頭と手足。芸人は圧力団体。
昨今のお笑い芸人というのは、養成所からの親しさなのか、一枚岩の気持ち悪さが猖獗を極めていた。この畜群の一匹と対立したら、仲間が総掛かりで潰しに来るような、そういう圧力団体である。この群生動物がようやく世間からの反撃にさらされているが、フラットな群れではなく、頭と手足が別なのだし、まさに人間社会の縮図である。松本が頭で小沢が手足というヒエラルキーは、われわれの社会の写し絵であるが、この憂うべき愚劣さは普段からわれわれを覆い尽くしており、よく見た景色過ぎてうんざりだが、だからこそ一時的にでも眼の前の暗雲を振り払うべく、われわれは奔走しているのである。それでは、手足として疎外されずに、自分で考えて自分の手足を動かして生きられるなら人間の全体性が回復するかというと、これまた首をひねるしかなく、そういう自由を謳歌している暇人の大半は、有り余る時間を有意義に過ごしてないし、暇つぶしに甘んじている。どうやってどう転んでも人間は愚かである。お笑い芸人というのも、雑談しているだけであり、どう転んでも愚かだ。吉本興業の養成所がスタートしたのは1982年で一期生がダウンタウンだそうだが、四十年にわたり、愚にもつかない雑談メンバーが量産されてきた。吉本興業の株主の多くはテレビ局であるそうだが、芸人がスタジオで雑談だけしている番組だと制作費が安いらしく、テレビ自体が終わっているということだろう。雑談が得意というのは、頭がフリーズせずに、柔軟に切り替えて横断していくことだと思うが、どちらかといえば知性が低い人の特技である。話題が転じていくのは、他人と関心のピントを合わせる能力ではあるだろうが、ただの共感性でしかない。たとえばゴルフに興味がないとして、それでもゴルフが趣味の人の話をうまく聞けるということである。聴く力として称賛するのも可能ではあるのだが、ゴルフに興味がないのにゴルフの話を聞くのが得意とか、その社交性の豊かさは知性の貧困でもある。広く浅くなんとなく聴けてしまうのは、アスペルガー的な脳細胞の欠如であり、健常者の行き過ぎで無頭症になったかのようだ。ありふれた凡庸なひとたちが、頭をもがれ、手足をひらひらさせて蠢いているだけである。駆除したところで、次から次へと似たようなのが出てくるだろうが、それでも駆除するしかないので、賽の河原の石積みのごとく虚しい作業をやらねばならない。