演出

富士遊覧之ふじゆうらんのしおり

信長がやってきた!
長年の宿敵であった武田を滅ぼし、甲州征伐を成した織田信長。
家康は、祝いとして甲斐から駿河・遠江を巡る富士遊覧の旅に招待します。

『信長公記』によると、徳川家康は信長を迎えるために、街道を整備して石を取り除き、各所に休憩のための御茶屋を設け、立ち寄る各所で酒宴を催すなど随所で細やかなおもてなしを行ったそうです。

『どうする家康』では、書物が好きな於愛の方が、遊覧の際に回る名所を絵と文章で紹介した「手作りの旅の行程表の冊子(以後「旅のしおり」)」を茶屋四郎次郎と共に作成しました。

ここではたっぷりと、古文書考証の大石泰史さんと風俗考証の佐多芳彦さんご指導のもと作成した、『富士遊覧之ふじゆうらんのしおり』の中身をご紹介いたします!

1ページ目は「本栖湖」。
現代でも富士五湖のうちの一つで富士山が見える名所として有名な場所!
信長や家康もきっと逆さ富士の絶景に感動したのでしょうね!
皆さんは、絵の中の富士山の山頂が3つコブになっているのに気づきましたか?
実は昔から富士山は3つコブで描かれ、そのコブの一つ一つに神様が宿っているといわれているんだそう!

舟の大きさと形は風俗考証の佐多先生のこだわりが詰まっています!小さな船で漁をしている人に気づきましたか?

◆(原文)もとす之みすうミ ふしのやまは古来貴せんのへつなくそんさうせしむる山なれハ後しらかハ院もれゐけん所の一と御示しあそハさレ候近年はせ川なにかシもとすの水うみニ而水きやうをならるゝときゝおよひ申候水はつねにきよくさやかにてみなもニはしういのけしき寔うるはしくうつり申候逆さノふし者かくへつのなくさみとおほし召し候 きんりんハわたなへひとやのすけ治め申候あひたこころやすかるへく候

◆(原文・漢字仮名交じり)本栖の湖 富士の山は、古来貴賎の別なく、尊崇せしむる山なれば、後白河院も霊験所の一と御示し 遊ばされ候。近年、長谷川某、本栖の水海ニ而水行をなさるると聞き及び申し候。水は常に清く明かにて、水面には周囲の景色、まことに麗しく映り申し候。逆さの富士は 各別の慰みと思し召候。近隣は渡辺囚獄助治め申し候間、心安かるべく候。

◆(現代語訳)本栖湖 富士の山は、古来貴賎きせんを問わず崇敬を集めた山で、後白河法皇も霊験所れいげんしょの一つとして挙げておられます。近年は長谷川某とかいう人物が、本栖の水海において水行を行ったと聞き及んでおります。 水はいつも綺麗きれいで澄んでおり、水面には周囲の山々の景色がまこと美麗に映り込みます。逆さの富士は各別の娯楽といえましょう。近隣は渡辺囚獄助わたなべひとやのすけが治めておりますので、心安らかにお過ごしください。

2ページ目は「白糸の滝」。
あの源頼朝も巻狩まきがりでこの地にやってきた際に、白糸の滝を訪れたそうです。
頼朝といえば、第1回で家康が岡崎に帰省した時も、左衛門尉が家康を「源頼朝のようだ」と喜んでいたし、
第11回で家康が官位を得る際にも「源の末裔まつえいだ!」と盛り上がっていましたね。
きっと源頼朝は戦国武将の間では現代でいうヒーローのような存在だったはず!
聖地巡礼は欠かせませんよね。

“聖地”ですから、白黒の世界観でも白糸の滝の雄大さを表現したい!!
滝の高さや色のグラデーション、水しぶきの具合など何度も微調整を重ねました。
実際に訪れた際は見比べてみてくださいね。

◆(原文)しらいと之たき 一ちやう半のかへをゝちゆく瀧十けんあまりの高さより幾すしものみすしらいとをたらす かのことく最ももつてゆふ美のいたりなりかつて故うたいしやう源よりとも公まきかりにお越しなされ候をりかみいてニ而かりくらの屋形を立てられしときゝ申候先のはせ川なにかシここにてもすゐきやうをならるゝときゝおよひ候間ふしのやまをあかめし者あまた存しをり候もの也

◆(原文・漢字仮名交じり)白糸之滝 一丁半の壁を落ち行く滝。一〇間余りの高さより幾筋もの水、白糸を垂らすかの如く最も 以って優美の至りなり。かつて故右大将源頼朝公、巻狩にお越しなされ候折り、上井出ニ而「かりくらの屋形」を立てられしと聞き申し候。先の長谷川某、ここにても水行をなさるると聞き及び候間、富士の山を崇めし者、数多存し居り候者也。

◆(現代語訳)白糸の滝 一五〇メートルほどの壁を落ちてゆく滝。二〇メートルほどの高さから幾筋もの滝が白糸を垂らしたかのようで、非常に優美極まりないといえましょう。かつて源頼朝公が巻狩で当地にお越しになった際、上井出に「かりくらの屋形」をお建てになったと聞きました。先に述べた長谷川某は、ここでも水行を行ったと聞き及んでおりますので、富士の山をあがめる者が多数存在することが分かります。

3ページ目は「信玄の隠し湯」。
実際に温泉好きで、多くの隠し湯を持っていたという武田信玄。
戦国時代は「デトックス」目的というより、傷をいやすという「治療」の目的が強かったそうです。
武田軍の強さは“テルマエ”にあったのですね!

でも実際の信玄の秘湯の様子は文献に残っていないので…
いろいろな資料と各地の天然温泉の風景を参考にしながら、構成を考えました。
信長と家康が入る湯の大きも2人が絶妙な距離感になるように調整しています。

ちなみに給仕をしているのは誰だかわかりますか?

意外にも信長が「湯は好かん」とのことで、待ちぼうけをくらった彦右衛門と七之助です。
於愛さんの目には2人はこんなにかわいく見えているんですね。

◆(原文)武た信けんの隠し湯 かいの國たけたしんけんあまたのいて湯を見つけをり候信けんみすからのミならす足かる共も矢きすやりきす於ゐやすと云〻駿かにちかきしもへの湯ハ日れんしやうにんおたちよりのいてゆニ御座候あなやま殿治めをり候あひたくハしくおきゝくたされへく候するか國内にもしんけん忍ひをもむくをんせんこれあり候かくしたるゆへんハはかりかたく候へとも疵を癒やし候うへにやうしやういたし居候よしこうのういかハかりかうかゝひ知れす候

◆(原文・漢字仮名交じり)武た信けんの隠し湯 甲斐国武田信玄、数多の出で湯を見つけ居り候。信玄自らのみならず、足軽共も、矢疵・ 鑓疵を癒やすと云々。駿河に近き下部の湯は、日蓮上人お立ち寄りの出で湯に御座候。穴山殿治め居り候間、詳しくお聞き下されべく候。駿河国内にも信玄忍び赴く温泉これあり候。隠したる所以量りがたく候えども、傷を癒やし候上に、養生いたし居り候由、効能いかばかりかうかがい知れず候。

◆(現代語訳)武田信玄の隠し湯 甲斐国武田信玄は数多くの温泉を見つけています。信玄自身だけでなく、足軽たちも矢ややりの傷を癒やしたとのことです。駿河に近い下部の湯は、日蓮上人がお立ち寄りになった温泉です。穴山殿が治めていらっしゃるので、詳細を(穴山殿に)お聞きください。駿河国内にも信玄が忍んで出かけた温泉があります。隠していた理由は定かでありませんが、きずを癒やしたうえに、(病の)養生もしていたので、効能はものすごく計り知れないものです。

4ページ目は「三保の松原」。
絵の中央には羽衣伝説で羽衣が掛けられていたという「羽衣の松」。
上空に天女が舞う中、家康は野点で信長をもてなしています。
浜松のお茶はとってもおいしいですよね。
古くは今川、徳川の時代に御用茶として発展したそうですよ!

野点のしつらえや松の木は風俗交渉の佐多さんの細かな考証のもと、描かれています。
松の絵は当時の絵や能舞台の松を参考にしているんですよ!

◆(原文)ミほの松はら なかきにわたる白きすなに立ならひし松の林さらにはふしのたかねをのそみ候あひたまことに見ことなるけしきニ而御座候古くハ後とは院も三ほのうらなみと玉やうわか集に詠みけるたう地のむかし語りにハりやうしにまゐをひらうしたるてん女これあり候天によのまとふはころもを松にかけしと伝ハり申候はころもハみほの社に候ヘハ是非に御らんニ入れたく候

◆(原文・漢字仮名交じり)三保の松原 長きにわたる白き砂に、立ち並びし松の林。さらには富士の高嶺を望み候間、寔に見事な る景色ニ而御座候。古くは後鳥羽院も三保の浦波と玉葉和歌集に詠みける。当地の昔語りには、漁師に舞を披露したる天女これあり候。天女の纏う羽衣を松に掛けしと伝わり申し候。羽衣は三保の社に候えば、是非に御覧に入れたく候。

◆(現代語訳)三保の松原 非常に長い白砂に、立ち並んでいる松林。さらには富士の高嶺を望むことができ、まことにみごとな景色でございます。かつては後鳥羽院も三保の浦波と玉葉和歌集に詠んでいらっしゃいます。当地に伝わる伝承には、漁師に舞を披露した天女がいました。天女が着ていた羽衣を松に掛けていたとのことです。羽衣は御保神社にございますので、是非とも御覧に入れたいと存じます。

皆さん、「於愛の旅のしおり」いかがでしたか?
私たち制作陣は初めて書き手さんから原稿が上がってきた際に、その絵のかわいさに悶絶もんぜつしました!!
視聴者の皆様にも気に入っていただけるとうれしいです。

また、旅のしおりを作成する際は、『信長公記』から実際に信長が遊覧したとされる場所を選びました。
皆さんも「於愛の旅のしおり」を持って家康に接待されている気分で旅行に行ってみては?

助監督:丹野紗彩香
美術進行:徳江沙織

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