レフちゃん~後編
翌日、いつものようにレフちゃんを取り出した。レフちゃんは何もわかっていないのか忘れてしまったのかいつもどおりうれしそうだった。
それが更に僕の気持ちを陰鬱にさせた。あんなことがあったのに何もわからないようなイモムシに感情移入していた自分が急に情けなく思えてきた。
僕は遊ばないでそのままフタを閉じて机にしまった。
レフちゃんとはもう遊ぶ気にはなれなかった。
僕はレフちゃんを捨てることにした。
長女に引き取って貰おうとして、いつも長女たちが現れていた部屋の隅に放して自分はその場を離れた。
しかしレフちゃんはすぐさま僕を追いかけてきてしまう。長女もあんなことがあったからか、呼びかけても決して出て来はしなかった。
しかたなく近所の草むらに放すことにした。そこが実装石にとって適切かどうかを考えたわけではない。ただ緑色だから。それくらいだった。
しかしここでも同じだった。
レフちゃんは離れていく僕を必死に追いかけてきたのだった。
慌てて降りようとする余り、のっかっていた葉っぱからわずかな高さを落ちただけで怪我を負いながら。
もともと憎くて捨てるわけではない。レフちゃんが何かをしたわけでもない。
ここまでされてはそのままにして帰れなかった。
レフちゃんを家に連れて帰ったものの、かといってもう以前のように夢中になって遊ぶことはなく、ただ適当に世話をするだけだった。
糞の処理もいい加減になり箱はみるみる汚れていく。レフちゃん自身も汚れてくるので更に遊ばなくなる。
そしてとうとう箱を開けることはなくなった。
レフちゃんのこと、実装石のことはもうとにかく考えたくなかった。
ずっとあとで箱をあけたら死んでくれていたらそれがいい、と無責任にも思うようになっていた。
ある日学校から帰ると、母に呼ばれた。きつい調子から何かお説教なのはすぐにわかった。
母の元にいくと、レフちゃんの箱が置いてあった。僕は胸がチクリとするのを感じた。
「あけなさい」
母の声は鋭かった。僕は何も言うことは許さない空気を感じ取り、黙って箱を開けた。
箱をあけると信じられないくらいの量の糞の中にレフちゃんがうずくまって動かなくなっていた。
予想を裏切る光景に驚きながらも、よかった死んでた…そう思った。しかし母は
「こうやって殺すつもりだったの?こいつはこんなことではなかなか死なないの。それにいくら害虫でもこんな無意味な殺生はいけない」
母は経緯を問いはしなかったが、レフちゃんに対する処遇を責めた。
母がいうには、子供部屋を掃除しようと入ったら僕の机に登ろうとしている仔実装石をみたとかで、何があるのかと見てみたら机の中からこれがみつかったと。
その仔実装石は片耳の頭巾が破れているやつで、母をみると一目散に逃げたとか。
長女だ。
おそらくその時間はいつもの母はパートに出かけていたので油断したのだろう。そうまでして今や最後の1匹になった妹を取り返したいのだろうか。
だがそれなら何故呼びかけに応じない?一時は毎日遊んでいたのにそれほどまでに信用を失っていたことを今更ながらに確認したようで沈んだ気持ちになった。
「道理であれからも食べ物の袋が破れていたり糞がみつかるわけだ」
母はそういうと
「この蛆は母さんが役に立てるから貰うね」
そう続けた。僕はだまって首を縦に振るしかなかった。
そんな話をしているうちに動かなかったレフちゃんが僕に気づいた。
糞だらけだったが、なぜか血色はよく、僕をみると大層うれしそうにした。
母が割り箸でレフちゃんをつまみあげると、レフちゃんは久しぶりに人間に構って貰えるからか身をよじって喜んだ。
母は用意した捨てるようなぼろいタッパーに少しの水をはり、そこにレフちゃんを入れて割り箸で洗う。
レフちゃんはおそらく生まれて初めての水浴びに、大興奮だった。
僕はといえば、これから何が始まるのか想像もできず、そういえばレフちゃん水浴びさせたことはなかったな…そんなことをぼんやり思ったのだった。
「子供のころはよく釣り餌に使ったのよ」
母は田舎の農家の子供だった時分のことを話しながらタッパーの水を変えて、そのへんの調味料やらなんやらを混ぜていく。
「でもね、こいつはものすごく脆くて、どれくらい元気に長生きさせるかが大物を釣り上げる肝なの」
できあがった怪しげな水に母は優しい手つきでレフちゃんを漬ける。
レフちゃんはとても気持ちよさそうな表情になった。
「これで何を釣るの?」
僕がそうたずねると母はクスリと笑い
「妹思いの実装石よ」
そう答えた。
母は竹串を手に取り、背…その尖っていない方で裸のレフちゃんのお腹をあちこちつついた。
力加減が絶妙らしく、レフちゃんは恍惚の表情になった。
竹串の背が、ある箇所を突いたときにレフちゃんは電気に打たれたような反応をした。
痛かったのだろうか?そこはダメだと抗議しているようだった。
そのとき、母は持っていた竹串を指先でくるりと回した。
竹串の尖ったほうがレフちゃんの胸に突き刺さった。やわらかなレフちゃんの薄い皮膚を簡単に破り竹串はするすると入っていく。
極楽からのいきなりのことにレフちゃんは声もあげられない。
レフちゃんの胸から背中まで貫いた竹串がためらいもなく真下に引き下げられると、柔らかな肉は抵抗なく裂けていく。
さっと水に真っ赤な血と大量の糞が広がった。
竹串が下まで達し、レフちゃんの体を胸から真っ二つにした。
水にあふれる血。糞。レフちゃんの体の中から何かキラリと光るものが落ちて、タッパーの底へと沈んだ。
母は手馴れた様子でそのキラキラする石ごとタッパーの水を牛乳瓶の空き瓶に移し、今度は長めの竹串をもってきてまるで串焼きにするようにレフちゃんの裂けた腹から通して口からでるように貫いた。
牛乳瓶にレフちゃんの竹串を挿し立てると、ひび割れてゴミになっていた水槽の真ん中に置く。
そして少しの工作を加えて、それは完成した。
それはワナだった。長女を捕まえるための。
しかし長女は賢い。こんな見え見えのワナにひっかかるほど愚かとは思えない。
「食べ物のワナでひっかからないような賢いヤツはね、こういうワナが効くの」
こんなのでひっかかるワケないと僕が主張すると、母は
「そのときは実装バ○サン焚くから」
母が何がなんでも実装石を一掃する腹積もりであることがよくわかった。
ワナは長女を見た場所ということで、子供部屋の僕の机の足元に設置された。
「手出し無用だからね」
母は釘を刺した。僕と実装石たちの関係におおよそ感ずいていたのだと思う。
レフちゃんが僕をみて弱弱しくちっちゃな手を必死に伸ばしてくるのが痛々しかった。
翌日、学校から帰ってくると、長女がワナの前に立っていた。
意を決している、といった趣で。
そして僕に向かって一所懸命という様子で話しかけ、どこで覚えてきたのか土下座をした。
レフちゃんを返してほしいと言っているのだろうことは、考えるまでもなかった。
これがワナで、自分の手にはおえないことをわかった上でのことだ。長女はやはり賢い。
しかし手出し無用の母の言葉が僕の頭に響いた。
僕は首を横に振った。
すると長女は服を脱ぎだし、その服を僕のほうに差し出してまだ土下座をする。
確かに長女のもっている財産といえばそれくらいしかないのはわかる。
しかしそんなものを貰っても…
すると今度は自分の髪を全て引き抜き、まだ土下座をする。
髪は確か二度と生えないのではなかったか。それくらいは知っていた。
長女の不退転の覚悟は伝わってきた。
しかし母との約束を反故にはできない。
僕はダメだ、と首を横に振った。
長女は僕に助けて貰えないとわかると、ワナの階段を不器用そうに登っていく。
ほとんど死んだようになっていたレフちゃんも、長女の呼びかけにかすかに応える。
水槽のフチまで達すると、とどくわけがないのに長女は手を伸ばす。レフちゃんも手を伸ばした。それ以上進むのが危険なことをよく理解しているようだった。
しかしそれでは全くとどかない。
長女は水槽のフチに足を掛け、不安定な格好で手を伸ばす。レフちゃんまであと少しだがやはりととどかない。
適当に作ったふうにみえるワナの大きさが実は実装石の大きさをよく知った上でのものだと僕は知った。
止むを得ず長女は牛乳瓶と水槽のフチをつなぐビニールテープに手をかけ、おそるおそる前と進む。
手がついにレフちゃんにとどく。レフちゃんは差し伸べられた長女の手を握り、小さな声で鳴いて助けを喜ぶ。
しかしワナはやはり絶妙だった。長女がビニールテープに掛けていた体重で牛乳瓶のバランスが崩れた。
牛乳瓶が倒れ、長女は水槽の中に落ちた。
長女がレフちゃんを竹串から抜いてやると、レフちゃんはいくらか楽になったらしい。
そしてレフちゃんを抱えて水槽のフチにジャンプを繰り返した。
倒れた牛乳瓶を足がかりにもしてみていたが、自分ひとりでの脱出でも無理そうなことをレフちゃんを抱えてでは到底叶わなかった。
中に落ちたら助からない、そして多分落ちる。
それは長女にもはじめからわかっていたに違いない。だからこそあれほどまでに真剣に僕に頼んだのだ。
脱出不可能であることがわかっていたからなのか長女はあまり熱心に脱出を試みることなく諦め、レフちゃんを抱えて座り込んだ。
腹の裂けたレフちゃんが長女を心配そうに見る。
長女は水槽の底に座り込み、小さな声で泣き出した。
はじめて仔実装らしく。
この1匹がほんとうに長女だったかどうかはわからない。でも4匹のリーダーとして大きさの違わない姉妹の前でずっと頑張ってきたことはわかる。
なまじ賢かったが故に仔実装らしく生きることができなかったのかもしれない。
とにかくワナは完璧だった。
それからも声を殺しながら長女は泣き続けた。何時間経ったころだろうか。僕は決心をして水槽の底から2匹を拾い上げた。仔実装の泣きまねにひっかかっただけなのかもしれない。しかし、何もかもが母の思惑どおり進むことが悔しかった。そして三女の事故からここまで傍観者のように事態を見ているしかなかった自分の非力さになんとしても抗いたくなった。
この瞬間、僕はひとまわり成長したとはっきりと思う。
拾い上げられた2匹は遂に殺されると思ったかひどく震えていたが、髪は無理だったが長女の服を返し、手元の駄菓子のケースを使って怪我をしたレフちゃんと、おやつをいれるカゴを作ってやると僕の意図がわかってきたのか落ち着いてきた。
レフちゃんのケースには水槽の底の水を少しと例のキラキラする石を入れておいた。理屈はわからなかったがあれほど重傷だったレフちゃんが今でも生きているのはそれに理由があるのだろうと思ったのだ。
2匹を以前にレフちゃんを放そうとした草むらに放した。長女とレフちゃんは僕を見上げなにやら話しかけてきた。もちろん意味はわからない。
「いいから早く行け。うちはバ○サン焚くから二度と戻ってくるな」
そう言い含めた。
通じたのかどうかわからないが、長女は一礼して草むらに走り去った。
これでこの事件は終わった。そう思った。
家に戻ると、僕は水槽を倒し、長女の逃亡を装った。
およそ一週間後、母は予告どおり実装バ○サンを焚いた。
僕はほくそえんでいた。長女とレフちゃんはまんまと逃げおおせたのだ。僕の勝ちだ、と。
燻煙が終わり、部屋に入る。各自の部屋の確認ということで僕は子供部屋に入った瞬間、声をあげた。
そこにはいないはずの長女の死体が転がっていたのだ。僕は混乱した。いや、長女のはずがない。そう思いよく見ると片耳の頭巾が破れてる。
間違いない。長女だった。
傍らには僕が作ってやった駄菓子のケースが倒れて中にいれてあったらしい花がこぼれていた。
そしてそこから赤と緑の線が机の上まで続き…
机の上でレフちゃんが倒れて死んでいた。
レフちゃんのお腹の傷はほどんど治っていた。
小さな手には紫の小さな花が握りしめられていた。
この一件についての僕自身の気持ちについては今でも定まらないくらいなので語らないでおく。
ただ僕はこれ以降「昆虫博士」の名を返上し、これが実装石に関わった最初で最後の経験になった。
以後も家に何度か実装石が涌いたことがあったがそのどれもが簡単な罠で駆除され、僕はそれらになんの感慨も持たなかった。
<おしまい>
あとがき
前作蛆剥きがシチュエーションだけの作品だったので、ある程度ストーリーのあるものを書いてみようと思って挑戦してみました。
ご精読ありがとうございました。
通勤
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