pixivは2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
pixivは2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
キャプションは読みましたか?
なんでも許せる方向けです。
─────………
パラパラと難解なページを捲る。羅列されている文字は分かるが意味までは理解できない、というより脳が思考を放棄している。何冊か手に取り、また同じ行為を繰り返したところでパタンと表紙を閉じた。
「……」
何やら気難しそうな本を手に取りページを捲る以外微動だにしない男を横目で盗み見る。長いまつ毛に縁取られた極彩色の鋭い視線は、私がまた思考放棄しそうな長ったらしい文章を追っている。
最近、アルハイゼンが余所余所しい、気がする。気がするだけで実際はそうでもないのかもしれない。何やら書記官の仕事が忙しいようだ、という薄すぎる情報しかないため全貌は分からない。きっと問いかけてもはぐらかされるか君には関係ないと一蹴されて終わるだろう。
「……何か言いたいことでもあるのか」
どうやら視線が煩かったらしい。彼の読書を邪魔してしまったようだ。
「え、あっごめん。邪魔するつもりはなかった」
「構わない。それで?」
「えー、あー……アルハイゼンの仕事が一段落したらまたどこか出掛けたいなって」
咄嗟に出た言い訳は確かに心の奥底で考えていたことだ、嘘をついたわけではない。彼は顔をこちらに向けることなく視線を寄越し「そうか」とだけ呟いた。無理なことは無理だと言う彼の性質上、否定や拒否をしなかったということは「お出掛けしよう」について一考してもらえることだろう。
言葉が足りなさすぎるきらいがあるけれど、私はそんな所も好きだった。ほんの少しの笑みを携えて彼の肩に頭を寄せ目蓋を下げる。彼と過ごす静寂に包まれたこの空間も、私はとくに好きだった。
ある日教令院に本を返す用事があったので珍しく知恵の殿堂を訪れていた。学生の利用が大半を占めるこの場所は、卒業生や一般にも開放されていて利用しやすいものとなっている。
そういえば、最近教令院で大きな事件が起きたらしい。なんでも六大賢者のうち大半が失脚し、アルハイゼンはその後始末に追われているとか。アーカーシャ端末も廃止となりスメールの商業やその他諸々は大打撃を喰らった、というのは人伝に聞いた話だった。といっても商業で打撃を受けたのは私も一緒で、暫くはアーカーシャ端末に頼らないための体制を整えるのに時間を費やした。
それが大分落ち着いてきた頃に本を借りっぱなしにしていたことを思い出した。返却期間はとうに過ぎ、しかし催促もなかったため完全に記憶の片隅に追いやられていたのだ。
「えっと、これはどこにあったっけ……」
返却の手続きのみを終わらせ持っている数冊の本を元あった場所へ戻す。大まかに分けられているから、目印となるジャンルが書かれた仕切りを見つけて大体の場所に。残り2冊、これは確か……。
「……で……。………は…」
「それは……、…。…の……」
微かに聞き覚えのある声がした。聞き慣れた重低音、私が一番心地よさを覚える声。それともう一人、二人……誰か女の子?
近くの本棚に身を潜めそっと声のする場所を注視した。居たのはアルハイゼンと……金髪の女の子、白髪の小さい浮いている子供?
その様子を見るにアルハイゼンが二人の読んでいる本について解説しているように見えた。あの場所に三人がいるということは恐らく古文などの文献か、いずれにせよ知論派の学生たちがよく使用する場所だ。
「あのアルハイゼンが……」
あのアルハイゼンが、他人のために時間を割いている。
いや、今まで見たことなかっただけで、もしかしたらこうやって面倒を見ていたことが過去にあったんじゃないか。
自分が読む本を傍へ置き、指をさして解説する労力を費やしている。
いや、聞かれれば答える人だから、それが自分の得意分野なら尚更説くだろう。
「ん〜……」
少し胸の辺りがモヤモヤとする。漠然とした不満にこれは嫉妬と呼ばれるものだとすぐ考えが行き当たった。情けない、これくらいで悋気を起こすなんて。
それにしてもあの女の子は見たことがある、と言うより既視感がある。それはアルハイゼンの口から二度三度ほどでてきた旅人の蛍と呼ばれる女性だろう。最近忙しかった原因は彼女やその他数名と、とある計画を遂行していたからだとアルハイゼンが言っていた。
何やら大仕事を終えて帰ってきた彼は珍しく疲れ切った色を滲ませていて、それが私の母性を刺激したからよしよしと頭を撫でまくってやったものだ。気に入ったのか何度も「手を止めるな」「もう少し」と強請る姿は凄く可愛かった。
「……じゃなくて」
思考が逸れまくってしまったが、結局のところ彼女は件の旅人だということだ。挨拶をした方がいいんじゃないか、いや仮にもただの恋人がお節介だろう……そうぐるぐると考えてしまうのは時間の無駄だと分かっているのに止められない。
「帰ろ」
やがて導き出した答えは帰宅するという結論だった。何やら盛り上がっている様子だし、水を差すのも野暮というものだろう。あの場に出て行って空気を壊し微妙な空間を仕立て上げてしまうことは本意ではない。
隠れるように本を全て返却し終わり、そそくさとその場を逃げだした。
─────………
「ザイトゥン桃も買ったし、買い忘れもないよね」
迎えた休日、私は日用品と食材を買い足すために店を転々をしていた。あとはアルハイゼンが好むコーヒーの豆が切れかけていたからそれも買って、となるとやっぱりコーヒーに合うのは甘いもの!
「プスパカフェでバクラヴァでも買って帰るか〜」
教令院の学生に人気なスメールの伝統的スイーツ。私もこれが大好きでコーヒーとセットでよく嗜んでいる。プスパカフェへ行くと必ずコーヒーとバクラヴァを頼むのはアルハイゼンに覚えられてしまっているので、私が店員へ注文する隙もなく既にオーダーが通っていることが多い。
この前久々に出掛けたときもそうだったな、と先日の逢瀬を思い出し頬が緩む。冒険者協会の前を通って坂を登り、店のテラス席がまず目についた。
「あれって……」
そこにいたのは旅人の蛍と空飛ぶ少女、そしてアルハイゼン。三人で和やかに歓談している様子が見て取れた。
「……」
ああ、やだな。こんなことで嫉妬するなんて。本来ならアルハイゼンを見かけて嬉しいはずなのに、駆け出す気力も湧かずに立ち止まってしまった。いつか感じたモヤモヤが胸の中に立ち込めている感覚を思い出す。
彼女たちも何かの買い出しの最中だろうか、足元には紙袋が数個置いてあるのが見てとれた。他人との接触を最低限に留める彼にしては珍しく仲のいい友人でも出来たようだ。以前人間関係をもう少し意識してみてはと指摘した事もあったくらいだし、交友関係が広がるのは本来ならば喜ぶべきところだ。
……だというのに。
「なんか、やだなぁ」
ぽそりと零れた独り言は誰に拾われる事もなく空気に溶けていった。
ざわつく心は無視できず、結局バクラヴァをテイクアウトする事もないまま見て見ぬ振りをし、そっと帰路についた。
─────………
「アルハイゼン、コーヒー」
「ああ、ありがとう」
今日はカーヴェさんは居ないらしい。久々に彼の家で過ごすゆったりとした休日だった。音を立てずコーヒーを啜るアルハイゼンが読む本は変わらず難解で複雑な、とりあえず難しい本を飽きもせずに熟読している。彼の横へ腰を下ろし興味本位で少し覗き見るも最初の2行で顔を背けた。
「………ふっ」
「なに」
「いや…」
それに対して少し笑われた気配がしたが気にするだけ無駄だ。アルハイゼンと一緒に居られて、とても価値ある至福のひとときだというのに、私はそれよりも別のことが脳内を占める。
例の旅人、蛍さんのことだ。
正直に言えば彼女の事をどう思っているのかアルハイゼンに率直に聞いてみたい。私以外の女性と接して、話も合うなら尚更少しでも気があるんじゃないかとか、言ったら嫌われそうで怖くて聞くことができない。
「……ん、あれって」
私は私で好きに過ごすか、と視線を少し上に向けた。そこで目に入ったのは食器棚に掛かっていたカーテン。記憶が間違っていなければ以前までそこにはカーテンなどなく、食器棚の扉に嵌まる硝子窓から直接食器類が見えていたはずだ。今はそれを隠すように扉の内側に織物のカーテンが佇み主張していた。
私の呟いた言葉が気になったのか、アルハイゼンば私の視線の先を辿ると「あぁ…」と納得した。視線から食器棚を推測し、以前と変わった点といえばカーテン、つまり私が気になったのはそれか、と1で10を理解する男は答えを導き出した。
「あれは最近買ったものだ」
アルハイゼンは食器棚のカーテンを買った経緯を私へ聞かせてくれた。
曰く、プスパカフェで寛ぐ彼らを見かけたあの日に購入したものだったらしい。以前から様々な種類の食器類が所狭しと並ぶ棚を見て「統一感がない! 」と騒ぎ立てたのはカーヴェさんだった。
「俺は気にしていない」
「気にする気にしないの問題じゃない。これも、この柄も、この部屋の内装と全然合っていないじゃないか!」
「使えれば問題ないだろう」
「実用性と美を兼ね備えてこそ日常が映えるってものだろう!」
そんなやり取りで、食器を替えるか、カーテンか何かを掛け見えないようにしてインテリアの統一をはかるか、この二択をアルハイゼンに迫ったようだった。美とロマンに口煩い彼を始めはスルーしており、アルハイゼン自身もその出来事を脳内から消し去っていた。
そして買い出しに出掛けた例の日、視界の隅に映った織物に先日のカーヴェさんとのやり取りが思い出されることとなる。
「あれっ、アルハイゼンじゃないか!」
「ほんとだ、久しぶりだね」
「……旅人か」
そこへたまたま通りがかったのは旅人の蛍とパイモン。審美性より実用性のアルハイゼンが織物を見ていることは二人にとっては珍しく映ったらしい。
事の経緯を聞くと蛍は以前訪問したアルハイゼンの室内を思い出し、幾つかの織物を提案する。
「買うつもりはないが」
「でもあっても困らないでしょ?」
「……」
確かにその通りだ、実際金もある。何より彼女から提案される織物の質や柄はセンスが良く、確かに己のインテリアとも調和が図れるだろう。という考えに行き着いたアルハイゼンは勧められるがまま購入し、センスのいい織物をセレクトしてくれたお礼にプスパカフェへお茶をしに行った、という流れだったらしい。
「珍しいね、流されたの?」
「あっても問題ないと判断したまでだ」
確かにこの部屋の内装とも合っている。少しも邪魔をする事なく馴染んでいた。まるで最初からそこにあったかのような……。
「……」
また少し心が荒れた気がした。そんな私の胸中など知らぬまま、アルハイゼンは彼女の審美眼について語った。
「旅人はセンスがある」
「また数多くの経験があり見識も広い」
「彼女の処世術には目を見張るものがあるな」
彼にしては珍しく止まない称賛に耳を塞ぎたくなったが、きっと今まで蛍さんと接してきて思い出した事を彼は口にしているに過ぎない。そしてそれは間違えようもなく事実で、彼女と過ごした時間の多さも同時に物語っていた。
「今日はお喋りだね」
ふふっ、とあくまで揶揄うように、他意はないように何気なく放つ。私の言葉にはた、と彼の唇は動きを止めた。そして思考する。
「そうかもしれないな。彼女の話は飽きることがない」
……つまり、一緒に居て楽しいということだろう。彼女の話題が尽きないくらい、アルハイゼンの興味や好奇心が蛍さんに注がれている。そこから得られる新たな知識はアルハイゼンにとって学者としての欲を満たすほどだという。
「そうなんだ、良かった。いいお友達が出来たわけだ」
少し自嘲気味になってしまった笑みが口元を飾った。
その日から蛍さんの話が少しずつ私たちの会話に増えていった。
「この前行った秘境は実に興味深かった」
「そうなんだ、数百年前の古文しかないところだっけ?」
「彼女が面白いと言っていた本は生論派の学生がよく嗜む本だった。あれは確かに俺も興味がある」
「何それ、私も気になる。どんな本なの?」
「そういえば、彼女は七国を巡る旅しているらしい」
「大変だろうけど良いなぁ。私も璃月が気になってて…」
何がどうしてこうなった。アルハイゼンの口から紡がれる言葉に蛍さんが関係する話題が多くなってきたのだ。私はついていくのに必死で彼と話を成立させたくて興味のある振りをした。もちろん本当に興味を惹かれるものもあったけれど、同時に話を合わせる事が増えてしまった。
もちろん彼女の話のみをしているわけではない。ルームメイトの話だとか、プスパカフェに新作ができたとか、話す話題は他にもあった。それだけじゃない。私が気にしすぎなだけかもしれないが、どうしても、どうしても気になってしまうことがある。
なんかアルハイゼン、蛍さんのこと話す時楽しそうじゃない?
「そういえば、彼女がいくつか本を借りたいと言っていたな……」
そういうとアルハイゼンは座っていたソファーから腰を上げ、彼女に貸すという本の選定をし始めた。心なしか、その顔には他人にはとても分からないであろう笑みを携えて。
えっ、もしかして、そういうこと?
後ろ姿に問いかけた。ねえアルハイゼン、もしかして蛍さんのこと、気になってる?
当たり前だが返事なんて返ってこない。もにょもにょと考えてはみるものの、結局は本人しか分からないことだ。恋というとてもプライバシーな話は特に、彼本人にしか分からない。思い至りたくない可能性に気付かされつつ、私は思い切って聞いてみることにした。
「あのさ、旅人さん……蛍さんってさ、めちゃめちゃ魅力的だよね」
彼女の持つ魔性とでも言うのか、どうにもセノさんやティナリさん、ニィロウちゃんとも話をする中で、彼女の存在は彼らの中で大きく肥大しているように感じた。
それに教令院に勤める友人伝に聞いた話によれば、蛍さんに恋心を抱いた学生もいるのだとか。
「魅力的……とは、それは彼女が人を惹きつけやすい性質を持つということか?」
「まあ、そんな感じ?」
「ふむ……」
本を選ぶ手を止めて代わりに顎へ指を当て思考している。やがてアルハイゼン自身、思い当たるところがあったのだろうか、ふと口を開いた。
「確かに、彼女は魅力的だな」
途端に心臓に鉛が重くのしかかったような心地がした。やはり、彼の中でも蛍さんという存在は少なからず無視できないものになっている。
アルハイゼンは性格上、無駄な人付き合いはしない方だ。そんな彼が時間を割いても良いと思うほどの相手、それに最近多くなった蛍さんの話題、彼女の事を考えている時の笑み。
そこから導き出される答えといえば……
「そっか」
きっと彼は無意識のうちに彼女に恋心を抱いている。無自覚な淡い小さな恋。なぜ無自覚だと分かるのか、その答えは簡単だ。不誠実な事をしない彼は蛍さんを想ったまま他人と恋人関係を続けるという小狡いことはしない。
蛍さんとお付き合いをしたければ私に別れてくれと、にべもなく言うから、きっと私が泣いて縋っても「君とはもう恋人関係ではいられない」とバッサリ切り捨てるだろう。飾り立てた言葉を嫌うからこそ信頼できるし信用できる。だからその恋が無視できないものになったとき、彼は私に別れを告げることだろう。
「俺と別れてくれないか」
と。尾を引くことなく潔く。
私と過ごすより彼女と過ごすことに価値を見出し始めている彼の心は無情にも正直で、恐らく蛍さんの話題が多くなっていることにも気づいていない。きっとこれからはそこに私は組み込まれることすらなくなっていくんだろう。
そんなの、そんなのもう、私の出る幕なんて無いじゃないか。
半ば自暴自棄になり始めている自覚はある。けれど彼はそんな私には目もくれず、件の旅人への本の選定に戻っていた。
それから私は会う回数を徐々に減らしていく事にした。少しずつ少しずつ、時には仕事を言い訳にして、友人との約束を引っ張り出して。
それでも彼は勘繰ってくる。最近俺を避けていないか?と。
「そんな事ないよ、どうして?」
「一週間に会う頻度が以前に比べて半減している。街へ出る誘いも幾つか断られた。以前の君なら埋め合わせると言っていたが、今はその言葉すらない」
「いやさ、外部から委託される仕事も多くなっちゃって。埋め合わせしてもその日に急に仕事入っちゃったりするんだよね」
でも今日は仕事終わりにお家に行こうと思ってたよ、とあるはずのなかった予定を組み立てた。その言葉を聞いて彼は一言、分かったと。
「じゃあまた後でね」
「あぁ」
あいも変わらず無表情で頷き去っていく。
あぁ怖い。何もかも見透かされたような心地だった。私は正直、アルハイゼンと二人きりになることが嫌で嫌で仕方なかった。彼とはもっと一緒に居たいし、何気ない話で盛り上がっていつの間にか寝落ちて昼寝をする、そんな以前と同じようなルーティンをしたかった。けれど今はもう蛍さんの話が出てくることが怖くて怖くて仕方がない。
それに私は知ってしまった。アルハイゼンは話さなかった、前代未聞と言っても良い出来事。アルハイゼンが無意識に恋心を抱いていると仮定したあの日から数日前の事になる。
それはカーヴェさんから聞かされた話だった。
一人で酒場で飲んでいるところに「やぁ、珍しいな」と声をかけられる。知らない声ではなかった。振り向くと日中なら目が眩みそうな金髪と鮮やかなガーネットが目に入った。
「あ、カーヴェさん」
「一人かい? あいつは?」
「アルハイゼンですか? 今日は仕事で教令院を離れてるらしいです」
「あー、そういえば言ってたような……」
目を薄く細めて天井を見上げるカーヴェさんは、私とアルハイゼンが恋人同士だと知っている。ちょくちょく「あいつに泣かされてないか?」「何かあったら言うんだぞ」とお節介を焼いてくれる人で、面倒見がいい善良な人だ。
彼はカウンターに座る私の隣席へ腰を下ろすと、店主にいつもの一杯を頼んでそういえば、と話を切り出した。
「知ってるかい。あのアルハイゼンが友人を家に招いたんだ」
「友人? 友人……」
そんな人いたっけ。アルハイゼンには失礼かもしれないが友人と言われて思い当たる人が居ない。誰だろう、と唸っているとカーヴェさんは少し私を気遣うような顔を見せながらも、実は……と話してくれた。
「旅人の蛍って子なんだけど、聞いたことは?」
「蛍……」
以前、プスパカフェや知恵の殿堂で見かけた例の金髪の旅人だ。
「その子に本を貸すために、あのアルハイゼンが自宅に招いたんだよ。最初は奴の友人だから碌でもない奴かと警戒していたけど……」
そこからの話は曖昧にしか聞いていなかった。けれど事実だけは私の脳にはっきりと残る事になる。プライベートを知られることを嫌うアルハイゼンが彼女を自宅に招いた、それは天変地異の前触れかもしれない。そう冗談めかして返すことが出来ればどれほど良かっただろう。
カーヴェさんと別れ帰宅したあともう何も考えたくないと雪崩れ込むようにベッドへと入り、挙句悪夢を見てしまった。アルハイゼンと蛍さんが仲睦まじく寄り添う姿を。
次の日の朝。弾かれるように飛び起きると息は荒く乱れ、汗も大量にかいていた。何より鮮明に残った彼らの残像はしっかり脳裏に焼きついて、妙にリアルで現実との区別が一瞬つきにくかったほどだ。
アーカーシャがあれば夢なんて見なくて済んだのに。初めて私は恐れ多くも草神を恨んだ。
この話のお陰で、アルハイゼンは蛍さんのことが好きだという仮定に拍車をかける事になってしまったのは致し方ないだろう、と思う。
─────………
「そういえば、貴女あの堅物書記官と別れたの?」
「……え?」
取り扱っている品物が残り少なくなっていたので発注した。それを納品してくれたのが今、目の前にいる女性だ。
彼女とは深い付き合いではなかったがそこまで浅くもなかったため、たまに食事を行ったりする程度の、まあ良くある付き合いの中の一人といったところだ。
「いやホラ、金髪の女の子とよくいるところを見かけたから、そうなのかな〜って思っただけ」
シアターの踊り子や大マハマトラ、ガンダルヴァ村のレンジャー長といった誰しも一度は聞いたことのあるような有名人と知り合い、そして教令院の気狂いとも名高い書記官と結託しスメールの危機を救ったのだ。
名を連ねる有名人の中に彗星の如く現れた彼女は異質で、そして誰もが目を惹く存在。瞬く間に認知度が高くなった彼女のことを知るスメール人は多く、私と会話する彼女もその騒動で彼女の存在を認知した者の一人だった。
「ま、でも安心したよ」
少し困ったような表情で彼女は言った。
私がアルハイゼンと付き合っていると知ったかつての彼女は応援してると言ってくれた。それを私は裏を勘ぐることなく「ありがとう」と返して。
「正直あの人と付き合っていくのは貴女がしんどいんじゃないかって思ってた。ま、別れてよかったんじゃない?」
その人の言葉にどんな表情で、どんな言葉で何を返したのか覚えていない。
貴女に何が分かるのかと憤りを感じはしたが、彼女の言葉を否定し切ることはできなかった。私が彼の恋人だという自覚を徐々に手放し始めていたからだ。けれどなけなしの恋する乙女は、せめて彼から正式に別れを切り出されるまでは恋人でありたいと、崩れかかっている事実を目の前に思うのだ。
「そういえばアルハイゼン書記官、恋人と別れたらしいよ」
そんな噂が影で囁かれるようになったのは必然かもしれない。そして同時にアルハイゼンへ擦り寄る女性も増えたとか。聞きたくもない噂を耳が勝手に拾い、そして勝手に落胆する。
今だってそう。仕事で教令院に赴いたは良いものの、聞こえてくる小さな声の中には書記官の話題が幾つかあった。
「ま、そりゃ気になっちゃうよね」
興味のない事にはとことん目を向けることはない、理性が自立して歩いているかのような気狂いと呼ばれる男だ。恋人がいるだけでそれはもう話題性に富んでいるというのに年頃の学生には格好の的なお話で、さらに彼が別れたとなれば興味本位で彼に近づき言い寄る人たちも増えているという。
私とアルハイゼンが恋人だという事を知っている人たちは数人いて、本当に別れたのか? と問い詰めてくる人もいた。けれど私は何と返せばいいか困惑してしまい曖昧に笑ってはぐらかす。中には誰から聞いたのかは知らないが、旅人と付き合ってるらしいのだが本当か? と真偽を確かめに来た者までいた。
やめろやめろ、私の傷を抉るんじゃない。
そしてまた私はその問いかけに曖昧に返すのだった。
「これ、こっちに置いておきますね」
「ありがとうございます、助かりました」
「いえいえ! お安いご用です」
ついに先週アルハイゼンとの逢瀬がなくなってしまった。自分から会いに行くことも減ったし、彼から会いにきてくれることもなかった。それはつまりそういうことだろうと、どこか他人事のように思っていたし、私がいくら傷ついても、もう嫌だと自棄になっても明日は来るし仕事はなくならない。
泣くというより呆然とすることが増えた私を心配してくれたのが、今荷物運びを手伝い終えてくれた同業の彼だ。
「今日の仕事はこれで終わりですよね。少し休憩がてらお茶でも行きません? 実は前貴女と行った時に食べたプスパカフェのパティサラプリンにハマっちゃって」
「いいですね、行きましょうか」
暖かい陽気にあてられ、少し滲んだ汗を拭いながら提案を受け入れる。
元々同業者としての交流はあったものの、ご飯を食べに行ったりするほどまで親しいわけではなかった。最近アルハイゼンの事で悩んで落ち込んでぼーっとする事が増えた私の様子が気がかりだったらしい。唐突に「あの、今日飲みに行きません?」と言われた時は驚いた。
まだ別れを告げられていないとはいえ一応恋人が居る私はお断りをしたが、
「じゃあちょっとそこの川でも見に行きましょう」
と、多少強引感は否めない手つきで私の右手を攫っていった。でも少しありがたかったのは事実だ。そこから私は涙ぐみながら彼との関係に悩んでいることを打ち明けた。ややこしいことになるのは嫌だったし、根掘り葉掘り聞かれるのも懸念したためアルハイゼンの名前は伏せながら。
「そっか、それはとてもお辛いですね。ごめんなさい、辛い事を話させちゃって……」
「いえ。でも誰かに話せたから前より気持ちは楽になりました。ありがとうございます」
「そんな、僕でよければまたお話聞きますよ」
生憎、大したアドバイスは出来ないので本当に聞くだけになりますけど。
そう言ってはにかんだ彼の笑顔は眩しかった。草神様、善良な彼に幸多からんことを。と胸の中で祈ってしまうほどには彼の人の良さには救われた。
「ん〜、やっぱりここのパティサラプリンは美味しいですね」
「そうですね、初めて食べた時はもっと早く食べておけば良かったと思いました」
先ほど休憩の提案をされたあと、私たちはその足でプスパカフェに訪れていた。私がここに来る時は大抵アルハイゼンと一緒で、私がコーヒーとバクラヴァを嗜んでいる間の彼はコーヒー片手に本を読むがデフォルトだった。こんな風に、同じスイーツを口に運びながら世間話をすることは殆どない。たまに続く会話は盛り上がることはなかったけれど、それはそれで好きな時間だったな。
「……」
またアルハイゼンを思い出してしまった。これでも減った方ではあるけれど、何かをするたび、見るたびに彼を連想してしまう。ついてしまいそうな溜め息をぐっと堪え、浮かび上がった記憶と一緒にパティサラプリンを飲み込んだ。
「すみません、またご馳走してもらって……」
「いいんです。僕の休憩に付き合ってもらったんですから」
あれから束の間の休息をプスパカフェで過ごした後、仕事が終わった私は帰宅、まだ少し仕事が残っている彼は現場に戻るためにランバド酒場前の広場で別れる所だった。
休憩に付き合ってもらったからといつものようにその場を持ってくれた彼に、いつものようにありがとうと感謝を述べ、またいつものように帰宅する。
「それで、えっと、あの……」
だけれど少しいつもとは違った空気感が漂っていることに気が付いた。彼は言い淀みながら目線をあちこちに彷徨わせる。何か言い残した事でもあったのだろうか、あまりに挙動不審なため少し心配になる程だった。それから暫く、意を決したように私へ向き直ると口を開く。
「貴女に恋人が居るのは、もちろん分かっていますが……その、僕と、お付き合いしてくれませんか」
消え入りそうな声とは裏腹にすぐ様凛とした表情へ。きっと彼にとってこの告白は玉砕覚悟なのだろう、私がどれほどアルハイゼンを想っているのか知っているから。心が揺さぶられないと言ったら嘘になるが、想いを告げられても私は飽きもせずアルハイゼンのことが好きだった。今日だってふと思い出して感傷に浸ってしまうくらいには。
それにこんなグラグラと不安定な感情を抱えたまま彼の恋人になるのは流石に失礼に思える。私はなるべく彼を傷つけることがないようにお断りをしようと脳内で言葉を素早く組み立てた。
「それは困る」
言葉を紡ごうとしたそれより前に霧散してしまったけれど。
「ア、ル、ハイゼン……」
焦がれてやまなかった彼が目の前に居たからだ。
胸が熱くなると同時にどうして、という純粋な疑問。だけどそれを口に出すより先に腰を引き寄せられ、手で顎を上向かせられたかと思うと唇を塞がれた。まるで今し方愛を伝えたばかりの彼に見せつけるように。
「ん、んぅ、アル……ぁ」
「は、ん……ん」
一度目は啄むようなキス、二度目からは深く繋がろうとする様な熱いキスだった。流石に往来でするようなものじゃない。人前で、もちろん彼も見ている。
腕の中でもがくけれど一層腰を寄せられ、あまつさえ深く抱き込むように拘束された。久しぶりに感じる彼にときめいてしまったが、すぐ様ここは外だと思い直す。
「ま、待っん…ん、んん!」
「ほら、いつものようにしっかり舌を出せ」
「…ん、はぁっ……んっ」
アルハイゼンの舌がしっかりと私の逃げ惑う舌を捉え、溜まった唾液を音を立てて吸っていく。時折歯を立てては優しく撫でられる。
何度も角度を変え舌を絡ませ合い、水音が響くのも気にせず酒場前で互いの距離を埋める私たち。酸欠になってくる脳内は早く離れなければという簡単な使命感さえも奪ってしまった。
「っは……」
「はぁっ、はぁ……っ」
身体が火照り見事に腰が抜けてしまった私をアルハイゼンは即座に抱き止める。最後にまた私の唇を吸ってから横に抱えて彼に向き直った。
「彼女は俺の恋人だ。誰かにくれてやるつもりはない」
そう言い放つ。
彼に対してだけじゃない、周りにいる群衆にも目を向けて、そうはっきりと。
「あ、貴方は教令院の書記官……」
「そうだが」
「……彼女を泣かせる恋人は貴方だったんですね」
アルハイゼンの気迫に尻込みすることなく彼は私の悩みの元凶に詰め寄った。
「貴方のせいで彼女は傷ついている。日に日に落ち込んで悲しみに暮れる彼女を放っておくなんてあり得ない!」
恋人失格だ!!
先ほど糸のように細い声で言葉を紡いだ彼とは真逆で、恋敵に向かって吠え立てる姿は本当に私のことを心配してくれていた。
私は口を挟む隙すらなかった、というかタイミングを失ってしまったため、当事者ではあるがやり取りを見守る事しかできない。
「それに関しては彼女に悪かったと思っている。俺が煩悶していたせいで、要らない心配をさせてしまったのは事実だからな」
だが、と彼は続ける。
「俺は彼女を手放すつもりはない」
─────………
「……」
「……」
重い沈黙が私たちを包む。
あのあとアルハイゼンは私を抱き上げたまま彼自身の自宅へと連れ帰った。ソファーに隣り合うように座る彼から感じるオーラには憤りが混じっている。
「あの、アルハイゼン」
「なんだ」
この状況下で口に出すべき疑問かは迷ったが、うじうじと考えているとまた小さいことで落ち込みそうだ。意を決して彼に少し身を向けて、深呼吸のあと少しの勢いを味方につけアルハイゼンに問いかけた。
「あの……私まだアルハイゼンの恋人なの、かな?」
それでも目線は彼から滑ってしまう。心臓はうるさいくらいに騒ぎ立てるし、緊張から少し呼吸が荒くなる。無意識に唇を噛み締めた。
「……不満か」
静かに落ちた彼の声からは感情を読み取ることができなかった。理性的な彼の声色からは怒っているとは思い難い。表情を見ていないので分からないが。
「そうじゃないよ。……けど、アルハイゼン、最近蛍さんと仲良かったでしょ」
少し痛む胸を無視して私は最近学生の間で流れ始めている噂のことを彼に話した。私との関係が終わったのではないかという噂だ。
「他にもアルハイゼンが言い寄られてるって噂も聞いた。きっとすごく綺麗な女の人にも声かけられたんだよね」
言ってしまって最後の一言は別に要らなかったかもしれないと口を滑らせたことを後悔する。完全に私の嫉妬が混ざってしまった。
「その噂を君は信じたのか?」
「え? えっと……少し、信じた」
「……はぁ」
心の底からついたような溜め息だった。アルハイゼンは少し体勢を崩し、いつも付けているヘッドフォンを外して目の前にある机の上に静かに置いたあと腕を組む。
「馬鹿だな」
そして呆れた様子の彼が発したあまりにもストレートな暴言。普段膨大な知識と語彙力を持つ彼から出たとは考えにくい簡単なフレーズに、私は反射的にすみませんと謝ってしまった。
「俺は君と別れたつもりはないし、別れたいとも思っていない」
「……はい」
「確かに最近言い寄ってくる女性が増えたが、それだけだ。職務を邪魔された時は少し彼女たちを戒めはしたが」
「そうなんだ」
少し戒めたと彼は言ったが、その際はきっと持ち前の語彙力を駆使して彼女たちを言葉で叩きのめしたことだろう。彼は自分のペースを乱されることを極端に嫌う。
「それから、旅人についてだが」
「……」
私の中で緊張が走った。いや、もうずっと緊張しているから更なる負荷が私を押し潰したと言う方が合っているかもしれない。膝の上に鎮座させた両の掌にぐっと力を入れて言葉を待った。
「誓おう。彼女とは何もないし、恋愛感情も抱いていない」
手元をずっと見つめていたから反応が遅れた。視界に入ってきた腕は彼のものだと脳が処理する頃には、アルハイゼンの逞しい両腕で優しく抱きしめられていた。ふわりと香ったいつもの彼の匂いに心底安心したのか、憑き物が取れたかのように私の心は軽くなった。
「君をそこまで不安にさせていた事に気づかなかった」
悪かった。その言葉を聞くずっと前に私の目からは涙が溢れていた。アルハイゼンの服を濡らしてしまうとかアイメイクが崩れてしまうとか、色々な事が脳内を駆け巡ったけれど、結局躊躇いがちに彼の背中に腕を回した。
「もっと強く抱きしめてはくれないのか」
「っ、うん」
それでもやっぱり控えめだった抱擁をアルハイゼンが催促する。それで私はようやく以前と同じように、彼にしがみ付くように抱きしめることができたのだ。
その勢いで私は一つ、彼に吐露した。
「本当は私、ずっと不安だった」
「うん」
「アルハイゼンが蛍さんのこと、好きなんじゃないかって」
「……うん」
「疑ったら止まんなくなっちゃって、アルハイゼンと会うたびに怖かったの」
「……そうか」
震える声はしっかり言葉を紡げているかどうかすら怪しい。けれどアルハイゼンは私の告白に飽きることなく耳を傾け頷いてくれた。
本当はずっと嫌だった蛍さんの話。貴方の口から彼女の話が出る度に胸が嫌に騒ついたし、彼女のことを話す度に彼の好奇心や知識欲が刺激されている事を知らしめられた。私じゃ貴方にそんな顔をさせてあげられない。貴方の欲を満たしてあげられない。
冒険者の彼女ならではの経験があり、知識がある。私は冒険者ではないし旅をしたこともないから仕方ないかもしれない。それでも悲観せずにはいられなかった。
「こんなこと思うなんて重い女だね、私」
彼と密着した身体を引き剥がすようにアルハイゼンの肩に手を置いて距離を離し、自嘲気味にそうごちた。引かれるかもしれないという懸念はあったけど、今言わないと私はずっと心のわだかまりを抱えたまま彼のそばで寄り添わないといけない。そんなの、今以上に耐えられる自信がない。
「俺は」
「……うん」
「俺はもっと君に執着して欲しいと思っている」
彼の大きな手が私の顎を捉え優しく上を向かせる。今日初めてかち合う瞳は相変わらず不思議な極彩色で、見つめていると彼に囚われているような心地さえした。
「旅人のことはすまなかった。君が笑って話を聞いてくれるから、彼女の話を楽しみにしているのかと思った」
「そ、だったんだ……」
「それから君は自分が重いと言っていたな」
「……うん」
「けれど君がそこまで俺を想っていることに対して、嬉しく思っている自分がいるのも確かだ」
「嬉しいの?」
「あぁ、とても」
意外だった。アルハイゼンは他人に縛られることが嫌いだと思っていたから、私のこの想いも彼を縛る枷になると思っていた。だけどそれが彼は嬉しいのだという。
事実、私を見つめる彼の目元は優しく、とても愛おしいとでもいうかのように視線も甘い。顎を捉えていた男らしい掌は私の頬を滑り、指先で私の唇を掠めた。
「君のその重いという懸想も、旅人に取られたくないという独占欲も、俺は愛しいと思う」
そう呟いた彼は何故か苦しそうな表情を浮かべた。けれどそれは一瞬だけで、すぐにいつも通りのポーカーフェイスへ戻った。
「その感情が他へ向くことは許さない。しっかりと俺へ繋ぎ止めておいてくれ」
「っ……」
彼からの強い眼差しにまた心臓が忙しなく音を立て始める。そんな言葉があのアルハイゼンから出てくるとは思わなかった。私からの執着が彼にとっては愛おしいなんて。
途端に気恥ずかしくなってしまった私は彼の視線や手から逃れるように顔を逸らし、照れ隠しするようにわざとらしく振る舞った。
「じゃ、じゃあアルハイゼンが他の女の人に目移りしちゃわないように、私ももっと魅力的にならなくちゃね!」
話は終わりだというように席を立とうとする私をアルハイゼンは目敏く察知したようだ。彼は見事に私を逃すことなく覆い被さり囲ってしまった。
「今後こういったことがないように明言しておこう」
一層近くなってしまった距離にもっと慌ててしまうけれど、今度は立つことすらままならない。あわあわと視線を彷徨わせる私へしっかりと、けれど押し潰さないように彼の体重が掛かる。
「今までもこれからも、君以外に心を寄せる事もなければ身体を重ねることもしない」
端正なかんばせは目の前ではなく私の耳元へ、内緒話をするには余分すぎる色気を含ませ低音を流し込んでくる。
「……俺はキスもセックスも、愛し合いたいと思うのも君だけだ」
あ、と零す間もなく彼に唇を塞がれた。
─────………
薄暗い室内に差し込む月光は、口うるさい同居人のおかげで華美になった窓硝子を通して薄黄緑に染まっている。
腕の中に収まる幼い寝顔。可愛らしいという感情と、安心するという感情が同時に胸に押し寄せる。
「……」
彼女の壮大な勘違いとお互いの認識の擦り合わせ、想いの丈を確認しあったあの日から、彼女と俺の所謂心の距離というものは以前よりも近しいものになっていった。
以前より希薄だった彼女から俺に対する好意の伝え方は、徐々にではあるが感情を出すようになっている。それは俺も同様で発言量は変わらないものの、キスをしたり抱きしめたりとスキンシップの頻度を増やしていった。
もちろん以前からやっていたことではあったが回数は少なく、カーヴェには冷めているのかと心配されたことがある。奴の前で見せていないだけだ。
「ん、ぅ……」
少し身じろいだ彼女が俺に背を向けた。その首筋や背中には噛み跡やキスマークが散りばめられており、先程までの情交を生々しく思い出させる。
「ん、ん……」
痛々しい噛み跡に舌をなぞらせキスを落とす。可哀想だと思う気持ちは確かにあるのに、以前の痕が消え去る前に新しく上書きされたものを見て微かに口角が上がったのが自分でも分かった。
大きなすれ違いを起こし互いの思いに少しずつ歪みが出始めるあの前から己の中に得も言われぬ感情が芽吹き始めていることには気づいていた。これが何という名前なのかはとうに自分の中で答えが出ていて、ずっとそれを持て余す日々を送っていた。
彼女は俺に向ける執着に対して重いと言った。引かれるかもしれないと不安を滲ませながら、俺に思いの丈を打ち明けた。それを俺は愛しいと返し、その返答に彼女は安堵したようだったが俺はそれが不満だった。
以前、旅人に礼とは名ばかりの告白をしたことがある。食器棚のカーテンになる織物を購入したあとのことだ。俺は彼女にプスパカフェへ誘った。
題材は、俺が恋人へ抱える異様なまでの執着心について。
「つまり、アルハイゼンは恋人の事を閉じ込めてしまいたいくらい好きって事?」
「概ねその通りだ」
「へえ、意外だね。もっとアッサリしてるかと思ってた」
彼女の連れである小さな浮遊物は運ばれてきた料理を頬張っており、その口元を甲斐甲斐しくナプキンで拭いながら言った。
「たまに、誰の目にもつかなければいいと思う時もある。俺から逃げ出すくらいなら足の腱を切ってしまおうかとも思うほどだ」
「わあ、バイオレンス過ぎない?」
「冗談だ、本当にやろうとは思っていない。周りが煩くなるだろう」
「煩くならなければやるって事?」
「どうだろうな」
わざとらしく笑いながら答えると、旅人は冗談に聞こえないよと苦笑いでそう返した。心外だ、本当に足の腱を切りそうだと思われているのか。やむを得ない状況ではないのならしないさ。
「でも、そっか。アルハイゼンは思ってるよりずっと恋人のことが大事なんだね」
「当たり前だろう。彼女が死ねば自分も死ぬとまでは言わないが、気でも狂うかもしれないな」
「一応今も教令院の気狂いって呼ばれてるけどね」
俺たちの重苦しい話など気にも留めず、次はデザートへと手を伸ばすパイモンはお気楽なものだ。今彼女の執着は料理へと向いているようで、こちらの話はほとんど耳に入っていないだろう。
「君から見て、俺の執着心は異様だと思うか」
「うーん……そうだなぁ、ちょっと重い気がするかもね」
「そうか」
「でも別に周りからどう思われたってアルハイゼンは気にしないでしょ?」
まるでこちらの性質を見透かしたように問う彼女は明らかに確信を持っていた。先日の草神救出の一件で俺の性格をある程度把握しているらしい。返事の代わりにコーヒーを啜ると、旅人は笑った。
「世間からすれば俺が俗に言う、重い男だということは理解している」
「ふふ、そうだね」
「改めようとは思わないが」
「だろうね、アルハイゼンらしいよ。……つまるところ」
俺の性格を知る彼女なら、この話を持ち出したことで気付いた事だろう。そしてその推測は間違いではないようで、こちらを見つめながらクスクスと口元を緩めて微笑んでいる。
「私に警告してるわけだ」
俺の手元から攫うことは許さない。
それが誰であってもだ。
「よく分かったな」
「そりゃあね。でも敵対するつもりはないから安心して」
「なら良い」
聡い彼女は俺の言わんとしている事を察したようで、それは見事に的を得ていた。なら、俺が提起するこの話にも快く頷いてくれることだろう。
「君も、もし今後彼女に何かあれば逐一知らせて欲しい。分かる範囲で構わない」
それは暗に俺に協力しろと言っているに等しかった。そしてこの協力は不要因子を排除するために必要な事だ。俺の生活に彼女が必須なように、彼女にも俺が必要不可欠の存在になれば良い。
「分かった。気に留めておくよ」
「ああ、よろしく頼む」
重い執着心を抱えていると彼女は言った。けれどそれは俺からすれば未だ軽過ぎて、小さいものだ。それでも。
もっと俺に情を向けてくれ。
惜しいだろう?
彼女と同一の物を腹の中に据えているはずなのに、俺だけが桁違いの重さを一心に抱え続けているなどと。
「ぷはあ〜! 腹一杯になったぞ! ありがとな、アルハイゼン」
「構わない。話を聞いてもらった礼だ」
「ん? 話? そういえばお前ら、ずっと何か喋ってたよな」
「気にしないでパイモン。これからも協力関係を続けていこうねって話だったから」
「そうなのか?」
食事中、白い彼女は本当に料理に夢中だったようで、こちらの会話は聞いていないに等しいようだ。聞かれて困るような話ではないが、言いふらされて彼女の耳にでも入ればややこしくなる。
この話は出来れば広まることは避けたかったため、ある意味助かったと言えるだろう。
「それじゃ、私たち行くね。ご馳走様」
「あぁ」
床に置いていた自身の生活必需品の入った紙袋を抱え旅人は席を立った。これからまた冒険者協会からの依頼が入っているらしい。日々が充実しているようで何よりだ。
思い出したかのように徐に俺の名前を呼んだ彼女は振り返り、俺にこう言った。
「取られたくなきゃ守らないと、ね」
そう密かに微笑んだ彼女の笑顔は怪しさを含んでいる気配すら無かった。寧ろ当然だと言うように、間違ってなどいないと言うように。
そしてその言葉通り、俺は今日も堀を埋めるのに忙しい。
─────………
アルハイゼンの恋人のネームレス夢主が
「あれ? 旅人のこと好きなの?」
と勘違いを加速させていくお話
最後はしっかりハッピーエンドです٩( ᐛ )و
【ツイッターで投下した呟きの小説版】
最近なんか様子おかしい?(魔神任務中)→蛍と仲良くしてるとこを見かける(魔神任務後)→珍しいな…→後日また仲良く談笑してるとこを見かける→話題も蛍のことが多くなる→も、もしかして旅人のこと好き?→それとなく彼女についで聞いてみる→ワカレヨ…
前回までのブクマ、いいねありがとうございます。
※not旅人、ネームレス夢主
※アルハイゼンがチョット重い
※すれ違い話
アルハイゼンが魔神任務で出てきたときは「多分ハマらんだろ沼には」とガチで思ってました。
だけども奴は知れば知るほどおもしれー男ですね。公式から情報が開示されるたびに心の中の少女漫画ヒーロー台詞「ふっ、おもしれーヤツ」が止まりません。
しっかり1凸はさせました。
2回すり抜けました。
リアルの私は彼に嫌われています。