ケンワージー中佐は、東條元首相のことを、処刑の4年後に次のように述べている。『私が巣鴨刑務所の獄窓を越えて、有名な東條大将の姿を初めてちらと一瞥して以来、私はかつてただの一度といえども、私が彼の「看視者」であり、彼が私の「囚人」であるといったような気持になったことはなかった。大将と私との関係はむしろ「先生」と「生徒」というような関係だったのである。もちろん、先生は彼であり、生徒は私だった。
私が東條大将からまず第一に教えられたものは「寛容」ということだった。私は自分の同僚にもあるいは自分の環境にも、絶対に腹をたてないという寛容の美徳を彼から学びとった。そして一度この寛容の徳をしっかりと身につけた者の魂と心は、どんなに厳重な房の窓も、いかに高い刑務所の壁も、もはやこれを遮りとどめることができない、ということを知るようになった。巣鴨刑務所における東條大将は、既にこんな境地にあったのである。かくて大将は刑務所内の同囚の人々はもちろんのこと、この浮世の皮肉な運命によって、一時彼を監獄のなかに押しこめておく立場に立つわれわれ「看視者」の者たちにも、インスピレーションをもたらす指導者になりきっていた。
東條大将の家族は、非常にしばしば面会にやってきたが、大将の家族に対する愛情も美しいものだった。私はこうした面会にはおりおり立ちあっているので、彼の家族に対する深い愛情と献身の美しさを物語る、いろいろと小さな挿話を知っている。だが、限られた面会時間に、東條大将がその愛する家族とむつみあう一時を、できるだけ邪魔しないように、遠くからそっとその美しい情景をながめていた私は、これを全く同じ理由によって、こうした挿話の数々は彼の家族と、そして許されるならば「沈黙の立会人」であったこの私の記憶のうちに、そっととっておかるべきものと思う。ただ最後に一言するならば、東條大将は家族に限りない愛情を注ぐ夫であり父であったと共に、永久のサムライであった』
「米憲兵隊長・市ヶ谷の記録」『文藝春秋』昭和28年1月号
2,486