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[戦後78年]翻弄される人々<中>
アトリエに立てかけられた縦2メートル、横3メートル超の絵画。「地の痕跡」というタイトルの大作は、秋田大名誉教授の画家・佐々木良三さん(87)(秋田市)が今年発表したものだ。日本兵が身に着けていた
少年の頃、満州国の崩壊に巻き込まれ、数え切れないほどの死に接してきた。「絵は自分自身を表現するもの。死体や骨は、戦争によって私の中に染みついている」と静かに語る。
秋田県松ヶ崎村(現在の由利本荘市)で生まれ、7歳だった1943年、周辺町村の農民らでつくる開拓団の一員として満州に渡った。団長は県の官吏だった父・三郎さん。1040キロ離れた
大陸は広大だった。父とキジ猟に出かけたり、湖に潜って魚を捕ったり。「両手で抱えきれないほど大きな魚を捕まえた。食料になるってみんな喜んでくれた。うれしかったなあ」
45年8月9日。ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、160万人のソ連軍は動き出した。満州で暮らす邦人の運命は暗転する。
佐々木さんは、炎に包まれた我が家や学校を振り返りながら、開拓団の300人とともに山に向かって逃げた。それが逃避行の始まりだった。
暴徒化した中国人に食料を奪われ、立ち向かった小学校の校長は殺された。8月15日に終戦を迎えたことも知らず、野宿を繰り返して母国・日本を目指した。運良く列車に乗ることができたのは40日後。営城子から400キロ離れた街だった。
9月22日、すでにソ連の支配下に置かれた新京(現在の長春)に流れ着き、収容所に入れられた。20人以上が10畳ほどの部屋に押し込められ、食料は配給されるわずかなコウリャンだけ。発疹チフスなどの伝染病が
45年11月、父・三郎さんが病に倒れた。開拓団員の手を取り、弱々しい声で「良三を国に届けてくれ」と言い残し、50歳で世を去った。仲間に背負われて墓地に運ばれていくとき、大柄だった父の足は石畳に引きずられていた。
46年春、開拓団の引き揚げが決まった。遺骨だけは古里に戻したい。墓地から掘り起こした父の顔は面影を残していた。まきで炎をおこし、その上に鉄板を置いて遺体を焼いていく。涙は出なかった。「人の死に慣れ、感情がマヒしていた」。すでに逃避行を共にした300人の開拓団員は半数に減っていた。同7月、三郎さんの骨つぼを抱え、故郷の秋田に帰った。
戦後、大学に進学し、絵画を専攻。秋田大教授として30年間教べんを執った。現代画家として活動を続け、今も毎年、作品を発表している。佐々木さんの絵に美しい花や風景は出てこない。死体や人の体の一部を頻繁に描く。「幼い頃の満州の経験が強く残っているからだ」と語る。
ロシアによるウクライナ侵略では、民間人が無差別に殺害されている。露軍の兵士による拷問や性的暴行も指摘されている。
「なぜ人間同士が戦い合うのか。その原点に立ち戻って考える必要がある。多くの人が戦争を語り伝えているが、絵で表現するのが、私の仕事だ」。そう思いを募らせている。(鈴木経史)
◆満州国= 1932年3月、現在の中国東北部に建設された日本の傀儡(かいらい)国家。漢・満州・朝鮮・蒙古・日本の「五族協和」の理想郷と吹聴され、日本各地から800の「開拓団」が渡ったが、先住の中国人を立ち退かせ、入植することが多かった。45年には155万人の日本人が居留。終戦に前後して20万人以上が死亡したほか、多数の残留婦人・孤児が生じた。
遺骨収容数 減少傾向に
第2次大戦で日本人は、軍人と民間人合わせて240万人が海外で死亡した。遺体の多くは現地に残され、今年3月時点で112万柱が未回収のままだ。
厚生労働省は、中国など相手国の事情で収集が困難な23万柱と、沈没した艦船の乗員など技術的な制約がある30万柱を除く59万柱を中心に回収を進めている。
ただ収容数は減少傾向にある。特にコロナ禍の2020~22年度は海外での回収が思うように進まず、3年間で299柱にとどまった。厚労省は戦友や遺族の情報に基づいて埋葬場所を特定してきたが、戦争体験者の高齢化が進み、新たな情報を得ることが難しくなってきた。そこで現在は、米英など交戦国の戦闘記録から、日本人の埋葬場所を推定する作業を進めている。
実際に遺骨を収集するには、情報を得て現地に赴き、試掘をして出てきた骨が日本人のものか確認する必要がある。遺族の元に遺骨を帰すためには、時間の壁が立ちはだかっている。