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テイワットという世界にやって来て、約半年が経つ。私は元々この世界の人間ではなく、地球という星に生まれた人間だ。色々な事情があって、今はこのスメールという国で細々と仕事をしながら帰る方法を探している。
この世界にやって来た理由なんて大したものではない。フィクションの世界で物語が始まる導入としてはありきたりな出来事に巻き込まれ、目が覚めたら知らない世界の知らない森の中にいただけだ。保護してくれた人と、事情を知ったこの国の偉い人が手を回してくれたおかげで、住む場所と仕事を得ている。とてもありがたい話だ。
住む場所と仕事があるからといって、この世界に身を落ち着けるつもりは全くない。元々の生活は地球に存在していて、そこには家と仕事と立場が存在している。私が今まで生きて来た中で得たものを全て捨ててしまうほど、私は元いた世界のことを嫌いではないし、この世界のことは好きになるわけにはいかない。
優しい人は多いと思う。見ず知らずの身元の証明もできない人間を働かせてくれる職場も、方々に手を尽くしてくれた国の偉い人たちも、今横にいるこの男も皆親切だ。けれど、どうやっても自身がこの世界にとっては異質であるという疎外感は消せない。文字や言葉は必死で覚えた。完璧にとはいかなかったけれど。いつか元の世界に帰るつもりとはいえ、生活する上で文字の読み書きができないのは仕事ができないこととイコールだから。それでも、身を包む衣服がこの国のものになっても、口にする料理の味に慣れても、些細な常識や物の考え方が異なる事を知る度に、帰りたいという気持ちが強くなってしまうのだ。
「青いスメールローズって存在するの?」
「そういった内容は俺の所属する知論派ではなく生論派の分野になるが、青いスメールローズというものは聞いたことがない。おそらく過去の論文にも出てきたことはないだろう」
隣にいる男、アルハイゼンは私の文字の読み書きを指導してくれた人だ。国の偉い人に言われて面倒を見ることになったらしく、最初の頃はみっちりと勉強をさせられた。彼も暇ではないだろうに、文字も知らない、いい歳の女の世話をさせられて不憫だと思う。私が言うのもなんだけれど。
文字をある程度覚えた後は、帰る方法についての進捗の有無と、近況報告をするために定期的に会っている。そんなに堅苦しい関係ではなく、酒を片手に雑談や些細な愚痴をこぼす程度には親交を深めている、つもりだ。少なくとも私は。
彼はどちらかといえば人付き合いをあまり好まない人だと思っている。社会にいれば一定数は存在する、プライベートを全く見せない人。仕事はできるけれど、飲みの誘いには滅多に乗らないし、仕事中の雑談にも乗らないような人。私はそういう人は嫌いじゃない。仕事をしていれば、後は何をしてもその人の勝手だ。後は何より、彼は顔が整っている。
それでも、得体の知れない女に付き合わされている彼には申し訳なく思っているのは事実だから、定期的に会う場が酒場の場合、会計は私が持つことにしている。仕事をして得たお金(この世界ではモラというらしい)を使うにも丁度いい。
「そっか」
「残念そうだな。なぜ突然、青いスメールローズが出てきた」
酒を一口飲み、記憶を辿る。
「私のいた場所では、ずっと長いこと青の色素を持たないバラを青くしようって研究しててさ。私も詳しくないんだけれど、なんか他の青色の色素を持つ花から遺伝子情報を持ってきて、バラの遺伝子と掛け合わせて品種改良して実現させたんだって。それでも、ちゃんとした真っ青な状態にはできていないから、まだ研究中だとか言ってたかな」
「興味がそそられる内容ではあるが、恐らくその方法では教令院では取り締まられる内容だし、それだけではなく権利の剥奪と教令院の追放もされる可能性がある。通常の花の勾配であれば問題ないだろうが、遺伝子情報を操作するのは危険だろう。あと、スメールローズは厳密に言えばバラではない。ハマナスの一種だ」
教令院の「やってはいけないこと」には詳しくない。それでも、この世界の科学技術の発展具合を自分のいた世界と比較したり、物の考え方を見ていれば何となく察することはできる。そうしてまた、疎外感と異物感を感じてしまう。
「だろうね、教令院のことよく知らないけどアウトだろうなーとは思ってた。ていうか、あれバラじゃないんだ。紛らわしいね。……でね、その青いバラにも花言葉があってさ。テイワットにもあるんだよね? 花言葉」
「ある。が、俺は詳しくない」
頭のいい男でも花言葉には詳しくないらしい。アルハイゼンはいい人だけれど、浪漫や夢物語を尊ぶ人ではないと思っている。花言葉を知らなくても驚きはない。
「何となくそんな気はしてた。青いバラの花言葉は【奇跡】とか【夢叶う】なんだって」
「ほう。長年の研究の成果で不可能を可能にしたから、というわけか」
「そうそう」
もしそんな花があれば、今現在この世界で研究をしているという情報があれば、願掛けにでもしようかと思っていた。帰れるかどうかは分からない。ここに来たように突然この世界から追い出されて、元の世界に帰れるのかも知れない。だが、現状では手がかりがない。
毎朝目を覚ました時に感じる、草木と嗅いだことのない花の香りに小さな失望が積もり積もっていくのを感じている。
「それで、言いたいことは青いバラの生成方法ではないのだろう」
「大したことじゃないよ。ただ、青いスメールローズがもしあったら、私の夢も叶うのかなと思っただけ」
「そうか」
「いつ帰れるんだろうなぁ」
私の言葉に、アルハイゼンは少しだけ意外そうに目を開いている。私の夢が「元の世界に帰ること」なのはそんなに意外だっただろうか。
確かに私が漏らす愚痴は、大抵がこの国の湿気の多さと読めない文字があったことに対する物だ。今まで、彼の前で帰りたいと口走ったことは恐らく一度もない。
表面上は取り繕う必要があると思っていた。手を尽くして親切にしてくれている彼らを目の前に、自分が被害者面をするのは何だか違うような気がしていたから。けれど、その態度も少しずつ崩れて来ている自覚がある。
「帰りたいのか。普段は充実した日々を過ごしているように見えるし、異世界での生活も謳歌しているように思っていたのだが」
「青いスメールローズを求めるくらいには、帰りたいと思っているよ」
この世界の匂いや味に慣れてしまう前に。私にとってアルハイゼンという人の存在が大きくなりすぎてしまう前に、一刻も早く帰らなくてはいけないのだ。
スメールという広い国のうち、教令院があるスメールシティは巨大な樹の上に建てられている。下層ではわかりにくいが、バザールは木のうろの中にいるように感じられるし、上層、つまり教令院とさらにその上にあるスラサタンナ聖処は正に木の上に立っていると感じられる。木が腐らないのか、重量に耐えられるのかと考えたことがあるけれど、教令院でこの大樹をしっかり管理しているから問題ないらしい。ただ、管理する上で使用する肥料がとんでもない匂いを放つとか、何とか。
そんな大樹のより高いところ、スラサタンナ聖処からの帰り道を私は歩いている。異世界から来た不審な人間が、この国で生きていけるように取り計らってくれた国の偉い方──クラクサナリデビ様とお会いするなんてことは滅多に無い。クラクサナリデビ様はとても可愛らしい見た目をしているけれど、実際はかなり長く生きていてこの国の神としてスメールを治めているらしい。
神様なんて存在を実際に見たことはなかった。存在を信じていたかも怪しい。私は信仰心に篤い人間では無いけれど、何かの折に、例えば人生の節目になる選択を迫られている時なんかには神頼みをしてみたり、無意識のうちに信仰からくる行動をしていたかもしれない。けれど、神というのはあくまで架空の存在で、実態がないからこそ拠り所にしやすい存在だと思っていた。あんな、まるで人のような姿で話して気を遣って、喋るとは思っていなかったのだ。
クラクサナリデビ様にお会いした理由は、私が元の世界に帰れるかどうかについて話さなくてはいけないことがあるから、と呼び出されたからだ。呼び出された時点で、何となく結論は察していた。伝えなくてはいけないことがある、だから覚悟をしておけとそういうことなのだろうと。実際、私のこの予想は外れていなくて、結論としては私は元の世界には帰れないということになった。
そもそも、私がこの世界にやって来た原因がわからない。何かしらの実験や装置や何と言ったか、秘境?地脈の異常?が、私が訪れた際には無かったらしい。何も無いところから突然現れたのが私だということだ。
来た方法がわからなければ返す方法もわからない。私自身にもここに来た心当たりなんてない。スメールは知恵の国とも言われるらしい。そんな知恵の国の持つ過去の記録や様々な文献を調べても、異世界に来た人間を返す方法はわからなかった、というのが結論だった。
ショックがないと言えば嘘になる。いつか帰れると信じて半年以上生きてきて、もうそろそろ一年にはなろうとしている。けれどそのいつかを願うだけ無駄になったし、私はこの世界で生きていくしかなくなってしまった。ここに来て随分経った。こちらの時間の流れと、元の世界の時間の流れが同じなのかは分からない。もし仮に、帰る方法が分かったとしても時間の流れが違っていて、帰ってみたら数十年経っていました、なんてことだって可能性としてはある。だから、だから帰れない方が良かったのだ。帰ってもどうにもならないのなら、慣れ始めたこの世界で生きていく方がよっぽど幸せなのではないか。
悶々とした気持ちを抱えたまま歩いて、気がつけば酒場の前に立っていた。お酒。こちらに来てからは、定期的に会うアルハイゼンと会う時にしか来ない店。我慢をしていたわけではないけれど、酒に使うお金を貯めておいて、いつか帰る方法が分かった時にお世話になった人たちへ返そうと思っていたから、無駄遣いになる酒場には来ないようにしていた。まあ、そのいつかは二度とやってこない事がわかってしまったわけなのだから、貯める必要も無いだろう。この世界で生きていくために、私が稼いだお金だ。私のために、酒くらい飲んでも構わないだろう。
店主に頼んだビールを一口飲む。元いた世界にも様々な風味のあるビールはあったけれど、この世界のビールにも独特の風味がある。多分、あちらには存在しない植物を使っているからだろう。些細なことで、違いを確認してしまうのはもはや癖だ。帰らなくてはと己を鼓舞するために続けて来た行為だ。帰れないと分かったとしても、癖になったものはそう簡単には無くせない。いつか故郷の酒の味も、大好きだった料理の味も忘れていくのだろう。
「君が酒場にいるとは、珍しい」
「アルハイゼン、こんばんは」
「こんばんは。隣に座っても?」
「どうぞー」
酒を飲みながら一人で感傷に浸っていると、見知った男がやって来た。私に文字を教えてくれたアルハイゼン。酒場で会うこと自体は珍しくないけれど、それは定期的な報告のためであって、こうしてプライベートで会うことはあまりない。私が関わらないように避けていたから。
「君はこういった場を避けていると思っていた。定期報告のためにここで会うことはあるが、あれは君が奢りたいからだろう」
「バレてたんだ。その通りだよ。酒場というか、他のお店だって避けてた」
「なぜ?」
「この世界に馴染みたく無かったから」
酒を煽る。
「青いスメールローズを求める程度には、帰りたいと言っていたな。関わりを増やせば、嫌でもこの世界に愛着が湧く。君はそれを避けていたということか。なら、今ここにいるのはこの世界に馴染もうとしているのか」
酒を煽る。この独特の風味にも慣れてきた。つまみと合わせれば美味しいと思う。この世界のビールの味は多分これが正しいのだろう。
「うーん、いや、どうかな。馴染もうとは思っていないかも。ここに来たのはヤケ酒が半分と、余計なことを考えなくて済むかもしれないと思ったから」
「ヤケ酒?」
酒を煽る。普段、アルハイゼンと会う時に酒場を選んだとしても、お互いに飲むのは一杯だけだ。その一杯が終わるまでに簡単に会話をして、それで終わる。できるだけ浅く、彼について新しく知る部分は少ないように。
アルコールの効果で思考がぼやけてきている感覚がする。このまま彼と会話を続けていると、持つべきでない感情が大きくなってしまう。わかっていても、酔った思考では口を開くのを止められない。
「そう。なんかね、帰れないんだって」
「君のいた世界にか。誰から聞いた」
「クラクサナリデビ様。今日呼び出されて、話して来た。帰る方法はわからないから、これからの生き方を考えてほしいって」
「そうか」
「家族とか、仕事とか、いろんなものを置いて来ちゃった。お別れ言えてないし、まあ、言える状況でここに来たわけじゃないんだけどね」
「家族」
「うん。家族」
私には家族がいる。至って普通の家族が。つまみを食べる。知らない味がする。家族の作った料理の味も忘れてしまうのだろうか。家族の声も、思い出も忘れてしまうのだろうか。突然いなくなった私に、家族はどう思うのだろう。
「結婚していたのか」
「ええ? 違うよ。結婚はしてない。普通に、家族。両親と兄弟がいたよ。会えなくなっちゃったけど」
「そうか、独り身か。安心したよ」
「私が独り身で安心するって何? まあいいや」
酒を煽る。どうやら今のが最後の一口だったらしい。おかわりを注文しようと、通りすがりの店員に話しかける。これと同じものを、一杯。あとつまみも追加で。
「これからどうするつもりだ」
「どうしようもないよ。帰れないから、帰れない人の生き方をする。でも今は、どうやって生きていこうか決まってない」
「生き方がなければ、生きていけないのか」
「私はそうだよ。向こうでもそうだった。やりたいことがあって、そこに向かってお金を貯めたり仕事を頑張ったりしていた。こっちに来てからは、帰る方法がわかるまでの一時凌ぎとして、勉強して仕事をしていた」
「そのどちらも無くなった君は、目標を見失っている」
「うん」
届いた新しい酒を煽る。慣れたつもりでも一口目のこの鼻に抜ける独特の匂いには、やはり慣れそうにない。馴染めない疎外感と異物感を抱えたまま、どうやって生きていけばいいのだろう。私の目的は何だろう。どこに向かって進めばいいのだろう。
「正直なところ」
「うん?」
これまで聞く側になっていたアルハイゼンの方から話を切り出して来た。
「君が帰りたがっていると知った時、どうすれば引き留められるかを考えた。君は外面を取り繕うのが上手い。俺の目にすら、君はこちらの世界で充実した日々を過ごしているように映っていたし、帰る方法がなくても問題ないと思っていた」
「大丈夫そうに見えていたなら、私の演技力も捨てたものじゃないね」
「だが、そうでは無かった。帰れないという事実を知って、ここでこうして酒を飲んでいる姿と、君が家族へどれほどの愛情を持っていたかを知って、君は俺が思うほど強い人間ではないと認識を改めた」
強く見せる必要があると思っていたから、そう振る舞っていた。私も成人した大人だ。嫌なことや理不尽なことがあったからといって、駄々を捏ねたり怒ったりは出来ない。それだけではなく、自身だけが被害者だと思うのが嫌だったから、というのも理由の一つだ。これについては、今日クラクサナリデビ様に言われたように何もないところから現れたのが私なのだから、誰も悪くない。巡り合わせが悪かったのか、何なのか。寧ろ、クラクサナリデビ様だけでなく、アルハイゼンにも雇ってくれている職場の人にも感謝しかない。けれど。
「寂しい」
「ふむ」
「帰れると思ってたのに帰れなくて、家族に会えなくて、私を知っている人が一人もいなくて、私の常識が通じなくて、ひとりぼっちで寂しい」
「君の本心が聞けたのは何よりの収穫だと思うが、飲み過ぎだ。水を飲んだ方がいい。この世界の酒が、君の体にどの程度の影響を及ぼすのかはまだ未知数だ。一杯ならまだしも、それ以上は控えろ」
「別にいい。ここで生きるならこれにも慣れなきゃいけない。アルハイゼンの好きなお酒は? それも飲んでみたい」
残り少なくなっていた二杯目も飲み干して、アルハイゼンに聞いてみる。この世界に馴染めるかどうかよりも、隣にいる男の好きなものなら好きになれるかもしれないと考えた。押し殺していたどうにもならない感情を制御する必要がなくなった今、酔いの効果も手伝って余計なことを口走りそうだ。それならそれで構わない。想いが受け取られなくてもいい。
「俺の好きな酒を教える代わりに、君の好きな酒も教えてくれ」
「この世界にあるのか分からないよ」
「無ければ作ればいい。完璧に、全く同じとはいかなくても近いものは再現できるだろう」
「この世界はお酒を勝手に作っても大丈夫なんだ……?」
「それと、君を知っている人間はここにいる。元々いた世界での君のことは知らないが、おそらくこの世界で君のことを一番理解しているの俺だ。だから、君が孤独を感じる必要はない」
なんだそれ。ただの面倒を見ている他人に対しては行き過ぎた発言だと思う。この発言をしているのがアルハイゼンで無ければ嘘だろう、冗談だろうと笑って流せるのだが、相手はアルハイゼンだ。良くも悪くも嘘もお世辞も言わない人間だと言うことは、出会ってからの付き合いでわかっている。
「アルハイゼンのこと、親友って呼んでもいい?」
「親友の枠に収まるつもりはない」
なんだそれ。
時刻は日付が変わり一時間程経った頃。読んでいた本から顔を上げて時計を確認した。ずいぶん長く本を読んでいたらしい。文字の読み書きは、専門的ではない本、稲妻の娯楽小説といっただろうか、その類であれば殆ど問題なく読める程度にはなっている。覚えが早かったのは、私の頭の出来が良かったとかそういう事ではない。教える人の教え方が上手かったことと、使う文字が異なっていても話す言葉は通じるというのが要因として大きいと思う。文字に対して、意味を結びつけやすかったのだ。まだ分からない部分があるとすれば、テイワット流の慣用句のようなものだろうか。クラクサナリデビ様の特有の比喩表現や、テイワット独自の生物を例えに出されると少し理解に時間がかかる。まだイメージが湧きにくい部分は残っている。
本を読んだ事で、少しだけ目に疲労感がある。いくら明日が休みだからといって、これ以上起きているのは体に悪いと思う。そう分かっていても、どうにも寝る気になれない。寝る気になれないと言うよりも、眠りたくないと言う方が正しいかもしれない。眠るべきだと思う。眠れない夜を本を読んだり外の音を聞きながら過ごしているけれど、時間を確認して眠れないまま次の日がやってくることに焦りを感じている。ああ、今日も眠れなかったと後悔してしまう。それでも眠れない。眠りたくない。
テイワットという世界にやって来て仕事にも環境にも随分なれて来たと思う。当初感じていた疲れや悩みは減って来ている。一方で、無視できない新たな悩みが生まれてしまっている。恐らく慣れない環境に対してのみ意識が向いていて、見ないふりをしていた不眠という部分が顔を出しているのだろう。
眠りたくない。夢を見てしまうから。
人は眠る時に夢を見る。その日にあった出来事を脳内で整理するために夢を見るだとか、精神的なものが作用して夢を見るだとか、原因はいろいろあると思う。私は詳しく知らないけれど、原因は夢を見る当人にある、と思う。ここのところ私が眠るのを避けているのが、夢で見る内容が元いた世界の過去の出来事の記憶だからだ。例えば、家族と旅行に行った時の記憶とか、友人たちと他愛もない話で盛り上がっていた学生時代だとか、そういったもの。やりかけの仕事だったり、いつか行こうと思っていたお店や場所。それらが夢を見るたびに次々と思い出されて、目が覚めた時に自分の居場所を知って、やりきれない感情に襲われる。
帰る方法がないから、この世界で生きると決めた。一人が寂しいと言った私に、孤独を感じる必要はないといってくれる友人がいた。だからもう寂しくないはずなのに、元いた世界に関連する夢を見ると必ず私は泣いている。目が覚めた時、目元に涙の跡が残っていたり、泣きながら目を覚ましている事もある。
夢を見るのが嫌になって、睡眠時間はどんどん減っていく。最初のうちは良かったけれど、積み重なった寝不足が体に悪影響を及ぼしているのは間違いない。
「聞いているのか?」
「……あ、うん。ごめん、聞いてなかった。何か言ってた?」
アルハイゼンとの定期的な会合は未だ続いている。変わったところがあるとすれば、以前は面倒を見る人と見られる人の関係だったものが、ただの友人としてのものになった事だろうか。以前から堅苦しい関係ではなかったけれど、この世界で唯一の友人と呼べる人になったから、私が気を緩めて会うことのできる貴重な人だ。
今だってそうだ。普段なら人の話を聞いていないなんて事はしない。どんな情報でも一つたりとも聞き逃すわけにはいかない。その情報が、この世界での常識だったりスメールで生きるために必要な知識である可能性が高いからだ。人の口から語られる情報は、移り変わりが激しい。けれど、新聞やニュースといった世間の情勢を知らせてくれる媒体がない以上、人の噂話から情報を得るしか無い。だから聞き逃せない。
ただ、アルハイゼンの前だとどうにも気が抜けてしまっていて、ぼんやりとしている事が多いように思う。それだけ彼を友人として好きだということになるから、悪いことではないはずだ。
「調子が悪そうだ。きちんと食事と睡眠は摂っているのか」
「うん」
「君の嘘が分かりやすくなったのはそれだけ親しくなれているという事で、君が外面を取り繕う必要のない相手だと認識してくれていることの証明になるから俺としては嬉しいが、こうも分かりやすい嘘を吐かれるのは気分が良いとは言えないな」
「ご飯はちゃんと食べてるよ」
「では寝ていないのか。なぜだ」
こんな話を彼にしてもいいのだろうか。いくら友人とはいえ、かなり面倒でくだらない悩みだと思うから言い難い。口籠もり、この話題は無かったことにしてくれないかと期待してみるけれど、アルハイゼンはしっかりと私のことを見ていて、その視線からは逃すつもりはないという意思が伝わってくる。
「眠りたくないから」
「なぜ、眠りたくないんだ」
「夢を見たくないから」
「どんな夢を見るんだ」
伝えていいものか。本当に?
「君が体調を悪そうにしているのは素直に心配になる。それ以外にも、この世界での治療法が君の体に合っているのか分からないし、薬が効くのかも分からない。早期の発見と治療方法の確立は、君の生命活動に大きく影響する重要な事だ。大事になる前に対処方法は知っておくに越した事はない。だが、男性である俺に言い難い内容であるならクラクサナリデビ様や、そうだな……頼りになる知り合いの女性を紹介しよう。だから、俺に言える内容なら素直に言ってくれ。難しいならそう言ってくれればいい」
どうしてここまで献身的になるのだろう。前から思っていたけれど、アルハイゼンは初めて会った時の印象から随分かけ離れた優しさを持っている人だと思う。優しさが正論となって言葉に出て、恐らくその言葉は人によっては凶器になるのだろう。彼は彼なりの、客観性を持った正しさで人に優しくできる人だ。だから彼のいう事は正しい。この世界のあらゆる物事が私の体にどう影響するのかはまだ分からないのは事実だ。そして、現状何かを相談する時に一番それがやりやすいのは、間違いなくアルハイゼンだ。
「故郷の夢を見るの」
「うん」
「家族とか、友人とか、行きたかった場所とか、もう行けない場所のことを思い出す夢を見る。ここで生きるって吹っ切れたはずなのに、その夢を見て目が覚めると私はどうしようもなく一人だってことを思い知らされて、必ず泣いている」
「うん」
「だから、だんだん寝るのが怖くなっていって、でも眠らないと調子が悪くなるのは分かってる。それでも眠るのが怖くて、何もしなくても次の日がやって来るのが怖くて」
「それで眠れずにいる」
「そう」
眠れない日が続いているからか、ここ最近は頭痛もする。食欲も落ちている自覚はある。
「俺は医者では無いから確実な事は言えない。君に睡眠薬の類を処方するべきなのかも、それが正しいのかも薬の効き方を調べない限りは分からない」
「うん」
「だが、一人で悩む必要はない。目が覚めた時に一人で泣いているのなら、一人で泣かなくて済むように一緒にいてやれる」
目が覚めた時に一人で泣かなくて済むように。その言葉をそのまま受け止めるのであれば。
「一緒に寝るって言ってる?」
「そうだが」
「いやいやいや、それはダメでしょ」
ダメに決まっている。私はアルハイゼンのことをこの世界で唯一と言ってもいい友人だと思っている。だからこうして悩みを打ち明けたのだから。悩みに対して具体的な解決方法を求めていたわけじゃない。ただ、私自身の事情を知る人が話を聞いてくれるだけで、それだけで救われた気持ちになれていたのだ。実際、寂しさや孤独さを口に出したことで少し気持ちが軽くなっている。もしかしたら、今日は夢を見なくて済むのかもしれないと思うくらいには、打ち明けるという行為によって気持ちが少し上向きになっている。
「なぜ駄目なんだ? 一人でいることが原因になるのであれば、二人でいれば解決する可能性は非常に高いと思うのだが」
「えっと、相談の仕方が悪かった。ごめん。具体的な解決方法が欲しかったわけじゃなくて、聞いてくれればそれで十分だった」
「そうか。なるほど」
「うん。だから、」
「だがそれは一時的な解決であって、根本的な解決にはならないだろう。君がこの世界に真の意味で慣れるまでどの程度の時間がかかるのかは分からない。その間に、今と同じような状況になったとして、また口に出すことでその場を凌ごうと思っているのか?」
「時間が経てば見る頻度も減ると思うし、いつかは忘れられると思う。弱音を吐く事がアルハイゼンにとって迷惑になるのなら、日記とかに書けば解決すると思うよ」
「迷惑とは言っていないし、思ってもいない。そう思っているとしたら伝えている。寧ろ、他の誰かに言うくらいならまず俺に言ってくれていい」
「やさしい」
「俺は君に優しくありたいと思っている。だから、一人で悩んでいる事を後から知ったり、体調に異変が起きてから気づくなんて事は極力無くしたい」
「やさしいというか甘い」
この世界の人についてよくは知らない。プライベートな付き合いはほとんどなく、仕事上での付き合いしかないから基本的に距離があるのだ。それでいいと思っているから困ってはいないのだけれど、もしこの世界の人が友人になると優しいを通り越して甘すぎる対応になるような人なら、友人の作り方には気をつけなくてはいけないだろう。
これがアルハイゼンだけの特性なのかもしれない。けれど、判断する材料があまりにも少ない。アルハイゼンという人のことの全てを知っている訳ではなく、アルハイゼン以外の人との関わりが少ないから比較ができない。
「どうするんだ」
返事を急かされている。悩む時間を与えずに押し切ってしまえば、混乱した人であればアルハイゼンの提案に乗って流されてしまうのだろう。私自身、混乱はしているけれどここで流されるほど警戒心がない訳じゃない。いくら彼が唯一の友人であっても、いや、友人であるからこそ、この関係を崩してしまいかねない行動をとるわけにはいかない。
「持ち帰って検討します」
アルハイゼンの言動について真剣に考え悩んだおかげで、その日は家族の夢を見る事と泣くこともなかった。もしかしたら、これが彼の計画だったのかもしれない。悩みに対してそれを上回る別の悩みを与えることで塗り替えてしまうというのも、方法としてはあるのかもしれない。なるほど、頭のいい方法だと思う。
後日、検討した結果を急かされたためアルハイゼンのことに悩んで夢を見なくなったと答え、お礼を伝えたところ、腑に落ちないといったようなな顔をされた。お礼を言われるほどのことではないということだろうか。彼の考えていることを知るためにも、友人を作るように努力しようと決心した。
ランバド酒場で食べたい時に食べたいものを食べることにも慣れて来た。元の世界に帰るまでのその場凌ぎの食事ではなく、自分の食欲と食事そのものへの楽しみを思い出したから、久しぶりに「食べることが楽しい」を体験している。
スメールの料理は、スパイスの辛味と砂糖やヨーグルト、果物を利用した甘味が目立つものが多い。慣れ親しんだ和食のような出汁が効いたものではないのが新鮮に感じる。元々もスパイス料理やエスニック料理は嫌いではなかったけど、食べるものは日本流にアレンジされたものだったから、恐らく今食べているのは本格的な味、というやつなのだろう。
食べ慣れないものだったから、独特の風味や辛味に驚いたりもした。お米の種類も、多分私がずっと食べていたものとは品種が違う。けれど品種が異なるものにはそれに適した調理方法があるわけで、スメールの料理はスパイスと甘さが上手く組み合わされたものだから、とても美味しい。……たまに甘すぎるものがあるけれど。デーツナンやナツメヤシキャンディは私には少し甘すぎる。
以前は落ち込みながら飲んでいたビールの味も好きになった。今では毎週金曜日はランバド酒場でビールを飲んで帰るのがルーティンになっている。通う回数が増えたからか、店主のランバドさんには顔を覚えられてしまった。ランバドさんの作るランバドフィッシュロールは中に入っているスメールローズのソースとの相性がとても良い。白身魚とお花のソースという組み合わせは考えたことがなかった。ランバドさんに頼んで、レシピを貰ってみようと考えているくらいには、好きなっている。自炊をしようと考えられる程度には心に余裕ができているということだし、勝手に良いことだと思っている。
そして食事をする際にほぼ毎回必ず隣にいるのはアルハイゼンだ。時間がある時に一緒に食事をして、他愛もない話をする。同居人のせいで寝不足だとか、近々行われる学院祭に駆り出されることになったとか、これから夏に近づくが大丈夫かとか。私もそれに合わせていろいろな話をする。と言っても、この世界での経験は浅いから、元いた世界にいた時の話がほとんどだ。どんな学生時代だったか、普段どうやって生活していたか、好きな食べ物は何だったか。テイワットで、スメールで過ごす夏はどうなるのだろう。アルハイゼンは夏に強い方なのだろうか。
自分に余裕が出来たから、最近はアルハイゼンが何を食べるのかを見ていたりもする。人が食事をするところはあまり不躾に見るものでは無いけれど、彼が何かを食べている姿が、何というかすごく可愛いと思う時がある。どうしてそう感じるのか理屈はわからないけれど、ちゃんとご飯を食べるんだ、とか言ったら失礼になるような感想を抱いている。
多分、食べている時に微妙に変わる表情を見るのが好きなのだと思う。人が作るものだし、時には仕入れができなくていつもと材料が違うもので作った料理が提供されることもある。それも一つの楽しみだけれど。だから大抵の場合、提供される時に一言注意をされるのだ。いつもより辛いとか、ちょっと苦いかも、とか。アルハイゼンは多分その警告を聞き流している。聞き流しているから、知らずに一口食べた時に、いつもと味が違うことに気づいて、眉を顰める。その変化が面白い。
私がアルハイゼンを観察してわかった事に限られるけれど、多分彼には好きな味というものはないのだと思う。彼なりの味覚で美味しい、不味いは感じていても、嫌いな食べ物は特に無さそうに見える。「嫌いな食べ物は?」と聞かれて、「何でも食べられる」と答えるようなタイプ。料理の味よりも、料理の形状に好き嫌いがある珍しいタイプ。
アルハイゼンのことは知れば知るほど面白いし、彼を知ろうとする余裕が出来ていることに安心する。私も随分変わってきているようだ。困った時に悩みを打ち明けやすいのも、気軽に元いた世界での話をできるのも、アルハイゼンくらいしかいないから、懐くのも当然と言えばそれまでだ。
「初めてこの世界に来た時は、こうやってご飯を食べるのも本当は嫌だったんだよね」
食事を楽しめなかった頃の話をしてみる。今食事を楽しめているのは、彼のおかげでもあるからお礼を言いたい気持ちもあった。
「食べなければ死ぬが」
「そうなんだけど、私のいたところでは黄泉竈食って話があって」
「よもつへぐい」
聞き慣れない、言い慣れない単語を言いにくそうに声に出す姿が何だかおかしい。
「あはは。カタコトになってる。簡単にいうと、死者の世界にある食べ物を食べてしまうと、死者の世界の人になってしまって、二度と生者の世界には帰れなくなるって話」
テイワットには似たような神話や伝説は無いのだろうか。食べるものや物の単位には、私のいた世界と共通している部分もあるけれど違う部分もある。スメールの食べ物は日本とは違うけれど、稲妻という国の食べ物は多分ほとんど私のいた世界、国の物と近いはずだ。食べ物が近いだけで、文化や科学レベルが近いかどうかはとても怪しい。酒場で仲良くなった人から聞いた話だと、つい最近まで鎖国をしていたようだから、私からすれば過去の世界に近いのだろうと思う。
いつか行ってみたいと思うけれど、もし稲妻に行って「帰りたい」という気持ちが強くなったらどうしようと考えると、少しだけ怖い。
「物騒だな。実際にそういった事件があったのか」
「まさか。もしかしたらあったのかもしれないけれど、これは神話の中に出てくる話であって、実在はしないと思っているよ。多分ね」
本当にあったのか、作り話でしか無いのかは分からない。テイワットという世界では森の妖精とか、実在し今現在生きている神様がいるから、本や遺跡に残されたような出来事は空想の産物ではなく、実際に過去に起きたことなのかもしれない。
「そうか。では、君はこの世界が死者の世界だと思っていたということか」
「うーん、それもちょっと違う。ただ、自分の知らない世界、根本的に全てが異なる世界って事だけはしっかり認識していて、それでもし、この世界の食べ物を食べたせいで元の世界に帰れなくなった……なんてことも、黄泉竈食の話を知っているから有り得るのかもしれないなって、不安に思っていただけだよ」
少し前までの私は、とにかく元の世界に帰ることを一番に考えていた。だから、帰れなくなる可能性がありそうな事は全て避けて通るべきだと思っていた。深く知ることも、食べることも、してはいけないことだと。そうすることで安心したかっただけでもある。
「なるほど。死者の世界とまでは言わずとも、この世界が君にとって未知の世界であることは変わりないし、そういった伝承を知るからこそ警戒していたとなれば納得だ。元の世界に帰れなくなるという結末は、同じ意味になる訳だ。今は平気なのか」
平気だ。今はここに居場所があって、今の私を知っている人がアルハイゼンの他にもいる。私も知ってもらうために行動をしている。拒絶するよりも、受け入れて、受け入れられる方が息がしやすかった。でもきっかけは、アルハイゼンだ。彼がいたから、受け入れられる事が増えている。
今でもたまに、ふとした時に元の世界のことを考えることはある。それこそ、稲妻という国に行ったら帰りたくなってしまうのではないかと思うくらいには、まだ考える。けれど、帰りたくて拒絶することも無くなったし、故郷のことを夢に見なくなった。今はむしろ、目が覚めて元の世界だったら私は帰ってこられたことを素直に受け入れられるのか、分からない。多分今は、帰ってしまうことの方が怖い。
「たまに考えるけどね。何も食べず、飲まずでこの世界で死んだら、案外元の世界で目が覚めたりするのかもなって。試す勇気はないけれど」
「試さなくていい。君がどれだけ拒否しようと、君を生かすために俺が食べさせてやろう」
そう言って嬉々とした雰囲気を纏いながら、私の持っていたフォークを抜き取ろうとするアルハイゼンを制止する。
「自分で食べられるよ」
アルハイゼンは私にとって甘すぎる。
狭い空間に男女が一対閉じ込められるという状況は、非常にまずいと思う。物理的な距離の近さを強要されるだけでなく、ここから脱出するために二人で協力をする事が必須の場合、精神的にも相手に合わせる或いは近づける必要がある。これはお互いの仲の良さには関係なく、そうするように強要されていることが問題なのであって、況してやこの状況を誰かが意図的に作り上げ、閉じ込められている二人の様を娯楽として楽しんでいる、なんて事であれば私はその首謀者を思い切り殴り飛ばしたいと思う。殴り飛ばす権利があると思っている。大体、仲が良くても悪くてもこの件をきっかけに関係が悪化する可能性だってある。吊り橋効果やストックホルム症候群とは少し違うかもしれないが、世の中そんなに上手くはできていないのだから。まあ、それすら首謀者には楽しみなのかもしれないが。
今、私はアルハイゼンと狭い密室空間に閉じ込められている。二人が立った状態でほぼ抱き締め合うような体制になる事で、ようやく空間に少しゆとりができる程度の狭さだ。ふざけた状況だと思う。
正直、アルハイゼンの顔はとても好みだ。顔が整っているし、声も聞き取りやすくて好みだと思う。彼にこの世界のことや勉学を教わる時、声の聞き心地が良いあまり、眠気を誘われ意識が飛びかけた事がある。その度に、彼はおでこを弾いたり脳天に衝撃を与えたりして起こしてくれている。もう少し優しい方法でも良いと思うけれど、彼の厳しさが発揮されるのは勉強に於いてだけだ。私が悪いのだから仕方がない。
それに、体格も申し分ない。アルハイゼンの仕事はデスクワークが中心だったと記憶しているけれど、デスクワークには必要のない鍛えられた体をしていると思う。彼なりに必要だと思っているのかもしれないけれど、真相はわからない。特に目的はなく、鍛える事が好きな人もいると聞いた事があるし、彼もその類なのかもしれない。スパイスを集めてスパイスカレー作りに凝り始める……ようなものだろうか。よく分からない。
とにかく、顔と声が好みの異性と閉じ込められたからと言って、私の心が特別飛び跳ねたり、ワンチャンあるのではないかと期待したりするようなことはない。そんなことより、ここから出られるのかどうかや、彼に負担を強いていないかの方が気になるし、不安だ。
テイワット、恐ろしい世界だ。今の状況は彼と連れ立って食事に行こうと歩いていた際に起こったことだけれど、こういったことは日常茶飯事なのだろうか。もしそうなら、今後同じ事が起きても自分で対処できるようになっておくべきかもしれない。彼に聞いてみようか。
「テイワットという世界ではなんの前触れもなく突然狭い空間に閉じ込められるっていうのは、割とよくある現象なんですか?」
「そんなはずないだろう。今の状況はテイワットでも見ることがない現象だ」
どうやら違うらしい。まあ、こんな状況がしょっちゅうそこらで起きていたら生活に困るだろう。もしかしたら私がこの世界にやって来た原因の一つとして考えられるのではないかと思ったけれど、それはなさそうだ。もし可能性があるなら、クラクサナリデビ様は隠さずに教えてくれていたと思う。
「じゃあアルハイゼンもこういった経験はない? 初めて?」
「そうなる」
「つまり、脱出方法は分からない」
「そうなる」
「困ったね」
あのアルハイゼンにすら脱出方法は分からないとなると、アルハイゼンより知識も力も乏しい私にできることはないだろう。脱出するための条件のようなものも不明だし、もし空間内に条件が書いてあったとして、この狭さでは確認するのも難しい。この空間を作った誰かがもしいるのなら、脱出させるつもりで作っていないように思う。閉じ込めること自体が目的なのか、何なのか。
「困ってはいる、が。閉じ込められた当初よりも空間そのものを満たす元素力は薄くなってきている。いずれ元素力が一定まで下がれば、俺の力を使って空間を破ることは可能だろう。それまでは耐えてくれ」
げんそりょく、とは何だったか。この世界に来て度々耳にする単語ではあるけれど、実はそれが何なのかはいまいち理解ができていない。おそらく、この世界を満たすエネルギー的な何かだとは思うけれど私にはそれが見えないし、この世界で生活しててそのエネルギーのようなものを感じたことはない。
とにかく、アルハイゼンがいればその【げんそりょく】が一定値まで下がった時に、この空間から脱出する事が出来ると認識していれば大丈夫だろう。心強い。アルハイゼンがいてよかった。
「よく分からない単語がいっぱいあったけど出られることは分かった。アルハイゼンに任せるよ」
「……ここを出たら元素力と神の目について教えよう」
「アルハイゼンが教えるってことは一般常識の範疇なんだ。まだ分からないこといっぱいあるなあ」
かみのめ、というものも時折耳にする。働いている時に「かみのめを持つ人はすごい」だとか「自分にもかみのめがあれば」と話している人が稀にいる。【かみのめ】というものは何らかの道具で、それは全ての人が持っている若しくは手に入れる事ができる物ではないのだろう。もしかしたら、アルハイゼンの身につけているマントのような服の左肩に着いているアクセサリーのようなものが【かみのめ】なのかもしれない。ただのオシャレアイテムではないという事か。
知らない事はまだまだ多い。知らずにいるから、軽率に会話に入るわけにはいかない。【かみのめ】を知らないからあれはアクセサリーだと思っていたなんて、そんな事を言いふらしたら恥をかくだけだ。
「焦る必要はない。順番に知って覚えていけばいい。それよりも、立ったままの姿勢でつらくはないか。君よりは体を鍛えている。凭れてくれても構わない」
何も知らない、できない自分を恥じていると、アルハイゼンは必ず言葉をかけてくれる。私の無知を笑わないで、知らないなら知ればいいと知識を与えてくれる。私がこの世界で生きていけるのは間違いなく彼のおかげだ。
けれど、彼に寄りかかったままではいられない。そもそも、私へ文字の読み書きを教えてくれたのは彼がクラクサナリデビ様に頼まれた仕事だったからで、その他の事、【げんそりょく】や【かみのめ】についての知識は本来彼が教えることではない。教える事以外にも、定期的に会って食事をしながら会話をする事だって、帰れない事が確定したあの日からは必要のない事になっている。彼のしていることは、仕事という役割から既に大きく外れている。
私の存在は、彼の本来すべきこと、したい事の障害になっているのではないかと考える事が増えた。早く一人で生きていけるようにならなくてはいけないと、強く思う事が増えた。私にとってのアルハイゼンという人は、この人がいてくれたから生きていける恩人で、正体を隠さずに接する事ができる唯一の身近な人だ。けれどそれは私個人の狭い世界だけの話で、彼の世界はもっと広いはずだ。
彼を解放しなくてはいけない。そう思っているのに、欲しい時に欲しい言葉をくれて、況してや寄りかかっても良いなんて言ってくれる彼に、私は甘えている。それはダメだ。一人の大人としても、人間としても。
でも、今だけは、この空間から出るまでの間だけは、許されるだろうか。ここを出たら私は一人で歩くための努力をするから、それまでは。
「爪先立ちになって足をつけられない状態で閉じ込められちゃったから、結構つらい。ありがたく寄りかからせてもらうね。足攣りそうだった」
「ああ」
適当な言い訳をして、正面にいるアルハイゼンへ少し体重をかける。私は特段体重が軽い人間ではないはずなのに、彼の体はびくともしない。この安定感に甘えるのも、今回限りだ。
距離が近くなったことを理由に、胸元に顔を寄せてみる。狭いのだから仕方がない。うん、仕方がないし、今だけなのだから。もし嫌ならアルハイゼンはキッパリと離れろと言ってくるはずだ。
顔を寄せて、耳に入って来た音は紛れもなく彼の心音だろう。
「……」
「……」
「アルハイゼンって緊張してるのとか顔に出ないタイプなんだね」
「うるさい」
その音に期待をしてしまいそうになるから、ただの緊張であって欲しいと、願ってしまう。
続きを書きそうな気がするのでシリーズにしていますが、続かないかもしれないです。
※ネームレス
※ver3.7までの内容、キャラボイス、ストーリーのネタバレを含みます