最近モヤモヤと考えていること - 政府や自治体に、もっと自律的に働いてもらうためにはどうすれば良いのか?
随分とご無沙汰しておりました。この連休中、1人でゆっくり考える機会が図らずもできたので、これまでやってきたことだったり、今後やっていきたいことだったりについてあれこれ整理していました。
そんなことをやりたいと思うくらいモヤモヤとした思いを抱えるに至ったきっかけは1ヶ月前の東京都知事選。
空虚な公約と、それによって失われるもの
結果はご存知のとおり、小池ゆりこ氏の圧勝。この選挙戦で対立候補からよく指摘されていたのは公約の実現状況でした。高らかに「7つのゼロ」を前回の選挙の際に掲げておきながら、実際に実現したのは1つだけ。とはいえ、そんなことはお構いなしに先述のとおりの圧勝。選挙特報が始まった瞬間に当選確実が出るという異例の事態。
公約なんてものは選挙戦のときの誇大広告で、誰も本当にできるなど思っていないし、できなかったところで致命傷にはならないということはこれまでもあることではあるのですが、それがまた証明されてしまった格好です。彼女をはじめ、これからも政治家諸氏ができもしない美辞麗句を並び立てるという伝統芸能は今後も続きそうです。
そういうもんだよと大人ぶって冷笑的スタンスを取るのは簡単です。しかし、このような選挙がまかりとおることによって大きな弊害をもたらします。我々住民にとっての日々の生活に関わるような行政サービスを確実かつ質の高い形で提供するといった地味なことは軽視されてしまうということ。なぜならば、そんなことよりも世間の流行に乗った(実現するかどうかなど分からない)目新しいことを言った方が評判もあがるし票も取れるからです。満員電車ゼロ、とかね。
必要な行政サービスを適切な規模で住民にきめ細かく提供していくことが行政の本来あるべき姿で、こういった行政を実現できるかどうかという点こそ次の首長を選ぶ選挙においては争点になるべきだと考えますが、実際問題としてはそうなっていません。こんなアバウトでザルで行きあたりばったりの行政で良いのでしょうか。そんなわけないです。こんな行政によって不利益を被るのは住民たち、しかもその影響を大きく受けるのは行政サービスに頼らざるを得ない弱者の人たち、つまり子どもやひとり親、障害を抱える人などです。
行政のスキマを埋める「政策起業家」と、その限界
とはいえ、そんな弱者の声なき声を拾い上げていく動きがまったくないわけではありません。このような既存の行政の不合理、不利益を解消するべく立ち上がる有志がいました。直接政治や行政に訴えたり、署名活動のような形で世論を盛り上げたりといった手法によって、個別の問題として解消しようという動きはいくつもあります。福祉の業界においてはその第一人者がコマさんこと駒崎弘樹氏。病児保育事業の創業から小規模保育事業の立ち上げ、その後は障害児保育など、この業界に革命を起こしまくってます(詳しい経歴はこちらから)。また、最近では船橋洋一氏によって「政策起業家」というワードが生まれ、PEP(Policy Entrepreneur's Platform)という政治家でも官僚でもないような立場で社会の課題に取り組む人たちのコミュニティもできつつあります。
これらの活動は行政にこれまで無視されてきていた人たちに光を当て、その人達に必要なサポートを届けられるようになったという点で本当に素晴らしいと思います(その思いに強く共感し、自分もフローレンスに転職しました)。また、複雑な問題について、いわゆる政策起業家的な立ち位置の人たちが今後も不可欠であることは否定しません。しかしながら、同時に感じざるを得ないのは、この個別のモグラ叩きをいつまで続けなければならないのかということです。なぜ、自律的に既存の問題を発見し、解消していくプロセスを行政の運営の中に組み込むことはできないのか。
政策起業家は数も少ないですし、何かしら本業があるわけなのでそこに割くことのできるリソースは限られています。一方で、通常の業務にあたる公務員は国家公務員で約58万人、地方公務員で274万人もいるわけです。
これらの実際の業務を行っている行政のスタッフたちが内部のサイクルの中で既存の施策を評価し、改善していくという営みが増えていかなければいつまで経っても世の中は良くならないでしょう。
わたし自身としての問題意識
この問題は、行政の「中の人」として仕事をしていたときから転職した今に至るまで、ずっとわたしの中での主たる関心事項でした。住民、国民にとって不利益という点はこれまでに述べてきたとおりですが、それに加えて中の人のモチベーションにも関わる問題と考えるためです。少なくとも個人的にはそうでした。
なぜ行政が自律的に問題を解決できないということが行政の中の人にとってのモチベーションに関わってくるのか。それは、一介の職員の意向で過去に決まった施策や方針を覆すのは極めて困難であるためです。行政の仕事の大半は前例踏襲。求められるのは、目の前にあるタスクを期日までに確実にこなすこと。
どう考えたってこんなものに税金を投入するのはムダでしかないだろうという施策があったとしても、それが予算としてついていればメディアにで取り上げられるなり不祥事が出ない限りは同じことを同じようにやるということが続いてしまいます。それに対して内部で内々におかしいという話があるにしても、その方針が覆るということはほぼない。政治家や世間から問題視されていない状況で方針を改めるということは、過去の誤りを自ら認めることになるためです(もう時効かなと思いますが、匿名アカウントを駆使してある案件をWeb上で燃やそうと画策したこともありました)。
もちろん関係者の中にもこの手の問題意識が世の中にまったくないわけではなくて、そこから2000年前後に生まれたのが行政評価の仕組み。この取組みは多くの機関で今も行われていますが、現実的にはほぼ機能しておらず単なる作文づくりになっており、余計な負担を掛けているだけというのが実態です。このあたりの考察については過去のブログで延々と書いてますのでお暇な方はどうぞ。
解決の糸口はどこにある?
それではどうやれば、そんな行政が実現できるのしょうか。わたしも曲りなりにも元行政職員。こんなことが即座に解決できるような問題でないことは、理解しているつもりです。とはいえ、あるべき姿が明確にあるのであれば、その理想に向かってのトライアンドエラーの積み重ねがあって然るべきではないでしょうか。
ひとつの可能性として、今わたしが調べているのがPerformancestatという手法です。「performance」=業績と「stat」=統計を組み合わせた造語です。あらかじめ設定された指標に関するデータを数週間程度の単位で分析、ミーティングを行うことで、今の施策がうまく行っているか、何か改善すべきことがないかといったフィードバックを短いサイクルで回していくという手法です。
これは90年代のニューヨーク市警から生まれたCompstatを起源とするもので、ニューヨークでの大きな成功から他の自治体での警察で導入されるようになり、その後に他の行政分野にも伝播していったものです。たとえば行政サービスについてはCitistat、子どもに関する問題についてはChildstatというように。
すでに20-30年の歴史があり、自治体によっては知事が変わるタイミングでなくなったりということもあるようですが、現時点でもいくつもの自治体で残っているようです。たとえばニューヨークのこども関係の部署(ACS、 Administration for Children's Service)には虐待の通報件数や対応件数のような数字が月ごとに公開されていたりします。
こういったデータがどこまで活用されているかどうかまでは追えてないですが、こういったデータを出すことになっているということ自体が「どうすれば良い業績をあげられるか」という締め付けになるわけでそれだけでも大きな意味があることと思います。
この手法の可能性と限界については以下の本をDeepLを駆使しつつ読み進めているところで、日本でもこういった取組みが広まるよう発信もしていきたいと考えているところです。
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