作業所で働く女性Ｈ様は、ふたつの古箱に貯金をしている。一つの古箱には「自分のため」と書かれてあり、一つの古箱には「人のため」と書かれてある。先日、Ｈ様から「一年間で貯まったお金が五千円あるので、いつも記事を読ませていただいている御礼に、このお金をお渡しさせてください」と言われた。自分の生活だけでも精一杯のはずなのに、どうにかお金をやりくりして、欲しいものを我慢したり、食べたいものを我慢しながら、一生懸命に貯めた五千円だ。これは、ただの五千円ではないと思った。自分のためではなく、誰かのためのスペースを用意して、土壌を整え、種を撒き、水を与え、真心の花を結実させたＨ様を美しいと思った。

年末から喉の調子が悪く、言葉を発するだけで痛みを伴う。徐々に喋ることができなくなり、見舞いに来てくれた人に「ありがとう」と言えない。見舞う人は、病状をわかってくれているから何も言わない。気持ちはあるのに言葉にできないことが、これほど苦しいことだとは思わなかった。最後の最後、文字通り血を吐くような思いで「ありがとう」と口にした時に、はっと思った。この世の中には、自分の気持ちを言葉にする時に、毎回、毎回、血を吐く思いでやっている人がいる。誰もが当たり前にできることを、身を削り、命を削り、血を吐く思いでやらなければいけない人がいる。彼らの口数は少ないが、口数の少なさは思いの弱さではない。むしろ、口数の少ない人ほど、強い何かを抱えている。血を吐く思いで口にされた「ありがとう」は、ただのありがとうではないと思った。

これをやっている時間だけは、自分は間違っていないと思える。そんな、確かな時間の使い方がある。私の場合は、家の掃除をしている時、道端のゴミを拾っている時、手紙を書いている時、花を配っている時にそれを感じる。勘違いかもしれないが、今、自分はいいことをしている。真善美における善に触れることができている。勘違いだとしてもいい。確かな時間の使い方が、自分をギリギリ人間に保ってくれているように感じる。油断をすると、自分のことばかりを考えてしまう。確かな時間の使い方は、自分の意識を外側に向ける。自分以外のものを大事にしている時、同時に、自分を大事にしているように思う。大事なものを大事にできているという実感が、自分を支えているのだと思う。

本を読むことや歌を歌うこと、散歩をすることに支えられてここまで来た。病気になると、それをすることができなくなる。本も読めない。歌も歌えない。散歩をすることもできない。一時的に、喜びの全部が失われてしまったように感じる。横になりながら、誰かの話を聞きたいと思った。小さなこどもが親に「お話を聞かせて」とお願いをするような感じで、ラジオではなく、生きた人間の物語を聞きたいと思った。あなたの人生の話を聞かせてください。喋ることは無理でも、耳を傾けることならばできる。筆談ならばできる。電話をすることはできないが、手紙のやり取りをすることならばできる。花を配ることはできないが、今、満開を迎えた水仙を押し花にして届けることならばできる。共に生きるということが「互いに必要とする」ことならば、誰かを必要とすることができる。

病床の男が言うことではないかもしれないが、ふたつの古箱を用意することを、これを読んでくださっている方々にお勧めしたい。物理的にも、精神的にも、自分のためと人のための二つの古箱を用意して、片方だけではなく、両方を満たすような生き方をする。ささやかでいいから、両方の古箱を満たす時間を過ごすことができた時に、私たちは「いい一日を過ごした（いい人生を過ごした）」と思えるのではないだろうか。見舞いを必要としている人が身近にいる時は、見舞いに行く。見舞いを必要とする状況に置かれた時は、見舞いを必要とする。強さを必要とする気持ちと同じくらい、弱さを必要とする。他者を必要とする。自分のための古箱だけではなく、人のための古箱を必要とする。誰かを必要とすることは、多分、甘えではない。必要としてくれる人間がいなければ、人は、人と繋がることができなくなる。私たちの中にある弱さが、儚さが、人と人を繋ぐのだと思う。