リプライありがとうございます。一つずつお答えさせていただきますね。
①鞭の使用について
・聖書中に出てくる「鞭」という言葉の使用ですが、文字通りの意味以外も含まれていると考えています。それは、日本語でも慣用句として「愛の鞭」を使うの同様でしょう。
一部報道等で言われているような、すべてを文字通りの「鞭」打ちJWが捉えていることはありません。ご存知かと思いますが、JWが再三述べているのは「懲らしめ」です。
「懲らしめ」(discipline)は“教え諭す”という概念を持っています。教え諭すことを目標にして与える訓練であり、その訓練の中に体罰も含まれるということです。
・体罰をするか
これは聖書に書かれている一つの要素が関係していると考えています。
「父親は、子供をいら立たせないようにし、エホバが望む指導と助言によって育ててください」エフェソス6:4
子供がいらだつ、つまり子供が親の愛を感じず受け入れられないものか、それとも愛を感じ感謝を抱くようになるか、これが重要なポイントです。
お子さんが2人以上いらっしゃるなら、自分の子供でも考え方や受け止め方が全く異なると感じられることでしょう。注意するとき、ある子は一言で理解する子もいれば、何回も言わなければいけない子もいます。
それは、子供の育つ環境や時代によっても同様ではないでしょうか。ゆとり世代、Z世代、その世代によって感じ方や受け止め方は異なるものです。
体罰においても同様だと私は考えています。体罰を受けた子供がそれをどう感じるか、虐待と感じるか、親の愛と感じるか、それは世代や子供それぞれによって大きな差があります。
しかし、共通するのは“教え諭す”ことが目的であり、必要な状況ではお尻を叩くといった体罰も含まれるということ。しかし、「子供をいら立たせない」ということです。
政府が体罰は虐待と定義しているのは、現代の日本の子供においては体罰によって「いら立つ」の顕著であり、教え諭すことにはならないという見解なのでしょう。
私自身も現代の子供たちとっては、体罰によって親の愛を感じるのは難しいのだろうと感じています。
・過去の体罰によって傷ついた方
「子供をいら立たせない」という大原則があるにもかかわらず深い傷を負うような経験をした方の話を聞くと、非常に悲しく思います。常軌を逸した体罰はあってはならないことです。そうした記憶のある親であれば、子供に誠実に謝るべきだと私は考えています。
1960年代〜1980年代の出版物において、お尻を叩くことや細長い棒で叩く記述をご覧になられたことと思います。この時代の子供(私や私の友人たちを含む)は、こうした体罰を親の愛として受け入れ感謝できる世代でした。
こうした具体的な記述がある記事においても、愛をもって行うこと、そして専ら教え諭すことを主眼においています。究極的な方法として体罰をあげていることに同意なさるのではないでしょうか。
「子供をいら立たせない」懲らしめ。これは現在も、そしてこれから行っていきます。それが聖書の教えだからです。
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