草

1972年、千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。国内外における社会問題、社会倫理のノンフィクションを中心に執筆。ロジスティクスや食料安全保障に関するルポルタージュ、コラムも手掛ける。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。

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