どしゃぶりでもハッピー
コウいとプロポーズと、それにまつわる奈津子さん・弦さん鶴さん・ユウくん(とレオくん)のお話です 
時間軸はいとちゃん大学4年生あたり。まったく劇的ではないプロポーズですが、仲はとにかく良いコウいとです。
(コウジ・いとちゃん共々進学先は捏造です)
[1]コウジといと 1 → プロポーズ話。台風の季節だから…という想像。
[2]コウジといと 2 → 翌年じゃ駄目だったの……?という話
[3]神浜家 →奈津子さんに結婚しようと思うと告げるコウジ
[4]弦と鶴 →弦さん目線。弦さんの話です。
[5]ユウ 1 →スランプのユウくんがレオくんに誘われて海に行く話。
[6]ユウ 2 →海から帰ってきたユウくんと、涼野家で待っていたコウいとの話。
ユウくんとレオくんの成長具合等、だいぶ好き勝手に想像しています。
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コウジといと 1
変化が起こるのは夏のこと。
 いとは大学4年生。音楽学部の作曲科なので卒業制作と副論文に取りかかっていた。いいかげん論文の概要を教授に提出しなければならないとコウジの家でいとは頭を悩ませる。
 コウジも在学中のゼミは違っていたが同じ学科だったので、いろいろ相談に乗っていた。
「まだ待ってくれてるなんて、あの教授優しいんだね」
いとの指導教授は再来年退官だという穏やかな初老の女性だった。いとはコウジの家のダイニングテーブルに突っ伏していたが、顔を上げる。
「『後で困るのはあなただから、私は知らないわ』ってニコニコしながら言う人だぞ? 優しいか?」
「うーん」
「自分であんな難しいテーマ突きつけといて……」
5月の段階でいとが提出したテーマでは内容として不十分だと指摘があり、ここも扱ってみなさいと突き付けられたのが大変難しい音楽理論についてだったということだ。コウジもその内容を聞いたときには驚いたくらいだった。
「もう卒業なんだね……早いな」
 コウジはいとの手元にコーヒーを置いて隣に座る。
 同じ大学にいとが入学してから2年。せっかく同じ学校なのだから、キャンパスライフを楽しめるかと思いきや、コウジはほとんど授業を取り終えてしまって仕事で忙しかったし、いとは必要な授業と課題とやはり仕事でなんだかんだすれ違うことが多かった。
「卒業後は、音楽活動に力を入れて行くの?」
「ああ、そのつもり。いまは自分で歌ったり、ショーをすることが多いけど、学校がなくなればいままでより幅広く仕事受けられるようになるし」
目先のことに気を取られていたが、ふいにさらに先に思いを馳せる。現実逃避とも言うかもしれない。
「あーあ、卒業したらいいかげん家、出ようかな」
「えっ?」
なぜかコウジの声が少しうわずった。
「うち、ちょっと都心まで遠いだろ? 電車も混むしさ。もうちょっと便利なところに部屋を借りようかなって」
でも、自由に楽器弾けなくなるのは痛いんだよな、防音だと家賃が高くなるしとひとりごちたいとは、コウジが睫を伏せたのに気付く。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
 と、いうことがあったのが、夏のさかりのこと。
 卒業制作はともかく、論文のことで頭がいっぱいで、いとはそんな会話を交わしていたことなどすっかり忘れていた。
 夏も終わりの9月の末には、ふたりにとって大事な日がある。つき合いはじめた記念日だ。お互い忙しい時期も、その日だけはたとえ短時間であっても会うようにしていた。
 今年のいとは、その日の午後にちょうど論文指導があったので、そのままコウジの家に直行することになっていた。コウジは家で仕事をしていると言う。
「まあ、こんなものでしょう。よく調べた方ね」
教授は微笑む。いとはほっと息を吐く。
「これからが本番なのよ、卒制もあるんだから」
褒めたままでは終わらないのがこの教授らしいところだった。いとは肩をすくめたが、素直に頷いた。その様子を見て、教授はふふっと笑う。
「まあ、今日は早く帰りなさい。もうだいぶ雨が強くなってきたわ。電車が止まらないうちにね」
「はい」
 台風が近づいていた。今日は帰れなくなるかもしれないが、それならそれでコウジの家に泊ると言いやすい。
 元々鶴も弦も、外泊については咎めることがない。コウジの家なら安心だと思っているのだろう。それでも、考えすぎだと自分でも思いはするが、コウジの家に泊ると家族に伝えることは、コウジとそういうことをしますと言っているようで恥ずかしく、あまり泊まることはない。
 いまから行く、とコウジにメッセージを送り、いとは建物から出た。中にいても、叩きつける風雨は感じられていたが、外に出るといっそう激しい。傘が吹き飛ばされそうになり、いそいでしがみついた。
 しかし少し歩くともう傘が意味をなさなくなっていた。
 コウジの部屋は普段なら学校から5分ほどだった。しかし、今日は倍以上の時間がかかった。なんとかエントランスにたどり着くが、雨と汗ですべてがどろどろだった。
(せっかくの記念日なのに、こんなどろどろでコウジに会うのいやだな)
 どこかで化粧を直せないかと思うが、また外に出るしかない。短距離であったとしても元の木阿弥だろう。
 濡れた体が冷えてきた。くしゃみをした瞬間、エレベーターが開く。
「いとちゃん」
コウジだった。車の鍵と傘を持っている。
「わ、びしょ濡れ。外すごいんだね。早く部屋にあがって」
「う、うん」
 いとの濡れた背にも構わず手のひらで触れる。その熱さにいとは驚く。自分で思っていたより体が冷えていたのだなと思う。
 エレベーターのドアが閉まる。
「迎えに行こうかと思ったんだけど、行き違いになるところだったね」
「すぐ近くなんだから、そんな必要ないよ」
そういとが言うと、コウジがふふっと笑った。
「そんなにびしょ濡れになってるのに?」
「うっ、うるさい」
エレベーターが着いたので、いとが先に立って歩きだす。それを追いかけて、コウジは隣に並び、そして追い越して鍵を開けた。
「いらっしゃい」
 微笑んで、コウジは中に入らずドアを押さえている。何度も訪れているのに、何度足を踏み入れても鼓動が加速するのがその瞬間だった。
 コウジはドアを閉めると、玄関から一直線に伸びている廊下沿いにある浴室に向かった。
「お風呂入れてあるから、入りなよ」
 浴室から顔をのぞかせて、コウジがいとを手招いた。どこまでも用意のいい男だといとは思う。
 膝下までの黒いレインブーツを脱ぐ。強い降りのせいで、隙間から雨が入り込み、ストッキングの足先まで濡れている。
「コウジ、タオル借して」
「そのまま入っていいよ。どうせ脱ぐんだし」
「そうか? 悪い」
廊下に足跡を残して、数歩のところにある脱衣所に足を踏み入れる。
「ゆっくり温まってね。洗濯物はそこのカゴに入れておいていいから」
「や、自分で洗う。そのカゴの中身もついでに洗っていいか?」
「え! いいよ、いとちゃんにそんなことさせられない……」
素で照れるコウジは貴重だ。そして洗濯物を見られたくないと言うごく一般的な羞恥心も持ち合わせていたのだなといとはしみじみ思う。
「男物の下着なんてパパやユウので見慣れてるし、いまさらだろ」
お互いの下着も見慣れているのだ。コウジをじっと見ると、さらに顔を赤くした。なんだか今日は珍しいコウジだなといとは思う。出会った頃のような、初々しさがある。
「そこにいたら脱げないじゃないか」
「濡れてて脱ぎにくいでしょ? 脱がせてあげようか」
少し頬を赤らめたまま微笑んで、そんな戯言を言うコウジはいつものコウジだったので、いとは少し鼻を鳴らした。つまらない。
「いいから出てけ」
 背中を押して、コウジを脱衣所から追い出した。
 一枚一枚張り付いた衣服を剥がしていくごとに、清々する。洗濯ネットに入れて、ついでにカゴに入っていた洗濯物も素材に注意しながら入れ、洗濯機を回した。その音で、コウジは気付いたらしい。扉の向こうから声がかかる。
「洗濯しなくていいって言ったのに……」
「うるさい。いつも人の下着とか勝手に洗うだろ。あれ、すごく恥ずかしいんだからな」
「だってそのままにしておけないから」
「コウジが加減すればいい話だろ」
「いとちゃんが感じやすいのがいけないんじゃないかな」
 そうしらじらしく言うのに本気で腹が立ったが、くしゃみが出たので無視したまま浴室に入る。コウジが何か言ったようだが、よく聞こえなかった。
 洗面台からメイク落としと洗顔フォームを持ってきていた。コウジがこの部屋に暮らし始めて6年近く。ちょくちょく立ち寄っていたので、いつの間にかいとの私物も増えていた。
(別荘、いや別宅、ていうのも違うな)
 微妙なところだ。ただそうやってすこしずつ、生活が混じり合うのかもしれない。卒業後、一人暮らしをしようと思っていたが、この調子では早々に事実上同棲になってしまうかもしれないなと思う。
 いとが風呂に入っている間、コウジは着替えを用意してくれていたようだ。置いておくねと声がかかり、いとは気付く。浴槽で少しまどろんでしまっていた。
 用意されていたのは、コウジの家でいつも着ている、すっかりいと用になってしまったコウジのTシャツと、スウェット、そして洗濯されたままいつの間にか何枚か常備されている下着だった。
 ダイニングのソファでノートパソコンを開いていたコウジの傍に座る。
「仕事?」
「ちょっと気になるところがあったから」
パソコンを閉じようとしたコウジを制する。
「続けてていいよ。まだ夕飯には早いだろ」
そう言っていとはコウジの方に頭を向けてソファに横になる。自然にあくびが漏れた。
「眠い?」
尋ねられて、いとは小さく頷く。
「昨日、あんまり寝てないから」
「今日、論文指導だったんだよね? お疲れさま」
「うん」
「寝てていいよ。夕飯の時間になったら起こすから」
「うん……」
 話しながらも、いとは徐々に眠りに引き込まれていく。
 ふわりと、身体が暖かさに包まれる。毛布だ。柔らかな毛並みにほっとしながら、身体を丸める。
(いいな、こういうの)
 傍らにある温もりは、いとの安心できる体温。
 コウジの匂い。
 いとの安らげる場所。
(ずっと、コウジの隣で眠りたい)
「コウジ……」
自分の声で眼を覚ますと、すぐそばに驚いたように目を見開くコウジの顔があった。いとはまだ少しまどろみのなかにいたので、羊水の中にいるようなここちよさのまま、微笑んだ。
唇が重なり、舌がいとの口内に滑り込んでくる。いとはそれをいつものように迎え入れる。コウジは少し息をついて、さらにいとの粘膜を、なぶるように丁寧に撫ぜた。
「……ん」
コウジの舌先は繊細に動く。それは、ずいぶん前から身をもって知っていた。キスだけではなく、いとを様々に愛撫する。その予感に震え、いとは自分からもコウジの舌に触れていく。
 しかし、思っていたよりも早くコウジは唇を離した。
 物足りなさを感じつつコウジを見上げると、思いのほか真剣な眼と目が合い、いとは心臓が重く鳴るのを感じる。
「いとちゃん」
「ん」
どぎまぎしながらも、短く答える。
「ずっと、僕のそばにいてほしい」
いとは、虚を突かれて睫毛を瞬かせた。
「その、つもりだけど」
 そう答えると、コウジは少し視線を緩めた。立ち上がり、ダイニングに置いてあった鞄から何かを取り出す。
 手のひらに乗せて、いとの目の前に捧げるそれは、青いベルベットの小箱だった。
「ほんとは、あの噴水の前でと思ったんだけど」
 台風だからしかたないよねと言って、一度言葉を切る。
 いとの鼓動が、脳よりも先に事態に気づいて速まる。
 小箱の蓋が開く。
 滑らかな生地に挟まれていたのは、銀の円環。
「結婚しよう」
 いとの、耳の奥まで熱くなった。
 そうか結婚。いとは自分が求めていた事に気づく。
 コウジと共に生きたい。暮らしたい。このささやかな幸せを、積み重ねていきたい。
落雷のように閃いて、いとの眼からはほろりと涙がこぼれ落ちた。
「いとちゃん…?」
 コウジが、心配そうにいとの顔を覗き込む。
 そっと、気づかわしげに触れる指先は、いつでも優しい。 
 好きだと、強く思う。
 自分も、コウジにいつまでも優しく触れたい。コウジを守りたいと言うその気持ちは。
「あたしも」
呟いて、顔を上げる。涙で、ひどい顔かと思うのに、コウジはいつもいとを愛おしげに見下ろす。
「あたしも、同じ気持ち」
コウジの手が震える。小箱が揺れる。
「それって…」
喜んでいいのか、まだ迷うようなコウジの鈍さに、いとは眉根を寄せて見上げる。
「ずっと、コウジに、そばに、いてほしいってことだよ」
 コウジの顔に、喜びの色が広がる。それはヒロがキングになった時に見たのと似ていたが、もっと緩んでいる。そして涙腺も緩んだ。
 きらりときらめく涙が、コウジの頬を伝って落ちる。
「なっ、泣くなよ」
いとは慌てて、ついそばにあった毛布でコウジの涙を拭う。コウジがこんなに泣いているところなど、いままで見たことがなかった。
「ごめん」
「いいよ」
 言いながら、いとも胸が震え、つられたように再び涙がこぼれる。
 それを見て、コウジの目が見開かれる。ふたりは目を合わせて、どちらからともなく笑みが溢れる。
「ふたりして泣くなんて」
いとがこらえきれず笑うと、コウジも声をあげて笑った。
「想像もしなかったな。こんなプロポーズになるなんて」
ははっと楽しそうに笑って言うコウジの額に自分の額をつけて、いとはいたずらっぽく目を覗き込む。
「台風だし?」
「そう、また、あんな風にキスしたかったんだけど」
「いくらでもできるよ」
 これから、と呟いて、どちらからともなく唇を合わせる。
 そして今度こそ、ふたりはお互いを慈しみあったのだった。