全部、たいしたことではない。
時折、この世の中を「死なせてくれない社会」だと思うことがある。延命措置が発達すると、死に対して脆弱になる。何としてでも生きろと言われて、死ぬことが許されなくなる。楽になることが許されなくなる。風通しが悪くなり、息苦しさを覚えるようになる。生が日常なら、死もまた日常である。死ぬことが非日常に設定された社会では、永遠に生きるつもりで日々を送るようになる。モノを増やし、情報量を増やし、堆積物に埋もれるようになる。死という自然が排除されて、人は必ず死ぬということを忘れる。そして、いざ、誰かの死を目の当たりにした時に、慌て、悲しみ、ジタバタする。死を意識することで、ちょっとは生きやすくなる。
バイク事故に遭った時、強烈な痛みと共に安心感を覚えた。すぐには言語化できなかったが、事故に遭ったことで「具体的な問題が起きた」ことが嬉しかったのだと思う。頭の中で観念を転がしているだけとは異なる、具体的な痛み。後日、バイクは廃車となった。金銭的には大幅な損失だが、安心感の正体は「罪からの解放」だと思った。事故が起きるまでは、バイクを手放すだなんて考えてもいなかった。当たり前に共にあり、死ぬまで乗り続けるだろうと思っていた。そんな「当たり前にそこにあるもの」が消えてなくなった時、私の生き方も変わらざるを得なかった。自分では手放せないものを、代わりに手放してもらったような感覚を覚えた。
モノを持つということは、同時に責任を伴う。モノを持っておきながら、それを大事に扱うことができていないことは、想像を超えたストレスを与える。それは、大袈裟な言葉で言えば罪だと思う。無意識の間に罪悪感を溜め込み、所有物の責任に押し潰される。だが、永遠に生きるつもりでいる私たちは、なかなかモノを捨てることができない。安全が保障され、安心が保障されているように見える世の中では、今よりも「いつか」が大事になり、いつかのために今を犠牲にするような生き方に侵食される。小さな死の体験が、その幻想をぶち壊した。死は、すぐそこにある。当たり前のことだが、死ぬ時には、金もモノも持って行くことはできない。
生かしてやれないことは罪になる。その罪から解放されたのだと思う。少なくとも、自分にはその罪があると言うことを自覚させてくれた。それが、嬉しかったのだと思う。増やすのではなく、減らす。本当に大事なことに集中する。能動的な変革が断捨離なら、受動的な変革が事故や病気や災害なのだと思う。自分では捨て去ることのできないものを、自分を超えた力が半ば強制的に引き剥がしてくれる。変容せざるを得ない、ある意味「これまでの自分が一回死んで、新しい自分になって生まれ変わる」とも言えるような、破壊と再生。死は、忌避すべきものではない。死が、教えてくれることがある。
それは「全部、たいしたことではない」ということだ。やがて訪れる死に対して、私たちは平等だ。勝ち組も負け組も、金持ちも貧乏人も、等しく死ぬことを経験する。万物は流転する。調子がいい時は、誰でもメンタルは強くなる。問題は、逆境の時だ。元気な時に「この調子で行こう」と思うように、逆境の時も「この調子で行こう」と生きることが、自分の軸を作る。逆境も続かない。万物は流転する。できることを、一つ一つやればいい。何もできない時、じっと耐えるだけでも、忍耐という善ができる。調子がいい時も、調子が悪い時も、よし、この調子で行こうと思うことが、自分の軸を作る。本当は、逆境なんてないのだと思う。順境も逆境も続かない。すべてに等しく終わりが来る。その点において、一人残らず絶好調なのだと思う。全部、たいしたことではないのだと思う。