ロシア・アヴァンギャルド ミハイル・ラリオーノフ ー20世紀初頭の美術33ー
今回はロシア・アヴァンギャルドの発端となったミハイル・ラリオーノフ(1881−1964)です。

ロシア・アヴァンギャルドは、ロシア伝統の素朴な絵画への回帰を目指す「ネオ・プリミティヴィズム」にはじまるとされます。
ミハイル・ラリオーノフは、「ダイアのジャック」や「ロバのしっぽ」など「ネオ・プリミティヴィズム」を基盤とした芸術家グループを結成し、ロシア・アヴァンギャルドの端緒を開きました。
ネオ・プリミティヴィズムでは、ブルジョア的芸術を否定し、プロレタリアートを賛美します。そのため絵画の対象も農民や労働、日々の生活などが主体となりました(下)。

ネオ・プリミティヴィズムは、その後、キュビズムや未来主義などの海外の潮流を取り入れ、「立体未来派」へと進んで行きます。
立体未来派によって抽象化した絵画は、より先鋭的な「シュプレマティズム」という芸術思想を生み出しました。
一方で、産業革命以降の工業労働者の増加と技術の向上は、工業素材を組み合わせ、新たなものを作り出す「構成主義」を生み出しました。
ロシア構成主義 ウラジミール・タトリン ー20世紀初頭の美術32ー
「シュプレマティズム」と「構成主義」は、ロシア・アヴァンギャルドの2大潮流であり、ともに自然の模倣を嫌いました。自然を模倣するのではなく、人間の内部にこそ普遍的な美を作り出す力があると考えていました。
そのために、両者の抽象化は一層深化し、最終的には「無対象芸術」へと到達しました。
「ネオ・プリミティヴィズム」と「構成主義」はともにブルジョアを否定し、プロレタリアートを賛美します。しかし、無対象芸術となった構成主義は絵画の対象を労働者にすることが出来なかったため、工業材料を用いることでその思想を表現しています。
ロシア・アヴァンギャルドの始まりは1900年代初頭です。当時のロシアは、ロマノフ朝による絶対専制でした。しかし、生活の苦しい農民には不満が鬱積していました。また、産業革命以降の工業化により、労働者階級が急速に増加していました。
1905年、女性のパンを求める声に端を発したデモ隊に軍隊が発砲し、多数の死傷者がでる「血の日曜日」事件が勃発します。
この事件を皮切りに、戦艦ポチョムキンの反乱など、各地で王政に対する反乱が相次ぎました。さらには、この年、日露戦争に破れてしまいます。
そう言えばむかし「戦艦ポチョムキンの反乱」という白黒無声映画があり、映画館に観に行った覚えがあります。あまりのつまらなさに観客が反乱を起こすんじゃないかとヒヤヒヤしました。
さて、そんななか、プロレタリアートはソヴィエト(労兵協議会)を結成します。
1906年に、プロレタリアートの不満の沈静化をはかるため、ニコライ2世は憲法を制定、さらにドゥーマ(国会)を設けて議会制としました。
首相にはストルイピンが着任しましたが、議会はブルジョワジーに牛耳られており、改革は一向に進みません。
結局、ストルイピンは1911年に暗殺されてしまいました。
ロシア・アヴァンギャルドの背景には、このようにブルジョワジーを否定したプロレタリアートの台頭がありました。
その後、1914年には第一次世界大戦に突入。ロシアも参戦しますがドイツに苦しめられます。
1917年、2月革命が勃発し、ニコライ2世(下1枚目)が退位してロマノフ朝が崩壊します。このころロマノフ朝の内部で暗躍していたのが怪僧ラスプーチン(下2枚目)です。あやしさ満載ですね。

ロマノフ朝崩壊の結果、政治はドゥーマとソヴィエトの連立政府が行うことになりました。
同年、レーニンが亡命地から帰国し、全権力のソヴィエトへの移行を掲げました。これを見た軍の最高司令官コルニーロフは、ソヴィエトを解散させようと勝手に進軍、さらに、政府に対し全権力の移譲を要求するという暴挙にでました。
しかしながら、軍の幹部たちがソヴィエト側につき、コルニーロフの反乱はあっさり鎮圧されてしまいました。この事件を切っ掛けにソヴィエトが全権を掌握することとなりました。
その後、ニコライ2世は5人の子供(下)ともども殺害され、遺体は焼かれたり、硫酸をかけられたりして森に埋められました。
末娘のアナスタシア(下1枚目:殺害当時17歳)の遺体だけが発見されなかったために、生存説がささやかれ、アナスタシアだと名乗るバアさんが現れたりしていましたが、最近アナスタシアの遺骨が確認され、生存説は否定されてしまいました。(下2枚目はニコライ2世最後の写真。やつれましたね)

私はアナスタシアが生きていることを期待していたので大変がっかりした記憶があります。一家殺害の記録は詳細で、それを読んだり写真を見たりすると本当にいたたまれない気持ちになります。
(下1枚目はアナスタシアの作品、2枚目はニコライ2世一家の虐殺現場です)

人間の残虐さにはほんとにあきれてしまいます。
少し楽しい話題で気分をほぐしましょう。和歌山のアドベンチャーワールドでパンダの双子が生まれたらしいですよ。想像してください。いやー、少し気分がほぐれましたね。そうでもない?
では、この写真では?なんだか子ペンギンがものすごく文句を言っててなごみませんか?

レーニンは革命を肯定し、プロレタリアートの国家を賛美するプロパガンダとして芸術を使いました。一方、芸術家もそれに便乗し、ロシア・アバンギャルドは隆盛を極めました。
さて、ミハエル・ラリオーノフは、1881年、オデッサ近郊のティラスポリで生まれています。1989年にモスクワ絵画・彫刻・建築アカデミーに入学しますが、3度に渡り停学処分を受けているそうです。
1902年頃は後期印象派スタイルでしたが、1906年パリへ旅行するとキュビズムとフォービズムの影響を受け、「ネオ・プリミティズム」を標榜し、「ダイアのジャック」と「ロバのしっぽ」の二つの芸術家集団を組織しました。
「ダイアのジャック」は、1909年に結成された急進的な芸術家集団です。その信条は、「ポール・セザンヌ以外はブルジョア的でくだらない」というくだらないものでした。
「ロバのしっぽ」は、ダイアのジャックのうち、左翼メンバーを集結した芸術家グループです。メンバーは、ミハイル・ラリオーノフ、ナターリア・ゴンチャローワ、カジミール・マレーヴィチ、マルク・シャガール、アレキサンドル・シェフチェンコとそうそうたる顔ぶれです。
ちなみにナタリーア・ゴンチャロワはミハイルの奥さんです。
ロバのしっぽは、1912年に1回展覧会を開催しただけで翌年には解散してしまいました。
その後、1913年に「標的」展に際して「レイヨニズム宣言」を出版しました。レイヨニズムとは、キュビズム、未来派、オルフィズム(キュビズムの一派)を混ぜて抽象化を進めたものです(下)。


1915年以降は、パリに住みバレエの舞台装飾や衣装デザインを手がけました(下)。

では、作品です。




































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今回はロシア・アヴァンギャルドの発端となったミハイル・ラリオーノフ(1881−1964)です。
ロシア・アヴァンギャルドは、ロシア伝統の素朴な絵画への回帰を目指す「ネオ・プリミティヴィズム」にはじまるとされます。
ミハイル・ラリオーノフは、「ダイアのジャック」や「ロバのしっぽ」など「ネオ・プリミティヴィズム」を基盤とした芸術家グループを結成し、ロシア・アヴァンギャルドの端緒を開きました。
ネオ・プリミティヴィズムでは、ブルジョア的芸術を否定し、プロレタリアートを賛美します。そのため絵画の対象も農民や労働、日々の生活などが主体となりました(下)。
ネオ・プリミティヴィズムは、その後、キュビズムや未来主義などの海外の潮流を取り入れ、「立体未来派」へと進んで行きます。
立体未来派によって抽象化した絵画は、より先鋭的な「シュプレマティズム」という芸術思想を生み出しました。
一方で、産業革命以降の工業労働者の増加と技術の向上は、工業素材を組み合わせ、新たなものを作り出す「構成主義」を生み出しました。
ロシア構成主義 ウラジミール・タトリン ー20世紀初頭の美術32ー
「シュプレマティズム」と「構成主義」は、ロシア・アヴァンギャルドの2大潮流であり、ともに自然の模倣を嫌いました。自然を模倣するのではなく、人間の内部にこそ普遍的な美を作り出す力があると考えていました。
そのために、両者の抽象化は一層深化し、最終的には「無対象芸術」へと到達しました。
「ネオ・プリミティヴィズム」と「構成主義」はともにブルジョアを否定し、プロレタリアートを賛美します。しかし、無対象芸術となった構成主義は絵画の対象を労働者にすることが出来なかったため、工業材料を用いることでその思想を表現しています。
ロシア・アヴァンギャルドの始まりは1900年代初頭です。当時のロシアは、ロマノフ朝による絶対専制でした。しかし、生活の苦しい農民には不満が鬱積していました。また、産業革命以降の工業化により、労働者階級が急速に増加していました。
1905年、女性のパンを求める声に端を発したデモ隊に軍隊が発砲し、多数の死傷者がでる「血の日曜日」事件が勃発します。
この事件を皮切りに、戦艦ポチョムキンの反乱など、各地で王政に対する反乱が相次ぎました。さらには、この年、日露戦争に破れてしまいます。
そう言えばむかし「戦艦ポチョムキンの反乱」という白黒無声映画があり、映画館に観に行った覚えがあります。あまりのつまらなさに観客が反乱を起こすんじゃないかとヒヤヒヤしました。
さて、そんななか、プロレタリアートはソヴィエト(労兵協議会)を結成します。
1906年に、プロレタリアートの不満の沈静化をはかるため、ニコライ2世は憲法を制定、さらにドゥーマ(国会)を設けて議会制としました。
首相にはストルイピンが着任しましたが、議会はブルジョワジーに牛耳られており、改革は一向に進みません。
結局、ストルイピンは1911年に暗殺されてしまいました。
ロシア・アヴァンギャルドの背景には、このようにブルジョワジーを否定したプロレタリアートの台頭がありました。
その後、1914年には第一次世界大戦に突入。ロシアも参戦しますがドイツに苦しめられます。
1917年、2月革命が勃発し、ニコライ2世(下1枚目)が退位してロマノフ朝が崩壊します。このころロマノフ朝の内部で暗躍していたのが怪僧ラスプーチン(下2枚目)です。あやしさ満載ですね。
ロマノフ朝崩壊の結果、政治はドゥーマとソヴィエトの連立政府が行うことになりました。
同年、レーニンが亡命地から帰国し、全権力のソヴィエトへの移行を掲げました。これを見た軍の最高司令官コルニーロフは、ソヴィエトを解散させようと勝手に進軍、さらに、政府に対し全権力の移譲を要求するという暴挙にでました。
しかしながら、軍の幹部たちがソヴィエト側につき、コルニーロフの反乱はあっさり鎮圧されてしまいました。この事件を切っ掛けにソヴィエトが全権を掌握することとなりました。
その後、ニコライ2世は5人の子供(下)ともども殺害され、遺体は焼かれたり、硫酸をかけられたりして森に埋められました。
末娘のアナスタシア(下1枚目:殺害当時17歳)の遺体だけが発見されなかったために、生存説がささやかれ、アナスタシアだと名乗るバアさんが現れたりしていましたが、最近アナスタシアの遺骨が確認され、生存説は否定されてしまいました。(下2枚目はニコライ2世最後の写真。やつれましたね)
私はアナスタシアが生きていることを期待していたので大変がっかりした記憶があります。一家殺害の記録は詳細で、それを読んだり写真を見たりすると本当にいたたまれない気持ちになります。
(下1枚目はアナスタシアの作品、2枚目はニコライ2世一家の虐殺現場です)
人間の残虐さにはほんとにあきれてしまいます。
少し楽しい話題で気分をほぐしましょう。和歌山のアドベンチャーワールドでパンダの双子が生まれたらしいですよ。想像してください。いやー、少し気分がほぐれましたね。そうでもない?
では、この写真では?なんだか子ペンギンがものすごく文句を言っててなごみませんか?
レーニンは革命を肯定し、プロレタリアートの国家を賛美するプロパガンダとして芸術を使いました。一方、芸術家もそれに便乗し、ロシア・アバンギャルドは隆盛を極めました。
さて、ミハエル・ラリオーノフは、1881年、オデッサ近郊のティラスポリで生まれています。1989年にモスクワ絵画・彫刻・建築アカデミーに入学しますが、3度に渡り停学処分を受けているそうです。
1902年頃は後期印象派スタイルでしたが、1906年パリへ旅行するとキュビズムとフォービズムの影響を受け、「ネオ・プリミティズム」を標榜し、「ダイアのジャック」と「ロバのしっぽ」の二つの芸術家集団を組織しました。
「ダイアのジャック」は、1909年に結成された急進的な芸術家集団です。その信条は、「ポール・セザンヌ以外はブルジョア的でくだらない」というくだらないものでした。
「ロバのしっぽ」は、ダイアのジャックのうち、左翼メンバーを集結した芸術家グループです。メンバーは、ミハイル・ラリオーノフ、ナターリア・ゴンチャローワ、カジミール・マレーヴィチ、マルク・シャガール、アレキサンドル・シェフチェンコとそうそうたる顔ぶれです。
ちなみにナタリーア・ゴンチャロワはミハイルの奥さんです。
ロバのしっぽは、1912年に1回展覧会を開催しただけで翌年には解散してしまいました。
その後、1913年に「標的」展に際して「レイヨニズム宣言」を出版しました。レイヨニズムとは、キュビズム、未来派、オルフィズム(キュビズムの一派)を混ぜて抽象化を進めたものです(下)。
1915年以降は、パリに住みバレエの舞台装飾や衣装デザインを手がけました(下)。
では、作品です。
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