母の亡くなった日のことは自分のために毎年書いています。だから同じ話を聞きたくない方はスルーしてくださいませ。
六年前の今日、母は私と一緒に泊まっていたホテルの隣のベッドで亡くなっていました。
死んでいることに気づいたのは午前七時ごろでしたが、四時頃トイレに起きた時暗がりで見た時も同じ姿勢で寝ていましたから、この時間には亡くなっていたと思います。
私を愛して愛して愛し抜いてくれた母でした。
思い出せば涙が溢れてきます。
私の着る服は全て母の手作りで、いつも可愛い格好をさせてくれていました。
私達が子供の頃は既製品も十分ありませんでしたから、下着も全部母の手作りでした。
夏になればキャラコという木綿を買ってきて当時はシミーズと呼んでいた今のスリップも作ってくれました。
中学生になると茶道を習わせてくれて、お金はなかった筈なのに、中振袖を作ってくれて、お正月の初釜の時には着せてくれました。
余談ですが、私の娘の成人式の時の振り袖も母が作ってくれました。
大事にされましたが、干渉も凄かったことは否めませんでした。
教育熱心でもありましたから、教育ママでもありました。
が、当時から少し難聴になりかけていた私は母の期待をするような大学に進学することができませんでした。
それが未だに私の劣等感の源であり、母への申し訳なさです。
私が、みなみさんやそらママのような優秀な娘であったなら、母はどれだけ幸せであったことでしょう。
が、残念ながら、そうではありませんでした。
その意味でも、みなみさんやそらママさんのお母様は幸せな方でしたね。
母は晩年になると私と兄と三人で手を繋いで一緒に死にたいと言っていました。
一緒に死ぬことは適いませんでしたが、入院中の母が外泊許可を得て私と一緒に泊まっていたホテルの部屋の私の隣のベッドで死んだことはほんの少し希望が適えられたでしょうか?
安らかな死だったと思います。
母の命日である今日は一日、この母のことを思って過ごそうと思います。
★なにしても芽の出ぬ娘のこのわれを愛して愛して愛しぬきたり
★死ぬときも一緒に死なうと言ひをりし母は死にたり六年前に
★母の死後六年生きてきたりしが母のゐぬ世は早く出でたし
★わたくしがもつと優秀なればとぞ思へど遅しと思ふ命日
★東大を卒業されたみなみさん国家公務員のそらママさん