神はケチ臭いこと言わない。
見舞いに来てくれた女性M様が「私はクリスチャンの家庭で育ったが、幼少期から押し付けられてきた原罪が虐待みたいな傷を残し、素直に信仰を持つことができなくなってしまった。キリストフリークだと素直に言える坂爪さんが羨ましい」と言った。M様は、さらに続けた。私にとって、神との和解は父との和解と同じなのだと思う。父は、アルコール中毒で死んでしまった。転勤が多く、ここが故郷だと言える場所がない。結婚もしておらず、仕事も2〜3年で辞める。既存の集団にうまく馴染むことができない。自分を根なし草のように感じる。坂爪さんには新潟という故郷がある。それも、私には羨ましい。M様は、そのようなことを言った。
私は「同じだ」と思った。誰にでも「逃れられないもの」があると思う。平気な振りをしていたり、克服した振りをしていたり、意識することも滅多にないのだけれど、なかったことにはできないこと。トラウマとも言えるような、業とも言えるような、しかし、それがあるからこそ「私は私である」と言えるような、自分を決定づけるもの。自分に強い影響を与えたもの。私は新潟に生まれた。だが、新潟が好きな訳ではない。嫌いでもない。好き嫌いでは語り尽くせない愛憎があり、私は、愛憎に育てられた。音楽も同じだし、キリストも同じだ。普段は、彼らのことを忘れて遊び呆けているのだが、常に、彼らに見張られている感覚がある。彼らは言う。お前、まだ、やるべきことをやっていないよな、と。私は、ビクッとする。そして、彼らには何も隠すことはできないのだと畏れる。
その後、女性A様がオーナーを務める飲食店に行った。A様に「逃れられないもの」の話をしたら、A様は言った。私は、小学二年生の頃に性被害を受けた。こどもながらにこのことは誰にも言っちゃいけないと感じて、二十歳を過ぎて親友に打ち明けるまで誰にも言えなかった。両親との確執もあった。父は、私を娘としてではなく女として見ていた。男として、私を支配しようとした。だから、頻繁に衝突をした。母は常に苛々としていた。私は「私がいるからいけないんだ」と思うようになった。苦しくなった時は星を見たり、自分の掌を見るようにしている。そこに宇宙があるような気がする。こんなに意味不明な場所に生きていて、意味不明なまま生きることができている。自分はラッキーだなと思える。そうやって、生きるエネルギーをかき集めながら、自分なりにサバイバルをしてここまで来たと、A様は笑いながら話した。
人生はゲームではないし、暇潰しでもない。もっと混沌とした、もっと訳のわからないものだと思う。自分でも、なぜ、それをやりたいと思うのかわからない。勝算はない。大義もない。だが、それをやらないと、自分が自分でなくなってしまうような、焦燥にも似た衝動。損得で言えば損だし、非合理で、無秩序なのだが、自分にとっての必要や必然を感じるもの。やる前にはわからなかったことが、やった後にわかるのだろうなという、確信にも似た予感。A様は言った。今の店だけでも大変なのに、私は、誰もいない僻地に二店舗目を作ろうとしている。みんなからはやめとけと言われるし、自分でもなんでそんな場所に店を持とうとしているのか意味がわからないのだけれど、やらずにはいられない。私って変ですかねと言われたので「俺も同じだ」と思った。自分でも、なぜ、今のような生き方をしているのかわからない。だが、何かしらの必然があることは感じる。目論見があってやっていることはない。無条件に飛び出した先に、何か大きなものの目論見を感じる。自分の目論見ではなく、神の目論見を感じる。
自分が書き続けてきた文章が一冊の本にまとめられて、数年前に出版された。それを見た時に「キリストも同じ気持ちだったのかな」と思った。編集者の方が、私の言葉を切り貼りして、一冊の本にまとめた。確かに私が言ったことなのだが、そこに私はいないと思った。キリストも、聖書を見たら同じ気持ちになる気がした。確かに俺の言ったことだけど、そうじゃないんだよなあ、と。私はもっと滅茶苦茶で、私はもっと支離滅裂な人間だ。わかることだけではなく、わからないことに価値を感じる。みんな、同じではないだろうか。あなたはこういう人間だよねと言われたら「それだけじゃない」と叫びたくなる部分を、誰もが持っているのではないだろうか。答えを求めているようで、答えなんて欲しくない。わからないの海の中を、一緒に泳げる同伴者を探している。答えが欲しいんじゃなくて、話せるということが嬉しい。わかることではなく、わからないことを一緒に楽しめることが嬉しい。だから、私は日曜礼拝を開催する。答えはないから、導きたい先もない。ただ、わからないの海の中を、一緒に泳げることを楽しみたい。私にとって、神は、信じて仰ぐ対象ではない。神は、そんな遠くにいない。大親友のように、常に真横に寄り添うものだ。私にとって、十字架は、処刑道具ではない。闇を取り払う、スペシウム光線みたいなものだ。 坂爪さん 日曜礼拝「逃れられないもの」 おおまかな予定
昨日はありがとうございました。
ここ2、3ヶ月、漠然と考えていた事を、言葉にして発する事ができて嬉しかったです。
最後、発しきれなかった思いがあったので、日常に埋もれてしまう前にここで表現させて下さい🙏
カフェのオーナーの女性(すみません、人の名前と道を覚えるのが壊滅的に苦手なのです)が信仰についてのマザーテレサの言葉をシェアして下さっていた時、「ああ、これだよな。」と思いながら聞いていました。この典型的な信仰の定義が、私がキリスト教に対して無意識に反発してしまう理由の一つだったなと。
マザーテレサの言動は本当に素晴らしく、その姿勢に対する憧憬が私の中にも確かにあるのだけれど、でも逆にその行動が取れない人間は信仰の無い者になってしまうのだろうか?正しき行いが出来ない人間は、一生神に許しを請い続ければならない罪人だと言うのだろうか?と言う問いが幼い頃からいつも有りました。
罪の許しの象徴である十字架に違和感を持つのも、イエスは既に二千年前に十字架から降りて復活しているのに、人はなぜいつまでも十字架の上に彼を縛り続けるのだろうか?教会にでかでかと飾られる十字架は罪の許しの象徴とは反対に「お前は罪人だ、お前が罪人だからイエスが処刑されなければなかったのだ、だから悔い改めよ、許しを求めよ」と脅迫してくる道具にしか、いつからか見えなくなっていました。
原罪と許しを請う姿勢を虐待のように幼少心理に擦り込んでくる(と勝手に私が受け取っただけなのですが)カトリックの教えに対して私はいつの間にか「そんなケチ臭い事言う神なんてこっちから願い下げだよ」と不遜な事を思うようになりました。
だから沈黙で描かれるキチジローに自分を重ね合わせるのだと思います。
私にはキチジローに信仰が無いとは思えないし、キチジローを救わない神であれば、それは私が求める神では無いと言う遠藤周作の気持ちにとても共感するからです。
それは伝統的なカトリックの教えからするとやはり異端で、浄土真宗的だと言われる所以だと思うのですが、私にも、やはりキリストの愛は親鸞の説く阿弥陀の救いと同じとしか思ず、そう思えた時に初めて背き続けてきた神との和解を、イエスとの親密な関係をやっと築き始める事が出来ている気がしている今です。
こんな個人的で独自の宗教観を表現する場を持てた事がとてもありがたく感謝です。
いつもありがとう😌
日時・1月28日(日)10時〜12時
場所・逢初庵(あいぞめあん)
住所・静岡県熱海市伊豆山302
参加費・無料(ばっちこい喜捨)
参加方法・LINE or メールで、坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。
おおまかなタイムーテーブル
10時00分 熱海駅改札前待ち合わせ(改札は一つだけになります)
10時30分 逢初庵到着。企画趣旨の説明。お茶を飲みながら語り合う。
11時10分 休憩
11時20分 後半戦スタート。戦とか書くと物騒だけど普通に進みます。
12時00分 日曜礼拝終了後、フリータイム(お時間のある方は、坂爪圭吾手作りの超絶粗食をお楽しみください)
遠方からお越しの方など、宿泊をすることも可能です。宿泊費・食費などは一切かかりません。必要な場合はご相談ください。目指せ、森のイスキア。
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
ご不明な点は、お気軽にお尋ねください。
1月15日(月)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z