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2022年12月26日 (月)

113.大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 第4 編

13.大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 第4編
令和4年10月吉日
   鎌倉では、初代鎌倉殿となった源頼朝の突然の死から、2代目・源頼家、3代目・源実朝へ変わった。同時に、鎌倉殿を補佐する御家人13人による政治体制が創設され、その頂点に初代執権・北条時政が立った。
 しかし、時政は、鎌倉殿をねらい事変を起こして失脚し、息子の北条義時が、2代執権に変わった。その後も留まりのない無常な殺戮が繰り返され、遂には、京の後鳥羽上皇の怒りを招く。

第39回、「穏やかな1日」
 鎌倉では、いまだ、実朝(柿澤勇人)と千世(加藤小夏)との間に世継ぎの誕生がなく、政子(小池栄子)と実衣(みい;宮澤エマ)は、気にかける。そして、執権となった義時(小栗旬)は、御家人たちが謀反を起こさせないよう、政の仕組みを改めた。しかし、この傲慢なやり方は、三浦義村(山本耕史)や和田義盛(横田英司)らに不満を募らせていく。

 実朝(柿澤勇人)は、御家人たちに合わせ、政を行うが、「私は、居ても無くても同じではないか」と、次第に政から遠のき、和歌を始めた。やがて、京では、和歌の第一者、藤原定家から文が届き、鎌倉では実朝の右に出る者は居なくなった。

【和歌に励む実朝】                 【実朝に取り入る和田義盛】
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 或る日、和田義盛(横田英司)が、御家人の柱になろうと、実朝(柿澤勇人)に取り入り、馴染みの者を御家人へと推挙するよう願い出る。実朝(柿澤勇人)は、これを聞き入れ、義時(小栗旬)に相談するが、義時はこの申し入れを断った。

 一方、義時(小栗旬)は、永らく仕える太郎を思いやり、御家人に推挙すると約束したが、実朝から「それは、ならぬ」と逆に拒絶された。しかし、その後、鎌倉殿の実朝は、よく考え、義時(小栗旬)に許しを請い、“時政とりくの変”における褒美を取らし、義時(小栗旬)と和解した。

 実朝(柿澤勇人)は、このような出来事から心を開く御家人たちがいなくなった。また、千世(加藤小夏)との間も世継ぎのことで気まずくなった。そこで、実朝は、千世に子づくりが出来ない身体であることを打ち明け、再び、千世(加藤小夏)との仲は、元に帰った。

 義時に根をもつ和田義盛(横田英司)は、「義時のやつ、親父を追い出し、やりたい放題だ!」と云いふらし、近いうちに、痛い目に合うよう思い知らせてやろうと、三浦義村(山本耕史)と酒を汲み合し、決意する。

承元3年(1209)9月22日、善哉が僧修行として京へ向かった。

【打ち明ける実朝と千世】          【静岡県;十国峠(実朝の歌碑が建つ】伊豆・武蔵・甲斐など十か国を見渡せる
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第40回、「罠と罠」
 京では、後鳥羽上皇(尾上松也)と兼子(シルビアグラブ)が、閑院内裏の修復を鎌倉の実朝(柿澤勇人)に引き受けさせようと悪る企み、笑みを浮かべる。

 処が、鎌倉では、この重い負担に耐えかねた御家人たちが、反発する。
そのような中で、信濃で一つの事件が、起こった。
 泉という武士が、北条家を襲う反乱計画が発覚し、三善康信(小林隆)がこの調査を行った。困ったことに、和田義盛(横田英司)一族のうち、子息2名と甥1名が加わったとのこと。しかし、泉という男は、風のように消えてしまったことから、上皇の回し者ではとの噂が立った。

【反乱計画に加わり、うなだれる義盛の甥御】       【御所で直訴する和田義盛】          
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 そこで、義盛(横田英司)は、親族を救おうと、一族郎党を従え、直訴のため御所へ向かい、義時(小栗旬)に頭を下げた。大江広元(栗原英雄)、三善康信(小林隆)、北条義時(小栗旬)らは、この事件について、審議を行った。
 その結果、子息2名は、許された。しかし、甥御は、多くの御家人をそそのかし、反乱を誘ったという罪で、陸奥の国へ流罪に決まった。

 その後、和田義盛(横田英司)と三浦義村(山本耕史)が、酒を酌み交わしながら、
義村;「いっそのこと、北条を倒せば?」と反乱へと誘う。更に「御所へ踏み込んで、義時の首をとろう」、「義時ばかりが、よい目をして」と、義盛を焚きつける。

 三浦義村(山本耕史)が、北条館へやってきた。
義村;「和田は、間違いなく挙兵するぞ!」と、口火を切る。
政子;「話しは、聞いた。和田殿は、野心はもってない」と、はやる義時を説得する。
義時;「和田は、最も恐ろしい男です。消えてもらいます」と、きっぱり反論する。
政子;「独りで勝手な事をしないで、もう誰も死なせたくない」と、叫ぶ。
義時;「私も同じ思いです。鎌倉のためです」云い返す。

 鎌倉がただならぬ事になっていると知った実朝は、御所へ和田義盛(横田英司)と北条義時(小栗旬)を呼びつけ、互いに和睦を図った。 処が、和田の館では、父上が戻らないと騒ぎ出した。

.【和田義盛を説得する実朝】        【光念寺】義盛建立の寺、神奈川県三浦市;漁港を見下ろす丘の上にある。
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第41回、「和田合戦」
 鎌倉では、和田義盛(横田英司)の転落をもくろむ北条義時(小栗旬)に対し、戦いを避けようと、実朝(柿澤勇人)と政子(小池栄子)が、奔走していた。
 処が、和田義盛(横田英司)の陣営では、義秀(栄信)の家来たちが、「義盛が戻らない」と騒ぎ出し、挙兵する。そこへ御所から義盛が陣へ帰って来た。しかし、もはや戦いを鎮めることが出来ず、戦いの矢が放たれた。

建暦3年(1213)5月2日
 義盛(横田英司)は、戦いに当たって「この戦いは、鎌倉殿に決して弓を引くものではない」と、家来たちに釘をさした。そして、仲間に加わっている三浦(山本耕史)に対し、「お前たちは、裏切るつもりなら、ここから早く出てくれ、途中で裏切られれば、たまったものではない」と、叫んだ。
 三浦義村(山本耕史)は、「許しが出たぞ。俺たちは北条側へつく」と、言い残し、八田氏(市原隼人)らと共に北条側へ走った。

【戦いを決断した和田義盛】                      【戦いを仕掛けた北条義時】
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 義村(山本耕史)は、急ぎ義時(小栗旬)に会い「和田勢が直ちに攻めて来る。大江広元の館、北条義時の館、御所へ三方向から攻める積りだ」と、敵のねらいを伝えた。
 義時(小栗旬)は、直ちに「我らは、鎌倉を守るため、御所へ行く。三浦は南門を、時房は北門を固めよ。西門は、泰時が守れ」指示を出した。
そして、義時(小栗旬)は、御所へ着くと、「鎌倉殿は、ここから八幡宮へ逃げてください」と告げた。実朝(柿澤勇人)が、「戦いはしない約束では?」とただすと、義時(小栗旬)は、「義盛に諮られました」と応える。大江広元(栗原英雄)も御所から重要な書類を八幡宮へ運び出した。

 和田勢は、南門からなだれ込んだが、そこは、三浦勢の守りに会い、大混戦となった。義時(小栗旬)と実朝(柿澤勇人)たちが無事に鶴岡八幡宮へ避難した頃、御所から火の手が上がった。
 三浦勢に押し戻された和田勢は、由比ガ浜で態勢を立て直し、その後、一進一退の攻防が繰り返され、若宮大路を挟んで、和田勢と幕府勢のにらみ合いが続いた。

 戦いは、翌日に及び、広元(栗原英雄)たちが、西相模の御家人が、駆け付け、やがて和田勢に加担するかもと心配を始めた。そこで、広元(栗原英雄)と義時(小栗旬)は、御家人たちに鎌倉殿の名前で書状を出す事を考えた。
 しかし、実朝(柿澤勇人)は、「これは、北条と和田の戦いである」と、花押をためらった。義時(小栗旬)は、「和田は、御所を攻めたのです。これは、謀反です」と、主張しつづけ、押し切った。実朝(柿澤勇人)は、「義盛を殺さない」と約束させて、花押した。

 これにより、西相模の御家人たちは、和田勢を見限り、幕府勢が優勢になった。その後、実朝(柿澤勇人)が義盛(横田英司)を説き伏せようと戦場へ出た。
 実朝(柿澤勇人)は、「これ以上の戦いは、無用である。おとなしく降参せよ。義盛!お前に罪はない。私には、お前が必要なのだ」と諭した。義盛(横田英司)は、「もったいのうございます。皆聞いたか、我は、鎌倉随一の忠臣者だ」と、叫んだ。
 その時、義時に指示された三浦勢が矢を射かけて義盛(横田英司)は絶命した。これにより、和田合戦は、両軍に大勢(1000名以上)の死傷者を出して終結した。義盛の妻;巴(秋元才加)は、義盛(横田英司)の死をみて、鎌倉から離れ、91歳まで生きた。
 戦い後、義時は、政所と侍所両方の別当の御家人筆頭の地位を得て、鎌倉はゆるぎないものとなった。

 義時(小栗旬)は、「犠牲のうえに鎌倉がある。大事なのは、力である。人は、畏れることで、人はまとまる」と呟く。
 実朝(柿澤勇人)は、「私は、兄上のように強くはない。京の力を借りて、鎌倉に安寧の世を創る」と決心し、頼朝を越えようとしていた。

同年5月21日、戦いから18日後、鎌倉で大地震が起こった。
京の後鳥羽上皇(尾上松也)は、「義時が戦いをしたから大地震が起こったのだ。鎌倉は、まだまだだ」と云う。

【義盛の説得に当たる実朝】             【由比ガ浜】
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第42回、「宋船計画」
 忠臣・和田義盛(横田英司)を失った実朝(柿澤勇人)は、泰時(坂口健太郎)をそばに置き、「父上が造られた鎌倉を北条から源氏の手に取り戻す」と、決意を新たにする。
 一方、鎌倉内での地位を盤石にした義時(小栗旬)は、のえ(菊池凛子)に薦められて、2代執権・北条義時を名乗った。
その力を以って、未熟な実朝をけん制するので、新しい鎌倉をめざす実朝(柿澤勇人)とはうまく行かない。それを見る政子(小池栄子)は、気をもむ。

 そこへ、源仲章(生田斗真)が、京から戻る。仲章が連れてきたのは、宋の技術者・陳和卿(ちんわけい)。陳は、実朝(柿澤勇人)に「前世、あなたは、私が住む育王山の長老だった。大きな船を作りましょう」と投げかけ、由比ガ浜での“宋船建造”が始まった。しかし、義時(小栗旬)は、西への警戒を強め、「上皇様に薦められて作る船は、必要ござらぬ」一旦中止にするが、泰時(坂口健太郎)や三善康信(小林隆)の懇願により、続行する。

【実朝に謁見する陳和卿】              【完成した宋船の引き込み作業 】
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建保5年(1217)4月17日
 船が完成し、海へと、大勢の関係者が綱を引くが、船は浜にめり込み、全く動かない。船を海に浮かべることは、出来ず、浜辺で朽ち果てた。

 政子(小池栄子)は、落ち込む実朝(柿澤勇人)に、自信をもたせ、ゆるぎない力を与えようと諭すと、実朝は、「私は、大御所になり、京から養子を迎える。仲章(生田斗真)と話して進めよ」と宣言する。
 これには、義時(小栗旬)も反対するが、政子(小池栄子)から「鎌倉殿の好きなようにさせなさい」と反論される。

 6年ぶりに京から公卿(頼家の嫡男)が帰ってくる。そして、政から離れ、伊豆に蟄居していた北条時政(坂東弥十郎)が、享年78歳で亡くなった。

【落ち込む実朝、なだめる政子】         【船玉神社】神奈川県藤沢市。近くには、木を切る職人が多くいたと云う。
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第43回、「鎌倉の死角」
 京の園城寺から公暁(こうぎょ、寛一郎)が戻っている。乳母夫の三浦義村(山本耕史)が出迎え、「鎌倉殿になるのは、あなた様以外にはいない、必ず願い事を叶えてご覧にいれます」と、謀をめぐらす。そして義時(小栗旬)の処へ連れて行く。
義時;「久しいです。分かれて何年ぶりですか?」と問いかける。
公暁;「6年になります」と、応える。
義村;「頼家様より賢い」と。   義時;「それは、頼もしい」と。
公暁;「心身を鍛えてきました。立派な鎌倉殿になる積りです」と、気持ちを伝える。
義時;「次の鎌倉殿は、実朝様の養子として京から迎える親王様です。あなた様は、鶴岡八幡宮の別当になって頂きます」と、話しを遮る。
義村;「待ってくれ! それは、おかしい」と反論する。
公暁;「話しが違う」と驚愕し、「鎌倉殿を説き伏せよ」と、義村へ伝えた。

【鎌倉へ戻った公暁(寛一郎)】         【上京した政子(小池栄子)】
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 京より、「実朝が送った文の返事が分かった。願い出た新しい鎌倉殿のことは善処する」との返書が届いた。
 この対応について、義時(小栗旬)は御家人たちと協議した結果、尼御台(小池栄子)に任せることとなり、政子(小池栄子)は京へ上洛した。

 政子は、院の御所で、後鳥羽上皇(尾上松也)の乳母・藤原兼子(シルビアグラブ)と対面し、うまい具合に話しは、進む。
 政子は、「兼子から今の天皇は、養子の候補の一人である頼仁親王の兄に当たり、その兄の后は懐妊している」との話しを知る。
政子;「ということは、頼仁様が、次の天皇になることは、ないと????  ならば、代わりに鎌倉殿になって頂ければ、これ以上嬉しいことはございません」と。
 兼子(シルビアグラブ)は、まんざらでもない様子。
政子;「頼仁様が、鎌倉殿になった暁には、兼子様に最高の礼を尽くします」と約束し、認めさせた。
 後鳥羽上皇(尾上松也)も賛同し、鎌倉行きには、頼仁様が決まった。

 千日参籠中の公暁(寛一郎)は、「頼仁親王が、実朝(柿澤勇人)の後継者になった」との話しを耳にして、義村を呼び寄せた。
公暁;「私が、鎌倉殿になる芽が摘まれた。そういうことか?」と。
義村;「若君が鎌倉殿になれば、必ず災いが降りかかります。これで良かったのです」と。
公暁「どういう意味だ?」と、聞き返す。
義村;「あなたの父上は、北条の手によって殺され、実朝様を鎌倉殿に仕立てあげたのです」と。
義村;「北条を許してはいけない。まつりあげられた実朝も」と公卿に本意を告げた。

 その2カ月後、鶴岡八幡宮にて、実朝(柿澤勇人)は左大将となった拝賀式が執り行われた。
 更に1月後の7月8日、実朝の「直衣始の儀式」が、鶴岡八幡宮で盛大に行われた。

【政子と会う兼子(シルビアグラブ)】       【直衣始の儀式】
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第44回、「審判の日」
 実朝(柿澤勇人)は右大臣の官職を授けられ、北条家はこの栄誉に湧きだっていた。
 冬の日、公暁(寛一郎)は「明日の右大臣の拝賀式の折、実朝(柿澤勇人)が八幡宮で拝礼を終えた帰りを襲う」と宣言し、三浦義村(山本耕史)に図面と声明文を以って説明した。
更に、公暁(寛一郎)は、「目的を果たした後、三浦の兵が打倒北条を叫び、御家人を呼応させよ」と、戦いの手筈を整えた。

【右大臣の運びとなる実朝】              【実朝の殺害を企む公暁】
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翌日の建保7年(1219)1月27日
泰時;「三浦には、兵が多く集まっている」と云い、不信がる。
義時(小栗旬)は、これを聞き、三浦義村(山本耕史)に公卿(寛一郎)の行動を問い詰める。
義村は、「公卿は、千日の参籠の真っ最中、疑わしいことは、何もない」と答えた。しかし、義時は、義村の手が、襟に触れた癖を見て、おかしいと気付く。
義時;「拝賀式は、中止にすべき」と進言する。
仲章;「今更、中止にはできない」と応える。
実朝;「分からん。何故、公卿が私をねらう。ゆくゆくは、御所は京へ移すつもりだ」と将来を告げると。
義時は、実朝の言葉を聞き、足元が揺らぐ思いだった。

 北条泰時(坂口健太郎)は、今日の儀式をいぶかい、三浦館へ出向き、「三浦勢は儀式に参加しないで頂きたい。鎌倉殿の命である」と告げた。
 義村は、感づかれたことを知り、襲撃の中止を決めた。
 その足で、泰時(坂口健太郎)は、御所へ向かい、実朝(柿澤勇人)に「公卿様が、鎌倉殿を殺めようとしている」と告げ、刀を授けようとしたが、実朝は「刀はいらぬ」と、受け取らない。そして、泰時(坂口健太郎)は、時房(瀬戸康史)に「公卿様が実朝様をねらっている」と告げた。これに対し、時房(瀬戸康史)は「直ぐに取り押さえましょう」と同意した。
 しかし、義時(小栗旬)は、「放っておけ、愛想が尽きたわ」と一言。

 式が始まろうとしていた。
実朝(柿澤勇人)は、妻に「私は、上皇様に二つ事を感謝しなければならない。一つは、右大臣になったこと。二つ目は、お前を夫婦に頂いたこと」と、言い残して、八幡宮へ出発した。
三浦義村は、「若君が本懐を遂げるまで、我々は動いてはならぬ」と命じた。
北条義時(小栗旬)は、太刀を持ち、公暁(寛一郎)が現れると、討ち取る手筈を整えた。

 鶴岡八幡宮に降る雪は、夕刻を過ぎた頃から牡丹雪に変わった。

【公卿の企みを阻む、義時、泰時】          【鎌倉市、覚園寺】義時が私財を投げうって薬師堂を建立したのが、始まり。
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第45回、「実朝の殺害」
建保7年(1219)1月27日、夕刻
 鶴岡八幡宮にて、実朝(柿澤勇人)の右大臣の拝賀式が執り行われた。
源仲章(生田斗真);「北条殿!ここからは、私が貴方の太刀を預かります。鎌倉殿の命令です」と云い、義時(小栗旬)の太刀を預かった。そこで、太刀持ちを外された義時(小栗旬)は、階段下の御家人のたまり場へ行き、義村(山本耕史)に投げかける。
義時;「公暁(寛一郎)は、どこに潜んでいる」と問う。義村(山本耕史)も分かっているので、応えようともしない。義時(小栗旬)も義村(山本耕史)も鎌倉殿が、亡くなることを願っている。
 そこへ泰時(坂口健太郎)が、やって来た。

【八幡宮の拝賀式】                 【天命と悟った実朝】
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泰時;「父上!ここから動かぬように。公暁殿(寛一郎)が父上の命を狙っています」と告げる。そこへ、拝賀式の終わった実朝(柿澤勇人)が楼門から降りてきたので、泰時(坂口健太郎)が警護につこうとする。しかし、義時(小栗旬)は、「聖なる儀式の邪魔をしてはならぬ」と、泰時(坂口健太郎)の腕をつかんで止めようとする。

 公暁(寛一郎)が現れて、太刀持ちの源仲章(生田斗真)を切り捨て、続いて、実朝(柿澤勇人)も切り、留めを刺した。「親の仇を取ったぞ」と高らかに叫んだ。
 義時;「切り捨てよ」と家来に命じたが、公暁に逃げられた。
 義村;「笑えるな!仲章は太刀をもったばかりに、お前の代わりに死んでくれたな」と。

 義時は、直ぐに実朝(柿澤勇人)の遺体を御所へ移し、ことの顛末を後鳥羽上皇に送るよう命じた。
 実朝の妻・千代は、「鎌倉殿の最期の言葉です」と、和歌を披露した。実朝は、前もって天命を察していた歌だった。
 義村は、「早く若君を見つけ出し、早く殺せ!若君にしゃべられては、三浦は終わりだ」と云い、家来に命じた。
 政子の館に逃げ込んでいた公暁(寛一郎)は、見つけ出され、義村(山本耕史)に殺された。

義村;「公暁の首である。ご検分頂きたい。この先も、三浦一門、鎌倉を守りたい」と願い出た。
義時;「これからも共に、鎌倉を守ってくれ」と、三浦を匿った。そして、義時は、北条のための鎌倉づくりを目指して動き出した。

 しかし、子と孫を同時に失った政子は、「もう鎌倉にいるのは、いやです。伊豆へ行きます」と、義時に告げる。
義時;「ダメです。これからは、北条の鎌倉をつくるのです」と、政子に夢を掲げる。
政子;「どうして伊豆へは、ダメなのですか?」と反発する。
義時;「あなたが、頼朝様の妻だからです」と、政子をなだめる。

後鳥羽上皇(尾上松也);「実朝が殺されたのは、本当か?しかも仲章も殺されたか」と問う。更に、「まずは、国の安泰を守れ」、「親王を鎌倉へやるのは、取りやめだ」と指示した。

【復讐に燃える公暁】                 【鎌倉市、鶴岡八幡宮】実朝は、ここで命を落とした。公暁が隠れた大木は、「隠れ銀杏(左手)」と呼ばれ、平成22年の台風に倒れたが、今は若木が自生している。
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第46回、「尼将軍の誕生」
 実朝(柿澤勇人)の殺害を受け、後鳥羽上皇(尾上松也)による「実朝の次の将軍を頼仁親王とする計画」が揺らぎ出し、幕府と朝廷の駆け引きが始まる。
 このような中で、政子(小池栄子)の妹・実衣(宮澤エマ)が、源頼朝の異母弟・阿野全成との間で生まれた子・「阿野時元」を鎌倉殿に立てようと、思い立つ。そして、実衣(宮澤エマ)は、上皇から宣旨を得ようと三浦義村(山本耕史)に相談する。
実衣;「時元を鎌倉殿に?戯言に決まっていうでしょう!」と、はぐらかし・・・・
義村;「手筈」はこの三浦にお任せを」と、安心させる。
 処が、義村は、義時へ向かう。
義村;「後は、時元が兵を挙げるよう追い込むだけだ」と、
義時;「災いの種を絶たねばならん。公暁のようにしてはいかん」と、言い放つ。

1219年2月22日
 阿野時元は、義時(小栗旬)が差し向けた兵に囲まれ、自害した。その後、実衣(宮澤エマ)の詮議が始まった。実衣(宮澤エマ)は、「謀反に関わりがない」と否定していたが、しかし、時元へ送った宣旨を願う手紙が見つかり、動かぬ証拠となった。
義時;「厳罰に処すべきです。死罪が相当です」と、処罰を下す。
政子(小池栄子)は妹の実衣を擁護し、泰時(坂口健太郎)は同情する。
実衣(宮澤エマ)は、処罰が決まるまで、部屋に閉じ込められた。

 1カ月後、京より後鳥羽上皇(尾上松也)から返書が届いた。2人の新王のうち、どちらを選ぶか吟味したいと云う内容で、既に決められていた頼仁親王の決定は反故にされた。
 その後、朝廷と鎌倉の駆け引きがつづき、後鳥羽上皇(尾上松也)が実朝をともらうため、使者が送られた。その時、義時(小栗旬)が持つ荘園の地頭の権利を返上せよとの要求が出された。上皇の嫌がらせであった。
 義時(小栗旬)は、怒り、上皇の言いなりには成らないと、時房に1000人の軍勢を率いて、京へ向かわせた。その結果、上皇は親王ではなく、代わりの者を鎌倉へ送るとの約束をして決着した。それを聞いた義時と政子は喜んだ。

【実衣(宮澤エマ)】               【後鳥羽上皇(尾上松也)】
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同年7月15日
 後鳥羽上皇(尾上松也)が約束された鎌倉殿が、やってきた。それは、摂関家の流れをくみ、源氏の血を引く三寅(みとら)様だった。
 三寅様は、まだ幼く2歳。元服を待ってから征夷代将軍に就任してもらう他なく、御家人たちが、敬意をもって従うハズもない。義時(小栗旬)は、これには驚いた。
 そこで、鎌倉を治めるため、政子(小池栄子)が「尼将軍」になることで、義時(小栗旬)も認めた。
その日の夕刻、御家人たちの集まる中、政子(小池栄子)は、三寅様を膝に乗せ、首座につき、「三寅の披露目の儀式」と「尼将軍の披露目の儀式」を同時に行った。
 政子(小池栄子)は、これにより、部屋に閉じ込められていた実衣(宮澤エマ)を助け出した。

【尼将軍になった政子】             【多摩川、浅間神社】政子が頼朝の武運長久を祈った神社
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第47回、「尼将軍・政子の演説」

 京では、源頼政の孫・頼茂(みなもとよりしげ)が次期・鎌倉殿に三寅が決まったことに腹を立て、謀反を起こした。この謀反は、直ぐに鎮圧されたが、内裏が焼け落ちた。
 そこで、後鳥羽上皇は、内裏修復のため、日ノ本の武士から税を取り上げることを命じた。処が、北条義時が、この税の要求に反対し、その対応を引き延ばした。これにより幕府と朝廷の溝は、ますます深まり、対立することになった。

上皇;「御家人が、鎌倉から離れているようじゃの!」と云いつつ、「鎌倉の義時を討つ時がきた」と決断した。

【源頼茂の謀反】                   【院宣に驚く北条義時】
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承久3年(1221)5月13日
 京都守護が襲撃された。ここには、義時の妻・”のえ”の兄が就いており、兄は自刃した。数日後、三浦館に上皇の使者が、院宣をもって訪れた。

義村;「ここは、一つ間違えば、命取りになる」と、云いつつ、義時館へ出向き、義時へ院宣を差し出す。驚いた義時は、時房、泰時、大江広元、三浦義村を集めて協議し、院宣の調査を行った。その結果、義村の院宣を含め、計8通の院宣が出されていた。

 義時は、暫らく黙考し、「この院宣は、鎌倉へ攻め込むためのものではない。私を追放せよとの院宣だ。私一人のために鎌倉を灰にすることは、出来ない」と云い、政子へ会いに行き、自分の考えを述べた。

 義時は、御家人を集め、彼らの前で経緯を話そうとした時、政子が現れ、義時を下がらせ、大江広元に書かせた文章を話し始めた。
政子;「源頼朝様が、朝敵を討ち果たし、関東を治めて、このかた、その恩は山よりも高く、海よりも深い・・・・」と。

 政子はこの文章を読むことなく、途中でしまい、話しを続けた。
政子;「鎌倉が守られるならば、命を捨てると、義時は云った。あなた方のために、彼は犠牲になろうとしています」と。続けて、「成程、義時は、これ迄皆から憎まれるような厳しい態度をとってきた。それも認めます。しかし、彼は、私欲のために行ってきたのではない。全て、鎌倉を守るためです」と、政子は強調する。

政子;「ここで上皇様に従って、未来永劫、朝廷の言いなりになるか、戦って坂東武者の世を作るか?頼朝様の恩に今こそ応じるのです!」と。政子が、鼓舞すると、御家人たちが大きな雄叫びをあげた。

【尼将軍政子の演説】           【後鳥羽神社】滋賀県長浜;上皇となった後鳥羽は、この地を二度訪れたと伝えられる。
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第48回、「義時;報いの時」
 政子(小池栄子)の言葉で奮起し、徹底抗戦を選んだ幕府は、広元(栗原英雄)や庸信(小林隆)の忠言を聞き入れ、速やかに京へ派兵することになった。

義時;「泰時(坂口健太郎)が総大将だ。鎌倉の命運は、お前に託した」と指示した。
 これにより、泰時(坂口健太郎)他17名が先発隊として、東海道を進み、遅れて、時房(瀬戸康史)が、北陸道を進軍した。途中で北条方に同意し味方を増やし、気づけば、総数19万の兵になっていた。
 一方、朝廷側は、後鳥羽上皇(尾上松也)の近臣・藤原秀康が将軍を務め、1万の兵にて木曽川の戦いに敗れ、最後の砦・宇治川で待ち受けた。
 泰時(坂口健太郎)は、京へ通じる宇治川で上皇の兵を向かい討ち、ここでも勝ち進み、都を抑えた。泰時は、お会いした上皇に「隠岐へ島流しにせよ」と、命じた。

【北条泰時(義時の嫡男);宇治川の戦い】       【北条時房(義時の異母兄弟)】
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 天皇には御堀川天皇を即位させ、新しく設置した六波羅探題に泰時と時房を朝廷の監視に当たらせた。これらの政策により、京の力は極端に衰え、鎌倉幕府は、日本を支配する時代に変わった。

 「承久の乱」から3年後、義時(小栗旬)は、鎌倉へ戻った泰時、時房と酒を酌み交わし、積もる話しを始めたが、突然、盃を落とした。
 幸い、この時は、大事に至たらなかった。その時、義時の妻・のえが薬草を運び、飲まそうとする。 義時;「これを飲めば、具合が悪くなりそうだ!」といいながら、しぶしぶ薬草を飲む。

 暫くして、義時(小栗旬)は再び倒れ、のえ(伊賀氏の方)がやってきた。
義時;「医者が云うには、誰かが麻の毒を盛っている」と云う。
のえ;「私です。私の子を北条家の後取りにつかせたかったのです」と、白状した。
義時;「もっと早く、お前の本性を見ておけば、よかった」。「もう二度と、ワシの前に現れるな」と、言い放つ。
のえ;「家に帰らせて頂きます」と。

「承久の乱」後、東国の御家人たちには、恩賞として、西国の所領が与えられた。そのことで西国の者たちは、不満を募らせた。そこで、泰時は、「東国と西国を問わず、誰もが従うべき公平な決まり」が必要であると考え、その法の制定を始めた。数年後、泰時は、「御成敗式目」と云う法令を作り上げ、江戸時代まで使われた。

 義時(小栗旬)の容態は、次第に悪くなっていく。そんな中、政子(小池栄子)が、見舞いにやって来る。
政子;「あなたは、上皇(尾上松也)様を島流しにした大悪人。私は、身内を死に追いやり、尼将軍に上り詰めた悪女です。それでも頼朝様から鎌倉を引きつぎ、次世代へとつないだ。これからは、あの賢い泰時が、争いの無い世を作ってくれるでしょう」。「義時、ご苦労さまでした」と。
 義時(小栗旬)は、政子が見守る中、薬をくれと悶えながら息を引き取った。
北条義時;元仁2年6月(1224)死去、享年62歳

そして政子(小池栄子)も、義時の後を追うように、翌年亡くなった。
北条政子;嘉禄元年7月(1225)死去、享年69歳

【後鳥羽上皇;京へ攻め込まれ、島流しに】    【北条政子が、義時を見舞うシーン】
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【最後に】
「鎌倉殿の13人」では、多くの源氏一族および御家人たちが殺戮を繰り返し、命を落とした。
源氏一族;源義経、源範頼、源頼家、源実朝、阿野全成、公暁、
     源行家、木曾義仲、木曾義高
御家人 ;上総介、梶原景時、比企能員、和田義盛、畠山重忠
     (北条時政;失脚)
その他 ;平家一族、奥州・藤原一族

 彼らは、鎌倉殿や執権をめざし、鎌倉という狭い地で互いに疑心暗鬼におちいり、殺戮のルツボに化したのだ。これは、人間の性なのか?
 この繰り返される殺戮に疑念をもった男が、3代執権になった”北条泰時”であった。彼は、幼い時から祖父・時政や父・義時の強権的政治をみて疑問をもち、安定した世をめざし、平和的で安寧な政治を求め、改めたと伝わる。
 彼は、承久の乱後、京を平定した六波羅探題に3年間勤めあげた。その時、経験した様々な知識をもとに、御家人たちが争って解決するのではなく、法令である「御成敗式目」を作り上げた。これは、以後、江戸時代まで使われたと云われる。この法令の制定により、御家人たちが守るべき道しるべが示され、御家人たちの紛争が、和らいだと伝わる。

おわり










 

2022年10月18日 (火)

112.大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 第3編

 112.大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 第3編
 頼朝は、落馬がもとで床に伏し、死を迎える(享年53歳)。このとき、頼朝に仕えてきた北条義時は、37歳の若さである。義時は、次の鎌倉殿とする新体制づくりを目指し、姉の政子を支えて活躍を始める
 そして、鎌倉は、頼朝を亡くしたことで、再び不穏な空気が流れ、次期鎌倉殿をめぐり殺戮の”るつぼ”と化してゆく。

一方、京では、寿永2年(1183)平家の滅亡により、安徳天皇に代わり即位した後白河法皇の孫;後鳥羽天皇の世になっていた。

第26回、2代鎌倉殿・源頼家
 頼朝(大泉洋)が倒れ、鎌倉では悲しみに暮れる中、義時(小栗旬)は先を見据えて、大江広元(栗原英雄)らと頼朝の長男である頼家(金子大地)を次の鎌倉殿とする新体制づくりを始めた。そして、比企能員殿(佐藤二郎)へは、鎌倉殿は落馬が原因と説明した。比企殿は、頼家の後見役に当たり、次期鎌倉殿に立てようと喜びを隠せない様子。

 処が、比企家の力が増すことを嫌う北条家のりく”牧の方”(宮沢りえ)は、「これからは、比企家に全て持っていかれるのですよ!」と時政(坂東弥三郎)を焚きつける。
 そこで、時政は、全ては北条家のためと、政子(小池栄子)の妹に当たる実衣(みい;宮沢エマ)の夫”阿野全成(頼朝の異母弟、新納慎也)”に次の鎌倉殿に立つよう説き伏せたことで、鎌倉は、比企家と北条家に真っ二つに分裂を始めた。

 暫くして、政子の看病の甲斐もなく、鎌倉殿は、亡くなった。頼朝の死体は荼毘に附し、葬儀も無事に終わり、骨は御所の裏にある持仏堂へ納められた。
建久10年(1199)1月13日、 頼朝没;享年53歳

【持仏堂への頼朝公の納骨 】             【二代鎌倉殿になった頼家】
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 しかし、比企家と北条家は、どちらも一歩も引かず、諍いが起きる寸前となる。そこで、仲裁をはかる義時は、政子に「御台所として、お裁きを下されるよう、悲しむのは、先にとっておきましょう」と諭した。

建久10年(1199)1月26日
 その結果、政子は、”我が子の頼家”を採択し、混乱はとりあえず防がれた。
 このとき、頼家は、18歳の若さで家督を相続し、「前の鎌倉殿を乗り越え、新しく前へ進むのだ!」と、御家人を前に挨拶され、第二代鎌倉殿となった。

 義時は、政子に向かって「私は、役目を果たしました。これから鎌倉を離れます」と告げた。
 政子は、「なりませぬ!頼家を援けてやってください」と応え。更に、「これからは、今まで頼朝様を支えたように、頼家と私を支えてください」と願った。

【頼朝が建造した鶴岡八幡宮】          【甲斐善光寺に伝わる、源頼朝公の木像】
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第27回、「鎌倉殿と御家人13人の体制」
 京では、頼朝の死の1年前、土御門通親(関智一)の主導によって譲位が行われ、後鳥羽上皇(尾上松也)の院政が、始められた。 
この度の頼朝の死に関する鎌倉の騒動について、土御門通親(関智一)から知らされた後鳥羽上皇(尾上松也)は、思案する。
 
 鎌倉では、宿老たちが居並ぶ中、新たに鎌倉殿になった頼家(金地大地)が、「これからは、新しい方針で政事を行う。私が、裁きを引き受け、また、力のある若い者を登用する。」と、所信表明した。
 そのとき、梶原景時(中村獅童)一人賛辞を送り、「頼朝さまは、御家人たちに心を開いてはいませんでした」と付け加えた。
 これには、北条時政(坂東弥三郎)、比企能員(佐藤二郎)は共に困惑したが、その様子を政子(小池栄子)に報告した義時(小栗旬)は、若手の人材として、嫡男の頼時(坂口健太郎)と異母弟の時蓮(瀬戸康史)とを頼家の元に近習として送り込んだ。

【後鳥羽上皇(尾上松也)】                【源頼家(金子大地)】
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 御所では、早速、頼家の命により、義時の集めた若手の近習たちの勉強会が、始まった。訴状の取り扱い方、教養として蹴鞠(ケマリ)を習わせた。

 暫く経つと、頼家はたくさんの訴状の裁きで、うんざりするようになった。そこで、義時は、頼家のために一計を考え、景時に提案をする。
「政事のことですが、今まで通り4人の文官で訴訟に関する評議を行い、道筋をつけます。そのうえで最後に鎌倉殿が裁決をします。これで鎌倉殿の負担は、減ります。梶原殿には、文官と鎌倉殿の間を取り持って頂きます」と。
 景時は、この話しを頼家に持って行き、了解した。
更に、義時は、比企能員(佐藤二郎)に報告すると、「よい考えだ。梶原が入って、何故比企が入らん、6人衆だ」と。すると、時政も「梶原と比企が入って、何故北条が入らん、7人衆だ」と。
 そうこうしているうちに、北条と比企が御家人を勧誘していき、知らぬ間に12人衆になった。最後に、政子(小池栄子)に了承をもらいに行くと、義時を押して13人衆になった。
 頼家(金地大地)は、13人衆となっていることを納得した。こうして、
建久10年(1199)4月; 鎌倉では、13人による政治体制が始まった。

【頼家と政を話し合う宿老たち】              【永福寺(ようふくじ)跡】
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  永福寺(ようふくじ)は、平泉の寺院を模して、頼朝が建立した鎌倉の寺院である。吾妻鏡によると、頼家は、この場所で蹴鞠を行おうとしたが、雨で中止になったと伝わる。

【13人の御家人】                                                                  
文官4名
 大江広元(栗原英雄)政所別当
 中原親能(川島潤哉)政所公事奉行人
 三善康信(小林隆) 問注所執事
 二階堂行政(野仲イサオ)政所執事
武官9名
 北条義時(小栗旬)二代執権、
 北条時政(坂東弥三郎)初代執権;伊豆・駿河守護
 比企能員(佐藤二郎)信濃・上野守護
 梶原景時(中村獅童)侍所所司;播磨・美作守護
 和田義盛(横田英司)侍所別当;相模
 三浦義澄(佐藤B作)相模守護
 安達盛長(野添義弘)三河守護
 足立遠元(大野泰広)公文処寄人、武蔵
八田知家(市原知家)常陸守護                          【鎌倉殿の13人】             
                                                                      Img_0228                                                     第28回、「梶原景時の変」
 13人の宿老が、2代鎌倉殿・頼家(金子大地)の元で初の評議が始まった。申出人の常陸国、太郎が、「次郎がもつこの地は、我が地である」と申し出た。
 時頼(坂東弥三郎)と能員(佐藤二郎)は、互いに自分の縁者であると、諍いして評議にならない。この地は、以前から諍いを起こしており、新しい鎌倉殿につけ込んだ上での申し出であった。
 梶原景時(中村獅童)は、今一度評議をやり直すと、言い放った。
 頼朝を越えようとする頼家は、「わしを除け者にする」と、苛立っていた。義時(小栗旬)は、この先は、近習たち6人に力をつけさせようと考えていると政子(小池栄子)に告げた。

【頼家と近習たち】                【後鳥羽上皇と側近】
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 その矢先、御家人の結城朝光(高橋 )が、「忠臣は、二君に仕えずと云うが、頼朝さまが亡くなったときに出家すべきであった」と発言した。この発言を耳にした梶原景時(中村獅童)は、頼家への不満を口にしたと捉え、「鎌倉殿の誹謗は、聞き逃す訳にはいかない」と、早速謹慎を云い渡した。更に、見せしめのため、死罪にするべきだと主張した。
 これを知った義時(小栗旬)は、「こんな事で結城殿の首をはねることは、許されない」と。そこで、義時は、景時の強権をけん制するため、三浦義村(山本耕史)に御家人の署名を集めさせて訴状にし、頼家に申し出をする計画を提案する。
 義村は、60名を超える署名を集めて訴え出た。これにより、頼家(金子大地)は、13人の宿老を集めて、評議を行った。その結果、結城は許されたが、逆に景時には、援護する宿老が一人もなく孤立し、謹慎が云い渡された。

 処が、この鎌倉幕府の騒動を耳にした後鳥羽上皇(尾上松也)は、謹慎中の景時を取り込もうと、景時に上洛するようそそのかす文書を送る。
建久10年(1199)10月
 後鳥羽上皇(尾上松也)の誘いを知った頼家は、激怒。景時に東北への流罪を云い渡す。

 一族を連れて鎌倉を離れることを決意した景時は、義時と対峙したとき、悔しさを滲ませながら、「自分の立ち位置を過信し失敗した」と。更に、「刀は、切り手によって、名刀にもナマクラにもなる。ナマクラでは、終わりたくなかった」と呟く。そして、義時に「己の道を突き進め、置き土産じゃ」と付け加えた。
 景時が館を去ると、義時は、「景時は、京へ向かうはず、兵を差し向けよ!」と、命をくだした。
正治2年(1200)1月20日; 景時、打ち取られる。

 【対峙する景時と義時】             【梶原景時館跡】神奈川県寒川町
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追記
 梶原景時は、桓武平氏の一族である。景時は、石橋山の戦いのとき、敗れて洞窟に隠れていた頼朝を見て見ないふりをして、助けてをしている。その後、勢力を盛り返した頼朝に服属し、頼朝のv命を援けた恩もあって、腹心の部下になった。
 その後、頼朝の命を受けて、不遜な振る舞いの上総広常(佐藤浩市)を双六に興じている最中に誅殺した。
また、源平の戦いでは、義経の目付け役として送られ、ことごとく、義経と衝突し、鎌倉へ一足先に鎌倉へ帰り、「義経は傲慢で、薄氷を渡る思いだった」と頼朝に報告したことで、頼朝と義経は不和となり、奥州藤原氏との戦いへ繋がる原因の一つになっている。
 更に、侍別当の地位であった和田義盛(横田英司)と交代させて、その重要なポストを頼朝に認めさせている。
景時は、一途な性格が故に様々な人と衝突したことで、最後に周りの御家人から反感を買い、鎌倉から見放されたと云われる。
 結局、景時は、後白河法皇の誘いを受け、京を目指すが、途中の駿河・相模の御家人たちの襲撃を受け、一族もろとも打ち取られ、果てた。

第29回、「頼朝・征夷大将軍」
 鎌倉では、梶原が居なくなり、宿老の一角が崩れた。
 これにより、梶原景時(中村獅童)が務めていた職務・侍所別当には、前任者の和田義盛(横田英司)が、引き継いだ。そして、景時の死から、3日目後に三浦義澄(佐藤B作)が、更に4ヵ月後には、安達盛長(野添義弘)が相次いで病死した。これで宿老13人中、3人が早くも欠けてしまった。

 比企能員(佐藤二郎)は、頼家(金子大地)に「これからは、私が鎌倉殿のために支えます。鎌倉殿の好きなようになさってください」と告げると、頼家(金子大地)は、苛立った。
 暫くして、時政(坂東弥三郎)は、源氏一族に与えられる国守に任じられた。時政は、「政子(小池栄子)のお蔭である。これで比企(佐藤二郎)よりも位が一段上になった」と素直に喜んだ。しかし、頼家(金子大地)の方は、「所領の争いは、私が、直接決める」と断言したので、りく(宮沢りえ)と時政(坂東弥三郎)は、このままでは、北条家の出番が無くなったと考え、そこで、鎌倉殿を頼家(金子大地)から千幡(頼朝と政子の第4子)に変えようと企み、阿野全成(新納慎也)を呼びつけ、頼家に呪詛をかけるよう申しつけた。

【国守に任じられ、喜ぶ時政とりく】        【伊豆の農民と話し合う頼時(坂口健太郎)】
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 建仁元年(1201)9月;坂東では、台風の被害を受け、農家が不作で苦しんでいた。にも拘わらず、頼家は、蹴鞠に興じていた。そこで、義時(小栗旬)は、頼時(坂口健太郎)を呼び出し、「伊豆へ行ってくれ」と頼んだ。伊豆へ赴いた頼時は、農民の困窮ぶりが、ただ事ではないことを知った。
 困った頼時(坂口健太郎)は、農民と代官との間に入り、代官の制止を振り切り、古い年貢の証文を自らの手で破り捨ててしまった。
 それを聞いた鎌倉殿・頼家(金子大地)は、頼時(坂口健太郎)に嫌がらせを行い、頼朝(大泉洋)が与えた名前「頼時」から「泰時」と改名させ、更に頼家の近習役はご免となった。降格人事であった。

 建仁2年(1202)7月; 頼家は、都から征夷大将軍に任命された。
頼家(金子大地)に異変が起こらないので、りくと時政は、全成(新納慎也)に依頼した願いは、効果が現れるのは何時かと、苛立ち、全成(新納慎也)に迫る。全成は、困り果て、怪しい木片人形を造り、頼家の寝所の床下に置く。それでも、効果が現われない。

【頼家の呪詛人形】            【三浦一族の本拠地】神奈川県横須賀市;衣笠城跡地、旗立岩が残る
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第30回、「阿野全成の処刑」
 鎌倉に平穏が訪れようとしていた。その時、頼家(金子大地)の寝所の床下から呪詛の人形が見つかった。これにより、鎌倉は、再び不穏な空気に包まれた。
 誰が行ったのか?義時(小栗旬)は、阿野全成(新納慎也)が怪しいと思い、全成に「決して呪詛を認めてはいけませんよ!」と、念を押した。

だが、全成(新納慎也)に疑いをかけた比企(佐藤二郎)と頼家(金子大地)は、全成の館に入り、道具を調べ上げ、疑いを深めた。更に妻の実衣(宮澤エマ)までも疑いが深まることから、父の北条時政は、「自分が名乗り出る」と慌て始めた。
 そこで、義時(小栗旬)は、全成と実衣を救い出すため、善後策を講じ始めた。義時は、三浦義村(山本耕史)に相談し、一戦覚悟のうえで北条へ味方する御家人の署名集めを始めさせた。
 一方、比企方も戦の準備を整え始めた。

 ここに至って、政子(小池栄子)は頼家(金子大地)に直談判し、命乞いする。それが、功を奏して、頼家(金子大地)は、「母上に免じて、実衣(宮澤エマ)だけは許す。しかし、全成(新納慎也)は流罪だ」と結論を下した。こうして、全成(新納慎也)は、常陸の国へ流罪ととなった。

これで、一旦おさまったかのように思えた。
【処刑される阿野全成】              【泣きじゃくる妻・実衣】
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 鎌倉では、御家人の所領の訴えが多発し、再配分を望むようになり、古老をも含め頼家(金子大地)も頭を痛めるようになった。
 そこで、頼家(金子大地)は妙案を思いつき、所領の最も多い比企(佐藤二郎)に対して、「富が偏るのはいかん。上野(こうずけ)の所領を全て差し出せ、それを御家人に分け与えるようにせよ!」と、迫った。これには、比企も困り果て、腹いせに全成(新納慎也)に処刑を命じた。
 
 雷鳴がとどろく中、八田知家(市原隼人)が全成(新納慎也)を庭に連れ出し、呪文を唱える全成を斬りつけ、二度目の太刀で首をはねた。
このことを知った実衣(宮澤エマ)は、泣き崩れ、「立派な最期でしたよ」と、全成(新納慎也)を褒めたたえた。

 政子;「義時、何時までこのような政治を続けさせるのですか?」と尋ねる。
 義時;「私に一体何ができると云うのですか?」と応える。
 政子;「考えなさい!私も考えます」と諭す。

鎌倉御所にて、比企(佐藤二郎)に対し
 義時;「この鎌倉から出て行ってもらいたい」と云い渡す。更に「病んだ鎌倉の根を断ち切りたいと考え、ここに鎌倉殿をお呼びしました」と付け加える。しかし、ここに至って鎌倉殿は、どうしたことか現れない。
 比企;「茶番じゃのー」と。
 そこへ、奥から「鎌倉殿が倒れましたー」との声。

(注)「吾妻鏡」によると、頼家に謀反で追われた阿野全成は、現在の栃木県で打ち取られたと記されている。
【いがみ合う義時と比企】           【伝;阿野全成の墓】静岡県沼津市にある阿野荘の大泉寺内
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第31回、「比企能員の変」
 頼家は、突然、病で倒れ危篤状態になった。これにより、次の鎌倉殿をめぐり、再び戦いが始まろうとした。
 比企能員(ひきかずよし;佐藤二郎)は、娘のせつ(山谷花純)が産んだ頼家の長男・一幡(いちまん)様を推し、早々に朝廷の許しを得ようと、躍起になるが、大江広元(栗原秀雄)らは、取り合わない。   
 【源頼家後の系図】                【話し合う北条時政と比企能員】
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 一方、北条義時(小栗旬)は、妻の比奈(堀田真由)に頼んで、比企家の動向を探らせる。その情報では、北条家へ刃を向けて戦いの準備が着々と進められていた。
 これに対抗するため、政子(小池栄子)と時政(坂東弥十郎)と義時(小栗旬)は、集まり話し合った。
 義時は、「ここは一つ、次男の千幡(せんまん)様を推してみる。叶わなかったときには、初めて兵を用いる」との考えを述べた。
 りく(宮沢りえ)は、「北条時政に、後のことをまかせたい」と、義時に述べた。
 そこで、義時は、「関東を一幡(いちまん)様に、関西を千幡(せんまん)様に分ける」との案を出し、比企能員に和解をもとめた。
 しかし、能員は、「鎌倉殿は、一幡様一人である」と取り合わない。
これで義時は、「やれることは、やった。拒んだのは、向こうだ。これで、大義名分がたった」と腹をくくった。

建仁3年(1203)8月末日、頼家は、死に臨んで出家した。
 政子;「一幡は、殺めなければいけないのですか?」と尋ねる。
 義時;「一幡様は、仏門に入って頂きます」と応える。
 義時は、妻の比奈(堀田真由)に再び比企家のことを探らせ、「能員が、三浦に手を伸ばしている」との情報を得て、時政と二人切りで話し合う。
 義時;「父上は、鎌倉を率いて大丈夫ですか?」と疑念を抱き、時政に尋ねる。
 時政;「ワシはできる。ワシは、北条の世を創ってみせる」と装う。
 義時;「分かりました。もう一度、能員と話し合ってみたい」と応える。
 時政は、「お前も諦めの悪い男だな。俺にまかせろ!」と、策をめぐらす。

建仁3年(1203)9月3日
 時政は、能員と再度話し会うが、まとまらず、能員に和議を持ち込んだ。
そこで、喜んだ能員は、「時政に会ってくる」と、妻のせつ(山谷花純)に応える。せつは、「鎧は?」と尋ねる。能員は、「丸腰で行く、肝の据わった処をみせる」と言い残し、能員は、単身で北条家へ乗り込み、時政と合おうとする。
 処が、時政は、「待っておったぞ!」と、ひと言。周りには北条家一族が、刀を持って待ちかねていた。
 時政;「勝つためには、何でもする。お前はふんぎりが悪かった」と応える。
 義時;「謀反の罪で打ち取る」と太刀を浴びせ、能員は北条一族に打ち取られた。そのとき、能員は、衣類の下に鎧を付けていた。
 その後、北条の兵は、比企家の館に討ち入り、比企家は滅亡した。そのとき、一幡様は、行方知れずになった。

 政子の前に御家人たちが、集まった。
 時政は、「これからは、千幡様(後の源実朝;さねとも)をお助けし、北条が先頭に立って鎌倉を守って行くのだ」と、宣言した。そのとき、危篤状態にあった頼家は、奇跡的に病状が回復した。

【次の鎌倉殿・千幡様の宣言】         【妙本寺(比企館跡)】能員の嫡男・能本が、一族の霊をともらうため建立した。
Img_0508 Img_0518                                       


第32回、「第3代将軍・源実朝誕生」
鎌倉では、頼家(金子大地)が死の床から息を吹き返したため、政子(小池栄子)の元に時政(坂東弥十郎)、義時(小栗旬)、泰時(坂口健太郎)らが集まり、新たな体制について話し合っていた。

義時;「頼家(金子大地)様が、息を吹き返す前の状態に戻すことは、できない」と弁明する。
政子;「義時(小栗旬)!一幡(相澤壮太)様だけは、援けると誓ったのでは、ありませんか?」と追及する。
義時;「一幡(相澤壮太)様が、生きておられては困まるのです。ついては、頼家(金子大地)様には誰が話しますか?」と尋ねる。
政子;「頼家(金子大地)には、私が話します」と応える。

【新たな体制を話しあう北条一族】時政、政子、義時    【死の床から蘇った頼家】
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 そこで、政子は、頼家の部屋に入ると、
頼家;「比企は滅んだのですか?一幡(相澤壮太)もせつ(山谷花純)もこの世には居ないのですか?何故だ!」と責める。
政子;「あなた一人を死なせることは出来なかったのです」と、更に「一幡(相澤壮太)、せつ(山谷花純)は、自ら命を絶ったのです」言い訳する。
頼家;「北条は絶対に許さん。出て行ってくれ」と叫ぶ。

 京では、後鳥羽上皇(尾上松也)が、源頼家(金子大地)の危篤状態を知り、考えをめぐらせる。上皇は、「千幡(峰岸煌桜)は、頼家(金子大地)の子だと。ワシが名付け親になろう。源実朝だ!」と。
 時政の妻・りくは、「千幡(峰岸煌桜)様のお相手には、京からよい方を見つけ、政範(中川翼)がお迎えに行くのです」と、早くも先を見据える。

 怒り狂った頼家は、和田(横田英司)と仁田(高岸宏行)を呼び出し、真相を突き止め、和田と仁田に「時政の首をここに持って来い」と命じた。
 困った和田は、このことを時政に告げ、難を逃れた。一方、まじめな仁田は、頼家と時政のはざまで苦悩し、自害した。

 比企一族を滅ぼされた比奈(堀田真由)は、自ら北条家に手を貸したことに苦悩し、義時と離縁し、鎌倉を去り、京へ赴き生涯を過ごした。
 義時は、一幡が生きていたことを知り、善児(梶原善)に殺すよう命じ、後の災いの種を摘み取った。

 やがて、上皇様より大江広元(栗原英雄)へ文が届く。千幡(峰岸煌桜)の成人の儀式が行われた後、
第3代将軍・源実朝が誕生した。建仁3年(1203)9月7日
残された頼家は、伊豆の修善寺へ追いやられた。建仁3年(1203)9月29日

【第3代将軍・源実朝の誕生】                      【極楽寺】神奈川県鎌倉市に北条重時が建立した寺
                                                                        重時は、北条義時と二人目の妻・姫の前との子                           Img_0577  Img_0587                                          

第33回、「源頼家の殺害」
 建仁3年(1203)9月7日、(北条時政・初代執権誕生)
 鎌倉では、政子の次男:実朝(峰岸煌桜)を鎌倉殿とする新体制が始まり、時政が、執権別当に就任した。
 これにより、時政(坂東弥十郎)は、比企家(佐藤二郎)が治めていた武蔵の国を取り仕切るようになり、羽振りがよくなった。また、時政(坂東弥十郎)を陰で支えるりく(宮沢リエ)は、実朝(峰岸煌桜)の正室を京から迎えることを進言し、娘婿の朝雅(ともまさ、山中崇)を通じて願い出た。
 これをみて、三浦義村(山本耕史)は、「北条は調子にのり過ぎると、しっぺ返しを食らうぞ!」と陰口をたたく。

【執権別当に就任し、喜ぶ時政とりく】       【修善寺にて画策する頼家】
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 京では、後鳥羽上皇(尾上松也)が、この鎌倉の状況を知る。
 上皇は、「実朝(峰岸煌桜)の嫁を差し出せとな!誰が云った。」と。侍従は「時政です」と。
上皇は、「田舎者めが、誰がよいかの。鎌倉へは、心して待つように」と伝えよ。そして、「実朝は、うまいように京側へ取り込め!」と侍従に伝える。

 一方、修善寺へ追いやられた頼家(金子大地)は、「鎌倉殿は、このワシじゃ」と、酒をあおる。
そこへ三浦義村(山本耕史)が、頼家(金子大地)の様子伺いにみえる。
 頼家(金子大地)は、「善哉はどうしているかの?今にみておれ、鎌倉に乗り込み、再度鎌倉殿になろう」、「ワシに力をかしてくれ」と、三浦に頼みこむが、三浦は、断る。
 政子(小池栄子)は、我が子を哀れと思い、修善寺へ訪れた。処が、頼家(金子大地)は、「あの女は、もう母とは思っていない」と、突き返し、復讐を画策する。

 或る日、頼家が、後鳥羽上皇(尾上松也)に北条家追討の院宣を願い出ようとしたことが、発覚した。
 そこで、大江(栗原英雄)、時政(坂東弥十郎)、義時(小栗旬)らが集まり、話しあう。
大江;「頼家(金子大地)は、北条追討の院宣を願い出ている?」と心配する。
義時;「院宣が出される前に頼家様(金子大地)を討ち取る」と前置きする。更に、「頼家様(金子大地)は、上皇様と通じているかも?」、「そうなると、北条はただの武士だ!」と慌てる。

 義時(小栗旬)は、善児(梶原善)宅を訪れ、「仕事だ、頼家様を討ち取れ!」と命じた。
 頼家(金子大地)が猿楽を見ていたとき、そこへ善児(梶原善)が紛れ込み、頼家との戦いになる。善児(梶原善)は、不覚にも頼家の太刀を受けるが、弟子のウトが頼家の背後から斬りつけ、絶命させた。  建仁4年(1204)7月
源頼家、享年23歳

【修善寺の頼家を訪れる政子】        【修善寺】静岡県伊豆市;源頼家は、この地に幽閉され、のち暗殺された。
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第34回、「実朝の結婚」
 実朝(柿澤勇人)は、立派な鎌倉殿になるように、剣、弓、政事、和歌などの習い事を課せられ、日々明け暮れる。
 そんな実朝に、北条家では、早く京の宮家と縁を結ぼうと願っていた処、後鳥羽上皇の従姉妹・西八条禅尼との婚姻が決まり、時政の妻・りく(宮沢リエ)は喜ぶ。
 元久元年(1204)11月15日、北条家の嫡男・(りくを母とする)政範(まさのり)が、京へ向けて出発する。処が、京へ入った政範は、突如死し、りく(宮沢りえ)は悲嘆に暮れる。享年16歳  
(注)このとき、北条家では、前妻の義時は、嫡男として扱われていない。 

【源実朝(柿澤勇人)】              【実朝の習い事の一つ、政事状況】
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 北条時政(坂東弥十郎)は、比企能員がいなくなった武蔵の国を治めようと考え、畠山重忠(中川大志)に武蔵の国を補佐するように申し渡し、代々受け継いできた”惣検校職(国主を補佐する)”の役目を返上するように求めた。そこで、疑念を抱いた重忠(中川大志)は、義時に相談する。その義時(小栗旬)も文官・二階堂行政(野仲イサオ)の孫娘・のえ(菊池凛子)と見合いをするという状況下で、時政と話し合う。
義時;「畠山と一戦交えるお積りですか?」と、時政を諫めた。
時政;「そんな事はいっとらん!」と、はぐらかした。

 後日、時政(坂東弥十郎)は、三浦義村(山本耕史)を呼び出し、酒を汲み交わす。そのとき、源頼朝挙兵時の衣笠城合戦の話しを持ちだし、「祖父・三浦義明を討ったのは、畠山重忠(中川大志)だ!」と重忠を悪者にする。そして、本題に入る。
時政;「もし、北条が、畠山と一戦交えることになったとして、お前はどちらに加勢するのか?」と、問う。
義村;「決まっているでしょう!」と、時政に酒を注ぎ返す。
【畠山重忠】                   【義時の見合い相手・のえ】
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第35回、「苦い盃」
元久元年(1204)12月10日
 実朝(柿澤勇人)の妻になる後鳥羽上皇(尾上松也)の従妹・千世(加藤小夏)が鎌倉へ到着した。
 政子(小池栄子)らが出迎えるが、北条政範(中川翼)の凱旋を心待ちにしていた、時政(坂東弥十郎)の妻・りく(宮沢りえ)は、失意に沈んで、元気がない。夫の時政は慰めるが、取り合わない。

【鎌倉へ到着した実朝の妻;千世(加藤小夏)】    【りくの娘婿、平賀朝雅(山中崇)】
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 そんな中、政範(中川翼)に随行した畠山重保(しげやす;杉田雷麟)が帰ってきて、「政範が亡くなられたのは、京へ到着して2日目で、共に随行した平賀朝雅(山中崇;りくの娘婿)が毒を盛った。私は、酒宴の前夜、朝雅と医者との密談を目撃した」と、義時に秘められた事を告げる。義時は、「分かった。そのことは、こちらで調べる」と返し、朝雅を疑った。

 一方、都から戻った平賀朝雅(ともまさ;山中崇)は、「重保は、私が毒を盛ったと言いふらし、私を下手人に仕立て上げようとしている」と、りくへ助けを求める。そこで、りく(宮沢りえ)は、朝雅の敵を討って欲しいと頼み、時政(坂東弥十郎)は、やむなく、りくの頼みを聞き届ける。

義時;「例え父上でも勝手に兵を挙げることは、できませんよ!」と時政に釘を指す。
政子;「戦いにしては、いけませんよ!」と、義時(小栗旬)に念を押す。
重保;「毒を盛ったのは、平賀朝雅殿です。私は、我慢できない」と。
 義時は、平賀朝雅(山中崇)と畠山重保(杉田雷麟)とで評定しようと考えたが、朝雅は既に都へ経ち、鎌倉を逃げた。
 処が、りく(宮沢りえ)は、「今、畠山を討たなければ、次は、私たちの番になるかも?」と時政を脅す。
 時政(坂東弥十郎)は、「兵を動かすには、鎌倉殿の許しがいる」と拒むが、りくは、「直ぐに向かってください」と、きつく頼んだ。
 時政は、すぐさま鎌倉殿を見つけ出し、実朝殿から花押の押印のうえ下分をしたため、畠山氏との戦いの準備が、整った。

【畠山氏の館跡】埼玉県深谷市;現在、史跡公園です。 【畠山重忠公の像】 
  平氏の流れをくむ秩父の武士団、畠山重忠の父が、この地に移り住んだと伝わります。
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第36回、「畠山重忠の乱」
 北条時政(坂東弥十郎)は、鎌倉殿から畠山氏を討伐する下分を得たとして、御家人の三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田英司)、稲毛重成(村上誠基)らを集め、対応を協議した。
 和田義盛(横田英司)は、当初、畠山重忠(中川大志)は、”清廉潔白で武勇に秀で、武士の鏡”であるとして、この戦いに反対していたが、最後には同意したもの。
 時政は、重忠と従兄弟にあたる稲毛重成(村上誠基)に「甥の畠山重保(しげやす;杉田雷麟)を由比ヶ浜へ誘い出し、人質にせよ」と命じた。処が、御家人たちは、重保(杉田雷麟)を殺してしまった。
 そこで、畠山重忠(中川大志)は、「今の鎌倉は、北条氏のやりたい放題。息子を殺したうえ、我々を謀反人に仕立て、罪をかぶせようとしている」として、この戦いに挑み、武蔵の国から少人数、僅か134騎で鎌倉へ進んだ。
 これに対し、今まで板挟みになっていた義時(小栗旬)は、「この戦いの大将になる」と志願し、時政(坂東弥十郎)の許しを請うた。その時の追討軍は、およそ1万騎。時政は、御所を護って、鎌倉殿をお守りした。

【畠山重忠、武蔵の国を経つ】           【戦いに挑む畠山重忠(中川大志)】         
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元久2年(1205)6月22日
 戦いは、相模の国(現在の横浜)の”万騎が原”で口火を切った。重忠(中川大志)は、当初、和田義盛(横田英司)と戦っていたが、途中、転回し、義時(小栗旬)の軍と遭遇する。一騎打ちとなり、最後は討ち取られた。武士の誇りを守った立派な最期であった。

 その後、今回の畠山の乱のけじめとして、畠山重忠には非がないことから、大江広元(栗原英雄)の策により、従兄弟に当たる稲毛重成(村上誠基)の謀略とされ、時政の命によって、稲毛重成(村上誠基)は処刑された。このことは、義時も了解ずみであった。
 政子;「御家人の重成を何故、殺したの?」と、問いかける。
 義時;「執権殿が、命じたのです。これで、父上は、御家人の信頼を失ったのです」と応える。そして、「暫くは、尼御台が表に出て頂きます」と。更に、「恩賞は、尼御台に任せます」と付け加えた。

 時政;「義時(小栗旬)!ワシをはめたな」と問いかける。
 義時;「執権殿は、暫らくおとなしくして下さい」と応え、「全ては、ご自分が、蒔かれた種とお考えください」と付け加える。

同年、7月4日
 尼御台の政子(小池栄子)から恩賞が、御家人へ与えられた。
 りく(宮沢リエ);「何故政子が、執権殿を差し置いて、恩賞を?」と。
 時政;「ワシは、もう望みはない」と。

【恩賞を与える政子】          【万騎が原】神奈川県横浜市、畠山重忠公は、この地で生涯を閉じた。
                        矢畑は、北条軍の放った矢が、一面に突き刺さったと伝わる。
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第37回、「北条氏の分裂」
 北条義時(小栗旬)は、政子(小池栄子)と大江広元(栗原英雄)らと共に新体制を始動させ、長男の泰時(坂口健太郎)を傍においた。
時政;「何故、ワシを評定に呼ばん?」と問いかける。
義時;「私が認めたものです。評定の決定は、尼御台が行います。全て、鎌倉殿が認めています」と、応える。
時政;「これからの訴状は、私の名でせよ」と、反発する。
りく;「今が正念場です。思い知らせてやりましょう」と、時政を援護する。

【新体制の政子・大江・義時に割り込む時政】   【反発する時政とりく】
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これで北条家は、二つに割れた。
りく;「鎌倉殿には降りて頂き、都にいる平賀朝雅(ともまさ;山中崇)に後を継いでもらいましょう」と、思いも及ばないを言った。
時政;「そうなれば、政子と義時を討つことになるかも?」と、危惧する。
りく;「亡くなった政範(中川翼)のためにも成し遂げる覚悟をお決めください」と促し、更に「そうなれば、三浦を先に引き込めば、勝ちになります」と画策する。
 そこで、北条時政(坂東弥十郎)は、三浦義村(山本耕史)を呼び、「力になってくれ、鎌倉殿には朝雅にして、その後は、善哉(頼家の次男)の世にする」と、誘う。善哉の乳母夫となる義村(山本耕史)は、悪い話しではないと承諾する。

 京の都では、後鳥羽上皇(尾上松也)と側近の平賀朝雅(山中崇)が、話し合う。
上皇;「畠山は、どうなった?」と問う。     朝雅;「一族は滅ぼされました」と応える。
上皇;「その後、北条と政子が、やりあっているとな? 生き馬の目をぬくとは、このことよ!」と、投げかける。
朝雅;「鎌倉は、恐ろしくて、戻りたくありません」と応える。

 或る日、時政(坂東弥十郎)は、政子(小池栄子)・義時(小栗旬)・実衣(宮崎エマ)のいる館へ突然訪れ、酒を酌み交わした。驚いていtが、皆、昔を偲び、楽しい一日を過ごした。

 一方、時政の言葉が、嘘であると気付いた三浦義村(山本耕史)は、政子(小池栄子)の元へ駈け込み、義時に時政の企みを告げる。義時は、義村に「暫く、時政と行動をともにせよ」と云う。
政子;「これは、謀反ではないですか?」と問いかける。
義時;「暫く、父上を泳がせましょう」と応える。

 その後、時政は、御所へ赴き、鎌倉殿を北条館へ誘い出す。そして、実朝に太刀をかざして「鎌倉殿は出家し、後は平賀朝雅(山中崇)に譲る」との書面にしたためるよう、迫った。

義時;「この企ては、決してうまく行かない」と云う。
政子;「どうするの?」と投げかける。
義時;「この度の父上の振る舞い、決して許す訳にはいかない」と応える。

【実朝に迫る時政】         【建長寺】6代執権・北条時頼が創建した禅宗寺院;源氏3代と北条一族をともらうため建立
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第38回、「2代執権北条義時、誕生」
 ただならね事が起こったと感じた和田義盛(横田英司)は、時政の屋敷へ飛び込むと、時政(坂東弥十郎)は、「実朝(柿澤勇人)が、起請文を書いてくれないんだ!」と、義盛へ告げる。
 りく(宮沢りえ)は、「何としても起請文を書かせるのです」と、時政に激しく焚きつける。
 一方、義時(小栗旬)は、泰時(坂口健太郎)、時房(瀬戸康史)らと兵を引き連れ、時政(坂東弥十郎)の屋敷を包囲した。

 館を囲まれたことを悟った時政(坂東弥十郎)は、りく(宮沢りえ)に「お前が、無事に逃げ延びろ!ワシは、降参する」と告げる。時政と行動を共にしていた三浦義村(山本耕史)は、屋敷の門を開いた。
 屋敷内では、時政は、実朝(柿澤勇人)に対し「この度のこと申し訳ございません、立派な立ち振る舞い、頼朝様のようでした」と詫びる。
 そこへ踏み込んできた義時(小栗旬)に対し、時政は、「後は託した、鎌倉を引っ張っていくのは、お前だ!」と告げた。
 そこへやってきた政子が、義時へ「どうか父上を許してください」と、命ごいをするが、義時(小栗旬)は、時政の切腹を止め、捕縛した。

【時政の赦免を懇願する政子】            【今生の別れを告げる時政】
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 鎌倉御所では、この度の”時政・りくの変”に対して、大江広元、三好康信、北条義時ら御家人数名が、会議を開いた。
 大江;「時政は、厳罰に処し伊豆へ流すべき」と。
 義時;「従います」と。

 時政;「よく計らってくれた」と礼を述べる。
 義時;「父上は、この先もずっと共にいたかった」と、心の内をさらす。
 時政;「もういい」と遮る。

元久2年(1205)7月20日
 時政(坂東弥十郎)は、鎌倉を去り、伊豆へ流された。二度と鎌倉へ戻ることは、無かった。りく(宮沢りえ)は、ご赦免となり、時政へ会いにいった。

 その後、義時(小栗旬)は、この変の裏主役である平賀朝雅(山中崇)について、「あの男は、鎌倉殿の座をねらうと共に、北条政範に毒を盛り、畠山重保(杉田雷麟)に罪をかぶせた」として、京へ刺客を送りこみ、討伐させた。
 そして、北条義時(小栗旬)は、北条時政に成り代わり、2代執権に登り詰めた。

 しかし、平賀朝雅の死を知った後鳥羽上皇は、この義時(小栗旬)の勝手な振る舞いは、「決して許さない」と、肝に刻んだ。

【2代執権となる北条義時】             【願成就院がんじょうじゅいん】伊豆守山にある北条の本拠地に時政建立の氏寺
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つづく

 

2022年7月 9日 (土)

111.鎌倉殿の13人(第2編)

令和4年5月吉日
  平清盛と源義朝が平治の乱(1160)で戦い、敗れた義朝の子・源頼朝は、伊豆へ流罪になった。頼朝14歳
それから24年後、源頼朝(1147誕生)は、遂に坂東の御家人を纏めあげ、鎌倉を立上げた。  頼朝38歳

 朝廷では、後白河法皇(西田敏行)から平家追討の院宣が出され、更には、京の都で乱暴をはたらく木曾義仲(青木嵩高)に討伐の命令が下されると、頼朝は、これに呼応して、京へ挙兵した。

第16回、源平合戦の幕開け
 大きな代償を払い、源頼朝(大泉洋)は、御家人をまとめ上げた。そのとき、北条義時(小栗旬)は、「これ迄の鎌倉で分かったことは、鎌倉殿に従うことだ、それしか生き残る道がないのだ」と!
 暫くして、北条時政(坂東弥重郎)は、鎌倉へ帰ってきた。頼朝は、これを喜んで迎え入れた。時政にしてみれば、何時、頼朝から疑いをかけられるか、怖くなって帰ってきたのであった。
 
 一方、先陣として出兵した義経(菅田将暉 )は、近江で援軍を待っていた。
 これに対し、頼朝は、弟の範頼(のりより;迫田孝也)を総大将とし、梶原景時(かじわらかげとき;中村獅童)を軍事奉行とした本軍を派兵した。これに北条義時(小栗旬)も従軍させた。留守役には、比企能員殿(ひきよしかず;佐藤二郎)が任せられた。

 後白河法皇(西田敏行)は、頼朝の元へ「木曾義仲(青木嵩高)を討伐せよ!」との院宣を出した。
寿永3年(1184)1月6日
 義仲は、「範頼の本軍は、美濃国へ入り、京へ迫っている!」との噂を聞くと、恐れ慄いた。その後、範頼の本軍はは、義経(菅田将暉 )の先発隊と合流した。
【宇治川の戦い】                    【一の谷の戦い】
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 範頼軍は、瀬田から義仲軍を攻めた。一方、義経軍は、宇治川の戦いで義仲軍を破って、入京し、法皇と謁見した。
 京を守れなくなった義仲は、「北陸へ戻る」と、法皇に別れの挨拶をする。義仲は、巴御前と別れて、近江に向かうが、そこには、範頼軍が待ち構えており、義仲は敗れ討伐された。(粟田口の戦い)

 鎌倉には、義経から朝一番「義仲を打ち取った」との報せが、届く。また範頼の陣には、「平家は、西国で勢力を回復し、福原(兵庫県)近くの”一の谷”に集まり、陣を敷いている」との報を受けた。

寿永(1184)3年2月7日
 一の谷では、範頼の本軍が、両側から攻める策にて臨んだ。そこへ70騎を率いる義経軍が、八伏山の崖から平家軍を目がけて突っ込む策をとった。“一の谷の戦い”と云われる源平合戦が始まった。
 平家本陣は、安徳天皇(相澤智咲)と共にする総大将;平宗盛(たいらのむねもり;小泉幸太郎)は、「この”一の谷”は、海を前にし、山を背にしており、敵は攻めてこない」と考えていた。しかし、義経は、天才的な軍略を用い、敵の不意を突き、山から参陣し、平家軍を粉砕した。
 たまらず平家軍は、讃岐の屋島へ船で落ち延びていった。

【平家の本陣】安徳天皇を御護りする平宗盛(小泉幸太郎)   【奮戦する源義経(菅田将暉 )】                        
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第17回、木曾義仲と戦いの後仕舞い
 鎌倉では、木曾義仲が討伐されたことで、再び暗雲が立ち込めた。源頼朝(大泉洋)は、戦勝報告のため、源範頼(のりより、迫田孝也)と共に鎌倉へ戻っていた。
 木曾義仲の嫡男・義高(よしたか、市川染五郎)を危険と思う頼朝は、北条義時に「義高を処断せよ!」を命令する。しかし、政子(小池栄子)は、義高と許嫁の約束をした大姫(頼朝の長女;落井実結子)を思う余り、義高を救おうと奔走する。これに対し、頼朝に試された義時(小栗旬)は、頼朝と政子の間で、思い悩む。

 危険を察知した義高は、見事に鎌倉御所から伊豆山権現に逃れるが、成功目前で失敗。功を焦った伊豆の武士・藤内光澄が逃げる義高を打ち取り、御所の頼朝に報告した。このとき、政子は、「許さない!」と叫ぶ。
 
【義高の命乞いをする大姫と政子】            【義高の首を持ち登場する藤内光澄】
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 頼朝から義高を討ち立った藤内光澄の処断の命令が、義時におりた。思い悩む義時は、りく(宮沢りえ)から、北条家を護れとの言葉を伝えられ、覚悟を決めた。

 父・武田信義(八嶋智人)と共に義高に頼朝討ちを持ちかけていた一条忠頼(武田信義の嫡男)が、頼朝の前へ引き出される。
 そこへ義時は、「一条忠頼、そなたは木曾義高をそそのかし、鎌倉殿へ謀反を企んだ。その咎によって成敗する」と叫ぶと、御家人の仁田忠常が、背後から忠頼を斬った。
 更に、義時の立ち合いの下、「何故処分されるのだ。何故だ!何故だ!」と絶叫する藤内光澄も御家人の工藤祐経(坪倉由幸)が、処断した。
 工藤祐経は、義時に「この鎌倉は怖い処だ。私が生きていく処ではない!」と。義時は、「ようやく分かりましたか」と一言。
 更に、光澄の処分に解せない政子に、義時は、「貴方様が、『許さない』とおっしゃったので、こういう結果になったのです。言葉の重みを知ってください」と。

【処分を果たした工藤祐経と北条義時】           【我が子を抱く義時と八重】
Img_9497  Img_9503                  

 義時は、武田信義(たけだのぶよし、八嶋智人)から起請文を受け取った。竹田信義は、「頼朝殿へ弓引くつもりなど微塵もなかった。それゆえ息子も死ぬことはなかった」と。義時は、「これは、警告です。二度と、鎌倉殿と競い合おうとお考えなりませんように」と。
義時は、我が家へ帰ると、八重と我が子が待っていた。


第18回、壇ノ浦の戦い
 平家は、瀬戸内の屋島へ逃げた。これに対し、源頼朝(大泉洋)は、義経(須田将暉 )は四国を、範頼(迫田孝也)には九州を攻めさせた。だが、範頼軍は、兵船が欠如から九州への渡海が難航した。四国を攻める義経もまた、風雨が強く渡海できずに摂津で留まっていた。
   しかし、義経は、この風雨の中、5艘の船で四国の阿波へ渡った。不意を衝かれた平家は、屋島から壇ノ浦(山口県)へと落ち延びた。同年2月19日
  【屋島の戦い】                      【壇ノ浦の戦い】前方は源氏軍、後方は平家軍
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寿永4年(1185)3月24日
 壇ノ浦にて、朝から双方兵船による戦いが始まった。戦い始めは、海を熟知した平家軍が、戦いを有利に進めていたが、潮目が変わると、手段を選ばない義経軍(菅田将揮)は、船の漕ぎ手に矢を射かけさせ、猛攻撃をして、傾城は逆転した。
 この義経のなりふり構わない軍略によって、昼過ぎに勝敗は決した。だが、梶原景時(中村獅童)は、義経の働きを快く思っていなかった。

 敗北を悟った平家一門の武将たち、女性たちは、入水を始めた。二位の尼は、宝剣を口にくわえ神玉を持って海へ身を投げた。また、幼い安徳天皇(相澤智咲)は侍女に抱えられ、海へ沈んだ。総帥の平宗盛(小泉幸太郎)も、「最早、これまで!」と入水をはかるが、浮かんだところを義経軍に捕らわれた。
 こうして、平家一門が、壮絶な戦いにて滅亡した。翌日、浜辺には、多くの死体が打ち上げられていた。

【平家軍;安徳天皇の入水】               【これを見守る源氏軍;義経】
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 京では、後白河法皇(西田敏行)が、平家を壊滅させた今回の功績によって、義経は検非違使の任を授かった。 
 一方、鎌倉では、頼朝が、「平家を倒したのは、よいが、天皇と三種の神器を失った。これでは、勝ったことには、ならん。九郎を叱りつけねば。」と、わめき散らした。
 軍事奉行の梶原景時(中村獅童)は、一足先に鎌倉へ戻ってきた。景時は、「義経の戦いは、軍からはみ出し、独りよがりな戦いを行い、軍の統制がとれなかった。また、壇ノ浦の戦いでは、船の漕ぎ手を射ると云う掟破りの戦いを行った。」と、頼朝に告げ口をした。更に、大江広元(栗原英雄)が、「九郎は、法皇から鎌倉を通さず、検非違使に任じられている」と、義経を攻撃した。
 そこへ、義経に文が届く。文を読んだ義経は、「何故、兄上に怒られねば、ならないのか?検非違使にならなければ、よかった!」と、困り果てた。 そこで、後白河法皇(西田敏行)は、「捕縛した平宗盛(小泉孝太郎)を連れて、鎌倉へ行くように!」と,助け船を出した。

 義経が、鎌倉近くになると、景時は、「義経を鎌倉へ入れてはならぬ」と頼朝を諭す。「頼朝と義経の二人は、互いに天に認められた人たちである。しかし、義経は鎌倉殿と並び合うことは、出来ない」との理由から。

【後白河法皇から検非違使の任を受ける義経】 【鎌倉で報告する梶原景時(右);中村獅童)】頼朝、大江広元(左)Img_9601 Img_9603

寿永4年(1185)5月16日
 平宗盛(小泉幸太郎)は、単独鎌倉へ入る。宗盛は北条時政と出合い、義経の文を渡す。しかし、鎌倉の頼朝は、九郎義経に会わぬと云い張る。北条義時(小栗旬)は、義経と頼朝の仲を取り持とうと奔走するが、元の鞘には収まらなかった。仕方なく義経は、兄の頼朝に会わずに、京へ帰ることを決断する。これで頼朝と義経の仲は、最悪のものとなった。

第19回、果たせぬ凱旋
 政治の頼朝(大泉洋)と戦の義経(須田将暉 )、この両者を大天狗の後白河法皇(西田敏行)は、競い合わせようと企む。
 鎌倉入りを果たせず悲嘆にくれる義経に、源行家(杉本哲太)が近づき、「これ以上、頼朝に好き勝手をさせてはならぬ。先手を打つのだ!」とあおる。

 一方、鎌倉では、義時(小栗旬)が、頼朝と義経の関係を修復しようと、大江広元(栗原英雄)に知恵を借りる。そこで、広元は、義経を伊予の国の受領(ずりょう;地方役人)にしたらという妙案を出した。
 義経は、これを喜び、法皇に言上する。そこで法皇は、「検非違使はこのままでよい。両方じゃ。これからも京の安寧を護ってくれよ!」と告げる。
 処が、頼朝は、義経がこの検非違使になることを嫌い、「わしよりも法皇様(西田敏行)を取るということじゃ。もう帰って来なくともよい。」と怒る。

【伊予国の受領を喜ぶ義経】              【父・義朝の髑髏を眺める頼朝と文覚 】
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 文覚(もんがく;市川猿之介)の処へ、亡き父・源義朝の髑髏(どくろ)が届く。これを、頼朝は、平家打倒がなされた折り、父・義朝の命日(10月)に供養を行おうと喜んだ。そこで、義経にも父・義朝の供養に立ち会わせようと知らせが届き、義経は、法皇の許しを請うた。法皇は、「鎌倉へ戻ってよい」との許しを出したが、法皇は、仮病を使い、義経を京へ止めおいた。

 企む源行家(杉本哲太)は、奈良の僧兵を使い、義経を襲わせ、「この仕業は、頼朝からの刺客である。先手を打って、共に頼朝を討とう!」と誘い、義経を騙した。これを聞きつけた法皇は、頼朝討伐の宣旨を出した(10月18日)。事ここに至り、義経は、行家と共に挙兵した。

 鎌倉では、大騒動となり、頼朝は遂に義経と戦うことを決意する。御家人たちは、義経と戦うことを恐れる中、ひとり梶原景時(中村獅童)は、総大将を志願し、独り意気込む。

寿永4年(1185)10月29日
 頼朝自身が、軍勢を率いて、京へ向けて出陣する。これに対し、義経・行家軍の兵は、高々500人と、兵が集まらない。
【うろたえる源行家(杉本哲太)】            【鎌倉軍の出陣】
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 この情勢を知った法皇は、手の平を返したように、今度は頼朝へ義経追討の宣旨を与えた。そこで、頼朝軍は一旦鎌倉へ戻り、代わりに、頼朝から法皇との交渉を北条時政(坂東弥十郎)・義時父子に云い渡した。彼らは、法皇と合い、義経を打ち取るため、大江広元の知恵で世に云う”守護・地頭”を全国に設置することを認めさせ、成果をあげた。
 11月3日、義経は、静御前と別れ、九州へ落ち延びをはかるが、失敗。義経は行方をくらませた。

第20回、帰って来た義経
 文治3年(1187)2月、 京を離れ、奥州へ逃れた義経(菅田将暉)。奥州の覇者・藤原秀衡(田中民)は、義経を温かく迎え入れ、「お前は、平家を倒した日ノ本一の英傑だ。」と褒めたたえた。
 しかし、秀衡は、生涯を終わろうとしていた。「九郎、そなたが大将軍だ!九郎の下で、兄弟は力を合わせよ。わしに時があれば、鎌倉へ攻め込むのだが」と、言い残して亡くなった。文治3年(1187)10月29日
【臨終間際の藤原秀衡】                【鎌倉の使者(義時)を応対する藤原泰衡、国衡】
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 一方、鎌倉では、頼朝(大泉洋)が、「秀衡と義経が一つになれば、大変な脅威になる」と心配をしていたが、秀衡が亡くなったのを好機と捉え、義時(小栗旬)は、状況を探るため、平泉行きを願い出た。
 義経の才を恐れる頼朝は、「九郎を生かしては、ならぬ。泰衡(山本孝司)、国衡(平山祐介)の兄弟を争いさせ、平泉を滅ぼせ!この日ノ本から敵を一掃し、新しい世を創るためだ」と命じた。
 
 奥州へ着いた義時は、早速「義経を引き渡して欲しい」と、兄の泰衡と弟の国衡を前にして願い出た。弟の国衡は、「父の遺言もあり、義経を守るべき」と主張したが、兄の泰衡は、平泉や藤原一族を護るため、優柔不断の考えを示した。
 その後、義時は衣川館へ出向き、義経に出会った。そのとき、九郎は、「今は、戦う気持ちはない。ただし、奥州に手を出すと、鎌倉が灰になるまで戦う」と。
 ここで義時は、突然、九郎に愛妾の静御前(石橋静河)の話しを始めた。「静は京から吉野へ逃げた時、鎌倉の兵に捕まった。腹の子は、九郎の子で、男だった。子は殺され、静は頼朝の前で舞を舞って、鎌倉を去った。」と。
 義経は、「よく静のことを話してくれてよかった」と、礼を言った。「しかし、この静の話しを持ちだし、兄に反感を抱くように命じたのは、兄の頼朝だろう。それ程、私が憎いのか?」と。
 【舞姿の静御前】                   【義経を襲撃する泰衡軍】
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 その時、館の周りが騒がしくなり、兄の泰衡は、軍勢を率いて、「九郎の首を取って差し出せ!」と衣川館へ迫ってきたので、義経は兵を整えさせ、戦いの準備をした。弁慶は、館を護り、奮戦した。文治5年(1189)4月30日

 屋敷の中では、妻の里が九郎に「実は、あのとき京で奈良の僧侶を手引きし、貴方の館を襲わせたのは、私です。静を殺そうと思い・・・」と告白する。九郎は、「あのとき、私を襲ったのは、兄上では無く、お前だったのか?」と知り、誤って里を殺す。
・・・・
 鎌倉へ帰ると、義時は九郎からの文を頼朝へ差し出した。
義時は、家へ帰り、八重と子らに温かく迎えられた。頼朝は、九郎の首を前にして積年の想いを語り掛け、泣きじゃくった!
文治5年(1189)6月13日

第21回、仏のまなざし
 近頃、鎌倉では、一部の御家人たちの間で、「義経(菅田将暉) は、何故死ななければならなかったのか?」と。「九郎殿は、強かった。また、あのとき梶原殿(中村獅童)が義経と戦うとさえ云わなければ、死ななくて済んだものを!」と、義経を惜しむ声があがるようになった。
 朝廷では、義経の死により、国内は、静謐(せいひつ;平和)になったとして、後白河法皇(西田敏行)は、頼朝に争いを控えるように命じた。

 処が、頼朝(大泉洋)は、藤原泰衡(山本孝司)が義経を匿った罪は、反逆に当たるとし、朝廷の静止を無視して奥州攻めを進めた。しかし、義経を失った藤原氏は、もう鎌倉の敵ではなく、奥州は滅びた。

【中尊寺の金色堂】                  【義経終焉の地;高館義経堂】
 奥州藤原一族が残した平泉の中尊寺           平泉を訪れた芭蕉は、俳句「夏草や 兵どもが 夢の跡」を残す。
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 義時は、己が行ったことに疑問を感じ、悩むようになっていた。頼朝は、「義時、悔やむな!この裁きは、天が与える。それまでは、突き進むのだ。」と、言い放つ。

 万寿(頼朝の嫡男)、金剛(義時の嫡男)の子らは、逞しく育っており、八重は、戦いで両親が亡くなった孤児を10数名程預かり、楽しく育てていた。そして八重は、「私と金剛をお守りください。私も貴方をお守りします」と悩む義時を慰める。
 りく(牧の方;宮沢りえ)は、「源氏と血縁をもつ比企家ばかりが、盛り立っている。これからは、北条家がもっと盛り立つように」と、小言を言う。

 或る日、北条時政は、阿弥陀如来の仕上がりを仏師・運慶に依頼していた伊豆の願成就院へ、義時とともに見学に行った。時政は、「まるで仏さまがそこにいるようだ!」と云い、運慶をもてなした。義時は、如来を見て、妻の八重を思い出したと云う。

 【孤児らを見守る八重】                   【願成就院の阿弥陀如来像】(実物)
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 処が、そのとき、八重の身に大変なことが起ころうとしていた。八重が、預かり川辺で遊ばせていた孤児の独り鶴丸が、川中の石辺に取り残されてしまった。八重は、鶴丸を救い出そうと独り急流の川に入り、鶴丸は助かったが、八重は流され死亡した。

第22回、義時が生きる道
義時(小栗旬)は、「八重(新垣結衣)が亡くなったのは、天罰だ!何か言ってなかったか?」と悔やむ。
 友人の三浦義村(山本耕史)は、「今思えば、八重さん、ちっとも悔やんでいませんでしたよ」と。
 義時は、「そうではない。鶴丸のことが気懸かりだったと思う。私は、八重の意志を汲んで奴を育てよう」と心に決める。

建久元年(1190)11月9日
 頼朝(大泉洋)の上洛が決まり、義時は、命に従い随行する。   頼朝44歳
 大群を率いて念願だった京へ上った頼朝は、後白河法皇(西田敏行)と会談する。そのとき、長女の大姫(南沙良)を御鳥羽天皇の后へと話しを持ちかけるが、断られる。
 これに対し、上京した御家人たちは、毎夜、酒を酌み交わしながら、「この上洛は、我々には利益が何も無い。頼朝だけが、いい気をして」と、不満を募らせていた。
【法皇と会談する頼朝】                   【倒れた後白河法皇】
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 その後、暫くして、後白河法皇(西田敏行)は、倒れた。丹後の局(鈴木京香)の介抱を受けながら、日本一の大天狗と謳われた法皇は、「ワシは、都を守りぬいたのー」と、最後の言葉を残し、死去した。建久3年(1192)3月
 ここに、頼朝は、大将軍に任命するよう朝廷に働きかけ、朝廷は征夷代将軍に任命した。同年7月26日(頼朝46歳)

 やがて、政子(小池栄子)は、第4子(実朝)を生んだ。
 一方、比企家では、年頃になった比奈(堀田真由)を義時の後妻へと画策し、頼朝と政子の承諾を得て、見合いをさせたが、義時にその気がなく、破談となる。

 この頃、頼朝は、後継ぎとして嫡男・万寿(金子大地)を御家人たちに如何に認めさせるか、悩んでいた。そこで、頼朝は、万寿を披露目の場とし、御家人を集めて富士の裾野で巻き狩りを行うことを決定し、北条時政に世話役を申しつけた。
 或る日、若い二人の侍が、北条時政宅(坂東弥十郎)へ訪ねて来た。「河津祐泰(かわずすけやす)の息子たちである。親の仇;工藤祐経(坪倉由幸)を討ちたい」と云う。五郎の烏帽子親である時政は、「仇討ちは、同意した」と、助太刀に北条の兵を出すことも含め、快く返答した。
 その後、この二人は、比企能員殿(きひよしかず、佐藤二郎)にもお会いし、「力になって欲しい。仇討ちの後、頼朝殿を討つ。時政殿には、仇討ちしか話してない」と返答した。熟慮した能員は、この企みが、失敗すると、兵を出した北条の性にできる。逆に成功しても鎌倉殿の嫡男・万寿(金子大地)様の育て親として権力をもつことが出来ると、ほくそ笑んだ。

【年頃の比奈、頼朝殿への承諾を得る】       【曾我十郎(右)・五郎(左);北条家へ来訪し、援助を求める】
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 この話しは、梶原景時(中村獅童)が知ることになり、義時に訴えた。「御家人の中に謀反の動きがある?」と。「怪しい人物は、曾我十郎(田辺和也)・五郎(田中俊介)である。彼らの烏帽子親は、そなたの父・時政殿だ!」と告げた。

 実は、この曾我十郎・五郎については、曽我物語として、次のような話しがある。
 頼朝の監視役だった伊豆の伊藤祐親(いとうすけちか;浅野和之)から所領を奪われた工藤祐経(くどうすけきよ;坪倉由幸)は、祐親を暗殺しようと企てたが、刺客が放った矢は、祐経に当たらず、長男の河津祐泰(すけやす;十郎・五郎の父)が死んでしまった。
 その後、祐泰の妻は、曽我荘(小田原市)の領主・曾我裕信と再婚。残された祐泰の遺児・曾我兄弟は、父の仇・工藤祐経を討ち果たそうとする。更に祖父・伊藤祐親を倒した鎌倉殿をも狙おうとしていた。


第23回、狩りと獲物
 義時(小栗旬)「父上、私に何か隠していることは、ありませんか?」、時政(坂東弥十郎)「なんの話だ!」。
義時「曾我兄弟のこと、ご存知ないのですか?」。時政「あれは、ただの仇討ちだ」。
義時「やはり、ご存知ない。仇討ちは、見せかけです。あの者たちは、謀反を企んでいます。父上は、利用されたのです」と。時政「なんだと」。

建久4年(1193)5月8日    頼朝47歳、万寿12歳
 源頼朝は、「今日は、万寿(金子大地)の初陣だ。万寿こそが、次の鎌倉殿であることを神に知らしめるのだ!」と、意気込む。御家人たちは、この日、富士の裾野に集結し、盛大な巻狩りを行った。
 北条時政・義時親子は、巻狩りの配置についたが、曽我兄弟の仇討ちに備え、畠山重忠(中川大志;義時の異母妹ちえの婿)に、警固を固めさせた。そんな中、万寿は獲物を目がけて弓を引くが、獲物は獲れなかった。
 これに対し、頼朝は、「義時、万寿のために狩りの陣取りを考えてくれ!」と。義時は、その夜、獲物に探りを入れ、陣取りをはかったが、やはり、次の日も万寿は、獲物が獲れなかった。
 そこで総支配役の時政は、「明日までに動かない鹿を用意しろ!」と奥の手を伝える。翌日、万寿は、細工した鹿を見事仕留めた。しかし、万寿は素直に喜ばなかった。細工をした鹿であると、分かっていたのだ。
 鎌倉では、この知らせをを聞き、万寿の矢口祝いの準備をした。しかし、政子(小池栄子)は、「たかが、鹿ではありませんか」と、見栄を張った。
 【富士野の巻狩り】                 【万寿の初陣;獲物を狙うが?】    Img_9897 Img_9929

同年5月28日夜、事件が起こった。
 介殿(頼朝)は、あの病気が起こり、夜半の薄明りの中、比奈の寝所へ出向いた。しかし、そこには破談と思われていた義時と比奈(堀田真由)が、密かに会っていた。
義時は、「何故、鎌倉殿がこの寝所へ来られるのか?」と不思議がり、比奈を守った。
 その頃、曽我十郎(田辺和也)と五郎(田中俊介)は、数名の侍を引き連れ、工藤祐経(坪倉由幸)の寝所を襲い、見事に仇討ちを果たした。その後、両名は、鎌倉殿の寝所へと向かったが、途中、十郎は、警固の兵に討ち取られた。五郎は、鎌倉殿の寝所迄たどり着くが、畠山重忠(中川大志)が率いる兵に捕縛され、謀反は失敗した。

 処が、鎌倉には、頼朝が亡き者になったと伝わり、混乱してしまった。このことで、比企殿は、頼朝の弟;範頼(迫田孝也)を立てて、鎌倉殿の跡を継ぐように企てた。
 その頃、富士野では、頼朝は、捕縛された謀反人・曾我五郎に対して、「工藤祐経(坪倉由幸)を仇討ちしたことは、侍として真に立派である。末代まで伝えることにしよう。しかし、謀反を行ったことは、斬首に値する」と云い渡した。
 更に、頼朝は、「五郎の烏帽子親に当たる時政は、今回の謀反に関わりはないのだな!」と、義時に問い正す。義時は、「勿論、関わりありません」と応え。そして、「この度の事件でも、やはり、鎌倉殿は、天に守られています」と付け加えた。

 【仇討ちを果たし、斬首される蘇我五郎】     【義時を受け入れた比奈(堀田真由)】
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 その後、頼朝は、無事に鎌倉へ帰り、元の鎌倉に戻った。そして、比奈(堀田真由)は、義時が鎌倉殿から守ってくれたことに、義時の優しさに触れ、義時に「おそばに居させてください。それだけで良いんです」と。比奈は、もう義時を愛してしまった。

 今回の事件は、それだけで終わらなかった。
 鎌倉殿の知恵者、大江広元(栗原英雄)は、「あのとき、範頼(迫田孝也)様は、もう次の鎌倉殿になったような振る舞いでした」と頼朝に告げ口をした。このことを知った頼朝は、「おのれ、範頼め!」とメラメラと怒りがこみ上げてきた。

第24回、疑われた人
 頼朝;「案ずるな、ワシはまだまだ死なん、義時!範頼のことだ。これは、鎌倉殿の座を狙ったと云われても、仕方のないことだ」と。
 大江;「ご自分が、鎌倉殿になろうとしていたと思われます」とつけ加える。
 頼朝;「義時!範頼を連れて参れ」と。
 義時;「範頼様は、比企殿と関わりがあったのでは?」と、援護するが、
 範頼;「いや、全て私がやったものです」と、キッパリ告げる。
 頼朝;「範頼!ワシが死んで欲しいと思ったのではないのか?人の本心は、思わぬ処に表れるものだ」と。
 大江;「鎌倉殿の組織に入った起請文には、確か、源氏の姓を用いないことと記されています。しかし、この新しい起請文は、源氏姓が記されていますので、偽りでございます」と。
 頼朝;「どう言い逃れをするのだ。ワシを説き伏せてみよ!範頼」と。
 範頼;「もう結構です」と。

 その後、比企尼(草笛光子)が現れ、「範頼様はあなたの弟ですよ!貴方様は、昔、観音様を信じる優しい男でしたよ」と援護した。その結果、範頼は死罪だけは免れ、伊豆の修禅寺へ送られた。建久4年(1193)8月17日

義時は、友人の三浦義村(山本耕史)と話し合う。
 義時;「範頼さまのこと、どう思う?」と。
 義村;「鎌倉殿は、御家人は信用せず、身内の方々を取り入れた。しかし、今度は身内が信じられなくなった。それだけのこと」と。

【範頼(迫田孝也)】                   【大姫(南沙羅)】
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建久6年(1195)2月14日  頼朝49歳
 大姫(南沙羅)は、亡き許嫁、義高(市川染五郎)への想いを断ち切って、入内を目指すことになり、頼朝(大泉洋)は、政子(小池栄子)と頼家(金子大地)、大姫(南沙羅)を伴い、京へ2度目の上洛を果たした。
 処が、丹後局(鈴木京香)と面会した大姫は、局にひどい扱いを受けて傷つき、病に倒れる。すっかり気力を無くして衰弱。20歳の若さで亡くなった。建久8年(1197)7月  頼朝51歳

 頼朝は、この頃、熟睡が出来なくなった。そして、大姫の死は、範頼の呪詛の性であると思うようになり、梶原景時(中村獅童)を呼び出した。修禅寺で野良仕事をしていた範頼のもとに、景時から指示された仕事人;善治(梶原善)が静かに現れ、範頼ほか2名を刺殺した。

 範頼(迫田孝也)は、鎌倉を守ろうと取った行動が裏目に出て、頼朝の信頼を失い、疑われた。義経と共に平家討伐に共に活躍した源氏の男たちである。今も伊豆の修禅寺に静かに眠っている。

【丹後局(鈴木京香)】                  【伊豆の修禅寺;源範頼が眠る】
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第25回、天が望んだ男
 頼朝(大泉洋)は、身に降りかかる不幸に苛まれる。
 政子(小池栄子)が心配する中、弟の阿野全成(新納慎也)は、頼朝から過剰に助言を求められ、実衣(宮崎エマ)と共に困惑しつつも、思いつく限り指南する。それでも不安が消えない頼朝は、心身の不調が顕著になっていく。

 一方、頼家(金子大地)は、長男の一幡が誕生し、後見役の比企能員(佐藤二郎)は、鎌倉殿の継承にと心を躍ろされる。この比企家の台頭を危惧するりく(宮沢りえ)は、時政(坂東弥十郎)をたきつける。

【喜び最中の比企一族】                 【時政をたきつける、りく】                    
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建久9年(1198)12月27日、 頼朝;享年52歳
 そんな中、頼朝は、北条家親族の追善供養に出席するため、従者の安達盛長(野添義弘)と共に出発する。途中、相模川橋供養にも立ち寄り、その後、北条家を訪れる。
 頼朝は、そこで政子と北条義時(小栗旬)に顔を合わせると、息子・頼家(金子大也)に継がせることを打ち明ける。
 そして、晴れやかな表情で「人の命は定められたもの。あがなってどうする?甘んじて受け入れようではないか。神仏にすがって過ごすのは、ときの無駄じゃ・・・」と心境を明かす。

 その後、頼朝は盛長を連れて、鎌倉御所へ戻ろうとする。その道すがら、馬に乗って話していた頼朝は、徐々に呂律が回らなくなると、そのまま落馬した。
駆け寄った盛長は、目を覚まさない頼朝に「佐殿(すけどの――)!」と、昔の名を叫ぶのだった。

【北条義時と語らう頼朝】                   【鎌倉へ帰る馬上の頼朝】               
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"吾妻鏡”には、「(相模川)橋供養に出席した頼朝が、鎌倉に戻る途中、落馬した」と記されているが、その原因は定かではない。
 一説には、義経の亡霊を見て驚き、落馬したとも云われ、茅ケ崎市には、義経を祀った御霊神社と旧相模川橋の橋脚(関東大震災の折、出現。国指定)が残っています。

【御霊神社】                  【旧相模川橋の橋脚】
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つづく。









2022年5月 4日 (水)

109.鎌倉殿の13人(第1編)

109.NHK大河ドラマ(鎌倉殿の13人;1編
 令和4年2月24日、平和の祭典;
冬の北京オリンピックが終了するや、ロシアのプーチン大統領は、待ちかねたようにウクライナに向けて計画的に侵攻した。先ず、国境が隣接する西部のドネツクを占領し、更に北部のキエフ、ハリコフ、南部のヘルソンに空爆、ミサイル、戦車により民衆を巻き添えにした非人道的な無差別攻撃が、続けられている。この21世紀において、決して許されず信じられない戦争が、今も繰り広げられている。戦争はエスカレートし、化学兵器や核をちらつかせる等、プーチンには、世界の国々の共感が得られない。
 このような世界情勢の中、平和な日本では、
NHKによる大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映が始まった。このドラマは、鎌倉時代に上皇や公家をはじめ、取り巻く侍たちが入れ乱れ、大儀をかかげて殺戮を繰り返し、天下を取ろうとする。  
 実に無情で残忍・冷徹な世界感を描いたドラマである。時代と場所は変われど、現在でも残酷な侵略を行うロシアの大統領;プーチンの言動は、このドラマによく似た節が随所にある。ここに、小生なりにまとめてみたい。

・背景(後白河法皇と平清盛の蜜月の終焉)
 安元2年(1176)、後白河法皇の寵愛(ちょうあい)を一身に集め、義兄・平清盛との間を取り持っていた建春門院(けんしゅんもんいん)が35歳で死去すると、後白河法皇清盛との蜜月にかげりが見られるようになった。
 そして、安元3年(1177)に鹿ヶ谷事件が起きる。5月、後白河法皇の近臣が京都東山鹿ヶ谷にある山荘に集まり、平家打倒の謀議を巡らせていたことが、密告され、計画が露見。激怒した清盛は、首謀者たちを捕らえ、斬首や配流先での虐殺に処した。

    【後白河法皇】                 【平清盛】
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その後、治承2年(1178)、高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に、皇子が誕生し、のちに安徳天皇となる。翌年閏7月に重盛が死去すると、同治承3年(1179)11月、ついに清盛はクーデターを起こして、鹿ケ谷事件の主謀者である後白河法皇を幽閉し、院政を停止した。
治承4年(1180)、清盛は外孫の安徳天皇を即位させ、娘婿の高倉上皇による傀儡院政を樹立させ、権力の絶頂を迎える。しかし、平家への反発はますます大きくなった。

(予想しなかった伊豆国の国主交代)
  治承4年(1180)5月、平家打倒で起きた以仁王(もちひとおう)の乱で源頼政が敗死すると、代わって伊豆国知行国主となったのは平時忠だった。「平家にあらずんば人にあらず」という発言で知られる平清盛の義弟である。
それまで国主は、
摂津源氏の武将である頼政であった。治承2年(1178)には従三位に叙され、武門源氏初の公卿昇進を果たし、清盛と良好な関係を築いていた。そのとき、北条時政は、現地での在庁官人として、国主である源頼政に仕えており、当時、流人生活を送る“源頼朝”には都合がよかったと思われる。
 なお、源頼朝は、1147年、源義朝の三男として藤原季範の娘(由良御前)との間に生まれ、平治の乱(1160)において、源義朝は平清盛に敗れ、都から落ち延びる途中、尾張国で家人に裏切られ謀殺され、その後、頼朝は助命され、伊豆国へ流された。
 しかし以仁王(もちひとおう)の乱”の後、事態は急変し、平時忠が国主となると、伊豆国の支配も平家の家人が重用され、代官である目代には山木兼隆が起用された。
 平家から監視されていた頼朝は不安の中で過ごすようになり在庁官人の“北条時政”も、苦しい立場に追いやられていた。
 舞台となる伊豆国は、太平洋に張り出す半島であり、五畿七道東海道に含まれる国であったが、伊豆国の大半は、都と坂東をつなぐ交通路から外れ、都から政治犯が流される流罪の地として利用されてきた。
 北条氏の本拠地は、現在の静岡県伊豆の“国市韮山”で、駿河湾に注ぐ狩野川沿いに位置し、伊豆国の政治・経済の中心地である国府三島とは舟を用いる交通の便がよい土地であった。
 一方、伊豆国の中央は、有力な勢力をもつ“伊東祐親”(いとうひろちか)が、また天城山を越える南は“河津祐康”(こうずひろやす)が治め、彼らは、互いに親類関係を築いていた。
 伊東祐親は、平家の総帥・平清盛の嫡男・重盛家の家人であり、その威光を背景に勢力を伸ばしていた。そして、平治元年(1159)で捕らえられ罪人となった”源頼朝”は、平家の息のかかった祐親の監視下で流人生活を送っていた。
【源頼朝(大泉洋)】                 【北条政子(小池栄子)】
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第1回(伊豆国)
 物語は、安政元年(1175)平家の総帥。平清盛が権勢をふるう時代。
伊豆国の家人・北条時政は京の務めを終え、伊豆に戻った。時政は、京で平家一門とつながりのある”牧の方”(まきのかた;宮沢リエ)を後妻にしようと、約束をして戻ったのである。

  時政帰還の酒宴の裏で、息子の北条宗時(むねとき;片岡愛之助)は、弟の義時(小栗旬)に、今まさに敷地内に罪人を匿っていることを明かす。その罪人は、源頼朝(よりとも;大泉洋)だった。
 
 
頼朝は、平治の乱(1159)で平家との戦いで敗れた後、伊豆へ流され、平家の家人・伊東祐親(いとうすけちか;浅野和之)の元に身を寄せていたが、そこから逃げてきたものだった。
【伊豆国の武将達】               
【北条館】
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・第2回(一触即発)
 伊東祐親は、頼朝を処断しようと兵を率いて、頼朝を差し出すように北条館へ迫っていた。
 それは、祐親が、京都に内裏の警備役として赴任していた間、娘の八重(新垣結衣)が、流人の・源頼朝(大泉洋)と恋仲になり、男子ができたことへの腹立ちからだった。
 しかし、北条宗時(片岡愛之助)と父・時政(坂東彌十郎)は、頼朝をかばって伊東祐親と対立し、一触即発の状態となる。そこへ現れたのは、相模の武士団を束ねる大庭景親(おおばかげちか、國村隼)。彼の仲立ちにより頼朝は、引き続き北条家で預かることになった。
 その後、義時の姉・政子は、頼朝の世話を焼き、二人の距離は、次第に縮まっていく。
【北条義時(小栗旬)】            【北条時政(坂東弥十郎)】 
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・3回(令旨)

 時は流れ、治承4年(1180)頼朝と政子は子を成し、北条家には和やかな空気が流れていた。
 そんな中、都では、清盛は不仲になっていた後白河法皇を幽閉し、外孫の安徳天皇を即位させ、娘婿の高倉上皇による院政を樹立させて、権力の絶頂を迎えた。  
 これに対し、法皇の子・以仁王(もちひとおう)は平家に反旗を翻し、頼朝に挙兵の令旨を下したことで、平家への反発はますます大きくなった。

・4回(準備)
 頼朝は、以仁王(もちひとおう)の令旨を受け、法皇救出の挙兵を決意したが、思うように兵が集まらないことに焦せる。粛々と旗揚げの準備を進める北条家の様子を伺うのは、川向かいの江間家に嫁いだ八重である。戦いが始まれば、北条家とは対峙することになりかねない。八重の身を案じる義時は、暗に挙兵を打ち明ける。

・5回(挙兵)
 治承4(1180)年8月17日、頼朝(34歳)は、「平家から源氏の世をつくろう」と、遂に挙兵に決断した。
 北条勢が、遂に伊豆目代(=代官)・山木兼隆と後見・堤信遠を襲撃し、開戦の幕が切って落とされた。

 頼朝は、”坂東を治める”ことを表明し、平家方から召し上げた所領の分配を開始した。これに、平家方の大庭景親(おおばかげちか)は反発し、頼朝を討たんと、出兵する。更にその裏で、北条を先導する宗時を闇討ちしようと伊藤祐親(浅野和之)は刺客を差し向ける。
(挙兵の図)
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第6回(石橋山の戦い)
 治承4(1180)年、
治承4(1180)年8月23日
頼朝は、父・源義朝が治めた鎌倉を目指して、源氏方の土肥実平(どいさねひら)の本拠地・土肥郷に入り、石橋山(神奈川県小田原市の南西)に陣を敷いた。その数、およそ300騎。
 対する平家方は、大庭景親相模国の武士およそ3000騎が、谷一つ隔てて陣を張る。さらに、打倒頼朝に執念を燃やす伊東祐親(浅野和之
 )がおよそ300騎を率いて、頼朝軍の裏側の山に陣を取った。兵力の差は歴然。
景親軍は、頼朝を支援する三浦党の援軍が合流する前に勝敗を決っしようと、夜襲をしかけた。これが激戦となり、翌日まで続いた。
 頼朝は、山中の洞(ほこら)に身を潜めていた処、大庭家の配下・梶原景時(かじわらかげとき、中村獅童)に発見されるが、何故か見逃されて、難を逃れる。
【頼朝の進軍ルート 】                                                              【ししどの洞穴】
 
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・第7回(阿波国あわこくへ渡海)
 石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、4日ほど義時らと共に山中に潜んでいたが、平家方の隙をみて、土肥実平の案内で真鶴岬から小船に乗って安房(あわ;現在の房総半島)へ渡海に成功する。ひとまず死の淵を脱した。

 ここには、先に逃れた北条時政と共に、衣笠城を追われた三浦義澄(みうらよしずみ;佐藤B作)・義村(よしむら;山本耕史)の父子も船で安房国に逃れており、頼朝・義時らと合流し、共に喜びあった。
 しかし、祖父の三浦義明は武蔵国の畠山らの武士団に攻められ、城と共に討死した。また、父・時政は兄・宗時が亡きものとなったことを悟り、悲嘆にくれ、弟・義時に、「これから先は、お前が北条を引っ張っていくのだ」と諭す。
 
 頼朝らは、安房国での地元豪族・安西景益らの支援を受け再起をはかろうとする。そこで、頼朝に命じられた義時は、関東屈指の武将・上総広常(かずさのひろつね;佐藤浩市)を訪れた。
 広常は、「俺が平家か、源氏のどちらに付くかで戦局は決まる。利のある方に付く」と云い放つ。その隣の間では、義時よりも前に訪れていた平家方の梶原景時が控えていた。
 
・第8回(いざ、鎌倉)
 北条義時は、実力者である上総広常(かずさのひろつね)と千葉常胤(ちばつねあつ)の両者を見事味方に加えることに成功。南関東を制圧した源頼朝の軍勢は、父・源義朝が治めた鎌倉を再び目指す。
 平清盛(松平健)は、 挙兵した頼朝を討つため、追討軍を送る。その一方、後白河天皇(西田敏行)は地図を広げ、丹後局(たんごのつぼね;鈴木京香)らと戦況を占う。
 進軍の都度、勢力を増す頼朝軍は、更なる味方を引き入れようと、北条時頼・義時の父子に手紙を持たせ、一度断われていた甲斐の武田信義(武田信玄の先祖;八嶋智人)へ向かせる。この度は見事成功、味方に引き入れた。こうして関東一円の武将が、頼朝軍へなびくこととなった。
 更には、平家方として戦った武将の畠山重忠、また大庭景親の配下・梶原景時までが袂を分かち、頼朝軍に加わって大軍となり、平家方の抵抗もなく、鎌倉入りを果たした。(同年10月6日)
 頼朝は、身を隠していた政子らと無事に鎌倉で出会い、共に喜び会う。そして、この地に鶴ヶ丘八幡宮を建て、中央に若宮大路を通す街づくりの区割りを進めた。

【鎌倉入りする頼朝】旗との間の騎乗姿      【鎌倉入りを果たした頼朝と政子】
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第9回.(富士川の戦い)
治承4年(1180)10月16日
 平維盛(たいらのこれもり)を総大将とする追討軍は、東海道を進み、富士川で陣を敷いた。
これに対し頼朝軍は、鎌倉を出陣し、富士川の手前の黄瀬川で先発した武田軍と合流、陣を敷いた。
 深夜、北条隊が富士川の川辺で見回りをしていると、突然、川辺から水鳥が羽ばたいた。それが、数万羽となって、一斉に飛び立った。対岸で陣を敷いていた平家軍は、暗闇の中、源氏軍の奇襲と思い込み、慌てふためき、陣を捨て敗走していった。
 頼朝は、この機会に追撃し京をめざそうと、はやる気持ちで各武将を説得するが、上総広常(かずさのひろつね)は、隣国常陸の佐竹義政軍の動きが怪しくなり、また、武田信義も今は動けぬと陣を引き、それぞれ領国へ戻った。残された時政も、頼朝にここで陣を引くよう説得に努めていた。

 そこへ、藤原秀衡の文を携えて、源義経(よしつね;菅田将暉)が、奥州からはるばる訪ねてきた。九郎義経は、頼朝と対面、「父・義朝の仇が、共に討ちとうござる」と挨拶を果たし、頼朝軍の一員となった。
    【富士川の戦い】                【源義経;菅田将暉】
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第10回.(地盤固め)
 平清盛(松平健)は、頼朝追討軍の負け戦を知り、都を福原から京へ戻すことを決断する。一方、後白河上皇は、清盛に対し溜飲をさげ、内心ほくそ笑む。
 また、奥州の藤原秀衡は、清盛と頼朝の両方から文が届き、両方へ兵を送ると色よい返事を送る。

 このような中で、頼朝は、早々と新政権の強化へと乗り出す。
 鎌倉入りでの戦いで敗れた大庭景親は、処刑され、身内にあたる伊東祐親は、捕らえられ、三浦のもとで監視生活になった。一方、八重(頼朝の最初の妻)は、頼朝の鎌倉御所で侍女として、働き始める。
 ここに、頼朝の異母弟である、源範頼(6男;のりより)、阿野全成(7男;あのぜんじょう)、義円(ぎえん;8男)、義経(9男)の身内が揃う。
 一方、牧の方(時頼の妻)は、京から”兄の宗親”を呼び寄せ、政子、実衣(みい;政子の妹)らに京の教養をしつけようと新しい生活が始める。

治承4年(1180)、10月27日
 頼朝は、坂東の治安を固めるため、平家と通じる常盤(ひたち)の佐竹義政討伐に乗り出し、出陣した。これに対し、佐竹は堅固な要塞・西金砂山へ立て籠もり、守りを固めた。そこで、上総広常(かずさのひろつね)は、この長期戦を避けるため、佐竹義政を呼び出し、橋のたもとで対面、謀を用いて殺した。
【常盤(ひたち)の佐竹義政討伐 】       【西金砂山 (にしきんさやま)】
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第11回.(渦巻く陰謀)
 打倒平家のもと、鎌倉では兵力を蓄えていた。
 治承4年(1180)12月
 鎌倉御所が完成した。佐殿(すけどの、頼朝)は鎌倉殿と呼ばれるようになり、御所において、御家人に平家から奪った所領をそれぞれ 分け与え、御家人と契りを誓った。因みに、北条義時には、江間の地が与えられ、和田義盛(横田栄司)には侍別当が、また梶原景時には、鎌倉の見回り役が与えられた。しかし、活躍した北条時政には、褒賞は無かった。

【頼朝殿と御家人】鎌倉御所にて               【平清盛 の死】
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 一方、都では、行き詰った平清盛が、残虐な戦いを仕掛けて、東大寺を焼き討ちし、南都は火に包まれた。
治承5年(1181)2月4日、病で伏した清盛は、「頼朝の首を枕元に供えるのだ!」と言い残し、死去した(享年64歳)。
 この時、後白河法皇は、「天罰が下った」と言い放ち、頬笑んだ。一方、鎌倉の頼朝は、「平家の止めをこの手で、下そう!」と誓いを新たにした。
 これに対し、源行家(ゆきいえ;源為義の10男)は、鎌倉に居候していたが、頼朝に「何故、京へ攻め上らぬ!」と意見が対立。更に「頼朝の家人にはならぬ」と、義円(頼朝と兄弟;8男)を連れて、西へ向かった。しかし、1カ月後、平家追討軍に墨俣川で敗れた。
 
 政子が、頼朝の子を懐妊したことで、無事な”嫡男”を願って、三浦に預けられていた伊藤祐親(いとうすけちか)の恩赦が決まり、無罪放免されることになった。しかし、その裏で祐親は、何者かに暗殺された。義時は、このことを頼朝に聞きただすが、頼朝は、冷徹にも「知らぬ、存ぜぬ!」と応えるのみ、真相は闇の中。ここから 鎌倉には、根深く陰鬱で残忍な闇が、長く続くのである
。一方、八重は、義時に預けられ、江間で独り生活をするようになった。

第12
回.(頼朝の浮気騒動)
 比企一族(元安房国の豪族、後に埼玉を支配) から乳女が、鎌倉へやってきた。昔、頼朝が比企局(ひきのつぼね)に育てられた例に倣い、頼朝の嫡男は、再び比企一族 に育てられる運びとなり、政子も比企の館へ移された。更に、京からも大江広元など朝廷に仕える貴族も集まり、鎌倉も京都に劣らないよう華やかになった。
 頼朝の嫡男誕生祈願のため、鎌倉八幡宮参上の折の馬引きに、九郎義経が当てられた。しかし、九郎は、頼朝の頼みを御家人の集まる面前で断ったので、両者の間には、きまずい空気が流れ始まる。このような中で、
 
 治承6年(1182)8月12日 、政子は、元気な男子を出産した。万寿(まんじゅ;後の頼家)と名付けられ、鎌倉は喜びに満ち、政子は我が子の世話に懸命だった。

【政子の出産
】                 【頼朝と亀の前の浮気 】
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 一方、頼朝はと云うと、陰で”亀の前(江口のりこ)”という侍女を匿い、家来の屋敷で浮気をしていた。このことが、鎌倉で噂になった。政子は、”牧の方”(北条時政の後妻)からこの不倫のことを聞かされ、激怒した政子は、”牧の方”の兄にあたる”宗親(むねちか)”に命じて、家来の屋敷を壊し、焼いてしまった。これに怒った頼朝は、犯行者を探し出し、”宗親”を皆の面前で罵倒し、髷(まげ)を切る処分をしてしまった。
 これに対し、宗親の妹である”牧の方”が怒り、御所へ乗り込み、「傍目をもつなど、政子が可哀そう!」と言い放ったので、頼朝も収まらない。更に、時政までが我が妻の兄;宗親への仕打ちに いきり立ち、「これでは、やってられない!」と、さっさと郷里の北条館へ帰ってしまった。これを機会に頼朝は、そりの合わぬ時政を
冷遇するようになった。

第13回.(幼なじみからの愛)
 鎌倉では、源平の戦いが始まる前に、頼朝と家人の間で亀裂が入ろうとしていた。
 或る時、平家に敗れた源行家(ゆきいえ)が、「今後の戦に備え、所領をくれ!」 と鎌倉へ戻ってきた。頼朝は、「そなたに差し出す所領などない」と断わると、行家は、「それでは、従兄弟の木曾義仲(きそよしなか;青木崇高) へ味方をするぞ!」と、捨て台詞を残し、さっさと鎌倉を去った。
 その後、甲斐の武田信義がやってきて、「木曾義仲が、鎌倉へ攻めて来るとか?来ないとか?」と云うので、鎌倉は急きょ戦闘準備かと慌ただしくなったが、結局、「木曾義仲へ使者を送り、本意を問おう」と話しがまとまった。
 使者には、北条義時ほか2名が、信濃へ旅立ち、木曾義仲、巴御前(ともえごぜん)に会い、「互いに戦意が無い」ことを確認し、嫡男・義高を鎌倉に送ることを約束して戻ってきた。
 江間では、八重(頼朝の前妻)が、義時の帰りを待っていた。義時は、”幼なじみからの変わらぬ愛”を八重へ告げると、八重はこれを受け入れ、義時の妻になった。
【義時と八重の婚約】
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第14回.(都の義仲)
寿永2年(1183)3月、
 木曾義仲は、長男;義高(市川染五郎)を頼朝の長女;大姫の許嫁として人質を鎌倉へ差し出した。その後、義仲は、北陸で兵を挙げ、5月、加賀の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで、火牛の計を用いて平家軍を打ち破った。これによって、平家軍は、安徳天皇を連れて、三種の神器とともに都を落ち延びた。

【木曾義仲(中)と巴御前(左) 】         【火牛の計 】
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 7月、後白河法皇は、義仲と都で対面し、法皇は義仲の入京を喜んだが、三種の神器が持ち去られたことで、急いで奪還することを求めた。一方、頼朝は朝廷へ、都から東は頼朝が、また西は義仲が治めるとの文を差し出した。これによって、法皇は、1位が頼朝、2位が義仲、3位が行家との恩賞を示したが、これを義仲側が不満を示し、この恩賞は取り下げられた。
 9月、暫くたつと、今日の都では、木曾義仲軍の乱暴が、目につくようになり、そこで、これを鎮めるため、法皇は、義仲に平家討伐の命を出した。
 義仲軍は、平家軍と戦うが、苦戦し、京へ戻ろうとするが、法皇は都を騒がせた義仲とは、対面しようとしない。
 一方、法皇は、頼朝へ今までの罪を赦免したうえで、東海・東山両道諸国の支配権を与え、平家討伐せよとの院宣を出した。
 そこで、頼朝は、法皇の命に応え、10月4日、木曾義仲と戦うため、九郎義経を大将とする先発隊を出兵させた。
 しかし、その夜、御家人の一部では、「今回の戦いは、源氏同志の戦いとなり、大義がない」と反発し、鎌倉は、二つに割れた。

第15回.(足固めの儀式)
 「鎌倉を出発した義経、近江に近づく」との報を受け、木曾義仲は、後白河法皇を捕らえた。

【義仲;法皇捕縛、義経;近江へ迫る】   【先発隊の義経】
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 一方、鎌倉では、御家人たちの一部が、 今回の出立に反発し、頼朝の首をとるとの謀反を企てた。その計画として、
万寿さま(頼朝の長男)の500日目に足固めの儀式を行い、その日には鹿狩りを催すと企てが示された。主謀者の千葉常胤(ちばつねたね;岡村信人)、三浦義澄(みうらよしずみ;佐藤B作)など他に、義時から謀反人の様子を探れと諭された上総広常(かずさのひろつね;佐藤浩市)が加わった。
 当日、謀反人全員が御所を取り囲んだ時、義時は「木曾殿は、法皇さまを人質にし、木曾殿の大儀はない!」との必死の説得と広常の行動により、謀反を止めることに成功した。
 主謀者の千葉常胤 は、これまでかと切腹しようとするが、頼朝は、「これまでのことは、全て無かったことにする」との一言で救われた。そして、頼朝は、上総広常と一献交わし「よく謀反を止めてくれた!」と礼を述べた。

 しかし、その後、御所で謀反の仕舞いが話された。頼朝は、「謀反に加わった御家人全員を許しては、示しがつかないと主張した。知恵袋の大江広元(おおえひろもと;栗原英雄)は、「この際、誰か一人に見せしめとして、罪を負わせるのは、如何でしょう?」と進言。更に、「それは、上総広常殿(かずさのひろつね)でよいかと」と提案する。
 その話しを冷静に聞く頼朝に対して、この策に反対する義時は「このことは、ご存知だったのですか?」と質問する。これに対し、頼朝は、「この鎌倉で、わしの知らないことはない」と答え、この策が、日頃、広常を脅威に感じていた頼朝自身によるものだったことが、明かされた。義時は「頼朝が、初めから広常を亡き者に企んでいたこと」に愕然とする。

【鎌倉御所にて謀反】            【上総広常(佐藤浩市) の粛清】切り役;梶原景時(中村獅童)
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 12月22日;頼朝に命じられた梶原景時(中村獅童)は、広元を双六に誘い、御家人たちが集まる中で、広常を斬りつけ,
粛清した。斬られた広常は、事態がよく飲み込めないまま絶命した。
 頼朝は、「広常 の残党を討ち、その所領を分け与えよ!」と。続けて「木曾義仲を討ち、平家を討て!わしに逆らう者は、こうなるのだ!」と。この粛清に
よって、鎌倉では、頼朝に反発する者は、無くなり、地盤が固まった。

 義時は、江間に帰ると、家には身重だった妻の八重が迎え、長男・泰時が、誕生していた。

つづく。













 

2022年4月23日 (土)

110.日本史ツアー(桜咲く北陸編)

日本史ツアー(桜咲く北陸編)
令和4年4月8日(金);天候;晴れ
 今日は、春も晴れやかな桜日和。小生、長くつづく第6波のコロナ禍に耐え切れず、あなぶきトラベルが企画する1泊2日の「桜が美しい日本100名城めぐり(北陸編)」に参加した。
 この企画は、桜が咲く北陸の名城を巡ろうとするもので、初日は、「日本さくら名所100選」に選ばれた丸岡城の約400本の桜、2日目は金沢城を囲むように咲き誇る桜、最後は、一乗谷朝倉氏遺跡に移り、将軍足利義昭も楽しんだと云われる”歴史ある糸桜”など、3カ所の桜を巡ると云うツアー。

【本日のツアーコース】
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 朝7時5分、小生は、高松駅から次の集合場所”仙場川”で、普段よりもかわいい中型の琴讃バスに乗車した。津田の集合場所で、最終13名の参加者を乗せると、小柄で丸顔の添乗員;丸山さんは、明るく、元気よく挨拶した。
 バスは、淡路鳴門自動車道を過ぎ、神戸から名神高速道路、北陸自動車道を走り、12時前に賤ヶ岳サービスエリアで下車した。ここで自由昼食になった。因みに、小生は”とろろ定食”を摂った。

【賤ヶ岳サービスエリア】                【沿道沿いの桜】
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〈丸岡城〉
 一休みした後、13時。バスは、再び北へ走り、”福井”を過ぎると、丸岡インターにて、坂井市内へ降りた。
 
 ここで添乗員さんは、丸岡城について、説明を始めた。
 「この丸岡城は、古風な野面積み(のづらづみ)の石垣の上に建っています。この天守閣は、現存する城の中で、日本最古の天守閣と云われ、国の重要文化財となっています。屋根は2層、3階建構造です。
 今から400余年前、天正3年(1575)、織田信長は、越前の一向一揆を平定するため、当時丸岡から東の山中にあった”豊原寺”を攻略し、焼き払いました。信長は、恩賞として柴田勝家に越前の国を与え、北の庄(今の福井市)に築城を命じました。
 勝家は、甥の勝豊に命じ、豊原に城を構えましたが、翌天正4年(1576)、交通の便から丸岡に移り、城を築きました。これが、現在の丸岡城です。
 大正から昭和初期にわたり、濠は埋められ、現在は本丸と天守とが僅かに石垣を残し、城域は公園になっています」と。
 添乗員さんの説明が終わる頃、バスは、10分程走り、丸岡城の駐車場へ着いた。14時20分。
【公園内の桜】右には、城への石段          【駐車場から見た丸岡城】
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 バスから降りると、駐車場の一角から城が見えた。城までは、300m程である。城は、お椀をかぶせたような小高い山の上にちょこっと載っかかったような城が見えた。これが”丸岡城”である。山の麓は、満開に咲き誇る桜に覆われて、桃源郷のような眺めであった。
 小生、城の写真を撮り終えると、添乗員さんに連れられて、城山に向けて歩んだ。10分程歩くと、ここにも駐車場があり、山城へ通じる石段が見えてきた。その石段の手前入口には、ピンクに染められた”桜まつり”の大門が造られ、もうすっかり花見気分である。周りは観光客も訪れ、にぎわっていた。緩やかな石段には、提灯がともされ上ると、開けた場所の券売所へ着いた。
 ここで、添乗員さんからチケットを受け取り、更に100名城のスタンプを押印して、城内に入った。ここから更に、50段程の石段を上ると、山頂へ着いた。
 山頂には、平たい処に古風な城が築かれていた。城の周りには、ソメイヨシノの桜が、満開に咲き誇り、今が一番と城を引き立てていた。 
 観光客たちは、カメラを片手に城と桜をバックにし、あちこちでポーズを決めて、写真を撮っていた。小生も観光客に交じり、独り写真を撮った後、城へ通じる長い石段を上った。
 城内へ入ると、中は、薄暗く、図太い粗削りの柱や床板が目につく。現存する城のなかで、日本最古の城であると云うのも納得出来た。二階に登る階段は、急な階段で、ここには、上りと下り用の手綱が、二本備わっていた。手綱が無ければ、とても上ることは出来ない程、怖い階段であった。2階へ上がると、再び天守3階への急な階段が待ち受けていた。この階段は、更に傾斜がきつく、垂直かなと思わせる程。小生、この階段を挑戦。手綱にしがみつき、四苦八苦して上り、天守へ着いた。 

 【丸岡城】               【天守3階への階段】        【天守の窓】
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 早速、屋根を見ると、ちょっと変わった屋根瓦である。白っぽい石瓦であった。この石瓦は、近く足羽山の笏谷石から作られたと云うもので、1枚20~60kg、枚数は6000枚、総重量は120トンにも及ぶそうだ。雪国特有の瓦なのかな?

  外の景色はと、天守窓から外を眺めると、東に豊原寺跡が存在したと云われる山並みが見えた。また、南は福井市内が一望でき、その向こうは、北の庄、永平寺、一乗谷である。西は、穀倉地帯が広がり、その向こうに日本海。北は、加賀の白山連峰が望めた。

【東;山の麓に豊原寺跡】       【南;北の庄、永平寺、一乗谷】   【北;加賀の白山連峰】
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 見終わると、今度は急傾斜の階段降りである。腹を据えて、手綱をしっかりと持ち、足元を確かめながら慎重に降りた。下り終えると、やれやれである。こんな傾斜のキツイ階段をよく造ったものだと感心しきり。

 城から降りると、歴史民俗資料館へ立ち寄り、丸岡城の絵図面(正保元年(1644))に興味を示した。
 そこには、当時の城郭は、五角形の濠を有し、外郭に侍屋敷を配置し、更に外堀を設け、寺院、民家を包容する大きな城下町を形成していたと記していた。
【中世の越前】              【中世の城郭】            【一筆啓上、日本一短い手紙の館】
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  その後、元きた駐車場へ帰り、一角にある”一筆啓上、日本一短い手紙の館”へ寄ってみた。この館は、徳川家康の家臣で「鬼作左」と呼ばれる本多作左衛門が、陣中から妻へあてた「一筆啓上、火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」とのあの有名な手紙であった。
 文中に出てくる「お仙」とは、初代丸岡藩主本多成重であったことから、この地に全国発の手紙コンクール「一筆啓上賞」が、平成5年に誕生し、今も続けられていたと記していた。

 この館には、その手紙の面白そうな一部が、展示されていたが、バスに乗る時間も迫っており、そそくさと見て過ぎ、バスへ乗車した。
 15時30分、バスは北陸自動車道を通り、30分後に金沢駅西口へ到着した。ここから数分程歩き、駅前の宿、”アパホテル金沢駅前”へ着いた。16時
【金沢駅西口】駅の右、ノッポのビルがアパホテル 【アパホテル金沢駅前】
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〈兼六園〉
 ツアー2日目;アパホテルを8時に出発し、金沢駅西口駐車場へ向かい、ツアーのバスに乗車した。8時5分

  バスは、参加者全員を乗せて、金沢市内を東へ走りはじめると、添乗員は、説明を始めた。
「金沢は、加賀百万石の武家文化に育まれた文化と芸術の都です。今から、そのエッセンスを感じる金沢城と兼六園へ参ります。
 先ず、金沢城ですが、加賀一向一揆の拠点となった、金沢御堂の跡地に織田信長の家臣佐久間盛政が築城したのが始まりです。その後、前田利家が入城して改修を行い、金箔瓦の天守も築いたが、落雷によって焼失しました。現在の城の形は、寛文8年(1631)からの普請によるものと云われています。
 次に兼六園は、5代藩主前田綱紀の時代から約180年の歳月をかけて作庭されたもので、日本三名園の一つに数えられています。」と。
 やがて、近江市場を過ぎると、兼六園沿いの蓮池門通りの”桂坂口”近くへ停車した。8時20分

【金沢城マップ】                   【兼六園マップ】
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 添乗員は、一同を桂坂口へ集めて、「ここからは、単独行動です。金沢城と兼六園を併せて観覧してください。集合は、この桂坂口へ80分後の9時40分に集合してください。」と説明し、一同それぞれ分かれた。
 小生、2年前にこの城と公園を訪れている。勝手は、分かっていることから、前回見残した金沢城の五十間長屋門を中心に見学しようと考えた。この長屋門は、9時から開館するとのこと。そこで、桂坂口周辺の写真を撮った後、兼六園からゆっくりと観覧することにした。
 園内へ入ると、朝8時半というのに観光客が入園しており、にぎわっていた。

【兼六園の桂坂口】                【桜咲く参入道】
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 すると、ツアーの仲間の一人の或る女性と一緒になり、彼女は、「兼六園の要領が分からない」と云うことから、一緒に同行することになった。暫く桜が咲いている参入道を前進すると、”霞が池”へ着いた。
 ここで、小生、”ことじ灯籠”前の石橋を指さして、「以前来たときには、浴衣着物の女性が何処からか現れて、石橋の上で写真のポーズを決めてくれたのですよ!」と、彼女をカメラに誘ってみたが、彼女は素知らぬふり。そこで、小生今度は、「この池は、兼六園を代表する立派な池ですね!」と独り云って、霞が池の写真を独り撮った後、少し進むと、左手側に視界が開けた眺望台に出た。

【ことじ灯籠(右)と石橋(手前)】霞が池(奥)      【眺望台】        
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 そこで小生、「ここは、昔、前田の殿様が、この地に立って、民の状況を眺めた場所ですよ!」と、説明すると、彼女は、「そうなの!」と云って、愛想を返してくれた。
 和んだ処で、二人揃って、雪吊りで有名な唐崎松、雁行橋、日本武尊像、花見橋を渡って霞が池の対岸側へ出た。そこから回りながら登る栄螺山(さざえやま)を上った後、噴水へ着いた。

【栄螺山(さざえやま)】               【栄螺山から見た霞が池】
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 ここで、小生、知ったかぶりで、「この噴水の水は、霞が池を水源として、池の行程差を利用して自然に噴き上がるものです」と。更に、「この兼六園は、金沢城の防火対策として、この地に池が造られ、その後、この池が公園に利用されたものです」と付け加えると、彼女は、「そうだったの!」と、ビックリした様子。
 ここまで来ると、9時近くになっていたので、我々は、蓮池門口から兼六園を出た。蓮池通りへ出ると、そこは、絢爛豪華な桜並木が咲き誇り、特に金沢城側を眺めると、”桜と城のコラボ”で夢心地の気分である。暫くの間、写真を撮り続けた。その間、彼女は、待っていた。そこから、金沢城入口に当たる石川橋を渡り、石川門へ向かった。

【噴水】                     【対岸の蓮池通りから見た金沢城の石川門】
Img_9165 Img_9169  

〈金沢城公園〉

 桜が咲く石川門前では、多くの観光客がカメラを構えてにぎわい、そんな中、我々は、金沢城を入城した。広い城内に入ると、観光客は意外に少なくなり、静かになった。先ず、五十間長屋の前の道を左に進み、鶴の丸休憩所、鶴丸倉庫、本丸跡へと進んだ。その本丸跡の石垣を見て引き返し、鶴の丸広場、五十間長屋の裏にある二の丸案内所へ向かった。ここで五十間長屋の入場券を購入し、菱櫓(ひしやぐら)側から入場した。

【お城通りの絢爛豪華な桜 】石川橋上から          【石川門の桜】
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 五十間長屋は、史実を尊重し、文化6年(1807)に再建された形に復元し、日本古来の伝統工法により建築した建物と云われる。
 普段は、倉庫として用いられるが、非常時には、戦闘のための砦となる。石落としを各所に備え、格子窓は鉄砲狭間(はざま)となる。寸法が幅7m、長さ70mの長屋に、右手側に三層物見の菱櫓(ひしやぐら)と、左手側に枡形門を付随した三層物見の橋爪門櫓(はしずめもん)とを結んでいる。
【五十間長屋】左;橋爪門櫓、 右;菱櫓            【長屋の内部】
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 中へ入ると、広く、長く、新しい立派な建物であった。戦闘用として、鉄砲狭間や石落としの出窓など戦闘用の細工が、仕掛けられていた。今回のツアー参加者も既に数名程が入場しており、小生は、安心して見学していた。そこで、小生は彼女と少し離れたが、全て観覧しようと奥にある橋爪門櫓まで足を延ばし見学しているうち、中程の元の位置に帰ってみると、もう見学者は、居なくなっていた。どうやら、彼女を含め今回の参加者もこの場から引き上げた様であった。

【2階へ】                         【出窓の石落とし】
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 時間は、まだ充分にあったので、独りで約束の桂坂口へ帰った。彼女や同行者は、やはり帰っていたので安心した。後で、彼女から「貴方、先に帰ったのでしょう!」と云われたが、小生、「いやそうではなく、建物の奥まで見学して、はぐれたのですが?」と弁明しきり。彼女は、分かってくれたのかなあ!と悔やまれた。

 やがて、バスが来て乗車し、次の目的地へ向かった。9時40分

【橋爪門櫓より】真下は続櫓、広場向こう左は石川門      【菱櫓の内堀桜】
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〈一乗谷(いちじょうだに)朝倉氏遺跡〉

 バスは、金沢インターから北陸自動車道にのり、福井へ向けて1時間少し走った。その後、福井インターから下り、158号線を東へ走り始ると、添乗員さんは、一乗谷の朝倉氏について、説明を始めた。

「一乗谷は、一昨年の大河ドラマ『キリンがくる(明智光秀)』で放映され、有名になった場所ですが、昭和42年から始まった発掘調査によって、国の特別史跡に指定され、約400年ぶりに蘇った戦国時代の城下町です。
城主は、5代100年余年にわたり、越前を支配した戦国大名です。
1337年、越前守護・斯波氏の家臣・朝倉広景が丹波から入国、1475年越前を平定します。守護大名となり、一乗谷に本拠地を置きます。
1512年、4代朝倉孝景が城主となり、朝倉氏の最盛期を築きます。
1573年、織田信長が越前へ侵攻。織田軍に敗れて、一乗谷の城下町は、焼かれ、朝倉氏は滅亡します。
 次に、桜についてです。都から一乗谷へ逃れた将軍足利義昭が、楽しんだと云われる桜は、”しだれ桜”です。当時”しだれ桜”は、侍にとっては、縁起が悪いと云うことで、この地では、”糸桜”と呼ばれています。」と終わる頃、
両側から迫る谷あいの一乗谷朝倉氏遺跡へ到着した。11時20分

 【一乗谷朝倉氏遺跡のマップ】           【朝倉館跡の唐門と桜 】背景は、観音山麓               
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 バスから一同降りると、案内ガイドさんが待ち受けていた。早速ガイドさんの挨拶を受け、駐車場から一乗谷川沿いに少し歩くと、右手に見事に咲いたソメイヨシノ桜で覆われ、その古門に近寄った。 

 ガイドさんは、「この門は、朝倉館跡の唐門です。豊臣秀吉が朝倉義昭をともらうため、寄進したと伝わります」と説明し、この唐門をくぐって、館跡の前で、再び話し始めた。
【朝倉館跡】                        【立札】
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 「この館跡は、最後の5代当主朝倉義景が、住んだと云われる館跡です。館跡には、台所、厩、蔵跡など配されています。そして、ここから見える山の麓には、桜が咲く3種類の庭園があったと伝わり、ここには、京の文化が持ち込まれ、当時の朝倉義景が、室町将軍足利義景を招き、観桜の酒宴を催した様が、偲ばれます。更に、この一乗谷地域には、当時約10万人が住んでいたと伝わります。」と。
 更に、473mあるという”観音山”の山頂を指して、ガイドさんは、「当時は、あの山の頂きには、一の丸、二ノ丸、三の丸があって、敵の防御を果たしていました」と説明し終わると、一乗谷川を渡り、復元町並へと進んだ。

                  【復元町並の図】                 【復元町並のモデル】  
Img_9415    Img_9263  
               
 ここには、200mはあると思われる町並みが、今は復元されており、その出口側(図の右端)から入ると、中央には3m程の一本道が走り、左手の川沿い側には、中級武家屋敷群と町家群が、また右手の山側には、水が上流側にあたる上級武家屋敷群が並ぶ。中級武家屋敷群と町家群は、建物が復元され、モデル人形、瓶、壺など生活道具が揃えられ、更には、昔のトイレが復元され、当時の生活様式の高さが伺えた。

【中級武家屋敷の門】                     【中級武家屋敷内】
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【町家の染物屋】                      【染物の壺・瓶(遺跡)】
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 一方、上級屋敷群は、土塀のみが巡らされて、当時の屋敷の礎石を見ることが、出来た。

【上級屋敷塀の裏側】                     【上級屋敷塀の礎石】
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 この復元町並を抜けると、案内は、終了し、ガイドさんと別れた。心残りは、添乗員さんが、話していた”糸桜”であった。この桜は、まだつぼみの状態であり、時期が少し早かったのが残念だった。
 それにしても、一乗谷城の桜は、余り派手さはなかったが、何か心に残る愛しい桜であった。また、見学はほんの少しを見ただけであった。機会があれば、再び来てみようと思われた。
 
 【糸桜】                       【観音山麓の桜】
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 これで、3カ所巡りの“城と桜のコラボツアー”は、無事終了し、バスは帰途に着いた。

 完

 

2021年12月29日 (水)

108,大河ドラマ 「渋沢栄一;青天を衝け!(後編)」

   〈ドラマ後編〉
・故郷の家族と再会(1868年、明治元年12月、栄一28歳)
 久々に故郷・血洗島に戻った篤太夫は、妻(千代)、父(市郎右衛門)、母(るい)など家族と再会を喜び会うが、尾高家の悲劇を知って、大きな衝撃を受ける。その後、昭武から預かった書状を届けるため、慶喜が謹慎している駿府に向かう。駿府藩の中老・大久保一翁にパリでの収支報告し、慶喜と謁見する。
  【渋沢栄一(吉沢亮)】
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・篤太夫、駿府で励む(1869年、明治2年1月、栄一29歳)
 篤太夫は、駿府藩の勘定組頭を命じられるが、水戸の昭武のことを思い辞退する。しかし、これは慶喜の配慮であることを大久保から聞かされ、駿府に留まる。
 篤太夫はパリで学んだ知識を生かし、武士と商人が力を合わせて商いを営む「商法会所」を設立。駿府藩でお茶の栽培から手掛け、財政改革に乗り出す。
 一方、箱館では、成一郎は土方らとともに新政府軍を相手に決死の抵抗を続けていた。

・篤太夫、新政府に出仕(同年10月)
  新政府から大蔵省への出仕を求められた篤太夫は、東京へ向かう。篤太夫は、大隈重信を訪ね、早速辞任を申し出るが、大隈は「なぜ今新政府に、君が必要なのか」と立て続けに話しかけられ、篤太夫は完全に言い負かされる。
 一方、慶喜は、ようやく謹慎を解かれ宝台院を出た。慶喜は、「自分のことは忘れて日本のために尽くせ」と篤太夫に最後の命を下す。

        【大隈重信(大倉孝二)】   【大久保利光(石丸幹二)】
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・改正掛(かいせいがかり)立ち上げ
 名前を”篤太夫”から元に戻した栄一は、同年11月、明治政府大蔵省に出仕し,各省の垣根を超えた特命チーム“改正掛(かいせいがかり)”を立ち上げ、杉浦 譲や前島 密を静岡から呼び寄せる。
 改正掛は、租税の改正、貨幣や郵便制度の確立など、新たな国づくりのため邁進するが、旧幕臣の活躍を快く思わない大久保利光(石丸幹二)をはじめとする一派との対立が生まれる。
 そんな中、栄一は、久しぶりに惇忠と再会し、富岡製糸工場の初代場長として、事業の立ち上げを託した。更に、戊辰戦争で投獄されていた従兄弟の喜作の出獄を引き受け、養蚕製糸事業調査のためヨーロッパ視察に送り出した。
               【富岡製糸工場】                                                【第一国立銀行】
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・廃藩置県の断行(1871年、明治4年7月)
 大阪に出張した栄一は、五代友厚(ディーン・フジオカ)と出会う。栄一は、これまでの恨み言を云うが、カンパニーを立ち上げて日本の商業を魂から作り変えたいという五代の話に共感する。
 一方、新政府の首脳会議では、突然、西郷隆盛が「まだ戦がたらん」と声を上げる。井上 馨は、「廃藩置県を断行」との意思表示と理解し、栄一たちに極秘の任務を託す。残された時間はわずか4日…。そして、冬のある日、帰宅した栄一のもとに、父・市郎右衛門の危篤の知らせが届く…。
 栄一たちの活躍により廃藩置県が断行され、政府には財源が確保される。或る日、大久保利光がやってきて、軍事費に年700万円が必要と云う。渋る栄一は、利光から突然解任され、これからは民間事業の発展が大切であると考える。

・第一国立銀行の発足(1873年、明治6年)
 栄一たちは、日本で初めての銀行づくりに乗り出した。早速、豪商の小野組、三井組に協力を依頼するも難航。民間の合同によって銀行をつくりたい栄一と、独自に銀行をつくりたい三井は対立し、番頭の三野村利左衛門(イッセー尾形)と熾烈(しれつ)な駆け引きを繰り広げる。その頃、富岡製糸場の操業を始めたい惇忠は、工女が集まらないことに悩んでいた。西洋式への誤解から、「生き血を取られる」と噂が立っていた。誤解を解かねばならない惇忠は、娘のゆうに伝習工女になってほしいと頼み込む。

【五代友厚(ディーン・フジオカ】【三井組;三野村利左衛門(イッセー尾形)】 【岩崎弥太郎(中村芝翫)】
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・栄一、窮す
 1874年(明治7年)、第一国立銀行の大株主である小野組が、放漫経営で倒産する。小野組に無担保で多額の貸しつけをしていた第一国立銀行も、連鎖倒産の危機に陥る。さらに、三野村利左衛門(イッセー尾形)率いる三井が、この機に乗じて第一国立銀行を乗っ取ろうと図るが、栄一は被害を最小限に留め、三井組による独占を避け、自ら頭取になる。
 一方、喜作は、主要な輸出品である蚕卵紙(さんらんし)を値崩れさせようと企む横浜の外国商館が、口裏を合わせて買い控えを始めたことに憤慨していた。

・激論、栄一と弥太郎
 1878年(明治11年)、栄一は、伊藤博文の依頼で、商人たちが業種を超えて手を組むための組織、東京商法会議所を作り、商業の発展をめざした。
 一方、栄一は、東京にはびこるホームレスを救済するため、明治7年から福祉事業の養育院(明治5年設立)に関わっていた。千代は、その養育院を初めて訪れ、身寄りのない子供たちの寂しげな姿に心を打たれ、世話をしたい思いを強くする。
 そんな中、栄一は岩崎弥太郎(中村芝翫)から宴席に誘われる。栄一と弥太郎は、商業で国を豊かにしようと意気投合するが、弥太郎の独裁的な手法を巡って激論、意見は真っ向から対立し、会合は物別れに終わる。
 
・米人のもてなし
 1879年(明治12年)、アメリカ前大統領・グラント夫妻の来日が決まり、栄一たちが民間を代表して接待することになった。
 栄一は、夫人同伴が当たり前の西洋流を採り入れようと、千代(橋本 愛)やよしにも協力を願い出る。そこに、大隈綾子や井上武子ら政財界の婦人も加わり、西洋式マナーの習得に悪戦苦闘する。官民あげた歓迎は順調に進むが、数日後、グラントが“渋沢家に行きたい”と言い出す。渋沢家では、千代が中心になって、グラントを歓迎するため、大慌ての準備が始まった…。

・栄一、三菱に対抗
 栄一は岩崎弥太郎が率いる三菱の独占に対抗するため、東京風帆船会社を設立するが、弥太郎の新聞を使った巧みな攻撃に遭い、開業前に敗北してしまう。
また、養育院も東京府から税金負担により事業縮小を迫られ、新しい課題に悩む栄一。
 その裏で弥太郎は着々と事業拡大を進める。
 そのころ、長女・うたの縁談が持ち上がり、意気投合した二人は結婚する。処が、渋沢家が幸せな空気に包まれる中、千代が突然病に倒れてしまう。

 1882年(明治15年)、再び岩崎弥太郎に対抗するため、政府の命により、三井の資本も入れた海運会社・共同運輸会社が設立される。
 しかし、栄一は、千代を亡くし憔悴(しょうすい)していた。その様子を見かねた知人らの勧めで、栄一は伊藤兼子(大島優子)と再婚する。
 共同運輸と三菱が熾烈(しれつ)な乗船賃の値下げ競争を繰り広げ、両社消耗していく。この中、突然、弥太郎が病に倒れる。これ以上の争いは不毛と、五代友厚は、栄一と弥太郎の弟・岩崎弥之助との間を取り持ち、和解する1884年(明治18年)。これは、三菱と三井の戦いであった。

・栄一の気がかり
 1889年(明治22年)、栄一を初め旧幕臣たちが集まり、徳川家康の江戸入城三百年の節目を祝う「東京開市三百年祭」を開催。昭武らと再会し、旧交を温める。一方、栄一の気がかりは、”幕府を捨てて、逃げたとの汚名”を被ったまま静岡でひっそりと暮らす慶喜(草彅 剛)のことだった。 
 一方、渋沢家では、息子・篤二が、跡継ぎの重責から逃れるかのようにある過ちを犯してしまう。栄一は、篤二を退学させ謹慎を命じる。
  1894年(明治27年夏)、日清戦争が起こる。 戦争には、莫大な戦費がかかることを栄一は知り、驚く。

・民間外交
 1902年(明治35年)栄一は、ホワイトハウスでルーズベルト大統領と会談。日本の軍事面のみが注目され、経済への評価がまだまだ低いことを痛感する。
 
 1904年(明治37年)、 日露戦争が勃発。財界の代表として戦争への協力を求められた栄一は、公債購入を呼びかける演説を行う。その後、病で倒れてしまう。 栄一の見舞いに訪れた慶喜(草彅 剛)は、“生きてくれたら、自分のことは何でも話す”と、涙ながらに語りかける。 やがて、病もよくなり、
戦争にも勝利し、ポーツマス条約が結ばれるが、賠償金が得られず、或る日、栄一は暴漢に襲われる。栄一は、このとき、ハッキリと「今の日本は、経済が伴わず、 軍部だけが増大した張りぼてだ。私が目指したものは何だったのか?」この矛盾に気づき、つぶやく。
 その後、栄一たちは、慶喜の功績を後世に伝えようと、伝記の編纂(へんさん)を始める。

   1909年(明治42年)、アメリカでは日増しに排日の機運が高まっていた。実業の第一線を退いた栄一(69歳)は、日米関係を改善しようと妻・兼子と渡米する。特別列車で全米60の都市を巡り、民間外交に奔走する。
 しかし、その道中、長年の友、伊藤博文(山崎育三郎)暗殺の知らせが飛び込む。一方、渋沢家では、篤二(泉澤祐希)が愛人を囲い、再び問題を起こす。責任を感じた栄一は「長男 の廃嫡」という苦渋の決断を下す。そんな中、慶喜の伝記の編纂(へんさん)は大詰めを迎え,
栄一は慶喜から「生きながらえ、君と歩んで楽しかった!」との意外な言葉を聞かされる。
【米国で
の民間外交】カルフォルニアにての演説   【徳川慶喜への訪問】
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   1921年(大正10年)、老年(81歳)になった
栄一は、ワシントンの軍縮会議に合わせて再び渡米し、移民問題など悪化した日米関係の改善に尽力する。一方、栄一の後継者として、決心をした孫の敬三(笠松 将)は、銀行員となり、経験を積むため渡英する。
 そんな折、関東大震災(大正12年)が発生。周囲の心配をはねのけ救援の最前線に立った栄一は、内外の実業家に寄付を呼びかけ資金を集める。また中国にも目を向け、水害に対し、栄一はラジオにより募金協力を呼びかけるが、満州事変(1931年、昭和6年)が勃発。救援物資は受け取りを拒否されてしまう。それでも栄一は、病床から自らの思いを伝えつづける。栄一;91歳没
 【関東大震災】                 【渋沢栄一家のファミリ】
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【追記】
 渋沢栄一が、少年時代を過ごした江戸時代末期を振り返ってみる。
 江戸幕府の統治は、封建制度の下で”士農工商”と身分が分けられ、百姓による米作り中心の年貢が、主な財源であった。百姓の栄一は、役人の年貢取り立ての横暴さに、”理不尽である”と腹を立てている。
 その後、幕府が鎖国制度を敷いていた処、ペリーが来航し、更にアヘン戦争により清国が敗れたことで、国内の状況は一変し、志士たちの間で”尊王攘夷思想”がもてはやされ、倒幕運動がおこる。栄一たちも”この世の中を変えねばならない”と、志士気分で江戸へと、更に京都へと旅立つが、訳あって徳川家の幕臣となる。1866年
 そして、財務に優れた栄一は、徳川慶喜に認められ、パリ万博に慶喜の弟・昭武の随行で参加する。1867年
 このパリで、栄一は近代化されたパリに驚愕する。更に、証券取引所を見学し、債券の仕組みを教わり、帰国する。栄一が帰国したときは、明治元年11月。徳川幕府は、薩長連合に倒され、明治政府に代わっていた。しかも慶喜は、静岡にて謹慎中。その後、栄一は、慶喜と面談を果たし、慶喜の勧めで、”世の中にパリで学んだ知識を活かせ”と諭される。
 そこで、栄一は、先ず静岡藩で試みた後、新政府に招かれ、国造りに必要な租税・貨幣・郵便等の新制度を発足させた後、民間へ移り、銀行の創業を始め、鉄道・造船・電力・保険・ホテル・ビールなど500社をこえる事業に取り組み、日本経済の基盤を造った。更には、生活困窮者の養育院など福祉事業、日本赤十字社など医療、学校の設立にも尽力した。
 
  渋沢栄一が心の基盤にした考えは、「政治は仁(じん)を伴わなければいけない」という論語の教えであった。著書として、「論語と算盤」が残されている。算盤とは、経済のことで、世に経済ばかりが発展しても、必ずそれに伴って貧困者が生ずる。政治は、この者たちを如何に救うかであると説いている。
 
  渋沢栄一は、このように”仁の心”を以って,日本の産業基盤を創る偉業を残したことから、現在、一万円札の裏面に値する人望篤い人物であると云える。

 

 

 

 

2021年12月25日 (土)

107.大河ドラマ「渋沢栄一;青天を衝け(前編)

令和3年12月5日(金)
 今年、コロナ禍第3波による緊急事態宣言が1月初め発令される中、NHk大河ドラマ「青天を衝け」が2月中旬から始まった。春には第4波、第5波が立て続けに発令。夏は東京オリンピックの開催が危ぶまれたが、無事開催された。秋には、コロナ禍も一応収束を迎え、大河ドラマは、無事12月末を以って終了した。

 このドラマは、「日本資本主義の父」と称される”渋沢栄一”の生涯を「吉沢亮」主演の、激動の幕末から新しい時代の明治末までを描いたもの。ここに、小生なりにドラマをまとめ、振り返ってみた。

【渋沢栄一(吉沢亮)】      【栄一の生家(埼玉県深谷市)】
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〈ドラマ前編〉
・栄一の故郷
 天保11年(1840)、栄一は、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)で、養蚕と藍玉作りを営む農家の長男として生まれた。
 少年期;父の市郎右衛門(小林薫)と江戸へ行き、江戸の華やかさに驚くと共に、父から商売の手ほどきを受ける。その年、藍葉の不作により、栄一は自ら藍葉の買い付けに行き、窮地に陥った父を援ける。更に、栄一は、仕事に励み、藍の品質を高めるため、よい藍を作る村人に褒賞を与える妙案を思いつき、商売の基礎を学んだ。

 そんな中、16歳のとき、父・市郎右衛門の名代として、多額の御用金を申し渡された栄一は、その理不尽さに、「この世は何かおかしい」と感じ始めた。

【父:渋沢市郎右衛門(小林薫)】【母:渋沢るい(和久井映見)】 【故郷の藍畑】
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・ペリーの再来航(1854年、嘉永7年)
 当時、江戸では、ペリーの再来航が迫り、混乱していた。水戸斉昭(竹中直人)は、次期将軍候補と見込まれ、一橋家の養子となった息子・慶喜(草薙剛)に優秀な家臣をつけようと、変わり者の平岡円四郎(堤真一)を小姓に据える。このとき、遂に日米和親条約が締結され、開港のうわさは、血洗島にも届き、江戸幕府に疑問をもっていた栄一の従兄弟の尾高惇忠(尾高家の長男;田辺誠一)たちは、愕然とする。

 その頃、栄一は、惇忠に薦められた本で、清がアヘン戦争で如何に英国に敗れたかを知ることになり、開国した日本の未来を危惧するようになる。     
 【一橋慶喜(草薙剛)】    【平岡円四郎(堤真一)】   
 Img_8046  Img_8048           

・栄一の青年時代
 栄一は、尾高家の長七郎や喜作と共に剣術の稽古に励み、「百姓だって、世の中を変えるため、何かが出来るはずだ」と意気込む。そして、長七郎は武者修行のため、江戸へ向かった。

 一方、従兄弟の惇忠から漢学を習っていた栄一は、惇忠と共に信州・上州へ藍売りの旅に出かけ、漢詩を詠みながら山道を歩く中で、自分の真の思いに気づき、そして、佐久の聳え立つ山頂で、「青天に衝く」思いに至る。旅から帰った栄一は、1858年(18歳)のとき、前から想いを寄せられていた千代(尾高家の娘;橋本愛)と結婚する。

【千代(橋本愛)】         【佐久の山頂;青天に衝く】
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・桜田門外の変(1860年、栄一20歳)
 一方、幕府の方針を尚も受け入れない水戸斉昭は、暴走するようになり、老中・阿部正弘と藤田東湖(水戸斉昭の側近)は、斉昭をいさめる。そんな中、大地震が起こり、藤田東湖は死去する。

 江戸では、大老になった井伊直弼が、「日米修好通商条約」を結ぶが、調印違勅だと大問題に発展する。井伊に意見した慶喜や斉昭に処分が下され、蟄居が命じられる。ここに”安政の大獄”と呼ばれる苛烈な弾圧が始まった。
しかし、その井伊直弼は、桜田門外の変で水戸藩氏に暗殺され、斉昭も突然死去する。

・栄一、志士になる
 暫くの間、栄一は新婚生活が続くが、その後、江戸から戻った長七郎に感化され、尊王攘夷の考えに傾倒され、喜作に続いて、自分も江戸へ行きたいと父・市郎右衛門に懇願する。
 一方、幕府では、井伊直弼に代わり、老中・安藤信正が孝明天皇の妹・和宮の降家を進めていた。しかし、この幕府の方針は、尊王攘夷派の志士に火をつけた。
 念願がかない江戸へ来た栄一は、尊王論者・大橋 庵を紹介され、老中安藤の暗殺計画を知ることになる。
長七郎は、その計画のため、命を捨てる覚悟を決める。

・横濱焼き討ち計画
 血洗島に残る惇忠は、自らの手で攘夷の口火を切ろうと、横浜の外国人居留地の焼き討ちを発案する。
 心を動かされた栄一は、武器や仲間を集めはじめる。処が、江戸で栄一と喜作(従兄弟;高良健吾)は、役人に追われる羽目になり、その場をボロ屋に引き込み窮地を救ったのは、円四郎(堤真一)であった。

円四郎は、一橋家に仕える気はないか?と勧めるが、栄一たちは、断った。
血洗島に戻った栄一は、惇忠らと高崎城乗っ取り計画の準備をしていた。
【尾高惇忠(田辺誠一)】 【渋沢喜作(高良健吾)】
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・栄一の旅立ち
 そこに京都から長七郎が戻り、涙ながらにこの計画の無謀さを訴える。
計画を断念した栄一と喜作は、再起をはかるため、村を離れ、京都へ向かうことを決意する。
一方、謹慎を解かれた慶喜は、13代将軍・家茂の後見職となるも、島津久光らから「一刻も早く攘夷の決行を」と迫られていた。

・京の都へ(1861年、栄一21歳)
 栄一と喜作は、江戸で円四郎からのご証文を受け取り、無地に京都へたどりつく。
 京都では、朝廷が参与会議を開始し、薩摩藩が国政に影響を持ち始める中、「一度、全てを捨てて、新しい世の中をつくろう」と語る松平春嶽に、慶喜は怒りを募らせる。
 その後、慶喜は、薩摩藩が天皇に信頼の厚い中川宮を取り込んでいることに気づき、その場にいた島津久光らに”天下の大悪党”と云い放つ。
 一方、栄一からの文を読んだ長七郎は、京都へ行くことに決意する。処が、道中で誤って飛脚を斬ってしまい、捕らえられる。栄一の文も見つかり、幕府から目をつけられた栄一と喜作は追い詰められる。

・栄一と喜作、武士になる
 栄一と喜作は、円四郎と出会い、円四郎の計らいで、慶喜と謁見し、一橋家に仕官することになり、幕府の追手から逃れた。
 栄一と喜作は、武士となり、「篤太夫(とくだゆう)」「成一郎(せいいちろう)」と、名を授かる。
 篤太夫の初仕事は、摂海防御(せっかいぼうぎょ)の要職につく薩摩藩士の隠密調査だった。そこで、出会った西郷吉之助(博多華丸)から「先の時代が読める優秀な人材ほど、非業の死を遂げる」と聞かされた篤太夫は、円四郎の行く末を心配する。

 【栄一と喜作、名字を授かる】       【西郷吉之助(博多華丸)】
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・恩人暗殺
 水戸藩では、藤田東湖の息子・藤田小四郎が、攘夷実現のため、天狗党を率いて挙兵していた。
 篤太夫と成一郎は、円四郎に命じられ、一橋家の兵と家臣を募るべく関東へ出向き、かつての同志たちに出逢い、兵を集め始める。
 血洗島では、惇忠と平九郎が水戸騒動に係わった嫌疑で連行され、惇忠は牢に繋がれる。
 一方、京都では、土方歳三ら新選組が、池田屋を襲撃した。攘夷派志士の怒りを買い、禁裏御守衛総督の慶喜と側近・円四郎に向かい、円四郎に悲劇が襲う。

・天狗党、京をめざす
 円四郎の命が奪われたことを江戸で知り、篤太夫と成一郎は、衝撃を受ける。
そのとき、京では、慶喜が自ら指揮を執り、御所に迫る長州藩兵と戦っていた。そこに、西郷吉之助が薩摩藩兵を率いて加勢する。1864年の禁門の変である。 
 篤太夫は、集めた兵を率いて慶喜の兵として、京へ向かっていた。そこへ水戸では、耕雲斎と小四郎らが率いる天狗党が、慶喜を頼って京をめざした。成一郎は、慶喜から密書を耕雲斎に届ける。耕雲斎は降伏を決めるが、幕府では処刑を行い、悲劇で幕を閉じる。
 一橋家をもっと強くしなければと云う思いにかられた篤太夫は、一橋領のある備中に向かい、ここでも兵を集めることに成功する。

・勘定組頭になる渋沢篤太夫
 亡き円四郎から「おまえは、己の思う道を進むように」と諭された篤太夫は、一橋家を財政面から支えることを思いつく。篤太夫は、一橋家の木綿の売り方を変えることで価値を高めることに成功し、更に商売を盛んにするため、紙幣の流通にも取り組む。
 勘定組頭に抜擢された篤太夫は、財政面から一橋家を支えようと決意する。

 遂に幕府は、2度目の長州征伐へ進む。しかし、密かに薩長同盟を結んだ長州を目に大苦戦。そんな中、大坂城で指揮を執る将軍家茂が倒れる(1866年)。

・青天の霹靂
 家茂が亡くなった。慶喜が徳川宗家を引き継いだことで、篤太夫は、幕臣となった。一方、薩摩の大久保一蔵は、公家の岩倉具視と共謀し、大政復古を画策していた。
 或る日、篤太夫は、パリ万博に参加する慶喜の弟・昭武の随行でフランス行きを打診され、その場で快諾する。一方、慶喜は、第15代征夷大将軍に就任する。
 篤太夫は、慶喜から昭武の未来を託され、その後、横浜で勘定奉行・小栗忠順と対面し、このフランス行きに秘められた重要な目的を知らされる。
 
・篤太夫、パリへ
 パリへ到着した篤太夫たちは、早速万博国際博覧会(1867年)の会場を視察する。蒸気機関車やエレベータなど最先端の西洋技術を目の前にして度肝を抜かれる。しかし、日本のブースには、薩摩の紋が掲げられていた。薩摩の五代(ディーンフジオカ)とモンブランが裏で手を組み、幕府と薩摩は同格の政府であると風聞が流れる。
 そんな中、昭武は、ナポレオン3世の謁見式に出席し、堂々と慶喜の名代としての役目を果たす。そのころ、日本では、慶喜が次々と幕政改革を進めていた。
【ナポレオン3世謁見の昭武】
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 フランスからの借款は消滅したが、篤太夫が資金繰りに奔走し、昭武は留学を続けていた。家庭教師ヴィレットの考えに従い、篤太夫たちは、まげを落とし、刀も外し、洋服を着ることにした。

 同じ頃、日本では、西郷が軍備を整え、岩倉と大久保が大政復古への動きを進めるが、慶喜は先手を打って政権を帝に返上してしまう。
 一方、血洗島では、篤太夫の養子になった平九郎が、江戸へ向かっていた。

 篤太夫や昭武が、パリで新年を祝う中、幕府から書状が届く。「慶喜が政権を朝廷に返上した」との文面に一同混乱をするが、篤太夫は、昭武の留学費用を捻出すべく、更なる節約を講じる。
 そんな中、篤太夫は、エラールに連れられ、証券取引所を案内される。債券の仕組みを教わり、一人一人の小さな力が合わさり、この世を変えられることを知り、新たな決意を抱く。

その時、日本では、成一郎、惇忠、平九郎は、政府軍と戦っていた。

・篤太夫、帰国(1868、明治元年11月)
 帰国した篤太夫は、横浜で共にパリに行った友と再会する。そこで、成一郎、惇忠、平九郎のその後を知らされる。成一郎は彰義隊を編成するも、すぐに分裂し、振武軍として戦うが敗戦。平九郎は死去し、成一郎は、箱館へ向かったと云う。 頭の中で整理のつかない中、篤太夫は故郷・血洗島へ戻った。
つづく

2021年10月25日 (月)

106.我が家の楽しい保存食づくり         

コロナ禍の一年、我が家にて、漬物を初めとした保存食づくりを行ったので、紹介する。

1.小梅の甘酢漬け     令和3年6月15日
6月頃になると、我が家の山畑の梅の木に小梅が1~2kg程たわわに実をつけた。この小梅を用いて、甘酢漬けに挑戦してみた。

作り方
〈レシピ〉    容器;  ガラス容器2L
   小梅1.5kg、酢 900cc、砂糖90g、塩30g
① 小梅を水洗いし、楊枝でヘタを取り、一晩新聞紙の上に寝かせて水切りをする。
② ガラス容器をアルコールなどで消毒し、その中に、小梅を入れ、その後、酢、砂糖、塩を入れて、甘酢液をなじませる。
③ 新聞紙でガラス容器を覆い、被せて、発酵を促し、室内の片隅にて保管する。
一週間程待つと食べられます。

【小梅の甘酢漬け】 3ケ月経過
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〈評価〉
 甘酢漬けは、塩漬けに比べて、初心者でも簡単に保存する行うことが出来るので、重宝な保存法であると思った。それに塩分量が、少なくてすむので、健康的であり、しかも美味しく、いいことづくめであった。


2.ミュウガの甘酢漬け    9月12日
夏も後半、9月に入ると、ミュウガ畑の地面には、花が咲き始める。このミュウガを一斉に収穫したが、その量が余りに多いので、甘酢漬けをすることを思いつき、試みたので、紹介する。

【ミョウガ畑】
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作り方
〈レシピ〉   容器;タッパ2個
 ミョウガ1kg、酢700cc、砂糖350g、塩60g、酒60g、みりん少々
① ミョウガは、土がついているので、3回程、よく水洗いし、ザルにとり、水切りをする。その後、新聞紙の上に広げて、一晩乾かせる。
② タッパに、酢、砂糖、塩、みりんを入れて、よく混ぜて甘酢液をつくり、その甘酢液の中にミョウガを浸して、冷蔵庫に保存する。
③ 一週間程経つと、食べられるようになります。

【水洗いしたミョウガ】                【1カ月半、漬け込んだ甘酢漬け】
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〈評価〉
 初めて、作ってみたが、美味しく出来上がった。甘味は、好みがあるので、もう少し砂糖を加えても美味しい。


3.栗の甘酢漬け  10月22日
 山畑に一本の大栗がある。今年秋には、この木にたくさんの実をつけたので、コロナ禍の中で、友人と栗拾いを行った。楽しい思い出になった。
 さて、小生、この栗をどう保存しようかと考えていたところ、渋皮つき栗の甘酢漬けを思いつき、試作を行ったので、紹介する。

【2カ月冷凍しておいた栗】
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作り方
① 保存液は、ミュウガの甘酢漬けの保存液を活用し、タッパの中に一部流し入れる。好みで、砂糖を適当に加える。
② 水洗いした栗を鍋で8分程茹でて、10分程蒸らす。
③ 蒸らした栗は、皮が柔らかくなっており、包丁で鬼皮をむく。次に荒い渋皮を適当にむいて、①の甘酢漬け液に漬け込む。
④ 2日程漬け込むと、食べられるようになる。

【少し渋皮が残った栗の甘酢漬け】
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〈評価〉
 栗の甘酢漬けは、保存が効き、美味しく食することができるので、お茶やコーヒーの友とし、活用できる。
 また、今後、栗を活用したデザートも作ってみたい。

 

2021年10月 3日 (日)

105. 趣味の果実ジュース・ゼリーづくり         

今年の夏は、1年遅れの東京オリンピックが開催され、それに伴い人流が増え、第5波のコロナ感染による緊急事態宣言が出され、大変な事態になった。
 それは別として、夏もお盆を過ぎると、厚さをしのぐに、何やらジュースやゼリーが、欲しくなってくる。そこで、小生、栽培している果実などを活用して、各種ジュースやゼリーづくりに励んでみたので、紹介します。

1.コーヒーゼリー(2~3人分)  
 先ずは、インスタントコーヒーを使って、簡単でさっぱりしたコーヒーゼリーを作ってみました。 
1)作り方
〈レシピ〉 水;300cc、インスタントコーヒー;中さじ1杯半、砂糖;20~30g、ゼラチン;1/2袋(3g)
① 鍋に水、インスタントコーヒー、砂糖、ゼラチンを入れ、よく混ぜて、加熱・沸騰させる。
② その後、型容器にコーヒーゼリーを入れて粗熱をとった後、冷蔵する。
③ ガラス容器に冷やしたゼリーを盛り付け、生クリームをかける。

【コーヒーゼリー】
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(評価)
 小生、日本画を月に2回程善通寺市民センターに通っている。そのとき、小休止のおやつタイムに互いに持参したお菓子を交換する。小生を除く者は、先生を含め全てが、4人程の女性軍である。彼女らの舌に合わせたゼリー味は、甘く(砂糖の量を多く)て、柔らかくトロリ(ゼラチン量を減らす)としたレシピであると思った。
 当日、90ccのプラスチック容器に入れたコーヒーゼリーを5個程、アイスノンで冷蔵しつつ持参し、女性陣に試食してもらった。結果は
、女性陣、皆美味しいと云ってくれた。最後に一言、もう少し大きいゼリーが、食べたかったと。それにしてもよかった!


2.赤しそジュースとゼリー
夏も後半、夏バテ予防のため、庭に自生している赤しそを使って、赤しそうジュ―スを作り、これを元に、ゼリーを作ってみました。

1)赤しそジュースの作り方
〈レシピ〉 赤しそ(3本)葉、水1,000cc、砂糖100g、酢50cc
① 大きめの鍋に水を入れて沸騰させ、予め水洗いした赤しその葉を加えます。
② 再度沸騰したら、中火にして15分程煮だします。粗熱が取れたら、ザルで液をこし、更にザルの上から押し付けて、絞る。
③ こした液を鍋に戻し、砂糖を加えて、弱火で加熱する。砂糖が解けたら粗熱をとる。
④ 酢(小生の場合、スダチ酢)を加えて混ぜ、冷蔵庫で冷やす。
(注) 残った赤しそは、鍋で醤油、砂糖、みりんなどを加えて、甘辛く煮詰め、最後に山椒を加えて、佃煮やご飯の友を作る。

【自生している赤しそ】             【赤しそジュース】
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2)赤しそゼリーの作り方(2~3人分)
〈レシピ〉 赤しそジュース300cc、砂糖30g、ゼラチン2/3袋
① 鍋に赤しそジュース、砂糖、ゼラチンを入れてよく混ぜ、加熱・沸騰させる。
② 粗熱がとれたら、冷蔵庫に入れて、冷やす。
③ ガラス皿にゼリーを盛り付け、生クリームを垂らす。今回は、その上にアクセントにヤマモモをのせた。
 【赤しそゼリー】
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(評価)
 赤しそゼリーは、口当たりがサッパリして、残暑対策が望まれる夏から秋に向かう季節には、最適であった。

3.ブルーベリージュースとゼリー
 今年の夏も7月初旬から8月中旬まで、甘酸っぱいブルーベリーがたくさん採れたので、この果実を利用して、ブルーベリーの香りのするゼリーを二三試作してみた。今回は、食べたとき、口のなかにザリが残らないゼリーを紹介する。
 1) ブルーベリージュースの作り方
 〈レシピ〉 ブルーベリー100g、 水300cc
鍋にブルーベリーと水を入れ、加熱沸騰させた後、取り出したブルーベリーをフキンでこして、紫色のブルーベリー果汁(330cc)を抽出する。
 
【ブルーベリーの実】                【フキンでこした処】
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 2) ブルーベリーゼリーの作り方(6人分)
〈レシピ〉 ブルーベリー果汁300cc、砂糖25g、アンコ6個
 ① 鍋に、温度が下がった1)のブルーベリー果汁、砂糖、ゼラチン1袋(5g)を加えてよく混ぜ、80に加熱したら、火を止めて、温度が50以下に下がるまで待つ。
 ② プラスチックの容器に、アンコ6個を入れて、その上にゼリー液を流し入れる。  あら熱がとれたら、冷蔵庫に入れて固める。

【ブルーベリー果汁のゼリー】
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(注)プラスチック容器に、ブルーベリー液を流しこむ時は、容器の変形を防止させるため、ゼリー液の温度が、50に下がった処で、流し入れる。

(評価)
 このゼリーは、口にザリは残らず、あんこが甘くておいしい。
ブルーベリーの実をそのまま使用するときは、ブルーベリーの香りと甘味が引き立ってくる。
 なお、ゼラチンを1袋(5g)も入れると、ゼリーは堅くなった。少し柔らかい方がよいのではと感じた。

4.スダチジュースとゼリー
9月に入ると、鮮やかな緑色のスダチが樹に実るようになった。この新鮮なスダチを使って、さっぱりした味のスダチジュースを作り、これを元にスダチゼリーを作ってみました。 

 1)スダチジュースの作り方(3人分)
〈レシピ〉 水300cc、スダチ果汁45cc、砂糖30g、ハチミツ15g
① 予めスダチを輪切りにして、これを圧搾し、絞ってスダチ果汁を作る。
② 鍋に、水と砂糖を入れ、加熱・沸騰させる。火を止め、温度が少し下がった処でスダチ果汁を加えてよく攪拌する。
③ 粗熱が取れたら、冷蔵庫にて冷蔵する。
④ 飲むときには、カップにスダチジュースを注ぎ、好みによりハチミツを適宜加える。

【スダチジュース】
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2)スダチゼリーの作り方(2~3人分)
〈レシピ〉スダチジュース200cc、砂糖20g、ゼラチン1/2袋
① 鍋にスダチジュース、砂糖、ゼラチンを入れ、よく混ぜて、加熱・沸騰させる。
② その後、型に入れて粗熱をとり、冷蔵する。
③ カップに冷やしたスダチゼリーを入れ、生クリームを垂らし盛り付ける。

【スダチゼリー】
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(評価)
 スダチジュースは、この暑い夏を乗り越えるのに、ちょっと甘酸っぱく、ビタミンも豊富でよい飲み物です。また、これを元に作ったゼリーは、食べると、トロトロして柔らかく美味しい食べ物になりました。


5
.スモモ酒ゼリー
 10月になった。今まで色々試みてきたゼリーは、その折り、小生が通っている日本画教室へ持ち込み、休憩時間に先生・生徒さん達5名程に食べて頂いている。これらのゼリーも度重なってくると、色あせ、
またかとの気配を感じるようになった。
 そこで、最後のゼリーづくりとして、今年初めて作ったスモモ酒(104、我が家の果実酒づくり参照)をベースにゼリーを作ってみました。

スモモゼリーの作り方(6人分;90ccカップ*6個

〈レシピ〉スモモ酒150cc、水400cc、砂糖40g、紅少々、ゼラチン1袋
① 鍋にスモモ酒、水、砂糖、紅、ゼラチンを入れ、よく混ぜて、加熱させ、沸騰すると直ぐに火を止めた。
② 鍋を火から降ろし、40℃以下になるまで粗熱をとり、プラスティック製カップに注ぎ、スモモを入れて
冷蔵する。


【スモモ酒ゼリー 】

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(評価)
 色鮮やかなスモモ酒ゼリーが出来た。早速、日本画教室の先生・生徒さん達に食べて頂いたところ、甘酸っぱいスモモがよかったのか、皆さんから、最高に美味しいとの評価を頂いた。小生、この酒は、35度の貯蔵酒を使っており、水で3倍に薄めたとは云え、10度を越える酒濃度である。小生、ちょっと心配になり、「このゼリーは、高濃度の焼酎で作っているので、全部食べずに半分程度にしてくださいね!」と念を押していたが、女性陣達、大虎であったのである。食べ終わってケロッとしていた。半分食べ残した小生は、子猫であった。

6.カボチャ入りスモモ酒
ゼリー
 11月になった。スダチ小生、先月のスモモ酒ゼリーに気を良くし、スモモ酒をベースにして、カボチャゼリーを作ったので、紹介する。

 カボチャゼリーの作り方(4人分;90ccカップ*4個)
〈レシピ〉 カボチャ30g、スモモ酒60cc、水230cc、砂糖35g、ゼラチン1/2袋
① カボチャを一口大にカットし、皮をむいて、レシピで3分程加熱する。
② 鍋に水、スモモ酒を入れ、更に砂糖とゼラチンを加えて、よく混ぜながら加熱する。
③ チンして蒸した熱いカボチャ、および②のゼリー液を、共に50~60℃程度に下げて、ミキサーに入れて、滑らかになるまでミキサーにかける。
④ プラスティック製カップ に流し込み、ヤマモモを浮かべ、カップ表面の泡をスプーンですくい取り、粗熱をとり、冷蔵する。

【カボチャ入りスモモ酒ゼリー 】
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(評価)
 再び、日本画教室の先生・生徒さん達に味を聞いたところ、生徒さんの一人から「表面はカボチャ味だったが、中身はトロトロの甘いゼリー味で、甘すぎる事無く、よく出来ている。」のお褒めの評価を得た。

【おわりに】
 最後に、コロナ禍の中、今回果汁ジュースやゼリーを色々作ってみて、気晴らしとなり、この夏を乗り越えることが出来、満足している。
ここに、小生ならびにカミさんが、今回、美味しいと感じたゼリーの基準的な配合をここに示す。
 水、砂糖、ゼラチン=100g、10g、1g(柔らかめ)~1.5g(堅め)
なお、ゼラチンの配合は、1g(柔らかめ)が、1.5g(堅め)よりも美味しく感じました。
(注)ゼラチン1袋=5gとした。

 

 



 

 

 

2021年7月18日 (日)

104. 我が家の果実酒づくり      

我が家の山畑も果実を植えてから、10年も経つと、レモン、ビワ、スモモ、キュウイ、梅等の果実が毎年たわわに実をつけるようになった。
 そこで、呑み助の小生、この果実を食するだけでなく、保存の効く果実酒をつくろうと、昨秋から焼酎(ホワイトリカー35%)を用いた果実酒の作成を試み始めた。その成果として、先ず先ずの果実酒が出揃ったので、そのレシピと一部評価を紹介する。
.レモン酒、2.おいしい梅酒、3.小梅の甘酢漬け、4.ビワ酒、5.スモモ酒、6. ヤマモモ酒、7.キュウイ酒
 なお、果実酒のリカーおよび基本的な配分比率は、次のとおり。
    果実  氷砂糖  ホワイトリカー35%
     1  :  0.5   :  2
【ホワイトリカー35%】               【氷砂糖】         
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.レモン酒
 令和3年2月16日;漬け込み
 〈レシピ〉          容器;5L
   レモン(13ケ)     1.3kg
   氷砂糖          440g
   ホワイトリカー35%   2.7L
  【レモン酒】





  〈作り方〉
  ① ビン容器にホワイトリカーを少々入れて、ビンを横に転がし消毒する。
  ② レモンの皮をむき、袋に入れる。実は3つに輪切りして準備する。
  ③ 容器にレモンの実、氷砂糖を交互に2~3回程入れた後、レモンの皮を網袋ごと入れる。最後にホワイトリカーを加える。
  ④ 1週間経つと、油脂成分が多いレモンの皮は、網袋ごと取り除く。
  ⑤ 3カ月経つと、レモンの実を取り除く。(5/23)
  ⑥ 6カ月経つと、レモンの脂くささが無くなり、飲み頃になる。
 〈評価〉
  前年、令和2年にレモンの皮ごと輪切りにして、3カ月間保管して、作成した。このときには、レモン酒中に残された皮中の脂成分が、3カ月間の保管中にアルコールへと溶け出し、脂くささが、鼻につき美味しいとは、思わなかった。
 今年、作成したレモン酒は、レモンの皮は1週間で取り出し,脂成分の溶出を控えた。このためか、3カ月後には、脂くささが抜け、レモンの苦味も相まって美味しく感じるようになり、小生、病みつきの酒になった。飲み頃になる6カ月も待たずして酒は、無くなった!

2.おいしい梅酒
 令和3年6月3日;漬け込み
 〈レシピ〉          容器;5L
   青梅           1.5kg
   氷砂糖          1g
   ホワイトリカー35%   2.8L
  【梅酒】
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  〈作り方〉
  ① ビン容器にホワイトリカーを少々入れて、ビンを横に転がし消毒する。
  ② 青梅のヘタをとり、水洗し、ざるに上げて、一夜干して乾かせる。
  ③ 容器に梅と氷砂糖を交互に2~3回程入れた後、ホワイトリカーを加える。
  ④ 6カ月経つと、青梅は熟成され、飲むことができる。

  〈評価〉1年程待つと、飲み頃の甘酸っぱくスッキリした梅酒になるとのこと。待てるかな?

.小梅の甘酢漬け
 令和3年6月2日;漬け込み
 〈レシピ〉         容器;4L
   小梅           1.5kg
   酢(今回は、すだち酢)  1.4L
   三温糖          500g
   塩             40g
  【小梅の甘酢漬け】
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  〈作り方〉
  ① ビン容器にホワイトリカーを少々入れて、ビンを横に転がし消毒する。
  ② 小梅のヘタを竹串(ようじ等)で取り除き、水洗い後、一夜干しする。
  ③ 容器に小梅と三温糖、塩を交互に3回に分けて入れた後、酢を加える。 
  ④ 新聞紙で光を遮断して保管する。
     1日2回、容器をゆすって混ぜる(2~3日間)。
     3日程で、食べられる。
  ⑤ 1カ月程で、なじんでくる。
 〈評価〉
  甘酸っぱい小梅が、3日も経つと食べることが出来ます。甘い梅が食べたい方は、三温糖の量を増やしてください!
  甘酢漬けの小梅を食して、この暑い夏を乗り切ろう!


.ビワ酒
 令和3年6月12日;漬け込み
 〈レシピ〉           容器;4L
   ビワ            1.0kg
   氷砂糖           450g
   ホワイトリカー35%    2.0L
  【ビワ酒】
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  〈作り方〉
  ① ビン容器にホワイトリカーを少々入れて、ビンを横に転がし消毒する。
  ② ヘタをとったビワを洗い、紙で水気と産毛をとる。
  ③ 容器にビワ、氷砂糖の順で交互に2~3回程入れた後、ホワイトリカーを加える。
  ④ 1週間程、暗室にて保存し、ビン容器をゆする。このとき、浮いたビワ、色の変わった異常なビワは、取り除く。
  ⑤ 3カ月程、保管。
 〈評価〉
   3カ月経てば、飲むことが出来ます。ビワ酒は初めてなので、呑み助の小生には、9月が待ち遠しい限り!
   ビワの糖度が、低いので、氷砂糖の比率を高めにしました。


.スモモ酒                          
 令和3年6月12日;漬け込み                
 〈レシピ〉          容器;6L
   スモモ          1.8kg
   氷砂糖          1.0kg
   ホワイトリカー35%   3.6L
  
【スモモ酒】
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  〈作り方〉
  ① ビン容器にホワイトリカーを少々入れて、ビンを横に転がし消毒する。
  ② スモモを水洗いし、ヘタをきれいに取り出して準備し、新聞紙上で一晩陰干しする。
  ③ 容器にスモモ、氷砂糖の順で交互に2~3回程入れた後、最後にホワイトリカーを加える。
  ④ 暗室で保管し、氷砂糖が溶けるまで、1週間程ビンをゆする。浮いたスモモは、取り除く。
  ⑤ 3カ月保管。
 〈評価〉
    スモモ酒は、朱色鮮やかく、サワーな果実酒の感じ。スモモは、少し酸っぱいので、氷砂糖の比率を高めにしました。この暑い夏を乗り切るには、9月を待たずに、8月頃から早くも試飲をしそう!

 
. ヤマモモ酒
 令和3年6月26日;漬け込み
 〈レシピ〉          容器;4L
   ヤマモモ         1.1kg
   氷砂糖          500g
   ホワイトリカー35%   2.0L
  【ヤマモモ酒】
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  〈作り方〉
  ① ビン容器にホワイトリカーを少々入れて、ビンを横に転がし消毒する。
  ② ヤマモモを水洗いし、ヘタをきれいに取り除いたうえで、新聞紙を敷き、陰干しする。
  ③ 容器にヤマモモ、氷砂糖を交互に2~3回程入れ、層をつくった後、最後にホワイトリカーを加える。
  ④ 暗室で保管し、氷砂糖が溶けるまで、1週間程ビンをゆする。浮いた浮いたヤマモモは、取り除く。
  ⑤ 3カ月程、保管すると、飲み頃になる。
 〈評価〉
  甘くて、しかも少し酸っぱさのあるヤマモモを果実酒にしました。味は、少し甘めのフルーツ酒になると、思います。
 女性に人気がありそうな果実酒です。 


7.キュウイ酒
 【たわわに実ったキュウイ】
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 令和2年12月28日;漬け込み
 〈レシピ〉          容器;4L
   キュウイ(皮なし)    1.0kg
   氷砂糖          300g
   ホワイトリカー35%   1.8L
  
【キュウイ】緑色は、皮をむいたキュウイ
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  〈作り方〉
  ① ビン容器にホワイトリカーを少々入れて、ビンを横に転がし消毒する。
  ② キュウイの皮をむき、大きいものは、半分に切って準備する。
  ③ 容器にキュウイ、氷砂糖を交互に2~3回程入れた後、ホワイトリカーを加える。
  ④ 暗室で保管し、氷砂糖が溶けるまで、1週間程ビンをゆする。浮いたキュウイは、取り除く。
  ⑤ 1カ月後に、キュウイは取り出し、容器表面に浮いたゴミは、フキンでこしとる。
  ⑥ その後、2カ月程、保管すると、飲み頃になる。

 〈評価〉
 キュウイのほのかな香りと少し酸味が加わった味のするキュウイ酒であった。氷砂糖は控えめが、味を引き立てるので、よいと思える。
 また、キュウイ酒をつくった後のキュウイは、コーヒーとともにお楽しみください。

9月末になれば、今回6月に漬け込んだ果実酒らが、飲み頃になり、楽しみである。待ち遠しいかな!待ち遠しいかな!




 

 

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