もしも弦さんにペアともが見えなかったら
タイトル通りの「いとちゃんが弦さんにクルンちゃんを見せるため奮闘する話」です。出オチや。
まあでも本編中は本当は見えてるんじゃないかと思います。見えててあえて触れずにいるんじゃないかな。わかんないけど。
時間軸は作中(2013年)の夏休みですー。
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あたしにとってそれは思いもよらないことだった。
ある夏休みの夕方、あたしはダイニングテーブルの上にトマトをたっぷり使ったカレーを並べていた。ひと回り小さな皿に乗せたカレーはクルンの分だ。
ドレッシングを掛けたサラダを置いた時、玄関のドアが開く音と近付いてくる足音が聞こえてきた。顔を出したのはパパ。ライブハウスの開店前、急いでご飯をかき込んでからまた地下へ降りていくことがあった。
「あっパパ。パパも食べる? 今からよそうよ」
「今からって、そこにあるのは誰の分なんだ?」
パパが指差したのはクルンの分の皿だった。
「クルンだよ。あ、言ってなかったかもしれないけど、この紫色のやつ、クルンって言うんだ」
パパは訝しげな顔で、びっくりするようなことを言った。
「紫……? そんなのどこにいるんだよ」
皿の前で目を輝かせていたクルンと顔を見合わせる。もしかして。
「パパ、クルンが見えないの?」
放任主義なパパのことだから、あえて何も言わないのかと思っていた。夏が旬ということもあってカレーは期待したより美味しくできたけれど、今はそんなことどうでもいい。
「紫色のペンギンか」
スプーンでカレーライスを掬いながら、パパはまだ半信半疑の顔だ。あたしは食べ終わった皿を脇にどかして、パパの正面でクルンの頭をつついて見せる。柔らかい体は指に力を入れるたびにぷにぷにと弾む。が、やはりパパには見えないらしい。
「パントマイムにしか見えないけどな」
「そんなんじゃない!」
呑気な口調のパパに思わず声を荒げる。誰にクルンが見えなくてもどうってことないはずなのに、正体のわからないむかむかとしたものが気持ちをはやらせる。
「絶対パパにクルンを見せてみせる」
口の中で呟いた。不安そうな顔でクルンが見上げてくる。
食べ終わって地下へ降りていくパパを見送ってから、二人と一匹分の食器を洗う。それが終わればバスルームに移動して湯船にお湯を溜め、その間に部屋でバスタオルと着替えを準備。ついでにクローゼットを眺めて明日のコーデを考える。学校は夏休み、プリズムストーンはお盆休みと言っても、中学生は結構多忙だ。
湯船に浸かり、足を伸ばすと、やっと一息吐ける。パパにクルンを見せると言ってもどんな方法があるだろう。ふくらはぎを手のひらでマッサージしながら、ぼんやりと考える。
そもそも、クルンをはじめとしたペアともとは一体どんな存在なのか。パパに見えないってことは他にも見えない人間がいるはず。大人には見えない妖精のようなもの? でもCooさんには見えているし……傍にいるのが当然になりつつあったその生き物は、一度考えだすと謎だらけだった。
風呂上がりに髪を拭きながらスマショを手に取ると、中ではクルンがすやすやと眠っていた。何やら寝言も言っているようだが、あたしにはその鳴き声の意味まではわからない。
確かに不思議なやつだけど、こいつが他の誰かには見えないなんて考えもしなかったな。寝顔をじっくりと眺めてから、「おやすみ」と囁いてみる。
翌日。朝と言うには遅い時間に起きてきたパパに簡単なブランチを出す。スクランブルエッグを添えたトーストに、かぼちゃの冷製スープ。パパが大方食べ終わる頃を見計らって、実験を始めることにした。
パパの前にクルンを立たせて「見える?」と問い掛ける。
「いいや」
「じゃあ……クルン。入って」
「クルーン!」
促すと、クルンは打ち合わせ通りにスマショの中に入る。スマショのディスプレイの中で、2Dのクルンが飛び回っている。それをパパの目の前にかざすと、もう一度「見える?」と繰り返した。
「確かに、紫のペンギンだな。こんなのが家を飛び回ってるのか」
パパはそう言いながら複雑な顔だったけれど、とりあえずイメージは掴んでもらえたらしい。第一段階はクリアだ。
再びスマショからクルンを飛び出させ、今度は写真を撮ってみる。そのことをクルンに伝えると、ツンと澄ました表情を作り、丸々とした体で一生懸命に背伸びをした。短い足を前後に開き、腰――と思われる場所に羽を当てる。どこかのファッションモデルがやりそうなポーズだが、一体誰の真似なのやら。
クルンを撮影したスマショの画面をパパの方に向ける。不安だったけれど、これも「見える」と頷いた。心霊写真のようで怖いと思わないこともないけど……なんて考えていると、
「なんだかお前と雰囲気似てないか?」
ふと思いついたかのように口にするパパに、そんなこと考えもしなかったあたしは絶句する。パパが同意を求めるような表情で差し出すスマショを見ても、そこに写るクルンはあたしに似てるとは到底思えなかった。
なぜか得意げなクルンを睨み付けてから、「似てない」と怒った声を出してみる。
「とにかく、パパのスマホに送るから、こういうのがいるって覚えておいてよ」
手早くメール作成画面を立ち上げて、先程の画像だけを添付したメールをパパ宛に送信する。
間もなく電子音を鳴らすスマホをポケットから取り出して、ディスプレイを見つめるパパ。どういうわけか真面目な顔だ。意外に思いながらも、茶化すような雰囲気でもなくて、あたしは無意味に傍にいたクルンと、スマショの中でポーズを決めるクルンの写真とを見比べる。
写真でクルンを知ってもらえたら、次はやっぱり実際の姿を見てほしくて、次の作戦を実行する。
部屋から持ってきたのは、クルンのために作ってやった小さな服。パパが起きだす前に急いで作った、薄い布を簡単に縫い合わせただけのものだが、クルンが羽を通せばちゃんとワンピースのように見えるはずだった。首元が苦しそうだったがどうにか着せてやり、パパの前に差し出す。
「ねえ、どう?」
「どうって……服が動いてる」
やった、と思わず声に出すと、テーブルの上のクルンも飛び上がって嬉しそうな声を上げた。が、喜んだのも束の間のこと。
「ただ、ちょっと不気味だな。服だけが空飛んでるのは」
クルンを――というよりクルンの着たワンピースを指差しながら、パパはちょっと困った顔だ。
それもそうだろうな、とあたしは肩を落とす。服を着せてわかるのは、クルンが今どこにいるか、ということくらいだ。実際の姿が見えるわけではない。
――それなら、あたしが本当に求めているのって何だろう? 今は自分の気持ちさえわからなくなっていた。
けれど、一度失敗したくらいで諦めるわけにはいかない。きょろきょろと辺りを見回すと、キッチンに小麦粉の袋が置かれているのが目に入る。不意に、昔見たアニメの一シーンを思い出す。小麦粉の入ったボウルに落ちたネズミが真っ白になってしまう場面だ。
「クルン……ちょっとじっとしてて。すぐ終わるから」
「クル!? クルクルー!」
「大丈夫だって、別に唐揚げにして食べるわけじゃない」
「クルー!?」
ぶんぶんと頭を振って拒否するクルン。安心させようとした言葉は逆効果だったらしく、慌てて飛び上がり、どこかへ逃げようとする。
「おい、待て!」
クルンの後を追って走りだす、その一瞬。横目に映ったパパは、ほんの少し寂しげな微笑みを浮かべている……ように見えた。
はあ、と溜め息を吐いて、ソファに深く背中を預ける。ふらふらと空中を漂っていたクルンも体力の限界のようで、あたしの膝の上に着地、ころんと転がった。スマショに表示されている時計を見ると、そろそろ夕食の準備を始める時間になっていた。
ダイニングテーブルの上はこぼれた小麦粉やらクルン用の着ぐるみを作るための布やら裁縫道具やらで散らかり放題だ。片付ける気力も湧かずに、もう一度大きな溜め息を吐いた。
「だいぶお疲れだな」
「……パパ」
他人事のように言いながら、自分の部屋から出てきたパパは、色あせた表紙の厚い本のようなものを持っていた。それをテーブルに置くと、パパもソファに腰掛ける。
「その、紫のペンギン。お前がいるって言うんだからいるんだろ。それじゃ駄目なのか?」
「駄目に決まってるでしょ!?」
自分で思うより大きな声が出た。第一、パパが最初からクルンのこと見えればこんな騒ぎには……そんなことを言いそうになって、口をつぐむ。先程パパが一瞬だけ見せた、寂しそうな微笑みが脳裏に浮かんだから。きっとパパだって本当はあたしの見ているものを見たいんだ。希望も込めて、そう思うことにした。
深呼吸も兼ねて大きな溜め息を吐く。焦る心を抑えて、そこにある自分の気持ちを一つずつ整理して言葉にしていく。
「クルンってほんとに、おかしなやつなんだよ。泣き虫で弱虫で、だけどたまに強引で……そんな面白いやつを……あたしが見てるままをパパにも見てほしかった。パパにあたしと同じ風景を見ててほしかったし、それに」
言いながら、ふと気付いた。
クルンみたいに、あたしには見えてパパには見えないものがあるとしたら。パパに見えてるのに、あたしには見えてないものもあるんじゃないか?
あたしはそれが不安で仕方がなかったんだ。だから焦っていたんだ、と。
言葉を詰まらせるあたしをじっと見ていたパパは、おもむろにテーブルの上の本を開いた。そこには古ぼけた写真がきっちりと整理され貼られている。本だと思った物はアルバムだったらしい。
若い頃のパパとママが二人で写っているもの、赤ちゃんを抱いているママ、黒髪の小さな女の子。アルバムの中の女の子は、ページをめくるごとに成長していき、見覚えのある少女に近付いていく。
「なあ、これ覚えてるか?」
パパは、あるページで紙をめくる手を止めた。指差したのは一枚の古ぼけた写真だ。その中では幼い少女が大人びた澄まし顔で爪先立ちをしている。足を前後に開いて腰に手を当てているその子――まだ小さなあたしは、カメラを向けられたクルンがしたのとそっくりなポーズだった。
「何、これ?」
「確かいとが四歳の頃か。テレビで見たファッションショーが気に入ったみたいでな、モデルの真似してたんだよ」
写真の中のあたしを見つめつつ記憶を辿るが、懐かしさの欠片も浮かんでこなかった。
「覚えてない……」
「昔のことだ、そうだろうな。でもこれは実際にあったことだし、俺は覚えてる。今まで忘れてたけどな。……あの時はお前に写真を撮れってせがまれて、大変だったな」
しみじみと語るパパの顔をじっと見つめる。嘘を吐いてるとは思えない。写真の古ぼけ方から考えても、本当にあったことみたいだ。
もしかしてクルンはこのことを知ってあのポーズを……? ハッとしてテーブルの上のクルンを見るが、彼自身も驚いたような顔で写真を見つめていた。偶然だったのか。本当に謎だらけの生き物だ。
「ま、ともかく。その紫のも同じだろ。俺には見えなくてもお前には見えてて、実在するっていうならそれでいいじゃないか。お前が言うなら信じる」
「そ、それとこれとは……」
いつものパパらしからぬ恥ずかしいことを言われて、あたしは反論する気もなくなる。丸め込まれたようで釈然としないけれど……。
「にしても、懐かしいことを思い出させられたな。そのクルンってやつには」
そんなことを呟きながらアルバムをめくるパパの優しい表情を見ていたら、まあいいか、なんて気持ちになっていた。
それから数日が経ったある日。
昼食にパスタを茹でていると、リビングから電子音が聞こえてきた。火を弱めてキッチンから出て行くと、テーブルの上でパパのスマホのライトが点滅していた。
テーブルを挟んだ向こうのソファでは、朝からずっとパパが横になっている。
「パパ。メール来てる」
「んー……誰からだ?」
「自分で確認して。お昼もすぐできるよ」
そう言ってもパパが起きる気配はなく、何が言いたいのか、右手をひらひらとさせるだけだ。
仕方なくテーブルの上のパパのスマホを取り上げ、新着メールを確認しようとボタンを押した途端、ディスプレイに映ったものにどきりとする。
そこにはファッションモデルのようなポーズを決めるクルンがいた。この間クルンのことを教えるために送信した写真を、そのままロック画面に設定したらしい。
「どうした?」
「あ、えっと」
言葉が見つからず、そのままスマホを手渡す。パパが眠そうな目で仰向けのままそれを操作し始めるのを見ながら、その疑問を口にしていいものか、少しの間考える。あえて触れない、という選択もできたけれど……結局は興味が勝り、さり気なく聞いてみることにした。
「あのさ、その画像……何?」
「ん? これか。こんなのが家にいるから覚えとけってお前が言ったんだろ」
「それはそうだけど」
そこは確かに一番目に入る場所だし、忘れないようにする方法としては有効なのかもしれない。意外にあたしの言うこと聞いてるんだ、なんて少し感心もした。
けれど、そんな特等席をクルン一匹が占領している、というのは、複雑な思いだった。理由は自分でも説明できないけど。
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昼過ぎにソファの上で目覚めた弦は、体を起こすと辺りを見回した。姿の見えない娘の名前を呼ぼうとして、今日からまたプリズムストーンへ仕事に行ったことに気付く。
いつも使っているスマホをテーブルの上に見つけて、手に取った。誰からの連絡も来ていないことを確認し、なんとなしにロックを解除する。
そこに映ったのは、見覚えのない一枚の画像。いとと紫のペンギンが並んで、同じような涼しい表情でこちらを見つめている。寝ている隙に勝手にこのスマホで自撮りでもしたんだろう、と弦には想像がついた。
ほんの少し上目遣いの彼女は、なんだか大人びて見える。弦はしばらく画面を見つめてから、その画像をロック画面に設定し、電源ボタンを押してディスプレイを消灯させた。