年明け一発目の書評は、C.R.A.C.の野間易通氏による、もはや古典的名著となったかもしれない一冊です。出版が2013年ですからね。あと、図書館で見つけて意外と読んでないことに気づきました。「在日特権」に「全部デマ」以上の理解って基本的に必要ありませんから。

 ちなみに、増補版もあるのですが、図書館で借りたのはそっちではないバージョンです。調べるまで増補版の存在を忘れてました。

ゴミ箱としての「在日特権」概念

 本書は第一章で、検証の主目的である「在日特権」概念の整理と定義を試みています。が、著者はこれが骨の折れる作業だったと記しています。というのも、「在日特権」は、在特会の会長である桜井誠ですらまともに定義しておらず、その場に応じて適当に論じられる粗雑な概念に過ぎなかったからです。

 そのいい加減さの象徴は、桜井が自身の著書においてすら、「挙げればキリがない」と言いつつ代表例をいくつか挙げるだけでお茶を濁し、挙句「都市伝説的に語られてきた」と論理的に破綻したことまで書いていることです。自らがその存在を撤廃しようと試みているはずの「特権」が都市伝説とはどういうことでしょうか。また、三重県伊賀市で在日コリアンの住民税が減免されていた事例について「本当に在日特権はあった」と騒がれたと著者は指摘していますが、否定しようと躍起になっていたものが実際にあった(ように見えた)ことで驚くというのも意味不明です。

 こうした粗雑極まりない振る舞いは、結局のところ、彼らが「特権」の撤廃などどうでもよく、それを口実にして在日コリアンを差別したいだけであることの現れでしょう。

 このような振る舞いは現在に至ってもあらゆるところで見かけます。トランスヘイターはどんな犯罪もトランスジェンダーのせいにしますし、暇アノンの手にかかると共産党と公明党が同じ「ナニカグループ」の一員になります。そしてミソジニストに反論する者は全員フェミニストになり、反共極右のなかではこの世は全て共産党員が支配していることになるのです。小難しい論証をスキップし相手を軽視してよい存在だとシグナルを発する、一種の鳴き声に過ぎません。

 本書が指摘する「在日特権」概念のいい加減さを読み、思い出したのは『月経と犯罪 女性犯罪論の真偽を問う』の内容でした。この本は、かつて女性の生理と犯罪に関係があると考えられた過去を論じるものですが、そもそもかつて、月経と犯罪がどのように関連すると考えられていたかの生理と理解がかなりわかりにくいものでした。というのも、研究者によって月経中に犯罪を犯しやすくなると言われたり、月経前だったりあとだったり、無月経だったりとてんでばらばらだからです。まともな科学的議論ならまずありえません。

 こうした状況は、「在日特権」と同じく、女性を差別するという目的が先行し、目的に合わせてそれらしい議論を形作るという主客転倒を行っているために起こるものでしょう。差別主義者のやることは時代も思想も超えるのです。同じ馬鹿なので。

「在日特権」の背景にあるもの

 本書では具体的に「在日特権」の論証も行っていますが、基本的にたった1つの視点で事足りています。「在日特権」を信じ込むネトウヨは歴史的経緯を考慮する能力を欠いているということです。

 本書で論じられている「在日特権」の代表例は特別永住資格と年金問題、生活保護受給率です。これらはそもそも事実関係すらネトウヨは誤っているのですが、そこはさて置くとしても、こうした問題の全ての始まりは、もともと日本人だった在日コリアンを外国人扱いし始めたところにあります。

 サンフランシスコ平和条約に伴い、国内にいた植民地民は全て日本国籍を喪失し、外国人となりました。本来であれば、同様に植民地が独立した西欧諸国のように、植民地にルーツを持つ住民の権利をきちんと保護する政策がセットで行われるべきでしたが、日本ではそのような政策を欠き、あるいは不十分でした。そのため、内外から批判と圧力に応じ、場当たり的な、グランドデザインを欠いた改革が進んでいるというのが現状です。

 こうした状況にあって、在日コリアンの権利は確かに、その他の在日外国人に比べて有利です。が、これは比較対象が誤っています。在日コリアンは歴史上、元々日本国民だったのですから、比較すべきは日本人です。そしてもちろん、在日コリアンは現在は外国人扱いですから、日本人に優越する特権など持ちようがないのです。

下から見上げる差別

 在特会のようなヘイトスピーチの特徴のひとつは、在日コリアンのようなマイノリティの権利を特権だとあげつらい、自らを権利がないと規定したうえで、自分たちに同等の権利を付与するように主張するのではなく、マイノリティから権利を奪い取ろうとすることです。これを安田浩一氏は「下から見上げる差別」と表現しています。

 また、本書は歴史学者の酒井直樹の記述を引用し、彼らのヘイトスピーチが、資格がない者が(自分たちのような)資格のある者と同様の権利を有して「しまっている」という告発を含むもので、ヨーロッパの極右に共通するものであるとも指摘しています。

 こうした論理構造は、本書の出版から10年以上たった現在、もはや在日コリアン差別・外国人差別の枠を飛び越えていると言ってもよいでしょう。

 やはり連想してしまうのは暇アノンです。彼らの主張の1つに、都や国が女性支援だけやっているのが不平等だというものがありますが、彼らは決して支援の拡充を求めることはなく、やることと言えば支援の妨害だけです。これも、「資格のない者」と自らが一方的に規定した女性や少女の権利を奪うことで、他の「資格のない者」との「平等」を達成し、「資格のある者」である自分たちと差を広げることを暗に明に希求した在特会的ヘイトスピーチと理論的に共通するものです。

 本書は、在特会登場直前には、在日コリアンへの差別は露骨ではなくなり(陰湿になったかもしれないが)下火にはなったと関係者にも考えられていたと指摘しています。しかし、在特会がインターネットの匿名の陰に隠れて勢力を増し、90年代までに積み上げられてきた僅かばかりの改善は吹き飛びました。

 現在においても、「在日特権」など信じるのは一部の頭抜けたバカしかいないと考えられていました。杉田水脈が持ち出すまでは。杉田水脈が「在日特権」を口にした途端、まだまだ日本にはレイシストの馬鹿が大勢生き残っていることが露わになったのです。

 在特会の残した教訓の1つは、差別はあっという間にぶり返すということです。新しい年になりましたが、あらゆる差別は、気を抜かず最後のひとかけらまで徹底的に根絶する必要があります。

 野間易通 (2013). 「在日特権」の虚構 河出書房新社