完了しました
この2か月連載をお休みさせてもらった。 前々回のエッセイ に書いた予言(?)は的中し、10か月続いた海外作品と国内ドラマの撮影の並行でクランクアップ後、私は見事に体調を崩した。
そして、治ったと思った直後のパリ帰り、今度は父の具合が悪いと連絡を受けた。実家を何度か往復したのち、9月のある日に父は急逝した。父が死んだという事実が、まだ私の中で事実になっていない。いつも明日の予定、来週のスケジュール、と忙しく時間を先回りして生きてきたのに今だけ、時間に置いてけぼりにされてるみたいだ。
今月も連載を休もうかと思ったダメダメな私だが、私は誰かと父の話がしたかった。予期せぬ瞬間に涙が出てしまうので、喪中ということは特に意識してないけど、自然と、前より友達に会わなくなった。
でも、父のことを知らない人でも知ってる人でもいいから、あまりに突然亡くなってしまった父のことを、死というのはこんなに唐突なものなのかということを、そして、みんなはどうやって大切な人の死を受け止めて受け入れて毎日を過ごしているのかということも、誰かに話したかったし聞きたかった。
「老人ホームに入ることになった」
父は80代後半で亡くなったので、長く生きた方だと思う。でも、私は遅く生まれた子供だったから周りで父を亡くした友人はまだほとんど、いや、ほぼいなくて、なかなかその機会を見いだせていない。
ずっとAmazonの「後で買う」リストに入れっぱなしになっていたNewtonという科学雑誌の「死とは何か」「無とは何か」の号を取り寄せてみた。
地球では1分間に約100万人の人が亡くなってるらしい。ということは、きっとここ数か月で私と同じ体験をした人がいるはず。あるいは、何年何か月
7月中旬には一緒に2泊3日の旅行に行き、誰よりも元気に歩いて食べて
玄理が父娘旅へ“東洋のナポリ”で気づく「人生に残された時間」
あまりの衝撃と驚きに文字通りソファからずり落ちてしまったのを覚えている。父の年齢を考えたら、そろそろ心の準備をして老後や介護のことも考えなければいけなかったのに、父は年齢に比べ若く元気だったから、まだ先の話だと思っていた。いや、そう思いたかった。
元気にしている親に向かって「いつか入るかもしれない老人ホーム、どこにする?」なんて聞きたくないことナンバーワンではないだろうか。出来ることなら先延ばしにしたい会話第一位である。頭の整理と心の準備が追いつかないまま、実家に向かう飛行機の中で考えていたのは「どうにか実家で面倒は見れないのだろうか」だった。自分が世話をするわけでもないくせに。
今までずっと家族と暮らしてたのに、老人ホームで知らない人たちと暮らすなんて
飛行機に乗る直前、家族の誰もが介護なんてしたことがない状況と、自分は同居していない申し訳なさから、せめて知識だけでも役に立てればとkindleで介護関連の本を2冊買ったのだった。私は多分、本を読むのが速い。速読してるんですか? とマネージャーさんに聞かれることもしばしばだ。なのに、結論から言うと1冊の半分も読まないうちに父は病院に入院し、末期の
人が亡くなると言うのは大層なもので、そこからは
夢に出てきてほしいのに
父が亡くなってから、眠れない夜の長さを知った。夜中、しんと冷えた廊下を踏んで水を飲みに台所に行く時、父がいつものあの場所に座っているんじゃないかと半ば期待して半ば怖れ、ゆっくりとソファを振り返る。
よく聞く話みたいに、亡くなった親が夢に出てくるとか、幽霊になって現れるとか、死ぬ瞬間には第六感的な知らせがあるとかそういうのは全然なかった。ホラーは本当に苦手で、映画の予告編を見ただけで夜寝られなくなるくらい怖がりなのに、こういう時だけお化けに会いたいなんて都合が良いんだろうか。
父の葬儀に集まった親戚の中には、数十年ぶりに会う叔父さんや叔母さんもいて、なんなら大好きだったおばあちゃんだってコロナ禍を理由に会ったのは5年ぶりくらいで、とてもにぎやかな再会の場になった。
20代の数年、私は父と2人暮らしだった。そこにいるのが当たり前でこれといった特別な思い出はないけれど、父という人間を理解できたかけがえのない時間だったと思う。今は、どんなに悲しくても当たり前に夜が来て朝が来ることや、それでもちゃんとお
ホームに入ってからも変わらず毎日電話をして、メールをした。だんだんメールの返信が遅くなって、入院した後は電話にも出られなくなった。病院の面会は週3回、2時間のみ。それでも喋れなくなる直前まで「あまり心配しないで。大丈夫」と言い続けていた父。家を出発する直前、弱っていく父にカメラを向けるのは忍びない気がしたけど、どうしても残しておきたくて、また家に帰ってくるんだよと言い聞かせながら2人でフィルムカメラのシャッターを切った。仕事先の地方でやっと現像した写真には、記憶よりずっと笑顔で、澄んだ目をした父が写っていた。こんなに瞳が綺麗な人だっただろうか。
毎日ここに書ききれないくらいのいろんな思いが交錯する。その多くは読んでもらうには忍びないほど取り止めのないことで、原稿を書いてる今もなんだかまとまりのない文を書いてるな、と思う。薄暗いトンネルを通過するように、あの時こうしてれば……という後悔や、いっそ誰かのせいにしたら楽になるんじゃないかという気持ちもあった。数百回の「たられば」を繰り返し、それでも行き着く思いはたった一つなのだ。
私は、父が大好きだった。