羽生結弦が目指す救いや信頼、そして愛…どこまで私たちを戦慄させるというのだろうか 「RE_PRAY」
目次
霊的なもの、あるいは霊性の備わった不可知の「何か」
羽生結弦の「祈り」=「PRAY」。
それは実のところ多元的で、震災や疫禍、競技や興行、活動のすべてにおける祈り(ゲームなどフィクションとしての祈りもある)と同時に、普遍的な人間存在に対する祈りであり、その先にあるもっと霊的なもの、あるいは霊性の備わった不可知の「何か」であるように思う。羽生結弦という存在そのものの意味、それほどまでに深淵だ。
羽生結弦は1月17日、こう綴っている。
「記憶もなく、当事者でない僕は、祈ることしかできません。それもおこがましいことかもしれません」※注1)
これは阪神淡路大震災から29年に際しての言葉だが、彼が被災した東日本大震災、そして今回の能登半島地震も含めての「祈る」であった。そして「それもおこがましいこと」としている。
「それもおこがましいことかもしれません」
確かに阪神淡路大震災は彼の記憶にないだろう。
しかし、彼は祈る。
祈り続ける。
それは自身も同じように震災に遭ったとか、そういった直接的な体験に基づく感情から先にある、そうした人々に対する「共感」あるいは「感性」によるもののように思う。
それを簡単に「優しい人」と言う事はそれこそ容易いし、単純であることはむしろ神聖であるともとれるが、私はもっとその先の不可知なもの、それこそ以前説いた「聖なるもの」(ヌミノーゼ)があるように思うのだ。
一連の『RE_PRAY』ツアーの祈り、そして「僕は、祈ることしかできません。それもおこがましいことかもしれません」という言葉。
その根底にある祈りは、その『聖なるもの』を著した思想家ルドルフ・オットー言うところの「被造者感情」だろうか。
だから私たちは「祈る」
「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」
『創世記』(18の27)、ソドム人の運命を問うアブラハムの言葉だが、この「塵あくたにすぎないわたしですが」こそ、強大な運命や天命を前にした自己の虚無性、あるいは卑小を顕したものであり、これをオットーは絶対的到達不可能性としての「語りえぬもの」すなわち「聖なるもの」とした。
祈りとはそうした自己との出会いであり、その自己の感情の原因を外部に帰して考えるという推論を経て、はじめて私たちは「祈る」ことになる。
決して難しい話ではない。私たちが自身の手を合わせるとき、自身の手と手を握るとき、それは明らかに大なり小なり、自分自身の救いや信頼、そして愛といったものと、そのさらに深いところにある「自分」という不可知な存在に移入しているのだから。
羽生結弦が目指す救いや信頼、そして愛
それをオットーは「ヌーメン的感情」(ヌーメンとは不可知なるものの力、意思)と称する「恐れ」と説いている、と私は理解しているが、羽生結弦の祈りとは、そうした羽生結弦自身の「聖なるもの」からの発露であり、私たちもまた彼の生き方やその作品、そして「祈り」から学び、共にある。
そう、だからこそ共に「祈る」。
私たちは無力で、どんな天才であっても――それは羽生結弦という存在であっても天然自然の道理を前にしては、彼自身の認める通り「無力」な「人」である。だからこそ彼は「おこがましいこと」と、ことわりをいれている。
しかし、それを羽生結弦のように感得することができるのならば、私たちは無力であって無力でないとも言える。
実際の『RE_PRAY』本編はゲームやニューミュージックといったエンタメも交えた融合体として表現されているが、その帰結が「祈り」であることは、もっともっと先の、羽生結弦が目指す救いや信頼、そして愛といったものの奥底にある人間存在に対する讃歌である。表層的な意味も大切だが、私個人としては羽生結弦という「戦慄すべき」創造者に対する畏敬をもって、そういった深層として理解した。
だからこそ、羽生結弦と共にある人は盾になる
先に「能登半島地震とそれに関連した羽田空港の惨事があったからというのは無論だが」と書いたが、やはり、これらがあっての私の考察のようにも思う。私もメディアで書くしかできない「塵あくたにすぎないわたし」であり、「それもおこがましいこと」だから。
このように、誰をも大なり小なりそう「気づき」に導く。つくづく、羽生結弦という存在は社会性の人だ。これからも社会が羽生結弦をこうして必要とするのだろう。時代の人、歴史の人、それは祈る人でもある。利他の祈りとは、こうして生まれる。
しかし祈りとは両手の塞がった状態にある。だから心ない数多に石つぶてを投げつけられても手で払うことはできないし、誹謗の声に耳を塞ぐこともできない。それでも祈る。それが羽生結弦だ。だからこそ、羽生結弦と共にある人は盾になる。そうして、羽生結弦と共に祈る。それは人によっては笑う光景なのかもしれないが、私は「聖なるもの」だと思っている。人間はそうして人を愛し、人を信じ、そして人と祈ってきたはずだ。
羽生結弦は何も特別なことはしていない。羽生結弦の目指すものは普遍的なものだ。だからこそ、人々の共感を得る。もっと体感的で、それこそ理屈ではない霊的な躍動という「感じるもの」である。『あの夏へ』などはまさに「それそのもの」のように思う。
羽生結弦の創造、フィギュアスケートという世界に収まらず
哲学者で心理学者のウィリアム・ジェイムズは「祈り」についてこう語っている。
「祈ることがなければ閉ざされていたエネルギーが、祈りによって解放されて、客観的にせよ主観的にせよ、現実世界のどこかの部分で働くのである」※注2)
羽生結弦はカール・グスタフ・ユングなど心理学を中心とした思想哲学にも造詣が深いと聞く。ジェイムズはユングの理論にも用いられている。羽生結弦がなぜ本作で「PRAY」としたのか。その羽生結弦の「祈り」の思索の一助になればと思う。
それにしても羽生結弦の創造、フィギュアスケートという世界に収まらず、どこまで私たちを戦慄させるというのだろうか。それも俗世に戻すなら佐賀公演は機材席まで開放しての超満員、興行としても大成功のはずだ。
(続)
●参考文献
※オットー著・久松英ニ訳『聖なるもの』岩波文庫,2010年2月16日初版.
※ジェイムズ著・桝田啓三郎訳『宗教的経験の諸相』岩波文庫,2010年6月4日13刷.
※注1)羽生結弦official _[Staff]「yuzuruofficial_」instagram ,1月17日更新.
※注2)前掲書,ジェイムズ,310頁.