キサーゴータミーのエピソード
Google で「キサーゴータミー」について検索すると、日本の大乗仏教系のホームページの記事がずらずらとトップに挙がってくるが、パーリ仏教外にも有名なエピソードということなのだろう。概略はこうである:
赤ん坊を亡くしたばかりのキサーゴータミーと呼ばれる女性が、赤ん坊の死体を抱きかかえたままその子を治す薬を探し求め、仏陀に行き着く。仏陀は、そのための「薬を知っている」と答え、家系の中から死者が存在しない家系の家に行って、カラシの種をもらってくるように言う。各家を訪ね歩くうちに、どの家も皆、一族の中に死者が存在しなかったことがないことを知る。それにより、彼女は、「自分だけが家族を亡くして悲しい思いをしているわけではない」ことを知り、仏陀の元に戻って、預流果の悟りを得、さらに出家して、最終的に阿羅漢となる。
どうも、このエピソードは方便(良心的な嘘)の例として考えられているらしく、wikipedia の「方便」では、アングリマーラのエピソードとこのキサーゴータミーのエピソードの 2 つが挙げられている。wikipedia を編集した人がそのように思ったということでもあるが、日本の仏教界での一般的な意識でもあるのだろう。こういうものが「方便」であると。なぜなら、結局、「釈尊は、子供を治して生き返らせたわけではなく、キサーゴータミーのそもそもの『死んだ子供を治したい』という考え自体を回心させて仏道に目覚めさせた」という風にこのエピソードを理解して、したり顔になっているのではないか。
大乗仏教が好きそうな「方便(良心的な嘘)」の件は置くとしても、一般的には、「人は皆死ぬ」ということをキサーゴータミーが理解したという風に片付けられている気がする。
──そんな単純な一般論を理解するだけで、預流果の悟りを得られるのか? それなら、キサーゴータミー(やその場に居合せた人々)だけでなくても、仏典を通じて彼女のエピソードを聞いた人々がどんどん預流果に達する人が続出してもおかしくない気がする。
おそらくそうではないのだから、「人は皆死ぬのだ」という月並なことで、片付けられるエピソードではないということになる。それはちょっとした表層であって、核心(正見)ではない。
僕の仮説としては、くだらない「方便(はぐらかし)」などではなく、仏陀は実際に、キサーゴータミーの子供(の死)を治したのである。それによって衝撃を受けたキサーゴータミー(やその場に居合せた人々)は、心の闇が吹き飛び、法眼が生じ、仏陀への信が確立し、預流果の悟りを得たのだ。
ちゃんとした方便としては、キサーゴータミーに各家を訪ね歩かせたことによる。この方便を通じて、仏陀は、キサーゴータミーに「無常」を自ら理解させたのである。無常を「正しく」理解した途端に、キサーゴータミーの子供(の死)は治ったのである。無常を正しく理解した預流者にとって、輪廻転生は揺ぎなく明らかな真実(仏陀への信)であり、その子は輪廻転生して再生していることをキサーゴータミーは理解したのである(天眼通)。生から死への一方通行という一回きりの人生観(邪見)によって、永遠の死へと固定されていた彼女の(心の中の)子が、仏陀の方便によって、永遠の死という牢獄から解放された瞬間である。
註
- 無常を「正しく」理解した
- 現代テーラワーダ仏教の一般論として、「無常」は「苦」「無我」の異音同義語であり、この三法印いずれかを悟ることは阿羅漢果の悟りを意味するとされる。預流果となったキサーゴータミーのエピソードと、無常の理解を結び付けるのはその一般論に反することは承知している。僕の見解は、無常の定義が三法印の無常とはやや異った仮説に基いている。
- 子は輪廻転生して再生していることをキサーゴータミーは理解したのである(天眼通)
- 僕の仮説では、仏陀は方便によって、キサーゴータミーに天眼通で世の中を見ることを可能にしたと考えている。もちろん、この「天眼通」の定義も、現代テーラワーダ仏教の一般論の定義とは多少異っている。そもそも一般論としては、天眼通のような神通力は、阿羅漢果に悟った時に、漏尽通と同時に、その他のオマケ、付録として、天から降ってくるように身に付くという扱いだが、僕はそうは考えない。そもそも、例えば、デーヴァダッタは、預流果にすら悟ってもいないのに、修行の過程で、天眼通を得ていたとされる。僕の大きな仮説の一つが、神通力は、(阿羅漢果の)悟りの結果ではなく、正反対で、悟りへと至る手段である(神通力によって観を深めて悟りに到達する)というものである。例えば、天眼通は、世界を俯瞰して観ること(=神視点)を意味し、これによって、キサーゴータミーのように、自分の不幸を客観視することを可能にし、彼女を(預流果の)悟りに至らせた。そしてこのキサーゴータミーの悟りの経験は、(諸行)無常を観るという風にも表現され、慈悲喜捨のうちの「悲(カルナー)」の好例であると声を大にして強調しておきたい。四無量心のサマタ瞑想行の先入観があると、「悲」というのは、悲しむというテーマに基いた、(世の中の不幸が解消されることを祈る等の)何かを心に念じることという印象があるから、「悲」についてわかったようなわからないような感じになるが、まさしく、キサーゴータミーの彼女の経験を通じて、これぞ「悲(カルナー)」という言葉の定義を体現していると知るべきである。この「悲心」を正しく理解するということが、「天眼通」ともなり、「無常観」ともなるということである。そのような仮説を唱えたい。もちろん、一般に思われているように、超能力的な天眼通、キサーゴータミーが、以後も、他者の生死の様子の観察能力を、無制限に行えるようになったと言うつもりはない。あくまでもこの件においてのみ、仏陀の方便によって天眼通状態を発動し、子供の輪廻転生を確信したということである。
- 心の闇が吹き飛び、法眼が生じ、仏陀への信が確立し、預流果の悟りを得た
- 人々が初めて仏陀に帰依する場合の定型として、キサーゴータミーの場合も「預流果になった」とされているが、僕は、悲のレベルで無常観を得たキサーゴータミーは、預流果をさらに超えて一来果へと至ったのではないかと思っている。僕の仮説において、悲は慈の次にくるレベルであり、預流果と対応しているのは慈である。慈と母性愛はテーラワーダ仏教の一般論でも関連付けて形容されており、キサーゴータミーが母性愛に溢れる女性だったからこそ、慈のレベルは満していた。その母性愛ゆえに、子を失って、正気を失うレベルで悲しんだわけで、俗説のように、嫁としての立場が危うくなる云々というのは、極めて、不当な理由づけである。そのような解釈をする後世の人というのは、キサーゴータミーという阿羅漢聖者にまでも至ったような人を、一般人である自己よりも低い、自分の嫁としての立場を守るために死んだ子供を蘇らせようと思っている愚かな女性ということにして(三帰依のうちの僧帰依の資質に欠く所業であるとも言える)、したり顔で彼女のエピソードをわかったつもりになっているのである。最初から、慈愛の薄い人間、他者に対する共感能力に乏しい人間が、悲を標榜して世間を俯瞰して、上から目線で無常無常(人は誰しも死ぬのだ、云々)と言っても、悟りに結び付くことはない。だから、慈はまずは預流に必要なテーマであり、悲は一来のテーマなのである(そして喜は不還に、捨は阿羅漢に)。もちろん、現代テーラワーダ仏教では、慈悲喜捨は単なるサマタ瞑想で念じるテーマ(によって生じさせる心の波動)に過ぎないので、預流果レベルや一来果レベルの悟りであろうが、「慈で(預流果に)悟れる」とか「悲で(一来果に)悟れる」とか言うと、関係諸賢に怒られるかもしれないが、これはあくまでも僕の仮説である。
コメント
コメントを投稿