第2話 強さのための取引

 水の上。

 やたら粘度の高い、黒い水の上。その上を燈真は歩いていた。

 どこへ続いているのかはわからない。光がなく、空もなく、ただ宇宙のような星の海がある。それが反射した足元の水との境界はもはやなく、天地の境目がない。

 自分は寄る辺のない闇を歩いていた。これまでの人生の焼き増しのように。


 遠くから、神楽鈴の音。

 太鼓と、尺八と三味線の音。

 どこから?


 燈真は歩く。後ろから、何かどろりとしたものが迫っているのがわかった。

 全ての生物が——時間という概念から脱却できぬ生物であれば、あまねく者が囚われる「過去」という化け物が、後ろから迫ってくる。

 逃げる。自分は、過去と戦えるほど強くはない。いや——強いはずだと言い訳をしようとして、けれど人を傷つける暴力なんかは強いとは言わないとかぶりをふった。人を傷つけるような力なんかじゃ、どんなものにも立ち向かえない。

 自分が夢想する強さとは、決してそんなものじゃない。


 過去が、腕を伸ばす。首筋に絡みつくそれが顎に爪を立て、情報を流し込んでくる。苦痛と屈辱。そして恥辱。

 幼い頃から見ていた、奇妙な光景。誰も信じず、燈真を嘘つき呼ばわりした。なまじ力がある燈真は、馬鹿にされた怒りが小さな心の器から溢れると、手を挙げてしまっていた。

 そのせいで、誰もが燈真を情緒不安定のおかしいやつ、と嗤うようになった。カウンセラーの世話になり、近所から白い目で見られた。両親はきっと、恥ずかしかっただろう。


 過去が迫ってくる。過去は水だった。足元の硬い水が渦を巻き、燈真を引き摺り込もうとする。

 けれども両親だけが理解者だった。両親もまた、視える側だった。けれどその理由は教えてくれなかった。

 母が死んだ。交通事故で死んだ。大型乗用車と電柱の間でプレスされ、弾け飛んで死んだ。


「はぁっ——ぐぅ……はぁ……」


 父が人が変わったように仕事に取り憑かれた。優しい笑顔を向けてくれることも、酒に酔ってヘタクソな歌を聴かせてくれることも無くなった。見舞いの品に、子供には理解が難しいプラモデルを持ってくることも、もうない。

 再婚相手の女は最悪だった。でも、連れ子は幼く、燈真の八つ当たりの的にするのは違っていると——それだけはわかっていた。

 劣悪な家庭環境、優遇される義弟。そしてそんな幼い弟は事情がわからないから、燈真を兄と慕って甘えてくる。


 地獄。地獄だった。あのマンションの一室は、地獄の具現でしかなかった。


 だから家に帰れなくなった。適当なバイトをして、適当に稼いで、漫画喫茶やカプセルホテルを渡り歩いて過ごしていた。

 畜生。

 ……畜生。くそったれ。ふざけやがって。ぶっ殺してやる。どいつもこいつも、小馬鹿にしたような顔で幸せを謳歌しやがって。

 それを、この、言葉にできない感覚を。渦巻き続ける、埋み火の狂熱を蹴散らして進む強さが欲しい。

 喧嘩じゃダメだった。そんなもの、強さじゃない。暴力と強さは、全く違うものだ。


「——真」


 神楽鈴に混ざって聞こえる声。

 凛とした強さと、柔らかな毛布のような温もりの。それは燈真が求める強さを孕んだ、確かな声音。


「燈真、こっち。私たちと——」


 祭囃子の方に、光。燈真は走り出した。己を掴む過去を引きちぎる。

 まばゆい輝きが過去を吹き飛ばし、苦し紛れに粘度を増す水から足を引き剥がし、進む。

 しかし踏み出した右足が底なし沼のように渦巻く水に絡め取られた。


「!」


 どろ、と沈み込んでいく。けれど燈真は足掻いた。

 光から手が伸び、燈真の左手を掴んだ。


「死にたくないなら、戦いなさい」


 力強くそう言われ、燈真は迫ってくる過去に、右の拳を振るった。


「退けぇっ!」


 拳が打ち据えた瞬間、過去が弾け飛んだ。

 燈真は光から伸びる手を強く握り、這い上がった。体がふわりと上昇し、闇から引き剥がされていく。

 遠ざかっていく下方で、「過去」が、とぐろを巻いて地鳴りのような唸り声を上げていた。


×


「————ッ!」


 ガバッ、と燈真が体を跳ね上げた。仰向けの状態から急に持ち上がった上半身に、白髪の少女が「おわっ」と仰け反る。

 そこはどこかの和室だった。畳の上に布団が敷かれ、自分はそこで寝ていたらしい。木目調のタンスやらが置かれ、テレビやなんか、エアコンもある。向かって左側には広縁がある。差し込む夕陽が、きらきらと池の水面を反射していた。

 自分の家ではないし、ましてホテルでも漫画喫茶でもない。ここは……。


「大変な霊障だったわね」

「レイショウ?」

「臨死体験って言った方がいいかしら。あんたに噛みついたあの化け物は魍魎もうりょうって言ってね。負の情念が物理的に受肉した生物よ。あんたも感じたんじゃない? あいつが——」


 少女が言わんとすることを察し、燈真は言葉を引き継いだ。


「死の実体化」

「そ。だからあいつに初めて傷を与えられると、臨死体験をする。個人差はあるけど、あんたはヤバかったのよ。あの、警察のお兄さんは死んだおばあちゃんと会話してすぐ戻って来れたみたいだけど」

「……最悪の気分だ」


 自分の弱さを突きつけられてしまったから、とは言わなかった。言い訳じみていて、余計、弱っちく女々しい。なんとも、惨めな気分になってしまうのは分かり切っていた。


「でしょうね。……燈真、あんたに色々伝えなきゃいけないことがあるんだけど。まずは自己紹介ね」


 ニットにストレッチ素材のジーンズという格好の少女は居住まいを正し、名乗った。夏場だと言うのに、暑くないんだろうか。


「私は稲尾椿姫いなおつばき。実は随分前に、顔を合わせたことがあるのよ」

「そう——だっけ? 悪い、覚えてない」

「ふん。さて……燈真、あんた不思議なものを見たり聞いたりしてたでしょ。それこそああいう、魍魎とかも見てたんじゃない?」

「なんでそのことを……」


 椿姫は「やっぱりね」と呟き、そして軽く手を振った。

 すると頭頂部に狐の耳が現れ、尻からは五本の白い尾が生えてくる。その先端が紫色で、瞳も茶色から紫色に変わる。


「!」

「コスプレでも、プロジェクションマッピングでもないわよ。こういう存在なの。わかるでしょ、日本特有の文化よ」

「妖怪……」

「そういうこと。すんなり受け入れるあたり、視える側だったってのは本当か……。そりゃそうよね、あんたには鬼の心臓が宿ってんだから」


 鬼の心臓? 燈真は己の左胸を見た。着させられていた襦袢じゅばんをはだけさせ、小さい頃移植手術を受けた部分を見て——。いや、移植……?


「叔父さんは、妖怪だったってことか?」

「お、そういうこと。正確にはあんたのお母さんが妖怪の血を継いでたのよ。で、長男だった叔父さんが鬼の心臓を継承していて、可愛い甥っ子を心臓病から救うため、提供したってこと」

「提供って……叔父さんはだって、病気で……」

「そうよ。別に自己犠牲をしたわけじゃない。脳の機能がどんどん死んでいく病気で、生前から心臓を燈真に託すって言い続けてたのよ。私は面識があるから知ってる。あんたを弟や息子のように可愛がるひとだった」


 自己犠牲したわけではないと聞いて安心した。燈真が移植を受けたのは六歳の頃である。ずっと病院暮らしで、たまに自宅への帰省が許されたが、幼少期の記憶は常に消毒液の匂いが漂っていた。

 同じ病院にいた叔父は滅多に会えなかったが、よく文通していた。今思えば大人とは思えぬほど字が稚拙な筆致だったが、それも脳の機能が死んでいく病だと思えば仕方ないことだ。

 聞いたところによると、叔父は肉体的にも精神的にも幼児退行していくほど病状が悪化していたらしい。世界的にも事例が極めて少ない奇病だったらしい。脳の機能領域が徐々に潰れていき、最終的には脳死する——そんな病気だったという。


 再び己の心臓に手を当てた。

 力強く脈打つこれが、鬼の心臓。叔父がこれを継承したと言った。ということは、その前の世代の鬼や、その先代もいたわけだ。


「俺が不思議なものを見たのは、移植前からだ。それは、母さんがそういう血を継いでいたからか?」

「そう。漆宮一族は平安時代に発祥を持つ鬼の一族よ。鬼神とも言われた男の心臓を貰い受けた初代が、代々心臓を託して行ったらしいの」


 父は婿養子と聞いている。母は漆宮という家の次女らしく、詳しくは聞いていないが、両親は燈真が「こう」なることを予見していたのかもしれない。


「椿姫、ちょいちょいリアルタイムに叔父さんと会ってたみたいな口ぶりだけど、お前いくつなんだ?」

「今年で六十七。妖怪だから人間とは歳の取り方が違うのよ」


 思わず閉口した。そりゃ、叔父とリアルタイムで一人前の会話や付き合いを持てるわけだ。

 外見は燈真と変わらないくらいの年齢に見えるが、あれは仮初なのか、それとも相応の外見なのか……気になる。聞いたら聞いたで、はぐらかされそうではあるが。


「それについてだけどね」

「? なんだ?」

「霊障を受けたことで、燈真の鬼の因子はこれまで以上に活発になると思う。言ってしまえば妖怪に近づき、そう……妖怪になるということよ」

「俺が妖怪だって?」


 驚きと、しかし同時に納得に近い感情も現れた。

 不思議なものを見る特異体質と、人間とは思えない運動能力。思い当たる節は、思えばいくつもあった。

 妖怪になる——実感がいまいち伴わない。けれど、だからといって人間を卒業することに打ちひしがれる悲劇のヒーローのような気分にはならなかった。

 驚くほどあっさり、受け入れている自分がいる。不思議なものを視てきた側で、その理解が得られない周囲との乖離から、自分が普通ではないという認識の土台が出来ていたからだろうか。


「それはいいけど……ここはどこなんだ。俺の家じゃないのは確かだけど」

魅雲村みくもむら。地図上には存在しない土地よ。妖怪の隠れ里ってやつ」

「そりゃまた景気のいい話だな。元の世界に帰れない、なんて言うんじゃないだろうな」


 椿姫は「そんなことはないわよ」と言った。「だけどね」と言葉を続ける。


「いまの状態であんたを返すのは、あんたにとっても私たちにとっても危険なの」

「どういうことだ?」

「一つ、あんたは根源的な理由がわからないけど命を狙われている。敵が手段を選ばないタイプなら、人里でも構わず襲ってくる。二つ、そのせいで妖怪イコール危険生物と認識されるのがまずい」


 言いたいことはわかる。わざわざ地図に存在しない隠れ里とやらで暮らすほど秘匿性を高めた存在が明るみに出て、ましてそれが害のあるものだと分かれば、最悪駆逐対象として攻撃されるだろう。

 それこそ妖怪だって生き残りをかけ激しい抵抗をするに違いない。全面的な争いになることは避けられないだろう。


「妖怪が敵対されないためにってのはわかるが、俺の命が狙われてるってのは? なんで俺を狙う?」

「あんたが、っていうよりあんたの心臓って言うべきね。さっきも言ったけど、それは鬼神の心臓。その力があれば大妖怪の座に着くことだって夢じゃない」

「猿山のボスなんて、そんないい眺めじゃないぜ」

「町場の喧嘩番長と大妖怪を一緒にするなって言いたいけど……まあいいわ。とにかくあんたを放り出すにはリスクが大きいの。強くなるために心臓を狙う、それはまだわかるけど……問題はわざわざ拒絶反応のリスクを犯してまで、ってところ。その心臓で何をしたいのかがわからない」


 言葉の意味は理解できた。燈真だって死にたいわけじゃない。それは、死そのものと対峙して実感したことだ。あのときはっきり感じた死にたくないと言う感情には、嘘も偽りも、脚色もなかった。

 それから、燈真の心臓を狙う理由も。強くなりたいものが、それを求める。——けれど椿姫が言うには、やはりというか拒絶反応というものがあるらしい。そのリスクを犯す理由と、そこまでして何を為そうというのかがわからない——根源的な理由の部分がこれにあたるのだろう。

 つまり、死を勘定かんじょうに入れてまで手に入れた力をどう使うのか、ということだ。


「一つ、取引しない?」

「取引?」

「あんたをここで鍛えてあげる。妖怪としての振る舞い、戦い方、力の使い方をね。人間として生きることを望むなら、そのあとでも遅くない。変化術を駆使すれば、老化を再現できるし」

「……そっか、妖怪になっていくってことは歳をとるのが遅くなるんだもんな」

「あんたが何を望んでいるのかは、さっき心の中に潜った時ちらっと見た。そのための強さにも、手が届くかもしれない」


 燈真はハッと顔を上げた。

 強さ——腕っぷしではない、そういう下賎な強さではない、もっと本質的な強さ。

 椿姫が勝気な笑みを浮かべて、手を差し出してきた。


「俺は何を差し出せばいい? やっぱり心臓か?」

「そうね……お酒と、稲荷寿司かな」


 燈真は椿姫の手を取った。力強く握りしめられる。互いに取引に応じる硬い握手を交わした。


「取引成立ね。あんたの家族には、知り合いがしっかり話を通すから大丈夫」

「助かる。あの警察の人は?」

「腕を六針縫ったけど、命に別状はない。あんたに、ありがとうって言ってたわ」

「ならよかったよ」


 燈真はそう言われ、己の腕を見た。包帯が巻かれている。

 広縁を見ると、小さなテーブルと籐家具の椅子が置かれていた。椿姫は立ち上がってその椅子に座り、置いてあった茶請けのようかんを齧った。


「基礎体力は問題なさそうだから、さっそく妖力のコントロールを学ばないとね。それができないと話にならないし」


 そういって、椿姫は対面——おそらくは燈真の分のようかんも己の手元に持っていき、遠慮なく頬張るのだった。

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