113.大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 第4 編
113.大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 第4編
令和4年10月吉日
鎌倉では、初代鎌倉殿となった源頼朝の突然の死から、2代目・源頼家、3代目・源実朝へ変わった。同時に、鎌倉殿を補佐する御家人13人による政治体制が創設され、その頂点に初代執権・北条時政が立った。
しかし、時政は、鎌倉殿をねらい事変を起こして失脚し、息子の北条義時が、2代執権に変わった。その後も留まりのない無常な殺戮が繰り返され、遂には、京の後鳥羽上皇の怒りを招く。
第39回、「穏やかな1日」
鎌倉では、いまだ、実朝(柿澤勇人)と千世(加藤小夏)との間に世継ぎの誕生がなく、政子(小池栄子)と実衣(みい;宮澤エマ)は、気にかける。そして、執権となった義時(小栗旬)は、御家人たちが謀反を起こさせないよう、政の仕組みを改めた。しかし、この傲慢なやり方は、三浦義村(山本耕史)や和田義盛(横田英司)らに不満を募らせていく。
実朝(柿澤勇人)は、御家人たちに合わせ、政を行うが、「私は、居ても無くても同じではないか」と、次第に政から遠のき、和歌を始めた。やがて、京では、和歌の第一者、藤原定家から文が届き、鎌倉では実朝の右に出る者は居なくなった。
【和歌に励む実朝】 【実朝に取り入る和田義盛】
或る日、和田義盛(横田英司)が、御家人の柱になろうと、実朝(柿澤勇人)に取り入り、馴染みの者を御家人へと推挙するよう願い出る。実朝(柿澤勇人)は、これを聞き入れ、義時(小栗旬)に相談するが、義時はこの申し入れを断った。
一方、義時(小栗旬)は、永らく仕える太郎を思いやり、御家人に推挙すると約束したが、実朝から「それは、ならぬ」と逆に拒絶された。しかし、その後、鎌倉殿の実朝は、よく考え、義時(小栗旬)に許しを請い、“時政とりくの変”における褒美を取らし、義時(小栗旬)と和解した。
実朝(柿澤勇人)は、このような出来事から心を開く御家人たちがいなくなった。また、千世(加藤小夏)との間も世継ぎのことで気まずくなった。そこで、実朝は、千世に子づくりが出来ない身体であることを打ち明け、再び、千世(加藤小夏)との仲は、元に帰った。
義時に根をもつ和田義盛(横田英司)は、「義時のやつ、親父を追い出し、やりたい放題だ!」と云いふらし、近いうちに、痛い目に合うよう思い知らせてやろうと、三浦義村(山本耕史)と酒を汲み合し、決意する。
承元3年(1209)9月22日、善哉が僧修行として京へ向かった。
【打ち明ける実朝と千世】 【静岡県;十国峠(実朝の歌碑が建つ】伊豆・武蔵・甲斐など十か国を見渡せる
第40回、「罠と罠」
京では、後鳥羽上皇(尾上松也)と兼子(シルビアグラブ)が、閑院内裏の修復を鎌倉の実朝(柿澤勇人)に引き受けさせようと悪る企み、笑みを浮かべる。
処が、鎌倉では、この重い負担に耐えかねた御家人たちが、反発する。
そのような中で、信濃で一つの事件が、起こった。
泉という武士が、北条家を襲う反乱計画が発覚し、三善康信(小林隆)がこの調査を行った。困ったことに、和田義盛(横田英司)一族のうち、子息2名と甥1名が加わったとのこと。しかし、泉という男は、風のように消えてしまったことから、上皇の回し者ではとの噂が立った。
【反乱計画に加わり、うなだれる義盛の甥御】 【御所で直訴する和田義盛】
そこで、義盛(横田英司)は、親族を救おうと、一族郎党を従え、直訴のため御所へ向かい、義時(小栗旬)に頭を下げた。大江広元(栗原英雄)、三善康信(小林隆)、北条義時(小栗旬)らは、この事件について、審議を行った。
その結果、子息2名は、許された。しかし、甥御は、多くの御家人をそそのかし、反乱を誘ったという罪で、陸奥の国へ流罪に決まった。
その後、和田義盛(横田英司)と三浦義村(山本耕史)が、酒を酌み交わしながら、
義村;「いっそのこと、北条を倒せば?」と反乱へと誘う。更に「御所へ踏み込んで、義時の首をとろう」、「義時ばかりが、よい目をして」と、義盛を焚きつける。
三浦義村(山本耕史)が、北条館へやってきた。
義村;「和田は、間違いなく挙兵するぞ!」と、口火を切る。
政子;「話しは、聞いた。和田殿は、野心はもってない」と、はやる義時を説得する。
義時;「和田は、最も恐ろしい男です。消えてもらいます」と、きっぱり反論する。
政子;「独りで勝手な事をしないで、もう誰も死なせたくない」と、叫ぶ。
義時;「私も同じ思いです。鎌倉のためです」云い返す。
鎌倉がただならぬ事になっていると知った実朝は、御所へ和田義盛(横田英司)と北条義時(小栗旬)を呼びつけ、互いに和睦を図った。 処が、和田の館では、父上が戻らないと騒ぎ出した。
.【和田義盛を説得する実朝】 【光念寺】義盛建立の寺、神奈川県三浦市;漁港を見下ろす丘の上にある。
第41回、「和田合戦」
鎌倉では、和田義盛(横田英司)の転落をもくろむ北条義時(小栗旬)に対し、戦いを避けようと、実朝(柿澤勇人)と政子(小池栄子)が、奔走していた。
処が、和田義盛(横田英司)の陣営では、義秀(栄信)の家来たちが、「義盛が戻らない」と騒ぎ出し、挙兵する。そこへ御所から義盛が陣へ帰って来た。しかし、もはや戦いを鎮めることが出来ず、戦いの矢が放たれた。
建暦3年(1213)5月2日
義盛(横田英司)は、戦いに当たって「この戦いは、鎌倉殿に決して弓を引くものではない」と、家来たちに釘をさした。そして、仲間に加わっている三浦(山本耕史)に対し、「お前たちは、裏切るつもりなら、ここから早く出てくれ、途中で裏切られれば、たまったものではない」と、叫んだ。
三浦義村(山本耕史)は、「許しが出たぞ。俺たちは北条側へつく」と、言い残し、八田氏(市原隼人)らと共に北条側へ走った。
【戦いを決断した和田義盛】 【戦いを仕掛けた北条義時】
義村(山本耕史)は、急ぎ義時(小栗旬)に会い「和田勢が直ちに攻めて来る。大江広元の館、北条義時の館、御所へ三方向から攻める積りだ」と、敵のねらいを伝えた。
義時(小栗旬)は、直ちに「我らは、鎌倉を守るため、御所へ行く。三浦は南門を、時房は北門を固めよ。西門は、泰時が守れ」指示を出した。
そして、義時(小栗旬)は、御所へ着くと、「鎌倉殿は、ここから八幡宮へ逃げてください」と告げた。実朝(柿澤勇人)が、「戦いはしない約束では?」とただすと、義時(小栗旬)は、「義盛に諮られました」と応える。大江広元(栗原英雄)も御所から重要な書類を八幡宮へ運び出した。
和田勢は、南門からなだれ込んだが、そこは、三浦勢の守りに会い、大混戦となった。義時(小栗旬)と実朝(柿澤勇人)たちが無事に鶴岡八幡宮へ避難した頃、御所から火の手が上がった。
三浦勢に押し戻された和田勢は、由比ガ浜で態勢を立て直し、その後、一進一退の攻防が繰り返され、若宮大路を挟んで、和田勢と幕府勢のにらみ合いが続いた。
戦いは、翌日に及び、広元(栗原英雄)たちが、西相模の御家人が、駆け付け、やがて和田勢に加担するかもと心配を始めた。そこで、広元(栗原英雄)と義時(小栗旬)は、御家人たちに鎌倉殿の名前で書状を出す事を考えた。
しかし、実朝(柿澤勇人)は、「これは、北条と和田の戦いである」と、花押をためらった。義時(小栗旬)は、「和田は、御所を攻めたのです。これは、謀反です」と、主張しつづけ、押し切った。実朝(柿澤勇人)は、「義盛を殺さない」と約束させて、花押した。
これにより、西相模の御家人たちは、和田勢を見限り、幕府勢が優勢になった。その後、実朝(柿澤勇人)が義盛(横田英司)を説き伏せようと戦場へ出た。
実朝(柿澤勇人)は、「これ以上の戦いは、無用である。おとなしく降参せよ。義盛!お前に罪はない。私には、お前が必要なのだ」と諭した。義盛(横田英司)は、「もったいのうございます。皆聞いたか、我は、鎌倉随一の忠臣者だ」と、叫んだ。
その時、義時に指示された三浦勢が矢を射かけて義盛(横田英司)は絶命した。これにより、和田合戦は、両軍に大勢(1000名以上)の死傷者を出して終結した。義盛の妻;巴(秋元才加)は、義盛(横田英司)の死をみて、鎌倉から離れ、91歳まで生きた。
戦い後、義時は、政所と侍所両方の別当の御家人筆頭の地位を得て、鎌倉はゆるぎないものとなった。
義時(小栗旬)は、「犠牲のうえに鎌倉がある。大事なのは、力である。人は、畏れることで、人はまとまる」と呟く。
実朝(柿澤勇人)は、「私は、兄上のように強くはない。京の力を借りて、鎌倉に安寧の世を創る」と決心し、頼朝を越えようとしていた。
同年5月21日、戦いから18日後、鎌倉で大地震が起こった。
京の後鳥羽上皇(尾上松也)は、「義時が戦いをしたから大地震が起こったのだ。鎌倉は、まだまだだ」と云う。
【義盛の説得に当たる実朝】 【由比ガ浜】
第42回、「宋船計画」
忠臣・和田義盛(横田英司)を失った実朝(柿澤勇人)は、泰時(坂口健太郎)をそばに置き、「父上が造られた鎌倉を北条から源氏の手に取り戻す」と、決意を新たにする。
一方、鎌倉内での地位を盤石にした義時(小栗旬)は、のえ(菊池凛子)に薦められて、2代執権・北条義時を名乗った。
その力を以って、未熟な実朝をけん制するので、新しい鎌倉をめざす実朝(柿澤勇人)とはうまく行かない。それを見る政子(小池栄子)は、気をもむ。
そこへ、源仲章(生田斗真)が、京から戻る。仲章が連れてきたのは、宋の技術者・陳和卿(ちんわけい)。陳は、実朝(柿澤勇人)に「前世、あなたは、私が住む育王山の長老だった。大きな船を作りましょう」と投げかけ、由比ガ浜での“宋船建造”が始まった。しかし、義時(小栗旬)は、西への警戒を強め、「上皇様に薦められて作る船は、必要ござらぬ」一旦中止にするが、泰時(坂口健太郎)や三善康信(小林隆)の懇願により、続行する。
【実朝に謁見する陳和卿】 【完成した宋船の引き込み作業 】
建保5年(1217)4月17日
船が完成し、海へと、大勢の関係者が綱を引くが、船は浜にめり込み、全く動かない。船を海に浮かべることは、出来ず、浜辺で朽ち果てた。
政子(小池栄子)は、落ち込む実朝(柿澤勇人)に、自信をもたせ、ゆるぎない力を与えようと諭すと、実朝は、「私は、大御所になり、京から養子を迎える。仲章(生田斗真)と話して進めよ」と宣言する。
これには、義時(小栗旬)も反対するが、政子(小池栄子)から「鎌倉殿の好きなようにさせなさい」と反論される。
6年ぶりに京から公卿(頼家の嫡男)が帰ってくる。そして、政から離れ、伊豆に蟄居していた北条時政(坂東弥十郎)が、享年78歳で亡くなった。
【落ち込む実朝、なだめる政子】 【船玉神社】神奈川県藤沢市。近くには、木を切る職人が多くいたと云う。
第43回、「鎌倉の死角」
京の園城寺から公暁(こうぎょ、寛一郎)が戻っている。乳母夫の三浦義村(山本耕史)が出迎え、「鎌倉殿になるのは、あなた様以外にはいない、必ず願い事を叶えてご覧にいれます」と、謀をめぐらす。そして義時(小栗旬)の処へ連れて行く。
義時;「久しいです。分かれて何年ぶりですか?」と問いかける。
公暁;「6年になります」と、応える。
義村;「頼家様より賢い」と。 義時;「それは、頼もしい」と。
公暁;「心身を鍛えてきました。立派な鎌倉殿になる積りです」と、気持ちを伝える。
義時;「次の鎌倉殿は、実朝様の養子として京から迎える親王様です。あなた様は、鶴岡八幡宮の別当になって頂きます」と、話しを遮る。
義村;「待ってくれ! それは、おかしい」と反論する。
公暁;「話しが違う」と驚愕し、「鎌倉殿を説き伏せよ」と、義村へ伝えた。
【鎌倉へ戻った公暁(寛一郎)】 【上京した政子(小池栄子)】
京より、「実朝が送った文の返事が分かった。願い出た新しい鎌倉殿のことは善処する」との返書が届いた。
この対応について、義時(小栗旬)は御家人たちと協議した結果、尼御台(小池栄子)に任せることとなり、政子(小池栄子)は京へ上洛した。
政子は、院の御所で、後鳥羽上皇(尾上松也)の乳母・藤原兼子(シルビアグラブ)と対面し、うまい具合に話しは、進む。
政子は、「兼子から今の天皇は、養子の候補の一人である頼仁親王の兄に当たり、その兄の后は懐妊している」との話しを知る。
政子;「ということは、頼仁様が、次の天皇になることは、ないと???? ならば、代わりに鎌倉殿になって頂ければ、これ以上嬉しいことはございません」と。
兼子(シルビアグラブ)は、まんざらでもない様子。
政子;「頼仁様が、鎌倉殿になった暁には、兼子様に最高の礼を尽くします」と約束し、認めさせた。
後鳥羽上皇(尾上松也)も賛同し、鎌倉行きには、頼仁様が決まった。
千日参籠中の公暁(寛一郎)は、「頼仁親王が、実朝(柿澤勇人)の後継者になった」との話しを耳にして、義村を呼び寄せた。
公暁;「私が、鎌倉殿になる芽が摘まれた。そういうことか?」と。
義村;「若君が鎌倉殿になれば、必ず災いが降りかかります。これで良かったのです」と。
公暁「どういう意味だ?」と、聞き返す。
義村;「あなたの父上は、北条の手によって殺され、実朝様を鎌倉殿に仕立てあげたのです」と。
義村;「北条を許してはいけない。まつりあげられた実朝も」と公卿に本意を告げた。
その2カ月後、鶴岡八幡宮にて、実朝(柿澤勇人)は左大将となった拝賀式が執り行われた。
更に1月後の7月8日、実朝の「直衣始の儀式」が、鶴岡八幡宮で盛大に行われた。
【政子と会う兼子(シルビアグラブ)】 【直衣始の儀式】
第44回、「審判の日」
実朝(柿澤勇人)は右大臣の官職を授けられ、北条家はこの栄誉に湧きだっていた。
冬の日、公暁(寛一郎)は「明日の右大臣の拝賀式の折、実朝(柿澤勇人)が八幡宮で拝礼を終えた帰りを襲う」と宣言し、三浦義村(山本耕史)に図面と声明文を以って説明した。
更に、公暁(寛一郎)は、「目的を果たした後、三浦の兵が打倒北条を叫び、御家人を呼応させよ」と、戦いの手筈を整えた。
【右大臣の運びとなる実朝】 【実朝の殺害を企む公暁】
翌日の建保7年(1219)1月27日
泰時;「三浦には、兵が多く集まっている」と云い、不信がる。
義時(小栗旬)は、これを聞き、三浦義村(山本耕史)に公卿(寛一郎)の行動を問い詰める。
義村は、「公卿は、千日の参籠の真っ最中、疑わしいことは、何もない」と答えた。しかし、義時は、義村の手が、襟に触れた癖を見て、おかしいと気付く。
義時;「拝賀式は、中止にすべき」と進言する。
仲章;「今更、中止にはできない」と応える。
実朝;「分からん。何故、公卿が私をねらう。ゆくゆくは、御所は京へ移すつもりだ」と将来を告げると。
義時は、実朝の言葉を聞き、足元が揺らぐ思いだった。
北条泰時(坂口健太郎)は、今日の儀式をいぶかい、三浦館へ出向き、「三浦勢は儀式に参加しないで頂きたい。鎌倉殿の命である」と告げた。
義村は、感づかれたことを知り、襲撃の中止を決めた。
その足で、泰時(坂口健太郎)は、御所へ向かい、実朝(柿澤勇人)に「公卿様が、鎌倉殿を殺めようとしている」と告げ、刀を授けようとしたが、実朝は「刀はいらぬ」と、受け取らない。そして、泰時(坂口健太郎)は、時房(瀬戸康史)に「公卿様が実朝様をねらっている」と告げた。これに対し、時房(瀬戸康史)は「直ぐに取り押さえましょう」と同意した。
しかし、義時(小栗旬)は、「放っておけ、愛想が尽きたわ」と一言。
式が始まろうとしていた。
実朝(柿澤勇人)は、妻に「私は、上皇様に二つ事を感謝しなければならない。一つは、右大臣になったこと。二つ目は、お前を夫婦に頂いたこと」と、言い残して、八幡宮へ出発した。
三浦義村は、「若君が本懐を遂げるまで、我々は動いてはならぬ」と命じた。
北条義時(小栗旬)は、太刀を持ち、公暁(寛一郎)が現れると、討ち取る手筈を整えた。
鶴岡八幡宮に降る雪は、夕刻を過ぎた頃から牡丹雪に変わった。
【公卿の企みを阻む、義時、泰時】 【鎌倉市、覚園寺】義時が私財を投げうって薬師堂を建立したのが、始まり。
第45回、「実朝の殺害」
建保7年(1219)1月27日、夕刻
鶴岡八幡宮にて、実朝(柿澤勇人)の右大臣の拝賀式が執り行われた。
源仲章(生田斗真);「北条殿!ここからは、私が貴方の太刀を預かります。鎌倉殿の命令です」と云い、義時(小栗旬)の太刀を預かった。そこで、太刀持ちを外された義時(小栗旬)は、階段下の御家人のたまり場へ行き、義村(山本耕史)に投げかける。
義時;「公暁(寛一郎)は、どこに潜んでいる」と問う。義村(山本耕史)も分かっているので、応えようともしない。義時(小栗旬)も義村(山本耕史)も鎌倉殿が、亡くなることを願っている。
そこへ泰時(坂口健太郎)が、やって来た。
【八幡宮の拝賀式】 【天命と悟った実朝】
泰時;「父上!ここから動かぬように。公暁殿(寛一郎)が父上の命を狙っています」と告げる。そこへ、拝賀式の終わった実朝(柿澤勇人)が楼門から降りてきたので、泰時(坂口健太郎)が警護につこうとする。しかし、義時(小栗旬)は、「聖なる儀式の邪魔をしてはならぬ」と、泰時(坂口健太郎)の腕をつかんで止めようとする。
公暁(寛一郎)が現れて、太刀持ちの源仲章(生田斗真)を切り捨て、続いて、実朝(柿澤勇人)も切り、留めを刺した。「親の仇を取ったぞ」と高らかに叫んだ。
義時;「切り捨てよ」と家来に命じたが、公暁に逃げられた。
義村;「笑えるな!仲章は太刀をもったばかりに、お前の代わりに死んでくれたな」と。
義時は、直ぐに実朝(柿澤勇人)の遺体を御所へ移し、ことの顛末を後鳥羽上皇に送るよう命じた。
実朝の妻・千代は、「鎌倉殿の最期の言葉です」と、和歌を披露した。実朝は、前もって天命を察していた歌だった。
義村は、「早く若君を見つけ出し、早く殺せ!若君にしゃべられては、三浦は終わりだ」と云い、家来に命じた。
政子の館に逃げ込んでいた公暁(寛一郎)は、見つけ出され、義村(山本耕史)に殺された。
義村;「公暁の首である。ご検分頂きたい。この先も、三浦一門、鎌倉を守りたい」と願い出た。
義時;「これからも共に、鎌倉を守ってくれ」と、三浦を匿った。そして、義時は、北条のための鎌倉づくりを目指して動き出した。
しかし、子と孫を同時に失った政子は、「もう鎌倉にいるのは、いやです。伊豆へ行きます」と、義時に告げる。
義時;「ダメです。これからは、北条の鎌倉をつくるのです」と、政子に夢を掲げる。
政子;「どうして伊豆へは、ダメなのですか?」と反発する。
義時;「あなたが、頼朝様の妻だからです」と、政子をなだめる。
後鳥羽上皇(尾上松也);「実朝が殺されたのは、本当か?しかも仲章も殺されたか」と問う。更に、「まずは、国の安泰を守れ」、「親王を鎌倉へやるのは、取りやめだ」と指示した。
【復讐に燃える公暁】 【鎌倉市、鶴岡八幡宮】実朝は、ここで命を落とした。公暁が隠れた大木は、「隠れ銀杏(左手)」と呼ばれ、平成22年の台風に倒れたが、今は若木が自生している。
第46回、「尼将軍の誕生」
実朝(柿澤勇人)の殺害を受け、後鳥羽上皇(尾上松也)による「実朝の次の将軍を頼仁親王とする計画」が揺らぎ出し、幕府と朝廷の駆け引きが始まる。
このような中で、政子(小池栄子)の妹・実衣(宮澤エマ)が、源頼朝の異母弟・阿野全成との間で生まれた子・「阿野時元」を鎌倉殿に立てようと、思い立つ。そして、実衣(宮澤エマ)は、上皇から宣旨を得ようと三浦義村(山本耕史)に相談する。
実衣;「時元を鎌倉殿に?戯言に決まっていうでしょう!」と、はぐらかし・・・・
義村;「手筈」はこの三浦にお任せを」と、安心させる。
処が、義村は、義時へ向かう。
義村;「後は、時元が兵を挙げるよう追い込むだけだ」と、
義時;「災いの種を絶たねばならん。公暁のようにしてはいかん」と、言い放つ。
1219年2月22日
阿野時元は、義時(小栗旬)が差し向けた兵に囲まれ、自害した。その後、実衣(宮澤エマ)の詮議が始まった。実衣(宮澤エマ)は、「謀反に関わりがない」と否定していたが、しかし、時元へ送った宣旨を願う手紙が見つかり、動かぬ証拠となった。
義時;「厳罰に処すべきです。死罪が相当です」と、処罰を下す。
政子(小池栄子)は妹の実衣を擁護し、泰時(坂口健太郎)は同情する。
実衣(宮澤エマ)は、処罰が決まるまで、部屋に閉じ込められた。
1カ月後、京より後鳥羽上皇(尾上松也)から返書が届いた。2人の新王のうち、どちらを選ぶか吟味したいと云う内容で、既に決められていた頼仁親王の決定は反故にされた。
その後、朝廷と鎌倉の駆け引きがつづき、後鳥羽上皇(尾上松也)が実朝をともらうため、使者が送られた。その時、義時(小栗旬)が持つ荘園の地頭の権利を返上せよとの要求が出された。上皇の嫌がらせであった。
義時(小栗旬)は、怒り、上皇の言いなりには成らないと、時房に1000人の軍勢を率いて、京へ向かわせた。その結果、上皇は親王ではなく、代わりの者を鎌倉へ送るとの約束をして決着した。それを聞いた義時と政子は喜んだ。
【実衣(宮澤エマ)】 【後鳥羽上皇(尾上松也)】
同年7月15日
後鳥羽上皇(尾上松也)が約束された鎌倉殿が、やってきた。それは、摂関家の流れをくみ、源氏の血を引く三寅(みとら)様だった。
三寅様は、まだ幼く2歳。元服を待ってから征夷代将軍に就任してもらう他なく、御家人たちが、敬意をもって従うハズもない。義時(小栗旬)は、これには驚いた。
そこで、鎌倉を治めるため、政子(小池栄子)が「尼将軍」になることで、義時(小栗旬)も認めた。
その日の夕刻、御家人たちの集まる中、政子(小池栄子)は、三寅様を膝に乗せ、首座につき、「三寅の披露目の儀式」と「尼将軍の披露目の儀式」を同時に行った。
政子(小池栄子)は、これにより、部屋に閉じ込められていた実衣(宮澤エマ)を助け出した。
【尼将軍になった政子】 【多摩川、浅間神社】政子が頼朝の武運長久を祈った神社
第47回、「尼将軍・政子の演説」
京では、源頼政の孫・頼茂(みなもとよりしげ)が次期・鎌倉殿に三寅が決まったことに腹を立て、謀反を起こした。この謀反は、直ぐに鎮圧されたが、内裏が焼け落ちた。
そこで、後鳥羽上皇は、内裏修復のため、日ノ本の武士から税を取り上げることを命じた。処が、北条義時が、この税の要求に反対し、その対応を引き延ばした。これにより幕府と朝廷の溝は、ますます深まり、対立することになった。
上皇;「御家人が、鎌倉から離れているようじゃの!」と云いつつ、「鎌倉の義時を討つ時がきた」と決断した。
承久3年(1221)5月13日
京都守護が襲撃された。ここには、義時の妻・”のえ”の兄が就いており、兄は自刃した。数日後、三浦館に上皇の使者が、院宣をもって訪れた。
義村;「ここは、一つ間違えば、命取りになる」と、云いつつ、義時館へ出向き、義時へ院宣を差し出す。驚いた義時は、時房、泰時、大江広元、三浦義村を集めて協議し、院宣の調査を行った。その結果、義村の院宣を含め、計8通の院宣が出されていた。
義時は、暫らく黙考し、「この院宣は、鎌倉へ攻め込むためのものではない。私を追放せよとの院宣だ。私一人のために鎌倉を灰にすることは、出来ない」と云い、政子へ会いに行き、自分の考えを述べた。
義時は、御家人を集め、彼らの前で経緯を話そうとした時、政子が現れ、義時を下がらせ、大江広元に書かせた文章を話し始めた。
政子;「源頼朝様が、朝敵を討ち果たし、関東を治めて、このかた、その恩は山よりも高く、海よりも深い・・・・」と。
政子はこの文章を読むことなく、途中でしまい、話しを続けた。
政子;「鎌倉が守られるならば、命を捨てると、義時は云った。あなた方のために、彼は犠牲になろうとしています」と。続けて、「成程、義時は、これ迄皆から憎まれるような厳しい態度をとってきた。それも認めます。しかし、彼は、私欲のために行ってきたのではない。全て、鎌倉を守るためです」と、政子は強調する。
政子;「ここで上皇様に従って、未来永劫、朝廷の言いなりになるか、戦って坂東武者の世を作るか?頼朝様の恩に今こそ応じるのです!」と。政子が、鼓舞すると、御家人たちが大きな雄叫びをあげた。
【尼将軍政子の演説】 【後鳥羽神社】滋賀県長浜;上皇となった後鳥羽は、この地を二度訪れたと伝えられる。
第48回、「義時;報いの時」
政子(小池栄子)の言葉で奮起し、徹底抗戦を選んだ幕府は、広元(栗原英雄)や庸信(小林隆)の忠言を聞き入れ、速やかに京へ派兵することになった。
義時;「泰時(坂口健太郎)が総大将だ。鎌倉の命運は、お前に託した」と指示した。
これにより、泰時(坂口健太郎)他17名が先発隊として、東海道を進み、遅れて、時房(瀬戸康史)が、北陸道を進軍した。途中で北条方に同意し味方を増やし、気づけば、総数19万の兵になっていた。
一方、朝廷側は、後鳥羽上皇(尾上松也)の近臣・藤原秀康が将軍を務め、1万の兵にて木曽川の戦いに敗れ、最後の砦・宇治川で待ち受けた。
泰時(坂口健太郎)は、京へ通じる宇治川で上皇の兵を向かい討ち、ここでも勝ち進み、都を抑えた。泰時は、お会いした上皇に「隠岐へ島流しにせよ」と、命じた。
【北条泰時(義時の嫡男);宇治川の戦い】 【北条時房(義時の異母兄弟)】
天皇には御堀川天皇を即位させ、新しく設置した六波羅探題に泰時と時房を朝廷の監視に当たらせた。これらの政策により、京の力は極端に衰え、鎌倉幕府は、日本を支配する時代に変わった。
「承久の乱」から3年後、義時(小栗旬)は、鎌倉へ戻った泰時、時房と酒を酌み交わし、積もる話しを始めたが、突然、盃を落とした。
幸い、この時は、大事に至たらなかった。その時、義時の妻・のえが薬草を運び、飲まそうとする。 義時;「これを飲めば、具合が悪くなりそうだ!」といいながら、しぶしぶ薬草を飲む。
暫くして、義時(小栗旬)は再び倒れ、のえ(伊賀氏の方)がやってきた。
義時;「医者が云うには、誰かが麻の毒を盛っている」と云う。
のえ;「私です。私の子を北条家の後取りにつかせたかったのです」と、白状した。
義時;「もっと早く、お前の本性を見ておけば、よかった」。「もう二度と、ワシの前に現れるな」と、言い放つ。
のえ;「家に帰らせて頂きます」と。
「承久の乱」後、東国の御家人たちには、恩賞として、西国の所領が与えられた。そのことで西国の者たちは、不満を募らせた。そこで、泰時は、「東国と西国を問わず、誰もが従うべき公平な決まり」が必要であると考え、その法の制定を始めた。数年後、泰時は、「御成敗式目」と云う法令を作り上げ、江戸時代まで使われた。
義時(小栗旬)の容態は、次第に悪くなっていく。そんな中、政子(小池栄子)が、見舞いにやって来る。
政子;「あなたは、上皇(尾上松也)様を島流しにした大悪人。私は、身内を死に追いやり、尼将軍に上り詰めた悪女です。それでも頼朝様から鎌倉を引きつぎ、次世代へとつないだ。これからは、あの賢い泰時が、争いの無い世を作ってくれるでしょう」。「義時、ご苦労さまでした」と。
義時(小栗旬)は、政子が見守る中、薬をくれと悶えながら息を引き取った。
北条義時;元仁2年6月(1224)死去、享年62歳
そして政子(小池栄子)も、義時の後を追うように、翌年亡くなった。
北条政子;嘉禄元年7月(1225)死去、享年69歳
【後鳥羽上皇;京へ攻め込まれ、島流しに】 【北条政子が、義時を見舞うシーン】
完
【最後に】
「鎌倉殿の13人」では、多くの源氏一族および御家人たちが殺戮を繰り返し、命を落とした。
源氏一族;源義経、源範頼、源頼家、源実朝、阿野全成、公暁、
源行家、木曾義仲、木曾義高
御家人 ;上総介、梶原景時、比企能員、和田義盛、畠山重忠
(北条時政;失脚)
その他 ;平家一族、奥州・藤原一族
彼らは、鎌倉殿や執権をめざし、鎌倉という狭い地で互いに疑心暗鬼におちいり、殺戮のルツボに化したのだ。これは、人間の性なのか?
この繰り返される殺戮に疑念をもった男が、3代執権になった”北条泰時”であった。彼は、幼い時から祖父・時政や父・義時の強権的政治をみて疑問をもち、安定した世をめざし、平和的で安寧な政治を求め、改めたと伝わる。
彼は、承久の乱後、京を平定した六波羅探題に3年間勤めあげた。その時、経験した様々な知識をもとに、御家人たちが争って解決するのではなく、法令である「御成敗式目」を作り上げた。これは、以後、江戸時代まで使われたと云われる。この法令の制定により、御家人たちが守るべき道しるべが示され、御家人たちの紛争が、和らいだと伝わる。
おわり
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