第4話 稲尾邸の朝

 吊り下げ式のサンドバッグに左右のジャブを打つ。すかさず右のアッパーカット、左のレバー。そのサンドバッグは妖力を込められており念動力で動くものであり、すぐさまぐんっと動いて反撃してきた。

 打ち当たれば吹っ飛ばされる。燈真は右に回り込んでワンツーコンボ、再び飛んできたサンドバッグを今度は左に回り込んで回避する。

 左を前に出した構え――これは燈真が喧嘩においても左で牽制しつつ、カウンターで強烈な右を叩き込む戦法を取るのが理由だ。

 左のフックを打ち、そして右のストレート。布の切れ端が詰まったサンドバッグがくの字に折れ曲がり、力無く垂れ下がった。

 術によって設定されていたダメージの値を超えたのだ。言い換えれば、ヒットポイントを削り切ったわけである。


 グローブもつけず素手で打ち込んでいたが、平気だった。霊障を受けてからと言うもの、体がどんどん変わっていくのがわかる。

 初陣以来、この一週間で三回実戦を経験した。傷を負ったこともあったが、死んでいない。着実に腕が上がっているのがわかる。けれど、それが自分の求める強さではないことは、いまだはっきりしている。

 具体的にどうなれば強いと言えるのか――その言語化ができていない。


 どのような分野でも、目的をはっきり言語化できるかどうかで上達速度に雲泥の如き開きが出ると言われている。

 言語化とは目的地を明確にするだけではなく、そこに至るという決意表明でもあり、いわば背水の陣で挑む覚悟の表れでもあるのだ。

 夢に立ち向かうための戦いを恐れ目的をもごもご言い訳するか、周りに馬鹿にされること覚悟で目標を言い切るか。その時点で、勝負は始まっている。


 そう言う意味では、自分はまだ勝負の土俵にすら上がっていない。


「とうまー」


 舌足らずな少女の声がして、少し考え込んでいた燈真は顔を上げた。

 鍛錬を行う武道場の玄関に、ちんまい狐少女がいる。

 二本の白い尻尾は先端が紫色で、可愛らしいくりくりした目も紫。その月白げっぱくの毛髪と紫の瞳は、稲尾一族の証――稲尾椿姫の妹であることを示していた。


すずな。どうした」


 諸肌脱ぎの着物を着直し、兵児帯へこおびを結び直す。彼女の実年齢は二十一歳。とはいえ人間換算で十歳前後の女児の前で、年頃の男子が上半身裸は行儀が悪い。


「あさごはん。もうじきできるって」

「あいよ、雑巾かけたら行くから」

「ムフー。てつだってあげよっか?」

「バーベルとか落ちてきたらあぶねーだろ。椿姫たちのとこ行ってろ」

「むう」


 菘は口を尖らせて去っていった。不満げに尻尾を一度だけ、ブンッと振りながら。

 燈真は傍にかけてある雑巾を掴み、水道で濡らして硬く絞り、雑巾掛けを始めた。

 それを済ましてから外に出ると、恐らく菘が持ってきたのか、着替えの着流しが置いてある。感謝しながらそれを抱え、裏の井戸で汗を流して着替えた。


 ここにきて早二週間ほど。八月に入り、妖怪の隠れ里にも本格的な夏がやってきた。

 多数のセミが、この稲尾邸が所有する山でやかましいくらいに鳴いている。本州では土地の開拓が進みすぎてセミが減少したり、農薬を撒き散らされて虫が減っているせいで雀さえ見かけないほどというが、裡辺ではそんなことはない。

 この土地は、今だからこそわかるが、妖怪との縁が深い土地だ。いわゆる背広組政治家というのは妖怪を認知しているらしく、例の魍魎から守ってもらう代償に、自然を保持する政策を優先しているらしい。


 ただ、椿姫が言うには「私たち妖怪の中にはダイダラ様って方がいるから、その気になれば国づくりもできるのよ」とのことだ。

 妖怪が持つ妖術という力は、科学技術の完全上位互換である。そのダイダラ様とやらはダイダラボッチともいうらしく、人間風に言えばテラフォーミングのような真似を平然と行えるらしい。神に比肩されるほどの妖怪ともなれば、その妖術の規模は天変地異どころではないようだ。


 武道場から本館に戻る。稲尾の屋敷は本館と別館のほか、武道場といくつかの蔵、離れがある。

 当主の座を引退したのち千年に渡り子孫の繁栄を見守ってきた稲尾柊――燈真たちの師匠は、その昔朝廷から褒美をもらうほどの働きをしたそうだ。

 平安時代の頃は、人間も妖怪も混じり合って暮らしていたらしいから、妖怪が人間から褒美をもらうことも度々あったらしい。


 そんなことを考えながら一階の居間のふすまを開けると、さっき燈真を呼びにきた可愛らしい妖狐の菘が、姉に甘えていた。


「おねえちゃん、しっぽモフっていい?」

「もうじきご飯なんだから後にしなさい」

「むう」


 その隣で黒髪に飴色の目をした女――猫又の霧島万里恵きりしままりえが四本に分かれた尾を振りながら「じゃあ私もあとでモフっていい?」なんて聞いている。

 対面の席では光希が麦茶を飲みながら、やはりクロッキー帳の薄い紙にボールペンでスケッチをしている。その対象は、隣に座る妖狐の少年だ。

 三尾の彼は稲尾竜胆いなおりんどう。椿姫の弟で、菘の兄だ。人間換算にして十四歳ほどの少年である。


「おう、朝から精が出るな」


 上座でどっかりあぐらをかいて座っているのは、この世のものとは思えぬ絶世の美女。

 月白の毛髪、紫の目――九本の尻尾。稲尾柊そのひとだ。

 ダイダラ様と同じ、天変地異規模の術を扱える神格級妖怪の一体。


「本当にな。兄弟子も姉弟子もぐっすりだったもんな」


 燈真が嫌みたらしくいうと、椿姫は「私は偉いからいいのよ」と開き直り、光希は「俺コンテストに出す作品書いてたし」ともっともな理由を口実にした。

 椿姫の言い訳はさておき、光希は将来画家になることを夢見ているらしい。暇さえあればスケッチしているのも、それが理由だ。彼は隠れ里にいる間も人間のフリして現世に出向く際も、必ずスケッチセットを持参する。


「みんな、朝ごはんよ。運ぶの手伝って」


 居間から炊飯器を二つ提げて持ってきたのは、化け狸の山囃子伊予やまばやしいよである。無言で椿姫と万里恵が立ち上がり、配膳を手伝う。

 誰が決めたわけではないが調理・配膳は伊予と椿姫と万里恵で、皿洗いは男組であった。柊は自称「オババなので腰が悪い」と言って、傍観している。その外見は三十代半ばの美女だが、中身は大和時代生まれの老狐なのである。


 さても座卓に並んだのは湯気を立てる美味そうな朝餉あさげだ。

 炊き立ての白米に、だし巻き卵、塩鮭と大根おろしに、味噌汁と揚げなすの煮浸し、それから味付けのり。健康的な朝食である。


「それじゃ、いただきまーす!」

「「いただきます」」


 いただきますの音頭は菘が取る。これも不文律だ。

 光希が竜胆に「竜胆、醤油取って」と言うと、醤油に最も近いのは燈真だから当然竜胆が「燈真、醤油取って」と言ってきた。

 これもいつものことだ。燈真は自分の小皿に醤油を垂らしてから竜胆に渡す。


「あっ、妾はまだ醤油を垂らしておらんぞ」


 柊が虚しげに手を伸ばすが、もう竜胆が光希に渡している。


「光希、次私ね」「そのつぎわっちね」「菘、終わったらお姉ちゃんね」


 柊の順番がどんどん遠のく。醤油を使わない伊予は控えめに笑いながら、のりの小袋を破っていた。


「全く、最近の若いのは敬意が足りておらんな」


 ぶつぶつ文句を言いながら、柊は味噌汁を啜った。

 余談だが、稲尾家の味噌汁には必ず油揚げがたっぷり入っている。さすが妖狐の家なだけある特徴だ。燈真も刻まれた油揚がたっぷり入った赤出汁の味噌汁を啜った。

 朝食は平和に進んでいった。大食漢の燈真と椿姫がそれぞれ二回と一回おかわりし、燈真は竜胆が食べきれないと残した煮浸しをもらい、あとは光希がブヨブヨしていて嫌いという鮭の皮をもらった。

 食べ盛りの子供が増えたことで、伊予は微笑ましいものだとばかりに笑っていた。どうやら「稲尾家のお母さん」である伊予にとっては、作業が増えることより子供の笑顔の方が大事らしい。


 昔から狸は飯炊き、なんて言われている。他の生物の巣穴を再利用する性質から、その巣穴で飯炊きして他の動物を支える——なんて考えがあったらしい。また、狸の目元が黒いのも飯炊きをして煤で汚れたからだという意見もある。

 伊予はそういう意味でも狸らしい女性だった。実際のところは柊が——九尾の妖狐がなくてはならぬ右腕、と言い切るほどの存在だが。

 尻尾の数も普段は一本だが、実際は八尾——らしい。椿姫曰く、そうだという。


「ごちそーさまでした!」

「「ごちそうさまでした」」


 菘の満足げな声に合わせ、燈真たちも合掌する。

 皿を手に厨房に向かい、燈真と光希、そして竜胆は袖を捲って紐で縛り、皿洗いを始める。


「燈真、お前いっぺん現世に戻らねえか?」


 ふとした時に、光希がそう切り出した。


「ああ……でも俺、帰る家とかねえんだよな」

「どういうこと?」


 竜胆の疑問に、燈真は手を動かしながら答える。


「親父は仕事場から帰って来ねえし、家には再婚相手のクソ女が居座ってるし。居場所がねえ」

「フクザツな家庭なんだな。俺もあんまひとのこと言えねーけど」

「それでも一回は戻るべきなんじゃない?」


 竜胆がそう言って、燈真は確かにな、と思った。

 妖怪になった云々の話はしないが、これからの人生の——妖生じんせいの進路を告げる意味でも、一度、あの女にも義弟にもはっきり物を言うべきだと思った。

 義母に会う——そう思うと胃がじくじく痛んだが、何よりまずは実父に会う。その上で、事情を知る父に打ち明ける。


「わかった、いっぺん顔出す」

「俺、付き添ってやろうか?」

「なんでさ」


 皿を冷水で注ぐ。山の中の水道なので、夏場でも水がしゃっきり冷えている。


「いや、現世に行って画材を買いたいなって思ってさ」

「それが本音だろ。まあいいけど」


 否定する理由もないので、燈真は許可した。

 隠して、燈真は二週間ぶりの里帰りが決まるのであった。

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ゴヲスト・パレヱド — ようこそ、奇々怪々な妖の隠れ里へ! — 夢咲蕾花 @FoxHunter

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