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帰ってほしくない話

帰ってほしくない話 - -------の小説 - pixiv
帰ってほしくない話 - -------の小説 - pixiv
20,457文字
帰りたい話
帰ってほしくない話
トリップしてきた子と書記官の話の続き 全4話

※ネームレス
※ver3.8までの内容、キャラボイス、ストーリーのネタバレを含みます
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2023年7月24日 08:33




帰ってほしくない話



 異世界からやってきた人間の希少性は、どれほどのものなのか。
 アザール達の計画を阻止する際に協力した旅人という人物の存在を知らなければ、荒唐無稽な話だと一蹴していたことだろう。可能性の話としてであれば、他の世界、この世界とは違う選択をした異なる世界というは存在するのだろうと理解はできる。だがその存在を、自身の目で確かめることは困難だ。そして、その存在は、その世界がどのようなものであるかは、おそらく知るべきでは無いのだろう。確かめる方法についても同じように。
 だから、初めて彼女を見た時、彼女が本当に異世界から来た存在であるのかは甚だ疑問だった。精神を患っているとか、人を揶揄っている悪質な人間なのでは無いかと考えた。旅人のように神の目を持たずに元素力を使いこなせるのかと思ったが、そのような素振りを見せない。落ち着きなく周囲に視線を散らせながら、少し顔色を青ざめさせて、クラクサナリデビ様の話を黙って聞いている様子から得られる情報など、非力な唯の人間であるということしかない。力を隠している可能性は勿論ある。だが、俺の第一印象として、彼女はそこまで器用な人間では無いだろうと感じた。
 異世界にやってきた彼女には、当然だが住む家も仕事も、自分が何者であるかを証明するものも何も持たない。何を思ったのか、クラクサナリデビ様は彼女がこの世界で生きていけるように方々に手を回した。職場、住居、衣服。最低限の衣食住を整えて、その後の生き方は彼女に任せると。一人で考える必要があるだろうと、そう言っていた。彼女の外見からの推測になるが、年齢は俺とそう変わらない。自身の置かれた状況に対して、今後どうしていくのか、何をすべきなのか、元の世界に変える方法を探すのかどうか。その全てを自身で考えて決断する能力があるのは、間違いないだろう。彼女がもっと幼い子どもであったなら、話は別かもしれないが。
 ただ、生き方を任せると言っても、生きるための最低限の知識がなければそもそも生きることが難しい。彼女への聞き取りの結果、言葉は通じるものの書いている文字が読めないということが分かった。奇妙な話ではあるのだが、彼女が実際に書いてみせた文字と、テイワットで使用されている、或いはかつて使用されていたどの文字とも異なるものであったのは確かだ。そこで白羽の矢が立ったのが俺だった。
 例の一件以来、クラクサナリデビ様と接する機会が増えたことに合わせて、何かと仕事を振ってくるようにもなっている。遠慮をなくしたと言うのか、国の実権を握る存在としては当然の振る舞いであると言うべきか。書記官の仕事を楽だとは思っているが、仕事を増やされればそれも変わってくる。第一、彼女がこの世界にやって来て紆余曲折を経てクラクサナリデビ様の前までやって来た際に、俺を同席させた時点である程度嫌な予感はしていたし、面倒事を押し付けるつもりなのだろうと察していた。
 要は、彼女に言葉を教えてやれと。彼女の国の言葉を知れる機会にもなるから、貴方にとっても良い刺激になるのでは無いかと。果たしてそうだろうか。彼女の使う言葉に興味を抱いたのは事実だ。文字の形だけを見ても、少なくとも三種類以上の異なる形態の文字を組み合わせているように見えた。この文字の構造を分析するのは面白いだろうと思った。しかし、彼女が自身の使う文字に対して造詣が深いようには見えない。基礎的な知識として文字を学んだ人間に、果たして文字の成り立ちや変遷がわかるだろうか。十中八九無理だろう。かと言って、上司に振られた仕事を断るわけにもいかない。仕方がなく、彼女へ文字を教えることになった。
 彼女は俺が想像するよりも賢かった。文字を教えると、平均よりは早い速度で知識を吸収していった。彼女は俺の教え方が上手いからだとか、言葉が通じるから覚えやすかったんだとか、謙遜するようなセリフを言っていたがあれは彼女自身の能力によるものだ。言っておくが、俺が人に物を教える能力は平均以下である自覚がある。
 文字を教えるついでに彼女の生活で困っていることはないか、それを聞き取るのも仕事の一つだった。要望や不満が、例えば知識不足によるものなのか、物資が足りていないことによるものなのか、或いは彼女の甘えなのかを確認して、当たり障りのないアドバイスを交えながらストレスを吐き出させる。俺は生きていくことに対して一人でも構わないが、それは俺が元来この世界の住人であるからであって、生活を全て捨てさせられた彼女はそうもいかない。彼女には、不満を言える相手も、相談ができる相手もいないのだから。当たり障りのないアドバイスをする俺に対して、彼女も当たり障りのない日常的な話題しか振ってこない。遠慮、というよりも、警戒しているのか。ただでさえ頼る相手の少ない中で、勉学を教わり定期的な面談をさせられている相手が俺のような存在であれば、それも当たり前だろう。
 彼女との付き合いが、この世界で一番長いのは否応なしに俺になるのだから、警戒するだけ無駄だと思うのだが。
 さっさと友人を作ってしまえばいいものの、友人作りに於いては俺は役に立てない。友人という存在そのものを否定はしないが、俺に友と呼べる人間は極少ない。友人が多ければいいという物でもないだろうが、どうやって作ればいいのかと問われればそれは君次第だろうとしか言いようがない。知識レベルが同じなのか、同じ学派に所属しているのか、過去に共同研究をしたことがあるのか若しくはこれからしようと思っているのかどうか。学者であれば考えられる接点はいくらでもあるが、彼女のような場合では分からない。まあ、彼女も子どもではないのだから周囲に溶け込むきっかけさえあれば、あとは彼女自身の人柄で何とでもなるのだろうと思う。彼女の人柄は悪くない。むしろ良い方だ。友人ができるのも、相談相手が俺ではなくなるのも、時間の問題だろう。
 なぜ俺は、彼女が友人を作れるかどうかを気にしているのだろうか。どちらでも、俺には関係がないだろうに。
 
 
 仕事終わりに酒場に行くのも習慣の一つだ。人にこの事を伝えると意外そうな反応をされるのは、俺がこの習慣を持っていることに対しての感情なのか、俺がプライベートの過ごし方を伝えたことに対しての感濁なのかは分からない。両方の可能性もある。
 彼女はプライベートの時間をどう過ごしているのだろう。個人的な部分にはあまり踏み入るべきではない。他人だから、という理由だけではない。男女だから、というわけでもない。俺は彼女に信頼されているのかが分からない。彼女の本心が見えない。定期的に会うことがあっても、そこで見えるのは日常生活に特に問題が無さそうだということだけだ。困ったことはないか、特に無いよ。分からない事はないか、今は平気だよ。お決まりのやり取りだ。
 俺にだけ隠されているという訳ではない。きっと誰にも本心を晒していない。晒せる相手がいない。いや、本当に不満も何もないのかもしれない。その可能性だって捨てきれない。
 そう思っていたのだが、彼女から青いスメールローズに関する話を聞いて、そうではないと認識を改めた。彼女はずっと元の世界に帰りたいと思っている。その気持ちを打ち明けられたのは喜ばしい事だ。
 隠していた本心が晒されたからといって、特別距離が近くなったということは無かった。変わらず数時間言葉を教え、数十分会話をして、帰宅する。彼女のテイワットの言葉の習得状況を考えれば、教えることが無くなるのも時間の問題だ。そうなれば彼女と会う機会は殆どなくなる。その事実を受け入れ難いと感じている自分がいる。
 だから、次の手を打つ必要がある。
 その次の手を考えるためにも寄った酒場で、まさか彼女に会うとは思っていなかったが。彼女のプライベートを知らないと思っていたが、それは彼女が自宅と職場以外の場所を避けていたからというのも理由の一つだ。どこにもいないなら、探しようも見つけようもなくて当然だ。避けていたはずの場所に、彼女が自分からやってきたのだ。これ以上のチャンスはないだろう。

「君が酒場にいるとは、珍しい」
「アルハイゼン、こんばんは」
「こんばんは。隣に座っても?」
「どうぞー」

 話しかけた時の反応から、すでに相当の量の酒が入っているように見える。普段飲むのはお互い一杯のみ、飲み終わるまでの時間で短い会話をする。その一杯の間で彼女が酔っている姿を見たことはない。初めて見る姿がに好奇心が煽られる。どんな酔い方をするのだろう。好きな酒は何だろう。

「君はこういった場を避けていると思っていた。定期報告のためにここで会うことはあるが、あれは君が奢りたいからだろう」
「バレてたんだ。その通りだよ。酒場というか、他のお店だって避けてた」
「なぜ?」
「この世界に馴染みたく無かったから」

 避けていたのはやはり間違いなかったようだ。その理由も、凡そ予想していた通り。帰りたいと願っている彼女が、この世界の事を知り愛着が湧けば帰り難くなるのは当然だ。なのに、彼女は今ここにいる。避けていた場所で、飲まないようにしていた酒を飲み、使いたがらない金を自分のために使っている。珍しい彼女の隣に座りながら通りすがりの店員に酒を頼む。彼女と同じ物を、あと水を一杯。

「青いスメールローズを求める程度には、帰りたいと言っていたな。関わりを増やせば、嫌でもこの世界に愛着が湧く。君はそれを避けていたということか。なら、今ここにいるのはこの世界に馴染もうとしているのか」

 届いた酒を煽る。飲み慣れた味だ。美味いとも、不味いとも言えない酒場の酒。それでも彼女にとっては知らない味なのだろう。この味は、彼女の好みなのだろうか。そうでないなら、好みのものが見つかるまで付き合ってみるのも面白いかもしれない。

「うーん、いや、どうかな。馴染もうとは思っていないかも。ここに来たのはヤケ酒が半分と、余計なことを考えなくて済むかもしれないと思ったから」
「ヤケ酒?」

 酒を煽る彼女を横目に見る。彼女の顔をそうしっかりと見たことはないが、普段よりも目元が潤んでいるように見える。酒の効果か、それ以外の要因か。酒による効果は大きいのだろう。彼女がここまで口数が多いのは珍しい事だ。少なくとも、俺の知る彼女は自分のことを多くは語らなかった。これが素の彼女であってくれればと、期待をしている。

「そう。なんかね、帰れないんだって」
「君のいた世界にか。誰から聞いた」
「クラクサナリデビ様。今日呼び出されて、話して来た。帰る方法はわからないから、これからの生き方を考えてほしいって」
「そうか」
「家族とか、仕事とか、いろんなものを置いて来ちゃった。お別れ言えてないし、まあ、言える状況でここに来たわけじゃないんだけどね」
「家族」
「うん。家族」

 帰れなくなった。その言葉に、らしくもない感情を抱いた。抱いた感情の名前を決めるにはまだ早いだろうか。いいや、異世界から来たという人間にここまで肩入れして情を感じている時点で、彼女の口から『家族』という単語が出てきた事に焦りを感じた時点で、答えは既に決まっているようなものだ。それでも確認しないわけにはいかない。惚けたように的外れの問いかけをして、それを否定する答えを得てようやく安心できるくらいだ。安心した、という俺の言葉に彼女は何も感じていないようだが。酒のせいなのか、単に鈍いのか、可能性を考えていないからなのかは分からない。

「これからどうするつもりだ」
「どうしようもないよ。帰れないから、帰れない人の生き方をする。でも今は、どうやって生きていこうか決まってない」
「生き方がなければ、生きていけないのか」
「私はそうだよ。向こうでもそうだった。やりたいことがあって、そこに向かってお金を貯めたり仕事を頑張ったりしていた。こっちに来てからは、帰る方法がわかるまでの一時凌ぎとして、勉強して仕事をしていた」
「そのどちらも無くなった君は、目標を見失っている」
「うん」

 ああ、これだ。次の手はこれだ。目標がないと生きられないなら、目標を作ってやれば良い。目標を作るための相談でも、何でも良い。そうすれば、彼女との接点を減らすことは無く、その上彼女のことをよく知る事もできる。酒を飲み進める彼女の話を聞きながら、考える。その思考が、彼女の放った一言で霧散する。

「寂しい」
「ふむ」
「帰れると思ってたのに帰れなくて、家族に会えなくて、私を知っている人が一人もいなくて、私の常識が通じなくて、ひとりぼっちで寂しい」

 彼女の素直な感情を聞くのは初めてだった。当たり障りのない社交辞令のようなやり取りではなく、本心からの言葉だ。どうしようもない孤独を感じているから寂しいと感じていると、彼女自身の口から聞けた。想いを素直に口にするのは簡単なことではない。酒の力を借りたというのが引っ掛かるところではあるが、いずれはというのは俺の目標にすれば良い。
 しかし、些か飲み過ぎだ。彼女のためにと思って水を用意していたが、これでは間に合いそうにない。酔っ払っている状態なだけで泥酔している訳ではないのは、彼女の理性の賜物だろう。俺はここで彼女につけ入ろうとするつもりは全くないが、タチの悪い相手であれば無事では済まなかっただろう。今日店に来たのは俺のためにも、彼女のためにもなったと言える。

「君の本心が聞けたのは何よりの収穫だと思うが、飲み過ぎだ。水を飲んだ方がいい。この世界の酒が、君の体にどの程度の影響を及ぼすのかはまだ未知数だ。一杯ならまだしも、それ以上は控えろ」
「別にいい。ここで生きるならこれにも慣れなきゃいけない。アルハイゼンの好きなお酒は? それも飲んでみたい」

 妙なところで気が合うのか、俺の好きな酒を聞いてくる彼女に気分が良くなる。

「俺の好きな酒を教える代わりに、君の好きな酒も教えてくれ」
「この世界にあるのか分からないよ」
「無ければ作ればいい。完璧に、全く同じとはいかなくても近いものは再現できるだろう」
「この世界はお酒を勝手に作っても大丈夫なんだ……?」
「それと、君を知っている人間はここにいる。元々いた世界での君のことは知らないが、おそらくこの世界で君のことを一番理解しているの俺だ。だから、君が孤独を感じる必要はない」

 彼女の本音をここまで引き出して、彼女のいた世界のことを一番知っているのは間違いなく俺だろう。クラクサナリデビ様でもなく、マハマトラでもなく、俺だろう。それでもまだ知っている事は少ない。彼女も俺のことをほとんど知らないだろう。知りたいという感情ではなく、知られたいと感じたのは初めてだ。だから、まだ彼女に元の世界に帰ってほしくはない。知っていることも知って欲しいことも何もかもが足りていない。
 そんな感情がただの友情であるはずがない。
 



一人にしない話



 彼女が元の世界に帰れない事を受け入れた後も、俺と彼女の関係に特に目立った変化はなかった。全く何もかもがそのままである訳ではない。俺と彼女の関係以外であれば、本当に些細な変化だが変わった部分はある。
 まずは、彼女がこの世界の事をより深く知ろうとしている事。いずれ帰るまでの一時凌ぎとしての知識は、本当にただ生きていくための最低限のものに過ぎない。単純な仕事と意思疎通のために必須な文字の読み書きと、通貨の考え方。幸いにも彼女の口から放たれる言葉だけは、なぜかテイワットであっても通じるものであったから、習得は早かった。
 金銭感覚についても同様だ。もし彼女が元いた世界ではどこかの貴族の令嬢や身分の高い人間だった場合、現状を受け入れて節制して生きる事自体が難しかっただろう。まあ、些か倹約家が過ぎるのでは無いかとも思ったが。彼女が稼いだ金なのだから好きに使えば良いものを、いつか帰れると分かった時に関わってきた人に返したいと思っていたらしく、身につけるものも、家具も極最低限の物のみを使用していた。様々な人に助けられてここにいるのに、贅沢なんて出来ないと言っていた。彼女が自分の力で働いて得た正当な報酬であるはずなのにと、そう考えもしたが、あれも結局はいずれは帰ると自分に言い聞かせるための行動だったのだろう。現状を受け入れた彼女は、以前よりも外食の機会が増えたと言っていた。
 この世界の事を知るために、シティ内を散策しているらしい。その中でもランバド酒場は通い慣れた店だと言っていたが、例の会話以降通い慣れるほど店に行っては酒を飲んでいるのかと思うと、なぜ俺を誘わないのかと一言文句を言ってやりたい気持ちになる。この世界で彼女のことを一番よく知っているのは俺であると言う自負が、そのうちランバド店主に取って代わられるのではないかと、気が気ではない。
 あとよく訪れると言っていたのは、書店だったか。スメールが知恵の国と呼ばれるだけあって、教令院内でなくとも恐らく他国よりは書店も、本自体も多いのだろう。俺も古書店へ行っては初めて見る書籍を手当たり次第に買い漁ることはあるが、彼女の場合は手当たり次第というわけにもいかない。あくまで習得したのは最低限の言語だ。読めない、書けない単語というのは、想像するよりも遥かに多く存在している。
 だから、彼女がよく買うのは稲妻の娯楽小説か、図鑑や辞書の類らしい。確かに、娯楽小説であれば書き言葉とは言え分かりやすい表現で書かれているだろう。なぜ図鑑を買うのかと以前聞いたが、作中に出てくる動物や植物、魔物の見た目が想像できないからだそうだ。辞書についても同様だ。分からない言い回し、単語、動植物。それらをイメージしやすくするための手段としては、最も適しているだろう。
 だが、彼女に一言アドバイスを授けるとすれば、娯楽小説には筆者の作り出した造語や、事実を都合よく捻じ曲げた表現が多い。真剣な顔で辞書と図鑑を片手に、俺に「カニのバター添えって無相の一太刀への何らかの隠喩だったりする?」と尋ねられても、俺はそれへの答えを持っていない。彼女が持ち出してきた二つの書籍は関連作ではあると聞いた事はあるが。
 関わりが減るのだろうと思っていた矢先の、彼女が帰れない事に対して生きる目的を見失った事は付け入る隙だった筈だし、そう動いた。しかし、俺が相談に乗るまでもなく自ら進んでこの世界の事を知ろうとしていて、自分の力で目的を、目標を定めようとしている。
 一方で、俺個人への問い掛けは少ない。教令院がどのような機関であるのかを尋ねられた事も、知論派を含めた学派が何を専門にしているのかを尋ねられたこともある。だが、俺個人がどのような仕事をしているのかや、何が好きで嫌いかといった質問は無い。それこそ、あの日に尋ねられた俺の好きな酒は何か、以来からひとつも。
 彼女はあの日を受け入れてから雰囲気が変わった。明るくなったとは言えないが、以前よりも前向きになったように思う。知る事に対しても意欲的だ。なのに、やはり知る事に対して彼女なりの線引きがあるようで、具体的に言うと個人については知ろうとしない。
 俺は彼女のことを知りたいし、知って貰いたい。そうでなくては困る。
 
 数日ぶりに会った彼女の顔色が悪い事にはすぐに気がついた。以前会った際は多少の疲れを滲ませていたと記憶しているが、あれは会ったのが金曜日だったから仕事疲れだったのだと思う。一時的な疲労でしか無いものだったはずだ。だが目の前にいる彼女の顔色は、一時的な疲労では片付けられないほどのものだ。見た目も、女性に対してあまり深く言うべきではないとわかっていても指摘したくなる程度には、痩せ細ってきている。急激な変化だ。この状態であるならば、素人目に見ても恐らく健康面にも影響が出ているはずだ。
 顔色が悪いだけではなく、こちらの問いに対しての反応も良く無い。いつもなら軽快にテンポよく会話が続くはずが、彼女が数テンポ遅れているし、声に覇気も無い。

「聞いているのか?」
「……あ、うん。ごめん、聞いてなかった。何か言ってた?」

 誤魔化す事がなく素直に非を認める姿勢は好ましいと思う。これも変化の一つで、彼女は俺に対して物事を隠そうとする態度をしなくなった。以前までであれば聞いていたフリをするだろうし、話を逸らそうとしていたはずだ。誤魔化しも、有耶無耶もなくなった姿に、心を許されている特別感を感じずにはいられない。

「調子が悪そうだ。きちんと食事と睡眠は摂っているのか」
「うん」

 これは嘘だ。わかりやすいのは良い事のはずなのに、素直に喜び難い。

「君の嘘が分かりやすくなったのはそれだけ親しくなれているという事で、君が外面を取り繕う必要のない相手だと認識してくれていることの証明になるから俺としては嬉しいが、こうも分かりやすい嘘を吐かれるのは気分が良いとは言えないな」
「ご飯はちゃんと食べてるよ」
「では寝ていないのか。なぜだ」

 健康的な生活を送る上で必須の食事と睡眠。その一方が損なわれるだけでも、精神的にも肉体的にも負担は大きくなり疲労が取れなくなる。食事は摂っていると言っていたが、それも以前よりは食事の量も回数も減っているのだろう。そうでなければここまで痩せ細るはずがない。
 眠れない理由は様々あるのだろう。体が疲れていても精神が昂っていれば、あるはずの疲労感を感じずに眠れない事があるし、何か仕事や日常生活で不安に思う事があれば睡眠を妨げられる事もある。悩みがあって、聞いてやる事で負担が軽減できるのなら聞いてやりたいと思う。アドバイスを求められたら応じるつもりだし、彼女にとって俺という存在が相談しにくい相手であると思ってもいない。
 だが俺たちの間には明確に、性別による差が存在する。気心の知れた友人であろうと言い難いと感じることはあるだろうし、あって然るべきだ。全てを隠さない事が信頼の証であるとは思わない。それでも知りたいと思うのは、やはり配慮に欠けるのだろうか。

「眠りたくないから」

 彼女が話してくれることを期待して黙って待っていると、言いづらそうに口をまごつかせながら、口を開いてくれた。眠りたくない。眠らなくてはならないけれど、気持ちがそれを許さないという事だろうか。

「なぜ、眠りたくないんだ」
「夢を見たくないから」
「どんな夢を見るんだ」

 夢の内容を聞こうとすると、彼女が押し黙る。彼女のこの反応からして、大体の予想はついた。恐らく、彼女の元いた世界に関する夢を見ているのだろう。
 慌ただしく帰り方を探しながらも働いて、文字を学ぼうとしている間は考える余裕がなかったのか。帰れないことを認めて心に余裕ができたから、見てしまうようになったのか。そんなところだろう。
 人がホームシックになるのは、住み慣れた居場所から離れて直ぐであったり、逆に新しい場所での生活に慣れ始めた頃であったりと様々だ。彼女の場合は後者だろう。共通しているのは、元々いた場所のことを考えてしまう状況にあるという事。違いに慣れ始めている筈だが、それは同時に些細な違いに気づき始めることにもなる。彼女が苦しむのは、まだこれからだろう。眠れないのは、その始まりに過ぎない。手を打てるうちに打っておかなくては、取り返しのつかないことになりかねない。

「君が体調を悪そうにしているのは素直に心配になる。それ以外にも、この世界での治療法が君の体に合っているのか分からないし、薬が効くのかも分からない。早期の発見と治療方法の確立は、君の生命活動に大きく影響する重要な事だ。大事になる前に対処方法は知っておくに越した事はない。だが、男性である俺に言い難い内容であるならクラクサナリデビ様や、そうだな……頼りになる知り合いの女性を紹介しよう。だから、俺に言える内容なら素直に言ってくれ。難しいならそう言ってくれればいい」

 俺の言葉を皮切りに、彼女が眠れない理由を話し始める。予想していた通り、元いた世界の場所や出来事、家族や親しい友人を夢に見ていた。彼女がこれまで生きてきた中で大部分を占めていたそれらの記憶を無くせとは言えない。無くしてしまえたらどれだけ楽になるか、どれだけ俺のことを記憶させられるかを考えたことはあるが、決して彼女を悲しませたいわけではない。故郷を、家族を恋しいと思う気持ちがあるからこそ、彼女は彼女らしく生きていられるのだと思う。俺が知りたい彼女は恋しさ故に眠れなくて憔悴してしまうような彼女であり、そんな彼女だから俺を知って欲しいと思う。
 一人で目が覚めて、孤独を感じて泣いてしまうというのなら、一緒にいれば良いのではないか。そう提案してみたものの、やはり断られる。当然だ。ここで提案を飲んでしまわれると逆にどうするべきか、次の手を考える時間を要する。一緒に寝ること自体が目的ではない。いずれはそうなって欲しいと思うが、今は意識を変えることと植え付ける事が優先される。

「俺は君に優しくありたいと思っている。だから、一人で悩んでいる事を後から知ったり、体調に異変が起きてから気づくなんて事は極力無くしたい」
「やさしいというか甘い」 

 彼女は恥ずかしそうに手元のグラスを弄っている。俺の提案の突拍子の無さに普段の彼女の雰囲気が戻りつつある。あまり無理をさせる訳にはいかないから、回答を急かすつもりはない。少し置いてから持ち帰って検討すると、社会人として正しい回答を残してその日は解散した。
 

 後日。俺の提案に思考を占領されてからよく眠れるようになったと、彼女が報告してきた。眠れるようになったのは良いことだし、嘘ではなさそうだ。その証拠に、以前よりも顔色が良くなっているし食欲も戻っているようだ。
 だが、俺のことを全く意識していないからこそ眠れるのだろうと思うと、不満に感じる部分があるのは確かだ。


気づきたくない話



「君のことが知りたい」
「私のこと?」

 シティ以外の場所を知らないだろうからと、アルハイゼンに連れ出された先はオルモス港だった。
 この世界の地理については大雑把に大きな大陸と島と、七つの大きな国の位置関係のみは覚えたけれど、国と国の間にある街や都市といったものはまだ覚えきれていない。オルモス港もその内の一つだ。シティがスメール内陸部にあるのに対し、オルモス港はその名の通り海に面した港町だ。船の往来があるお陰で他国から海を渡ってやってくる際の玄関口になり、それ故にさまざまな物が、一旦は集まる場所になる。
 一応、モンドや璃月とは陸続きにはなっているようなのだが、陸路にかかる時間を考えると海路を使った方が早いようだ。この世界には空路は存在しないらしい。(と言っても、免許制ではあるが【風の翼】と呼ばれる道具があるらしい。翼を展開させることで空を滑空できるのだとか。私もいつか免許を取ってみたい)
 この国の物流に関税があるのだろうかとか、規制品のようなものはあるのだろうかと気になることはたくさんあるから、今度アルハイゼンに聞いてみよう。彼のことだ、全て頭に入れているに違いない。輸入した物が規則に反しているから全て却下しよう、とか。うん、言ってそうだ。
 そんなオルモス港内にある酒場でアルハイゼンと飲んでいる。なんでもモンドに拠点を構えながらも、テイワット内でも有数の酒造所であるアカツキワイナリーのワインがスメールに卸されているらしい。アカツキワイナリーの知名度や味、希少価値を私はよく知らないけれど、アルハイゼンが興味を持ってわざわざオルモス港までやって来るくらいのものなのだから、相当な物である事は間違いないと思う。
 どのような手段を使ったのかは分からないけれど、そんなワインを昼間から飲みながらいつものように他愛のない話をしている。ワインなんて久しぶりに飲んだ、と言う私の発言から、好きな酒の種類の話になり、実はビールよりもワインの方が好きだと言い、そして冒頭の会話につながる。

「そうだ。何でもいい」
「何でもって言われると逆に何を言ったらいいのか困るよ」

 好きなものと漠然と言われても答えに困る。飛び抜けて好きだと言えるものは何だろうと少し考えて、なぜか目の前の人が頭に浮かんだけれど、気の迷いだと振り払う。一番頭に浮かんではいけない事だ。

「ならこちらから聞こう。好きな食べ物は」
「それは、この世界の食べ物限定? 元いた世界のものでもいいの?」
「君が好きなものであればどちらでも構わない」
「じゃあ……シャフリサブスシチューだっけ。あれ好きだよ。食べたことのない風味がするのと、お肉が柔らかくて好き。ああいうスパイスの強いものも好きだけど……もっとこう、家庭的なカレーみたいなのも好き」

 スメールのスパイスと果実や砂糖の甘さが際立つ料理にも慣れつつあるが、どうしても故郷の味が恋しくなることはある。味が恋しくなるだけで帰りたいと言う気持ちは以前ほど強く感じないのは進歩していると思いたい。それでも時折、とても魚介や海藻の出汁と味噌が恋しくなるのは、きっと一生続くのだろう。

「シャフリサブスシチューか。あれは俺の得意料理だ。今度振る舞ってあげるよ」
「やった」

 こう言っては失礼だから口には出さなかったが、アルハイゼンに得意料理があることが意外だった。自分で作るよりも既製品を買った方が早いと言いそうな印象を抱いていた。けれど、よく考えれば既製品を買うよりも自分の好みの味付けで、好きなように料理をする方が彼らしいのかもしれない。

「家庭的なカレーとはどんなものだ。カレーシュリムプやバターチキンカレーとは違うのか」
「私の言う家庭的なカレーはスパイスたっぷりだったり自分で調合するような物じゃ無くて、市販のカレールーがあるの。具材を煮て、ルーを溶かせば完成するお手軽なやつ」
「想像がつかないな。それでは各家庭による味の違いが無いのでは?」
「入れる具材とか、隠し味が違ったりするよ。お肉は絶対にこの肉じゃなきゃダメだとか、仕上げに珈琲を入れるとか」
「なるほど。君の作る場合が知りたいんだが、難しいか」
「そうだねぇ……市販のルーがないから難しいかな」
「残念だ」

 生憎市販のルーに何が入っているのか、成分表までを覚えているなんて事はないから、再現はできない。カレーでなければ再現はできる、かもしれない。確か、稲妻の料理は私の知る「和食」に近いものがあったはずだから、きっと調味料やお米の種類も知っているものに近いはずだ。
 アルハイゼンは稲妻料理は好きなのだろうか。好みでないのなら、私が彼に振る舞える料理は殆ど無いに等しくなり、少しだけ悲しいような気がする。

「他に聞きたいことは?」
「好きな休日の過ごし方」
「こうしてアルハイゼンと食べたり飲んだりしながら話すことと、シティを散策すること」
「余暇の過ごし方に俺を含めてくれているのか」
「そりゃそうだよ。まだ友達らしい友達いないし」
「友人か。まあいい。俺と君とこうして過ごすのを気に入っているよ」

 友人を作らなくてはと思いつつ、自分のことで手一杯であることは依然として変わりなく、知識不足から人との付き合いにまだ恐れを抱いている部分がある。アルハイゼンに連れ回されるだけではなく、自分から外に繰り出す必要があるのだろう。いつまでもアルハイゼンの後をついて回るようでは、友人なんて出来ない。そう思いながらも、アルハイゼンさえいればいいのでは無いか、と思う事もある。人に依存するべきでは無いと思うのに、彼以上に居心地が良い人なんているのだろうかと考え始めてしまう。
 アルハイゼンのせいにするのは間違っていると分かっているけれど、居心地の良い存在になっている彼のせいにしたい。

「アルハイゼンは休みの日、何してるの?」
「俺も君と似たようなものだ。君と過ごさない時は自宅で本を読むか、フィールドワークに出ている」
「休みの日にまで私に付き合わなくてもいいのに」
「好きでやっていることだ。君との付き合いを義務だとは感じていない」

 好きでやっている事なんて、そんな私を甘やかすようなセリフを平気で言えてしまうのが悪いのだと思う。もう先ほどからずっと責任転嫁する事しか考えていないような気がするけれど。
 アルハイゼンが下心を込めてそう言っているようには見えないし、かと言って、さらりと放たれるこっちが恥ずかしくなるようなセリフは嘘では無いのだと感じてしまうのだからタチが悪い。
 これで彼が下心しかない意図でこんな態度とセリフを吐きまくっているのなら、もう少し表情筋を動かしてくれ、と文句を言ってやりたいところだ。

「これは聞いたら失礼かもしれないんだけど」
「言ってみろ」
「アルハイゼンって友達いる?」
「あまり多くはない方だな。居るには居るが、休日を共に過ごしたいと思う友人はいない」
「そっか。義務じゃないって言ってたけど、アルハイゼンのやりたい事を優先してくれていいからね」

 休日を共に過ごしたい友人はいない、と言う言葉が少しだけ引っかかる。なら、私は何なのだろうと考えてしまう。以前親友になるつもりはないと言われた事があるのだから、友人ですらなく、やはりただ仕事で面倒を見ているだけなのではないか、と。義務では無いというのも、義務感を抱いていないだけという捉え方だって出来る。
 以前、ちょっとした事故で二人で閉じ込められた時の決意が、簡単に揺らぎそうになる。甘えてはいけないと考えるほど、彼の態度と言葉が甘えを許しているように見えて仕方がない。

「……まあいい。次だ。好きな異性のタイプ」
「流れ変わってない?」
「変わっていない。君の好きな事を聞いている」
「事っていうか、人っていうか……」
「どうなんだ」
「すごく急かすね。好きな異性のタイプかあ」

 貴方が一番好みですと言えたらいい。言わないけれど。言ってどうなるのだと思うし、言葉にしてアルハイゼンに伝えて、どんな反応が返ってくるのかが分からなくて怖い。唯一の【友人】を失うのはとても恐ろしい。
 ああ、やっぱり早く友人を作らなくては。もっと他者との関わりを増やしていかなくては。このまま依存してしまうのは危険だ。彼を唯一にしてしまうのは避けるべきだ。
 すでに私にとってのアルハイゼンという人は特別で何物にも変え難く、他の誰かでは代わりになんて出来ないほどの存在になっている。まだ引き返せると思いたい。そうでなくては、どうすれば良いのか分からない。

「好みの顔でもいいが。体格や職業、収入でもいい」

 体格ってなんだろう、と思ってしまったのは仕方がないと思う。好みを知るという話であれば違和感はないのだろうか。体格なんて気にして人と接した事はないし、収入だってそうだ。それこそ、将来的に一緒に生きていく人を考える時になって気にするようになる事ではないかと思う。
 もしかしたらテイワットではお付き合いをする事が、そのまま将来を約束する事につながったりするのかもしれない。そうなると、軽率に好きだの嫌いだの、お試しで付き合ってみよう、みたいな事は出来ない世界の可能性もある。
 異世界という存在を身をもって初めて経験しているから、どこまで自分の常識が通用するのかが分からない。だから、テイワットでの常識への一つの指標として、アルハイゼンの言動と様子から考えるようにしている。彼は悪人ではないのは確かだし、頭も良く知識も豊富だ。だからきっと間違っているなんて事はないと信じている。

「結婚相談所とかってこんな感じなのかな……改めて言われると好みってよく分からないかも。よっぽど変人とかついていけない価値観の人でなければ嫌いじゃないし。顔はまあ、整っていればいいと思うけど絶対の条件じゃないし」
「俺の顔はどうだ」
「すごく好みだよ」

 顔が好みだと伝えることくらいは許されるだろう。顔が好きだから恋人になりたい、という話でもない。あくまで好き嫌いの話だ。多分。

「君から見て、俺は価値観の合わない変人に見えるか」
「ちょっと変わった人だとは思うけど、すごく変人だとは思っていないよ。価値観はまだそこまでアルハイゼンのことを知らないから、何とも言えないけどね」

 異様に面倒見が良くて表情が変わらない事に対してなら、変わった人だと思う。けれどそれだけだ。飛び抜けて変人だと思うような奇行に走る姿を見た事がないし、妙なことをされた記憶もない。
 価値観に至っては、アルハイゼンをテイワットに於ける常識の例としているから何とも言えない。彼の行動のどれが彼個人の価値観に基づくものなのか、区別のしようがないからだ。

「そうか。ありがとう」
「どういたしまして?」

 なんだかよく分からない問いだったが、友人が喜んでくれたならそれでいいか。
 問いかけられるばかりだったから、次は私が同じ質問をしてみよう。どんな答えが返ってくるのか楽しみだ。


気づかせたい話



彼女をシティの外に連れ出したのは、本当にただの思いつきだ。この世界で生きていくと決めたのなら、シティだけではなく世界を知った方がいいだろうとは常々思ってはいたが、ではどこに連れていくかと言われると、戦う力がなく体力にもあまり期待ができない彼女の行ける範囲は限られる。遠すぎてもいけないし、近すぎては意味がない。かと言って、ただスメールの森林を案内するだけでは世界を知ることにはならないし、砂漠は論外だ。いずれは砂漠のような地域があることを知る必要はあると思うが、今の彼女が砂漠に行ったところで、暑さとエルマイト旅団の餌食になって終わるだけだ。
 世界を知るという行為は、ただ書物から得られる情報だけに止めるのではなく、その身をもって体験する事が重要になる。どんな物があるのか、匂いは、味は、人柄は。知るためには実際に手で触れ、鼻で嗅いで、舌で味わって、会話をするべきだろうと、そう考えている。
 しかし、いきなり璃月に連れていくわけにもいかない。璃月はテイワット中のものが集まる国であり、この世界の共通通貨であるモラを製造していたあの国は、世界を知るという意味ではこれ以上ないくらいに適しているだろう。だが、彼女が行くには些か遠すぎる。駄獣と馬と徒歩を使ったとしても、相当の日数を要する。
 ならば、と考えた時、残された選択肢はオルモス港だけだった。あの街なら、璃月ほどでは無いにせよ他国からの輸入も人の出入りも活発に行われているし、シティほど閉鎖的な訳でも無い。そう彼女を連れ出す前日の夜に思いついて、翌日誘って実行に移したという訳だ。
 尤も、彼女は俺がアカツキワイナリーの酒を目当てにしていると勘違いしているようだったが。まあ、理由の一つではあるし上手い誘い文句が出てこなかったから、利用させてもらったのはあるし、だからそう捉えてもらっている事には特に困らない。彼女が世界を知るべきだというのも実のところはただの建前で、ただ彼女と出かけるという行為をしてみたかっただけでもある。理由としてどちらを優先しているかと問われれば、ただ出かける方であると言える。第三者から見れば、どんな誘い方だと指摘を受けそうではあるのだが、この件に関しては俺と彼女の問題だ。彼女が俺を信頼してどんな理由であれ、それこそ下手な誘い文句でさえも疑う事なく、伝えられた言葉のまま受け止めて誘いに乗ってきているのだから、一体何が問題なのか。当人同士で納得しているのなら、余計な口を挟むべきでは無いだろう。
 といった内容をやたら口を挟みたがる同居人の男に伝えたところ、破裂寸前のフライムのような顔で怒っていた。第一、君は彼女と知り合いですら無いのに何故口を出せると思ったのか。甚だ疑問だ。

 オルモス港に着いてから酒場に到着するまでの道のりを、彼女はとても楽しそうに見物しながら歩いていた。ただでさえ小さな歩幅で歩くのが遅い彼女の歩みが、いつにも増して遅くなる。特段急かす用事も無く、一緒に出かける事が彼女の歩みの遅さのおかげで一秒でも長く続いているのであれば、俺が止める理由は特に無い。分からないものを見つけたら、嬉々とした表情で俺に報告し、それが何であるかを解説すればさらに顔が緩んでいく姿は見ていて気分が良い。彼女の良いところは、他者から受けたアドバイスや教えを素直に受け入れる事だろう。こちらとしても、教え甲斐があるというものだ。
 誘い文句の通りにワインを飲みながら会話をする。シティの酒場ではもっぱらビールを飲んでいたからビールが好みなのかと思っていたが、飲めるというだけで特段好みでは無かったようだ。どちらかといえば苦味のない果実酒や甘めのワインの方が好きらしい。それらを取り寄せるのに適した店はあっただろうかと記憶を探る。
 彼女自身の気質なのか、彼女の居た国の人々はそういった傾向にあるのか、与えられたものに対して不満を漏らす事がほとんどない。酒だって、好みでないのならそう言えば良いものを、特に困っていないからという理由だけで要求を表に出さない。厄介な性質だと思う。彼女が俺に体調不良を隠さなくなったり、困った時に一番頼る対象だと認識されていることはこちらとしても不満はないのだが、『本来したいこと』になると途端に読めなくなる。拒絶する意図は無いが、望んでいる訳でも無いという微妙なラインが非常に読みにくい。俺にだけでも全てを曝け出せと言ってやりたいところだが、それをこちらから要求したとして、彼女からしてみればハードルが高い。
 彼女はきっと、まだ何かを隠している。隠している、というよりも、自覚しないように見て見ぬふりをしていると言った方が正しいか。認めてしまえば早いだろうに、何が気になっているのか必死に目を逸らしている。目の前にぶら下がる餌を前にして、手を伸ばしかけている獣だ。尤も、その獣の理性が硬すぎるために、伸ばした手は早々に下ろされてしまうのだが。
 彼女がより良くこの世界で生きていくためにも、無理な我慢はするべきでは無い。既に慣れない世界で、自分を知る人がいない世界で、彼女がこれまで培ってきた人生経験が何も役に立たない世界で生きるという無理を強いられて、順応してきたのだから。その手助けをするくらいは、俺がしてやるべきだろう。そう考えて、彼女の好きなものを尋ねていった。手始めに、好きな食べ物から。

「それは、この世界の食べ物限定? 元いた世界のものでもいいの?」
「君が好きなものであればどちらでも構わない」
「じゃあ……シャフリサブスシチューだっけ。あれ好きだよ。食べたことのない風味がするのと、お肉が柔らかくて好き。ああいうスパイスの強いものも好きだけど……もっとこう、家庭的なカレーみたいなのも好き」

 俺の得意料理の名前が出てくるとは思わず、心が浮き立つ。なるほど、あれが彼女の好きなものなのかと思うと、ならば振る舞ってやらなくてはと思う。これは下心が多分に含まれている不純な動機ではあるが、一般的な人間の反応としては特に問題はないだろう。
 彼女が作るカレーにも興味がある。普段外食しかしていない様子だったから、てっきり自炊は不得意なのではと思っていたがそうでは無いらしい。自分で食べ慣れたものを作るのは、一種のリラックス効果が得られる。慣れないものを口にするよりも、心の安定は図れるだろう。しかし、彼女の言う家庭的なカレーとは一体何を指すのか。

「家庭的なカレーとはどんなものだ。カレーシュリムプやバターチキンカレーとは違うのか」
「私の言う家庭的なカレーはスパイスたっぷりだったり自分で調合するような物じゃ無くて、市販のカレールーがあるの。具材を煮て、ルーを溶かせば完成するお手軽なやつ」
「想像がつかないな。それでは各家庭による味の違いが無いのでは?」
「入れる具材とか、隠し味が違ったりするよ。お肉は絶対にこの肉じゃなきゃダメだとか、仕上げに珈琲を入れるとか」
「なるほど。君の作る場合が知りたいんだが、難しいか」
「そうだねぇ……市販のルーがないから難しいかな」
「残念だ」

 心の底から、落胆している自分がいる。彼女の味を知るには、彼女のいた世界で生成されている材料が必要であるのはほぼ間違いがなく、それをこの世界で再現するのはおそらく不可能に近い。たとえ近しい材料があったとしても、どのような割合で作られているのかが分からなければ、作りようがない。ならば、と考える。ならば、この世界のスパイスを彼女なりに使用してアレンジしたものを、彼女の味にしてしまえば問題はないのでは、と。現状考えられる方法はこれ以外に無い。彼女が自炊をする機会には協力を申してで、作ってもらおう。
 他に聞きたいことはないのか、と問われて手作りカレーの話をしようとするのは早計かと判断し、別の話題を振る。彼女の好きな休日の過ごし方。ありきたりな質問だ。

「こうしてアルハイゼンと食べたり飲んだりしながら話すことと、シティを散策すること」
「余暇の過ごし方に俺を含めてくれているのか」
「そりゃそうだよ。まだ友達らしい友達いないし」
「友人か。まあいい。俺と君とこうして過ごすのを気に入っているよ」

 友人という言葉に引っかかりを覚えるものの、好きなものの一つに自身が含められているのは喜ばしいことだ。『好き』を隠そうとする彼女からそう伝えられたのであれば尚更だ。今のところは、これで十分としてやってもいい気持ちと、まだ足りないと更に多くを求めている自分がいる。どちらに従うべきか。
 俺の抱くこの感情が、既に友情の域を超えているのは自覚している。俺にも異性の友人と呼べる存在はいる。友人である彼女らに、今目の前にいる俺を親友という枠組みに止めようとしたり友人であると態々伝えてくる彼女と同じ感情を抱いたことはない。知りたい、知られたいと思ったことも彼女が初めてだ。彼女から『好き』を聞き出そうとするのも、その『好き』の一部に俺が含まれていることに気分が高揚するのも、この感情の名称が何であるかを証明し続けている。
 今はまだ良い。彼女の世界は狭い。その世界の中で大部分を俺が占めていることは容易に想像がつく。だが、こうして外の世界を彼女に教えるのとで、彼女の世界は次第に広がっていくのは間違いがない。そうなった時、彼女の中で俺の居場所は今と同じ大きさを占領できるのだろうか。俺ではない誰かと出会い、惹かれ、その誰かの手を取ってしまうのだろうか。その場合、俺は彼女の幸せを心から手放しで祝福できるのだろうか。
 彼女から、自分に付き合うのは義務ではないなどというふざけた言葉を聞き流しながらも、腹の底に重い感情が湧いてくるのを感じる。これは、正しい感情なのか。自然なものなのか。それを判断する材料が少ない。彼女との関係は、俺自身の身勝手な願望や欲望で壊して良いものではない。
 それでも、聞かずにはいられない。少しでもこの重い感情を軽くするためにも、安心感を得るためにも、傷つけて壊してしまわないためにも必要なことであると、それだけは間違っていないはずだ。

「……まあいい。次だ。好きな異性のタイプ」
「流れ変わってない?」
「変わっていない。君の好きな事を聞いている」
「事っていうか、人っていうか……」
「どうなんだ」
「すごく急かすね。好きな異性のタイプかあ」

 彼女の返答を待つ。好きな異性のタイプと尋ね、返ってきた答えがあの同居人のような、俺とは正反対の男であった場合。その時、俺は。
 頭を捻りながら考え込む彼女に焦ったくなり、答えを急かすように具体的な条件を並べてみる。

「結婚相談所とかってこんな感じなのかな……改めて言われると好みってよく分からないかも。よっぽど変人とかついていけない価値観の人でなければ嫌いじゃないし。顔はまあ、整っていればいいと思うけど絶対の条件じゃないし」
「俺の顔はどうだ」
「すごく好みだよ」

 顔は好みらしい。

「君から見て、俺は価値観の合わない変人に見えるか」
「ちょっと変わった人だとは思うけど、すごく変人だとは思っていないよ。価値観はまだそこまでアルハイゼンのことを知らないから、何とも言えないけどね」

 俺のことを知ろうとしない君のせいだろうと言ってやりたいほど、腹の底の感情が蠢いているが、先ほどよりは幾分落ち着いている。だが、価値観が極端に合わない人間だと思われていないことは喜ぶべきだ。それもそうだろう。もし合わない人間であるなら、休日を共に過ごすのが好きだとは言わないだろうし、こうして出かける事もないだろう。
 答えを焦りすぎたか。慣れない感情に振り回されたようだ。らしくもない。彼女から嫌われているどころか、好意的に見られている事がわかっただけでも十分な収穫だろう。これから広がっていく彼女の世界の中で、俺がどれだけの部分を占領できるかは、これからの俺の努力次第ではあるだろうが、そう簡単に場所を明け渡してやるつもりもない。手に入れた地位を、役割を、信頼を、何ひとつとして誰かに奪われるわけにはいかない。
 さて、一番簡単で効率のいい方法は、やはりこの感情を伝えてしまう事だろうか。彼女はほぼ確実に、俺から向けられるこの感情から逃げるだろう。好きな異性のタイプについて尋ねた時、一瞬だけ彼女は俺を見て、直様目を逸らしたのを見逃してはいない。瞳が左右に揺れるのも、落ち着きなく視線を少しだけ彷徨わせたのも、誤魔化すように、掴ませないように、話を微妙に逸そうとしたことにも気づいている。だから、この重たい感情が少しだけ落ち着いたのだ。
 彼女が俺に抱く感情も、おそらく俺と同じものだ。今の彼女が認めようとしなくとも、認めさせることは簡単だ。


帰ってほしくない話
トリップしてきた子と書記官の話の続き 全4話

※ネームレス
※ver3.8までの内容、キャラボイス、ストーリーのネタバレを含みます
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2023年7月24日 08:33
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