雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの工場におられた近藤さん

2024-01-11 05:59:21 | カワサキワールド

★昨日の午後、突然カワサキバイクマガジンを片手に、
 かってカワサキの明石工場の最終組み立てラインにおられたという
 近藤正己さんが我が家を訪ねてこられた。


  


  カワサキのバイクに乗って、カワサキのジャンパーをお召しの、
  マスクまでカワサキのまさにカワサキマンである。

  カワサキバイクマガジンには近藤正己さんのバイク組み立てラインの取材記事が大きく載っていた。
  先方は私ブログなどもお読みになって、私をよくご存じなのだが、
  私は全く記憶もなくて、多分間違いなく初対面だったのだが、井稔男さんなどもご存じのようだった。

  頂いた名刺には、全日本交通安全協会認定・二輪車安全特別指導とあったので、
  私はカワサキ安全運転本部長を務めたこともあり、
  平井さんも安全運転指導課長の時もあったから、
  その頃、お会いしているのかも知れない。

  兎に角、最近は本当に何もかも忘れてしまっているのである。


   
  

 

★ 私のブログはお読みになっているようで、
  先方はよくご存じなのだが、残念ながら、私は近藤さんを想い出すことが出来なかったのである。

  釣りがお好きなようで、大きなヒラメを釣ったとかで、
  その写真も見せて頂いたのだが、お土産にヒラメの切れ身地卵などを頂いたりした。
  早速、ヒラメの刺身を夕食に頂いたが、
  ヒラメの刺身をこんなに沢山いただいたのは初めてのことで、美味しかった。

  それにしても、明石にお住いのようだが、バイクで我が家を探して、
  わざわざ来て頂いたのは有難いことである。
  ほんの15分程度の立ち話の雑談に終わったのだが、
  写真が撮れたのがよかった。
  わざわざお見えになったのに、何のお構いも出来ずに失礼した。

  ひょっとして、このブログもお読みになるかも。
  せめてもの私の御礼状である。
  近藤さん、わざわざ有難うございました。
  ヒラメ、美味しくいただきました。


  
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 庭   雑感

2024-01-10 06:27:56 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私はなぜか庭には関心がある。
  家庭とは、家と庭とあるので庭は大きな要素だと勝手にそう思っている。
  
  庭いじりなども好きで樹木の選定など『切る』ことも好きなのだが、
  高齢になって梯子に上るのが危ないとなると、
  登らなくてもいいように、庭木のほうを低く切ってしまったりする。
  庭の景観を保つというよりも、自分のやりたい行動のほうを優先する。

  そんなことで今の我が家の庭の景観はこんな感じで

 


 手入れはそれなりにするのだが、

 


  いまはみんな樹は低くなるように天を切ってしまっている。
  そう言う意味では、あまり他では見られない庭になっている。

   


  この2年ほど『』に興味を持って、
 『』を植えたので、今では土が全然見えなくなった。
  苔庭にしてからは、小さな草も念入りに抜くので
 「庭には草が生えていない」と言えるかも知れないレベルになっている。


★この正月には、孫の古谷仁が来てたのだが、
 彼は『』には興味があって、いろんな庭を観に行ったり、
 庭の専門家ともお付き合いがあるようなのだが、
 その辺は、私とは全く異なる。

 私は『私独自のもの』を大事にしたいと思っている。
 その最たるものが私の駐車場である。

 この写真は、昨日孫が写して、庭の専門家に見せた写真だが、

  


お解り難いかも知れぬが『T字型の池』になっていて
奥にはカランや菖蒲を植えてるし、水連もあるから、駐車場と言うより
庭の感じなのである。
 T字型の池を造ってもクルマを止めるには何の支障もないし、
 周囲は石積みにしてるので車がない時は全くの庭になる。

 これは庭も池も好きだった私独特の発想で、多分日本にこんな駐車場があるのは、我が家だけに違いないのである。


★庭には興味のある孫・古谷仁がツイッターにこんなのを載せてたが、
 有名な園芸家先生に褒めて頂いたりした。


   


  人と『ちょっとだけ変わった生き方』がしたいと思って生きてきた。
  私の人生での一つの目標は『差別化』なのである。

差別化』に出会たのは、現役時代広告宣伝を担当した時なのである。
  『差別化』とは、『ちょっとだけ優れていればいい』のである。


  
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私の日記から 昭和54年(1979)

2024-01-09 07:30:20 | 自分史
★ 私の人生はホントにツイてたなと思うのだが、
  その典型的な年がこの昭和54年(1979)と言えるかも知れない。
  自分の人生など、自分の力だけではなく、周囲の人たちの力で動いていくものなのだが、
  加えて、めぐりあわせ的な運も大きな影響を持っていると思う。
  それを呼び込むのは、日ごろの努力なのかも知れない。
  
 単車事業の中核であったアメリカ事業が『ハーレーダンピング問題』もあって大変な時期だったのである。
 この『ハーレーダンピング問題』が独特で、
 アメリカに於ける二輪業界経費率以上は認めないというものなのである。
 当時、国内4社で地域販社のほかに、販社本社のあったのはカワサキだけで、その構造対策をしなければ、
 カワサキだけがダンピングに引っかかるというようなことになっていたのである。
 川崎航空機工業時代の取締役カワサキオートバイ販売の社長をされていたし、重役陣も大物部長級が揃っていて、
 そう言う意味でもその経費率が高かったのである。

★この対策案が当時の企画部門を中心に検討され、
 この販社本社をなくそうとするのだが、なかなか上手くいかなくて、
 前年の10月に事業本部長から直接営業部にいたその対策案を創れという指示が出たのである。

 その私案は、従来のカワサキオートバイ販売の本社は残すのだが、
 本社の陣容は10人ほどの小規模なものにして、
 実際は単車事業本部の営業部がカワサキオートバイ販売の本社機能を持つことにして、兎に角その『経費率の縮小』を図り、ハーレーダンピング対策としたのである。
 この案で川重本社も通ったのだが、その説明時に、
 『実際は誰が旗を振るのか?』という本社側の質問に対して、
 事業本部長は『それは古谷です』と即座に答えられたのだが、
 本社の大西常務が『それなら古谷をカワ販の常務にするように』と言われて、
カワサキオートバイ販売・常務取締役と言う途方もない肩書になったのである。

 まだ若干46歳だったし、川重での職位は課長だったのだが、
 国内販社グループ約400名の指揮を執るという、とんでもないことになったのである。

★カワサキの国内販売の総帥と言う地位なのだが、
 当然ながら年上の方はいっぱいおられたし、
 カワサキオートバイ販売の前社長ほか重役陣も直接経営にはタッチされなかったが、顧問軍団として残られたので、
 その対応だけでも大変だったのである。

 ただ、本当にツイていて、この年にあのFX400が発売されたのである。
 DOHC4気筒車で、この車がカワサキの初めての量販ヒット商品だと言っていい。

  
 


 それまでにもZ1/Z2などヒット商品はあったのだが、
 その販売台数ではこの車がカワサキにとって初めての国内市場量販ヒット商品となって、
 当時のカワサキオートバイ販売には、10億円に近い累損があったのだが、
 この車のお陰でそれもすべて2年ほどで消去出来てしまったのである。
  
★ この当時、このカワサキオートバイ販売については、
 その新しい形を川重本社が認可したということもあって、
 私は本社の大西常務に毎月報告に行っていたのだが、
 この年末辺りには、販社の損益もどんどん改善されて、累損も減っていくのである。
 従来はかっての川崎航空機の役員さんが社長をしても上手くいかなかった販社なのに、
 若手の私が担当してどんどん良くなるものだから、
 秋には川重専務になられていた大西さんから、
 『1年前からこうなると君は解っていたのか?』などと、
 言われたりするのだが、

 これは私の力などではなくて、すべて400FXのお陰なのである。
 そう言う意味でも、本当にツイてたなと思うのである。
 


 



 川重全体も、カワサキの二輪事業もみんな苦しい時代に、
 ひとり国内市場だけが好調だったので、本当に目だった存在だったのである。
 そんな時期に毎月の本社報告もあったりして、私の名前も本社の人達にも『売れた』そんな時期になったのである。
 これはツキ以外の何物でもないと思っている。

★ この年には息子古谷大治小野高校に進学しているのだが、
 小学生時代から始めたサッカーでいろいろと忙しかった時代で、
 私も仕事の傍ら息子のサッカーもよく観に行っている。
 小学生時代から三木選抜になったし、
 中学時代も兵庫選抜に選ばれたりしたのだが、
 高校生になると兵庫選抜は勿論、関西ユースのメンバーになったり、ベスト・イレブンに選ばれたりするものだから、
 私自身も息子のサッカーに熱が入ってた時代なのである。

 そんなことで、公私ともにホントにツイていた年だったと言えるのだろう。


  

 
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孫・古谷仁がやって来た

2024-01-08 10:56:50 | 発想$感想

★いつものことだが、孫・古谷仁は突然やってくる。
 今年も6日の夕方突然やって来た。
 いまアメリカからの孫・門野真也も来てるのだが、
 真也は大阪に遊びに行ったので、
 7日の昼は「珈琲庵珈集 青山店 」に行って


  
 

 ランチを食ってきた。




★ 彼の勤めは『株・リクルート』なのだが、
  ツイッターの自己紹介の欄には、このように記述している。

  ふるやじん |Jin Furuya
  関心は踊りと庭
  コンテンツディレクター/リクルート
  慶應SFC研究員
  ヨコク研究所外部編集員
  発酵デザインラボ「ただいま発酵中」番組ディレクターなど。

 何かよく解らぬが、いろいろやってて
 にも興味があり、我が家の庭の写真を
 Twitterに「じいちゃんちの庭」とアップしてくれたら、

  


 有名庭師山内朋樹さんと

  


 園芸家川原伸晃さんから『いいね』が届いた。






  プロの人達に『いいね』と言われて、結構、気分がいい。
  このお二人とは面識があるらしい。


★ 今朝1月8日の朝は、朝6時半から
 三木総合防災公園の芝生で、『じん』と『しん』と3人
 体を動かしてきた。


  

 
 
 古谷仁日大三高時代はサッカーをやっていた。


  


  8時前には家に戻って
  朝飯を食ったら、もう帰るというので、
  今日も大阪遊びに行くという門野真也も一緒に
  古谷仁伊丹空港まで送ってきた。

  
    


  あっという間に東京に戻ってしまったが、
  12月からちょうど1ヶ月日本に遊びに来てた門野真
  明日9日にはアメリカ戻ってしまう。

  元旦には長男の門野力也も来てて、
  賑やかだった今年の新春だが、
  明日、真也伊丹空港に送ってやれば、
  また、老夫婦二人の生活が戻ってくる。

  今年もまた、古谷仁は突然やって来て
  突然、戻って行った。
  もうすぐ、羽田に着くのだろう。
  あっという間の実質、2日間だった。
  今度はいつ来るのだろう?
  

  







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大変忙しい1日だった

2024-01-06 20:34:58 | 発想$感想

★ ほんとにいろいろと忙しい1日だった。
 朝孫と三木森林公園にトレーニングに行くことから始まった。

  


 孫がトレーニングをしている間に、森林公園の森林公園らしい山道を歩いてきた。






  なぜ三木森林公園にいたのかと言うと、
 10時にオープンするパン屋ペンギンのカレーパンを買うのが目的で、
 森林公園はその方向だったのである。


  


  三木店は昨年12月にオープンしたばかりで、
  昨日も来たのだが、カレーパンは売り切れていたので、
  それを買うことがお目当てだったのだが、
  『一人3個』までの限定販売で3個しか買えなかった。


★ 戻って来て、
 そのあと明石の菊水を予約していたので、明石まで出かけた。
 久しぶりだったが店舗は新しくなっていた。


 

 
 明石の菊水は菊水本店とのれん分けした菊水支店とがあり、
 さらにそれぞれが支店や駅前店を持っているので、
 有名すし店菊水は明石に4軒あるのである。

 昨日行ったのは西明石の菊水本店の支店だが、独立店だと言っていい。
 私が川重にいた頃からいろいろとお世話になった店である。

 12時オープンで、12時かっきりに行ったものだから、
 その時は誰もお客はいなかったが、直ぐ満席になった。
 店はそんなに広くはないので、なかなか予約も取りにくいのではなかろうか?
 久しぶりだったので店主の柏木さんと記念写真を撮ってきた。


 

 
 柏木延浩さんこんなかたである。



 

  こんな寿司の数々を、
  じっくり2時間近く掛って頂いてきた。
  孫・門野真也は初めてだったのだが、
  『旨い・旨い』の連発だった。

  明石の鯛は香りがあるというが、確かにそうである。
  やはり、明石のネタがいいのだろう。

 
  
 

★ 折角、明石まで来たので
 明石公園の明石城を観に行った。


 孫はお城など近くで見るのは初めてで、
 下からも眺めたし

  

 
 上から明石の街も眺めて、
 折角だからと、外堀に隣接している私の生地・明石市上ノ丸の実家も教えてあげた。




 
 息子のほうの孫・古谷仁が昨日突然連絡してきて、
 夕方からやって来た。


    

 

 これはアンコウ鍋ブリしゃぶで、くつろいだところだが、
 8日の朝までいるらしい。

 いつものことだが、突然やて来て、突然戻って行く。

 明日は孫・門野真也は大阪の予定でいないのだが、
 孫・古谷仁はここにいるので、どんなことになるのだろう。

 いま9時半だが、みんな寝てしまった。


  
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2024年 仕事はじめ

2024-01-06 07:49:53 | 発想$感想

★ 1月5日は世の中は2024年の仕事はじめである。
 私の「仕事はじめ」は三木総合防災公園の中をスロージョッギングすることかも知れない。
そんなことで先ずは林間広場、
朝7時半まだここは霜が降りていて結構寒かった。






そのあと中央の駐車場に車を止めて、


 


  この奥のゲートボール場を周り





 さらに東の方に移って丹生山を眺め





 
 周囲をグルーっと回ってきた。





 
 サッカーコートの周囲を回り





 さらに周回路を一周したら



 

 全部合わせて1万歩になった。
 ざっと、こんなコースを回ったのである。
 





 今年も健康のために朝のスロージョッギングは続けようと思っている。
 1万歩はなかなか大変なのだが、
 何とか7000歩ぐらいは頑張って続けたい。

 今年はホントにどんなことになるのだろう。
 体重をもう1k落として
 83k台になればもっとスムースに走れるだろう。



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ブログに画像が貼り付けられなくなってしまった。

2024-01-05 05:30:52 | 発想$感想

★「お客様の画像フォルダは容量制限に達しました。
 という表示が出て、
 画像を張り付けることが出来ない。

 そんな制限があることなど全くアタマになかったのだが、
 それにしてもよくまあ写真を張り付けたものである。

 このブログをスタートしたのは2006年9だから、
 もう18年にもなるのだが、
 一体何枚の写真を張り付けたのだろう?

 この対策はいろいろあるようだが、
 いま、孫の門野真也がが今残っている写真を消しにかかっている
 3ギガ以下になれば大丈夫だというのだが、
 消すのに何日も掛かりそうである。
 8日にはアメリカに戻るのだが、それまでに消せるだろうか?

 私は、そんなネットの仕組みには疎くて、どのようにしているのかは解らぬが、
 彼は、何とかなるというのである。

 当分、このブログも写真なしで、兎に角発信だけは続けたいと思っている。
 

 
 
  
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写真が貼れた

2024-01-03 08:26:42 | 発想$感想

写真が貼れるかな

 


  貼れるかな


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ブログに写真が使えなくなった

2024-01-03 03:06:03 | 発想$感想

★突然、ブログに写真が使えなくなった。

 『お客様の画像フォルダーは容量制限に達しました』という表示がでるのであある。
 どう対処すればいいのか?
 対処の方法があるのか?

 いま孫・門野信也がアメリカから遊びに来てるので検討して貰っているが、
 どうなるか、今のところよく解らない。

★今まではこのブログをFacebookにも転写していたのだが、
 転写したのでは写真が載らないが、
 Facebokには、勿論写真は使えるので、
 今までの逆にしたらどうなるかなどと思っている。

 突然のことなのでよく解らないのだが、
 兎に角、この写真のないブログがアップ出来ればいいのだが、
 と思っている。



 
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新しい年 2024年の幕開けは・・・・

2024-01-02 06:27:38 | 発想$感想

★新しい年・2024年の幕開けは、
 三木総合防災公園での初日の出を見に
 孫・門野哲也と三木総合防災公園に出掛けることから始まった。

   




 素晴しい初日の出だった。
 






  今年の3月には91歳になるのだが、
  体は結構確りしているので、
  今年も朝の公園でのスロー・ジョッギングは続けたい・
  






  元旦早々8000歩にはなりそうで、
  順調な滑り出しだった。

    






★ 午後はサッカーの対タイ戦などのんびり観てたのだが、
  それが済んで、一瞬この辺りでも揺れを感じて
  それ以来は、テレビ放送は全局『地震と津波』の放送に切り替わって、
  『お正月番組』など無くなってしまったし、
  大規模火災もあって、
  

 
 2034年は大変な幕開けとなり、
 新春気分などどこかへ行ってしまった。
 ほんとに、どんな年になるのだろう。



  
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明けましておめでとうございます

2024-01-01 05:42:06 | 発想$感想

 2024年・令和6年の幕が開けました。
 今年もよろしくお願いいたします。


    




   今年はどんな年になるのでしょうか?

   3月には91歳になります。
   こんなに長く生きれるとは夢にも思っていませんでした。
   お陰様で体のほうは至って元気なのですが、
   アタマのほうがついていくでしょうか?

   新年を孫・二人と家内と一緒に元気にスタートする事が出来ました。

   皆々様のご健康とご多幸を心より祈り上げます。
   
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おせち  雑感

2023-12-31 16:06:34 | 発想$感想

★今年も大晦日を迎えた。
 我が家では毎年、大晦日の夜に『おせち』を頂くことにしているのだが、

 ネットでいろいろ見ていたら、
 おせちは昔は大晦日に頂くのが正規だとあった。

 こんな風にあったので、ご紹介することにする。


 年末年始には、古くから伝わる風習がたくさんあります。
  おせち料理
 なぜお正月に食べるのか、
 重箱に詰められたお料理にどんな意味があるのか。

 年越しのお祝い料理として大晦日の夜に食べてもOK 
 「おせちという言葉は「お節句(節供)」が変化したもので、
 昔は五節句のお祝い料理すべてがおせち料理と呼ばれていました。

 そのうち、節日の中でも特におめでたいお正月だけが別格に扱われ、
 今では、おせち料理はお正月料理だけをさすようになりました。

 おせちは年神様への供え物として、五穀豊穣や健康、子孫繁栄の願いを込めて作り、
 昔は「日が暮れたら日付けが変わる」という考え方だったので、
 年越しのお祝い料理として大晦日の夕食に食べていました。 

  
  
  


  おせち料理は「めでたさを重ねる」という意味で縁起をかつぎ、
  重箱に詰めるのが習わし。 



   



  本来は五段重ねの重箱を使うのが正式で、
  各重箱に詰める料理にも決まりがあります。 

  一の重:祝い肴(黒豆・田作り・数の子)、昆布巻など 
  二の重:口取り肴(栗きんとん、かまぼこ)、酢の物など 
  三の重:鯛やブリ、海老などの海川の幸を使った焼きもの 
  与の重:サトイモやレンコンなど山の幸を使ったお煮しめ 
  五の重年神様からの福を詰める場所として空にしておく


      
  

   ネットを見ていたら、こんな5重段のおせちもあって、
   驚くなかれ、値段は165万円でした。


★ 大晦日、少しだけ賢くなった。
  今夜も『おせち』を頂いて2023年の年を越すことになる。

  皆様、いいお年をお迎えください。
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クレジットカードの不正利用の対応

2023-12-31 06:10:29 | 発想$感想

★ 2022年、クレジットカードの不正利用被害額436億円にのぼり、
 前年比で100億円以上増加し、過去最悪を更新したという。
 カード情報を抜き取る手口は巧妙さを増しており、
 誰もが不正利用にあう可能性があるといえるでしょう。

 などとネットに書かれていたが、
 実は私のカードの不正利用があったようで、
 カード会社からその旨の手紙が届き、現在のカードは破棄されて、
 1月初めに新しいカードが発行されることになっている。

    

 昨日、カード会社の窓口担当者にいろいろ聞いたので、
 今後どのような経緯になるのかも、現在はよく解ってはいる。

★ そんなことで実害はなかったのだが、
 なぜ、そんなことになったのかは全然心あたりがないので、
 ネットで「クレジットカード 不正利用の対策」が出てたので
 読んでみたが、詳し過ぎて解りにくいので、
 その理解を深めるために、ブログにアップして、
 自分のためにアタマの整理をしておきたい。



 
 
 そこにはこのような記述がある。
 
 不正利用を防ぐため、また、いち早く不正利用に気付いて被害を抑えるたの対策を知っておくことが重要とある。
 この記事でわかることは、
  • クレジットカードの不正利用の原因と手口
  • 不正利用を防ぐための対策
  • 不正利用が発覚したときの対処法 などの項目の解説が載っていた。
クレジットカードの不正利用で、最も被害額が大きいのはクレジットカード番号の盗用による被害で、
2022年の不正利用被害額の94%カード番号の盗用が原因だという。
クレジットカードが不正利用される原因は情報漏洩で、不正利用の被害が広がる背景には、
利用したネットショップなどや詐欺サイトにアクセスしたことによる情報流出などが考えられるという。

ゴルフ場や温浴施設、スポーツジムなどで、貴重品ボックスを利用した際に財布の中からカードやカード番号などの情報が盗まれる被害が起こっているとか。
スキマーと呼ばれる機器を使ってクレジットカードから抜き取ったカード情報をもとにクローンのカードを作る偽造の手口もあるとか。
私の場合も、カードそのものが盗まれるわけではないのだが、
不正利用が あったので、カード会社が止めてくれて
現在のカードを破棄し、新しいカードを創ってくれることになっているのである。

スキマーをATMのカード挿入口に仕掛けるなどの手口も報告されているとか。


    


 被害者が気付きにくい方法で情報を盗もうと試みるので、
 警戒が必要だというが、こうなると手に負えない。


フィッシング詐欺とは、実在する企業を装って、クレジットカードなどの個人情報を盗んで悪用する手法で、
 このような文面だというが、こんなメールは現実に毎日いっぱい届いている。
  • 「利用料金が未納なので、サービスを停止する予定です。マイページで利用状況を確認してください。」
  • 「クレジットカードの利用が停止されたので、再開手続きを行ってください。」

 それにしてもムツカシイ世の中になったものである。
 今回は私が見つけた訳ではないのだが、
 オリコが見つけてくれて、文書で私に連絡を頂き、
 『至急弊社までご連絡を頂きたい』との文面があったので
 連絡をしてオペレーターから懇切丁寧な説明を受けての処置なのである。

 オリコでは、不正検知システムを導入し24時間・365日体制で
 不正使用の監視を行っているようで、
 そのシステムで感知されたようである。

★ そんなことで、今までのカードは既に破棄されて使えないので、
  12月末には、定期的な支払いのあるところも落ちないのだが、
  それは何とかなるらしい。
  新しいカードが来たら、定期的な支払いのあるところには連絡を
  と言われていたので、それを忘れずにやらないといけない

  最近は、何でも直ぐ忘れてしまうので、こんなブログもアップし、
  オリコのオペレーターが教えてくれたことも、
  オリコからの文書に箇条書きしてある。

  このブログはそんなことで、
  私自身のための覚え書きみたいなものだが、
  被害はどんどん増えているようなので皆様もご注意下さい
  

 
  

















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焼肉こさる に行ってきた

2023-12-30 05:44:37 | 発想$感想

★ 三木の焼肉『こさる』は孫たちが来ると必ず行くことになっている。
 家からそんなに遠くはない立地にある。


   


 鎌倉に住んでいる息子などが来ると、兎に角「旨くて安い」と言う。

 こんな値段表なのだが、ホントに安いのだろうか?


  


 昨日は、孫二人を連れて、家内と4人行ってきた。

 注文は二人に任せたが、こんなセットが次々にやって来た。
 
  



  若いから当然かも知れぬが、
  それにしてもよく食う。

 




  
   
 こちらもお付き合いでよく食ったが、
 






  メニューには4~5名様、Bセット5980円などとあったが、
  酒など一切飲まずに、4名で勘定は14000円を超えてたようだから、
  普通の人の2倍以上を食ったのだろう。

  孫は年明け8日ぐらいまでいるようだから、
  ひょっとしたら、もう2回ぐらいお世話になるかも知れない。
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私の日記から 昭和51年(1976)~昭和53(1978)

2023-12-29 07:31:12 | 自分史

★前年の10月1日から川崎重工業単車事業本部企画室企画部に10年振りに復帰はしたのだが、
 名称は仰々しいのだが、やっている業務は大したことのない管理業務が主体で大して忙しくもないのである。
 ただ、会社の部門としてはエリートが集まる所謂『いい部門』であることは間違いなかったのである。

 当時、従来のアメリカ市場の大・中型のバイクに陰りが見えたし、
 国内市場ではホンダのロードパルが話題になって、一種の小型車ブームの時代であった。
 そんな時代背景もあって、効率的な生産設備をベースに
 小型車モペットの大量生産を目論んだ計画が進行中で、
 これを主導されていたのは本社の吉田専務と生産管理部だったのである。

 ただ、販売面の検討が抜け落ちていて、このまま進むと危ないと思ったのだが、
 本社の専務が主導されているので、直接反対もムツカシイので、
 小型車に関する考察』と言う一文を策定し、



  
 
 東南アジアのCKD事業なら大掛かりな製造設備投資など不要なので、
 市場調査を」と東南アジアの調査団を立ち上げたのである。

★この調査団は技術本部長の高橋鐵郎さんが団長で、
 開発・製造・営業からのメンバーを集め、
 まとめ役を言い出しべえの私が担当して、
 東南アジアを中心に約1か月に亘り、こんなルートで
 台湾-インドネシア―タイーイランーマレーシアーフィリッピン
 広大な地域の市場調査を行ったのである。

  
  
  
  各国の現地での販売状況や、当時の二輪車生産状況などの調査を行ったのだが、
  ホンダ・ヤマハ・スズキなどは既に進出していて、そんな工場も見せて頂いたりした。
 現地では既にバイクブームでインドネシアやタイのバンコックでは
 二輪が道を溢れるようにいっぱい走っていて、
 そんな情景を見るだけで『CKD事業進出』はGOだったのである。
  さらに、各国とも各メーカーの生産機種に限定があったから、
  後発メーカーでもその競争条件が緩和されていて、
  進出しやすい状況であったことは間違いない。

  各国の地方の販売店まで回ったので、これらの国の状況がよく解ったし、
  なかなかの観光旅行のようなところもあって楽しい旅だった。


★ただ、イランはまだ王政時代だった時代で、
 テヘランから南部のシラーズのほうまで行ったのだが、
 都会以外は全く緑のない砂漠で異様な光景なのである。

  

 
 回教徒のイラン人の発想も特異で、 
 テヘランからサヴエィには飛行機で行ったのだが、
 帰りの航空機が突然飛ばないというのである。
 『いつ飛ぶのか?』と聞いても『解らない』と言う答えで、
 ひつこく聞いたら『そんな先の話は神様の分野だ』と仰るのである。

 仕方がないので2台のタクシーに分乗してテヘランまで戻ってきたのだが、
 その道は真っすぐだが、本当に砂漠の中を走ってきたのである。
 ただ、テヘランは大都会で緑もいっぱいなのだが、
 1日に何度か山の方から水が流れてくる仕組みなのである。 

 ペルシャの市場も見てきたが、物品の値段も交渉で決まるなど、
 さらには神様への御祈りの時間があってその時間なると、
 やっていた会議など中断なのである。
 日本では考えられない世界で、おかしな国だと思ったが、
 世界でいえば、日本人よりは回教徒のほうが多いから
 『日本人の発想』のほうが特異なのかも知れないと思ったりもした。

★ こんな東南アジア調査団だったのだが、
 数か月後には市場開発プロジェクト室という新組織が出来て、
 団長だった高橋鐵郎さんが室長を兼務され、私も担当課長として異動することになるのである。
 そんなことで企画室企画課と言う非常にいいとされる部門をたった1年で自ら飛び出すような結果にはなったのである。

 市場開発プロジェクト室では、イラン・タイ・インドネシアの3か国を中心に、
 現地資本とのジョイントベンチャーを組んでの事業展開になったのだが、
 イランはその後の革命でダメだったが、
 その他の東南アジアのCKD事業は順調に推移して、台数もどんどん伸びて、
 市場開発プロジェクト室は通常の東南アジア営業部と発展して、
 最初にあった『モペットの小型車開発プロジェクト』はいつの間にか消滅してしまったのである。

 この期間、現地とのジョイントベンチャー・プロジェクトを主として担当したので、
 タイやインドネシアへなどへの海外出張も多く、英語を話すことにはなるのだが、
 英語など話したりしたのは最初の経験だった。
 ただ現地の人達も母国語ではなかったので、そう言う意味では気が楽だったし、
 タイなどでは相手が華僑なので、漢字の筆談も通用したりしたので、大いに助かったのである。

英語など全く話したこともなかったのだが、
 CKD事業と言う職場環境に出会って、話さざるを得ない環境に追い込まれたものだから、
 学生時代以来英語の勉強もしたし、私の日記も日替わりで英語で書くようにもしたのだが、これはその後数年間続いたのである。

 そう言う意味ではよく頑張ったとも言えるのである。


  

 
★この時期、会社ではこんな時期だったのだが、
 家庭では息子が中学生時代で、
 小学生の頃に始めサッカーにハマっていた時期で、
 三木は結構サッカーが盛んで、小学生時代も兵庫県で三木選抜優勝したし、
 緑ヶ丘中学校でも兵庫県大会で優勝したりして、
 兵庫県選抜にも選ばれたりもしたので、
 私自身もその追っかけに、忙しかった時代なのである。

 まだ、Jリーグもスタートしていない時期だったから、
 今のようにサッカーも盛んでもなかったのだが、
 あの釜本がヤンマー時代で彼の全盛期時代だと言っていい。

 私も40歳代の前半だったし、
 この時代の日記を読み返してみると
 公私ともに多忙だったが、なかなか楽しいいい時代だったのである。


  
 

  
 

 

 
  
 
 
 
 
コメント
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