俺たちは走った。
ただ生きるために。
死なないために。
村に帰るために。
幼馴染を守るために。
それから……。
それからどれくらい経っただろう。
「……はぁ、はぁ……ここまで、来れば……」
馬車が横転した場所から、かなり離れたところまで来た、と思って俺がそう呟く。
けれどジンリンが、
「……レ、レント……」
と、恐怖に染められたような、震える声でそう言い、俺の前方を指さしていた。
そこに何があったかなんて、もう明らか過ぎて改めて説明する気も起きないほどだな。
つまりは、あの邪な狼が、そこにはいたのさ。
その血走った瞳で、けれどどこか冷徹な獣の意志を感じさせるその瞳で俺たちを見ていた。
考えてみればおかしかったんだよな。
子供の足で、あんな魔物から遠くまで逃げられるはずがないのに、結構走った。
それってつまり……遊ばれてたってことさ。
あの狼の魔物は、俺たちで遊んでたんだ。
どこまで逃げるか、どこまで必死に走るか、それを見物してたんだ。
酷い話だよ。
まぁ、それでも、そんな狼の遊びもそこで終わりさ。
さっきまで影も形も見せなかったのに、そうして目の前に現れたと言うことは、もう飽きた、ってことで間違いない。
ただ、当時の俺にはそんなことは分からなかったから、逃げなければって思ったよ。
でも、もう足が言うことを聞かないんだ。
ジンリンにしても、一歩も動けなさそうで……。
どうしようもなかった。
だからってわけじゃないが……俺は、狼の前に立った。
あんまり賢くないと言うか、意味のない行動だっただろうな。
でも、もう出来ることはそれしかなかった。
ジンリンを守るためには。
彼女の命をつなげるためには。
彼女が逃げる間、俺がそこで殺されている間に、ジンリンが逃げれば……。
そんなことを思ってしまった。
手を広げ、狼を見つめ、ジンリンに言う。
「ジンリン、逃げるんだ。ここは、僕に任せて……」
言った俺に、しかしジンリンは首を振った。
狼は見物していた。
何があってももう、逃がさないという余裕だったんだろう。
実際、もう逃げるのは無理だった。
俺が犠牲になろうがどうしようが。
でも、そんなことは俺には分からなかったから……。
「ダメだよ! レント、私……私!」
「いいから早くするんだ! ここは、僕が……!」
そんな押し問答を何度かして、それで、とうとう狼も飽きたらしい。
ふしゅるる、とため息のようなものを吐き、それから腕を上げた。
ゆっくり、ゆっくりと。
その爪の先は鋭く尖っていて、未だに血が付着しているのが見えた。
あれは、プラヴダ、それに俺の両親の血だったのだろう。
あれに貫かれ、引き裂かれ、彼らは死んだのだ。
俺も数秒後には同じことになる……。
でも、それでジンリンが逃げる時間は稼げる。
それならそれで、いいんじゃないか……。
そう思って、いっそすっきりした気持ちでそこに立っていた。
立っていたのに。
目をつぶって、狼が腕を振り下ろす風を感じた、その瞬間、
――トンッ。
と、何かに押された感触がして、俺は転んだ。
そして、予想していた爪の衝撃はいつまでも襲ってこなくて……一体なにが、と思ってゆっくりと目を開けたんだ。
そうしたら、そこには考えうる限り、最悪の結末が、最も見たくないと思っていた光景が、存在していた。
「……レン、ト……」
「……ジンリン……?」
ぽつり、とつぶやくように俺の声を漏らしたジンリン。
彼女の口から、たらりと血の筋が滴り落ちていた。
そこから視線を下の方にずらしていくと、胸元辺りから、鋭く生えるものがある。
……狼の、爪……。
俺が刺されるはずだったのに。
ジンリンは代わりにそれを受けたんだ。
受けて……。
それから、ゆっくりと、ジンリンの胸元からそれは抜かれていった。
びしゃり、と血が噴き出る。
ジンリンがどさりと、地面に倒れ、そこから血の池が広がっていく。
「……ジンリン……ジンリン!! ねぇ! ジンリン!!」
俺は駆け寄って、さけんだ。
狼?
もうどうでも良かった。
殺されようが何だろうが。
いつでも好きなときにやれと思っていた。
それよりも、ジンリンだ。
彼女を、彼女を助けなければ。
こんなに血が出て、顔はどんどん白くなっていく。
どうやったら、死なないで済む?
どうすれば……。
でも、考えるだけ無駄だった。
「……レン、ト……ごめん、ね。私……もう」
「ジンリン……いいから……喋らないで! 死んじゃう……死んじゃうよ……!!」
「お父様と、お母様に……ごめんって、言っておいて……レントは、生きて……いつか結婚、したかった、の……」
「しようよ……生きてれば……出来るよ……」
「ふふ……私が死んでも、他のだれかと……しあわせに、ね……」
人の死ってあっけないものだよな。
そこで、急にジンリンの体から力が抜けたんだ。
それで、もう……。
いくら話しかけても動かなくなってしまったよ。
「ジンリン……ジンリン……! どうして……!」
俺は、そこでそう叫んだ。
もう、本当に何もかもどうでも良かった。
伝言も頼まれたけど、どうせ目の前には狼の魔物がいるわけだし、どうしようもないしな。
良くも悪くも吹っ切れてしまった。
だから、転がっている棒切れを拾って、構えたよ。
狼に向かってさ。
愚かな行為だ。
どうやったって勝てっこないのに。
素直に逃げた方が、ずっと生き残れる可能性が高いのに。
ただ、どうせ死ぬのなら、戦って死のうと、そのとき思ったんだ。
それで俺は……。
狼はそんな俺を面白そうな目で見つめて、先ほどまでのだらりとした立ち姿から、得物を狙うような構えに変えてこっちに体を向けた。
やっぱりさっきまでは適当と言うか、遊んでいたと言うか、そんな感じだったんだな、とそれでわかった。
なぜ俺が構えると、まともに戦う態勢にしたのかは分からないが、あの狼なりの美学があったのかもしれないな。
本人……本狼に聞かないと分からないけど。
それで、俺は棒を振りかぶって、狼に向かった。
構えは無様で、振り上げ方も酷くて、走る速度もどたどたとして。
とてもじゃないが魔物に立ち向かえるようなものじゃなかった。
けど、別にそれでよかった。
俺は戦いに行くんじゃない。
どっちかと言うと、死にに行ってたんだから。
狼はそれを分かってか分からないでか、楽しそうな目をして、それから口を大きく開いてこちらに向かって来た。
あれでかみ砕かれるのか、俺は。
そう思ったけど、恐ろしくはなかった。
俺の目の前に、狼の大きく開かれた口が迫る。
あの中は、柔らかいかもしれない。
木の棒でも、傷くらいはつけられるかもしれない。
そう思って、俺はそこを狙って棒を振り下ろす体勢から突きのそれへと変えて、前に向かって伸ばした。
意外なことに、木の棒は、狼の歯茎を掠めるように少しだけ、傷をつけたよ。
まぐれか、狼が気を抜きすぎたか、わざとか……それは分からなかった。
けど、俺はそれを確認して、満足した。
一矢報いたな、とそう思って。
そして、狼の牙にかみ砕かれる覚悟をして、力が抜けた。
ああ、終わった。
そう思ったそのとき。
――ガキィン!!
という音がして、狼の牙が防がれた。
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