『PERFECT DAYS』に対する批判めいた何か


新年早々これを見れたことがまず嬉しい。なによりも自分自身の評価軸を再確認できたから。複数の知人友人から微妙な話を聞かされながら(どれも私には合わなそうというものではあったが)、ポイントで鑑賞したこの映画だが、なんならストレートに金を払ってでも見に行くべきであった。何故なら、これが慄くべき消費者目線映画であるから。ブルーワーカーの労働を描きながら、ここまで資本主義を歓迎する映画は珍しい。いっその事、この映画にこそ金を払うべきとさえ思う。金をドブに捨てるという行為は、この映画にこそ相応しい。

少なくとも、本作の批判として多くの人が言う"広告的"という表現は全く持って間違いない。ヴェンダースは明らかかつ意図的にこの世界を閉じていて、そこに風通しの良さなど到底感じようもない。後半で、実は現実にはいくつもの世界があって、ある人と自分のいる世界は違うのだと役所広司は言うが、そのセリフはこの映画の断絶を最も顕著に示している。彼のキャラクター自体が、上流階級の抑圧からドロップアウトし、外界のものをシャットアウトしている人間であるらしいことは、映画の中で示されている。

例えば、カウリスマキ『枯れ葉』は、ラジオが中東の戦争を主人公たちの日常に伝えていたが、役所広司の部屋にはラジオもテレビもない。銭湯や居酒屋に置かれたテレビが映すものといえば、相撲や野球。彼が住む世界には、別の世界で起きている様々な事象が伝わる術がない。恐るべき閉塞である。そしてそれは資本主義に都合がいい閉塞でもある。

この映画では、読書、音楽、飲酒、スポーツ観戦と様々な娯楽が捉えられているが、多くの方がお気づきの通り、あからさまに「映画」だけが排除されている。それは「映画」が別の世界を映すものであることをヴェンダース自身が受け入れているからであろう。一瞬でも、役所広司が木漏れ日を捉えるカメラや、姪の持つスマホに「映画」を託そうとした自分は浅はかであった。

だがしかし映画以外のもの、つまりルー・リードの音楽やフォークナーの本、あるいは映されるスポーツにも、別の世界は刻まれているはずである。しかし『PERFECT DAYS』はそれらを無意識に、そして無邪気に消費する。つまり、「映画」が一切現れない事で、逆説的に「映画」が神格化されている。この映画を撮る人間が、「映画」を消費してしまえば、閉塞が失われてしまうと信じているからだ。ここまでの消費者目線と他アートへの視線には寧ろ一貫性がある。この映画は無関心を貫いている。が、「映画」に対してはそうではいられないのである。

話は変わるが、正月『東京暮色』を再見した際に感動したのは、音楽的なリズムだ。それは例えば、笠智衆と杉村春子が鰻屋で会話している場面の、四つの画角のループで成り立つ編集。この決まった固定画角のループは規則的でありながら完璧なタイミングで切り返すことによって絶妙なリズムを生成している。最早マッドリブなどの優れたヒップホップレコードを聴いているような音楽的快楽で、以前見た時よりも遥かに感動した…。

当然、『PERFECT DAYS』にそのことを求めていたかといえば、はなからそんなことはないのだが、この映画には多くの反復する事象はあれど、反復するような映像は見当たらない。このことを顕著に、私にとって『PERFECT DAYS』が無快楽であったことは言うに及ばない。別に映像的な規則や秩序が欲しいわけではなく、そのシーンから生成される外部性や超躍性を徹底して欠いているからこそ、この映画が閉じているとも言えるのだ。

徹底した閉塞の映画は、ただ一つの世界を受け入れ浸かるという点で、極めて現実主義的とも言える。私はそれが受け入れ難い。今こそ、いや今ではなくとも、寄り添いや侵食こそを、私は作品に求めたいのだが。

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