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プロローグ
日暮れ時のいつもと同じ時間、いつもと同じ通路。暗いオレンジ色に染まった廊下を歩き、階段前に差し掛かった時だった。突然目元へ強い日差しを受ける。思わず眩しさで足を止め、片手を太陽の受け皿にしつつ影のかかった片目で足元を見ると、普段よりも長い影が階段の踊り場まで伸びていることに気付く。
茹だるような夏はとうに過ぎ、熱を失った太陽はいつの間にか私の視界に入る程に早く落ち始めていた。
眩しさを遮るために上げていた手のひらを下げ、影を追うように階段を下っていくと、クスクスと囁くような笑い声が聞こえることに気付く。
テスト期間中の校舎には、普段聞こえるはずの部活動の片付けの音すらなく、ひんやりとした空気を伝い響く声は、私の耳によく届いた。
「ねえ、知ってる? あの子の噂」
「噂?」
ちょうど話の切り替わりだったのだろうか、跳ねるように話す声と、それに続きを促す声が聞こえる。立ち聞きする気はないのだが、何やら2人だけの世界に入っている雰囲気があり、どうにもそこを横切る勇気が出せずにうだうだと階段の踊り場で足踏みをしていると、コンコンと窓を叩く音とともに、話の続きが耳に入ってしまう。
「ほら、あの校門前の」
「ああ、なんかいつもあそこで誰か待ってるよね」
「そうそれ! もしかしたら妹を待ってるんじゃないかって噂がね?」
「妹って、あの子が突き飛ばしたっていう――」
私は気付いた時には駆け出し、階段前に設置された消火器を強く蹴っ飛ばしていた。
固定が緩んでいたのだろうか、消火器は綺麗にすっ飛び、噂話をしていた2人組の壁横へガコン!と音を立てながらぶち当たった。
がらんごろんと転がる消火器は、やがて元の位置に戻ろうとするかのように私の足にぶつかり止まる。放心していた噂話の2人組は、何が起こったのか確認するように消火器の向かった先を見て、まるで凍りついたような表情をした。
「楽しそうな話してるじゃん、私も混ぜてよ」
私をそういう目で見ているなら話が早い。私はできる限りにこやかに、けれどまっすぐ2人を見据えながら声を掛ける。
「紲星……」
「なんでもないわ、行きましょ」
どうやらきちんと消えろという意味合いは伝わったらしい。2人組が足早に去るのを見届けてから、転がった消火器を元の位置に戻しておく。使用期限は来月の番号が記載されており、恐らく秋の火災訓練の際に差し替えが行われるであろう事に感謝しつつ、先程まで2人組が立っていたガラス窓へ近づいた。
ガラス窓からは校門前までの景色がよく見え、同時に噂話に挙げられていた渦中の人間も視界にすぐ入れることが出来た。恐らく気が済んだのだろう、彼女はまとめ上げた桜色の髪を翻し、いつもの方角へと歩き消える。
人の噂も七十五日とは言うが、彼女たちに関する噂は結局365日過ぎても消えることなく、それどころか尾ひれまでつき漂い続けていた。それもそうだろう、噂の人間がずっと否定もせず、それどころか理解の出来ない立ち振舞をしているのだ。周囲の人間にとっては面白がったり不気味がるにしても、噂話として目を向け続けるのは当然の帰結だった。
けれど……噂の真実を知る私にとって、それはとても不愉快極まりないものでもあった。なぜならその噂とやらに出てくる妹とは、私にとって憧れでもあり、同時に大切な友人でもある人だったから。そして噂を否定せず、噂が流れ続けるように仕向けているのもまた、彼女の姉自身であったから。
「もう1年ですよ……葵さん」
約束、時効じゃないですか? そんな呟きは秋の空気へと溶け消える。
私にはただ、今もなお眠り続ける友人との約束を果たすことよりも、またあの日々と同じように話せる時間を渇望する、そんな悲哀の思いだけが残った。
◇
病院の一室。私はいつものように使用済みの衣類をバッグへ詰め込み、替えの衣類を規定の籠へ入れていく。慣れたもので、最初の頃は数十分と掛けていた作業も、ものの数分で終える事が出来る。……といってもほぼほぼ病院側で身の回りの介助をして貰えているからこそ、こんな短く済むというだけなのだが。
必須事項を終えたため、次に私は別のルーティンとして、昨日のまま置かれた花瓶の水と花を新しくさし替える。新しい花も古い花も名前は分からないが、どことなく秋の季節を思い出させる香りを発しており、これなら目を閉じている彼女でも季節感は忘れずにいられるだろうと思えた。
「ちょっとくてってるか……?」
毎日水も花もさし替えているのにも関わらず、1日経った花達はここ最近萎れ始めが早いような気がした。流石にたった1日で捨てるのは忍びないため、古い花はいつも家に持ち帰っているのだが、その持ち帰った花達よりもここの花はくすんで見えた。日当たりや水、それとも空調や花瓶が気に入らないのだろうか。黄色の花びらを親指で撫でつつ、「もう少しだけ隣の子んために思うて、頑張ってくれへん?」と独りごちる。指に弾かれた花は頷くようにふわりと首を揺らし、また物言わぬ花へと戻る。
何か要望があるのなら口に出してくれれば楽なのに。ベッドの隣に備え付けられたウッドチェアに腰掛けつつ、思わず息を深く吐きそうになる。今の私は薔薇に悩む星の王子さまを羨んでしまうくらい、沈黙という答えに疲弊しきっていた。どんなわがままでもいい、ただ一言でもいい、私に叶えられる事があるのなら、して欲しい事があるのなら、その声で教えて欲しいと願ってしまう。
けれどそんな事を願ったとしても、彼女達は喋ることはしない。長年花と接していれば色や姿で喋りかけてくれるともいうが、私には1年だろうと十数年だろうと、変わらず分からず終いだった。
「おはよう葵。今日はな、お花持ってきたんよ。もう秋やけど、やっぱり夜はまだ暑くて寝苦しい思ってな? 色は落ち着いてるけど安心する香りやって教えてもろて、きっと横になりながらでも分かるかなって」
返事はない。聞こえるのはただ眠り続ける妹の呼吸だけ。口元を見ても、遮光カーテンから僅かに漏れでた橙色の光がよく分かる、そんな薄白い妹の顔が見えるだけだ。
「……そう、あと、ここに来るまでの道があってな。最初通い始めた時は何もなってない木いばっかやったのに、いや、見る余裕なかったのもあるかもやけどさ……今は凄くキレイに紅く染まってて。葵さえよければ紅葉狩りとか行ってみたいなぁ思ったんよ。ほら夏に言ってた海はいけんかったけど、きっと今起きてくれたら……色々、葵に見せられて……」
返事はない。同じ話をこれまで何度もしてきているのだ、きっと飽きられてしまっているかもしれない。けれど妹から……葵からは、辟易とした反応も、呆れたような言葉も、私には届かない。
「……まだ、眠たいよな。今日は凄くお昼寝日和やったしな。ごめんな、また今度……そう、また今度いこう」
「冬は冬でまた……」
返事はない、一方通行にすらならない会話。
……あと、何度繰り返せばいいのだろう。あと何度繰り返すことができるのだろう。
洗濯を繰り返す度に色褪せていく葵の服や、日々少しずつ、けれど目に見える形で小さく痩せ細っていく葵の身体。1日1日と短い時間が過ぎ去っていく中、妹に関するものへ触れる度、私にはまるで手の届かない世界へ妹が行ってしまったようにすら感じられた。そんな、生きている時間が全くの別物かのように陥る感覚は、私の意識を宙へと放り出し、息を吸うことすらままならなくさせる。
「葵、うちは……」
意味など求めてはいけない。私はただ、妹がいつか起きるまで同じ日々を過ごし、一糸を辿るように妹へ呼び掛け続け、妹が本当の別世界へ逝ってしまわないように今の季節を伝え続ける。たとえ既に肉親から諦めの言葉を掛けられていたとしても、妹が起きる日までは決して折れることの許されない私の心にとって、それが最後の支えだから。
――ただ、それでも。
「葵ー、まだ眠り姫かー?」
背中を丸め俯きかけていると、病室の扉がコンコンコン、とリズムよく3回鳴らされた後開き、妹へ気さくな挨拶でも掛けるように声を出しつつ、1人の少女が入ってくる。
「……っち、お前もいるのかよ」
けれど目当ての葵の隣にいる私に気付いたのだろう、穏やかそうな表情から一変、険しい表情へと変わる。
病室へ入ってきたのは結月ゆかり、私と同じ高校に通う3年生の女の子だ。横髪を除き短く切りそろえられた紫色の髪は特徴的で、よく葵と行動を共にしている姿を見かけた事があるため、恐らく葵の友達なのだろう。第一印象としては落ち着いた、けれど凛とした人であったが、烈火のような感情を向けられている今の私からすると、人の第一印象なんてアテにならないなと痛感する。
「こ、こんにちは、結月さ――」「悪いけど」
「私が話に来たのはお前じゃない、葵だ」
それでも彼女は葵の友達で、痛い視線を貰ったとしても、妹の見舞いに来てくれた相手だ。私自身も無碍にされる理由は幾つもあるだろうと理解しているため、彼女の視線を受け流しつつ、見舞いに来てくれた事へ感謝を伝えようと話しかけるが、突っぱねられてしまう。
ちらりと机の時計を見ると、既に時刻は18時へと差し掛かっていた。普段であれば私は帰路につく時間であり、恐らく彼女も私とバッティングする筈は無かったのだろう。もしかしたら私のいなくなる時間すら、彼女の中では折り込み済みだったのかもしれない。先程「まだ」と言っていたが、毎日通っている葵の病室と道中で、彼女とは1度も会ったことも、ましてや見掛けたこともなく、そう考えると合点がいった。
「あ、あはは、そう、ですよね」
私の印象はある噂によって校内では最悪の筈だ。ここ最近では新たに尾ひれの付いた噂が流れているのも耳に入っており、葵の友達とて私への印象は変わらないだろう。
けれどここは病室だ。それも葵の眠っている。葵の前でいざこざなどお互いに望みはしないだろうと、自分でも分かるほどに下手な笑みを浮かべながら、受け流そうと試みる。
「なんで笑ってられる?」
「え」
しかし、彼女から返ってきたのは底冷えするような声。
「1年も妹が目ぇ覚めてないのに、なんでそんなへらへらしてるんだよ」
いや……どこか悔しさの滲むような言葉と声が私へとぶつけられる。夕暮れの影は彼女の顔を隠し、どんな顔をしているかは分からない。……分からないが、彼女から視線を逸らす事はしてはいけない気がした。
「そ、そんなつもりや」
また笑いながら返す。ああ、いつから私はこんな貼っつけたような顔をするようになったんだろう。彼女に、結月さんに言われるまで、これが癖だという認識すら私にはなかった。
思わず下手な嘘になってしまった事に舌を噛んでいると、ぎり……っと何かを強く握りしめる音が聞こえるのと同時に、彼女はつかつかと足音を立てつつこちらへ足早に進んでくる。
「してるでしょ、ずっと。自分は傷ついてません、自分は大丈夫ですって取り繕うみたいに」
彼女は片手で私の襟元を引っ掴み、そのまま壁へと叩きつけることでようやく足を止める。叩きつけられた際に気道が押さえつけられ、呼吸がままならなくなり一瞬意識がぼやけるが、ガシャン!と花瓶が床に叩きつけられ割れる音が嫌に頭に響き、ハッと意識を戻した。
恐らく壁際の机に身体をぶつけてしまったのだろう。じわりと痛む脇腹をよそに、未だ強く襟元を掴む彼女へ文句の一つでも言おうとするが……やめた。
ゆっくりと落ち始める夕日は彼女の顔の影をいつの間にか取り払い、雫を溜めた瞳を曝け出していた。
「1年……もう1年なんだよ、琴葉……!」
1年。そう彼女が訴える言葉も、襟を掴み続ける手も震えていた。
「お前がここに毎日来ていることも」
――ああ、そうか……。
「校門前で言葉の石を投げられ続けるのも」
この人は、結月さんは……。
「ずっと見てきた、ずっと聞いてきた……! 葵からお前を見ておいて欲しいって、約束したから」
知っているのだ。噂の意味も、真実も。
「だけど、ずっとだ」
彼女は言葉を続ける。私はそれに対し何も言わず、ただ掴まれたまま言葉へ耳を傾ける。それが私から彼女にできる、1年という歳月へ返すべき、せめてもの責任だと思ったから。
「お前は葵が起きなくなってから何も変わらない。誰かが流した噂を使って自分を傷つけ続けて、そうやってずっと貼っつけたような愛想笑いを浮かべ続けて」
吐き捨てるように続く言葉。それは彼女がどれだけ周りを見ているのか、どれだけ我慢強く自分を押し殺し、約束を守ろうとしてきたのか。それは今の私ですら察せられるものがあり、流石は葵の友達だなと感心せざるを得なかった。
だからこそ私は……続く言葉を聞いた瞬間、早く病室から出るべきだったと後悔する。
「なあ、それで葵は起きるのか……!? 葵が起きた時、お前は笑えるのか……?」
彼女から発せられた言葉。それは友達の葵だけではなく、私に向けられた問いかけの言葉だった。
「うちは……」
目を、逸らさざるを得なかった。
彼女はそれが答えだと判断したのだろう、襟元の手は再度力を強め、私の胸元を強く押し出しながら離される。壁へ強く叩きつけられつつも、私には彼女を見ることは憚られ、目を合わすことは出来ない。
「別にお前が誰よりも苦しいとかそういうのは否定するつもりはない、けど。お前がそんなんで、誰が今の葵を守れるんだよ……!」
「そ、れは……」
彼女の声も言葉も、どこまでも強く、優しい。故にあることから逃げ続けている私にとって、錆付きぼろぼろに欠けたナイフのように深く、鈍く心へ刺さる。
1年間寝たきり、それはある種絶望的な現実だった。
もしかしたら。奇跡が起きて。そんなのは最早終わりきった時間であり、向き合うべき問題は早くも答えを私に要求してきていた。
学生名簿には既に琴葉葵の文字はなく、半年を過ぎてから母とも父とも病室で顔を合わせることはなくなった。見限るのが早すぎると何度訴えたかは憶えていない。それでも私の時間感覚を狂わせるには十分な程に、自分に傷でもつけないとやってられない程に、周囲は妹の止まってしまった時間を過ぎたものだと扱った。
「……自分だって、即答できない」
けれど私には、その答えの拾い方が分からなかった。間違いなく、誰よりも早く、妹を手放してしまったのは私自身だったから。
「……もういい。ただ、頼むから……これ以上失望させないでくれ」
結月さんは目元を拭い、振り払うように病室を出ていく。
彼女が言ったように、あの日から私は何も変わる事ができず、妹の前で立ち尽くしていた。
壁へ背中を強く擦りつけながら、どさりと床に尻もちをつく。激しい運動をした訳でもないのに、身体はぐったりと重たい。
どこを見るでもなく虚空を見つめていると、じわりとお尻が濡れていることに気付く。近くには割れた花瓶のガラス片や花が散らばっており、足元には水が広がっている。服が水を吸ってしまっているのだろう、ひやりとした冷たさは意識を明瞭にさせ、この部屋にいる人間が自分だけではないことを思い出させた。
「ぁ……ご、ごめんな葵、嫌な空気にしてもうて」
私は誰に謝っているのだろうか。彼女には声なんて届かないと分かりきっているのに。
「あの、ちょっと、そう。ちょっと喧嘩しただけやから」
まるで悪戯が見つかってしまった子供のように言い訳を口にする。見えなければ、聞こえなければ、そんなバレバレの嘘すら通せると思っているのだろうか? 浅ましい自分の考えに嫌気がさした。
「やから……」
嘘を隠すように、膝をつき、床に散らばった花やガラス片を片付けようと指で触ろうとした瞬間、先程言われた言葉が頭にフラッシュバックする。
――お前がそんなんで、誰が今の葵を守れるんだよ……!
床の水に反射し映る自分の顔は、まるで迷子の子供かのように不安そうな表情をしていた。
「い、つ……」
痛みでフラッシュバックから思考が戻される。手をガラス片で切ってしまったのだろう、指からはぽたぽたと水と血の混じった液体が落ち、床の水を赤く染めていた。
反射する自分の顔に赤が落ちる度、あの日の事を否でも応でも思い出させられた。
きれいな透き通った空色の髪と、お気に入りだった白色の服。あの子を、妹を、葵を象徴するものはどれも赤く、黒く染まり……。
――葵が起きた時、お前は笑えるのか……?
……今、妹が起きたら。そんな日を一秒たりとも願わない日は今に至るまでなかったと、誓って言える。言えるのに、今の私には妹が起きる日が怖くて怖くて仕方がなかった。
それは間違いなく、妹にとって依存せざるを得ない存在が私しかいないという、その状況が出来てしまう事への恐怖。そんな望みたくもない状況、私には笑えるわけがなかった。
今の私は妹が起きることを望みつつ、起きた後を望まない。そんな矛盾を抱えていることに気付き、同時に自分ではそれを最早解消しきれない現状に、心が折れる音がした。
ぽたぽたと指から落ちる雫の音を聞きつつ、腰を上げ立ち上がる。
……ああ、一体私は何をやっていたんだろう。
「……なあ、葵。うちは」
陽は落ちた。ベッドに眠る妹の元へ歩み寄るが、もう彼女の顔は暗く見えない。
ぽろぽろと雫は落ち続ける。
意味など求めてはいけない。求めてしまった瞬間から対価が返ってくることを心が求めてしまうから。でも、だけど、けれど、それでも、もう。
「うちは、どうしたらよかったんかなぁ……っ」
考えないようにして、見ないようにして、来ないいつかを夢見るのは……疲れてしまった。
「うちがしてきたことが間違ってるんやったら、どこからなん……? なあ葵……教えてえな……」
返事はない。これまでもこれからも、きっと返事なんて無い。これは葵に教えてもらうんじゃなく、私自身が知り、決めないといけない事。
「うち、うち……葵がいないと、何があってるかわかんないよ……」
それでも私には……自分だけで立ち上がる方法なんて、何も分からない。
「間違うとるなら怒ってや……!これでいいなら……っ笑ってえや……。葵の好きなお姉ちゃんに、いくらでもなるから……!」
いつだって私の傍には葵がいて、葵が望む『お姉ちゃん』を私はやってきた。
朗らかで優しく、他人を助けられるくらいに強く、いつだって誰かに手を差し伸べられる。そんな憧れのお姉ちゃん。
そう、いつだって私はお姉ちゃんで……琴葉茜としての生き方なんて、何も分からない。
まるで飼われていたペットが唐突に放り出され、外の生き方に適応できないような、そんな侘しい人間が今の私だった。短慮かもしれないが、私には誰かに求められる生き方のほうが楽だったのだ。……自分のことをずっと認められずにいる私にとって。
その結果が今の状況を引き起こし、清算を求められていることも分かっている。
「だから……だから……」
分かっていても、私は……。
「お願いやから、なんだってするから、起きてよお……っ! おきて、だめなお姉ちゃんを怒ってよ……っ」
「葵……!」
起きるはずも、返事をするはずもない小さな妹の手に、床へ膝をつきながら縋ることしかできなかった。妹が笑顔で言ってくれた、きれいな手に血がついてしまうのを気にする事もできず、ただただ捨てないでと縋り付く私は傍から見れば惨めかもしれない。でも、それほどまでに私にとって姉という立場は、この空虚な1年を支える最後の標だった。
……願わくば、どうか。強く、強く、滲む暗闇の中祈る。
――もう一度だけでいい。葵と、やり直せますように……。
浅ましい願いだと分かっている。それでも願わずにはいられない程にどうしようもなく……今の私は琴葉茜ではもう、いられなかった。
第一章 9月24日 2人の夢
じっとりとした空気。手に感じる生温い感触。
ああ……、いつものか。そう瞬時に理解し、生暖かな『彼女』を優しく潰れないよう、抱きしめる。
恐らく病室であのまま眠ってしまったのだろう。暫く見ていなかった夢だが、それでもすることは変わらない。腕の中でゆっくりと、静かに息を引き取る彼女に対し、私は小さく「ごめんな」と伝える。
物言わぬ彼女はいつものように、私の言葉に困ったような雰囲気を遺し遠くへ消え去ろうとするが、私は思わずその手をひしと掴んでいた。
「ごめん……ごめん……!」
これは夢だ。私にとって……ただの残滓のような夢。葵が目覚めなくなり……いや、もっと前から久しく見なくなってしまった夢。
私はこの夢以外の夢を見たことがない。それこそ生まれてから、一度たりとも。一種の悪夢のようなものだったが、それでも今の私にとってこの夢を見れたことは僥倖であった。
「なにもしてあげられなくて、ごめん……!」
彼女はその言葉に驚くように赤い目を揺らし、私の目元から頬へとなぞるように手を当てる。
「なか、ないで……」
初めて聞く彼女の声、それは狂おしいほどに強く欲していた私そっくりの声であり、途端にぼろぼろと涙が彼女の手を伝いながら溢れ落ちる。
届けたい言葉はいくらでもあった。それでも私はただひたすらに、泣きながら謝ることしかできなかった。
◇
「んっ……ぐ……」
日差しが閉じた瞼に当たり、眩しさで意識が覚醒する。
今は朝だろうか、昼だろうか。前後不覚の中、日差しから逃れるように身体を丸める。
そこで私は違和感に気付く。眠っているのに身体を横にしているのだ。普段であれば別におかしな話ではないのだが、私が眠りについたのは葵の病室であり、そして膝立ちで葵のベッドにしなだれかかるように眠ってしまった筈であった。病室には葵のベッドくらいしか寝れる場所はなく、最悪あのまま床へ身体を横たえるように寝てしまったというのならば、身体が痛みで悲鳴を上げ始めるのは時間の問題であった。急いで起き上がろうとするが、焦りからか瞼を開けることすら身体は拒み、金縛りにあったかのような動きしか私には出来なかった。
久々にあの夢を見たせいで変に身体が緊張しているのだろう。できる限りゆっくりと、焦りを意識の外へ置くように、暗い視界の中息を吸い込み、身体から限界まで息を吐き出す。閉じている瞼を無理に開く事はせず、もう一度閉じている事を意識し直し、じっと待つ。
私にとって起きた時金縛りのような状態に陥るのはよくあることだった。だからきちんと対処すれば大丈夫……慌てなくていい。
身体の感覚が鮮明になってきた辺りでもう一度息をし直し、力を入れずすっと瞼を開く。そして視界が開けたことで、今の自分が寝ている場所を把握し直す。
「……っ」
私は床ではなくベッドに横になっており、視界には見慣れた空色の髪が。無断で病院に泊まってしまった事よりも、どうやら私は病人の隣で一夜を明かしたらしいという事実に心臓が跳ね上がった。
飛び起きそうになるが、腕に収まった妹に衝撃を与えてはいけないと冷静になる。いや妹を抱きしめているという状態にすら私は動揺を隠せなくなり身体を引くが、そこで初めて私は周囲の違和感に気付く。
――ここ、病室やなくないか?
左腕が妹の身体で下敷きになっているため、首を軽く捻りながら周囲を見渡す。見慣れた柄のカーテン、組み立てた事のある机、妹がお気に入りの蔓が長い観葉植物、一緒に行った水族館で買ったお揃いのペンギンのぬいぐるみ。
どれもこれも知らない筈がなかった、ここにある筈はなかった。いや、今横になっているベッドも、頭を寝かせている枕も、ここがどこなのかを嫌というほど証明していた。
ここは、あの日からずっと入ることを怖がっていた葵の部屋。けれどたった一つの存在が私の心をぐちゃぐちゃに掻き乱していた。
――なんでここに葵がいる……!?
――家まで連れ帰った? ――違う!
理解が及ばず吐き出しそうになる身体に鞭を打ち、頭で必死に反論をする。
――確信できる? ――あり得ない。
――絶対に? ――絶対に。
確かにあのタイミングでの私は大分精神が参ってたかもしれない。意識を失った後なぜここにいるのかも説明はできない。だけど私は、葵がどんな状態で生きているのかも理解を拒むほど、度が過ぎた馬鹿じゃない。どんな状態であろうと妹を病院から自ら連れ出す真似、姉として以前に、私が許すはずなどないと断言できた。
――……なら、どうして? ――知らん、まずは病院に連絡を入れて……。
「お姉ちゃん?」
不服そうな自分を退け、そこまで反論を繰り返した時だった、そこに私以外の声が聞こえたのは。
その声は夢で聞いた声と全く同じで、私はついに現実逃避で声まで聞こえるようになったのかと空を仰ぎそうになるが、声の主はそれを許してはくれない。
「ねえ、無視しないで欲しいんだけど」
聞き慣れた不服そうな声は、確かに私の胸元を震わせ耳元へと届く。意を決して、抱きしめる形になっている妹を覗き見ると、彼女は確かにそこにいて、私と同じ色の目を光らせながら私を見ていた。
「……葵」
「さっきから私の部屋でなにしてるの?」
あれほどまでに願い続けた妹に起きて欲しいという夢を、いとも簡単に叶えられた私の口からでた声はとても呆けたものだった。叶ったという実感も喜びもなく、それ以上に現実味がない。
「……葵?」
降って湧いたような奇跡。私は目の前に現れたそれを受け入れていいものか迷ってしまう。手にとっても構わないくらい、私はこれまで努力出来たのだろうか? 手にしてしまったら私はまた奇跡を願い、胡座をかくような生き方をしてしまわないだろうか?
……私は不安で、怖くて。
だから……『お姉ちゃんなら』どうするかで選んでしまいそうになる。
だけど……!
「疑問に疑問で返さないで、なんで私の部屋に……っ!?」
強く、強く葵の身体を抱きしめる。
きっと正しい姉なら目覚めなくなってしまった妹が起きた時、涙を流しながら、声を震わせながら抱きしめるだろう。私がしていることはそれとなんら変わりない。ただ――
「葵、葵……!」
「なに、なんなの!?」
奇跡でもいい、この降って湧いた奇跡を、私は掴むと決めた。きっと私はこれから振り返るべき行いも、清算すべき関係も、けじめとしてやらねばならない事も多々あるだろう。
「ちょっと、ねえ!」
それでも、私は。
「葵が、暖かい……!」
あれほどまでに小さく冷たかった筈の妹の身体。それが暖かに生きているのを感じ取れるだけで、他の全てを捨てられるくらいに私には嬉しかった。
私よりもずっと体温の高い妹、抱きしめるとそれが如実に感じられて――
「出てって」
けれど、そんな私の耳に届いたのは鋭く冷ややかな声。
「え」
「出てって!!」
動揺からの一瞬の腕の緩み、そこを葵は見逃さずに間髪入れず強い力で私を引き剥がす。
一体1年も眠っていた妹にどこにそんな筋力が余っているというのか、取り付くしまもなく部屋の外へと追い出されてしまった。鬱憤を晴らすかのように強く閉められた扉はバタン!と音を立てた後静まり返る。起きた状況が状況だ、突然自室のベッドで一緒に眠っている姉が居て、しかも唐突に抱き締めてきたのだ、流石に行動が軽率だったと反省する。
一旦気持ちを落ち着かせ周りを見渡すと、そこは舞台のセットなどではなく確かに私のよく知る家の間取りが広がっていた。だからこそなぜ葵と私は家にいて、かつ葵は目覚めることが出来たのか、そんな疑問が頭を巡るが、今はそんな悠長にしている場合ではない。急いで葵が目覚めた事と葵が今病室ではなく家にいる事を、葵が入院していた病院へ伝えなければ騒ぎになりかねない。そのため電話を掛けようとスマホを取り出すと、顔認証が通る前のホーム画面に一瞬気になるものが映し出されていた事に気付く。
見間違いだろうか……。そんな祈りにも似た考えは、もう一度開き直した画面に映し出された日時の文字列によって打ち砕かれる。
『7:40』
『2020年9月24日』
「……2020年、9月」
ありえない、そんな事は。それを言葉にするように、見てしまった日付を口にする。
動揺を隠せず震える手で、私はSNSやニュースで今日の日付を確認し、果ては117へとコールもするが、いずれもこの日付は変化することなく、間違いないという事実だけが私に突きつけられる。いや、強いて言うなら私がここにいる事が間違いなのかもしれない。だとすればここは……。
――夢?
「夢なら、暖かくなんて無い」
自分の言葉を声に出して否定する。
夢と現実の違いは何か、それは私が一番よく分かっている。夢の中で一番鈍い人間の五感、私の場合それは触覚であり、特に皮膚感覚たる温かいや冷たいといった感覚が一切ない事を、毎日の夢で知っていた。だからこそ今は一体何なのかという話になるのだが……。
私は一旦病院への連絡を取りやめ、自室に行き現状を整理をすることにした。よく分からない状況だとしても、慣れ親しんだ自室は少しだけでも心を落ち着けられた。
自分が知っているものより少し新しいベッドに座り、腕を組みながら考え事をする。
葵が目覚めなくなった日は、2020年の12月24日。
うちが葵の見舞いに行った最後は……2021年の11月24日。
そして現在の日付は、葵が目覚めなくなる3ヶ月前に位置する2020年の9月24日。
――1年……もう1年なんだよ、琴葉……!
たった1年、されど1年、フラッシュバックした結月ゆかりの言葉が頭に響く。
時間はどれだけ望もうと戻ることは決してない、それがこの世の理。過去へ戻れるなんて夢物語でなくてはいけないのだ。でなければ……悩み苦しみつつも今を必死に生きる意味さえ消えかねないのだから。
「夢でなくても、こんなん……悪夢やろ」
そう鬱々と口に出しながらベッドへ背中から倒れ込む。
ここが夢でなく実際に過去だと言うのなら、一体どういう世界なのだろうかと額に冷えた手の甲を当てながら考える。一口に時間遡行といっても、何かしら制約が設けられているのが私の知識では多数を占めている。だからこそ疑問に思う、この時間遡行は未来を知っている事を他人にバレてはいけないのか、私の観測範囲での過去を改変してはいけないのか、そもそも過去へ戻っているのは私だけなのか、そもそもここは同じ未来に辿り着くのかどうかなどを。
もし、もしもだ、私がどれだけ何をしても変えられない世界にいるとしたら、もう一度葵が目覚めなくなる日を迎えなくてはいけないのだろうか? それだけではない、もしかしたらまた1年後にここへ戻る可能性だって……。
そこまで『もし』を考えたあたりで私は、今の自分が置かれた異常な立場に恐怖している事に気付く。唐突に降って湧いた奇跡と思っていた物が、実際には自分の知らない所で希望か絶望に変わるかを決められかねないのだ。加え、自分の努力は3ヶ月後、もしくは1年後に泡沫のように消えるかもしれない。
『もし』が積み重ねられた私のタイムパラドックスは猶予のない時間の中で、まるであの日結月さんに答えられなかった言葉の清算を求めるかのように、今度は過去の私へと答えを求めてきている。私にとってそれは、首直前まで降ってきていたギロチンの鎌が独りでに上下し始めたかのような、チープな道楽にでもされている気分だった。
殺すなら早く殺してくれ……。まるで死刑囚にでもなったような思いを抱えたときだった。ふと自分の顔に影がかかる。
「……なにしてんの」
「葵……」
腕をどかせば、そこには葵の姿があった。
どうやら学校へ行くらしく、先程の寝巻き姿とは違い、制服へと着替えていた。腰まである長い空色の髪もきちんとセットし終えている辺り、私は思ったよりも長く考え事をしていたらしい。
「今お姉ちゃんは運命の非情さに打ちひしがれてるんや、放っておいてや」
普段通りに生活をする妹の姿を見て、余計に今が私のいた時間ではない事を突きつけられる。どんなに目を逸らそうと、この世界では私だけが異物なのかもしれない。
「……意味分かんないこと言ってないで支度しなよ、今日学校だよ」
そんな孤独感を味わっている私へ、葵は普段通りの生活を同じようにしろと要求する。
――学校、学校なあ…...。同じ授業を受けるのも面白そうやけど、それよりも……。
正直、行かないという選択を今日だけでも取りたかった。一日だけでも外へ出て行動すれば、きっと今私が置かれている状況について、ある程度の判断材料にはなるはずだ。けれどまだそれを『お姉ちゃん』ではない私が受け止めるには、相応の時間が掛かりそうだった。それに加え、動くにしても何かしらの目的意識を持った行動に留めておきたい。私のとんでもないやらかしでこの時間が壊れる可能性もそうだが、葵に危害が及ぶのもできる限り避けたかった。
幸いにもこの世界は私がいた時間の1年前。既に高校3年生として志望大学のA判定も貰っていた身、一日くらいの授業すっぽかしでもなんとかなるだろう。
「ちょっと、今日は」
今日の方針を決めた私は、身体を起こしてから学校を休む旨を葵へ伝える。
「……そういうの、私にも響くからやめて欲しいんだけど」
けれど葵にはサボると捉えられたらしく、呆れたようにため息交じりの言葉を言われてしまう。少し強めな言葉に思わず悲しい気持ちになるが、葵からしてみれば朝から私の慌ただしい姿を見ているのだ、学校に行ける程度には健康だろうと捉えられても仕方ない気がした。
「……ごめん、午後には顔出すようにするから」
流石に初日から葵の心象を悪くすることは避けたい。けれど今の私として譲歩できるのは、これくらいが限度だった。
「そ、勝手にすれば」
そっぽを向かれてしまう。
――こんな時、『お姉ちゃん』なら……。そんな考えが浮かぶが、首を振る。
もう私は『お姉ちゃんだから』を変えていかなきゃいけない。きっと過去の自分とは異なった思考になってしまうし、その上で何かしら別の行動を取る時だってあるかもしれない。間違いなくそれは先程まで考えていた『もし』に引っかかるリスクもあるだろう。……それでも。
私はもう、自分の言動に自分で責任を持ちたいから。
だからまず、ここから始めよう。私自身の意思を人に伝えることを。
「え、っと。葵」
「何?」
声が震えそうになる。それでも葵には気付かれないよう、ゆっくりと口を動かす。
「その、いってらっしゃい」
きちんと、言えただろうか? 返事は無くてもいい。これは他人から見れば、いや、知らない所でのただの自己満足に過ぎないのだから。
「……朝ごはん」
「え?」
けれど、葵はそれに返事をする。
「朝ごはん、お姉ちゃんのも作っておいたから」
振り向いたりはせず背中を見せたまま、言葉を締める。
「それだけ。いってきます」
葵は部屋を静かに出ていく。
私は葵が振り返らずにいてくれたことに、強く感謝せざるを得なかった。ただ「いってきます」と返事をされただけなのに、葵から言われた言葉を理解した瞬間、勝手に涙が溢れ出てしまったから。
堰を切ったように流れる涙はどれだけ拭っても止まることはなく、ようやく止まった頃には既に数刻経ち、昼へと差し掛かる頃だった。
◇
二階の自室から階段を降り、浴室前の洗面所。真っ赤にした目元を水で洗い流し鏡を見ると、信じられないほどに目を腫らし疲れ切った自分の姿が映る。
――流石にこれで学校は行けんなあ……。
行った所で生徒だけではなく教師からも詰められるのが目に見えるほど、今の私の顔は控えめに言って大分やばい。最悪即帰宅させられる可能性すらあった。葵に言ったことを反故にするのは気が引けるが、涙を流しすぎて頭までぼんやりするのだ。流石に許して欲しい。
ぐったりとする身体を引きずり、水分を求めて台所へ向かうと、ダイニングテーブルの上にはピンク色のお弁当箱と、お皿にきれいに盛られた卵焼きが置かれていた。お弁当箱の中身を覗くと、ご飯と梅干し、おかずに小さなハンバーグやウィンナー、添え物にプチトマトが入っている。ただなぜかお皿にある卵焼きは入っておらず、首を傾げてしまう。
お皿の横に置かれていた私の箸を取り、すっかり冷えてしまった卵焼きを1つ口へ運ぶ。
「甘……」
砂糖で調味されたベーコンとほうれん草入りの卵焼きの味付けは優しく甘く、身体が落ち着くのを感じた。あまり甘みを好まない葵にしては似つかわしくない味付けであり、すぐにこれが私用に作られたものだと気付く。同時に私の記憶では、こんな時期に葵からお弁当なんて一度たりとも貰った覚えはない。ともすればこの包まれてないお弁当はお昼に1人で食べるのを想定されており、同時に卵焼きを入れる必要もない状況とも推察出来る。
――お昼になっても顔出さないこと、バレとるなこれ。
実際は後付けの理由ができてしまっただけなのだが、葵はどうやら部屋に来た時点で私の今日の行動を考えていたらしい。妹の事ながら、そこまで察知されている事に戸惑いすら覚えるが、それでも葵の気遣いに嬉しさを感じる。
そして同時に、奇しくもそんな葵の行動のお陰で私は確信を持つ。ここは夢ではないと。
テーブル横の窓を見ると、外は灰色の雨雲が覆いいつの間にか暗がりとなっていた。秋はじめの天気は記憶にある通りとても変わりやすい。薄寒さに身を縮こませながら、窓に映る自分の姿を見つめながら起きてからの事を振り返る。
前髪につけられた紫色の花飾り、葵と同じ赤色の目。葵を抱きしめた時感じた小さく細い、けれど柔らかな身体と暖かさ。葵に作ってもらった卵焼きを食べた時の冷たさと甘さ。そのどれも全てが曖昧などではなく、鮮やかに、鮮明に確かに存在していると頭へ訴えかけ、夢や幻ではないことを証明していた。
同時にもう1つ、この世界で確かなことがある。……それは、私の知っている未来から変えられること。意図はしていなくても私の朝のおかしな行動を起因とし、葵の本来の行動がガラリと変わったのは間違いなかった。少なくとも私は高校2年生になってからというものの、葵のお弁当なんて存在は知らない。……知ることなんて出来るはずがなかった。だって私は……葵と関わることを拒絶していたから。
服に常に忍ばせていた和柄の髪飾りを服のポケットから取り出す。葵も色違いではあるがこれと同じものをいつも髪につけており、幼い頃から互いにとってとても大事な髪飾りだった。けれど手に持った髪飾りには皺が付いており、三輪の叶結びも解けきってしまっている。こんな状態の髪飾りを葵には決して見せられないなと苦笑してしまう。
……本当にここが1年前なら、あと3ヶ月。あと3ヶ月で、葵は目を覚まさなくなる。
原因は至ってシンプルで、学校の階段からの転落事故。冬休み中だったこともあり、葵が頭を打って動けなくなってから数時間は人に発見されることなく、血を流し続ける事となる。その後見回りの教師に見つかったことで病院に運ばれ、辛うじて一命を取り留めたが、それでも助かったのは命だけで、意識が戻ることはなかった。
――けれどもし、知り得ている未来を変えられるというのなら。
どこまで変えていいのかは分からない、そもそもどうして私がこの時間へ戻されたのかも分からない、それでもこれが奇跡を得るためのチャンスだというのなら私は、掴んで見せたかった。
たった1人のためだけに未来を変えるなんて、そこから何が起こるかも、何かが起きた時の責任も取れるかも分からないのにいいのだろうかという不安な気持ちは拭いきれない。
けれどそれ以上に私はもう、自分で決めた未来を生きたいのだ。良いも悪いも考えないそれはとても独善的で、葵にとっての正しい『お姉ちゃん』ではきっとなくなってしまうだろう。『お姉ちゃん』ではない『私』が選ぶ未来はより酷いものかもしれないし、全く変わらない結末にだってなるかもしれない、全てが不確定の現実。それでも私は、そこに至るまでの全てを自分の事として受け止め、決して目を逸らさない人間になりたい。
――だからうちは『お姉ちゃん』としてやなく、『私』として葵が生きる未来を選ぼう。
3ヶ月後の未来を変え、そして……私のもとから離れる妹を、きちんと笑顔で送り出せる私になるために。
そう決意した私は解けきった髪飾りを、邪魔な長い髪を結ぶのに使う。ポニーテールと言うには少し乱雑なまとめ方だが、それでも窓に映る今までの私とは違う見た目は、心を前向きにさせた。
……必ず、変えてみせる。そう呟いた言葉は、いつの間にか降り始めていた雨音にかき消されていた。
第二章 10月1日 1つの夢の終わり
「……朝」
ちゅんちゅんと雀の鳴く声で目覚め、うつ伏せになっていた身体を横にすると、カーテンの隙間から薄い日差しが顔に掛かり、眩しい光が意識を少しずつと覚醒させた。ぼんやりとした頭で確認のために呟いた言葉は、乾燥した空気のせいか掠れ声となる。
「さっむ……」
秋の気温変化は激しく、1週間前に雨が降ってからというもの、晴れの日でさえ底冷えするような空気になっていた。寒暖差についていけない身体は重く、温まったベッドの中でつい丸まりそうになるが、怠惰な身体に鞭を打ち、枕横に置かれたスマホへ手を伸ばす。
『5:00』
『2020年10月1日』
日差しよりも眩しく感じるスマホの画面は朝の5時を示していた。今までであれば起きるには早い時間だったが、もう朝の寒さや眠気には負けていられない事情がある。
私は大きく息を吸い込みベッドから手際よく起き上がる。手鏡で髪を軽く整えてから後ろ手に結び、初日よりも少し慣れたポニーテールが完成する。
「……よし」
首の後ろに冷たい空気が掛かるようになり、眠気はすっかりと飛んでしまう。隣室にいる妹を起こさないよう、静かに部屋を出て階段を降りていく。洗面所で歯を磨き顔を洗ってから台所へ向かい、桜色の手帳とにらめっこをする。
「昨日のあまりは味噌汁とハンバーグやから……」
手帳には主に葵に関する食事改善案や、ここ一週間ほどに渡っての食事内容や葵の嗜好がどう変わっているか、朝昼夜のどこで何を食べさせるべきかなど、3ヶ月で最も気を付けなければならない部分を多岐に渡り記載してある。
葵の階段転落事故、それは事故自体を防いでも根本的な部分はきっと何も解決しない。葵が階段で足を滑らせるきっかけを潰さねば、同じことの繰り返しになりかねないと思った。
ではそもそものきっかけとは何か? それは恐らく栄養失調による貧血だろう。
この時間に来てすぐ葵の身体を抱きしめた際、私が知っている葵の身体よりも既に大分痩せ細っているのを感じた。険悪な仲になる前はよく同じベッドで眠っていたため、葵の身体については多少なりとも覚えがある。だからこそ、そんな短期間で抱きしめた際に骨を感じる程細くなってしまっているのは、流石におかしいのだ。それこそ毎日必要最低限の食事しか摂ってないような、まるで病院に居た時の状態に近い生活をしてるのかと勘ぐってしまう程に。
もしかしたら他に事故の要因はあるかもしれないが、それでもやれることは1つでも多くやると決めた身だ。ならばそのために朝早く起きて活動し始める事など造作もない。……それに元々は一緒にやっていたことなのだ、ご飯を作るのも、お弁当を作るのも。それを再び1人でやり始めることは苦楽以前に、本来の形を取り戻すための必要な行いという気もした。
気持ちを切り替え、改めて葵へ作るご飯の内容を考える。ここ一週間で私が葵へ出した結論は、夜だけでなく朝昼も含め食生活の管理をすることだった。葵は非常に朝が弱く朝ごはんを食べたがらない。何も食べなさすぎて胃が縮んでいるのもそうだが、味が少しでも濃いものは拒み始めているようだった。ならばと昨晩は豆腐ハンバーグを作ってみた所、残しはしたもののここ一週間の中で最も食が進んでおり、どうやら淡白な味であれば彼女の胃も受け付けてくれるようであった。
ここまで今の嗜好と葵の食べれる量が分かればあとは簡単だ。朝ごはんに半分にカットしたパンと目玉焼きを用意しつつ、スマホで流しているラジオから今日の天気を確認する。当然のように晴れの中でも10℃を下回るらしく、それにより作るお弁当の内容が確定した。
「休みの内に買っといてラッキーやったな」
棚からこっそり葵用に買っておいた魔法瓶を取り出し、予め火に掛けておいたお味噌汁を入れ蓋をする。スープを入れる事のできる魔法瓶というのは特殊なようで、少し手痛い出費ではあったが、これから毎日使えるとなると話は変わってくる。最悪葵がこれから先固形物を食べられる量が増えずとも液体で栄養を補えるのだ。まさに私にとって希望の様なグッズであり、私の目にはホワイトカラーの魔法瓶はとても頼もしく、そして輝いてすら見えた。
お弁当箱も小さいものを新調すべきか悩んだのだが、これから葵が食べられる量が増えることを祈って既にあるものを使うことに決めた。まるで子供が大きくなるのを見越して大きめの制服を……みたいな話だが、私にはそれくらい前向きな気持ちの方がこれからに向けて丁度いいのだ。それにこのお弁当箱には、葵と一緒に買ったという思い入れもある。私のせいで長いこと仕舞われる事になってしまった物だが、それでも簡単に変える、というのは私の中で踏ん切りはつける事が最後まで出来なかった。
そんな愛着のあるお弁当箱への久々の仕事。中身は白米と、昨日お弁当用にと余らせておいた豆腐ハンバーグと薄めの塩で味付けした玉子焼き。手際よく詰め込み、あとは片付けのみにしてから時計を見ると、既に針は6時過ぎを差していた。葵の朝ごはんにと用意したのは半分のパンと目玉焼きだが、これだけでも葵は食べるのに時間がかかる筈だ。普段より少し早めに起こしてしまうのは可愛そうだが、これも妹のため。
「葵ー! 朝やでー! おきてー!!」
階段の下で葵へ呼び掛け、葵の部屋から物音がしたのを確認した後、洗面台へタオルを置き、テーブルへ葵の朝ごはんを並べた。ついでに干してあった乾いた葵のシャツやスカートをアイロンがけし、ハンガーへ戻しておく。今日着るのはこれではないだろうが、これから毎日やっていけば辿り着くだろう。
そうこうしている内に学生服へと着替え終えた葵が二階から降りてくる。
「……なにしてんの?」
台所での洗い物を終えたあたりで葵から声がかかり、手をタオルで拭いてから振り返る。
「何って、朝ごはんとお弁当の用意やで」
「私食べれないから要らないんだけど……」
その答えは想定済みだ。朝ごはんに関しては駄目で元々の気持ちで用意していたため、口を付けられなくても仕方ない。しかしそのうち食べられるようになればいいな、では遅いため、やはり朝にはなにかしらお腹に入れるというのを習慣付けてもらわねばなるまいと、妥協案を伝えることにする。
「ならー、せめてホットミルク作ったから飲んでき」
普通のホットミルクではなく、シナモンとハチミツを少し加えてある。甘いものが苦手な葵でもこれなら飲んでくれた記憶があるが……。
「……まあ、それくらいなら」
その言葉に私はよかったと安堵し、思わず顔を綻ばせる。
「あと、はいこれ」
私はついでとばかりに葵にお弁当箱とお味噌汁入りの魔法瓶を渡す。
「魔法瓶の中にお味噌汁入れておいたから、お弁当とお昼にね。食べれなかったら残しても大丈夫やからさ」
「……うん」
渡されたものに対し初めは怪訝な顔を見せていた葵だったが、中身を残してもいいと伝えたからだろうか、口元を緩め、頷いた後にお昼を受け取ってくれる。
素直に受け取ってもらえた事へ嬉しく思いつつ、この様子であれば毎日続けていけそうだと考えながら時計をちらりと見ると、既に時刻は7時を指していることに気付く。普段であればそろそろ葵は家を出る時刻だろうと思い、声を掛けることにする。
「よし、じゃあそれ飲んだら気をつけていってき」
しかし葵はその言葉に眉をひそめる。
「……お姉ちゃん、学校は?」
「えっと、葵、せっかくの可愛いお顔に皺が」
「学校は?」
どうやら誤魔化しはできないようだった。それどころか適当すぎる誤魔化しで余計に葵の笑顔には凄みが増す。
「あー……今日も1限遅らせて……」
「馬鹿言わないで、これで何回目だと思ってるの!」
「さ、さんかいくらい……」
「ろ・っ・か・い!!」
おかしい、葵とはこの時間に来てから一週間。確かに私は学校を初日は休み、それ以降は事情があり授業を1限のみ遅らせて行っているのは確かだ。けれどどうして葵にバレて……、そんな疑問を苦笑いしながら抱いていると、見透かしたように葵は「流石にそんな頻度高ければ先生から私に聞いてくるよ」と答えを言ってくれた。
「盲点やった……」
「盲点やったじゃないんだよ、私が出る時も制服に着替えすらしてないし、先生に言われるまでもなく気付くから」
どうやら私の行動がそもそも甘かったらしい。確かにそれもそうか……と言われて初めて気付く。『お姉ちゃん』の思考になるべく頼らないように生活をしているのだが、やはり理詰めな行動がまだどこか『私』には甘さが目立つ。いや、葵の事故を無くすための計画を練ったりこの時間には制約(バラドクス)が思わぬ所であったりと、思考すべき点が多すぎて見落としていた所もあるかもしれない。ただそれでも、今までの自分には無かった粗を、いざ突き付けられると考え込んでしまう。変わらなければならないのは事実だが、最も大事な今、変わるどころか劣ってしまっては意味がないのだ。
「ほら、急がないと間に合わないし一緒に準備するよ」
「へっ?」
唇に指の背を当てながら少しだけ考え事に耽っていると、唐突に色白の手が視界に飛び込んでくる。驚き顎を引くと、葵に手を掴まれているのが分かる。訳も分からずそのまま手を引かれ連れて行かれたのは洗面所だった。
「え、えっと……?」
「ほら、座って」
いつの間にか台所から背もたれのない椅子を持ってきていた葵は、椅子にタオルを敷いてから私を強制的に座らせる。何が何だかわからず、居心地の悪さを感じ背中を丸めていると、ポニーテールにしていた髪が葵によって解かれてしまう。突然の事に驚き固まっていると、解かれた髪に櫛が入りはじめる。
「あ、あおい?」
「すぐ終わるよ」
有無を言わさず葵に髪を梳かされる。それ自体はまだいいのだが、それよりも私には後ろめたい気がかりなことがあった。しかし葵はまるで気にしていないかのように淡々と慣れた手付きで髪を梳かしていく。
「お姉ちゃん、夜しか髪のブラッシングしてないでしょ」
「まぁ……でも最近は髪、まとめとるし」
「だめだめ、まとめるなら余計に夜だけじゃなくて朝もしないと。お姉ちゃんの髪、折角きれいなのに適当じゃ勿体ないよ」
「いうてもなあ……」
「変わらないのはブラッシングだけしてるからだよ、ほら」
葵は私の圧縮言語に即返事をする。よく分かるなと関心しつつ、促されるように葵の持っている鏡を見ると、そこには普段よりも艶がありつつもサラサラと葵の手から流れ落ちる様な私の髪が見えた。思わず感嘆していると「ね、きれいでしょ?」と、葵の少し自慢げな表情が鏡に映る。
久々に見たそんな葵の表情に、心臓が跳び上がるのを感じつつも何をしたのか聞くと、葵は小さな黄色のボトルを見せてくる。
「オイル?」
「私が使ってるヘアオイルだけどね。でも合ってなくてもこんなに変わるし、ちゃんと自分に合ったのを使えば、お姉ちゃんの髪だったらもっときれいになると思うな」
そんな葵の言葉に対し、鏡越しにぼんやりと葵の髪を見つめる。
「一緒やない……?」
「全然違いますー。ほら、髪も結んだよ」
葵は小さな口を尖らせつつも手を動かし続けており、葵と同じようにふんわりとサイドヘアーが結ばれ、背中側では対照的にすらっとまっすぐとしたポニーテールがあっという間に完成していた。ポニーテールを作るのには解けた髪飾りを再利用していた形だったのだが、葵の器用な手によって髪飾りのしなだれていた布の部分もピンと立っており、矢作柄がきれいに見えるようになっている。私では適当にぐるぐるしたひとつ結びだったのも、2つに作られた輪っかが花に止まる蝶のように、可愛く結ばれていた。
「おー、流石葵やねえ」
「ふふ、でしょ」
葵は小さな鼻を高くする。変わらず整った顔やなーなんて思いつつ自分の姿を改めて眺める。……手が込んどるし流石に今日限りかな、と考えていると葵は見透かしたように言葉を続ける。
「……別に今日だけじゃなくて、明日からもやってあげるよ」
どうして? そんな事を言う間もなく、手際よく後片付けをした葵は私を立ち上がらせ、また手を引いていく。
「ほら、セットも終えたし着替えて学校いかないとね」
解けよれた髪飾りに対して葵は言及するでもなく、むしろにこやかに流していく。
私が着替え終えた後も特に何も言ってくることはなく、私は逆に隠し事をしている子供のように気まずい気持ちが心を満たしていた。なぜ、どうして葵は何も言わないのだろう。そう思っても私は葵に何か言えるでもなく、ぼんやりと先程手を引いてくれた葵の手を思い返す。
私の手を引いてくれた葵の手は、変わらず暖かかった。
◇
モミジやイチョウの木々が並ぶ登下校の道、それはまさしく秋を感じさせるほどに色づいており、見上げれば朝の日差しに照らされた紅葉の隙間からきらきらと光がチラついていた。とても情緒的な風景だが、それよりも私は……。
「さむい……秋はどこや秋は……」
凍えるような寒さに身を打ち震わせていた。寒すぎんねん。
「昨日も雨だったししょうがないよ」
そんな私に隣を歩く葵は口元に手を当て、苦笑いする。
「それに9月もなんだかんだ暖かったし、身体がまだ慣れてないんだよ」
「そか、もう10月やしなあ……」
葵の言葉をきっかけに歩きながら少し考え事をする。今まで来年の11月から移動してきたのが私だと思っていたのだが、もしかして意識だけがこの時間の私に移っているのだろうか? と。
より寒い時期から来た私は本来であれば今の気温に対して暖かくすら感じるはず、けれど私が寒いのが苦手という前提があるにしろ、身体があまりにも今の寒さについていけていなかった。
タイムリープして一週間、少しずつ分かってきた事がある。
――まず1つ目に、間違いなくこれから先、うちが知っている出来事と同じ事が起きるという事。
全く同じ授業の時間割、同じ天候、同じ世間のニュース。たった一週間だけでも私の記憶にある景色は幾つも繰り広げられてきた。それはまさしく何一つ変わることのない鏡写しな世界。けれど全てが全て同じ訳ではなく、私の変えようと行動した出来事は少なからず変化を起こし、何日経っても変化後の世界を私は観測することができた。
何の因果かは分からない、けれどそれが意味することは、私が間違いなく時間遡行を経てここに存在しているという事だった。
このまま行けば、もしかしたら私は葵を助けることが出来るのかもしれない。そんな期待が生まれるとともに、本当に未来を変えてしまっていいのか? という不安をまだ拭いきれずにいた。
私がこれから先何もせずに日々を過ごせば、間違いなく同じ未来が訪れるのだろう。葵は事故をきっかけに眠り続けることになり、留学のために引っ越しもするはずが両方とも立ち消えとなり、葵に関わるものは何もかも時間が止まってしまう。そんな葵に対し、私はまた糸を掴むように起きて欲しいと願うだけの日々の繰り返す。
そんな未来は望みたくもない、望みたくもないけれど、他者の考えや行動を変える事に関してだけは、どうしても自分の中で嫌悪が渦巻いていた。
私にとって自分を変えるというのはあくまでも自己満足でしかない。他人に求めるものではなく、自分の中で完結するのだからまだいい。けれど私が葵にしようとしている事は一歩間違えば、葵自らが選んだ選択を私が誤りだと突きつけるような話だ。加え、この3ヶ月、もしかしたら葵の考えを変えさせたことで、葵に関わる人間の考えも変えてしまうかもしれない。そんな『もし』や『かも』を考える時間の猶予は一切無いのに、いつまでもうじうじと悩み続けてしまう。
そんな余計な考えの一切を振り払い、ただエゴを押し通せればよかったのだが、どうしても考えずにはいられなくさせるもう一つの事柄が着々と近付いていた。
「ねえ、歩くの遅いんだけど――」
明らかに葵から距離を離され始めていた私に、葵は振り返りつつ声を掛ける。その次の瞬間、ぼんやりと見える葵の表情が驚きへと変わった。
「――ってどうしたの!? 凄い顔色悪いけど……!」
「や、大丈夫……。大丈夫やから、先行っててや……」
――この時間帯でも駄目か。ドクドクと吐きそうになる程早く脈打つ心臓の音を感じつつ、心配そうに駆け寄ってきた葵へ、気にしないで欲しいと笑みを浮かべる。
「ばか! 置いていけるわけないでしょ!」
しかしそれが仇となったのか、葵は余計反発するかのように私を気遣う。
「ほら、肩貸すから。ここからなら家よりも学校のが近いから、保健室に行っちゃおう」
そう言われた瞬間に私は足元を見る。足元の道には紅葉した葉が落ちているが、それに紛れて明確な『線』が視界に入る。それは私の頭が見せる幻覚でも幻でもなく、間違いなくそこに在る「来るな」という警告表示。葵に肩を貸されながら、ゆっくりとそれに近づけば近づくほど身体の震えが止まらなくなる。私の本能が、全身が、アレを越えるなと叫び拒絶している。
「や……ほんま無理やからやめ、て……」
まずいと思い声を出そうとしても喉が締まり声は出ず、葵の腕を解こうとしても力は入らず、一歩だけ『線』を超えた瞬間だった。
「なにわけわかんないこと言って――」
世界が、ぐるりと回った。
ガン!と硬い石を打ち付けたような音とともに頭に激痛が走り、鼻から何かが流れ出ているのを感じる。
「――お姉ちゃん!?」
ふわふわと激痛すら忘れる様な心地よい意識の中、最後に聞こえたのは葵の叫び声だった。
◇
じっとりとした空気。耳に入る静かな水滴の音。
ここ暫くは見ていなかったのにな……と思いつつ重い瞼を開けると、そこにはいつもの子がいた。
記憶の途切れ方からして、恐らくあのまま気絶でもしてしまったのかなと考えるが、それよりも今は……と頭を横に振るう。
腕の中で段々と息が小さくなっていく彼女を静かに抱きしめ「ごめんな」と何度伝えたか分からない言葉を呟く。その言葉に今までであれば何も返事は無いはずだった。いや、記憶全てを遡ろうと在りはしなかったのに。
けれどはっきりと、私の知っている声で、意味のある言葉で、彼女は私に話しかける。「泣かないで」と。
思わず彼女を抱きしめていた腕に力が入る。私にはどうしても、彼女の声の意味が受け入れられずに居たから。そんな私の様子に彼女は苦笑いしつつ、言葉を続ける。
「これはしょうがない事で、どうしようもなかった事なんだから……」
そんな彼女の言葉にかぶりを振る。
「でも……でも……!」
――目の前で死んでまう子に何も出来ないのは違う……!!
「まったく……」
彼女の赤い目が私を見据える。
腕の中の小さかったはずの彼女は、一瞬の瞬きの間に私のよく知る大人の姿を取り、私の頬へ手を伸ばす。彼女の指先が目元に触れ、流れ落ちていた涙が拭われる。
「ほら、笑って?」
赤い目が細まり、まるで愛おしいものを見つめるかのように、彼女が笑っている事が分かる。
「大丈夫、私はちゃんと……君の中でいつまでも生きてるから」
――だから、もう忘れていいんだよ。
そう言葉を告げ消えていく彼女の言葉は、――と一緒で……どこまでも優しげな声だった。
◇
さらさらと何かが風に揺れる音が聞こえ、導かれるかのようにふっと目を覚ます。
目を閉じたまま聞いていると、それが秋風による葉擦れの音だと気付く。梅雨頃の風に近い、ゆったりとした空気の流れだが、あの暖かさも纏ったものとは違い乾燥し冷えきった空気は、どこか心に物寂しさを感じさせる。
――葵が目覚めなくなった日も、こんな空気やったな……。
その事を思い出し、きゅっと胸が締め付けられる。肺から溢れた空気を大きく吐き出しつつ目を開くと、白と黒の凸凹とした天井と電気の消えた蛍光灯が視界に入る。
「知らない天井や……」
――どこやろ、ここ。
周りを見ようとベッドから身体を起こすと、日差しで赤みがかった空色が視界に入る。
「……葵?」
返事はなく、どうやら椅子に座りつつも私がいるベッドへ突っ伏し、そのまま眠ってしまっているようだった。腰を痛めそうな体勢であり、起こそうかと思い手を伸ばすが、葵の目元が薄っすらと腫れていることに気付きやめる。手持ち無沙汰のように浮いた手をどうしようか悩み、そのまま葵の頭を撫でることにする。
妙にクリアな頭で私の身に何が起こったのかを考えるため周りを改めて見渡すと、薬品棚がカーテンの隙間から見え、どうやらここが保健室であると気付く。なぜ……?と首を傾げると、ツキリと頭に軽い痛みが走り、もう片方の手で頭に触れると、柔らかい布と金属の感触が手に伝わる。それが包帯と留具であると理解するのにそう時間はかからなかった。
――ああ、そか。うち、倒れたんか。
あまりに一瞬の出来事だったため、どうにも自分が倒れたという感覚がうっすらとしか記憶に残らなかったのだ。葵の目元の腫れを見る限り、かなりの心配をさせてしまった事に罪悪感を募らせつつ、その原因となった今朝の『線』を思い出す。アレは文字通り私にとって超えてはいけない『線』なのだろう。それが存在する理由もなんとなくだが予想はついていた。
私がタイムリープしているという前提が確信に変わり始めた時、まず第一に考えたのはやはり【どこまで・どう】未来を【変えられるか・変えていいか】だった。私が行動を変えた結果、死ぬはずのなかった誰かが死ぬことになる、そんなバタフライエフェクトと呼ばれる事象を引き起こすことをずっと懸念していたのだが、杞憂だったと思わざるを得ない。恐らく言葉や行動、そんなものはこの世界にとって本当に些細でどうでもいい事なのだ。……ただ2点を除いては。
結論から先に言えば、この世界において最も重要視されているのは【時間帯】と【場所】の組み合わせだろう。
今朝で言うならば、私はあんな【早い時間】に【学校】へ辿りついてる日は一度たりとも存在しない。それ故に、超えてはいけない『線』が出現することになったのだろう。
あの『線』を見るのこそ初めてではあったが、あの時間帯から学校に行くことに対して私はもっと前から、それこそ2日目から既に忌避感はあったのだ。未来を変えるというのは未来そのものへの否定になる。ならば私なんていう一個人では否定しきれない、未来が確約される様な何かがある筈だと、半ばこの考えの証明のために、私は意識的に未来の私とは違う行動を試していた。
葵が眠ったあとの遅い時間に家を出てみたり、朝日が昇るよりも早い時間にどこかへ繰り出たり。その中で時間帯を問わず、どうにも学校にだけは近づくのも気が重くやめていたのだが、今にして思えばそれは今朝の気怠さと全くの同じものであり、遠回しにでも既に『線』の影響は受けていたからこそ避けていたのだと理解する。それにしたって気が重いからと1限さえ行くのを渋っていた時点で、異常だったと気付くべきではあったが……。
なぜ登校時に『線』の影響を受けてしまったのかと考えると、私は葵を避けるためだけに、2年生の間ほぼ毎日遅刻スレスレでの登校を毎日していたからだろう。今朝だけで言えば登校猶予は残り10分も無かったはずだが、それでも未来の私とは異なった時間帯に学校へ登校しかけていたのがまずかったのかもしれない。
『線』に対する影響は今の所【学校】にだけ、だからこそ私の欲しい未来に影響は及ばない筈ではあるが……。
――関係はなくとも、どこか後ろ髪引かれる気分やな……。
気を失ってしまう程に強い強制力だ。今はまだ学校だけだが、もしかしたらそれ以外にだって拒絶されている場所がある可能性も捨てきれない。未来の自分の行動を一度振り返っておくべきかなと考えている時だった。ずっと髪を梳くように撫でていた頭がもそもそと動く。
「ん……」
「と、起きた?」
目を覚ました葵はぼんやりとした眠たそうな赤い目で私を見つめながら「……大丈夫?」と不安げに聞いてくる。
「え、ああ。まだ身体は重たいけどバッチリや」
これ以上心配を掛けさせまいと、私は嘘偽りなく答える。変に問題がないと言いすぎても仕方ないし、実際頭を打ったにしてはそこまで支障はなさそうであった。
「そっか、よかった」
葵は安心したように目を細めつつ、突っ伏していた身体を起こす。その姿はどこまでいっても献身的であり、私は少し違和感を憶えた。
「……葵?」
「なに?」
つい声を掛けてしまったが、私は何を言いたいのだろう。葵は別段私の記憶の中とそう変わりはないはずだ。けれど私の心の中はまるで小骨が突っかかっているかのように、わだかまりが抜けずにいた。
「や、なんかこう……優しいなって」
「あなたの妹は病人に厳しいとでも?」
声を掛けたにも関わらず、続く言葉が見つからなかったため、私はまた貼っつけたような笑顔を浮かべながら取り繕うような言葉を言ってしまう。その言葉に葵は不服を唱える。
「やー……ははは、そうやなくて、いつもと違てなんか」
そんな葵の様相に焦った私は、またも笑みを重ねてしまう。この癖は時間が戻ったにも関わらず、未だ根強く私の中に張り付いていた。変えたいと思いつつも焦りを感じてしまうと、どうしても恥ずかしさを隠すようにやってしまうのだ。特に、葵に対しては間違いを感じた時に焦ってしまい、癖が出てきてしまう。葵にこそこれは絶対にやるべきではないと分かっているのだが……。
「……なにそれ」
葵は唸るような声を出しながら、ゆっくりと立ち上がる。その表情は日差しを遮って陰となり、うまく覗くことができない。
「違うのは、私じゃない」
はっきりとそう告げる葵の目元は、影の中でも強く光る。
「違うのは、変わった(私を見なくなった)の(の)は(は)お姉ちゃんでしょ?」
「へ?」
葵に言われたことがよく分からず、ぽかんとしてしまう。
「や、最近は確かに変かもやけど」
違う、変わった、そう言われても私には何がなんだか分からなかった。葵にそこまで強く否定される謂れは無いはずだが……。いや、もしかしてここ最近の私の言動に対して言っているのだろうか? 葵の心境ははかりかねるが、私にとってそれくらいしか思い当たる節がなかった。
「そうじゃなくて」
けれどそれすらも違ったようだ。ならば葵にとってどう私は変わっているのだろうか。頭を悩ませていると、いつの間にか日は傾き、陰のとれた葵の表情は辛苦に満ちていて、私は口を固く閉ざしてしまう。何か、何か葵に言ってあげなければならないと思うのに、私にはなにも、葵にとって救いになるような言葉は持っていない気がしたから。
「……そうじゃなくて」
私が口を閉ざしていると、葵はゆっくりと確かめるように言葉を紡ぎ始める。
「もっと前から……私が離れるって言ってから、ずっとだよ。あれからずっと、私のことなんか見てない」
私はそれに対し、何も言えなかった、言える訳がなかった。葵の吐き出している言葉はここ一週間の私だけではない、もっとずっと前も先も含めた私に対する怒りのようなものだったから。
「今だって……」
「そんなことない!ちゃんと」「あるよ」
――今は。そう言おうとしても葵の言葉によって塞がれてしまう。本当に今は違うと、信じて欲しいと訴えようとした所で、私にはまだ葵に対する時間(信頼)が足りていない。それを実感する程に葵の視線は、炎が氷に閉じ込められているかのように冷たく鋭い。
「私のお姉ちゃんはそんな人じゃなかった」
『お姉ちゃん』その言葉に背筋が凍る。
葵は身体を翻し、私へ背中を見せる。その視線の先には窓ガラスがあり、葵の憂う様な顔がうっすらと見えた。
「何があっても目を逸らさないで向き合ってくれる」
葵の言う『お姉ちゃん』へ語りかけるように、窓ガラスを眺めながら、触れながら、ゆっくりと葵は語りかける。まるで私達以外の時間が止まってしまったかのように空気は冷たく張り詰め、葵の小さな息遣いだけが耳に届く。
「そんなまっすぐなお姉ちゃんだから私は……」
――葵が、見ているのは……。
「ねえ」
葵はふわりと踊るように振り返り、にこやかに私の目を見つめる。
「いつまで夢見てるの? お姉ちゃん……」
「――っ」
まるで葵の言葉に促されるかのように私はベッドから飛び起きた。
耳にまで届くほど強く脈打つ心臓が、起きたばかりの私の意識をはっきりとさせる。胸を強く掴みながら右隣の窓を見てもそこには葵はおらず、先程見ていたのは夢だったと理解する。
――あれが、夢……?
私の知っている夢とは一切異なる夢を見たことに、私は異常な程動揺していた。私の見る夢はもっと色は無く、暗く、じっとりとした、血だらけの……。
「おや、起きたかい?」
ふと、声がかかる。人がいると思っておらず、改めて周りを見渡すと、薄茶色の着物が目に入る。
「せん、せい?」
顔を上げその人を確かめると、担任の東北先生がいた。東北先生は私のクラスを受け持っており、主に現文や古文だけでなく、歴史までもを担当に持つ文学のスペシャリストだ。加えて担当教諭が留守の時は数学すら担当をしている姿も見かける。そんな彼が着ている服装は今では物珍しい薄茶色の着物であり、それは彼の普段着であるらしく、中には白のワイシャツを着込んでいるのも見える。そんな文学系青年教師は我が校の女生徒に大変な人気を博していた。
「僕の事が分かるなら上々、救急は呼ばなくてもよさそうだ」
東北先生は私の言葉に満足したようににこりとする。他の女生徒に見られたら未来の私以上に顰蹙を買いかねない状況にヒヤリとするが、それよりも東北先生の「救急」という言葉に引っかかりを覚えた。
「救急て、そんな大袈裟な」
「君がすぐ起きてくれたなら大袈裟じゃないんだけどね、僕としても判断を迷ったよ」
冗談を笑い飛ばすかのような私の態度に東北先生は苦笑いしつつ、ワイン色の絹のストールと中折れ帽子を被り、帰り支度をする。その様子に違和感を感じていると、強い日差しが目に入ってきた。
「すぐ……って。え、夕日?」
眩しさに目を細めながら日差しの入って来た窓ガラスの方を見ると、辺りは既に影が薄くなるほどに暗く、夕焼けの終わり際のオレンジ雲だけが空に漂っていた。
「おめでとう琴葉君。君は無事1限だけでなく全日休みだよ」
「うっせやろ……」
――丸1日て、どんだけ学校行く行為がアウトやねん!
先生は皮肉るように笑顔で言うが、私にとっては冗談でも全く笑えない出来事だった。別に学校に入った訳じゃない、あくまでも私は至って普通の時間に登校しようとしていただけだ。あの『線』は学校への距離として考えても、まだ徒歩10分はある筈の場所。どうやらこの世界にとって、朝の学校というのはよっぽど私に近づかれたくない場所らしい。
なぜそこまで私を遠ざけたがる? いくら考えた所でその答えになる材料はまだ持ち得ない気がした。だがそれよりもやはり気がかりなのは、学校以外にも『線』が存在する場合だった。
――なるべく未来の自分に沿った行動を取るにしたって、流石に時間単位でとなると全部は全部覚えてへんぞ……。
近づけないなら近づけないでいい。だが意地でもそこに行くことが必要になった時、たった3ヶ月しかない中で丸一日ものタイムロスが発生するというのは、どうにもこれから先が思いやられ気が遠くなる。
「ほら、帰れそうなら暗くなる前に早く家に帰りなさい」
帰り支度を終えた東北先生は私へ帰るように促す。
「あ、はい。先生もありがとうございました」
「何、僕はほぼ放課後しか見ていられなかったから、お礼は妹に言いなさい」
ベッドから足を下ろし、隣の椅子に置いてあったバッグを手に取ろうとした時だった。気になる単語が耳に入る。妹?
「……葵ですか?」
「うん、休み時間になるたびに君の様子を見に来ていたからね」
東北先生は迷いなく頷き答える。どうやら見間違いなどではなく、本当に葵は足繁く保健室にいる私の元へ来ていたらしい。それも東北先生が確認出来ただけでもそんなに多く葵の姿があったのだ、つまり実際は授業終わりや昼休みなど、どうしても外せない時を除き、いの一番に来ていたのかもしれない。
「葵が……」
あの葵は、本当に夢だったのだろうか。知り得なかった葵の行動を知ってしまった事で、そんな疑問が浮かび上がってくる。私はあまりお世話になる事のなかった保健室の間取りや飾りをよく知らない。葵がいた保健室の夢も、今の東北先生がいる保健室も、どこにも違いや違和感のようなものは感じられず、だからこそ現実感が増してしまう。
もしかしたら私は確かに葵とここで言葉を交わしたのだろうか? ならあの夢と思ったどこからが本物で、どこからが私の頭が補完してしまった葵なんだろう。今の私には、本物の妹と想像上の妹、その違いを理解する事が出来なかった。
「……はぁ、やっぱり送っていく事にするよ」
少し思索に耽り過ぎただろうか、下げていた顔を上げると、困ったような、普段の教師としての姿ではなく、幼さを感じさせる表情をしながら東北先生は声を掛けてくれた。
「え、や、悪いですし大丈夫――」
私はそう断ろうとするが、首を振られてしまう。
「丸一日も目を覚まさなかった生徒を起きてすぐ歩いて帰らせたとか、流石に後ろ指さされるんだ。素直にこの厚意は受け取っておいてくれ」
東北先生から出てきたのは優しさとは少し別物ではあったが、大人というのは理由付け(いいわけ)が大事というのが分からないほど私は子供ではない。それなら厚意にありがたく乗っかりつつ、その取って付けた様な理由はからかっておくくらいが礼儀だろう。
「それは厚意やなくて打算じゃ……」
「うるさい、裏庭に車を出すからそこで待ってなさい」
私のからかいに東北先生はほんの少し顔を赤らめつつ、ここ、と室内を指差してから外へ出ていった。こういった所が学生にとって受けがいいのかなとぼんやり考えながら「はーい」と軽口に返事をした。
◇
保健室の中で待つのも退屈で、私はカバンを手に持ち外で待つことにする。
辺りは既に暗く、見上げれば濃い青を塗り尽くしたような空をしており、もう夜なんだなと否応なく実感する。
秋も中頃。朝とはまた違う冷たさを纏った空気は、足先や指先から伝播し痛いほど寒さを感じさせてくる。体が冷えれば心も冷えてくるもので、胸の奥にぐったりとするような重みが纏わりつくのを感じ始める。
今日あった出来事は単純に言ってしまえば、行ってはいけない場所に踏み入れた事で1日眠ってしまった、ただそれだけ。……なのだが、それ以上に心が早くも参ってしまっていた。
今までの私と言えば、常に思考、行動、どちらの判断にもまず『お姉ちゃんなら』が存在していた。けれどその判断基準をなくした瞬間、今までの自分がどれだけ思考放棄をしていたのかと思わざるを得ない程に、たった一週間でさえ、考え事をする時間に対し疲労の溜まりが早い。
夢の葵は私に『お姉ちゃん』を望んでいたが、私には都合のいい夢だと感じてしまう。こんなにも考えることが大変で、ひいひいと呻くように過ごす私にとって、それをやめられる『お姉ちゃん』はとてもあまいあまいお誘いだった。
『お姉ちゃん』の一環としてやってきたきちんとした身体作りが無ければ、今はまだしも近いうちに折れそうになる時が来ていたかもしれない。そんなちぐはぐな心身が見せた現実逃避の夢、そう思いたい。『お姉ちゃん』は、葵が私と離れると聞いた瞬間考えることをやめてしまった存在。そんな『琴葉茜』をあの子は望むのだろうか……? 分からない、分からないけれど、あって欲しくはなかった。
冷え切った体か心かが身を震わせている時だった、グルルル……と大きな犬の唸り声の様な音が聞こえ、閉じていた目を開きパッと顔を横に向けると、横長に大きな明るい目がこちらへゆっくりと迫っていた。驚き固まっていると、大きな目は私を通り過ぎてから止まり、中から人が出てくる。
「先生か……」
「すまない、ライトが眩しかったかな」
長い時間暗闇で目を閉じすぎたせいだろう、ライトの眩しさで輪郭が分からず、車だと判別することが出来なかった。
今時にしては変わった音の車だな、と思い眺めると、あまり見ることのない細い身体をしており、見たことのない星の様なエンブレムも見え、所謂外車だという事が分かる。
「先生って服装に合わずいい車乗ってんね」
「これはどちらかと言うと譲り受けたものだけど、まあ似合わないのは認めるよ」
和装をしながら外車を乗り回す、そんな姿を想像し首を傾げていると東北先生は苦笑いしながら助手席側に回ってきた。
「はい、どうぞ」
慣れたような所作で車の扉を開き、手を添えて中へと案内してくれる。そんな絵に描いたような姿に思わず私は笑ってしまう。生まれてこの方恋などしてこなかった私でも少し心にくるものがあり、女生徒達に大変な人気を博している理由も理解できた気がした。
「それは凄く似合うわ、ども」
◇
学校と私の住んでいる家まで徒歩30分の距離。車では10分にも満たない距離なのかと思いきやそんな事はなく、18時に差し掛かった頃の道路は非常に混んでおり、この車本来の性能など1割も発揮できていないであろう事は想像に難くない程に、ゆっくりとさらさらとした流れるような喧騒の中を進んでいた。
私は正直な話、良き生徒ではない。どちらかと言えば不良生徒に近い行動を取っているため、担任である先生から何か言われるのではないかとそわそわしていたが、東北先生は全くそんな事はせず、ただ静かに音楽の流れるラジオを聞きながらゆったりと前だけを見ていた。
「先生、窓開けてもええですか?」
とても時間が遅く感じる様な落ち着いた空間なのに、そんな空気に私は居心地の悪さを覚え、外の空気を吸いたくなった。
「構わないけど、雨が降った後だから身体を冷やさないようにね。ブランケットは後ろの席にあるから、欲しくなったら取りなさい」
「至れり尽くせりやなあ」
東北先生は嫌な顔一つとせず、ラジオを切りながら了承をしてくれる。お言葉に甘え借りた、うぐいす色の暖かそうなブランケットを膝の上に掛けつつ、窓を少しだけ開け外をぼんやりと眺める。
車が走る度冷たい風が顔を掠めて行くが、それでも閉じきった暖かさよりもこちらの方が私はまだ落ち着いていられて好きだった。
高校に入ってから親と離れて暮らしている身である私には、車に乗る機会もなかったため、どうにも心が落ち着かない。いや、それ以前に私は車の中というのが苦手なのかもしれなかった。
葵と私は2度離れて暮らしていた時期がある。別に家族の不和とかそういうのではなく、私達2人の身体が弱く、一緒に居られなかったというのが理由だった。
1度目は小学校に上がる前の話であり、葵は憶えていないかもしれない。元々私たちは関西の山や湖に近い場所に住んでいたのだが、父の仕事の都合で関東の方へ移住する筈だったのだ。しかし引っ越しも間近という所で私が体調を崩してしまい、色々とごちゃごちゃしはじめてしまった。
ただ移住を延期などにできればよかったのだろうが、既に家を購入していたため2軒ある状態になってしまっただとか、体調が優れない私のために関西の家を引き払うことをやめてしまったりだとか、父はそれまでの仕事を突っぱねて本を書くことで関西に残れたが、母は母で関東に仕事の本拠地を移し終えてしまっていたために戻れなかったりだとか、私の病気を治すのに空気の澄んだ関西の家の方が丁度良かったりだとか、そういう色んな積み重なりにより、私は関西、葵は関東と離れて暮らすことになる。
私の体調が戻った後に父と共に関東へと移るが、2年後、今度は葵が体調を崩してしまう。それに連なるように、私はまだ完全には治りきっていなかった病に併せ合併症を患い、専門医のいた関西に戻らざるを得なくなってしまった。1度目は葵がよく分かっていなかったのもあるだろうが、この時は葵がギャン泣きして私と離ればなれになる事を嫌がっていた姿は、鮮明に今でも思い出せる。
父と母は私達の身体が非常に病に弱い事を既に承知していたため、備えとしてどこでも暮らせるような仕事を出来るようにしていたそうだが、私達の症状は双子なのにも関わらず全くの別物で、それぞれの専門医が関西関東で別れていたという、なんともどうしようもない運命の悪戯により、再び離れて暮らすことになった。
3度目の再会をしたのは中学に上がってからだった。けれどその間一切葵と会うことがなかった訳ではなく、私の体調が安定している時は父に連れられ、車で葵達の元へ泊まりで行くことがあった。私にとってその時間はとても楽しみであるのと同時に、寂しさのようなものがいつも心を占めていた。
父との長い長い旅の様なドライブは好きだったし、葵とお互いが療養中に読んだ本の感想や、新たに好きになった本の話をするのも好きだったし、葵の病態が安定している時は私達の好きな料理を出してくれる母も好きだったし、家族みんなで一緒に過ごせる特別な朝も昼も夜も、私にとって大好きな日だった。……けれど、特別は特別でしか無い。日常ではないその時間はいつも終わりが近付いてくる。葵と交わす「またね」を皮切りに、終わりの時間は始まる。
父と帰る夜の道路は行きよりも空いており、瞬く間に葵達の過ごす場所から遠のいていく。行きは見慣れた道なのに、逆方向になっただけの帰り道は真っ暗で見知らぬ道。そんな父頼りの帰り道はとても悲しく、寂しく、いつも父には気遣われ、助手席にいる私を唐突に撫でてくれたり、途中のパーキングエリアでアイスやジュースを買ってくれたりしてご機嫌を取ってもらっていた。
お陰で甘いものがとても好きになりつつも、あれだけしてくれた父には申し訳ないが、私にとって夜の助手席というのはどこかあの寂しさと特別を思い出してしまう、心の重く苦い、そんな場所だった。
「琴葉君」
「なんです?」
家まであと半分といった所だろうか、何度目か分からない赤信号に引っかかり止まった時、東北先生から視線を向けずに声が掛かった。
「妹と喧嘩でもしたかい?」
「げほっ!?」
思ってもみなかった言葉に思わず喉が詰まり咽せてしまう。
「唐突に親みたいなこといいますね!? なんで急に」
「いや……茜君の雰囲気が、ね」
私としてはある種図星だったため理由が気になった。私と東北先生は別に親しい訳ではないし、なんなら私は高校生活をあまり人と関わらないような過ごし方をしている。そんな中、一発で私の悩みを言い当ててくるのは不気味ですらある。
しかし東北先生は私の疑問に対し、どうにも歯切れが悪い。栗色のきれいな短い髪を掻きながら、言って良いものかどうか頭を悩ませているようにも見え、私はせっつかずに答えを待ってみる事にする。
すると数拍、間を置いてから「うちの姉に似てたから」と、気まずそうに口を開く。
確かにあまり打ち明けてない家族の話を生徒に打ち明けるのは気まずいかもな、と思った所で、今度は別の疑問というか、驚きがあった。あまりに落ち着いた雰囲気からして、もし兄弟姉妹がいるとしても一番上かと思っていたからだ。
「先生、お姉さんおったんですか」
「んー、2人ね。年は離れてるけど」
なるほどなるほど、それなら分かるかもしれないと得心する。私にとって兄弟姉妹というのは結局の所一番に浮かぶのは葵との関係だ。姉妹といっても生まれた時間に寸分の差しかない双子で、だからこそ生まれ年が数年でも違えばそんなものかと思ったのだ。
それにしても……。
「じゃあ一番下の長男ですか、いびられそうな立場やね」
落ち着いた様相は逆に不憫な立場だったのだろうかと余計な勘ぐりをしてしまう。年が離れていれば逆に可愛がられそうな立場かもしれないが、女性が多い環境では中々男性では自我が出し辛そうではあった。
しかし私の言葉に東北先生は時が止まったように一拍置いてから、栗色の目を見開いた。
「っげほ!? 三女だ! 僕は男じゃない!」
「あれ、そでしたっけ……」
言われれば確かに、とは思った。今までは男性として、とても華奢だけれど良い大人という印象であったが、女性と言われればまた違った、ゆったりとした雰囲気を纏う素敵な大人という印象に変わり、改めて人気な理由にも強く頷けた。
……しかし、先生を一度でも女性と考えている人を私は見たことがない。それに対し首を傾げていると。
「全く……ていうか、君がそう思ってるってことはまさか」
「結構おるんやないかなあ……先生に手紙書いてる子とか見かけますよ?」
そこまで言った所で失言を自覚する。
「なん……っ!?」
「あっ、えーと! なんでしたっけ、うちがお姉さんに似てる! 続き聞きたいなー!」
好き好んで性別を誤解されたい人なんている訳もなく、教えてしまった申し訳無さもあるが、私は早々に話題を切り上げる事にした。私には手紙を送ろうとしている子達の行く末にまでは責任は取りかねる。
にこにこと下手くそな笑顔を向けていると、東北先生はジトっとこちらを一瞥した後、ため息をついてから「別に面白い話ではないよ」と話を進めてくれる。
「ただ、喧嘩した時の姉さまに似てるなって」
喧嘩、先程も出てきた言葉だ。私は別に今の葵と喧嘩をしているつもりは無いが、東北先生から見たら私は葵と喧嘩をしており、その姿が同じ姉である姉さまとやらと被るという。
今の私は口を噤んで思索に耽ってしまう事が多い。もしその姿を見て、先生が近寄り難いような空気を感じたならば私としては良くない傾向のため、改善のためにきちんとどんな雰囲気を纏ってしまっているのかを聞くべきだろう。
……それに少しだけ、他人の姉なる存在に興味もあった。
「喧嘩したときって、うちが怖いってことですか?」
「あー、そうじゃない。喧嘩って言っても怒りみたいのじゃないんだ」
それを聞いて少し安心する。もし葵にそんな態度や様相を見せているとしたら、それを一週間も続けてしまっている状況とこれからに打ちひしがれる所だった。
私が力んでいた肩を落としたのを見てから、先生は言葉を続ける。
「僕と姉さま達は一回り年が離れていてね。だからかな、喧嘩になったら姉さまは困ったように、頭をよく抱えてた」
「それがうちに似てるんですか?」
「そう、だね。何か言いたいことはあるけど分からなくて困ってる、そんな感じ。……下手な喧嘩だよね。言っちゃえば」
分からなくて。その言葉には色んな意味が含まれている気がした。
喧嘩と言うのは互いの考えや思いが何かしら衝突した時に起きるものだ。ならば先生のお姉さんは喧嘩をする上で、自分なりの正しさを持っていたと思う。それでも何かを言い淀んでしまうのは、年の離れた妹と諍いを起こす事へ何かしら思うことがあったのだろうか。葵と一度もぶつかりあった事の無い私には、その全てを読み取るにはまだ、よく分からなかった。
「……喧嘩、してるつもりはないんですけどね」
今の私は葵とやり取りして何かぶつかり合っている訳では無く、相手は夢なのだ、それは結局私自身の一人相撲でしかない。この状況を喧嘩と名付けるには彼女への想いも、考えも、私の曲げられない信念も、何もかもが足りていない。……『私』には喧嘩の仕方もきっと分からないのだ。
「ていうか、先生が喧嘩してる姿なんて想像つきませんね」
自身の現状にため息を吐きそうになりつつ、喧嘩とはなんぞやと考えた時、私には東北先生が喧嘩をしている状況というのに疑問を感じた。先生が大人というのもあるのかもしれないが、それを差し置いても怒りに結びつきやすい事象と先生が対峙しているというのは、どうにも想像がつかない。けれど私の言葉に先生は頭を振るう。
「そうかな、僕だって心の内を吐き出したくなる時もある。変わっても変わらなくても、自分を知ってほしいから言葉を出す」
「……なんか先生の喧嘩って、随分知的ですね」
私の想像していた喧嘩とは随分と様相が違い、呆けてしまう。喧嘩とはお互いが納得できないからこそ言葉の殴り合いになってしまうものかと思っていたが、どうやら私の見方は少し改める必要があるように感じる。
流石は教師の立場を持つ人だな……なんて眼差しを向けていると、東北先生は苦笑いを返してくる。
「そうありたいってだけさ、実際はもっと泥臭い」
「えー? どんなんですか?」
純粋にとても気になった、先生の考え方が。私としては葵と今後も喧嘩をするつもりはないが、それでも自分の認識に無い東北先生の在り様や考え方にとても興味が湧いたのだ。加え、先生はお姉さんを2人と言っていたが、どちらか1人だけを見据えて言っている気がして、同じ姉という立場ながらに、似ていると言われるお姉さんに対して、知りたい、話したいという思いが今の私にはあった。どうにかもう少し先生の話を聞けないだろうかと考えていると、車が停止してしまう。
「……僕はどっちかと言うと葵君に似た事をするかな。ほら、到着だ」
「え、あ、ありがとうございます」
どうやら時間切れのようであった。外を見れば既に家の前であり、ハザードランプのチカチカと明滅する光で、私の家がリズムよく照らされていた。
ここまでかな、と思い、貸してもらったブランケットを折り畳み、東北先生へと返そうとすると「ああそうだ」と先生は矢庭に声を出す。
「茜君、1限遅らせて来るのはいいけど今度課題を出すからね」
「うげえ、テストの点還元やだめですか」
私が戻った今の時期は絶賛中間試験間近であり、対策のテストが多量に出されていた。元々好成績を取るようにしていた私にとって、1年前の内容というのは気楽に解けるものであったため、幾つか満点を取った上で授業の1限目を見送っていたのだが……。
「満点を叩き出す不良は反感を買いやすい。もっと君は波風立てない動き方を学びなさい」
「ちぇー」
波風立てない、そう言われても中々に難しい問題であった。私には3ヶ月後に関する事で正味頭が一杯過ぎて、他を気にする余裕がない。いや、『私』として生きるという目的も含めれば、そういった問題もきちんと取り組んで生活していくべきではあるのだろうが……。
「何、君が面白く取り組めるものを用意しておくよ」
あまり深く考え事をしてないように見せかけるため軽口を叩いているのだが、東北先生はそんな咄嗟の薄っぺらな繕いを除けるように対処を考えてくれた。臨時的な物だろうが、出る杭たる私が誰かに曲げられる前に叩いてくれる、そんな対処に安堵をする。私としてもこれ以上自分の悪評が目立てば、在りし日のように葵にまで悪評が行きかねない状況だったため、気持ち的にとても助かった。
何を目的としどう動くべきか、何が障害としてありどう乗り越えるべきか、何が最善でありどう考えていくべきか、その上でやってはいけない事があるのかどうか。それらが未だにあやふやな状況で立っている今の私にとって、少しでも考え事を無くせる物というのは本当にありがたい限りだった。
「それじゃあまた、明日学校で」
そう先生は口にすると、後方を確認してから車のドアロックを解除してくれた。
本当によく気が回ると言うか、凄い人なんだなという感想が先生には尽きなかった。今まで周りを見ることが無かった私としては、理想の大人として振る舞える先生という人に憧憬の念を抱きつつすらあった。
「はい、また。ありがとうございました」
扉を開け車の外へ出ると、全身が冷気に覆われヒヤリとした感覚に身体を震わせる。倒れた後にこんな寒空を歩かせられるのも確かにしんどかっただろうな……と改めて思い、車の扉を閉めた後、もう一度深々と東北先生へお辞儀をしておく。先生は変わらず苦笑いしつつ片手をあげた後、車を走らせ去っていった。
この時間に来てから一週間、東北先生との会話は私にとっての総評を突き付けられた時間でもあったように感じる。
『私』として何から何まで選択をし続けたこの時間は、たった一週間といえど明瞭に違う顔を見せ始めている。それは私にとって良い傾向であったとしても、周囲からしてみれば悪い傾向とも捉えられる内容であり、自分の行動が何を招くかを理解しきれていなかったが故の変化であった。
ある種当然の帰結ではあるのだ。『私』の目的はあくまでも3ヶ月後や1年後の話でしか無い。それに比べ『お姉ちゃん』は目標や目的意識ではなく在り方を考えるからこそ、短絡的な行動を絶対にしない。『私』に足りないのは『お姉ちゃん』以上に物事を考える事ではなく、もっと先……葵がいなくなった後どうなりたいのか、そんな未来の話をしなきゃいけないのだろう。
――やけど。
寒空の下、感覚の薄くなった悴んだ手を丸めながら見つめる。
未来……というのが、私にはどうにも薄っぺらく感じてしまうのは、これからどうにか出来ることなのだろうか。
息を深く吐き出しながら家の門へと振り返り、扉の鍵を開いて取手を掴む。扉が普段よりも重く感じてしまうのは、私の身体がまだ本調子ではないからなのか、それとも気持ちの問題なのか分からない。
――ただ、それでも。
私は唯一の双子である葵を助けられればそれで――
「おかえり」
居間の扉を開き電気をつけた先、そこに声の主はいた。
「お、わ……。ただいま……」
跳ね上がる心臓を押さえつけ、まっすぐと私を見据える赤い目を見ながら返事をする。
「なんや、電気もつけんでびっくりしたぁ……」
真っ暗だった部屋の机にはお夕飯の支度がされており、シンメトリーに用意されているものにはラップが掛けられていた。それを見て私はまずったな……と舌を噛む。
保健室で起きてから私は葵に連絡を一切入れていない。先に帰っているということは東北先生から葵へ連絡は行っている筈だが、それでもチラリと時計を見れば既に時刻は18:30。普段の私達の夕食時からは30分も過ぎており、そんな中で連絡を1度たりとも入れないのは不義理が過ぎていた。
「や、やー、今日はほんまごめんな。朝多分驚かせたよなあ」
葵の表情は変わらない。ただじっと私の目を見つめて話を聞く。
「朝最近調子悪うて、あそこまで酷いのはなかったんやけど……」
「…………」
シンとした冷たい空気の中、時計の秒針の音だけが部屋に嫌に響く。
私は葵と一度たりとも喧嘩をした事がないし、今だってしているつもりはない。けれど私の言うことに何も反応しないまま、ただじっと私の目を見つめてくる葵に対し私はどうしたらいいか分からず、冷たいはずの身体からは汗が吹き出る。
葵は私が何かを言うのを待っているのだろうか? 分からない、分からない。
「あ、あの、あお――」「たのしかった?」
「……へ?」
私の言葉は遮られ、よく分からないことを葵に聞かれる。楽しかった、楽しかったってなにが? 頭をいくら回転させても、向けられた言葉の意味が理解できない。
葵はじっと見据えていた目をゆっくり、優しく細めながら「先生と帰ってくるの、楽しかった?」と再度声に出す。
その言葉を聞き、ふっと居間のカーテン……家の前が見える窓のある方向を見ると、少しだけカーテンが揺れていることに気付く。
言葉のまま受け取っていいのならば、私は「楽しかった」と答えられる。けれど葵の聞きたい事はそこでは恐らく、ない。
「えっ……と、言ってる意味が……」
――うそつき。
頭の中に自分の声が反響する。
――うそやない。
本当に私には分からないのだ。葵が待っている言葉も、ころころと表情を変え、先程まで笑みを浮かべていた筈の顔も今は不安げな表情へ変わってしまった理由も、私がそれに対して何をすればいいのかも、何も分からない。……それは、今までの私だって同じだった筈だ。この分からないという感情のせいで葵を怖がり、あの日を迎えることになったんだから。
だからこそ私は……『お姉ちゃん』をやめたのだから。
「やっぱり、なんでもない。ご飯、私はもう済ませちゃったから2階行くね」
私が考えあぐねていると、葵は身体を翻して部屋に戻ろうとする。その背中を見て、私は。
「待って!」
葵の腕を強く掴んだ。
「な、なに?」
……私は、未来を変えるなんて恐怖にも、責任の重さにも、何も向き合うことができないほど心が弱い。たとえ愛すべき妹のためだとしても、未来が変わるのを最小限に抑えようと考えているのが今だ。そんな心の弱い私だから、『お姉ちゃん』であろうとする生き方は本当に楽だった。楽で、楽で、楽で楽で……未だに棄てきれないから、頭に声が聞こえる。
人は一度楽を知ってしまえば、わざわざそれをやめてまで苦しい道へ行こうとはしないだろう。たとえその先に失敗があったとしても許容出来てしまう程に、人には長く苦しい思いをする事への耐性なんてない。
「あの、お姉ちゃん……?」
けれど、だけど、でも。そんな否定の言葉を幾つも並べてでも。たとえ楽なんて事が万に一つとない道だとしても。私は――未来が欲しい。
「少し、少しだけ……話せへんかな……?」
下げていた顔を上げ、下手くそな笑みを葵に向ける。
「……うん、いいよ」
そう返事をしてくれた葵の言葉で、私はようやく前へ一つ進める気がした。
◇
「はい、コーヒー」
「あ、ありがとう」
居間のソファに座っていると、葵から桜色のマグカップが手渡される。葵はそのまま私の対面ではなく横に座った後、空色のマグカップを両手の指先で持ちながら、口元へと小さく何度か傾ける。
真っ白な頭で何を話したら良いかぐちゃぐちゃと線を書くように考えていると、コトンと葵のマグカップが机に置かれる音で視線が少し上がる。その先には2つ、黒の丸。
「葵も、コーヒーなん?」
「うん? うん」
「えっと、いつから……?」
「いつからって、結構前から普通に飲んでるけど……」
――知らない。
驚きで顔を上げ葵を見ると、もう一つ私は見れていなかったことに気付く。
「そう……いえば、眼鏡は……?」
「ああ、学校から帰ってきた後だからコンタクトのままだった」
――知らない。
うちの知ってる葵は甘いものも苦いものも苦手で、目薬だって怖がる子で。
――ああそうか、うちは。
「やっぱり、見てなかったんだね」
その言葉に背筋が凍る。やっぱり、という葵の声は普段と何ら変わりはしない。けれど底知れない失望の様な感情が言葉に籠もっている、そんな気がした。
いつからだろう、私はいつから葵の変化を気にすることができなくなってしまったんだろう。そう自問自答しても答えはでない程に、葵という存在から目をそらし続けていた事に気付かされていく。
「お姉ちゃんが最近、私を気遣った生活をしてくれてるのは分かってる。なんで突然そういう事をしだしたのかはよく分からないけど……」
葵はマグカップを膝上で休ませながら言葉を紡いでいく。私はそんな葵の顔を見ることが出来ず、ただ横目でコーヒーの湯気越しに彼女の姿を窺うことしか出来ない。
姿すらまともに認識出来ていなかった姉が気遣ってくるというのは、葵にとってどれだけ異質に見えていたのだろうか。
「……でも、私だって同じくらい……。ううん。それよりもずっと、お姉ちゃんの事を考えてるつもり。……独りよがりなのは分かってるけどね」
「そんな事……!」
微かに残った息を吐くかのように呟かれた葵の言葉に、私は顔を上げて強く否定する。けれどそんな私の言葉に葵は顔を歪ませ「じゃあ、なんで?」と続ける。
「なんで、先生と楽しげに帰ってきてるの?」
――あーあ。
まるで両手を広げ首でも振りそうな声が頭に響く。うっさいと頭を殴りたくなるが、私はその言葉を馬鹿にしきれなかった。
葵は一体何を考えて質問している? 葵はそれを聞いて何になる? 私はどうしてそれを分かってあげられない?
いくつ疑問を浮かべようと、喉に栓がされてしまったように、何も口にする事が出来なかったから。
「朝からずっと不安で怖くて、眠ってるのに冷え切った身体のお姉ちゃんに私は何もしてあげられない。放課後もすぐ帰らされて、あの人に任せなさいって言われるだけで……!」
葵は言葉を吐き捨てるように矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。その声はとても冷たく、震えながらも鋭い。
「なんで、ねぇ、なんで?」
葵は手に抱えたマグカップの中を覗き込むような形で俯きながらも、言葉を続ける。
沸かしたばかりのお湯で淹れたはずのコーヒーも既に湯気は出ておらず、葵の指先の白さから、どれだけ葵が身体を強張らせつつも話しているのかだけ、私はようやく理解が出来た。
「こんなに考えても、どんなに悩んでもお姉ちゃんは……!」
「あ、あおい……」「触らないで!」
マグカップを持ちつつも震え続ける葵の手を宥めようと、右手で触れようとするがバチンっと鈍い音を立てながら、その手で弾かれてしまう。
驚きつつ葵を見ると、今にも涙を零しそうなほど潤んだ赤い瞳が私を強く睨みつける。
「私は……私は……!」
震える声、それを聞き届けようとまっすぐ見据えるも、続きはない。
「わたしは……」
一拍置いて葵が肩を落とした時、歪んだ顔は力が抜けるように悲痛そうな表情へと変わり、それと同時に葵の目元から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「おねえちゃんが、わかんないよ……」
その葵の言葉で、私はようやくただ呆然と開いていた瞼を大きく開けた。
葵の目元からは涙の跡を伝うように、とめどなくはらはらと雫が零れ落ち続けている。そんな葵を見ながらも、私は「ごめんな……」と声にする事しか出来なかった。
……私には葵の言葉の意味や意図、それらを何も理解する事が出来なかった。けれどそれは葵にとっても同じで、お互い何も理解できないことを話し合った事なんてないし、何が分からないのかも伝えたことがない。そんなの、何も分かり合うことが出来る訳がなかった。
葵にとっての分からないは、タイムリープをしてきた私に対してだけではない、『お姉ちゃん』として動けなくなった私に対して言っているのだろう。
私の言う『お姉ちゃん』とは在り方そのものだ。もっと言い換えれば年上としての振る舞い。常に前を向き、間違えたりはせず、心も身体も強くあり、そう在る為に自分を厳しく律し続けられる。誰かが葵と関わった時、そんな人だと思われ言える人であろうとしていた。それは何のためかと問われれば、自分のためになるんだろう。
私は自分の事が嫌いだ。身体の弱かった自分も、こうやって葵に謝ることしか出来ない、出来なかった自分も。だからこそ私が私でいる必要のない『お姉ちゃん』と言うのは、そんな嫌いな自分を肯定できる唯一の生き方だった。
けれどどうしてだろう、いざ葵が私から離れるとなった時、私に芽生えた想いは寂しさや不安ではなく安心感だった。もう『お姉ちゃん』でいる必要はない安堵、だけどそれは葵との関わり方が分からなくなるという断絶でもあった。それまでであれば、私という存在は葵がいて初めて成立していた。けれど葵が私から離れる事で私自身が安心してしまうなら、一体私は何を考えて生きればいい? 私は葵のお姉ちゃんなのに、お姉ちゃんでなくなる事が私にとって楽なら、これまでの私は一体何だったの? そんなアイデンティティが崩れ去る思考に陥った私は、葵との会話の仕方すら分からなくなり、葵を避けるようになり、コンセントを抜いた家電のようにブツリと関わりを絶ってしまった。
葵からの疑問はまさにそこだろう。葵は別に私と離れたくて私に引っ越しの旨を伝えた訳ではない。葵にとっては将来を見据えて決断した事で、葵のしたい事のために私と離れる事は、仕方のない事だったのだ。姉としてはきっとそれを応援してあげるべきだったのに、私は何も葵に言ってあげられなかった。
それが葵の分からないに繋がるなら、葵の安心のために全てを打ち明けるべきなのだろうか? そう思案した所で、東北先生の「僕だって心の内を吐き出したくなる時もある。変わっても変わらなくても、自分を知ってほしいから言葉を出す」……その言葉を思い出す。今の私と葵は、きっと初めての喧嘩をしている。お互いが譲れないものを持ち、お互いが相手のことを知らなければ収める事のできない気持ちの応酬。
私の打ち明ける言葉で葵が安心できるのなら、できれば葵に私のことを伝えてあげたい。けれど、けれど……私にはその勇気が未だ無い、ないんだ。自分が嫌いだから自分に向けられている想いが上手く理解できない事も、お姉ちゃんで居続けられたのは強さではなく弱さがあったからというのも、葵の傍に居たかった全ての始まりの夢も、なにもかもが、私の小さな全てで、触れられるのも怖い私自身の心なんだ。それを葵に伝えられるほど、私の心は強くない……。
――やけど。
私が今こうして、本来あり得なかった葵との喧嘩をしている理由は、間違いなくそんな今までの自分に対して否と突き付けたからだ。何もしない、変わらない、勇気を出さない、それでいいと思っていたなら私は……今葵を抱きしめるだけでなく、触れることすら出来ていない。
残り3ヶ月、この与えられた奇跡の時間は事故を防ぐだけなら葵の食生活を変えるだけで済む話だ。私を変える必要性は決して無い。……けれど、未来を変えるために、未来を変えたという自覚を背負うために、私は私として考え生きる事を決めたのだ。
……なら私は、うちは、一番にまず向き合うべき存在は、葵だ。葵にとって何かの歯車が狂ってしまうほどに、うちを知らない事が枷になっているのなら。それは凄く……嫌だから。
何のためにまた髪飾りを手に取ったか思い出せ……! 何のためにここに戻されたかじゃない、例えこれが紛い物の夢になってしまったとしても、例え全てが終わった日、あの夕暮れにまた戻ってしまったとしても……。
それでいい。そう言えるくらい後悔しない生き方の中に……葵の姿があって欲しい。離れる日を迎えたとしても、ただその日を笑って送れるだけじゃない。いつかまた、再会を喜べる関係性が、うちは欲しいから……!
ぐっと重い目を開き、俯きかけていた葵をうちは抱き締める。夢の彼女を抱きしめるのと同じくらいの強さの抱擁は、少し力を入れれば振りほどかれてしまうだろう。けれど葵はそれをせず、ただうちに抱きしめられるままになる。
「お粥、うちのために作ってくれたんよね、ありがとうな」
ダイニングテーブルに置かれ、ラップの掛けられていた器。結露した水滴で中身はよく見えなかったが、あれはお互いどちらかが体調を崩した時、相手にお粥を作る時にだけ使っていた器だった。分からない、知らない、そんな感じ取れない想いがあったとしても、これまで積み上げてきたからこそ知っている思いやりは理解できる。
「うるさい」
胸の中でくすぐったく響く声に、思わずクスリとする。
「抱きしめてるときにうるさいって言うのは変わっとらんのね……」
幼い頃葵が転んだり上手く気持ちを伝えられなかった時、2度目の別れが決まったあの日、うちが帰る時間になった時、再会した日からの特別ではなくなった日々。人はそっくり全てテセウスの船のように変わる時なんて早々に在りはしない。けれど18という歳月の中、この子と過ごせた時間は私がこの場にいる時点でとうに懸隔(けんかく)が生じ、双子という在り方も変わってしまった。その上でも変わったこと、変わってないこと、どちらのが多いかと言われたら、葵にとってもうちにとっても変わってしまった事の方が多いだろう。それこそ私が関西弁を使い、葵は標準語を使うようになった風に。
これからも分からなくなる事は増えるかもしれない、変わった事に気づけない事も増えるかもしれない、けれどそれらを少しでも拾えるように、何が変わったのかすぐ気付けるために、知りたい、彼女のことを。
病室に居た時と同じくらいに葵の身体はとても細く、強く力を入れるだけで折れてしまうのではないかと不安になる。けれどその時とは明確に違う、暖かな身体にとても安心を覚える。
「……お姉ちゃんも、相変わらず冷たいね」
そんなうちの心を見透かしたかのように、葵とは違い冷え性なうちの身体に対し不服を葵は漏らす。
「さっき帰ってきたばかりやからかな……」
「んーん、小さい頃からずっと。お日様みたいな人なのに、身体はいつも冷たくて……、だからこうやって抱きしめられてる時だけ、お姉ちゃん……を……」
淹れてもらったコーヒーを少し飲んだくらいでは、決してうちの身体は温まり切ることはなかったようだ。にしても、小さい頃とはどの頃を言っているのだろう。しかしその疑問は口にする事も無く、ただ胸へと葵の頭を抱き寄せ、ただじっと彼女の言葉を待ちながら葵のさらさらとした髪を梳く。
「葵はほんと抱きしめられるの好きやね」
「へ? え、あ、うん……って、別に好きな訳じゃない!」
葵は顔を上げ否定する。その顔には既に涙は残っておらず、ただ少しだけ、うちの服で目元を擦ったのだろう、赤く腫らした目元を見て安心してうちは笑みを零す。
「ふふ、はいはい」
「信じてないし……」
「信じとるよぉ」
ふわふわとするような葵との久々の緩やかな会話、何も難しいことは考えなくたっていい、そんな空気に頭が溶けそうになる。けれどそんな時間はすぐに終わり、葵からぐっと肩を掴まれながら身体を離され、うちの目を葵は睨みつける。
「……なら、なんなの? 家まであの人と仲良さげに帰ってきて」
「あの人って、東北先生の事か?」
うちがその名前を出すと、葵は頬を膨らませムッとしたようにする。
「夜に大人の男性と帰ってくる姉とか、見聞悪いんだけど」
先程までの悲哀に満ちた声もどこへやら、ムスッとした聞き慣れた声に苦笑しながら、「……やっぱ分からんよなあ」と言葉を零す。眉間に皺を寄せている葵へ、恐らく最も正すべき誤解の部分をうちは伝える。
「あの人、女性やで」
すると更に葵の皺が深くなった後、言葉の意味を理解してか目が大きく開かれる。
「は、え……は!?」
葵の驚き方に、やはりうちと同じく気付いていなかったのだと分かった。東北先生へやっぱそうなりますよと合掌しつつ、葵にはきちんと説明をする。
「仲良う見えたのは、東北先生にも姉がおるって話をしてたから。あとはうちのクラスの担任でもあるから、遅刻しまくっとる事についてちと、小言をな……?」
葵はそんなうちの説明に納得したのか、ぐったりと肩を脱力したように下げ、うちの肩に置いた手の力を解く。血が通い始めたのか、葵の手の暖かさを感じてか、肩がじんわりとした熱を持つ。そんなに何か思う所があったのだろうか……と考えていると、葵の口から安堵するように「……なんだ、そっか」と小さく吐き出される。
「そっか、そっかあ……」
「葵?」
葵の納得する声。それには次第に震えるような声が混じり、心配になり声を掛けると、その意味に気付く。
「よかったあ……」
そう呟く葵の目からは小さく一筋の雫を零しつつも、とても安心したような笑顔で――
――もう分かったやろ?
「あ、あはは、ごめん、私ちょっとやることあったんだった」
葵はそう言うと私から離れ、ソファからパッと立ち上がる。
「わ、そ、そか」
マグカップを片手に持つ葵の背中を見つめながら、ふっと浮かんだ思考を振り払う。まだ分からない、これから知っていけばいいと頭に言い聞かせる。
「あ、あの、また、さ」
膝に置いた手をきゅっと強く握っていると、葵がふわりと振り向く。少し背中を丸めながら、不安げに「また……話せる、かな?」と窺うように聞いてくる。
うちはそれに対し、にこりと笑みを返す。
「うん、次はうちがコーヒー淹れるよ」
「うん、楽しみにしてる!」
うちの言葉に、葵は花を咲かせるようにパッと笑顔になり、ぱたぱたと可愛らしい足音をはためかせながら2階の部屋へ戻っていった。
葵を見届けた後、息を大きく吐きながらソファへと全身の力を抜いてもたれかかる。
――少しは、これで分かり合えたんやろか……。
風邪を引いた時の締め付けられるような頭の痛みを感じつつ、今日の事を振り返る……つもりだったが、寒さのせいか身体が震え、瞼が思ったように持ち上がらない。そんなに疲れが溜まっていたのだろうかと思わず笑いそうになった時、今日まで頭に響き続けていた声が明瞭になる。
――何が分かり合えたん?
まるで責める様な声は言葉を続ける
――ただ言葉の表面しか見ずに、何を話し合った気になっとるん。 ――これ以上今は知れる事なんてない。
その声にうちは思わず噛みついてしまう。これは自分自身の反論では決して無く、勝手に自分の声で頭に響いてくる。
――また逃げるんか? 自分の事が嫌いでも憎くても、決意なんてせずとも、葵からの感情は無視できないやろ? 分からないフリをするなら言ってやろうか?
矢継ぎ早に私の声は頭をつんざく。
聞きとうない。そう訴えようと声は止まりはしない。
――命題は簡単や、葵はなぜ怒っていた?
答えなんてありはしない。分からないからこその行動をうちは選んだのだから。
けれど『私は』それを許さない。
――……なら、作っていこうか。
何を、どうやって、そう自分の声へ突きつけようと重たい瞼を開けた時、テーブル越しの対面ソファに『私』がいた。
制服姿のうちとは違い、普段私服として着るワインレッドのワンピースを着ている。加えてもう1つ明確な違いは、今の髪を結んだ姿ではなく、うちが2度としないであろう三輪の叶結びがされたバレッタを左髪につけており、彼女はうちにとって正しく在れた時の姿のでそこに堂々と座っていた。
決して鏡写しでもなんでもない、知り得ない自分の姿。それはまざまざと今のうちを間違いだと指差されている気がした。
――葵はなぜ不安になると思う?
『私』は朗らかな笑みを浮かべながら問い始める。それはうちが葵に過去向け続けた表情であり、思わず顔を顰めてしまう。
――これはもう持ってるな?
「うちを知りたいのに、分からないから」
相手にしなければいい。そうは思いつつも、反発心と彼女の思い通りに話が進められるのが癪に障り、まっすぐ『私』を見据え会話をする。そんなうちを見て知ってか知らずか、『私』はソファ端の肘掛けに肘を置き、唇へ指の背を当てながら変わらずにこにことしながら言葉を続ける。
――では、なぜ知りたがる? 葵はもう子供じゃない。好奇心だけで突き動かされはしない。
「……不安を取り除きたいから」
『私』はにこにことしながらも、うちの甘えにも近い考えの部分を綺麗に潰す。どこか冷徹を思わせる姿に肩を震わせそうになりつつも、最も近いであろう答えを出すと、『私』はそれを鼻で笑った。
――それじゃあ堂々巡りや。……見方を変えよう。なぜ知らなければ不安になる?
「そんなん、葵しか知らない」
寒さを隠すように両腕を抱きしめながら答える。それに対し『私』は笑みを止め目を閉じ、ソファに背中をつけて膝で指を組む。
――いいや、うちの事だよ。これは。
数トーン声色を落としながら、スッと目を開き、赤い目をうちへと強く『私』は向ける。
――うちのある事柄に葵が知らない、分からないがあったら怖いになる。人は未知に対する恐怖はあれど……
「…………て」
うちはその言葉に目を逸らす。喉がカラカラに乾燥し声がそこに貼り付いてしまったように、上手く声を出せない。
辛うじて出せた拒絶の声に『私』は一瞬目を伏せた後、再び言葉を続ける。
――そんな恐怖を和らげるのに知的欲求へと昇華させて解消させようとするのは自然な事やね。では何が葵の恐怖になっているか、これはもう数度聞いたよな。
「……めて」
――……葵はうちの関係性に固執している。それも「やめて!!」
『耳を塞ぐな!目を閉じるな!』
ガタン!と机が揺れ、マグカップが倒れる。まだ中身が残っていたコーヒーが机に零され、次第に床に敷かれた白のカーペットへぽたぽたと音を立てながら零れ、ゆっくりと黒へと染めていく。
『私』に襟を掴まれ、顔を上げざるを得なくなったうちは『私』を見る。
うちと全く同じ赤い目は、涙をうっすらと浮かべながら、何かを堪えるかのように歯を食いしばりながら手を震わせていた。
『うちはもう……葵に期待はさせちゃいけないんだよ……!』
そう涙ながらに言う『私』に対し、どうして……そんな想いが浮かぶ。確かにそこにいるもう1人のうちは、どうしてそこまで何かを怖がる。どうして……。
酸素が足りずぼやける意識の中、そんな疑問が頭を埋め尽くす。けれどかつて結月さんにされたようにぐっと胸を押し出され、背中をソファに叩きつける形で開放され、そんな思考は影へ追いやられてしまう。
――怒りは相手との隔たり、ギャップ、軋轢から生まれる。
『私』は立ちあがったまま言葉を続ける
――なら、うちに対するその溝は何か? 不安、情報の不足……うちに関わる人、加えるなら可能性の大きくなる異性。
もう『私』の声は震えておらず、ただ淡々と事実を繋げていくように言葉を紡ぐ。
――あとはもう確認だけや、言えるやろ?
「……これは、葵を傷つけ――」 ――死なせた相手に言い訳をするん?
その言葉に思わず息を呑み肩を揺らす。
『私』が言っているのは……恐らく転落事故の事ではない。彼女が何なのかはうちには分かりかねる。けれど確かに実体があり、鏡写しでもなく、うちと同じ背でかつての姿を取る彼女は、『私』は間違いなく自分自身なのだ。ならばうちと同じ考え方やそこに至る思い出や知識、そういったものがあるとするなら……。
――忘れないために、何度だって言うたる……。
『私』は据わった目をまるで自分自身を見つめるかのように、浮かせた手を見つめながらうちへと言葉を続ける。
――必要以上に葵と関わるな。お前が、うちが、葵に関わる資格は……
……そうか、うちは、私は……あの日、あの時、葵が目覚めなくなった日――
――もう、ないんやから……!
もう、心を折ってしまったんだ。
「お姉ちゃん、お風呂そろそろ沸くけど先に――お姉ちゃん?」
ぼんやりとした頭の中、葵の声と足音が耳に届く。顔を上げると、私服に着替えた葵の姿が目に入る。
「ちょっ、顔真っ青だよ!? やっぱりまだ調子悪いんじゃ……!」
……言わなければ、何を? ぐちゃぐちゃとする視界の中、海の上のように揺れ動く視界の中、白のワンピースを纏った葵を私は見据える。
「あおい……」
「気持ち悪いとか無い……? 喋るの辛かったら頷くだけでもいいから――」
言わなければ……聞かなければ、どうして? だって、私は……お姉ちゃんなのだから。
「大丈夫、平気」
私は朗らかな笑みを葵へ返す。握りしめる手が酷く冷たい。
「……そっか」
ああ嫌だな……。私だって……。
「葵は優しいね」
「そうかな……私はそうは思わないけど」
「ううん、優しいよ」
私だって葵に……自分の想いを、知って欲しかった。
「……お姉ちゃん、本当に大丈――」「なあ」
葵の言葉を遮る。今までそんな事を一度たりともしなかった私に対し、葵は驚きつつも何かと首を傾げる。尚も私へ心配げな表情を向ける葵の手を右手で掴み、質問をぶつける。
「葵ってさ」
喉が締め付けられる感覚に陥りつつも、決して葵に悟られないように続ける。
「うちのこと、好きなん?」
葵の手がぐっと引き抜かれそうになるが、私はそれを決して逃さず強く握りしめる。
たった数秒、けれど時間が止まったようにすら感じる間の後、葵は微笑みながら柔らかな声で「好きだよ」と言う。
「家族なんだから、当たり前じゃん」
「そういうんやなくて」
暖かかった筈の葵の手は体温が失われたように冷たく、脈拍は酷く早く動く。
私はこの気持ちをどう表現したら良いのか分からない。秋の寒さすら忘れるような心の暖かさ……それはきっとこれから決して忘れず、そしてもう2度と得てはいけないと肝に銘じなければならない想いなのだろう。
「うちに隠さないといけない、好きなんやね?」
たった1つ……心に生まれたガラス玉へ、彼女が抱えているであろうガラス玉へ、私は躊躇う前に言葉を振り下ろす。
――これで満足か……? なあ。
そう自分に問うても何も返ってこない。
「葵、うちは――」「あなた、誰?」
その気持ちに返事はできない、そう伝えようとした所で葵に逆に手を強く掴まれる。
「私の知ってるお姉ちゃんじゃ、それは辿り着けない」
冷たい声、鋭い目が私を刺す。先程まで焦りの塊だった葵に既にその姿は無く、ただ目の前の私を吟味するかのような極めて落ち着いた、けれど強い意思で私を見つめる。
「うち、は……」
「……出てってよ」
喉が詰まり言葉が出せない私の手を、葵は痛いほどに強く握りしめる。まるで憎む感情を向けるかのように痛く強く、葵の細い腕が震えるほどに。その姿があまりも痛々しく、止めようとするがそれは叶わない。
「人のもの、勝手に見ないで……! 出てって!」
葵は我慢の限界が来たように、歯をギリッ……と音が出るほどに強く食いしばり、キッと目を開きつつも強く私を睨みつける。今まで向けられたことのない感情、されたことのない表情に怯みつつも、ふいに葵の睨みつける目が潤んでいる事に気付く。
きらきらと光る赤い目、見慣れていた筈のその目を、思わず私は――
「出てけ!!」
――綺麗やな。……そう思った。
◇
身体が凍ってしまったように硬く、動かす事ができない。真っ暗な視界の中、身を縮こませたくなるような寒さだけが私の意識を確かにさせる。
寒い、寒い、寒い……。ああこんな痛いほど寒いならこのままもう一度眠って意識を落としたい……。そんな考えで頭がいっぱいになり、目を開くことを諦めかけた頃。ふと、聞き覚えのある音楽が耳に入る。オルガンと笛のゆったりとした、静かな長い音色。それは私の住んでいた所とは別の曲で、葵との別れが近づく時にいつも聞こえてきたチャイム。
この曲が流れる時、いつも葵はぐずり家に帰りたがりは決してしなかった。そんな葵の手を引き、歩きたがらない時は背中におぶりながら帰る道……、私はいつも寂しさで、足取りが重かった。眩しくも決して暖かくない夕日、けれど背負う葵の存在は暖かくて――
「……っ」
右手の暖かさを感じ、そこでようやく意識だけでなく身体が覚醒する。寝落ちていた時のように肩をガクンとさせた後、ぎこちなくも目を開くと夕焼けの日差しが視界いっぱいに入る。
――相変わらず冷えた太陽やな……。
悪態を心で吐きつつ、軋む身体を動かし手元を見ると、葵の姿が目に入る。葵……そう呼び掛けようとした時、眩しさでぼやけていた視界が戻ってきてしまう。
葵は眠っていた。あの日、あの時、夕暮れの時の姿で。小さく細い身体のまま。
「あ、あ……あぁぁ……っ!」
そうか、そうだったんだと、目の前の意味を察し絶望する。自分の主観がどれだけあやふやで、信用ならない物だったのかと打ちひしがれる。濡れた床に膝をついたまま、乾かぬ血の付いた手を気にも止めず、私は葵の横たわるベッドに泣き崩れた。
あれは、私の見ていたのは全部――
「ああぁあぁぁあああああ……っ!!!」
――ただの夢だったのだと、分かってしまったから。
第三章 11月24日 0からもう一度
「……さっむい」
病院へと向かう最中、いつもの木々が両脇いっぱいに並ぶ道。秋も終わり、急かすようにやってきた冬は、あれだけいっぱいに生い茂っていたイチョウやモミジの葉を落とし、最早見る影もなく多くの木々を裸にさせていた。時折吹き荒ぶ乾風を阻害するものはなく、容赦なく私の身体を叩きつけてくる。朝だというのにどんよりとした雲に太陽は隠され、コートを羽織っていると言うのにつま先から頭まで身の全てが凍るような日だった。ついぞ風に耐えきれず時たまはらはらと1枚葉が落ちるのをよそに見ながら、私は葵のいる病院へと走った。
葵の病室と廊下を隔てる茶色の扉。いつかは葵の学費となる予定だった蓄えを費やされながら維持される一室に私は訪れる。普段であれば私を除き、中に入る人は病院関係の方しかいないためやらないのだが、今日は話が別だ。息を大きく吸って胸を張り、コンコンコンと3度扉をノックしてから開ける。
扉を開けた先、そこにはいつも通りの葵が横たわる景色の前に、1人の少女の姿が目に入る。彼女は葵の隣で椅子に座りながら本を読んでいたらしく、私に背中を向けたままゆっくりとした動作で本に栞紐を挟んでから閉じ、掛けていた眼鏡をケースへしまう。
私が病室に入り扉を閉め終わった頃、彼女は私へ振り向き片手を上げる。
「よ」
たった一言、気怠そうに、けれど彼女なりの気を遣わせない挨拶。それに対し私はぎこちなく頭を下げる。
「……ども」
「くっっらいなあ、まだこの間の事気にしてんのか?」
「……そりゃあ――」
そうでしょうよ、結月さん。
ジトリと見つめてくる紫の目。どうやら彼女、結月さんにとって一週間前のあの日、私と言い争った事は最早気に留めるものではないらしい。私としては図星を突かれまくったり押し飛ばされたり泣かれたりした件だ、早々にはいそうですかと流せるものではなかった。加えて、どうやっても私に非があった話でもあり、忘れられず心に留めていた身としては、顔を合わせれば気にかけてしまうのは当然だった。
「別に忘れるなとは言わないけどさ、私の言い方もきつかったし、んな馬鹿みたいに悩むなよ」
自嘲か苦笑か、結月さんは両手を広げ、左頬を上げながらニヒルな笑みを私に向ける。
――それに、と彼女は言葉を続ける。
「……今は変わろうとしてる、それだけで十分だよ」
先程までの淡々とした彼女はどこへやら、穏やかな表情でそう言葉を話す結月さんへ余計に気まずさを憶える。
私は、まだ明確には何も出来ていない、プラスどころかゼロを超えマイナスの状態なのだから。
一週間前のあの日、夢から目覚めた私は一頻り静かに泣き喚いた後、項垂れながらも病室を片付け、もう一度夢での出来事を振り返ることにした。
現実と全く相違も乖離もないあの景色、感情、体温、声……その全てをただの夢だと切り捨てるには、あまりに私はあの世界を知りすぎてしまった。
タイムリープと錯覚するほどリアルな夢の世界。そこで私が意識を落とす前の最後に葵の言った、「人のもの」と「出てけ」の言葉……そして――
私は葵に近づき、固く握りしめられたままになった冷ややかな右手を撫でる。
目覚めたあの日から、葵の手が開かれることは無くなった。まるで全てを拒絶するかのように、葵は私だけでなく誰に対しても決して手を開かない。恐らく、こうして葵が全てを拒絶する仕草をするのに至った理由は私のせいだ。
病院から帰った後、私は1日経ってから葵の部屋に入る事を決めた。部屋に入る瞬間までは胃がひっくり返るような思いだったが、いざ扉を開き入ってしまえば呆気ないものだった。
1年と閉め切られたままの部屋だったが埃っぽさはなく、葵がきちんと毎日欠かすこと無く掃除をしていたことが容易に伺えた。中の様子は夢で見た景色と何ら変わりなく、本当に1年前の時間がそこに存在してるようにすら思える部屋。そこで私は一片の迷いなく、葵が母から貰った鏡台の元へ向かった。
1つ目、2つ目、3つ目と引き出しを開いていくと、私は目当てのものを見つける。
花が小さく描かれた、黄色いヘアオイルのボトル。それは夢だけでしかみたことのない……けれど、あの夢を確かなものだとさせる唯一のものだった。
ヘアオイルを拝借し次に向かったのは1階の居間、ソファとテーブルがある場所だった。そこにあるテーブル下に敷かれた白のカーペット、染み一つ見当たらない綺麗なままのそれは、私の妄想に近い考えをより確かなものへと近付ける。
私はタイムリープをしていた訳じゃない。……けれどそれに限りなく近い、夢のような何かを体験してたのでは? と。
あれがただの夢だけであって欲しくない、そんな想いが捨てきれないからこその思い込みかもしれないが、それでも私は……夢だとしても、葵の想いを知りたいと願ってしまった。
決して現実になり得ない夢でも、葵が私に何を想い、何を切望し、何を失望してしまったか、向き合うべきだと思ったのだ。……私達はまだ何も、どういう関係になりたいのかも話し合えてすらいないのだから。
その次の日、学校が終わるや否や早足で病院へ向かおうとしていた時、東北先生は私を呼び止め、おかしな事を尋ねてきた。
「君に何か約束してなかったかな?」と。
勿論憶えはある……、あるが、それは夢の話だ。記憶を遡っても私はこの現実で先生と約束した事などないし、それどころかあまり関わりを持ってすら無かった。
ないならいいんだ、そう申し訳無さそうに引き下がる東北先生へ、私はハッとし、1つ質問を投げかけた。
「先生って女性ですよね?」
普段私が学校を出る時間とは違い、まだ放課後に入ったばかりの校内には人が多かった。東北先生は「そうだけど……どうしたんだい?」と何を言ってるんだとばかりに質問を返すが、生徒たちには青天の霹靂だった。あれだけざわざわとしていた男子生徒も女生徒も水を打ったように静まり返った後、どよめき始める。
今にして思えば流石に場所が悪かったと反省すべきだった。しかしその時の私は、答えを聞いた瞬間そんな事も気にする余裕がなくなるほどに身体が熱くなるのを感じ、「先生ありがとな! あとほんますんません!!」とだけ言って駆け出していた。
息も絶え絶えに走りながら、もし、もし、と少ない酸素を心臓に送るよりも優先して頭へと送りながら思索した。
もしも、もしもあの夢が、時間遡行の類ではなく、けれど葵も私も知り得なかった知識すら知り得る過去を見せているのなら……! 決して未来を変えることはできない、けれど在り得たかもしれない葵の言葉を聞けるなら……!
そんな想いを抱え病室まで辿り着いた時だった、私の頭に否定的な言葉が走ったのは。
――自己満足が過ぎんか? なあ。
病室の扉に掛けた手が止まる。
――出てけ、出ていけ!! その言葉は葵の明確な拒絶の意思だった。……なのに、その言葉を言わせてしまった私と、葵は話したいと思うだろうか。葵と話した上で、私が得たい答えだけを葵から引き出そうとはしないだろうか。そんなわだかまりを抱えたまま、私は葵と話していいのだろうか。
……それに対する葵からの答えが、拒絶だった筈だ。
扉を開けずにいたままの私に、1人の女性が声を掛けてきた。
「あら、あなたは……」
ぱっと取手から手を離し振り向くと、そこには白衣を纏い、医師姿の女性がいた。緑色の長い髪を結びまとめており、夏の新緑を思わせるその緑の目と髪は姿違えど見間違えることはない。
「こ、こんにちは……、えっと……」
彼女とは病院へ向かう道中で出会い、いつも出会った所と同じ場所で話をする仲だった。まさかこの病院のお医者様とは思わなかったが、お互い名前を明かした事がなく、何と呼べばいいものか困っていると、彼女はニコリと微笑みながら首から下げられたネームプレートを私によく見えるように向けてくれた。
「東北……じゅん子先生?」
「はい、こんにちは。琴葉茜さん」
見覚えのある名字を呼ぶことだけでなく、明かしたことのない名前を彼女に呼ばれる事にも私は驚く。どうして? その疑問に対する答えはすぐ明かされる。
「今日から妹さんの回診や主立った担当は私になったの。……ごめんなさい、少し急ぎで葵さんの様子を知りたいから、部屋に入れさせて貰ってもいいかしら」
朗らかだが有無を言わさぬ気迫で、私は急いで扉の前を退く。視野が狭くなっており気付かなかったが、東北……じゅん子先生の後ろには数人の看護師と医師も控えており、どこか物々しい雰囲気だった。
「あ、は、はい」
葵の病室へは入るに入れなくなり、一度出直そうと引き返そうとした時だった。「茜さん待って」と東北先生に呼び止められる。何かと思い振り返ると、どうやら中に入ってきて欲しいらしく、こっちに来てと呼ばれる。
「……なんですか?」
知り合いの見たこともない真剣な表情や、葵の病室で医師に呼ばれるという状況に少し複雑な気持ちと一抹の不安を憶えながら彼女の元へ行くと、1つ質問をされる。
「葵さんの事なんだけど、何かここ数日で変わったことはなかった?」
「え……? えっと……ない、です」
思わぬ質問が出てきたため頭がうまく回らずしどろもどろになってしまう。あると言えばあるが、それはあくまで私の夢の話だ。葵に与える影響はないと……そうそこまでは思っていたが、それは間違いだった。
私の答えに彼女は目を伏せ何か考える。その様子に私は恐る恐る「あの、葵に何か……」と聞くと、東北先生は一緒に来ていた医師達を帰してから、私へ椅子に座るよう促す。
葵を横に一対一で対面する形になった後、葵の手に関しての話をされる。
先生は葵の右手を掬うように持ち上げ、私に見るように促す。
「この手、どうなっているか分かるかしら」
「……握りしめとる、ですかね」
言われるままに確認すると、葵の手は親指が外側に来る形で握りしめられており、眠っているにも関わらず、その手の甲には青筋が浮かび上がるくらいに強く、震えるが見られるほど固く閉じられていた。そこまで私が確認したのを見てから、先生はそのまま葵の手をくるりと返し、握られた手の内側を見せる。手の内側は短くされた爪が皮膚に少し食い込んでおり、うっ血どころかまだ乾ききらぬ血が爪に付着しているのが確認できた。
あまりの痛々しさに驚き、止めさせようと葵の手に触れかけるが、先生に手首を掴まれ止められてしまう。どうして! そう言葉を荒らげる直前、葵の手の変化に気付き、言葉を詰まらせる。……葵の手は私が触れかけた瞬間、より強く手を震わせながら更に固く手を握りしめようとしていたから。
私がそれに気付き、葵に触れない事を察してくれたのだろう。東北先生はとても強く握っていた私の手首を、何も言わずに離してくれた。
「もう一度聞くわ。本当に何か言ったり、したり、そういう事をしてないと言える?」
真剣な目。決して批難する訳でなく、きちんと私の言葉を聞いて判断しようとしている姿に、私の中で嘘をつくという選択は一瞬にして消える。
けれど……いや、嘘や妄言と思われても、葵のこれを解消するきっかけが私にあるのであれば、躊躇いなど捨てるべきだった。
「葵を傷つける事を言うたりも、傷つける様な行いも、誓ってしとりません。……けど、その手を握った時……夢を見ました」
「夢?」
東北先生は葵の手をベッドへそっと置き直し、私の話に耳を傾ける。
「1年前の過去、そこで一週間だけ過ごす夢です」
私はそこで葵と喧嘩をし泣かせてしまった事、夢の葵が持っていた物と同じ物が家に仕舞われていた事、葵も私も知り得なかった他人の事情が、夢でも現実でも同じだった事を話す。
聞く人次第ではきっと、あなたは疲れている、どこかおかしくなってしまった、そんな事を言われかねない話を、先生はただこんこんと聞いてくれた。
聞き終えた時、東北先生は1つ頷き、一拍置いて声をだす。「非科学的ね」と。
私は金槌で頭を叩かれたような衝撃を受け唇を噛むが、「けど」と先生は言葉を続ける。
「原因はそれかしらね……」
まるで諦めるかのように言う先生の言葉に私は違和感を憶えた。そんな様子に気付いてか、先生は膝に置いてあったファイルを開き、私へと見せる。そこには指数やグラフの様なものがあり、幾つも薄く重ねられたそれは類似点を探しているように見えた。
「あの、これは?」
「こっちの……あなたから見て左のページね。それは葵さんの脳波を測定したものよ」
「脳波ですか?」
「そう、脳波。彼女が今何を感じ取って、どんな感情を持っていて、外界に対する反応はあるのか……そういった物を測ったのがそれよ」
そんなものが存在したのか、と思わず驚嘆する。葵の身体はいわば植物状態に近い容態だ。どこにも異常はないのに起きることができない、そんな彼女の何か起きるきっかけになるものが分かるなら――と、そこまで考えて、私はファイルから目を逸らしてしまう。その様子に疑問に感じたのだろう、東北先生は「どうしたの?」と聞いてくる。
「その、これ、うちは見れません」
私はこれを見てしまうのがどうしても憚られた。先生は、感じていること、想っている事、それらの反応を見れると言ったが、そこには本人の意思が存在しない。恐らくは両親が何かしら説明を受けた上で許諾しているのだろう。それならそれでいい、あくまで葵を生かしているのはまだ私ではなく父と母なのだから。しかしだ、2人がいないからといって、私がそれを見てしまうのは間違いなく、違う。
「うちは今、葵と……意識のない妹と喧嘩をしていて、その上で仲直りをしたいと思うとります。それは有耶無耶にしたりどっちかが折れたりするんでもなく、きちんとお互いの言葉で話をした最後に欲しいものなんです。やからすんません、うち、葵のそういった物を勝手に覗き見る事はできません」
けれど葵が起きるために役立つなら、できる限り先生には活用して欲しい。そう付け加えて言葉を締めた。
「いいえ、そう思えるなら……余計にあなたは見るべきよ」
しかし先生から返ってきたのはその答えに反するものだった。
「どうして……」
「いい? このファイルのこのページ……、ここに書かれているのは葵さんの脳波だけじゃないわ」
東北先生は細く皺の入った指で、必要な部分だけをなぞりながら説明をする。
「1つは葵さんと同様に意識が戻らない方の、次にこれは健康な心身を持った人が眠っている時の……」
順繰りに測定された数値を説明されるが、葵のものとはどれも値が大きくズレており、私にはどう見たら良いのかが分からなかった。葵と同じ10代の数値や20代の数値、果ては70代まで各年代で平均の取られているそれらと、葵の数値はときたまに重なり共通点を示す所はあれど、偶然と呼んでも差し支えのない範囲だと思ったからだ。
けれどその考えは次のページが開かれることによって一変する。
「……最後に、これは健康な人が起きたまま日常を過ごしてもらった時のものよ」
他に比べて被験者が明らかに少ないそれは、科学的には平均など一切取れてないに等しい数値でしかないだろう。けれどどれも起床から就寝まで一定の穏やかさを保ちつつ、食事や読書、勉学や入浴といった補遺が書かれた部分には振れ幅が存在しており、他と比べて一線を画していた。――それに加えて。
「これが葵の、なんですよね……?」
先程まで交差するだけだったグラフは、明確に葵のものと重なるどころか数時間に渡り一致を示していた。
「茜さん、大まかで構わないから夢での行動と、その時間を出せるかしら? 主に葵さんといた時間が欲しいのだけれど」
私の問いに肯定も否定もせず、先生は更に私へ要求をする。
「え、あ、はい。出せると思います」
私は足元に置いておいた学生バックを開き、中に入れてあった一冊の手帳を取り出そうと手に取った所で、この手帳に意味がないことに気付く。過去に戻ったと思い違いをした私は、この手帳に葵へ作るべき料理や、今後の行動すべき目標、1日で何をし何をできなかったか等の行動を全て書き記していたが、実際は夢でしかなかったため、それは無意味……の筈だった。指に在るはずのない凸凹を感じ、目に見えるように桜色の手帳を取り出す。
「……なんで」
思わず愕然とする。取り出した手帳の表紙には、夢の私が料理中に軽く零してしまった液体、それが冷え固まったものが付着していた。加えてまさかと思いながら中身を覗くと、夢で記載した筈の一字一句全てが、決して褪せることなくそこに書かれたままだった。
「こ、これ、先生、あの、あの……!」
もう訳が分からなかった。過去に戻ったと思っていた事は夢で、夢なのに知らない筈の事を知ることが出来て、夢だと思っていた出来事が手元に存在していて。
戸惑いと興奮でぐちゃぐちゃとする頭で必死に先生へ伝えるべきことを考えるも、上手く考えが纏まらない。どうにか声を出そうとしても、意味の伝わらない言葉になってしまう度に私の心は決壊してしまいそうだった。そんな恐慌状態に近い私の右手を、先生が両手で握った。その暖かな手は私の意識を一瞬でも先生の方へ向かせ――
「しっかりなさい!」
「……っ」
ピシャリ、と先生の声が病室に響く。先程まで柔らかに話していた先生の声と打って変わり、その芯のある大きな声はよく通り、私の意識を強制的に引き戻した。葵がいる事も気にかけられないほどに取り乱した事に、私は胸が苦しくなり項垂れてしまう。
落ち着いて言葉を探しても、最早形にできないと悟った私は項垂れたまま先生へと手帳を手渡した。
「中、見てもいいのね?」
「…………」
声がうまく出せず、こくりとだけ小さく頷く。
……惨めだった。どれだけ『こうありたい』『こう生きたい』と想い願っても、私にはそれを出来るだけの心が無かった。過去……夢の中ですら私は『私』を貫けず、最後には『お姉ちゃん』としてのやり方を選んでしまったのだ。それは間違いなく自分への裏切りであると同時に、そんな行き当たりばったりで、あやふやな私の生き方に葵を巻き込んでいるに過ぎない。今だって葵の元で夢を見ればもう一度……、そう思いを馳せ息絶え絶えにやって来たと言うのに、いざ病室を前にして扉を開けられず、自分の意思に自信も持てていない。自分の想定していた事情が誤りと知っては人の目も憚らず狼狽し……。
分不相応な夢を見ている……そう思わざるを得ない程に、今の私は何も出来ず、何者にもなれていなかった。
「ふむ……」
東北先生は私の様相を気にするでもなく、ただ淡々と手帳とファイルへ交互に視線を落とす。こんな状態で気にかけられても余計に辛かったため、今の私にとってそれはとてもありがたかった。
先生が確認をしている間、ぼんやりと顔を葵の方へ向ける。葵は昨日までと変わらず静かに目を閉じて眠っており、冬の真っ白な太陽をカーテン越しに受ける肌は、死人を思わせるほど青白く、加えて呼吸をするだけで骨が浮かぶほど細い身体は、本当に生きているのだろうかと疑いたくなる。しかし心臓の鼓動を表す心電図は確かに彼女が生きている事を証明していた。
……生きているとは何なんだろう、ふと考えが頭に浮かぶ。心が弱っているからこんな哲学的な事を考えてしまうのかもしれないが、私には葵と自分の違いが分からなかった。
葵は眠ったまま目覚めず、その頭の中で夢を見ているのかもしれない。先程見たファイルでは普通の生活をシミュレートした人たちと、葵の脳波は非常に類似している所が見られた。つまり葵の見ている夢は普通の……そう、もしかしたら葵は眠っていることすら自覚せず、夢の中で生きているのかもしれない。
――もしそうなら、その夢にうちはいるんやろか。
私は未だにそんな女々しい想いを抱えてしまう。夢で自分なりに生きているかもしれない葵とは違い、私は夢でも現実でも迷ってばかりだ。迷うはおろか、その迷い方も、物事の決め方も、全て軸がない。だから何か障壁があったり反論されたりするだけで、私は自信が持てなくなり折れてしまう。そんなただ流されるような、何も考えていない生き方をしている私は果たして生きていると言えるのだろうか? 私には眠っている葵の方がまだ今を生きているように感じられた。
「茜さん」
手帳を読み終えたのだろう、東北先生は私へ声を掛ける。顔を葵から先生へと戻すと、先生はとても悲しげな、それでいて気遣うような優しい表情を私へ向けていた。
「……なん、ですか?」
緊張や不安、焦燥からかカラカラに乾いた口は唾も飲み込めず、喉から乾ききった声を出した後に軽く咽てしまう。酸素を求めて息を鼻と口で吸い込んだ時だった、病院独特のフェノール臭に混じり、安らぐような微かな香りがした。意識がそれに向く前に先生は私の疑問へ、「落ち着いて聞いてほしいのだけれど」と言葉を続ける。
何を言われるのだろうと、香りのお陰で少しだけ落ち着けた心で先生へと向き直ると、思わぬ言葉が出てくる。
「あなたと葵さん、2人は同じ夢を見ているわ」
――それも、と言葉が続く。
「茜さん、あなたが未来になる形で」
――みらい、未来? うちが?
先生の言うことが理解出来ずただ呆然としてしまう。同じ夢を葵も見ている? ならどうして夢なのに未来なんて言葉が出てくる? 沢山の疑問で頭がいっぱいになり破裂しそうな痛みを抱える私に、先生は医者らしくゆっくりと説明をする。
「まず前提として、茜さんの経験した一週間。それは確かに夢でもあるけれど……間違いなくあなたにとっては現実だった。そう考えた方が自然ね」
先生はピッと手帳を私の視線の先にかざすように持ち、「そうじゃないとこれの実在の証明がつかないわ」と困ったように言う。
そんな先生の言葉に、私はどう反応したらいいか分からなかった。先生の考えに対して……と言うよりか、私は――
「うちの言う事、信じるんですか?」
「勿論……と言ってあげられればいいんだけどね。あくまでも信じず動かないより、信じた方が合理的だから信じるっていうのはあるわ。私は医者であると同時に学徒でもあるから、可能性として0でないなら、そしてこの目で見てしまったなら、それを無かった事になんて決してできないのよ」
それに。と言葉が続く。
「名前を教え合う事は無かったけれど、あなたと知り合って約1年……話を信じていいと思えるだけ茜さんと言葉を交わして、その上で良き友人になれたと私は思っているのだけれど」
どうかしら。と言葉を締める。
「うちは……」
私は……。
葵が目覚めなくなってから一週間、ずっと虚無の時間だった。大事な妹を守れず、その事実を受け止めきれずに折れた心は、漠然と目の前の出来事だけを見て、それ以外を知る事をやめてしまっていた。けれど病院へ向かう道中の並木道。その道脇の川沿いに設置された小さなベンチで私は小さな自我を見つけることになる。
その並木道には人を迎え入れるように木々や花々が植えられているようだったが、1月の冬真っ只中だったため土と木だけの茶一色をしていた。
――寂れた道やな。
そう思いながらも、葵のためにこれからも毎日通るべき道だと考えていた時だった。耳に水の音が聞こえ、ぼんやりとした視界の中周囲を見渡すと、小さな小川が並木道の土手下にあり、丁度そこには川沿いを臨めるように作られたのだろう、これまた雨ざらしにされすっかり艶の消え失せた木製のベンチがあった。それだけであれば気にも止めなかっただろうが、そこには春に芽吹く新芽の様な、そんな鮮やかな緑の髪色をした女性が1人座っていた。
こんな白と茶ばかりの季節に似つかない色を持った彼女が気になり、足を止めた時だった。水辺かつ遮るものの無いそこに強い北風が吹き荒び、彼女のうぐいす色の膝掛けを空へ持ち去ろうとしていた。
既に彼女の膝元から離れた膝掛けはこのままだとどこか遠くへ飛び去ってしまうと思えた。けれど私はそれがどうしようもなく嫌で――
――気付いたら全速力で駆け出していた。葵のためだけに、『お姉ちゃん』であるためだけに健康であろうとした身体を、初めてそれ以外のために使っていた。
しかしまるで私を弄ぶかのように、手の届かない所で大きく揺れるそれは、私があと一手という所で、何かに引っ張られるように川へと落ちていこうとし――それを見た私は、土手から高く跳び上がり、ひざ掛けを引っ掴んだ。安堵も束の間、瞬時にその後身に起こることを理解し、気持ちの悪い浮遊感の中、ひざ掛けをまるで赤ん坊でも抱えるかのように胸元へ抱え丸まった。
ゴン!ゴン!と脇腹、背中、腕と連続で伝わる衝撃。辛うじてと言うべきか、冬の凍るような水の冷たさを味わう前に、身体が転がり落ちるのは止んだ。
ああ……冬服で良かった。なんてしょうもない考えを目と鼻の先にある川を見て思いつつも、ふわふわとする感覚の中ごろんと仰向けになり、呆然と青く透き通った空を見上げ呼吸を整えた。
そうこうしていると、小走りに枯れ草を踏む音を立てながらやってくる人の気配がし、私はすぐさま立ち上がった。走り寄ってきた彼女に膝掛けを返そうとするが、彼女は怒りや悲しみを混ぜたような顔をし「危ないでしょう!?」と悲痛な声を上げた。
「痛みはある? 血が出てたりはしてない? ああもう服にも髪にも土草つけて……!」
「えっと、大丈夫なんで。うちこれで」
第一印象は一転、まさか叱られるとは思わず面倒になる前に退散したいなと、強引にひざ掛けを渡し踵を返そうとするが、「待ちなさい!!」とあまりに強く言われ、仕方なしに足を止めてしまう。
「外傷はないけど……痛みは……いやドーパミンで分からないかしら……」
「あの、ほんま時間ないんで、勘弁して貰えませんか? 妹が病院で待っとるんです。」
「馬鹿言わないで……って今病院って言ったかしら、病院へ行くのね? この辺りだとあそこよね?」
身体を軽く触れられながら、葵の面会時間が迫っていることに気付き、思わずつっけんどんな対応をしてしまう。けれど私が病院と言葉を出した途端、女性は眉間に寄せていた皺を解き、パッと笑顔になる。
指差した方向にはここからでも見える大きな大学病院があり、そこは確かに私が今から行くべき葵の眠っている場所だった。
「そうですけど……」
「ならいいわ。ただ受付の人にこれと……入れてしまえばいいわね、これを渡しなさい」
「はぁ」
呆けつつも渡されたのは、和紙で出来た上品さを感じる一通の手紙。古めかしくも手触りのよいそれは、冬の空気の中でもどこか温もりを感じた。
「それじゃあもう行くんで」
「ええ、また。寄り道せずまっすぐ行くのよ? いいわね?」
彼女の言葉にどこか引っ掛かりを感じつつ、私は逃げるようにその場を後にした。
当初の予定通り病院に行き、言われた通り受付の人に手紙を渡してから、葵のお見舞いを済ませると、看護師に名前を呼ばれた。これからの葵に関する事だろうかとついていくと、なぜか1~2時間ほどかけての検査を受けることになる。見に覚えのない私は別の人と間違えているのではと慌てるが、しかし何度聞いても、私の検査だと言われてしまう。その日あまり持ち合わせがなかった私は、どう支払いを済ませようかと頭を悩ませた。
検査を終えると、どうやら痛みは無くとも肋骨が折れていたらしく、痛み止めや湿布を処方される。骨が折れると聞くと手術が必要そうに感じてしまうが、私の折れ方であれば自然治癒を期待し、様子見で済むらしい。……まあそれでも数ヶ月は葵のお見舞いと同時に私の診療が加わった訳だが。
そしていざ恐怖の支払いに受付に呼ばれるが、私が弁解するまでもなく、領収書だけが渡されることになる。聞けば、支払いは既に済んでいますと言われてしまう。なぜ?と浮かぶ前に、今朝の女性に渡された封筒に思い至る。
翌朝、ひしひしと軋むように痛む身体を引きずりながら、川沿いへと向かう。冷たい空気ばかりが身体に当たり、吐き気すらする骨の痛みを感じてしまう。楽観視して痛み止めを飲まなかった昨日の自分と、冬空に浮かぶ、全くと言っていい程暖かみを感じない太陽を恨みつつ、あの古ぼけたベンチに座る彼女の元へ私は辿り着いた。
「あら、おはよう。身体は……まあそうよね」
「……ども、お陰様で――いや、ありがとうございました」
使い方が間違っている気がし、すぐさま訂正をする。悪態をつくような言い方になってしまったが、私としては別に勝手にやった事であり、同時に無茶をした私を無理矢理にでも病院へ行かせたがっていた理由も分かり、彼女には感謝すべき事案でしかなかった。
けれど女性は首を振り、「こちらこそありがとう」とにこやかに言う。
「大事な物だったから本当に感謝しているわ。あの時は叱るような事しかできなくてごめんなさい、私も少し熱くなっていたわ」
「いえ、うちも正直後先考えずやったんで気にせんとください」
「……ああいう無茶はもう少し考えたほうがいいと思うわ」
頬を引きつらせながらそう言われるが、私はそれに対し苦笑いしか返せなかった。私にとってあんな全力を出す必要など葵が不在の今、する事など2度と必要ないと考えていたからだ。
川沿いの土手は大体大人4人分の長さと高さがあり、私が落ちたであろう場所は土がそげており遠くからでも確認できた。跳んだ勢いで3~4メートル弱落ちた後、残り少ない坂を転がり落ちただけだから川に落ちずに済んだようで、骨は折れこそしたがそれだけで済んでいる身体の丈夫さに思わず感心してしまった。それと同時にあの高さは妹が落ちた階段とおおよそ同じでもあり、あの浮遊感を葵も味わったのだろうかと考えてしまう。幸い私は自分からだったので受け身も取れ、飛び込み先も草の生えた地面。葵はその地面より更に硬いタイルで出来た階段の段差を転がり落ちたのだ、それはきっと私の思うよりずっと――
「大丈夫?」
「へ、え、あ……?」
放り出されていた意識を戻すと、彼女はとても不安そうな表情で私を見ていた。人と話している時に深く考え事をする癖がつきつつあることに舌を噛む。
「すんません心配かけて、ちょっと妹の事考えてしもうてて」
口を滑らせたな、と思う。赤の他人へ言うにはあまりにも考えなしの発言であり、私としても深掘りされては困る話だというのに、焦りから早く言い訳を出さねばと口にしてしまった。
「妹さん……確か病院にいる子だったかしら」
どう話題を変えようかと考える間もなく、話は妹の事になってしまう。あまり聞かれたくない私は「ええ、まあ」と頬を掻きながらぼんやりとした返事をするに留める。
「……今日も妹さんの元へ行くのかしら?」
「そ、ですね。通院も兼ねて寄る予定です」
「そう……、なら、これを持っていってあげて」
女性は一瞬唇に指の背をあて考え込む仕草をした後に、ベンチに置いてあった小さな数本の花包みをくれた。
「気持ちは嬉しいんですけど、病院って生花ええんです?」
何やら最近は花は危ないという事で、よく禁止になっているとラジオで耳にした気がする。がしかし、女性はおかしな事を聞いたように小さく笑う。
「あそこは禁止にしてないから安心して持ってくといいわ。病室にも専用の花瓶を置かせてるくらいだし、それに、生花を気にしないといけないほど重篤な患者様は、もっと別の所へ行くようになってるから」
「……よう知っとりますね」
「私も、あそこの病院にはお世話になってるから」
やけに詳しいが、そんなものかと考えを止める。今にして思えば手紙1つで請求先が変わったり、重篤な患者の行方を知っているのもおかしな話だったが、当時の私にはその判断する力すら存在しなかった。
「そうだ、あなたにきちんとしたお礼をしたかったのよ。どうしようか考えていたのだけれど、妹さんの所へ行く時きっとここを通るわよね?」
「いや、うちが勝手にした事ですし。それにもうお礼なら……」
「いいえ、お金の事ならお礼なんて要らないわ。きちんとあなたがした事に対する相応の対価を貰ってくれないと、私としても困ってしまうわ」
春どころか夏の活力すら感じる人だなあと思った。春といえば朗らかで柔らか、そんな印象だが、彼女の髪と同じ色の目からは強い意思を感じられ、冬だというのにあの夏めいた日差しの中煌めく木々を思い出させるほどに、彼女はとても強かな人だった。
「あんまり高いものは……あなたは嫌がりそうだから、妹さんの元へ行く時でいいわ、私の元へ寄ってくださる? お礼として妹さんへ渡す花を毎日でも見繕うわ」
毎日、その言葉に思わず反応してしまう。
「毎日、ですか?」
「ええ、数は少ないけど、毎日」
本来であれば断るべき話だろう。彼女にとって毎日というのはきっと例え話のようなものだった筈だ。ならば本当に毎日と言葉通りに乗っかってしまえば、それは逆に対価を貰いすぎということになってしまう。……けれどその頃の私は、その厚意を足蹴に出来るほどの心がなかった。むしろ1つでも葵の元へ行く道中の足取りが軽くなる、何かそれ以外の目的が存在するという意味(救い)を求め、春や夏を想わせた彼女から花を分けてもらうことを、気付けばお願いしていた。
連日そこへ花を貰いにやってくる私に彼女は何を思っていたのだろうか。私には分からない。けれど彼女は常に約束を果たし、雪の日、晴れの日、雨の日、朝昼夕と……常にベンチにはその姿と花があった。はじめは特に会話はなく、日々種類の変わる数本の花を貰うだけ貰い、病院へそのまま向かう日々が続いた。しかし私の通院が終わる頃の冬終わり、春嵐の来た日、私はようやく彼女の言った毎日の意味に向き合うこととなる。
その日はようやく咲きはじめた春の桜や花々が散ってしまうのではないかと思うほどに風が強く、雷鳴までもが雲の奥から聞こえていた。春休みの真っ只中、昼から病院へ行こうと考えていたがどうにも心が落ち着かず、早めの準備をしている時だった。眩しい光に続いて耳を劈くような雷の音、驚きで目を見開きつつ振り返ると、窓には雨風が叩きつけられ嵐が来ていた事にそこでようやく気付き……ふと思った。まさか今日も?
その考えが浮かぶや否や、私は家を飛び出していた。
傘も合羽も纏わぬまま出てきたため、走る頬には雨風に混じり葉や泥がはたきつく。水を吸いきった袖で顔を拭いながら尚も走れば、履き慣れたお気に入りの靴は水溜りを踏み抜き、足元からはぐじゅぐじゅと水と空気を踏む音が嫌に響いた。いるな、いるな、やめてくれと叫ぶような想いを抱えながらベンチへ向かうと……やはりというべきか、女性はそこに立っていた。
「何しとんですか!?」
私は雨風や雷の音に負けないくらい声を張り上げながら、彼女の元へ近付いた。
「あら、おはよう」
「おはようやなくてですね……」
幸いと言うべきか、私とは違い雨合羽や長靴など、彼女は完璧と言わんばかりのきちんとした雨対策に身を包んでいた。しかしこんな天気でかつここは川沿いだ。女性一人で出歩くにしたって、ここまで適さない場所はないだろう。
そんな私の心配を他所に、彼女は相変わらず朗らかに優しい笑みを浮かべながら、私へといつもの挨拶をした。
「今日も妹さんの元へ行かれるのでしょう? これ、今日の花よ」
「そうですけど、いや、ほんま……うちがこんかったらどうするつもりやったんです」
私の言葉に彼女は何言ってるんだという顔をする。私のほうがよっぽどそれを言いたい立場なのだが。
「来るというか、現に来ちゃったでしょう? あなた」
「いや、来るでしょう! うちは心配で!」
「私が言いたいのは……あなた、この嵐でも外に出たでしょう?」
どこか話の噛み合わなさに苛立ちを覚える。なんだ、何が言いたいんだこの人は。
「あなた、花が無かったら外へ出てどうする気だったの?」
「……別に、妹のおる病院に行くだけです」
見透かされているような気がして、つい、と目を逸らす。雷の音はいつの間にか聞こえなくなり、雨音だけが激しく耳に届く。
「通院、あなたくらいならもう治ったでしょう。妹さん以外の理由で行く必要が無くなるわよ」
「…………」
「杞憂だったらよかったのだけれど……あなた、それ(花)ないと妹さんの元へ行けないのね?」
渡された花包みをぎゅっと抱き締める。雨の中だというのに顔が熱い、その癖寒さからか身体が震える。
「別にあなたが妹さんの元へ毎日通う理由も、理由(花)がないと行く勇気が出ない理由も要らないわ。そこまで聞くことは、名前の知らない関係としても過ぎたことだもの」
ばさり、と俯いていた頭の上から何かが掛かる。何かと思い顔を上げると、すぐ目の前に彼女の姿があった。彼女は私に薄茶色の雨合羽を頭から被せ、手際よくパチパチと前のボタンを締めながら、「けどね」と言葉を続ける。
「大人として、あなたみたいな子供を放っておくのはとても難しいわ」
「……うち、高校生ですけど」
「私の半分も生きていないじゃない、十分子供だわ」
小さな声で反論するが、鼻で笑われてしまう。ボタンを締め終えた後、彼女は緑のタオルで私の顔を拭う。
「花が必要ならこれからもあげるわ、けれどこの対価にルールを設けましょう」
――花に意味が見出されてしまったのなら、必要な事だわ。
そう出された言葉はとても優しげな声だったのを覚えている。
「1つ。私は必ず晴れの日の夕方、ここにいるわ。毎日行くなら固定の、そう、ルーティンを作ったほうが楽だわ。例外として少しでも天気が悪い日、そういった日は病院へ先に花を届けておくから、もし行くならここに寄る必要はないわ」
ルーティン、その言葉はこの人から教わった言葉だった。
「2つ。花を渡せる時……少しでいいわ、話しをしましょう。花の名前やどんな花なのか、それを教えますから。その方が妹さんに話す話題もできるでしょう?」
この日からだった、意識の無い葵に話しかける事を始めたのは。結局それに意味があったのかは分からない。けれど私にとって、意義のある行為が出来たお陰で、少しでも心が救われたのは間違いなかった。
「3つ。……朝ごはんだけでもきちんと食べなさい。その顔、病人に見せる顔じゃないわ」
いつからだっただろう、何も喉に通らなくなり、流動食やサプリで済ませるようになっていたのは。後日彼女から貰った小さなずんだもちは、とても優しい甘さだった。
彼女との関係はきっと奇妙なものだっただろう。名前や素性もお互いはっきりさせず、けれどあの日からほぼ毎日同じ時間に話す機会がある。そんな1年と対等であるために続けられた関わりは、もっと早くに折れていたであろう私の心を1年という時間にまで伸ばした。
今でこそ分かる、見守るべき子供として先生に見られていた事を。その関係性は本来対等と呼べるものではなく、私のためという理由が多く占めていた事を。
けれど、その1年の関係を友人であると、信じるに値する関係性になれていたと、彼女の言葉を受け入れて良いのなら、私は……。
「教えてください、先生の考えとることを」
私は、その信頼の上で成り立つ会話をしたい。自分を嫌い、自信も持てずとも、せめて人の信頼には応え、考える『足』を止めることはしたくなかった。それが私にとっての最後の尊厳だったから。
先生はにこりと微笑むと、「それでは始めましょう、この夢物語を」と言葉を紡いだ。
「さっきも言ったように、まず前提として……茜さん、あなたが見たのは夢だけれど、経験した事は現実と考えるのが妥当ね」
先生の言いたいことは分からないでもない、けれどこれは謂わば議論だ。穴になりそうな所を塞ぐための言葉を出す。
「夢やのに現実が交わってたら、夢やなくなるんやないですか?」
「夢≠現実と考えるならそうでしょうね。けれど夢≒現実が成立する要素……この手帳が存在できるなら別よ」
東北先生は一息ついてから、明晰夢って分かるかしら? と言葉を添える。
「あれですよね、自由に夢を変えられるみたいな」
「まぁ……そうね、それで合ってるわ。もう少し加えるなら、夢で自由に動けるようになる、というのが一般的かしら。夢全てを作り変えるというのは現実的ではないから」
夢なのに現実的とは……? 私には夢とは無限、逆に現実とは有限、そんな認識があるため、少し首を傾げてしまう。
「夢というのはね、あくまでも現実の延長線でしかないの。人が眠りにつくときに、脳の前頭葉……ここね。そういった頭の一部の領域が活発になって、その人がその日までに経験した出来事や感情、思考などが処理されることで夢が生まれるの」
先生は私の表情から疑問を汲み取り、頭をトントンと指で指しながら言葉を続ける。
「経験や知識、感情や興味、不安やストレスなどの心理的な状態も全て含めてね。だからといって、夢の内容が完全にランダムになる訳じゃないわ。人の脳で処理される情報には、ある程度の優先順位が存在するの。その情報を組み合わせて、やっと見ることの出来る夢が完成するわけだけど……。さっきも言った通り、これらは眠ってる最中に情報の処理をしているから、副産物として夢が生成されているだけ。だからその元の情報を分解したり、読み込まなかったり、読み込む順番を変えたりすれば夢を作り変えることも可能でしょうけど……そんな事をしたらどうなると思う?」
先生が言わんとする事を理解し、ぞっとする。私の認識では明晰夢とは夢で何でもできる、そんな感覚だったが、それをしてしまえば精密機器と例えられる脳は確実に処理を間違え、何かしらのバグを生成し始めるだろう。そうなってしまえば本来脳に定着する筈だった情報は消える、もしくは別の何かと紐づいた記憶をするかもしれない。もしかしたらその処理を記憶してしまい、以降恒常的にバグを生み出す事すら危惧できた。
「壊れる、とかですかね」
「広義的に言えば、是となるでしょうね。私の考えとしては夢と現実の境が分からなくなる……かしら」
「境、ですか?」
「夢と現実を分けているのは明確なルールがあるかどうか。時間の流れや重力の影響が正しいかとかね。けれど夢を見ている人にとってそんなのは関係ない、何でかって、優先されるべき観測者は夢の持ち主になってしまうから。その上でもし存在すべきルールに対して、夢の主が両方のルールを理解しつつどちらも同じだと判断……夢を現実の判別がつかなくなった時、本当の現実に帰れなくなるんじゃないかしら」
「……明晰夢って、夢と現実の区別がつくからこそできるもんやないですか? 夢を現実に捉えてもうたら、それこそ明晰夢はそこで終わるんじゃ?」
「明晰夢とは夢を理想の姿に変えたいと願う事よ。なら夢が理想の姿で固まった時……それは夢である必要は消え、現実の必要性も消えたら?」
「けど、人はいつか必ず起きるもんや――」
そこまで言って気付いた。この話は元々何から始まっている? 前提として定義された私の話より前、先生は何と言っていた?
ハッとする私に、先生は静かに言い放つ。
「起きることができず、夢を見続けられる人間がいたとしたら……どうかしら」
先生の言葉をそのまま受け取るのであれば、葵にとっての理想はこの現実にはなく夢にある。そんな仮定は成立するのか? もしそうなら、その理想って……?
思わず葵に顔を向ける。変わらず穏やかに眠る表情、それは今の私にとってその仮定を真に思わせる。
「……葵は、起きる必要がないから眠ってるって事ですか」
「それはあなたがどう思ったか次第じゃないかしら。私は2つ言ったはずよ、茜さんと葵さん……2人は同じ夢を見ていて、その上で茜さんが未来になっているって」
「うちが見ていた夢は過去の時間です。それが未来っていうのもおかしいし、葵が起きたくない程の夢ともうちには思えんかったんですけど」
そうだ、もし葵が理想の夢に囚われていて起きないなら、あれが葵にとっての理想だというのには違和感を覚えた。どこまで行ってもあの夢は過去の焼き増しに過ぎず、違う所と言えば、私の行動及びそれに影響を受けた何かしか存在しない。先程の明晰夢の話を出すのであれば、葵が夢の主ならもっと現実に寄らない行動をするだろう。あれでは理想を叶えるどころか、葵が事故に遭うまでの時間を再度にやり直すような、そんな過去の出来事に沿った動きになっていた。
けれど東北先生は私の否定に首を振るう。
「いいえ、過去があるからこそ未来になり得るのよ。……これをもう一度見てくれる?」
差し出されたのは先程のファイル。同じページ。けれどいつの間にか書き加えられた文字は、私の目を大きく開かせる。
ファイルにはα・β・γ・Δ・θとそれぞれ記号を振った5種類の波が枠の中にあり、その波が活発になっている部分に先生の文字で時間と内容が書かれている。
『9/24 7:30 β,γ波の乱高下 琴葉茜と琴葉葵の対面時刻と一致 備考:β波は集中力及び活発な思考、運動を行っている際に検知する波。γ波はβ波より更に強い集中力や創造性の高い思考など、高度な脳の活動をしている際に検知する波』
『9/24 7:50 α波の上昇 琴葉茜への調理及び再度会話時刻と一致 備考:α波は瞑想状態に近いリラックス、及び集中力の高い状態の際に検知する波』
「……っ」
そこまで見て思わずファイルを勢いよく閉じようとするも、間に手を挟まれ閉じることは叶わない。
邪魔をした目の前の人間を睨みつけようと顔を上げるも、真剣な眼差しが私を貫く。
「あなたにとって、この中身を見るのに何か思う所があるのは分かるわ。きっと妹さんにとって隠したい事実が含まれているかもしれないし、あなたにとって知りたくない事実があるかもしれない。……けど、だからこそ、ここから目を逸らすべきじゃない」
「こんなん人の思考覗き見てるんとなんもかわらんやろ!!」
「なら夢を共有する事は、あなたにとってそれと違うと言える?」
違う。そう即答できればどれほど良かっただろう。私が今日この場に来た理由は1つしか無く、葵の手を握りながら眠れば、もう一度あの夢を見れるのではないか、そう思ったからだ。続きの、現実に影響を及ぼす事のない夢を見て、葵ともう一度話し合えるのではないかと……そんな一抹の願いを胸にやって来たのだ。
しかし何らかの過程を経て、それこそ手帳のように現在に干渉してしまうというのであれば、それは見てもいい夢なのかと疑念が残る。もしその夢が実際に葵の記憶に残り得るものだとするならば、私のやっている事はいくら話し合いを前提としていても、葵の思考に勝手に入り込んで、無理やり話をしているようなものだ。脳波を見て思考を知ることと、勝手に頭に入り込んで思いを知ろうとすること、そのどちらもきっと葵にとっては何ら変わることのない、非道な行いでしかない。だからこそ葵は私に出て行けと言い、再びの会話を拒絶するために手を閉じているとしたら? 私のした行為は葵にとって――
「茜さん」
どくどくと何かが喉へせり上がり視界が白んできた時だった。先生からの声で意識が戻される。
身体は震え、指先は痺れるように冷たく、吐き気がするほど鼓動を早める心臓。病室の白さが異常に眩しく感じ、もはや限界だと思った。
――帰りたい。そう口にし掛けた時だった。「茜さん」ともう一度呼ばれる。
「なんですか……?」
「今日、どうしてここに来たの?」
「それは……葵に会いに」
「会ってどうするつもりだったの?」
「……夢を、見ようとしてました。そこでもう一度葵と話せるんやないかって、そう、思って」
「そう、花が無くても来れたのね?」
そこで気付く、先生が何を言いたがっているか。
「今日この場に花(言い訳)が無くても来れたのなら、あなたには知る権利がある筈よ。……1年という時間、それは茜さんにとってただただ残酷に現実と向き合わせてくる、生き地獄の様な日々だったかもしれません」
先生はいつだって対話、対等、対価、そんな天秤のように推し測る人だった。だからこそ私にとって、彼女は友人であると同時に、花の対価を常に忘れたことは無かった。
「けれど……あなたは、茜さんは1年。1人だけで彼女の世話をしてきたはず。1日足りとも欠かすこと無く、花という言い訳を借りる必要があったとしても、晴れの日も、雨の日も、雪の日も、嵐の日も、毎日、必ず」
……花がなければ、葵の元へ向かう勇気が出なかったのは確かにある。けれどそれ以上に私は……臆病だったから、時間に意味が欲しかったのだ。積み重なった1年という歳月。それがただ手から零れ落ちる砂ではなく、もう一度振り返れるだけの、そんな意味が。
「それは何の意味があって? 何を願って? 意味や言い訳にしがみついてでも欲しかった事が、花を持たずとも来るに足る今日という日が、あなたに出来たのでしょう? それはどうして?」
……けれど、その手に溜まった砂を振り落としても構わないと、そう思えたのは、今日ここに一歩踏み出せずとも前に来れたのは。
「葵が……葵を起こせる、何かがあると思ったから……」
それでも私は、最後の一歩を踏み出せなかったのだ。夢から追い出され、その手が私を拒んでいる事は嫌でも分かる。ならば、私は葵に何も、もう……。
しかし先生はそんな私の考えを決して許さない。
「人を愛するのも人に尽くすのも、その相手がたとえ家族だったとしても所詮は他人よ。無償なんて存在してはならない。だからこそ、そこまであなたが葵さんに尽くすのなら」
「それでも葵は意思を自分で出せない相手ですよ……!? そんな相手から対話してもらおうとすること自体烏滸がましくて、浅ましいでしょう……!」
「それを決めるのは茜さんではないわ」
「うちは現に拒まれたんです! 葵に!!」
「葵さんが拒んだのは茜さんのこれまでしてきた事が理由じゃない、彼女にとって触れられたくなかった気持ちへ、あなたが触れてしまったからでしかないわ」
「結局一緒や……!」「いいえ、全く違う」
言葉の応酬は私の言葉を遮られることで止まる。熱くなった身体は少しでも酸素を求め、肩を大きく上下させる。私と違い、ずっと何かを見据えるような目をする先生は、冷え切った手を私の強く握られた両手の上に被せた。
「それはあなた達姉妹が向き合うことの出来なかった気持ちでしかない。今、茜さんが向き合うべき本質は葵さんをどうやって叩き起こすか、そしてどうやって閉じてしまった手を開くかだけよ」
「……葵の触れられたくなかった気持ちが、それに関係しとってもですか」
「何度も言うようだけど、今話すべきはそこじゃないわ。もし夢にもう一度入れるなら……その時は茜さんにとって避けては通れない事かもしれないけれど……、でも私が今話したいのは彼女を起こすための、最短でやるべき事だわ」
被せられた手が熱を持ちはじめ、つられて私の手の中にも熱がこもる。
先生の真剣さは分かる、分かるが、なぜそこまで真剣なのか、真意が私には分からない。
「先生はこれをうちに見させて、向き合わせて、どうしたいんですか……?」
私の疑問に先生は困ったような表情をし、一度目を伏せた後、顔を上げ告げる。
「私は葵さんの医者で、茜さんの友人で、大人としての立場も色々あるけれど、最も優先すべきは医者としての立場です。……茜さん私はね、葵さんを起こすことができるのはあなたしか居ないと思ってるの」
「医者がいう言葉ですか、それ」
「ふふ、そうね。でもはっきり言うわ。葵さんの様な人に私達は何も出来ないのよ、だって異常がどこにもないんだもの。体も頭も全て正しく動いてて、けれど意識だけがまるで抜け落ちてしまったように起きることがない。だからできる処置と言えばただ延命を施すだけ施して、いつか起きるのを待つだけ……それしか出来ない」
東北先生は変わらず朗らかな表情、けれどその目の奥はどこか、今まで気付くことはなかった疲れのようなものを感じた。
けどね、と先生は言葉を続ける。
「諦めるなんて出来ない、そんな感情だけで、それこそ医者としての道を振るえちゃう人もいるのよね。そんな人達が徹底的に調べて、調べて、調べ尽くして……何もなかったなら、後はどこに異常があるかと問われたら……ここしかないじゃない」
優しい、けれど背筋が伸びる様な声を出しながら、先生は胸を指先で数度叩く。
「心、ですか」
「そう、心。……ねえ茜さん、あなたが見た過去に似て非なる夢、それを葵さんも見てるってことは何か、葵さんにとっても大事だからこそ見ていると思えない?」
どう、なんだろう。葵が起きない理由を今まではっきりと考えてこなかった私には、あの夢が葵にとってどんな意味を持つのか、よく分からない。あの夢の葵が私の意識に作り出されたものではなく、葵本人だと言うのならば……葵はなぜ同じ日々を過ごそうとする? 終わりの日に葵は何を求めている? 私が気付かないだけで、葵はもしかしたら違う生き方を模索していたのだろうか。いくら考えても、やはり私には分からなかった。
「私はね、こう思うの。葵さんは事故の日、事故の瞬間、葵さんにとってとても大事な事を頭に浮かべてしまって、心がそれを守るために閉ざしてしまったと。それが原因で起きれなくなってしまったのなら、彼女はそれを無くすための……やり直しをしようとしてるんじゃないか、って」
「やり直して……、葵が自分からあの日を迎えようとしとる言うんですか」
そんな怖い思いするよりもっと出来ることはあるんじゃ? そう考えた所で先程の明晰夢の話を思い出す。葵が夢の主だとしても行く末を組み替えることはできない。結末が葵にとって強く記憶に残っているのであれば、それは更に困難を極めるだろう。
だけど、それなら葵は一体どこからやり直そうとしている? その疑問に答えるように先生は言葉を紡ぐ。
「葵さんにとって事故の起こる日、それしかもう変えられる部分が見つからなかったんじゃないかしら」
「いや、それやったらなんて3ヶ月も前に……」
「……人はそんな簡単に死ぬと分かりきった行動はできないわ、それこそ痛みを知ってる人なら余計に。けど葵さんはそれでも選び、選んだ上で妥協できる所がそこだったんじゃないかと思うの」
だって、と先生は言葉を続ける。
「そうじゃないと説明がつかないわ、茜さんと葵さんの夢の流れが違うなんて」
まるであなたを待ってるみたい。そう言われて重ねられていた手を離される。熱かった手は冷えた空気に晒され、頭の意識を冷静にさせる。
膝の上の開かれたファイルの上に、ふっと目を落とす。夢の流れ、未来、先生は何度も夢の時間に対して言及をしていた。その言葉を辿るように、私は震えそうになる指先でもう一度だけファイルの内容に指を沿わせた。
間違いが無い様、仔細に書かれたそれらはどれも瞼を重たくさせるが、やがて1日の終わりたる夜まで進んだ所で、それは唐突に終わりを迎える。
「……あの、先生、なんで表はここで途切れとるんです?」
1日の終わり、それは別段表の締めくくりとしてはおかしくないのかもしれないが、私の眠った瞬間で終わりを迎えているのが問題だった。私と葵の夢が繋がっている可能性があるというのは聞いたが、それでも葵の脳波はまるで崖を作るかのように、私の意識が落ちた時を境に0を推移していた。加え……それ以降の動きが一切、ない。
「言ったでしょう、あなたが未来になっている、って」
頼みの綱である先生へ縋るように顔を上げ見やると、先生はただ淡々と、けれどどこか納得行かない様な不服さを見せつつも言葉を続ける。
「どういった理屈なのかは分からない、けれど今日取ったその記録はそれ以外にもう無いわ。明日以降もあなた達……いえ、葵さんの記録を取るけど、多分1日程度しか進まないんじゃないかしら」
「んな適当な」
「適当じゃない、推測よ。少なくとも一週間計測を取らないとこればっかりは何も分からないんだから……。それよりも本題はここからよ」
――もしもの話、明日を迎えて葵さんに2日目が始まったなら。
その言葉を出す先生の声は今までにない程強張っていた。
「葵さんは一週間後、茜さんを夢に招き入れる事は2度とないし、あなたが夢に入れる機会も、きっと2度となくなるわ」
まるで頭を金槌で殴られたかのような衝撃が走り、視界が一瞬だけ揺れる。けれど思考が飛んでしまうのをすんでの所で踏み留まらせる。今はとにかく、私は知らなければならない。先生は医者としての立場を最優先していると言った。なら私が先生の言葉を聞き、その上できっと何か判断させようとしている事がある筈だと、心に言い聞かせて。
私のそんな様子を見てだろうか、先生は言葉を続ける。
「今の葵さんの脳は、茜さんの夢をゆっくり、幼子が噛み砕くように体験していると考えてるわ。きっと経験した事を、頭が夢という形で整理しはじめているんでしょうね。けど一週間先、茜さんと葵さんが喧嘩した次の日に、あなたがその夢にいなかったらどうなるのかしら……?」
「……うちの夢と混じらんくなるんやったら、葵にとってのお姉ちゃんにすり替わるんやないですか」
「その茜さんはあなたという記憶がないのに、どうやって?」
ぶっきらぼうに想像した考えを伝えると、先生からはより更に冷たく凍りつくような考えが返ってくる。
「何度も言う様だけど、明晰夢というのは簡単なものじゃないの。葵さんにとって夢の茜さんというポジションは既にあなたであって、葵さんにとっての茜さんでは決して無い。そして現実と整合性が取れなくなるような事……、茜さんという存在が夢から消えたら、葵さんの夢の進み方は本来の未来ではなくなる。もしそのまま3ヶ月彼女の中で経とうものなら――2度と起きる機会を失う可能性だってあるわよ」
「うちにどうしろって言うんですか」
これ以上何が出来るというのか、私には詰みの状況にしか思えない。葵が自発的に起きる可能性は低く、かつ私が手を出そうにも葵本人には拒まれているのに。
見えなかった筈の猶予は、私が意思を持ってからというもの、3ヶ月、一週間とどんどん期間を狭め、これ以上私が何かしようものなら葵の命すら削ってしまうのではないか、そんな恐怖が脳裏に浮かび、こびりついたように離れない。
なのに私はもう、欠片も『お姉ちゃん』という意思を心に持てていなかった。
「なに、簡単なことよ」
けれど先生は飄々とした態度で私の……自分が招いた不幸を受け入れられず、ささくれていた私に全く簡単ではない提案を持ちかける。
「仲直りしなさい、6日以内に。あ、今日を合わせてね?」
「いやいやいやいや……! 無理でしょう!」
簡単ではないどころか、無理難題だと思い強く突っぱねる。流石の私でも無謀な約束をしてしまうほど現実が見えてない訳では無い。しかし先生の本当に簡単と信じて疑わない様な目に、私は焦りを感じる。
「勘弁したってください……仲直りとかそれこそ話し合えて初めて成立するもんでしょう……」
私の抵抗に先生は「あら」とまるで初々しいものでも見るかのように、口元に手を当てる。
「そうかしら、それは喧嘩に高尚なイメージを持ちすぎよ。意外と時間が解決してくれることだってそう珍しくないわ」
「それは普通一般だったらの話でしょう、うちと葵は違う。ましてや葵はうちの事を完全に拒んで手を開こうとしてない、それはどうするんです」
「この手ねえ……。おかしいわよねえ」
「おかしいって、何が」
先生は葵の手と私へ交互に視線を向ける。
「夢をゆっくり見てるはずの葵さんが、どうして今の時点で既に茜さんを拒んでるのかしら」
「それは……」
ピクリ、と僅かに、ほんの僅か、目を凝らしてようやく分かるくらいに葵の手が揺れた気がした。
「これ以上は医者としての立場より、友人や大人としての立場を優先すべきだと思うから言葉を伏せるけれど……。きっと茜さんの1年は無駄じゃなかった、そう誰よりも証明したい子がいるんじゃないかしら」
……まだ、私には分からない。先生の言う事も、葵の考えも。
……けれど。
「仲直りできたら、うちは何ができますか?」
「葵さんともう一度、夢を見れるわ」
幾度折れた心でも、まだがらくたくらいの心は残っているかもしれない。
「……少し、時間をくれますか? 大体5日だけ……11月30日までになんとか、考えたいです」
「いいわ、けれどそれを過ぎるなら必ず連絡しなさい。そこから先は四の五の言ってられなくなってしまうから」
過ぎてしまった時先生が何をするかは分からない、けれどその真剣な目は何をしてでも、という意思を確かに感じた。
その次の日、ある考えが定まってから病院へ向かうと、先生から再び呼ばれファイルを手渡される。その中には私の記録と寸分も違わない、私と葵の過ごした2日目の様子が書き出されていた。
◇
「よし、じゃあそろそろ向かうぞ」
「あ、は、はい」
葵の衣類の入れ替えなど、最低限の事を済ませた後に結月さんから声が掛かる。彼女は学生バッグを肩に掛けるように持ち、病室を出ようとするが、私の返事を聞いた瞬間にげんなりとした顔で振り返る。
「それ、やめてくれ」
「え、えっと。どれです……?」
辺りを見渡すが何もおかしなことはない。別に私がおかしな行動をしたとも思えないが、私にとって現状唯一の頼みの綱である彼女に気分を害されては困る。何か直せるのなら直そうと考え、それとは何かを聞くが、余計に結月さんは肩を重そうに落としつつ、ため息を吐く。
「敬語」
「え?」
バクバクと焦りで大きく鳴る心臓に紛れ、小さく結月さんの声が耳に入る。敬語?
「同い年だし、それにどっちが偉いとか上下気にされても困る、だから敬語はやめてくれ」
「す、すんませ……すまん……?」
一瞬信じられない物を見るかのような目つきをされ、急いで変える。結月さんはどこか納得の行かない表情をしつつも、まぁいいやとコロッと表情を変え、部屋を出ていく。
「はよ」
「え、あっはい……ああえと、うん」
別々に出るのではなく、彼女は扉を開けた後、開いた扉を支え私を待っていたようだった。気付くのに遅れ焦ってまた敬語が出てしまうが、ジトリとした視線を感じまた慌てて直す。
目的地は知らされていないけれど、案内のために結月さんは半歩だけ前になる形で、ほぼほぼ私の隣を意識するように歩いている。多分ほとんどの人は分かるはずはないだろうが、葵の前を歩く、後ろを歩く、そんな事を長年意識していた私だからこそ、彼女の変わった歩き方に、どことなく私は新鮮味を覚えた。
◇
残り5日。そう猶予が定められた期間の中で「葵と仲直りする」という目的、それは危機感の薄れそうな目的ではあったが、その実、あと5日で葵の未来が左右されるという命運もはらんでいた。
葵との最初で最後の喧嘩、その仲直りのために私は何をすべきか。そんな悩みを先生と会話し終えた1日目の夜にずっと考えていた。葵と仲直りできるきっかけは何か無いのかと。
リビングのソファに座るのはどうにも憚られ、コーヒーの淹れられたマグカップを片手に、私はノイローゼのクマのように家中を歩き回った。家の中はどこもかしこも家族の思い出が強く、胃がやられる思いだった。玄関、キッチン、リビング、書斎、寝室……、どこにいても仲良く過ごしていた幼い頃の記憶が姿を見せる。そんな記憶に想いを馳せながら、冬の冷たすぎる空気で早々に湯気が消え冷めきったコーヒーを啜った時、ふと得も言われぬ違和感を覚えた。どれもこれも私にとって、大小あれど大切には違いない思い出。けれどそれにどこかおかしさを感じてしまう。
なぜ、なにが? 家を回れば回るほど違和感は強くなり、加えコーヒーのカフェインのせいだろうか、強い吐き気に襲われたため洗面所へ向かい、えずきかけた時だった。鏡に私と記憶の私達が映る。その姿は、やはり幼き頃のままだった。
どうしてか、どうして、それしか浮かばないのだろう。もっと葵と2人だけで過ごしたこの家の日々は、あの幼き頃に勝る筈の、ずっと望んでいた葵との暮らしは……!
「う……っげほっ……」
喉が締まり、空気を求めた頭が強引に酸素を取り入れようとし咽てしまう。
――やっぱり、見てなかったんだね。
ふいに、葵の言葉が頭に反響する。葵のその言葉は今になって重みを増し、私の異常さを省みさせられる。
顔を上げると、鏡には酷い顔をした私だけが映っていた。葵はこんな私をどう思っていたんだろう、花1つなければ病室へ入る勇気も出なかった私に、何を思っていただろう。……いくらそれを鏡に問うても答えは分からない。私には想像もできない程に今の葵を知らなかった。
「……」
――謝りたい。
切に、そう思った。
2人暮らしは離れて暮らしていた時の約束だった。いつか、いつか2人で……と叶えられた夢は、私の思い出にないなら一体どこにあるというのか。記憶にない訳では決して無い、なのに心に残り、忘れたくないとひしと感じるそれらはどこにもない。それは……あまりにも残酷な事だと思った。けれど謝るという行為の前に、私はまず考えるべき事もあるとも思った。
今の私は謝った先が何も考えられない。それではただ許しを請うだけで何も変わることはできない。
――うちは、葵とどうなりたい?
仲直りを経て夢に戻れたとしても、戻る先は葵に好意を問うてしまったあの瞬間だろう。ならやはり、私は彼女の気持ちと向き合わない訳にはいかない。けれど肝心の葵という妹の存在を私は『お姉ちゃん』としてしか見てこず、何も知らないのだ。これではこの考えに対して、きっといつまで経っても答えなんて出せない。
どうしたら……。そうぼんやりと思い詰めながら鏡を見つめていると、ふと夢での景色と自分が重なる。
――……別に今日だけじゃなくて、明日からもやってあげるよ。
葵が言ってくれた明日という言葉……。葵は軽口で言ったのかもしれないし、その時の私は3ヶ月という猶予に切羽詰まっていたのもあるだろうが、それでも……その言葉に対し私はあの時、言葉にならない嬉しさのようなものを感じた。それはきっと……未来を期待出来ることへの嬉しさと同時に――『私』が葵と居てもいいという肯定感。
私は……叶うなら、その未来を知りたい。ただ……ただ今日という日を漠然と生きるのはもう嫌だ……。私は……。
――葵の持つ好きの意味を、理由を知りたい。
私がその好意を受け取れるだけの心が残っているかも、恋に恋するだけじゃない生き方ができるかも分からない。けれど……それでも、『お姉ちゃん』としての私に従うのではない。たとえそれと同じ考えになったとしても、私自身の考えと言葉でこれからを決めるために、私はもう一度0から葵の事を知るべきだ。私は全ての思考を放棄してきた負債を、これから……最も近くにいてくれた存在へ返さなきゃいけない。
そう心に決めてからは早いものだった。思い切りだけはよく、翌日葵が2日目の夢を見ていると知った後、私は夕方過ぎに来るであろうその人を、葵の病室で待たせて貰った。人は毎日やると決めた事ならルーティンに組み込んでしまった方が楽、というのは、今の私ならうっすらとだけ理解出来た。ならば彼女はそこに現れる筈と信じていると……。
――やはり、来た。
律儀な3度のノック、きっとそこまでが彼女にとっての流れなのかもしれない。けれど私はそこに割って入る。彼女が扉を開ける前に、私から扉を開け放った。
「ぅ……わ、は……? 琴葉?」
「ども」
「いや、どもってお前……、あのな……」
案の定、結月さんは私の顔を見るや否や、げんなりとした表情に変わってしまう。
私にとっては約一週間振り、彼女にとっては数日振りの再会。どちらにとってもきっと好ましくない再会だろうが、私はもう退く訳には行かなかった。
空いた首筋に感じる冷たい空気は及び腰になりそうな私の背筋を正させる。
「結月さん、少し話しできませんか?」
「……私が会いに来てるのはお前じゃないんだが」
その言葉は想定済みだ、折れる心はもうない。
「お願いします。どうしても、葵の事で教えて欲しい事があるんです」
私が知るべきは今の葵だ。妹としてだけじゃない、私の知らない、『琴葉葵』として彼女が何を考え、想い、行動していたか。それを一朝一夕で知ろうというのは烏滸がましいかもしれないが、それでももう……後がない私はなりふり構っていられなかった。
そのために最短で葵の事を聞ける手段とは何かを考えた時、彼女……結月ゆかりが真っ先に浮かび上がった。数日前に諍いのあった人間に対してするべきではないと分かってても、今の私には葵を知る上で唯一の頼みの綱と思えたのだ。
彼女は恐らく私と同じように毎日葵の病室に通っており、かつ葵の親しい友人らしき人で、かつ彼女はとても厳格な人なのだろう。諍いの最中でも公正な目線を意識している人だった。そんな、会うのも容易でかつ葵の事を正しく知れる人物と言ったら、私には結月さんしか思い浮かぶ人はいなかった。また何か強く言われるのではという恐怖もあったが、それでも私は結月さんを選んだ。彼女は人をよく見ているように感じたから。
「にしたって人選狂ってるだろお前……」
行きの電車の中。結月さんに「なぜ自分に葵の事を聞こうと思った?」と聞かれ答えたらこれだった。
「でも即答やったやないで……すか」
「別に断る理由ないしなあ」
「ええ……?」
そう、彼女は「葵の事を教えて欲しい」という私の言葉に対し、内容も聞かず「あー、わかった」とノータイムで返答したのだ。正直一悶着あると思っていた私は呆気に取られたが、その後「じゃあ明日7時に制服でここ集合な」とだけ言われ、今日に至るというのが顛末だった。
なんというか、思慮深い一方で表に出てくるのは大体ぶっきらぼうというか、意図が読みづらい人という印象に変わりつつあった。
「……これ、どこ向かっとるん?」
休日の朝という事もあり、比較的空いている電車に揺られること数十分。窓の外は段々と、私の知らない景色に変わりつつあった。
結月さんに呼び出されたのはいいものの、相変わらず目的は教えてくれない。ただ彼女は休日だというのに制服を着ており、私もまた彼女に事前に言われた通り制服を着ている。上にコートを着ているものの、どこか日常から浮いた私達の姿が窓に映る度、少しむず痒さを感じてしまう。
「あー、あそこ、月代高校って分かるか?」
「うちの姉妹校でしょ、文化祭でも駆り出されたしそれくらいは」
「そう、その姉妹校の月代。んで、今から向かうのは……喫茶店?だな」
「前後関係ぶっ飛んでるんやけど」
「まぁ最後まで聞け、琴葉」
どうせまだ10分くらい電車に揺られるんだから。そう腕を組みながら言う彼女に従い、私は黙って頷く。我らが通う東雲高校とその姉妹校である月代高校、電車はどちらからも遠ざかっている現状も含め、彼女はきっと上手く説明してくれるのだろう。
「まず私達……お前の妹だな、葵と私と……今日はいないけど、もう1人を合わせて3人で普段やってる事がある。多分琴葉は知らないだろうが、所謂『なんでも屋』ってやつ」
「知らんな……部活とか委員会みたいなもんか?」
いやそれにしても聞き覚えはない。たまに生徒会から頼まれ、雑用として予算管理に加わったこともあったが、それでもそんな名前は見たことがなかった。
「非公認だからな。けど教師や生徒、それだけじゃなく依頼があれば生徒の家族までだったら大体受けてたから、知ってる人間は知ってるって感じだったよ」
「逆になんでうちが知らんのか理解ができんのやけど……」
「だって葵が、もしお前にバレたらもう絶対依頼を受けないって公言してたしなぁ……。結構な人間が気い遣ってたと思うぞ? まあその実なんでも屋というか、ほぼほぼ相談屋みたいな依頼が基本占めてたしな」
最初こそ本当になんでもやる何かをしているかと思い、誰かから恨みでも買ってやしないか心配になったが、気遣いという言葉が出てくる辺り私の考えているものとは違ったらしい。彼女の補足により、なんでも屋の中身が見えてきた。
「なら、今回も相談相手が待っとるとか、そんな感じなん?」
「イグザクトリィ。この手の依頼は必ず2人1組って葵が決めてたから、最近は受けれないのも多かったんだが……今日はお前がいる」
「葵の代わりとか、うちには……」
無理だ。と言いそうになる。葵を知るためにやらねばならないのは分かっている、だからこそ口を閉じるが、葵が一体どんな意図を持って取り組んでいたのか、それが分からない身の私が参加していいものかやはり戸惑いを覚えた。
「別に葵の代わりとか、今日来れないあの子の代わりも期待していないわ」
ふいに、今までとは打って変わり、柔らかな彼女の声が耳に届く。
「問題を抱えている人を前に、琴葉が何を思ったか、どうすべきと判断したか、それに対しどう最善を尽くせるか……、誰か他人なんて考える必要はない、お前自身の考えさえあればいい。それを私に聞かせろ」
まぁ、道徳の範囲内でな。そう言葉を締めた辺りで電車が停止する。どうやら目的の駅に着いたようで、彼女は立ち上がりながら学生バッグを肩に掛けた。
「さあ行こうか、依頼だ」
「……おう」
まるで海外ドラマの幕開けのような言葉、それを私は茶化すでもなく、自分を奮い立たせる意味も込めて返事をした。
◇
目的の喫茶店は駅構内から少し離れたテナントにあった。建物としては駅に併設されている場所の筈だが、駅自体が様々な飲食店や土産物屋が存在する大きめの場所なためか、比較的閑散としていて静かな場所だった。表に出されたウェルカムボードにはメニューが張り出されており、ドリンクやスイーツ、軽食など――どれも朝を抜いてきてしまった私には目に毒と思えるほどきらきらして見えた。
「経費も部費もないから、頼むなら自費でな」
「頼めるだけ僥倖やわ」
私としては一瞬見ただけのつもりだったが、結月さんはそれすら見逃さず、変わった釘の刺し方をしてきた。多分注文して飲食する事に関しては咎めない……という事だろう。一人納得しつつ、先に扉を開けた結月さんに促され中へ入ると、「いらっしゃい」とカウンターから低く落ち着いた男性の声が掛かる。頭を軽く下げながらぐるりと店内を見渡すと、テナントにしてはお洒落な雰囲気のそこは、内装もウッド調で統一されていて暖かく優しい印象を持った。
先を歩いていた結月さんから「こっち」と促されるままにカウンター横の階段を登り、2階へと上がると、そこはテーブル席にソファかウッドチェアが置かれ、ゆったりくつろげそうな空間配置に感心する。
結月さんが選んだのは店の一番奥、窓際の少し日当たりのよいソファ席だった。
「ん」
「え、あ、ども」
制服の上に着ていたコートを脱ぐと、結月さんに手を伸ばされる。彼女の足元には机の下から取り出された大きめの籠があり、コートはそこに入れろということなのだろう。ありがたく彼女にコートを手渡し、窓側のソファへ腰掛けると、結月さんはそのまま私の隣の席に陣取った。
「……なんだよ、どうせ依頼者が来るんだからいいだろ面倒くさい」
「なるほど」
言われてみればそうかと気付く。特にそれ以上違和感もなかったため、何か飲み物でも注文しようとメニュー表を開くと、セットメニューの一文が目に入る。スイーツセット、紅茶かコーヒーがついてきて600円。めっちゃ安い。しかも3つそれぞれが種類を色々選べるようで、私は完全にそのページに釘付けとなった。
「失礼します。ご注文はお決まりでしょうか?」
しかし思ったよりも早く、お冷を持ってやってきた店員さんから注文を聞かれてしまう。「私はスイーツセットの……プレーンワッフルのチョコレートアイス添えで。ドリンクはブレンドコーヒー、ホットのMでお願いします」
加えて結月さんは既に決まっていたようで、注文を先延ばしにもしづらくなってしまった。
「えと……うちも同じくスイーツセットで、宇治抹茶のシフォンと、えっと……」
ずらりと並ぶドリンクの名前に目が滑り、選ぶのに手間取ってしまう。
「ここはコーヒーが旨い。ケーキは甘めに作られてるから、苦手じゃなかったらアメリカンかブレンドを一回頼んでみるといい」
「む……じゃあ結月さん……隣の子とドリンクは一緒のでお願いします」
「畏まりました、スイーツセットのプレーンワッフルのチョコレートアイス添えが1点、宇治抹茶のシフォンケーキが1点、ブレンドコーヒーホットのMサイズが2点、以上でよろしいでしょうか?」
「あー、ごめんなさい、ちょっと待って。あなたもコーヒー飲める? あと好きなケーキは?」
店員さんが注文を復唱し終えた時だった、結月さんはソファの背に腕を乗せ振り返り、いつの間にか傍まで来ていた女性に質問をする。印象は黒一色、そんな風貌の彼女は「飲めます。ケーキはモンブランが好きですね」と答え、結月さんは「なら追加でそれもお願いします」と頼んだ。
店員さんはそれに対しても慌てず「畏まりました、お冷ももう一つすぐお持ちしますね」と返し、注文のメモを終えるとにこやかに去っていった。
「さて、それじゃあまずは自己紹介と行こうか」
あとから来た彼女が私達の向かいに座り、お冷とおしぼりが揃った所で、結月さんは沈黙を破る。手をおしぼりで拭いていた私達はそれぞれおしぼりを畳み、彼女の方へ居住まいを正す。
「今回『茜屋』としてご依頼を受けさせていただく「なんて?ゔっ」東雲高校3年結月ゆかりだ。この隣のは同じく3年の琴葉茜、今回は私達2人で依頼内容のサポートをさせて貰うが大丈夫か?」
「ど、ども……」
聞き捨てならない言葉が耳に入り思わず聞きかえすと、横腹に鋭い肘鉄が入り肺から空気が抜ける。じくじくと痛む横腹を抑えつつ辛うじて挨拶だけは済ますが、依頼主からはおかしなものを見るような目で見られてしまった。
――いやなんやねん『茜屋』て、なんでも屋じゃないんかい。
結月さんの事だ、名前を隠していたとかではなく、純粋に言い忘れていたというか、言うのがめんどくさかったとかだろう。名付け人を後で確認しようと頭の隅に置きつつ、今は次に自己紹介するであろう目の前の少女へ顔を向けた。
「えっと、私は月代高校2年のミリアル・フローレスです。依頼を受けて貰えるだけでも嬉しいです! ぜひお願いします! 他校でも受けてもらえるか不安だったので……」
彼女は少し灰がかった黒色の目をパッと開かせ、花を咲かせたように笑顔になる。腰まである長い黒髪に黒目、黒を基調としたモノトーンなフード付きジャケットと、とてもシックで落ち着いたイメージが強かったが、どうやら思ったよりも朗らかな人のようだった。加えて、私達とは違い制服を着ていなかったため分からなかったが、同学年……いや今は1つ下か。名前からして留学生なのだろうか?
「『茜屋』は依頼があれば大体どこでも駆けつけます。まあ確かに他校からとかは滅多に来ないけど気にしないでいい。……それで、どんなご依頼で?」
「ありがとうございます。えっと、依頼……というかご相談になってしまうんですけど、姉に贈り物をしたくて、何を送ったら良いか考えて欲しいんです」
「贈り物いうと、何かお祝い事みたいな日が近いんです?」
「いえ、そういうのは特に。どちらかというと応援とか、元気づけみたいな意味で贈りたくて……。姉は1学年上なんですけど、大学受験間近なのもあってここ暫く根を詰めるように勉強をしているせいか、とても精神的に疲弊してるみたいなんです。だから何か少しでもその応援になることをしてあげたいと思って」
「なるほどね、依頼は姉への贈り物……と。琴葉、お前も妹がいるだろ。こういう時妹から何をプレゼントされたいとかあるか?」
話題を振られ、少し思索する。正直私も受験期真っ只中だが、フローレスさんと違い姉妹関係としては終わっている状態で、加えて葵は眠り続け関係修復できない状態だ。そんな子から何かプレゼントと考えるのは妄想に近く、中々に厄介な質問だった。けれど敢えて今の私が考えるのであれば……。
「分かりやすく気持ちの籠もったもの……とかか?」
「それは駄目です」
「ほう」
しかし私の出した答えは間髪入れず、あり得ないとばかりにきっぱりと否定されてしまう。躊躇ない強い否定に不意を突かれたものの、姉妹とはいえ一概には言えない関係であると思ったため気に留めなかった。しかし結月さんはその彼女の反応に、親指で顎をさすりながら興味深そうにする。
「おまたせいたしました、ご注文の品をお持ちいたしました」
これから、という所でスイーツとコーヒーが来てしまう。
それぞれの前に置かれたスイーツは各々が頼んだ通りのもので、店員さんの手際の良さに感心する。注文に相違ないか確認したのち最後に伝票をテーブル横に掛けてから「ごゆっくりどうぞ」と一礼し、持ち場へと戻っていった。
「まあ長くなりそうだ、食べながらゆっくり話を聞いていこうか。……琴葉、砂糖瓶取ってくれ」
「ほいよ」
結月さんは砂糖瓶を受け取ると蓋を開け、中から角砂糖を1つずつ取り出し、コーヒーの中へとぽん、とぽん、とぽんと3つ入れた。その間に一口飲んでいたフローレスさんは、コーヒーカップをソーサーに置いてから口を開く。
「私と姉は犬猿の仲なんです。だから気持ちが伝わらないプレゼントを考えてください」
「っけほ」
カップを両手で持ち、コーヒーの端を息で冷ましてから口をつけた時だった。思いもよらぬ発言が飛び出し、驚きで熱いままのコーヒーが口を過ぎ喉へと入ってしまい咽る。
最初は和やかな普通の相談を受けているのかと思っていたが、そんな事はなく、というよりも赤の他人に相談する事なのだ、どこか変わった依頼が来るのも当然だと今更ながら気付かされる。しかしだ。
「フローレスさん自身の手で渡すんやったら、結局気持ちがある物になってまうんやない……? そんな仲なら尚更意味や意図をお姉さんは考えてまうと思うんよ」
「それは……そうなんですが」
どうにも言葉の歯切れが悪く、首を傾げてしまう。依頼としては『贈り物を考えて欲しい』というが、あくまでもそれは手段であって、本題は別にある気がした。この違和感は結月さんも同様らしく、アイスを食べながら続く形で話をする。
「琴葉の言った通り、手渡ししたいんだったら多少は覚悟を決めるべきとして、どういった物を贈りたい……そういった考えはあるのか?」
「……姉の手元に残る、そういった物を贈りたいです。それと一緒にお菓子を」
「ふむ……琴葉は菓子で好きなのあるか?」
「え、んー、チョコレートクッキーとか……?」
またも唐突に話題を振られる。何なんだろうと思いつつも、人から貰うお菓子で嬉しそうなものを挙げる。私は勉強中によく口寂しくなるため、集中を高める目的もあってチョコを口に入れていた。今の時期は甘さが控えられている物を多く見かけるので、余程甘党でない限りは、お姉さんにも丁度良いのではないかと思う。
「理由を考えたんだったら話せ、琴葉」
「あ、すまん。えっと、個人的趣向としてあんまりうちは甘いもんが好きやないんけど、勉強中って頭も手も使うせいか口寂しくなるんよね。だから甘さが選べるチョコって結構ありがたいし、それにチョコには集中を高められる効果もあるっていうやん。そういう理由があるから口にもいれやすいし、喉も乾きやすくなるから飲み物を淹れるっていう休憩も入れやすくて、そういうのひっくるめてチョコレートがええかなって」
「クッキーになった理由は?」
「家族や友達に渡すんなら市販の袋とじ系の菓子になるやろけど、主題としては『贈り物』やろ? なら選ぶんならお高いチョコってなるけど、そういうの総じて大体が甘いしでかいんよ、やからチョコレートクッキー。クッキーがそもそも油分含んでるからか、あんまくどくならんよう甘さ控えめに作られてるの多いし、あと個包装になってたら手も汚れんしアリアリ……って所やろか」
「だそうだが……いいんじゃないか?」
「琴葉さん、でしたよね。お勧めのお店とかあったりしますか?」
「え、ええと……」
頭の中を吐き出したせいか、正直喋りすぎたと思い舌を噛んでいると、何やらトントン拍子で話が進んでしまう。いいのだろうか、こんな簡単に答えが決まってしまって。
「ぶっちゃけここの店にあったやつ、気になるかも」
確か店内を見渡した時、季節限定の文字と一緒に缶詰タイプのチョコサンドクッキーがカウンター前にあった筈だ。それを思い出し口にする。
「粉っぽいクッキーだとあんまうちは好かんのやけど、この抹茶シフォンケーキもかなりしっとりめに作られとるし、クッキーもそういう感じにしてるんやないかな。結月さん的にはどやろ?」
「おん、いいんじゃないか? チョコレート類に関してはここの店苦めに作ってるし」
ああ、だから結月さんは砂糖を多めに入れたのかと考えるが、彼女の食べているチョコレートアイスはワッフルと既に甘みが帳消しにされてそうであり、シンプルに彼女が甘党なだけだろう。
「やそうやけど……フローレスさん、どやろか?」
「とてもいいと思います。後はもう一つの方なんですけど……琴葉さん何かありませんか?」
「うーーん……」
『贈り物』を満たしつつ『気持ち』が伝わらず、それでいて『形に残るもの』となると頭を抱えてしまう。お菓子であれば気遣いこそ伝われど、気持ちまでは伝わるのは中々ない。しかしそれが形に残るものとなれば別だ。人からの贈り物というのは何かしら意味を見出しやすく、物というのはそもそも用途があって存在する。ならば消化されるだけの菓子と違い、何度も目にする機会がある物というのは、いつかはその意図に辿り着いてしまうだろうと思った。
「手紙……はだめか? もしくはアクセサリー類とか」
「駄目です。やはり記念日ではないので……そういった重いものは贈りたくないんです」
結月さんも私と同じ考えなのだろう、先程より深く考え、案を出しているようだった。手紙は恐らく渡す時期や読む時期が前後してもいいかの確認、アクセサリーは逆に高頻度で使う機会があっても良いかの確認だろう。しかしどちらも駄目という事は、やはり別のアプローチが必要そうだった。
あくまで彼女が必要としているのは『贈り物』という部分が大きい。ならば必然的に、少なからず渡されて嬉しいものを選びたい筈。けれどそれに意味や意図を持っていては駄目。理由を考えていくと、渡す時期が記念日と被っていない、そのため受験応援を意識されすぎては困る、それでは余計緊張を与えかねないという不安……だろうか? そもそも気持ちとはなんだ? フローレスさんにとって姉に伝わって欲しくない想いが、私にはまだ分からない。しかし、なら。
「フローレスさんはお姉さんと仲直りとかは考えてるんです?」
「っ……!?」
彼女の身体が一瞬強張る。これはNoという事だろうか……? 私はどうにも彼女と接していると葵の事がよぎり、なんとも言えない気持ちになってしまう。
「……どうして、そう思ったんですか」
「ゔぇ、違うんやったら特に気にしないで欲し――」「いいえ、合ってるから知りたいんです。……どうして、そう思ったんですか?」
彼女はテーブルに肘をつき身を乗り出す。テーブルがそれにより少し揺れ、コーヒーカップに入れっぱなしだったスプーンが位置をずらしカランと音を立てた。
私はどう答えるべきか迷ってしまう。フローレスさんは恐らく真剣に聞きたがっている。しかし私の持つ理由は個人的な私情が混じった中で導き出した物だ。いくら依頼といえど、それを赤の他人である彼女に言うことは憚られた。助けを求めて結月さんの方を見るが、彼女は素知らぬ顔でフォークとナイフをきれいに使いながらワッフルを食べ進めていた。こんにゃろう……。
なんとなく、では収まりがつかないだろう。私は少し冷めたコーヒーを一口喉へと流し込んでから、軽く理由を話すことにした。
「えっと、うちには結月さんがさっき言ったように妹がおります。まあ妹いうても双子の姉妹なんで、フローレスさん達と違って差は無いに等しいんやけど……。そんで犬猿の仲、いやうちら姉妹の場合はもっと酷くて、互いに興味を持たないようにしていた、っていうんが正しいんかな」
姉妹でお互いを嫌っていたとしても家族は家族だし、本当にどうしようもない程考えが合わない限り、切っても切りきれないのが姉妹の縁だろう。フローレスさんの犬猿の仲というのも、相手にどこかまだ期待しているからこそ言える言葉だ。本当に諦めてしまえば、どこにももう掴む所がない断崖の関係になってしまえば、きっとそんな事は口にすら出来なくなる。
「まあそんな似てる状況やったから考えたんです。もしそれでもズタズタな関係に布石を打つなら……て。まずそういった状況を打破したいんやったら話し合う場を設けたいでしょう、それこそ数日かけた喧嘩を覚悟して」
「……それならそうと言えば良いだけだろう。なんで布石なんて一拍置いた行動をするんだ面倒くさい」
「友達とか日を跨げる相手ならええんやけど……、家族だと毎日朝から晩まで顔を合わせるどころか気配を感じてまうし」
「気配って」
結月さんは私の言葉に苦笑するが、比喩でもなんでもないため真剣にその言葉へ返す。
「だって四六時中一緒の家に住んどるんよ? 嫌でも相手の行動やルーティンみたいのが頭へインプットされてまう。……まあそんな相手との長丁場、できれば穏便に……は難しいやろけど、でもやっぱできる限り変な張り合いなしに話し合いたいと……うちだったら思う。だって気配なんかで怒ってるとか悲しんでるとか感じとうないし、それにやっぱ温和な仲に戻りたくて話すんやし、謂わば贈り物いうんわ……私はあなたを嫌っていません、っていう意思表示と、来たるべき次の記念日に、物を渡しやすくするための布石……って感じの事を、もしうちやったらっていう前提で浮かんだんやけど、これでええんか?」
途中で何か挟まれるかと考えながら話していたが、結局フローレスさんはただじっと私の話を聞くだけだったため、長々と頭の中を話すことになってしまった。
フローレスさんは聞き終わると、目を伏せてから逡巡した後、目を開き改めて私を見つめてくる。
「琴葉さん、もう一ついいですか?」
「なんです?」
「双子の姉って、みんなそんな事考えるものですかね」
「いや……流石にこんなんぽんぽんいたらあかんと思うけど……」
もっと世の姉妹は健康的な喧嘩なり、それこそ他の人よりとても長く一緒にいるのだから、悪い部分も良い部分もひっくるめての関係を築ける事の方が多いだろう。私の思う姉妹関係とはやはりどこか……そう、どこか他人というか、排他的な関係過ぎる。
「でも、きっと姉さんは……あなたと同じ考えを持ってる気がします」
「いやいやいや、そんな人間同じ考えの奴なんてそうそうおらんて。これはあくまでも『姉として』やなく、『家族』として『もし』を重ねたやり方や。それなのにフローレスさんのお姉さんと同じなるんはおかしいし、それにフローレスさんちは双子やない。考えすぎちゃう?」
「いいえ、双子です。年も私と一緒ですから」
あん……?学年は違う筈じゃ? と私が戸惑っていると、フローレスさんは続けて「依頼内容、少し付け加えていいですか?」としれっと言い放った。
結月さんはコーヒーカップを大きめに口元へと傾け、空いたカップをソーサーへ置いた後、げんなりとした表情をしながら「コーヒー代、3人分な」と返した。
空になったスイーツ皿を下げてもらいつつ、新しく来たコーヒーへまた息を吹きかけながら飲んでいると、フローレスさんが口を開く。
「付け加えたいのは、お返しとして、です」
「ほん……お姉さんから何か貰ったん?」
私としてはそれが加わった事で贈り物に変化があるとは思わないが、彼女にとっては大事な事なのだろう。ならばそれも踏まえて考えるとして、お返しという言葉が出てくるということは、犬猿の仲である筈の姉から一体何をプレゼントされたのだろうか。気になり聞くと彼女から更にとんでもない発言が飛び出してくる。
「……分からないです」
「ええっと……、分からない言うんはまだ見てないとかそういう?」
「渡された後に無くしてしまって……」
……そろそろ嫌でも分かってきた、というか理解せざるを得なくなってきたかもしれない。
多少変わりこそすれど依頼は依頼、言われたことをこなすだけ……そう思っていたが、そんな単純な話ではない。深掘りすればするほど、何かしらの疑問がこの依頼には出てくる。言いたくないから言わない、言う必要が無いと思ったから言わなかった、そういうのが多すぎるのだ。そういった不可解さが多すぎるのに、会話を重ねるほど信頼が増え、それに応じて依頼内容も徐々に歪み始めてしまう。要は達成目標を低く見積もっていた筈が、何故それが欲しいのかを依頼主が知ってしまうほどに、目標は本来の形を取り戻してしまう。結月さんが依頼料を受け取っているかは分からないが、なぜ追加費用の様なコーヒーを求めたかを少し理解できた気がした。
――『茜屋』。私の名前が入っているくらいなのだから名付けたのは葵だろうが、彼女はこんな複雑な依頼をどうやって解決に導いていたのだろうか。先程、結月さんの慣れたように追加の要求をしていた様子からして、こういった依頼が頻繁にあったのは想像に難くない。
結月さんは私にただ考えを聞かせろとだけ言っていたが、彼女がこの依頼に私を連れてきた事は、何かしらの意図があると思える。けれどそれらを紐解いていくには、まず目の前の複雑そうな依頼をこなしてからでないと、頭が爆発しかねなかった。
姉としての考え方にシフトしそうになる頭をふるい、コーヒーに2つほど角砂糖を落としながら、まずはこの依頼をこなそう、そう意気込んで甘いコーヒーを飲み込んだ。
「フローレスさんはその貰ったプレゼント、中身を予測できます? もしその中身が分かったら渡したいものが変わる……とかは思います?」
「中身は……正直全く分からないです。1ヶ月前に手のひらサイズの小さな紙袋を渡されて、だけど開ける勇気が無くてカバンに入れっぱなしにしてたら、いつの間にか失くしちゃって……。正直見つける事は諦めてますが、中身がなんなのかもし知ることが出来るなら、それに見合ったものを贈りたいと思ってます」
「……どうする琴葉、探すか?」
「いや探すのは現実的やないと思う。1ヶ月前っていうのを踏まえてまうと、流石に範囲が……。ちなみにその紙袋って、何か印字されてたりしとりませんでした? 例えば店名とか」
失せ物を探し出すには、まず間違いなく残り3日という私の猶予では足りない。それよりも、もしプレゼントを買ったお店さえ特定できれば、数次第だがそのお店で同じ大きさの物を割り出し、見つけられる可能性の方が大きいと思えた。
「そういうのは特に。それにあの紙袋は姉が人に贈り物をする時に使う物でした。なのでどこで買ったかを考えるのも難しいかと……」
しかしそんな小さな希望は簡単に潰えてしまう。物が分からないのであればお姉さんの事を知って予想すべきだろうか……、そう考えていると、結月さんが口を開いた。
「あー……悩んでる所悪いんだが、フローレスさんはぶっちゃけどうしたい?」
「どうしたい、とは?」
「多分こいつ……、琴葉があんたの欲しがってる『贈り物』って奴に、まあ辿り着けると思う。それくらいにあんた等の関係とこいつ等の関係は酷似してるし、抱えてるものは違えど、フローレスさんが分からなかったお姉さんの思考に行き着くだけの頭が、こいつにはある」
買い被り過ぎでは……? そう考えるも、やはりフローレスさんの先ほど言っていた双子の姉というのが気になった。彼女の中でお姉さんと私の思考が似てると思ったからこそ、フローレスさんは私の考えを当てにしている雰囲気も分かるし、私もこの自分に嫌に近似した依頼の中身、思う所あれど何かが掴めそうだからこそきちんと関わりたいと思っているが、結月さんは私に話を振り喋らせようとしている割には、依頼達成とは別に何か別の考えをもち合わせている気がした。どうにもやはり、この依頼の着地すべき結末はまだ3者で一致していない気がした。
結月さんの言いたい事はなんだろう、そう思い、大人しく彼女の言葉を待っていると、けど、と語気が強くなる。
「本当にそれでいいんだな? もう一度聞くが、依頼内容は『疲弊している姉に贈り物をしたい』『以前貰った物へのお返しも兼ねて』これでいいんだな? その2つをこいつに出させて本当にいいんだな?」
「ちょ、ちょい結月さん……?」
どこか問い詰めの様な姿勢になっていた結月さんを私は止める。見れば少し眉間に皺が寄っており、それはあの夕暮れの日の彼女を私に思い出させた。
「…………」
フローレスさんは結月さんの質問に答えず、顔を伏せてしまう。やはり彼女の聞き方がきつかったのだろうかと隣を見れば、今度は私にじっとりとした目が向けられていた。
「お前もだからな、琴葉」
「ええ……なんでよ」
次はお前だと言わんばかりに矛先を向けられ戸惑ってしまう。コーヒーはお酒ではないのだが。
「贈り物を他人に全部考えさせる様な馬鹿にこいつをするつもりか? それはお人好しじゃない、甘やかしって言うんだ。相談の意味を履き違えるな」
「……っ、……すまん」
言われてようやく過剰な自分の行いに気付く。確かに私のやり方では相談の範囲を越え、最終的に私の案を受け入れさせる様な状態になってしまっていた。そんなのは最早妹からの贈り物などではなく、反省せざるを得なかった。
「まあ、今日は一旦解散だな」
しかし反省を活かす猶予もなく、結月さんは席を立ち話し合いを打ち切ることを決めてしまう。
「ま、まってください! まだ!」
フローレスさんが呼び止めるのを気にも掛けず、足元の籠から結月さんは2人分のコートを取り出し、それからようやくフローレスさんへ顔を向けた。
「依頼がはっきりしてないんじゃこっちとしても手が出せないんだよ。どうせ明日は贈り物を買う予定を入れてたんだし、それまでに本当に自分が助けてほしいことを考えといてくれ」
いくぞ、琴葉。と言う彼女の掲げた手には伝票板があり、流石に1人で払わせる訳にもいかず後を追うことにする。階段を降りる間際、フローレスさんが座っている席へふいに視線を向けると、どこか葵と重なる……そんな横顔が目に入った。
「結月さ――「だめだ」うぇ」
やはり彼女を置いては……、そう口にしようとするが、結月さんに阻まれてしまう。振り返り掛けてた身体は彼女の右手に手を引かれ、結局抗えず階段を下りる事になった。
「またどうぞ」
2人で少しの悶着がありつつも支払いを終え、先程の男性からのお礼に会釈して店を出た。
「次は月代に行くぞ」
「おん、依頼ってもしかして複数なん?」
「いや、確かに複数ではあるんだが……まあ実際にもう1人の依頼人に会った方が早い」
フローレスさんの依頼を置いて別の依頼に取り掛かるのは少し気が引けるが、結月さんが私を連れて今回の依頼をこなそうとしている事に対し、何かしら彼女なりの考えがあると少しずつではあるが分かってきたため、ただ彼女の横についていくことにする。
駅前に出た後交差点で信号待ちをしている最中に、この際だからと思い、聞いておきたかった事を確認しておく。
「いつもこういう依頼、葵としとったんですか?」
「ほぼ毎日な。日月火水木金金みたいな働き方させられてたよ」
「え゙ぇ゙……」
なんだそれは。部活や委員会なんか目ではない、まるで仕事だ。流石に顔を引きつらせてしまった。
「あ、もしかして2人1組が必須っていうんは」
「馬鹿を1人にすると勝手に何でも1人でやり始めるからな……そういう意味でも葵に決めさせた事だよ」
「なんか含みのある言い方やな」
そういう意味でも、とはどこかついで感のある言葉だった。恐らく彼女が決めた2人1組というルールは、結月さんが私を止めたように何かしらのストッパー役をどちらかが出来るように、更に言うなら、彼女がどうしても必要だと判断した、そんな出来事があったのではと考えられた。
「馬鹿っていうのはお前だからな。合ってるよ」
「考えとる事と全く……いや合っとるけど違ったんやけど!?」
「馬鹿が」
2度も言われ……いや会ってから何度彼女に馬鹿と言われているんだ。
赤信号の終わりを告げる目盛りは降り切り、青信号へと変わるや否や、早々に結月さんは横断歩道へと足を踏み出す。馬鹿と言われすぎてムスッとしながらも彼女に続いて足を踏み出すが、人混みの喧騒の中、「そんなんだから葵が真似すんだよ」と呟く声が耳に入る。
どういう意味……。そう声を掛けようとするが、雑踏により声はかき消され、取り付く島もなく彼女はどんどん先へ行ってしまう。
――考えろよ、全部に意味があるんだから。
横断歩道を渡り終え、彼女の元に改めて近付き、何を言っていたか聞こうとするも、はぐらかされてしまう。そこから月代高校につくまでの間、結月さんが私の隣を歩くことは無かった。
◇
コンコンコンとノックを3回、他の教室などの入り口とは違い、重厚な木造りの扉を叩く。生徒会室とプレートが下げられたその部屋は我が校の生徒会室ともそっくりであり、古くから姉妹校提携を結んでいるだけあって、校舎の中はどこか似通った所があり、結月さんの後を追わずとも自然と辿り着くことが出来た。
校内に入った所で結月さんは別件が入ってるから後で行くと言い、別行動になってしまった。彼女から入校許可証は貰えたため、入る所までは問題なかったのだが、向かえと言われた生徒会室で誰に会えば良いのかは教えられず、そのため扉を叩く手が少し震えた。入構許可証を事前に持っていたくらいなので話は通っていると思いたいが……。
「どうぞ、入って」
「……? 失礼します」
どこか既視感のある声に促され、冷たいドアノブを捻り扉を開ける。部屋に入っても既視感は続く。壁や床の材質、来賓用のソファ、打ち合わせ用のデスクチェアや広々とした机に本棚など、家電等の備品を除いた大きめの家具はほぼ同一のものが設置されていて、どうにもうちの高校ではと錯覚しそうだった。そんな一室の奥、枯れ葉をつけた大木を臨む窓際に彼女はいた。
「君が『茜屋』の琴葉茜君だね? ようこそ、月代高校へ。休日なのにご足労頂き感謝するよ」
「フローレスさん……?」
印象は黒ではなく白。先程喫茶店で会っていた彼女とは一切が真逆な風貌ではあったが、それでも彼女はミリアル・フローレスと名乗った少女に酷似していた。私がその事に戸惑っていたのを察してだろう、彼女は「ああ」と慣れたように言葉を続ける。
「私はアリアル・フローレス。恐らく君の言うフローレスとは妹のミリアルの事だろう。ほら、私は黒じゃない、白だ。目の色は一緒だけれどね」
彼女はそう言い、両手を広げるような仕草をした後、目の下に右手の指先をあてた。
確かに容貌はとても似ているが、雪のように白い髪、白を基調としたモノトーンなフード付きジャケット、灰色がかった黒色の目を除き、それらはどれも妹さんとは真逆な色合いをしていた。
けれど、それを踏まえても彼女達の印象はどこか重なる所があり、少し不思議な感覚を抱いた。
「ええっと……お姉さん?が依頼主、で合っとります?」
生徒会室には彼女以外に人影はないが、勘違いがあってもいけないので念のため確認をする。
「ああ、間違いない。それと私の事はアリアルでいい。ファミリーネームではミリ……妹と区別がつけづらいだろう」
「あー助かります、ならうちの事も茜でええですよ」
双子の片割れと見分けがつくように――そんな小慣れた自己紹介を受け、かつての私を思い出す。確かに呼び方で少し迷いがあったので、その申し出はありがたかった。
「さて、それじゃあ立ち話というのもなんだ、そこのソファに掛けてくれ。今お茶を用意しよう」
「ありがとうございます、じゃあお言葉に甘えて」
結月さんを待つ時間もあまりないかもしれないな、と考えつつ私は部屋の一角に置かれたソファへ腰を下ろした。
暫く待っていると紅茶の香りが鼻をくすぐる。柑橘系の香りが、寒さや緊張で上がっていた私の肩を下げさせた。それから少しして、アリアルさんはティーポットとティーカップをトレーに乗せやって来た。目の前の机にカップがとん、とん、とん、と3つ置かれ……おや? と思っていた時に生徒会室の扉が重たげに開かれる。
「アリアルいるか? すまん遅れた」
「ノックぐらいしたまえ、ゆかり。扉の前に人がいたら危ないだろう」
顔を上げると、やはり結月さんだった。恐らく別件とやらが片付いて、急いで来たのだろう。冬場にも関わらず少しだけ息が上がっており、疲れが見て取れた。
そんな彼女に腰へ手を当てながら、呆れたように小言を言うアリアルさんを軽くあしらうように、結月さんは「悪い悪い」とだけ返した。呼び捨てにしあってる辺り、知り合いというよりも友人のような関係なのだろうか。
「琴葉も悪いな、待たせて」
「え、や、丁度今からやったんで大丈夫」
思いもよらぬ言葉を掛けられ、つい口ごもってしまう。先程もぎこちない空気になってしまったので心配だったのだが、そういえばこの人はこういう飄々とした人だったな……というのを思い出す。その時その時で割り切った考え方、というのはあまり私の周りには居ない人だったため、どうにも戸惑ってしまう。
「それじゃあ揃ったことだし、依頼の話をしようか。丁度茶葉も起きた頃だろう」
ティーポットを片手にし、朗らかに笑う彼女はなぜか結月さんではなく、私の方を向いていた。
◇
「さて、それで依頼……というか相談はなんだ?」
3人がソファに揃い、一息ついた所で結月さんが依頼について口にする。紅茶を飲んでいたアリアルさんはティーカップをソーサーの上に置いてから、なぜかまた結月さんではなく私の方を見ながら話し始める。
「何、大した事じゃない。……妹の様子が知りたいんだ。それを聞かせて欲しい」
「それはまあ……」
いい、と答えようとしたが思い留まる。彼女の妹であるミリアルさんは姉との関係性に悩んで、こちらへ依頼を出していた筈だ。ならばその状況を教えかねないのは依頼主にとって好ましくない気がした。なにより私だけで判断出来ることではないと思い、結月さんへ視線を向ける。私の視線に気付いたのか、結月さんは私の言葉を引き継いだ。
「危ない内容じゃないなら『茜屋』は依頼を断わらん。その依頼、受けるのは構わないが具体的に何を知りたいんだ? 妹の様子なんて普通家族の方が詳しいだろ」
ツキリ、と結月さんの言葉に胸の奥が痛んだ。理由は分からないが、カフェインの摂り過ぎだろうか。しかしアリアルさんの次の言葉でそれは思い違いだと気付く。
「様子は様子だよ。何か悩んでいる事があるのはわかるが、あいにく私達は普通という関係を築ききれていなくてね。だからこそ君らにお願いしたいんだ」
「……どこの姉妹も、もう少し普段から会話する努力をして欲しいもんだな。まあいい、私達は妹と友達にでもなればいいのか?」
何故だろう、彼女達の言葉が他人事に感じず、なんなら隣の声は私に向けても言われている気がした。
結月さんはどうやらミリアルさんから依頼が来ていた事は伏せる様だが、姉妹揃って同日に依頼を出したのだろうか? そんな偶然があるものなのだろうかと疑問を憶えてしまう。けれど目の前の姉は紅茶で湿らせた口元をにこり、と頬を釣り上げるかのように笑みを浮かべる。
「友達でも別にいいが、君たちはもう関係を今築けているだろう? そこからの様子で構わないよ」
そう伝えられた瞬間、ドスッと横から腹へ肘鉄を食らう。
「喋るな、アホ」
「喋っとらんが!?」
思ったよりも深い所に刺さったため咳き込みつつも、彼女のアホへ強く反論する。流石に他人の依頼内容を早々に喋る訳……と思った所で、生徒会室でアリアルさんと出会った瞬間、ミリアルさんを知っていそうな事だけ口を滑らせていた事を思い出す。ばつが悪くなり頬を掻くと、「いいや、私がそうなるようにしたからね、茜君は悪くない」と当の本人から擁護が入る。
「そうなるように……?」
「まるで妹が依頼を出すように仕向けたみたいな言い方だな」
「事実そうだとも。この依頼を出すためにそれが一番早かった」
私と結月さんがそれぞれ同様の疑問を抱くと、アリアルさんからとんでもない発言が飛び出す。
――それは……ええんか?
彼女の真意はまだ分からない。しかしそれにしたって彼女達は妹のミリアルさん曰く犬猿の仲だろうに、そんな誘導じみた行為がもしバレでもしたら、それこそ関係にヒビが入りかねない。何故彼女はそこまでして妹の様子を知りたがっているのか、勇気の出し方としては歪さを感じ気になってしまう。
そんな私の違和感が顔に出ていたのだろうか、「そんな怖い顔をしないでくれ、私だってあまりこの方法をよくは思っていない」と彼女は視線を机の上に落としつつ補足する。
「当たり前だ。悪気一つ感じてない奴だったら依頼を受けずに帰る所だよ」
「それは勘弁してくれ……。本気で私としても困ってるんだよ」
一瞬腰を上げかけていた結月さんはソファに再度深く腰掛け、腕を組みながらアリアルさんへと視線を向ける。どうやら彼女の言葉次第で本気で帰ることも視野にいれてたようで、結月さんらしいと思いつつ、私はアリアルさんの話を促すことにした。
「どう仕向けたのかはちと気になりますけど、それはそれとして妹さんのどういった事を聞きたいんです?」
『妹の様子を知りたい』が依頼内容であるならば、具体的にどういった所が気になっているのかが、彼女という姉の立場なりにある筈だ。妹のミリアルさんは確かに姉たるアリアルさんの事を気にかけて依頼を出した訳だが、彼女は彼女でミリアルさんのどこに気をかけているのか気にかかった。
しかし私の言葉を聞いたアリアルさんからは、「んん……、その、なんだ……」と先程の様子から打って変わり、歯切れの悪い言葉しか返ってこない。
「とっとと話せ、妹馬鹿」
「馬鹿とはなんだ!? 私としても君らに頼るしか浮かばないくらいの事なんだよ……」
「……妹馬鹿って、妹さんと仲が悪いんじゃ?」
どうにも結月さんは彼女達の裏事情を把握しているような様子があるが、ミリアルさんと会っている時はそのような事を一切感じさせなかっただけに戸惑いを覚える。それにアリアルさんはそんな彼女の言葉を否定をしないが、それではミリアルさんの認識と食い違いが起こってしまう。
「全部コイツが悪い。間違いなく」
そんな私の違和感に答えるように、アリアルさんを指差しつつ、結月さんはティーカップを片手に紅茶を口へ運ぶ。
「全部は流石に否定したいが、9割くらいの否は認めよう……」
「一体妹さんへなにしたんです?」
自分で自分を悪いというのは簡単だ。しかしかなり公平な目線を意識しようとした考えを持つ結月さんが全部悪い、と大きく出るのはかなり異質に感じ疑問を口にすると、アリアルさんは観念したようにぽつぽつと言葉を漏らす。
「……昔は仲が良かったんだ、昔と言っても小さい頃とかそういう話じゃない。中学に上がる頃、父と母が日本に住もうと言い出してね。元々は私達は海外に住んでたんだが、まあ日本の読み物が私達は凄く気に入っていたし、そのお陰もあって語学といったものも大丈夫だったから、そういうのもあって悪い話ではなかったんだ。それでトントン拍子で日本へ行く話は進んだんだが……時期がちょっと問題でね。私達のいた地域では飛び級という制度があって、丁度妹とそのテストを受けている時の話だったんだ」
飛び級、その単語を聞き、そういえば私が受ける予定の大学にもそんな制度があったことを思い出す。日本ではまだまだ普及してないが、海外では小中学生の頃から受けられるくらいに、そう珍しいものでは無かった筈だ。けれどそれを受けたと話す彼女の表情はとても苦々しかった。
「そこまではよかったんだけどね、私はテストの結果中学を飛び越え高校生になってしまったんだ」
「……アリアルさんって今いくつなんです?」
「女性に年齢を聞くなんて……冗談だ。15歳だよ、妹も同じく」
「お、おぉ……?」
結月さんのジト目に睨まれ、観念したように答えた彼女の発言に、流石に圧倒されてしまった。その言葉が確かなら、彼女は私達よりも3歳年下……つまり本来ならまだ中学3年生辺りに属していた存在の筈。小学校と中学校の勉学といえば、とてもじゃないが全くレベルが違うだろう。なのにそれすら難なくクリアした上で、更に高校への入学が許可されたというのは、単に彼女に才能があったとかだけでなく、何かしらアリアルさんにはやりたい事が既に定まっているからこその物だろう。私としては素直に感心せざるを得なかった。
「琴葉、多分お前の考えは間違ってるぞ」
「人の頭の中見んといてください、素直に凄いことは凄いんちゃう?」
「いや、ゆかりの言う通り……私のはそんな殊勝な理由じゃないんだ」
まるで私の考えを見透かすように言う結月さんへ反論するが、アリアルさん自身がそれを否定してしまう。彼女の中で何か強く……それこそ後悔のような何かがある言い方が気になり、彼女の続く言葉を待つ。
「ミリアルと私は双子の姉妹でね、いつだって一緒で同じだった。私がお姉ちゃんで、ミリが妹、その決め事以外は本当に、全部。……けれど、私がくだらない意地を張ってしまったが故に、それは崩れたんだ」
「意地……」
「そう、本当にどうしようもない……姉という意地だ」
彼女はまるで私に言って聞かせるかのように、ずっと私の目を見ながら言葉を続ける。
「私の結果は高校1年生、けれどミリアルの結果は2学年飛びの中学3年生だった」
その彼女の言葉にハッとする。彼女達が互いに言う双子、そして1学年違いという状況にようやく合点がいく。けれどそれは……。
「何、飛び級と言っても本人の意思が尊重されるからね、私が望めば1つ落としてミリアルと同じ学年になることだってできたんだ」
「けど、しなかった。できなかった」
私の言葉に、アリアルさんは哀愁を漂わせる表情をする。
彼女のしたことは……きっと間違いではない。けれど本人は大きな間違いをしたと思っているのが、嫌でも伝わってくる。これはきっと双子の姉妹という在り方に向き合いすぎた馬鹿にしか分からない答えだろう。全てが一緒、全てを似せる、その上で姉である。この証明は悪魔の証明みたいなものだ。私達は生まれた時刻だけで考えれば、便宜上は姉という立場を保てる。しかし周囲から見た時はどうなる? 姉であると自称するだけでなく、パッと見で姉であるためには? 姉であるという言葉の証明を強くするためには? 普通であればそんな事はきっと些事に過ぎない筈なのに、彼女も明確なものが欲しくなってしまったのだろう。彼女にとって、なぜそんなに姉に拘る理由ができたかは分からない。けれどずっと先を見据えすぎて……本当に見るべき隣を顧みれなかったのが、妹から犬猿の仲と言われるという結果をもたらしているのは間違いなかった。
「そうだ、私は姉であるために、ミリより1学年上に在籍することを選んだ。その際妹と大喧嘩に発展したんだが……、互いに相手の何に対して怒ってるのか説明なんてできなくてね……。それからだよ、話すこともままならない犬猿の仲になってしまったのは。そのまま日本に来ても学年は変わらず、一緒の家に住んでいても一度外へ出れば他人の様な関係だ。……今ミリがどう思ってるかは分からない、けれど私は……やり直しがしたいんだ、後一度だけのチャンスが欲しいんだ、ミリに3年分の負債へ償うための、そのきっかけが欲しいんだ」
両手を膝の上で強く握りしめるアリアルさんの姿は、とても痛々しく、苦しげだった。肩は細かく震え、恐らく彼女にとってようやく勇気を出せるタイミングが今なのだろう。
しかし私が助言出来るようなことは、彼女の言葉を聞くことで無くなってしまった。結月さんはどうするのだろうと思い隣へ視線を向ければ、彼女は腕を組みじっと目を閉じていた。それから息を吐き出してから声を出す。
「アリアル、お前なんか妹へプレゼント渡しただろ。中身を教えろ」
「あ、ああ……、花の栞を贈ったよ」
「栞?」
確かにミリアルさんは小さな紙袋と言っていたが、そこまで小さな物だったとは想像がつかなかった。しかし3年越しの贈り物に栞とは、雅な雰囲気だなと思う。
「栞といっても手作りの花の栞だよ。私達のファミリーネームにフローレスとあるだろう? これは花を表していてね。大事な人に贈り物として花を渡す文化のある地域に住んでいたから、その名残なんだ。けれど折角なら昔のように……一緒に本を読み合える仲になりたいと思って、色々調べてたら花を栞にするというのが引っかかってね。だからそれを渡したんだが……答えは未だ貰えて無くて、だからせめて、様子を知りたかったんだ……」
話を終える頃には、すっかりアリアルさんは肩を落としてしまう。恐らく彼女にとって、贈り物をしても良いも悪いも起こらない状況というのは想像以上に堪えているのだろう。真実を知れば少しは救われるかもしれないが……しかし……。そう考えていると、結月さんは組んでいた腕を解き、項垂れる彼女の視線の先、机の上に何かを置いた。
それは小さな、手のひらサイズの灰色の小袋だった。
「もう一度勇気を出す機会があるっていったら、どうする?」
「こ、れは……」
どこで。そう掠れながらも声を出す彼女に、結月さんは「どうなんだ?」と答えずに返す。……けれど、それは少しアンフェアでないだろうか。
「結月さん、それは」
「あん?」
冷たい目と声が私に向けられる。けれど退く訳にはいかない。
「それしか答えがなくなるのは、あんたの喫茶店で言った事と矛盾するからよくないと思う。それに、彼女が一度出した勇気をやっぱり反故にしたのは妹や。……それが故意でなくても。ならそこから先はもう、この姉妹は対等であるべきだと思うんやけど、どうやろか」
「一度のでかい失敗と小さな勇気で釣り合いが取れるっていうのか?」
結月さんはどこまでも公平だ。きっと彼女は間違えていない。……けれど。
「その小さな勇気でミリアルさんの心が動いてるからこそ、依頼のブッキングが起こってる筈やろ。アリアルさんの3年もミリアルさんの3年も、どっちも同じだけ既に苦しんだ筈で、どっちも同じだけ今に対して憂いてる。理想は3年に生じたマイナスを0にしてからやろうけど、人間そんな簡単な足し引きで心はできてないやろが」
自分に与えられたマイナスを0にできたからといって相手を許せるか? そんな答えに人間は簡単にイエスとは言えない。マイナスに何をしても、マイナスがあったという事象はずっと心に残り続けるからだ。たとえプラスになるような心象を良くする事をしたとしてもそれはきっと変わりはしない。でもその誠実さのためだけに一番在るべき心を捨て置いたら、本末転倒だろう。
私達がやっているのは相談屋、恐らくこれが本質であるなら……彼女ではなく彼女達として依頼に臨むべきだ。結月さんもそれが分かっているからこそ、小袋を探し出してみせたのだろうから。
「……琴葉はこの依頼、どう向き合いたいんだ?」
結月さんは大きく息を吐いてから、真剣な目で私を見る。
彼女に連れられてきた今回の依頼、恐らく彼女はこの2つの依頼の意味を考えさせた上で、私がどう答えを出すのか見たがっている。そうでなければここまで私と葵の関係性に酷似した依頼に私を連れ出すのは悪手だと思う。私という存在がこの依頼に対し公平な意見や提案を出せる訳がないし、姉であるアリアルさんの方に良い意味でも悪い意味でも心理的に寄った考えをしてしまうから。
……けれど、それがアリアルさん、彼女には必要な筈だ。私達の本質は物事の解決に臨む第三者じゃない、寄り添いつつも、他人という立場だからこそ本当にまずい事を止められる、そんな相談相手だ。ならば私のやるべき事は……。
「妹さんの依頼の完了、待ちません?」
「あ゙あ゙……?」
提案したのは、一時の停滞だった。
◇
翌日――昨日と同じ時間、同じ駅前。生憎の雨ではあるが、最初と同じ面々で揃う。
「あの、結月さん……?」
「んだよ」
「い、いえ……」
黒色のレインコート淑女が結月さんへ話しかけるが、妙に機嫌の悪さを隠さず彼女は返事をする。流石にこのままでは彼女の印象が下がりそうなため、不機嫌の原因を聞いていた私は補足をしておく。
「あー、結月さん寒いの苦手らしいから、今日の機嫌は勘弁したってくれ」
「あ、なるほどです」
合点がいったらしく、ミリアルさんは胸の前でぽん、と小槌を打つ。その愛らしい仕草に、私達より本当に年下なんだなあと感慨深くさせられつつも、とりあえず今日すべきことを話し合っておくことにした。
「それで、今日なんやけど……フローレスさん、これ見覚えあるか?」
結月さんに預かった栞の入った小袋、それを彼女へ見せると表情が驚きへと変わる。
「それをどこで……!?」
その言葉を聞き、私は結月さんへ視線を向ける。
「お前の学校だ。私物の落とし物であった時、学校だと大体1ー2ヶ月は保存してくれてるんだよ。まずはそこを確認すべきだったな、まあ焦ってたからこそ見落としやすい場所だけどな」
「そんな身近にあったなんて……」
よかった……。そう深く深く安堵の息を吐き出すミリアルさんの反応をみて、恐らく大丈夫そうだと結月さんとアイコンタクトを取ってから、彼女へ質問をする。
「フローレスさんはどうする? これの中身を知ることが出来れば、多分うちらはいらへんと思うんやけど」
「……いいえ、あの後少し考えたんですが、既に贈りたいものは決まってるんです。だからその考えがぶれないために、琴葉さん、それを少しの間預かっていてくれませんか?」
新たなお願い。依頼は継続のようだ。アリアルさんの話を聞く限り、恐らくこの花の栞という贈り物は彼女達にとって二重の意味で大事な物のはずだ。それこそお返しに贈るものが一瞬で決まるくらいに。しかしミリアルさんが選んだのは、それとは別の答えだった。
「構へんけど、何を贈るん?」
「えっと……冬に変かもしれませんけど、花を贈りたいんです」
その言葉に結月さんはほう……と息のように言葉を零す。私としても、その答えに既に行き着いているのは意外だった。
「別に変じゃないだろう。花はいつだって……きっと人の心に一番届くものだろう」
「せやね、花ええんちゃう?」
私達はそれぞれ彼女の贈り物に肯定の意を示すが、ミリアルさんは首を横に振るう。
「ただその前に知りたい花があるんですけど……その、分からなくて」
「知らない花なのか?」
「いえ、見た目だけは知ってるんですけど……押し花でしか見たことがないせいで、名前も形もあやふやっていう……」
それは……確かに分からないとしか言えないだろう。花であれば色や形、香りや時期である程度限定できるだろうが、恐らく押し花では色も多少褪せて正確ではない。それを探すとなると……。いや。
彼女は名前と形だけがあやふやだと言った。つまりそれ以外の――色なら記憶に残っているのではないか?
「フローレスさん、その押し花て色は分かるん?」
そんな一縷の望みに賭けて確認をすると、彼女はそれに対し頷く。
「色はピンクに近い紅色でした、花弁の数は多かった事しか記憶にないんですけど……」
「そこまで分かってるんやったら上々やな、なら探しにいこう」
「探しにって、それだけで探すとなると時間がかからないか? それに花じゃ色は何のヒントにもならないだろ」
結月さんは流石に無茶と感じたのか、まだ情報が欲しい様子だった。しかし恐らく、多少は賭けが入ってしまうが、私には大丈夫だという確信があった。
「きっと大丈夫。まあ今日の時間は潰すかもしれんけど、まずは行ってみようや」
――図書館へ。その言葉を聞いた2人は懐疑的な表情をしていた。彼女達の心境を表すかのように雨足を強めるが、今の私にとってそれは、足早に過ぎ去ってくれるだろうと思え、安堵する要因になっただけだった。
◇
休日の図書館というのは普段混み合うものだが、雨という事もあり館内はまばらで済んでいた。雨音が小さく響き渡る湿気の管理された室内は、とても居心地がよく感じる。
結月さんとミリアルさんはそれぞれ花の図鑑を探そうとしたが、それを止め席で待たせている。別に私としても無作為に花を探すつもりは毛頭ない。図書館というのはとても優秀なもので、自分が何を調べたい、知りたいかが分かってさえいれば、いとも簡単にそれに辿り着けるように出来ている。それでも見つからない時は見つからないが、最悪司書さんにお願いすれば近しいものを見つけ出してくれさえするのだ。私にとって勉強の際お世話になった場所だからこそ、そういった知識を身につけられたのだが。
「琴葉さんお待たせしました。3冊今ご用意出来る範囲で見つかりましたよ。一週間ほどまたお時間が頂けるのでしたら、追加で取り寄せできそうな本もありますが……」
「いえ、ひとまずこれで大丈夫です。桜乃さんもいつもありがとうございます」
「お気にせず。目的の物が見つかるといいですね」
すっかり顔馴染みになってしまった司書さんにお辞儀をし、たった10分程度で見つけてもらえた3冊の本を手に取る。彼女は赤縁の眼鏡を照れくさそうに片手で直してから、にこりと会釈をしてまた業務へと戻っていった。私もまた2人を待たせている席へ戻ると、彼女達は手持ち無沙汰だったのか、それぞれ本を手に取り読んでいた。結月さんは夏目漱石のこころ、ミリアルさんは宮沢賢治の銀河鉄道の夜と、何とも言えない選択をしているなとつい眺めてしまう。しかし私が近付いた事で、お互い慣れた手付きで本を胸へと仕舞うようにゆっくりと閉じ、こちらへ向き直した。
――本好きってのはこんなに所作が似るもんかね……。
そんな彼女達の連動した動きにくすりとしつつ、2人に見えるよう机の上に持ってきた3冊の本を広げる。
「これだけか?」
「別に花いうても、うちらが探すべきはフローレスさんの住んでいた地域で比較的入手可能な、って所までは絞れる。まあ温室で育てられてたら参るけど、多分大丈夫やろ。……やってフローレスさんの探してる押し花、きっとお姉さんが自分で育てたもんやろ」
私の言葉にミリアルさんは驚いた表情をする。やっぱりか……。
「私も確証はないですけど、どうしてあなたはそうお思いに?」
「あんたは言葉を端折り過ぎや。いや古典文学の読みすぎとでも言えばええんか……? 多分フローレスさんは、うちらに贈り物の答えを出して貰える状況を何とかしたかったっていうのと、昔大事にしていた押し花がいつの間にか消えていることに気がついた。だからこそ、その押し花を使った『何か』をお姉さんから貰ったと気付けたあんたは、その押し花さえ知れれば後は自分で考えられると踏んで……って想像やけどどうやろ」
「……合ってますよ。まるで心を見られてるみたいで嫌ですけど、その通りです」
彼女は『贈りたい花』ではなくあくまで押し花を『知りたい花』としか言っていなかった。加えて、この状況になり初めて押し花の造形や有無を確認したという事は、普段使っていなくても彼女達にとって真っ先に確認するくらいに想い出深いもの、つまりフローレスさんにとってそんな押し花こそが貰い物の答えなのだ。ならば後は。
「合計約1000ページ、その押し花を探し出して答え合わせをしようや」
そこまで探し出せたなら、きっとアリアルさんもこちらで栞を渡すことを許してくれるだろう。それにきっと、ミリアルさんは押し花の事を簡単に忘れていないだろうから。
雨音が静まってきた数刻後、結月さんが持っていた本にその花が見つかった。あくまでもミリアルさんに花を確認してもらう必要があったので、私達2人はピンクや紅色に近い色がある花のページをメモしていき、全てミリアルさんに目を通してもらうという作業だった。最悪別種の色違いも踏まえ、それらの花にも目を通したため流石に時間はかかった。
しかし、見つけてみせたのだ。
「ペラルゴニウム……そんな名前だったんですね」
花の名前はペラルゴニウム、春から夏に掛けて咲く花は2色で構成された花弁をつけており、ピンクか紅色……ではなくピンクと紅色の色彩豊かな色をしていた。形はフリルのようであり多弁、これはそもそも花弁数が判別できるものではなかった。そして花言葉は……。
「君ありて幸福、ね」
結月さんは本を眺めながら小さくごちる。恐らくアリアルさんの本心が込められた花の意味は、ミリアルさんにどう伝わるのだろう。とても愛おしい花言葉ではあるが、私には少し物寂しさを感じた。
「フローレスさん、これ」
最早私が持ってる必要は無いだろうと判断し、ミリアルさんへ栞が入っているであろう小袋を渡す。彼女は無言のまま受け取り、恐る恐るといったように袋を開けると、それは確かに花の栞だった。中身の花は既にとても色褪せており、辛うじて花を知っている者には分かるかもしれない程度に形も崩れかけている。けれどそれを留めようとするかのようにレジンで薄く固められており、よくよく花を見れば繋がっていない箇所が見える辺り、それを作った人は必死に復元しようとしたのだろう。まるで失ったものを繋ぎ止めようとするかのように黒いリボンを上に通され、それは花の時間を止めていた。
「姉さん……」
彼女は本を閉じる時と同じように、胸に仕舞うかのように栞を抱きかかえた。
ひとまずは依頼の最低限の峠は越えただろう、私と結月さんは互いに肩の荷を下ろしたように、深く椅子へもたれかかりつつ、机の下で拳をぶつけた。
「お2人に、あと1つだけお願いがあるんですが……」
ミリアルさんのそのお願いの言葉に、結月さんはげんなりした顔と低い声で「なんだ」と返事をする。分からないでもないが、流石にと思い脇腹を肘で軽く突いておく。
「なんやろ?」
「琴葉さんと結月さん、お二方がいいなと思った花を姉さんに贈りたいんです。手に入るかは分かりませんが……」
「……お前で決めなくていいのか?」
「はい、これに辿り着けたのはお二方のお陰ですし、それに……この出来事を姉さんと憶えておきたいので」
ミリアルさん達にとって花にどんな強い意味があるのかは分からない、けれど最後にそれを決めたということは、彼女にとってそれが最善だと思ったのだろう。ならば私としては特に構わないが……。結月さんを見ると、彼女もまた「まあいいか」と仕方なさそうに了承していた。
「うちも構わんよ」
「よかった……じゃあ探す時間とか」
ミリアルさんのその言葉に私達は互いにいやと首を振った。恐らく結月さんも事前に想定はしていたのだろう。それぞれ見ていた花の辞典を手に取り、紐の栞を挟んでいたページを開いた。
「アイリスと……カランコエですか」
アイリスは結月さん、カランコエは私だった。どちらも冬の季節からは外れているが……。それを考えてかミリアルさんは少し不安そうな顔をする。それに対し結月さんは彼女へ聞かせるように声を出す。
「琴葉、ツテあるだろ?」
「ですよね」
私が普段葵の病室に花を飾っているのを理解してだろう。アイリスは春の花だ、今の時期に早々手に入る物ではないが……恐らく大丈夫と踏んで選んでいるのは間違いなかった。けれど私のも少し時期からズレているため、こちらも頼らざるを得ないため丁度いい。
「ちと待っててな」
そう言って私は、頼みの綱である東北先生へ電話をするため席を外した。
その後、先生には無事約束を取り付け、ミリアルさん希望の1週間後に花は彼女の宅へ届く運びとなった。
「本当に、本当にありがとうございました……!」
「気にせんと、後は頑張ってな」
1週間先にはなってしまうが、アリアルさん側の依頼は実質彼女に掛かっている様な物だ。恐らく大丈夫だろうが、ミリアルさんには頑張って欲しい。
ひとまず無事に依頼を終え、雨雲が去った日差しの中こちらへ手を振り続けたミリアルさんを見送りも終わり、一息ついた所で結月さんが呟く。
「……よく花手に入ったな。それも1週間で」
「うちとしてはお願いしただけやけどね」
それに関しては私は特に頑張ったりなどしていない。先生に2種の花を少しだけ融通してもらっただけだ。それこそ電話を掛けた際は「春!? 春の花!?」と言われたが、まあアイリスは流通量豊かなので多分大丈夫と願いたい。
しかしまあ、先生に花のことを1年掛けて教えてもらっていたからこそではあるが、こういった結末に辿り着けたのは、自分の事ながら不思議な気持ちになる。
「そういえば、なんでほんとに『茜屋』なんて名前つけとるん?」
自分の名前が使われている理由、恐らくは葵がつけた名前なのだろうが、やはり私にはどうにも理解しかねた。咄嗟に浮かんだ? 便宜的に? そんな理由で姉の名前をつけるとも想像ができない。
しかし私の質問に結月さんは「さあな」としか答えない。これでは数日無駄足になりかねないと焦りそうになるが、その後付け加えるように「けど」と彼女は言葉を続ける。
「葵は真似事って言ってたよ、これの事を」
「真似事……?」
「意味は知らん。けど面倒くさい依頼ばっかり舞い込むし、いつも想定外の解決策を模索するし、それで基本全員笑顔にするし、わけわからん事ばっかだったよ」
結月さんは懐かしむように、頬を綻ばせながら話す。けれどどこか寂し気な表情に変わってしまう。
「私もまあ、巻き込まれみたいな形だったけど葵達にそれで助けられたし、そういうのに首をつっこむ馬鹿が心配でやってた所もあるけど、それでも楽しかったよ。……けどいつも葵は終わった後不安げに言うんだよ、「これで良かったのかな」って。依頼はいつも円満に終えてたのにな」
――お前はどうだった? この依頼を終えて。
その言葉に私は言葉を詰まらせそうになる。どうだった、そう言われても良し悪しは私には判断しかねる。それに依頼は正確に言えばまだ全て完了した訳ではない、まだお姉さんに事後報告をどうするか考えなければいけないのだ。……けれど。
「今出来る事は、出来たんやないかな」
その言葉に結月さんは困ったような表情を見せる。
「真似事の意味、ようやく私にも理解できたよ」
「うちにはまだ分からんのやけど……」
「いいんだよ、お前はいつか葵に教えてもらえばいい」
――そんな簡単に言わんでくれ。
思わずそう口に出しそうになるが、ふくれっ面だけを返すことにする。「なんだそれ」と結月さんは笑うが、私としては大真面目だ。
「それで、アリアルさんの方はどうするん?」
「ああ、アリアルには私から話を通しておくよ、1週間待ってろって」
簡素ではあるが、それしか最早言えることは確かに無いだろう。いやいいのか……? 少し惑うも、1週間の猶予は流石に私にもないため、後は結月さんに任せることにした。きっと彼女なら来たるその日、花の意図をきちんと受け取れるだろう。
「いつか花を通さんでも、言葉にできる日が来るとええな」
そんな事をぼんやりと口にすると、馬鹿が、と隣からハッキリと聞こえてきた。抗議の視線を彼女へ向けると、更にため息が加えられてしまう。
「言葉っていうのは全部意味があるんだ。あいつらが日本の文学に興味を示したのも、日本語っていう意味分からないほどに膨大な感情表現があったからだ」
けど、と言葉が続く。
「同時に言葉っていうのは伝わりすぎて欲しくない時もある。フローレスが言ってたようにな。相手に想いを伝えたい、けれど気負って欲しくない時、逆に言葉は邪魔にもなるんだよ。だからこその花なんだろ」
彼女の言葉に思わず呆気に取られる。
「でも結月さんは、うちにめっちゃ言葉に出せ出せ言うてませんでした……?」
「お前の場合は言葉にしなさすぎなんだよ。言葉を尽くした上で初めて伝わりすぎるっていうのは成立する、琴葉の場合はまず怖がりすぎてそこにさえ至ってない」
「それも……そやろけど」
「それに、言葉を伝えなさすぎると逆にもっと言葉を出せなくなるぞ。相手が言葉を待ってるなら余計に」
結月さんは月代高校がある方向へと、傘を地面へと突きながら歩き出す。
私は彼女の言葉をどう受け取るべきか迷い、立ち止まったまま、ただ彼女の足元を視線で追いかける。
ふいに結月さんは立ち止まり、こちらを振り返りながら「なあ、茜」と柔らかな声を私に向けた。顔を上げ彼女を見れば、私……ではなく奥に傘がまっすぐ向けられていた。
「お前の花飾り、それはどっちだろうな」
それだけ告げると彼女はまた踵を返し、今度は傘を突くこと無く歩いて去っていった。
湿った空気に触れ、垂れ下がってきた前髪を掬うと、指の背に花飾りが当たる。髪から外し、紫の花のそれを見ながら結月さんが言った言葉の意味を考える。そのまま捉えるのであればこの花の意味を調べるべきだが……。これは本物の花と違い大分デフォルメチックになっており、探すにしてもやはり時間が足りない気がした。
そもそもこの花飾りは幼い頃、それこそ葵と離れていた時期に母から誕生日プレゼントとして送られてきたものだ。これにそこまで深い意味は……とそこまで考えた時、結月さんはどうして私ではなく奥を指していたのだろうと気付く。振り返り確認するも、そこは閑静な住宅街や公園がある方で……。
――いや、違う。
私は目を閉じ、傘を記憶にある回数だけコツ、コツ、コツと叩きながら前へ進み出る。結月さんが先程立っていた位置、そこから私の背中側。まっすぐではなく左肩になるように傘が指した先は……。
「図書館」
それに気付いた瞬間、私は水溜りを蹴って走った。
――回りくどいというか、言葉にしなさすぎはどっちやねん……!
そう心で悪態をつきながらも私は図書館へと急いで入り、足音をできる限り立てず、けれど決して隠しきれない程度に早足で目的の本を棚から取り出した。
『Flower’s Dictionary』と題打たれたそれは、先程まで結月さんが手に取っていた花の辞典。それを恐る恐るも慎重に、紐の栞があるページまで開いていった。そのページには私の持っている紫の髪飾りとは全く違う、けれど確かに見覚えのある白色と星型の形をした花がそこにはあった。
『Nicotiana:ニコチアナ』と名付けられたその花のページを目で追っていくと、最後に『花言葉』という文字があり、目を逸らしそうになるも結月さんの言葉を思い出す。
「……相手に想いを伝えたい、けれど気負って欲しくない、伝え過ぎたくない時、花を渡す」
このニコチアナという白い花は、葵が常に髪飾りとしてつけているものだ。それも、自分で買って。そこまではいい、けれどもし、私の貰った花飾りが葵が選んだものだとしたら、……それには意味がある筈だ。何でもお揃いだった私達が、葵とやり取りせず唯一お揃いになっていた花飾りなのだから。
意を決し、一度目を閉じ、バクバクとうるさい心臓を掴みながらそこへ目を開くと、私は心臓が止まったような感覚に陥った。
『花言葉:秘密の恋 私は孤独が好き あなたがいれば寂しくない』
それは知ってはいけない、ひたと隠し続けた葵の言葉だった。
第四章 12月1日 1人の夢
夕暮れ時、背に感じる冷たさも気にすること無くただぼんやりと空を見上げ、土手上から枯れ葉が時折川へ落ちて行くのを感じていた。手元に握られた、花屋の人に融通してもらった香瓶をパカパカ開け閉めしつつ、時たま落ち着く香りが鼻をくすぐった。
あれから2日後、先生と約束した最終日。私は未だに葵と会う事が出来ずにいた。
いや、約束はとうに過ぎているのだ。本来であれば、昨日時点で私は先生に会うべきだった。しかし心が決まらず、未だにうだうだとこんな場所で悩んでいるのが現状だった。
葵がいつも大事に身に着けていたニコチアナの花飾り、それは両親に確認すれば、やはり父にも母にも記憶になく、次に私の花飾りを聞いても知らないようだった。つまりどちらも葵が買ったものであり、幼い頃の私は母に贈られたと思っていたのも勘違いでしかなかったのだ。
今にして思えば、母からの贈り物は後々遊びに行った際貰っており、当時の私は「まあ葵と似たのだし、そんなもんか」と流していたが、母から花飾りに対し何も言及されていなかったのは確かにおかしな話だった。
しかしいざ葵が隠していた花言葉(想い)を知ることが出来ても、その最後の意図を汲み取りかねた。花言葉の『秘密の恋、私は孤独が好き、あなたがいれば寂しくない』その3つはまるで全てが相反する言葉しか無く、葵にとってどの気持ちが正解なのかを考えてしまう。
疑問は尽きず、葵は花言葉に気付いて欲しかったから髪飾りとしてつけていたのか、それとも戒めのようにつけていたのか、葵の好意にしても、葵は結ばれたいと強く願い続けていたのか、結ばれてはいけないと固く考えていたのか、とうに諦めてしまったのに触れてしまったのか、そんな沢山の葵へ聞きたいことがふつふつと浮かんでは空へと消えていく。
もしこれを結月さんに知られようものなら、彼女ならきっと早く言葉にしろと言うかもしれない。私としても彼女と関わってそれもやぶさかではなくなったのだが……、やはり分からなかった。自分がどうしたいのか、何も分からない。
葵は好意を知られたくなかったからこそ、私を夢から追い出した筈だ。けれど葵の抱えている気持ちは、別に姉妹同士だからこそ発生するものでも無いと思うのだ。相手に想いを知られることが怖い、拒絶されて関係性が崩れるのが怖い。そんな恋愛的な物には何かと偏在する物で、誰だってきっとこれで悩む事はあるだろう。だからこそ私は、葵にできる限り寄り添った答えを出せればいいとも考えてはいるが……けれどそれが私にとって動けずにしている一番の理由だった。
私が恋を知らなさすぎるだけかもしれないが、私は自分に向けられる好意がやはり分からずにいた。どこかずっと他人事で、幾ら考えても、それにどう応えるべきなのか分からないし、どう向き合ってあげるべきかという姉目線が捨てられずにいる。葵にとってこれは多分……とても酷い事だとは自覚しているからこそ、やはりそれに向き合わざるを得ない夢が怖かった。
私は、うちは、葵の恋に対し、肯定も否定もしてあげられない。だからこそ正解の姿を、言葉を未だに模索し、逃げているのだ。多分私が本気で探したのなら、きっと自分の花飾りの意味だって知ることが出来たはずなのに。私は葵の気持ちを知るのも話すのも……途方もなく怖いのだ。
はぁ、と空へ雲を1つ吐き、風に流され掻き消えた時だった。
「わぶ!?」
突然目の前が色鮮やかに塞がれ、顔周りにくすぐったいふさふさとした感触が押し潰される。慌てもがきつつ顔に掛かった物を掴み取ると、それは花束だった。
「あなたも水がいるんじゃないかしら、こんなくたびれて」
「うちに葉緑体はありませんよ、先生」
「約束を破りかけている人を人間と認めませんから、私は」
ドスン、と隣に腰掛けた人を見れば、そこには白衣を着た東北先生がいた。私は顔を合わせづらく、そのまま空を見ながら会話をする。
「……すんません」
「構わない……とは言えないわ。けど、どうしたの?」
「怖く、なってもて」
「子供ねぇ……」
「……すません」
申し訳無さか恥ずかしさか、つい目頭が熱くなる。けれど泣く立場にないと思い、必死に息をしながら抑えようとするも、中々うまくいかない。喉は締まるし肺は締め付けられるしで、痛くてしょうがない。
「あなた、タバコ吸った?」
「なん゙っ゙……っ……げほっ!」
ふいに、鼻をスンと鳴らした先生が困ったような声でとんでもないことを聞いてきた。思わぬ質問に、身体を勢いよく起き上がらせ否定の言葉を出そうとするが、締まっていた喉に空気が入り、勢いよく咽てしまう。
「すっで……げほっげほ! ないでずがら゙」
「おかしいわね……」
最早苦しいのか悲しいのか分からない涙が目から零れ、乱暴に袖で拭きながらもきちんと否定しておく。私は別に非行に走ったりなど決してしていないのだから。
イガイガとする喉を押さえつつ、それでもまだ首を傾げる先生からの信頼の無さに少し絶望しつつ、けれど約束を破っている身のため強く出れないのが余計に悲しかった。
落ち込んだ私は手元にあった香瓶の蓋をパカパカと弄っていると、先生から「それ、何?」と言われ、花屋からもらった香瓶と説明をする。
「ニコチアナっていう花の事知りたくて、そしたら店員さんにこれを譲ってもらえて……」
「ああ、それで……。茜さん、それなんの花か知ってる?」
「いえ……」
「タバコの原料よ、それ」
「え゙っ゙」
驚き思わず瓶を落としそうになるも、腿で挟みなんとか阻止する。改めて瓶を手に取りつつ、タバコの原料? これが? と言うかそんな物の香瓶って貰ってええんか……? とあせあせと考えていると、隣からくすくすと笑い声が聞こえた。
「……先生?」
「ふふ、そんな焦らないで大丈夫よ。花タバコはちゃんと認められてるものだから。あと多分譲ってもらえたのは古くなったからでしょうね。花のニコチアナはもっといい香りがする筈だけど、劣化でタバコの匂いに近くなってるのかも」
それを聞き安心すると同時に、あんの花屋……という気持ちもふつふつと湧いてくる。いや、ここまで香りが変わるのもきっと珍しいものなのだろう、そうでも思わないとこの湧き出た熱さは消せなかった。
手でぱたぱたと顔を仰ぎつつ、そういえばと先生の言葉の中でふと疑問に思ったことを聞くことにする。
「先生ってタバコ吸われたことあるんです? この匂いをタバコって言うとりましたけど」
もしくは近しい人が吸っていたとかだろうか。生憎私の周りは病気の事もあり、タバコを吸う人は関西でも関東でも見ることはなかったが、それも相まって少し気になったのだが、先生は少し逡巡した後、右手の細い人差し指と中指で何かを挟むような仕草をしつつ「少しだけね、今は吸ってないわ」と言葉にした。その色っぽい仕草にくすりとしつつ、普段の彼女が和服姿だったことを考えると、嗜んでいたのはキセルだろうかと想像する。似合いそうな反面、少しだけ俗世離れしてそうな雰囲気に、少しやだな、と思ってしまう。
「先生がタバコって、似合いそうですけど何か吸ってて欲しくはないですね」
だからだろうか、その言葉がすんなりと出てきたのは。私のその言葉に先生は「あら」と意外そうな顔をしたあと、朗らかな笑顔になる。
「もう吸うことはないから、大丈夫よ」
「……なんかまるで意味があって吸ってたみたいな言い方ですね」
加えて、吸う必要も今はなくなったという意味すら言葉から感じられた。「まるで探偵さんね」と先生は茶化すが、私はそれをどう受け取っていいか戸惑ってしまう。
「すんません、少し口が軽くなってるみたいで」
「別に気にしないで。それに茜さんの場合、それくらいさっさと言葉にできた方がいいわ。あなたは喋る練習をするべきだもの」
「うえ……そこまでうちって会話酷いですか?」
結月さんにならまだしも、まさか先生にまで言われるとは思わず、それを聞き背中を丸めてしまう。話すべき事を考えるようにはしているのだが……。
「酷いとまでは言わないけど、タイムラグがあるのよね。きっと茜さんなりに話す相手へ気遣うっていう習慣があったせいだと思うけど、そのせいで気遣いが伝わりすぎて話し相手は疲弊しちゃうわよ? だから口が少しでも軽くなってるなら良いことだわ。こっちとしても気軽に話したいだけだから」
「ラグて……なんか似たような事を最近言われましたね。考えたら話せ、口にしろって」
それを聞いた先生はふふ、と楽しげに笑う。
「友達かしら? 茜さんの事をよく見てるのね」
「友達~~ではないんやないかなぁ……?」
結月さんにもし友達と言おうものなら、その瞬間膝蹴りが飛んできそうなのは想像に難くない。それに私には友達、というのも関係性がよく分からない。彼女との関係は葵在りきだし、それ以外の接点といえば一緒に依頼をこなした仲というだけで、やはり親しいとは言いづらかった。けれど先生はそうは思わないらしく、首を傾げる。
「なにかしら好印象がなかったら、そこまであなたの直すべき所を的確に言えないと思うのだけれど……。変わった子なのかしら」
「まだ少ししか知らないですけど、面倒くさいことは嫌いな人でしょうね」
「難儀と言うか、やっぱり重症ね……。名前で呼び合ったりはしなかったの?」
「重症てなんですか……? 名前は別に……いや、最後になんか呼ばれたかも……?」
「茜」と呼ばれたあれは何だったのだろう。それまでは琴葉やお前呼びだったのが結月さんにとってどういう心境の変化だったのだろう。……分からず、頭が痛む。冷たい手で眉間を抑えていると、「……ずるいわね」と隣から聞こえてきた。丸めていた背を起き上がらせ、先生を改めて見ると、ムスッとしながら腕を組んでいた。
「ず、ずるい……?」
「そうよ、ずるいわ。私だってまだ茜さんに先生呼ばわりしかされてないのに」
「い、いや、だって先生は先生ですし……」
「それは対等とかではなく、敬意でしょう? 私は友人としてあなたを茜さん、と呼んでいるつもりよ?」
それは……。確かに言われた通り、私は先生をどちらかといえば、葵を診て貰う人として呼んでいる節がある。それはこのベンチでいつも話していた彼女に対してではやはりない。しかし先生はそれが気に入らない様子だった。
「……別に、うちはその人の事を名前で呼んだりしてませんよ?」
「あら、なら尚更だわ。それに折角名前を教えているのに、こういうプライベートですら先生と呼ばれるのは嫌よ」
プライベートならなぜ白衣を……。いやそれは私を見つけるためか。なんとも区切りづらい彼女の私情に戸惑いつつ、嫌とまで言われてしまっては仕方ないだろう。
「ほら、私の名前は東北じゅん子。りぴーとあふたみー?」
「……流石に病院では先生って呼びますよ?」
その言葉に返ってくるのは無言の笑顔と圧。きっと肯定だと信じ、私はご要望通りの名前を口にする。
「じゅん子さん……? これでええでしょう」
「ええ、ええ。茜さん」
クスクスと花が揺らぐように笑う彼女は、やはり初めて見かけた時と同じように、その新緑のような姿に良く似合っていた。
私の呼び掛けに満足したのか、じゅん子さんは先程の花束を持ちながらベンチから立ち上がった。
「さてっと、私は病院に戻るけど、あなたは?」
「……うちは」
足に力を入れようとするも、身体がベンチに張り付いてしまったかのように、身体を立ち上がらせる事は叶わない。そんな自分に思わず貼っつけた笑みを浮かべそうになるが、先生はその様子を見てか、「友人のあなたに、秘密を教えてあげるわ」と唐突に話し始める。顔を上げることはできないが、それでも耳だけは彼女の声へと向ける。
「私がタバコを吸ってたのはね、現実を見るのが嫌で嫌で仕方なくて……逃げたかったからよ。昔……あなたが生まれる頃。1人の子を私は助けられず死なせてしまったの。幸いといっていいのか分からないけど、ある事があって問題にはならなかったけれど、それでも最悪だったわ。だって人が1人死んでしまったはずなのに、誰もそれを知らない。知らないどころか、その子の親にはそれを伝えられず未だに感謝される始末。本当に意味が分からなかった。私は責められたい、咎められたかったのに、それを証明するものがどこにも存在しない。私ですらその子の死を証明できなかった。……だからせめて、自分の命を削って、花を毎日流して、ずっと謝り続けるしかなかった。おかしな話をしているかもしれないけど、私にとってタバコはそんな訳の分からない現実から目を逸らして、確かにあの日、私は1人を救えなかったって夢に酔いしれてたのよ」
けれど。と彼女は言葉を続ける。
「いつまでも逃げ続けることはできない、ただそれは先延ばしにしているだけだったって、やっと……本当にやっと、気付かせてくれた人がいたから、すっぱり止めたわ」
長年堰き止められていた様な言葉の波、私には理解することは難しかった。なんと声を掛けたら良いかも分からない。これはきっと彼女にとってもう既に終わった事でもあり、抱えていこうとしてる事なんだと思う。
「だからね、茜さん。私は一度逃げた人間だからあなたに逃げるなとは言ってあげられない。……けどね、友人として1つ、あなたにこうあって欲しいなって想うことはあるの」
「……なんです」
「逃げて逃げて逃げ続けて……それでも向き合う勇気が出せず、蹲ってしまっている子がもしいるのなら……。できれば手を伸ばしてあげて」
……私はタバコの事を教えられて、先生が誰の事を言っているのか分からない訳じゃない。けれど。
「……うちには、何を言えるか分からないです」
私の否定に先生は「いいえ」と否定する。
「あなたはもう持ってるはずよ」
思わず顔を上げながら先生へ反論しようとすると、真剣な目を向けられていた事に気付く。川に反射する日差しが目に入り、眩しさで逸らしそうになるが、冬の乾風が首筋を撫で、それは叶わない。
「うちは……」
分からない。知らない。間違えることが怖い。姉として今まで全て正しく在れた筈だ。けれど姉の私は正しさを間違えた。だから私が考えなきゃいけない。なのに夢でも現実でも選ぶ事が多すぎる。
けれど……私なりに何かする事、そしてそれにありがとうと言われる事も決して悪くなかった。
間違えても、最善を選べたか分からなくても、約束を破ってしまっても、後ろ指を刺され続けることはなかった。
もし、もしも……そんな私を、私自身が許容できるなら……。
――浅ましい。
そんな声が脳に響く。
そうだ、そんな考えは浅ましく、独善的だ。……でも。
――きっとそれが、今のうちという人間なんだ。
他者の気持ちが理解できない訳ではないのに、自分の考えにも何にも自信が持てない。自信が持てないから、言葉を出すことを怖がる。誰かにその言葉を肯定してもらえるという状況がないと、何を考えても自分自身がそれを否定し始める。私が一番欲しかった言葉を他者にあげられるのに、私自身はそれを拒絶している。
……私は。
「葵に、赦されたい、謝りたい……」
「なら立ちなさい、琴葉茜!!」
言ってはいけない、決して口にしてはいけなかった言葉を言った瞬間、自分の全てが崩れ去った様な感覚に陥る。けれど両肩を強く掴まれ、逃さないとでも言うように痛みと暖かさが肩に走った。
「わたし、は……」
「一生後悔するわよ」
立てない、そんな言葉は、言えなかった。
「断言する。もし今日を諦めたのなら、あなたはこれから先、寝ても起きてもずっと自分を許せなくなる。あなたが葵さんに言えなかった、伝えられなかった気持ちはあなたを縛る呪いとして一生付き纏う。今日を諦めるということは、葵さんの未来を諦める事だって、いつか向き合う日が来る。……私は、あなたには絶対それを背負って欲しくない……!」
「で、でも……」
「素直にその2つを伝えるだけでいい! 言うだけでいい! あなたが葵さんに1年尽くしてきた自分自身を認められなくても、あなたの妹はそれを見ぬふりする人間じゃないでしょう!?」
「……っぁ」
「たった1人の……! かけがえのない妹でしょう……!?」
頭が、一気に冷えきった気がした。
全てを言い切った先生は、私の肩にかかっていた力強い手をゆっくりと緩め、涙を零しながら、けれど拭わずただじっと、私を強く見つめる。
私は彼女の手を丁寧に退ける。
「茜さん……」
「もう、大丈夫です」
先生は目を見開き唇を固く結ぶが、私は彼女の勘違いに気付き、立ち上がりながら言葉を続ける。
「葵の病室に行きましょう。多分時間、ないでしょう?」
夕暮れの日は既に、1週間前のあの日と同じように落ち始めていた。
◇
冬至を迎えきっていない太陽は、まだ17時だと言うのに辺りを既に夜の色へと誘っていた。そんな中、私は病室の扉の前で1人佇む。
「ふぅ……」
息を一つ吐き出し、コンコンコンと3回ノック。強張る身体へ鞭を叩くように歯を食いしばりながら扉を開いた。
暗い病室の中、私は明かりを点けず足を踏み出していく。あと少しできっと部屋は真っ暗になってしまうだろうが、それでも今はカーテンから差し込む光だけで、少しでも彼女と会う勇気を消さずにいたかった。いつものルーティンなんて物は花を持っていない時点で存在しない。私は、私として初めてこの病室に足を踏み入れたのだ。そんな小さな事でも、私は震えそうになるほどに怖かった。
私はベッドに備え付けられた椅子に腰掛けようと取っ手に手を触れ、どれだけ自分が今、一切の感覚を失っているのか気付く。冷たい筈の鉄パイプは何も感じず、ただの棒切れのようにすら感じられた。それを一度意識してしまえば、まるで宙に放り出されたかのように呼吸の仕方を忘れ過呼吸になりかけるが、右手を強く強く握り、膝を強く叩きつける。その音で驚いたのだろうか、目の前の、ベッドに横たわっている彼女の手が一瞬だけ震える。私は息を整えてから椅子に座り、葵の元へ寄った。
「葵」
私は彼女の名前を呼ぶ。この世にたった1人の、妹の名前を。
今の時刻、そして先生と話した内容を思い出すのであれば、夢の葵は私の帰りを待っている時間だ。猶予は、もう1時間くらいしか無い。
「少し、話がしたいん。手えは……握ったままでええから、聞いてくれんか?」
反応はない。それを見て私は葵の手を触れようとするが、途端に彼女の手は強く握られる。
「……頼む、強引に開かせるつもりはないから」
私は葵の見ている夢よりも更に早く、彼女へ話しかける必要があった。それには声だけじゃ足りない。酷く強引かもしれないが、骨を伝わせてでも私の言葉を夢の彼女へ割り込ませたかった。
葵の手は既に鬱血しそうなほど強く握られており、私に触れられることをこれ以上ないくらいに拒んでいる。それは視界に入れるだけでも苦しく、いっそ話しかけるだけで……そう逃げたくなるが、舌を血が滲むほど強く噛み、そんな思考を放り捨てる。
「葵、お願い」
喉は嫌というほど締め付けられ、声が震えそうになる。けれど、絶対に逃げるなんて考えはもう無かった。
「おねがい」
もう一度、声を振り絞りながら葵の手に触れようとする。反応はない、けれど。
少しだけ、手が緩んだのが見えた気がした。
「あおい、ふれるな?」
決して焦ってはいけない。一切の失敗なんて許されない、そんな緊張感をずっと私は抱えて生きてきたのだ。そんな一生に比べたら、こんなのはたった一瞬だと強く心を保てた。
慎重に、横たわった葵の手を右手が皿になるように持ち上げ、ゆっくりと左手で包む。
「あおい」
……少しだけ震えているようだが、それでも手が傷つくような握り込みはしていなかった。その手は私なんかよりずっと冷たく冷え切っており、私は少しでも体温を分け与えるように、両手でその手を握りしめた。
安堵で気が抜けそうになるが、まだこれは入り口に立っただけに過ぎない。いいや入り口に立つために、今から彼女に話さなければならないのだ、私の決めたことを。
息を2度整え、私は話をはじめた。
「葵、聞こえますか……? うちは今、葵の夢の外、葵のいる病室から話しかけとる。きっとこの声は一方通行やと思うけど……少しだけ、うちの話とお願いを聞いて欲しい。あんな、うちは……私は、本当は、葵の思うとるような立派なお姉ちゃんや、ない。葵は私の事をまっすぐだとか、目を逸らさない人だとか言うてくれたけど、それは違う。本当は私はずっと弱い……1個の事から逃げ続けてきた、そんな弱い人間が私なんや。小さい頃から身体も病弱で、葵と離れ離れになるきっかけを作ってもうたり、再会して一緒に暮らせるようになっても、私はまた離れる日が来るんじゃないかって怖がってたり、そんな風に弱い自分を隠そうとして、少しでも葵の傍にいたくて、離れる必要がないお姉ちゃんって立場にしがみついたり、これが実際の私なんよ。私が葵に引っ越す言われて、最初なんて思ったと思う? 嫌だ?違う。離れないで欲しい?違う。私は、やっぱり、良かったって思ったんだ。離れる恐怖よりも、姉としての私に幻滅されるよりもずっと、もう1人でいいんだって安堵が、私には強かったんだ。……だから、葵が事故に遭って目覚めなくなった時思うたんよ。「ああ、これは私への罰なんだな」って。葵の事を守れるくらいに、葵が傷つかないように、そう思ってお姉ちゃんとしていっぱい、いっぱい頑張ってきたつもりやった。たとえそれが立場へのしがみつきだったとしても、私はせめてそれだけは守ってみせたかったのに、葵を引き止める何かがあっちゃいけないなんて考えて、結果葵をこんな目に合わせて、本当に、どうしようもない。挙げ句……たった1年で寝たきりの葵と向き合う心も折って、夢の中で話す機会をもう一度だけ貰えたのに、その中で変わろうって、今度こそ葵を守れる自分になろうって決めたのに、今度は私が……葵を傷つけた。自分の事ばかり考えて、『私』も『うち』も、結局葵の事を一度もちゃんと向き合ってこなかった。だから何が葵を傷つけることになるかが、分かってなかった」
夕暮れは既に落ち、空は徐々に藍色から黒へと変わり始める。
病室の中にある限られた空気を掬うように飲み込み、私は決して震えも、涙も悟られないよう、秒針の音だけを頼りに淡々と自分を伝え続ける。
「私は、葵の好意を知った時……ニコチアナの花言葉を知れた時、嬉しかったん。ああ、ああ、私が肯定されていいんだ、私を、私が頑張ってきた相手に認めてもらえる、受け入れて貰えるんだって。……それは、酷く歪な心やと思う。私は、うちは……そんな事を葵に抱く相手に妹を譲りたくはない。そんなん、どの口がって思うやろけど、うちは本気でそう思う。空虚な、心に穴が空いた人間は……恋も、愛も、痛みも、優しさも、喜びも、悲しみも……どれだけ何を貰っても、相手にはきっと何も返せない。そんな奴が欲しがるんは葵の心やない、ただの、依存とかやろ……。さっき言うた分からんも、本当に何にも分からないんよ。姉妹として過ごしてきた日々があるから表面的には葵の事は知っとる、でも葵が家の外でどんな風に生きているのか、何を考えてるのか、何を思ってるのか、うちは何も知らない、何も分からない。それはきっとうちが必要とされてないと思うのが怖かったんやと思う。そうやって知らないから、なんで葵がうちの事を好きなのか……想像が出来ない」
息を一度小さく、長く吐いてから、「けど」と続ける。
きっと今までのうちなら「だから」と言葉を続けていただろう。でももう、そんな時間は必要ない。
「もう、そんな自分は嫌や……! うちは変わりたい……、きちんと、他人からの気持ちを受け取れる人間に、他人に寄り添える人間になりたい。葵の好意をまだ理解できなくても、ずっと近くに居たかった妹の気持ちを分かるようになりたい。大事なもんを決して手放さない気持ちを、持てるようになりたい。今の葵と、もう一度だけ仲ようなりたい……。だから、だから……、あと一度だけ……謝る機会をください……っ。二度も三度も失敗した私がこんな事言うなんて烏滸がましいのは分かってる、けど、でも、それでも……っ! もう一度だけ、葵と話す機会をください……」
……反応はない。聞こえているかも分からない葵に、私はただただ自分が思うことを言っただけだ。伝わるかも怪しい不正確な言葉、けれど私にとって今彼女に言えるのは、これが全てだった。時刻は既に18時を回り、夢の私は今頃葵を傷つけてしまっているのだろう。言った言葉を振り返ってもそれは自己満足、独善的な言葉だらけで、鼻をすすりながら笑ってしまう。そうだ、謝るなんて結局謝りたい人のためでしかない。赦されたいから、変わりたいから、そんな理由を葵が受け取る義理なんてない。だから――
――だから、私の右手を、葵が掴んでくれた事も、理解が出来なかった。
「ぅ……ぁ……」
思わず喉から声が漏れ、涙が零れそうになるのを歯を食いしばり堪える。
――理解できないなら、知るって決めたんだ、私は。
私は葵の右手を両手で強く握りしめながら、暗闇の中祈るように目を閉じ、その両手へと額をつける。
――もう一度、葵とやり直せますように……。
それは自暴自棄でも何でも無い、私としての確かな願いだった。
◇
一瞬の浮遊感のあと、背中に柔らかな感触を感じる。前後不覚の中、まず真っ先に確認したのは手の感覚だった。右手、左手と動かすが、そこに感じるのは自分の手のひらと指の感触のみで、葵の手はどこにも存在しなかった。目を開け周囲を確認しようとするが、やはり開くことはまず叶わない。
――夢見とらんのにな……。
息をすることすら正直怪しい身体の強張りに少し焦りそうになるも、私はいつも通り自分に言い聞かせるように大丈夫、大丈夫と心で唱えつつ、小さく、少しずつ呼吸をする。それからゆっくりと、目に力を入れないようにしながら開き、ようやく身体の自由が効くようになり始めた。
暗闇の中、横になっていた身体を起こすと、そこはやはりベッドの上で、周囲には見慣れた色のカーテンや机、鏡台やぬいぐるみなどがあり、葵の部屋だというのが理解できた。けれど頭の位置が少し上だったからだろうか、本来真っ先に確認出来るはずのものが私には見えていなかった。
「おはよう、お姉ちゃん」
「……っ」
すぐ傍、ベッドの枕元側で床へ座り込みながら、腕を枕にし顔を横に乗せながら葵はこちらを眺めていた。窓側へ丸まって横になった状態から身体を起こしたからだろう、葵が居ることに全く気付けず、声を掛けられた瞬間心臓が飛び出る思いだった。
「それとも夢に入ったんだから、おやすみだったかな」
「……あお、い」
「なんでまた来たの?」
優しげな笑みを見せているが、目は笑っていない。落ち着いた声の中にも、明確な怒りが滲んでいるのだけは分かる。
なんで、その言葉を考えそうになるが頭を振るう。今の私が言葉を考えれば一瞬でそれを否定し始めるのは分かっている。そうなれば私は葵に何も言えなくなることも。胸に締め付けられるような痛みを感じつつも、恐る恐る葵と向き合う。
「…………」
できない。
声が出ない。身体も金縛りの時のように禄に動かせず、視界がぐらつく。
怖い、怖い、怖い。あれだけ勇気を振り絞って来たはずのスタートライン、葵との会話の場。それが、怖くて仕方なかった。どうして、どうしてと幾ら考えても理由は分からない。けれど私は、恐怖のあまり葵の方を向くことも出来ず、彼女に背を向けたまま膝を抱えこんでしまった。
「……ごめん、なさい」
――自分は、こんなにも弱かったのか。
思わず、自分に失望してしまう。まだ諦めた訳じゃない、なのに、なのに身体も心も言うことを聞かない。意味の分からない恐怖だけが私の頭をおかしくさせる。
「おねえちゃん」
「…………」
葵の声、それは最も私の欲していた物のはずなのに、私は何も返せない。それどころかより一層恐怖が強くなり、膝に顔を埋め視界も耳も腕の中に埋めてしまう。
もう、消えてしまいたかった。
「……お姉ちゃん」
何かを確認するような葵の声。怖い、けれど何か少しでも返そうと身体に抵抗し、喉を低く震わせるように「……ん」、ととても小さな声とも言えない音を出す。今の私には、これが限界だった。
「……」
ふ、と背に何かが一瞬触れかけ身体が震える。なんてザマだと笑い飛ばしたくなる程に、私はもう駄目だった。あれだけ変わりたい、向き合いたい、そう強く願っていた筈なのに。
じわりと膝を濡らしはじめた時だった。ぼすん、とベッドが音を軽く立てながら揺れ、背中に強い衝撃が走る。
「お姉ちゃん」
痛む背から、今までよりも強くハッキリとした声が耳に届く。顔を上げられないから分からない、けれどそれは確かに葵の声で、ピッタリと骨が痛むくらいにくっつけた背中から、嫌でも葵の暖かさが伝わってきた。
「ねえ、憶えてる? 小さい頃の話だけど、こうやってくっつきながらお喋りしてたこと」
「……うん」
――憶えてる。私達は父と母にいつでも電話をかけて良いと教えられていたが、葵との約束で、楽しかった事だけは会った時に話そうと決めていたのだ。会える頻度はそんなに多くなかったため忘れてしまう事の方が多かったが、それでも私達はいっぱいの自分の思い出を相手へと話していた。次第に私達はそこに遊びを取り入れ、糸電話や携帯を借りて寝室と居間の距離から話したりなどするようになった。けれど遊びにも飽きは来るし、やはり直接会えてる仲で遠くというのはどこか互いに寂しく、やがて最終的に落ち着いたのは両手を繋ぎ、おでこをくっつけながらお話するというものだった。当時はよく分かっていなかったが、それをすると不思議と互いの伝えたいことがすぐ分かって面白く、何より短い決められた時間の中で、相手に正確に早く言葉を伝えられるというのは私達にとってとても嬉しかったのだ。その時と今の姿は真逆だが、それでも葵のしている事は理解できた。
「……ちゃんと、聞いたよ。お姉ちゃんの声。届いたよ、お姉ちゃんの言葉」
「……うん」
「だから、ゆっくりでいいから、ちゃんと教えて。どうして……ここに戻ってきたのか」
まだ声はハッキリと出す事はできない。けれど葵の背の暖かさと、小さくとも声が届くというのは私にほんの少しだけでも勇気を振り絞らせた。
「……うちは、葵を助けたい」
「事故は防げないよ。何度やったってそれは変わらない」
「そんなん――」「もう3回試した。だからそれは諦めて」
葵は語気を強め否定する。3回、それはつまり夢だとしても3回既に葵は……。その事実に脇腹が凍るように痛む。現実も合わせれば4度、そして今回を合わせれば5度となる死に近い経験。私としては何を言われても、はいそうですかなんて認められるわけがなかった。
「……でも、でも、分からんやん」
「境界線でひっくり返ったお姉ちゃんが何言っても説得力ない」
「葵にも、あれが見えるん……?」
「見えるよ、お姉ちゃんのもうっすらだけど。私より強い強制力がある線がお姉ちゃんにあるのに、どうやって助けるっていうの?」
葵はあの『線』のことも知っている、見えている。だからこそ葵は諦めがついているのかもしれない、でも。
「うちが……うちがなんとかするから……!」
「だから、どうやって!?」
葵の大声と同時に腕を掴まれ、視界がぐるりと反転する。
ベッドに仰向けに押し倒された私は、そこでようやく葵と面と向かい合うことになる。
「仲直りだけならまだいい、叶えてあげる。けど無理無茶な事を言わないで!」
「無茶やない!」
私の両腕を掴んでいる葵の手は酷く冷たく震えている。なんとかそれを振りほどこうとするも、私よりも細く小さい腕に一体どこにそんな力があるのかと言うぐらい葵の手は力強く、腕を動かすことも敵わない。
私の言葉や抵抗を葵は影掛かった顔で嘲笑った。
「こんなのも振り払えないのに、お姉ちゃんに何が出来るっていうの? ……ねえ、もう一個言ってあげようか。何で戻ってきてほしくなかったか」
葵はそう言うや否や、左腕の拘束を解いたと思ったら、私の服の裾からその手を中へと潜り込ませた。肌に葵の冷たい指先がゆらめくように沿わされ、思わず身震いする。
「葵」
「振った相手の前でそうやって弱みを見せるの、ほんとよくない。なんなの?こうやって私に力も負けてるのに、ばかじゃないの?」
お腹、脇腹、胸の下と、探り探りの様な手はとてもくすぐったい。私は抵抗する気も起きず、私と目を合わせられなくなった彼女の顔をただ見つめながら、声だけを掛け続ける。
「夢に来た瞬間私の事見れなくなって震えてたのだって、本当は私が怖かったからでしょう? 姉を好きな妹なんておかしいもんね、ましてやこういう事したいって考えてた人間が身近にいたんだもん、しょうがないよ」
「違う」
「違くない!! 私のこれは! おかしいの……!! お姉ちゃんと手をつなぐ時も、触れる時も心配なんかよりずっとどきどきするのも、お姉ちゃんが手を握りながら話しかけてくれた言葉も、私のために1年ずっと喋りかけつづけてくれたのも、2人だけで一緒に暮らせた時間も、お姉ちゃんとおでこをつけながらお話してた時間も、全部気が触れそうになるくらいに嬉しかったのも……!全部全部!! 私が事故に遭うのだって全部私の不注意なの!! だから……!だから……!全部、ぜんぶぜんぶ仕方ないのない事で」
「葵!!」
「……っ」
葵が私の目をやっと見る。葵の目からはぼろぼろと崩れ落ちるように涙がとめどなく溢れており、私の頬や目元に幾つも落ちてくる。血と涙は同じ成分と聞いたことがあるが、私には葵のこの涙が、自分が傷つけてしまった傷から流れ落ちている気がして、胸が強く締め付けられた。
「うちは、あんたを振ってない」
「ふった!!!」
「振っとらん」
「ふっ゙だ!!!!」
「振っとらん……言うとるやろが!」
押し問答で埒が明かないと思った私は勢いよく拘束された身体を起こし、勢いよく目の前の馬鹿に向けて、額をその頭にぶつけてみせた。
「い゙っ……!」
ガン!!と頭が音を立て一瞬目がくらむが、それでもこの胸の痛みに比べたらそんなのは小さな物だった。痛みで怯んだ葵は腕の拘束を解き、その隙きを狙って彼女の背中に両手を回し、勢いよく胸元へと抱きしめた。葵はもがいているが決して離さない。姉の力を甘く見るな。
「ええか、よく聞き、葵のその気持ちにおかしな所なんて何一つ無い。好きになった人がうちだっただけや。だからそのどきどきも、嬉しさも、悲しさも、何一つ誰にだって否定する権利のない葵だけのものや。だから……おかしいなんて、言うなや……。それに事故だって仕方のないなんて事ない。どうしようもない、しょうがない、だから葵が何度も何度も何度も死ぬような思いをするのは仕方がない? ざっけんな……っ! そんなん認められるか、そんな仕方ないなんて言葉で終わらせんな……! そんな簡単に、諦めんなや……。うちが、少しでも変えられるように、頑張るから、足掻くから、そんな悲しいこと、痛いこと、言わんでよ……」
「……っじゃあ、じゃあ! なんでそんな怖がるの、なんでそんな、不安そうな顔するの……」
葵は観念したように暴れるのをやめ、身体をぐったりとさせたため腕の力を弱めると、私の胸元に埋まるようにしながらなんでと聞く。私も最初こそ意味が分からなかったが、葵の最初の言葉で心が楽になり、身体の言うことが効くようになった事で恐怖の意味を理解できた。
「初めてやん……」
「え?」
胸元に葵の言葉が響きくすぐったい。喉はもう締まっていない、多分言える。
「喧嘩なんて、初めてやん……。だから、仲直りできなかったらって考えると、身体が竦んで……」
「……なにそれ」
私としてもそんな土壇場で……。そう思うが、けれど実際に葵の「仲直りならまだいい、叶えてあげる」たったそれだけの言葉で、本当に、本当に心が軽くなったのだ。葵にとってその言葉は軽口の様な物だったのかもしれないが、私にとって多分、一番大事だったのはやはりそこだったのだろう。一度たりともしたことのない葵との喧嘩、それが何より一番怖くて、もし仲直りできなかったら……、そんな不安が身体も心も固まらせてしまっていたのだ。
私の真剣な自分への考察をよそに、胸元では葵がふるふると小さく震えていた。どうしたのだろうと心配になり、彼女の頭を撫でようとするが、手が止まる。震えと同時に、「ふ……っくく……っ」と不快な笑い声のようなものが微かに聞こえてきたから。
「…………」
「いたっ、なんでぶつの!」
葵はようやく胸元から起き上がり、腹這いのような姿勢で反論する。
「指で小突いただけや」
「一緒だもん!」
ゔーと唸る葵。本当に軽くだったのだが、少し心配になり小突いた場所を軽く撫でる。葵は唇を軽く結びながら、私の撫でる手へそっと触れた。その手はどこか恐る恐るといった形で、私の肌に触れている時もそうだったが、まるで暗闇の中物へ触れるかのような仕草に、くすぐったさを感じる。
「……本当に、大丈夫?」
「平気や、嫌な相手を胸になんて抱きしめん」
その言葉に葵はバツの悪そうな表情を見せる。月明かりでしか見えないが、彼女の目元は赤く腫れており、泣き止んで貰えたことに少し安堵する。けれど私の言葉を聞いてだろう、その顔は全体的にピンクに染まってしまう。視線は少しだけ私の胸へと向いていた。
「小学生か」
「うぐ……」
あまり濡れたそこを見られても恥ずかしいため、空いた手で彼女の頬へと手を当て、私の顔を見るように矯正する。腫れた目元に冷えた指を軽く添えつつ、もう一度葵と視線を交わし合う。
「……好きなの」
「うん」
「ずっと、ずっと好きなの」
「うん」
「お姉ちゃんの事が、本当に、どうしようもないくらい、すきなの……」
「うん」
「何度死ぬような経験しても、会いたいくらいに、あなたが好き……」
「……うん」
「他なんて何も要らない、あげれるものなら全部あげるから、お姉ちゃんの心が欲しい」
とても、とても心が踊るような告白。全てが葵の本心で、葵の言葉だと、ちゃんと分かる。まるで夢の様な想いだった。
だからこそ、私は。
「それを、起きてから聞かせて」
貰った気持ちも、それに抱いた気持ちも、夢でなんて終わらせたくない。
「……無理だよ」
「無理やない」
3度、変わらなかったかもしれない。けれど、この4度目は違う。
「うちが、絶対傍にいる」
確かにこの夢の世界には強い強制力が存在するかもしれない。
「きっと、変わるから、変えてみせるから」
でもそれはあくまでも『琴葉茜』がそう行動すると、私自身も、そして葵からも思われているからこそ成り立つものだろう。
「だから、もっと葵の事を教えて。だからうちのこと、ちゃんと見とって」
この世界に嫌でも私が違う『琴葉茜』だと、それを『琴葉茜』はする存在だと認めさせれば良い。分からせれば良い。きっとそれで、なんとかなると今のうちは信じている。
「きっと、助けるから」
葵は不安そうな顔をしたまま、けれど目を私から逸らせないままに、結び閉じていた口を開く。
「……なにか、私がお姉ちゃんのこと、信じていいって思えるのが欲しい」
「信じていい……」
難しい問いを葵に要求される。私は少し考えた後、葵の頬に添えていた左手を離し、自分の口元へと運んだ。人差し指の背を少し深めにキスした後、それを葵の口元へと突き出す。
「……いいの?」
「言うたけど、まだ返事はできんし、うちの中で答えは分からんし、出たとしても起きてからやからな」
思わず早口になってしまう。そんな私に葵はくすりと笑いつつ、そっと濡らした唇を私の指へとつけた。ゆっくりと唇を離した後、葵は「信じてるね」と言いながら、ふわりと暗闇の中、花が咲いたように笑った。
「頑張るから」
「うん」
その妹の顔は、とてもきれいで、とても可愛らしかった。
◇
朝、変わらず規則正しい時間に鳴き始めた雀の声に起こされ、私はたった1日で終わったルーティンを再開する。
ベッドから降り、冷える空気に震えつつも先に制服へと着替えてから、髪は適当に整えた後くくるように下結びだけしてしまう。静かに部屋から出て階段を降り、洗面所で歯を磨き顔を洗ってから台所へ向かい、久々に見る桜色の手帳を取り出した。
「あ……」
最新のページを開くと、そこには見知った丁寧な文字で『頑張りなさい』とだけ書かれていた。あちらで私の身体は今どうなっているか分からない。けれどその言葉を今は信じ、こちらで成すべきことをしようと改めて思い、強く手帳を抱きしめてから、ごはん作りを始めようとした時だった。
「……なにしてんの」
「うわっ」
「うわってなに、傷つくんだけど」
声のした方向へ振り返れば、台所と廊下を繋ぐ扉の前に葵は寝間着のまま、寒そうにしながら立っていた。目元はまだ少し腫れているようで、重たそうに瞼を開けながら呆れたようにこちらを見ている。
「いや、だってまだ5時やで……?」
「それはこっちの台詞……もしかして昨日、じゃないのか。この前もこの時間に起きてたの?」
「まあ……そよ」
「うへえ」
葵にとって昨日でも私にとっては一週間前、というのは葵も理解できているらしく、すんなり彼女の頭の中で日数を変換して伝えてくれる。葵と生きている時間にズレが生じているというのは、改めて考えると少し寂しくもあるが、それでもこうして葵と普通に会話が出来るというのは、私にとってそれ以上に嬉しいことでもあった。
葵はすたすたと私の元へ近づき、手元の様子を一瞥する。
「まだ準備だけか、じゃあ先にその髪なんとかしよ」
「え、あ、うん……」
手を伸ばされ、私は思わずその手を取る。葵はその手を握りにこりとした後振り返り、私を洗面所の鏡の前へと連れていく。葵は私を椅子に座らせた後、手際よく櫛やドライヤーなどを準備していく。
「今日は結ぶだけなの?」
「……よければ昨日と一緒にしてくれると」
「いいよ、一緒ね」
昨日と一緒。その言葉を聞いた葵は特に気にする様子もなく、私の髪を解いてから丁寧に髪を梳かしていった。
バレては……ないようだった。髪は正直私にとってスイッチみたいなもので、結ぶのはやる気を出すために必要なものなのだが、起きた後私は迷ってしまったのだ、葵がやってくれるかもしれない、と。葵にとっての昨日、「明日もやってあげる」という言葉は私の頭にとても強く残っており、喧嘩をして昨日の今日にはなってしまうが、それでも、彼女にどうしてもやって貰いたいと、そう思ってしまったのだ。
鏡でバレないように葵をちらりと見ると、朗らかな表情で楽しげに私の髪を整えている。そんな葵の姿に私はそわそわしつつ、胸の奥が煩いほどに高鳴るのをただ隠しながら、この時間がずっと続いて欲しいなんて、そんなアンチノミーを抱えてしまう。この夢が続くのはいけないことだと言うのは分かっている、でも。
「うんうん、お姉ちゃんはやっぱり綺麗な髪だね」
「ありがと」
どうか、今だけは……何も考えずただ、葵との日常を感じていたかった。
葵に髪を整えポニーテールにして貰った後、私達は2人で朝ごはんとお弁当を作ることになった。
「前もやってたことでしょ」
との事だが、相変わらず葵の食はとても細かったため、朝ごはんは食パンを半分こにし合い、お弁当は昨日のお夕飯の余りなどなかったため、余った食パンで卵とシーチキンのサンドイッチを一緒に作って持っていくことになった。葵の魔法瓶にはインスタントで作ったミネストローネスープを入れ持たせた。
金木犀の甘い香りの中、昨日よりも早い時間に私達は登下校の道を歩く。葵は私に終始不安げな表情をしていたため、左手で彼女と手を繋でいる。互いにその間何も言えず、けれど微かに感じる葵の手の暖かさを頼りに、『線』の前まで来た時だった。葵が足を止め、私はそれに引っ張られる形で足を止めることになる。
「やっぱりやめよう?」
私にはそんなつもりは毛頭ない。振り返らずともわかる。葵は今にも泣きそうになりながら、私のことを引き留めようとしていた。
家を出たのは7時10分、昨日は7時半過ぎ。どちらにしても葵の普段登校していた時間は過ぎており、この線の影響を受けるのは私だけだった。けれどそれを分かっていて素直に行かせる道理が葵には無かった。家を出るのを頑なに遅らせようとする葵とまた喧嘩になりそうになるが、手を繋いで登校してもいいと言えば、葵は渋々ながら同意してくれた。しかしいざ『線』を目の前にした彼女は、後悔を滲ませながら強い力で私を引き止めてしまう。
……本当にどこにそんな力があるのか、本気で疑問に思いながらも私は振り返らず返事をする。
「大丈夫やから」
「大丈夫じゃない」
怯え震えながらも強情な声。その声に仕方なしに顔だけを横に振り返らせる。
「うちを信じて」
「……っ」
信じて、その言葉に葵は最早口を噤むしかない様だった。ずるいとは思うが、私としてはこの機会をどうしても逃したくなかった。私は葵と仲直りし、以前よりきっと深い所でお互いを想っている。だからこそ、お互いが一緒にこの時間に登校してもおかしくないと思える時間、それが今なのだ。たった1日でも逃してしまえば、葵か私のどちらかがこの時間に私が登校するのはおかしいという理屈が通ってしまう。それは間違いなくまずい、だからもう一歩も引く事なんて私には考えられなかった。
葵は観念したようで、私にぴったりくっつく。多分倒れてもすぐ支えられるようにという事だろうが、少しだけ、ほんの少しだけ気が逸れるくらいにどきどきしてしまう。
「いこ」
「……うん」
大丈夫、きっと大丈夫。そう信じ『線』を跨いだ瞬間、一瞬だけ視界がぐらつく。
――変えるんやろ、変わるんやろ、琴葉茜!!
頭の中で自分の言葉が反響する。そうだ、絶対に私は……! 歯を食いしばり、コンクリートの地面へ足をガンと蹴るように踏みしめ、倒れる事も、意識を落とすことも堪え、一瞬の強い吐き気を飲み込む。
……それ以上は、もう大丈夫だった。バクバクと動く心臓と息を整え、隣で今にも泣きそうになっていた彼女を私は、強く抱きしめた。
「お、おねえちゃん……!?」
「はは……大丈夫やったやろ……? うち、頑張れるやろ……?」
通学路という公衆の面前、けれどそんな事は私の視界に最早入らなかった。この一歩は現実じゃない、ただの夢の中での一歩でしかない。けれど、それでも私にとって、葵を取り戻すための何よりも大きい、確かな最初の一歩だった。
「必ず、助けるから……」
「うん……うん!」
滲む視界の中、足元を見れば『線』は跡形もなく消え去っていた。
その後葵に心配されつつも、周囲の目に憚られる事無く通学路を問題なく進むことができた。明日からがどうなっているか分からないが、それでも私と葵は共通認識として『線』は越えられると分かったからには、最早心配はそこまでしていなかった。
それから学校につき、それぞれ別クラスへ行こうとするが、肝心の葵が手を全く離してくれない。訳を聞けば「離れたくない……」と言う。思わず握っている手を強く握り返してしまうが、「葵」と呼び掛けようとした所で、彼女はぱっと手を振りほどき、「また休み時間にね」と笑顔で去っていってしまった。
「……阿呆」
痛む心臓を先程まで一緒に握っていた左手でひしと掴む。幾ら息を吐き捨てても落ち着かない心臓に疲れを感じつつ、自分の教室へ向かおうとした時だった。
「ああ、琴葉君。ついに改心したかい?」
「……先生」
声を掛けてきたのは担任の東北先生だった。改心と言われ一瞬首を傾げるが、そういえば夢ではそう見られていたのを思い出す。
「ええ、多分もう大丈夫です、なんで課題の方は……」
「いい心がけだ。それはそれとして課題だけど、ノート5冊に作ってきたから後で渡すよ」
「ゔぇ゙……!?」
ノート5冊、その言葉にどれだけ反感を買っていたのか今更ながら理解する。けれどノート5冊って。
「1日でそれ用意してくるとか、先生方も暇ですね」
「何、君を思えば一週間で作るのも容易かったよ」
「……へ?」
今先生はなんと言っただろうか。間違いなければ一週間と聞こえた気がするが。
しかし話を聞く前に朝礼前の鐘が鳴り始める。思ったより長く葵と足を止めてしまっていた様だ。
「えと、じゃあ後で受け取りますんで!」
「あー待ってくれ琴葉君」
気になりはするが仕方なしに会話を切り上げ、教室へ向かおうとするが呼び止められてしまう。なんだろうと振り返ると、言いづらそうに先生は「すまない、今日は何日だい?」と聞いてきた。
「今日は10月の2日ですよ。大丈夫です?」
「……そうか、いや、すまない。……いや、もう一ついいかい?」
何かに戸惑う先生。その様子はとても彼女にしては珍しい姿だった。
「……君の妹は、無事か?」
その言葉でようやく戸惑いの意味を察する。けれど少し言葉に悩んだ。
恐らく先生が言っている無事というのは生きている云々ではなく、葵が今この時点で普通に生活しているかどうかを聞いている気がする。つまりそれは……多分この東北先生は、未来の事を知っているし、私と同じように時間のズレがある。それも一週間という同じズレが。その上で迷うのは本当のことを伝えていいのかどうかだが、恐らく先生にとってここは本物の夢でしかない。それを崩しかねない情報を与え、葵の未来に影響を及ぼすことは極力控えたかった。
……私は先生に葵の気持ちを知れたという恩がある、けれど。
「ええ、ちゃんと――無事ですよ。それじゃ」
私は、人差し指を口の前に立て、無事と伝えるだけに留めて教室へ向かうことにした。彼女は、東北先生は葵の第一発見者だからこそ、聡明な彼女の力をもし頼れたら……そう思わざるを得ないが、それでも今の私には、まだ未来を大きく変える事だけは防ぎたかった。……だから、もし、もし何故かこの夢に繋がってしまった彼女が、3ヶ月後のその日も同じ先生なら……。過去の夢という答えに辿り着いた上で、私の失敗の保険になってくれる事を願い、それだけを伝える事にした。同じ色のひざ掛けを持ち、同じ苗字を持ち、同じ先生という立場を持った人。そんな人だからこそ、私は回りくどくてもこの手段を取ったことを敢えて賭けといわず、この気持ちを願いと言おう。
その日、結局私は先生に課題を渡されることはなかった。
◇
聞き覚えのある授業もそこそこに迎えた休み時間。教室の扉からコロボックルみたく縮こまりながら、恐る恐る教室の中を覗き込む妹の姿が目に入る。手を軽く振ると私の姿に気付いたようで、ぱっと表情を明るくし、教室の中へ入り私の元へ足を運びやってくる。
「やほ」
「ん。……体調はどう?」
葵が傍に来るなり聞いてきたことは体調に関してだった。私は苦笑いしつつ「全然へーき」と返す。そんな私の様子に安心したようで、葵は「よかった」と胸に手を当てながら息を吐き出す。その仕草にきれいやなと思いつつ、世間話に興じる事にした。
「葵のクラスって文化祭なにするんやっけ」
「うちはメイド喫茶やるよ、5度目だからそろそろ板についてきたかも」
その言葉に思わず吹き出しそうになる。そうか、葵にとって5度目の文化祭に今年はなるのか。
「ふっ……くく、もしかして、ふふっ、葵はメイドか?」
「そうだよ、毎回裏方が良いって言うのに変わらないし、さっきも言ったけど駄目だった」
膝蹴りを軽く喰らいながら、メイド姿になるのを防げなかった事を聞く。それは私にとって僥倖だった。
「メイド長名乗れそうやな、ぜひ見に行くわ」
「勘弁してよ……。まあ来るなら待ってるけど、シフト教えるからちゃんと来てよ」
「惚れた弱みやなあ……痛っ、ちょ、すまんて! つま先は禁止や!」
膝蹴りではなくつま先でそこそこ強めのキックが飛んできたため、流石に謝りながら彼女の蹴りを必死に止める。ローファーと言えど流石に痛い。
「ふん……。お姉ちゃんの方こそ、文化祭何するんだっけ?」
「うちらは演劇やねぇ……、いうてうちの仕事はもうほぼ終えとるんやけど」
「終えとるって、文化祭は8日でしょ? 教室使うならまだ仕事あるんじゃ……」
「他の人達はそやろけど、うちの仕事は裁縫やからな。もうデカい奴は作り終わっとるし、他の裁縫担当の子ん補佐とか、小物作りを頼まれたらする程度しかもう無いわ。後は練習でほつれた衣装を直すとかか……?」
正直既に過去の私が作り終えてしまっている物だが、この時期の事はよく覚えている。家に素材を持ち帰り、衣装を着る人の採寸通りに数週間掛けて2人分作ったというのもそうだが、なんだか嫌にクラスがギクシャクしていたからだろう。確か理由は……。
「はあ!?タカハシが足折った!?」
その叫び声で思い出す、演目の主役の1人が舞台に立てなくなった事。そして誰も代役ができず、最悪のまま文化祭を終えてしまった事を。
ざわざわとしだす教室の中、次の授業を知らせる予鈴が鳴り始めるも、クラスの騒ぎは収まらない。漏れ出す声に「代役は?」「いやもう一週間も無いのに台詞覚えれる奴とか」「私達の出し物どうなるの?」といった、憶えのある言葉達が耳に入る。
「お姉ちゃん……」
「葵」
不安そうな葵の声、これ以上ここに留まっても彼女にとって毒でしかないし、それに葵は葵で次の授業があるはずと思い、できる限り落ち着いた声で彼女の手を引き、廊下へと連れ出した。不安そうな表情をする彼女の頭を撫で、「大丈夫やから、葵は自分のクラスへ戻り」と伝える。騒ぎを聞きつけた先生方がクラスメイト達を治めようとしているが、次の授業は奇しくも文化祭の準備に割り当てられているせいで、中々騒ぎが落ち着くことはない。
葵は渋々、といった表情で戻ろうとするが、私は1つ葵へ言うことがあったのを思い出した。
「葵、放課後迎えいってええか?」
「え、う、うん……あでも、今日は……」
葵は何かを思い出し、申し訳無さそうに視線を下ろすが、私はむしろそちらの方に用があった。
「『茜屋』あるんやな? うちも行きたいんよ」
「え……」
葵はどうして、と呟きながら戸惑いの表情を見せる。「頼む」と頭を下げるが、葵は何も言わない。腰を低くしたまま彼女を見やると、ありありと嫌そうな顔をしていた。
「……葵」
「……また、放課後にね」
その言葉は肯定というよりも、先延ばしの意だった。それだけ言うと葵は走り去っていき、私の耳にはまだ喧騒の最中にあるクラスメイトの怒声混じりの声だけが響いた。
◇
放課後、剣呑な雰囲気を醸す教室を出て、私は葵の教室へと向かった。流石に一目散に教室を出れはしなかったため時間は食ったが、生徒の流れをかき分けて向かった先に、確かに葵が待っていた。
窓際で席に座りながら、ぼんやりと外を眺める儚い姿に思わず息を飲むが、すぐに教室の前まで来ていた私に気が付き、困ったような表情を見せる。私は今日の休み時間の時と同じように軽く手を振るが、こちらへやって来る葵の足取りはとても重たげだった。
私の元までやってきた葵は、深い溜め息を吐いた後「誰からそれ聞いたの」と口を開く。
「結月さんからやけど……」
正確には彼女からというよりも、依頼主であったフローレスさん達から成り行きで教えられたというのが正しいのだろうが、それでも発端は間違いなく彼女であった。葵は「うそだあ」と笑いながら言うが、私の否定を一切しない姿を見て、「まじかあ……」と片手で頭を抱えた。
「……他に何か言ったりしてた?」
「他は――、一番憶えてるのは真似事、っていうのやろか」
その言葉を言った瞬間、葵は更に深い溜め息を吐く。その様子に少し焦るが、それでも引きたくない私は葵の言葉をじっと待った。
「あー……お姉ちゃんはさ」
やがて葵の中で考えがまとまり落ち着いたのか、数分、私にとっては酷く長く感じる時間ではあったが、口を開いた。
「あか……ねやで、多分依頼をこなしたいんだよね、なんで?」
葵の声は大分荒い。それこそ昨日の夜に近い、気遣う余裕なんて一切ない声。私は喉が少し締まるのを感じつつ、それでもと言葉を返す。
「あおいのこと、まだちゃんと知りたいねん」
「私は正直お姉ちゃんに来て欲しくない、それでも?」
葵にとって『茜屋』というのは、私の想像以上に触れて欲しくない一面なのは、もう嫌でも分かっていた。それくらいに今の葵は拒絶の意思を分かりやすく出している。でも私は、それでも。
「それでも、うちは葵が何をしてたか、何を想ってたか、知りたいよ」
「……っ」
震える声、震える喉は、きちんと最後まで葵に言葉を通してくれる。よかった、言えた、そんな安堵で思わず口から息が零れ出る。葵は私の言葉を受け取ってだろうか、私の両手を掴み、暖かな手で包むように握りしめた。
「……ごめん、怖い言い方して」
「……だいじょぶ」
舌が上手く回らず舌っ足らずな言い方になり、葵は余計に強く手を握りしめる。私はもう一度「大丈夫よ」と言うが、それでも彼女は「ごめん」と謝り続ける。
「じゃあ、お詫びに手え繋いでえや。ほら、『茜屋』がどこで普段集まってるとか知らんし、結月さんもこっちやと初対面やし、案内してな」
葵にとって何が気に障ることなのかは正直分からないし、真似事というのも未だに理解していない。なのにそれを知るために、葵が隠そうとしている何かを暴くというのは、とても残酷な事で、自分本位な事だろう。……それでも、結月さんがいるにしても危険に巻き込まれる事では無かったのか知りたいというのは、過剰な接触がすぎるだろうか。
葵の弱みにつけ込むように、彼女がまだ了承していないにも関わらず連れて行ってもらえるようお願いするが、葵はそれでも安堵するように「うん」と頷く。その様子に胸が抉られるような痛みを感じた。
葵は多分、私を傷つけることを極端に怖がっている。理由は分からずとも彼女のそんな様子だけは理解できる。しかしそこに『葵の好意も理解している』が私に加わった時、葵の御しやすさが嫌でも分かってしまう。こんな下の下とも言える、対等でも何でも無い関わり方はもう金輪際したくなかった。……3ヶ月で全てが決まるという時間の猶予の無さは、それくらいに私の心の余裕まで蝕み始めている。
手を繋ぎながら進む先、それはやはり少し前に通ったルートであり、私は少しずつではあるが察しつつもあった。そんな中葵は少し持ち直したのか、「そういえば」と話を切り出す。
「文化祭の、だよね? お姉ちゃんのクラスって結局どうなったの?」
「あー……結末の方?」
葵はこくこくと2つ頷く。
「代役がほんまにおらんっていうんで、出し物ナシ」
「そんなに難しい役なの? お姉ちゃんでも?」
「やるんは確か『青い鳥』って話なんよ、その主役は兄妹の2人。んで今回怪我してでれんくなったのは兄の役をする男子でな……。流石にあと6日で台本も覚えて合わせ練習もしてーって言うんは無理って、誰も名乗りあげんかったから、おじゃんになったかな」
「……ふーん」
正直に言えば、私は主役の兄、妹ともに台本を知っている。その2人の衣装を私が作ったのもあり、流石に知っておきたかったというのもあるが、実際にその話を何度か読んだことがあったからだ。多少アレンジこそされているが話の流れである『妖精が貧しい家に住む兄妹へ、病を患った娘のために青い鳥を探して欲しいとお願いする』『兄妹は青い鳥を探すため、思い出や夜、夢や未来といった国々を渡り歩く』『どの国で見つけた鳥も国を出るとすぐ死んでしまい、やがて疲れ果てた兄妹が夢から目覚める形で家に戻ると、家にいた鳥が青い鳥に変わっており、それを妖精へと渡してあげた』……と、それは変わっておらず、そのお陰で台本も頭に残りやすかったため、今でもやろうと思えばやれるかもしれないな、とふと思った。
「葵が見たいんなら――」
「やだ」
代役に名乗りをあげようか、その言葉は葵に塞がれる。見れば今にも泣きそうな顔をしており、彼女にとってそれが本当に譲れない拒絶だと分かる。
「その役は、やだ」
「……わかった、やらんよ、大丈夫」
「……ん」
それ以上は特に何も言われず、ただ喉で返事をしながら手を強く握りしめられ、その話は終わる。まだまだ隣の子の気持ちを知るのも、理解できるようになるのも遠い。時間だけが早々に過ぎていくのを感じつつも、この手だけは離さずにいたいと、そう願わずにはいられなかった。
◇
「ねえ、やっぱりやめようよ」
今日だけで2度目の葵の言葉。朝と同じく手を繋いだ私達の前には、生徒会室と書かれた木のプレートが掲げられた、木造りで出来た重厚な扉。そしてその扉を枠で囲うように引かれた『線』が目に入った。
薄々勘付いてたが、この『線』とは私か葵のどちらかが、ここに行くことはあり得ないと思っている場所に引かれているのではないかと思う。葵もそう感じ始めているようで、彼女は今朝と違い浮かない顔をしている。
「……葵」
「~~っ! わかった、わかったから、もう!」
葵は観念しふっきれたように、朝と同じく隣へひしと近づき寄った。「ありがとう」と小さく呟きながら彼女へ頭の横をコツンとぶつけると、「ん」とだけ返事をしつつ、葵もまた擦りつくように頭を寄せた。
身体の奥が熱くなるのを感じ、私は一度息を大きく吐いてからその扉を3度ノックする。「どーぞ」と中から聞こえるのは、落ち着きのある結月さんの声とはまた違う、明るめな女性の声だった。意を決して扉を開き、中に足を踏み入れようとした瞬間、朝よりも強い、それこそ空に一瞬で飛ばされたかのような意識の消失を感じてしまう。けれど隣でそれをぐっと支える感覚に気付き、すぐに私は転びかけた足を戻すように姿勢、感覚、足の踏み出した場所を頭に強く意識させながら歯を食いしばり、『線』を堪えきった。
強い動悸を感じ額に脂汗を浮かべつつ、まだ『線』を越えただけだと頭に言い聞かせ、すぐに私は笑顔で「はじめまして、琴葉葵の姉の琴葉茜です、『茜屋』に入部?加入?したいんですけども! お願いします!」とまっすぐ大きめな声で伝える。
「は?」
「あ゙?」
返ってきたのは生徒会室とは思えない威圧の声2人分。片方は聞き覚えのある「あ?」であり、結月さんで間違いないので仕方ないとして、もう一方の「あ゙?」は結月さんよりも非常に強い敵意の様な物を感じ、思わず声のした方向を見ると、まさしく憎い相手を見るかのように、白色の髪をした少女に私は睨まれていた。アリアルさん……?と一瞬同じ色の人が浮かぶが、彼女の目は葵の髪色に似た空色であり、長いおさげは後ろ側でゆるく三つ編みされていて、制服の上に着ているジャケットも黒色であることから別人であることは間違いなかった。
「おい、葵?」
結月さんは椅子に座りつつも早々に葵へ説明を求める。彼女らしいなと思いつつも、今は私の存在について聞かれている状況のため、何とも言えない気持ちになる。
「いやー……はは、駄目かなあ……?」
「駄目っていうか、いや……お前な……」
結月さんは眉間に皺を寄せ、なんとも言えない表情で私と葵を何度も見る。腕を組み唸り始めた彼女は、暫くして「とりあえず」と口にする。
「茜、悪いが葵と3人で少し話がしたい。部屋の外に出ててくれるか? 終わったら呼ぶから」
「あ、ああ、構わんよ」
茜、と呼ばれると思っておらず、つい私も彼女に言われていた敬語なしで返してしまう。結月さんの呼び方に葵も違和感を覚えたらしく、首をギュッと回し、少し強めに開いた目で私を見るが、私は「また後でな」と言葉を返す事しかできなかった。
手を離す瞬間、葵の手が少し冷たく感じたが、結月さんや葵の事を考えるよりも先に、白髪の少女の強い睨みの方が脳裏に強く残り、私は不安を抱えたまま部屋の外で待つことになった。
◇
「私はやっぱり反対です」
部屋に再度招かれるまで1時間。声一つ聞こえなかったその部屋に防音もされてたんやなあなんて思いつつ、葵に「大丈夫になったから入って」と呼ばれ、机を挟んで配置された4つの椅子。窓際に結月さんと葵、そして扉側の席に私と白髪の子、と並び座った時だった。開口一番に目の前の彼女から反対、と告げられてしまう。
「あかり」
「むぐ……」
結月さんから諭すように出た言葉。あかり、というのは恐らく彼女の名前だろう。名前を呼ばれた彼女を見るも、やはり私にはその姿にも睨まれる覚えもなく、どうしたものかと考え込んでしまいそうになる。
「あかりちゃん、少しでいいから仲良くしてあげて欲しいんだけど……」
「むぐぐ……」
結月さんの援護をするように、葵もその言葉に続く。彼女達の中でどういう会話があったかは分からない。けれどあかりという少女は「はぁぁぁ……」と大きく息を吐きながら机に腕を伸ばし潰れた。それから私の事をやはり睨みつけながら、その手を1つ私へと上げた。
「……紲星あかり。よろしく」
「……ああ、よろしく、紲星さん」
私はその手を軽く、いや、痛いほどに強く握られた手を、同じく握り返した。
手の痛みを隠しつつ、紲星さんと私が席に座り直すと、パン!と隣から音が響き、見ると結月さんが「さて……」と言いながら手を軽く合わせていた。
「それじゃあ始めようか、依頼の時間だ」
「……おう」
相変わらず、まるで海外ドラマの幕開けのような言葉。私の返事に結月さんはふっと笑いつつ、タブレットPCを開き、全員に見えるように1件のメールを開いた。
件名は――『告白の仕方』
「依頼内容は……好きな人がいる人に告白をしたい、だそうだ。依頼主は……茜のクラスにいる鈴木つづみって女生徒らしいが、茜、聞き覚えは?」
「関わりはない、が知っとる」
結月さんは何か考え込みながら「そうか……」と呟く。
鈴木つづみというクラスメイトは今回文化祭の劇内容、台本を考えた人だった。送られた時刻が気になり確認すると、どうやら昼に送られており、今朝の騒動よりも後なのが少しひっかかった。
「茜、この依頼やるか?」
そんな私の様子に気付いたのだろうか、結月さんは依頼をこなす持ちかけをしてくる。そういえば4人でやるのではなく、確かペアでこなすのだったか。……いや、最低人数がペアなだけだったか? 少しあやふやな記憶があり、思い切って聞くことにする。
「そやね、自分のクラスの人っていうのもあるんやけど、ちょっと気になるんがあるからよければ関わりたい。これってペアでこなさないとあかんのやっけ?」
「最低条件が2人1組ってだけだ、1人でやらなきゃなんでもいいんだが……もう一件依頼が来ててな、そっちは文化祭実行委員の助っ人なんだが、それもこなすとなると茜の言う通りペアで結局やる事にはなるな」
実行委員……。私のクラスが恐らく出し物が潰れる中でそれに参加するのもおかしな話だし、やはり私のやるべきは前者の依頼になるだろう。
「ならうちは告白の方受け持つよ、ペアやけど……」
できれば結月さんから葵の話をもう少し聞き出したい。そう思い彼女に声を掛けようとするが――
「「私がやる・私がやります」」
「だそうだが、どうする?」
同時に名乗りを上げたのは葵と紲星さんだった。結月さんもこの依頼は気になってた様子だと思ったが、気のせいだったのだろうか?
「結月さんはやらんの?」
「茜ならペアは誰でもいいだろ、私が出る幕じゃない」
彼女は困ったように笑いながら、手をひらひらとさせる。謎の信頼だが、どうやら私のせいで辞退させてしまっていたらしい。ならば私は消去法で選ぶべきは1人しかいなかった。
「紲星さん、よな。お願いしてもええか?」
「いいよ、あんたの事ちゃ・ん・と、見てあげる」
「なんで!?!?」
「じゃあ決まりだな、葵は早速実行委員会に顔出しいくぞ」
「ちょ、ま、ゆかり! ばか!お姉ちゃんのばか! あかりちゃんのばか! ばかーー!!」
結月さんに葵は早々に引きずられていき、声は遠のいていく。人生で1~2度程度しか葵に言われたことのない馬鹿に少しショックを受けつつ、紲星さんの方へ私は身体を向け直した。
「じゃあ、そういう訳やから暫くよろしくな」
「よろしくは要らない、私はあんたと仲良くするもりはない」
しかし返ってきたのは結月さんよりもつっけんどんな挨拶。やはりと言うべきか、彼女に私は嫌われているらしい。しかしそれでも私のやるべきことは変わらない。
「まあ、それならそれでもええよ。依頼の邪魔をする訳やないんやろ?」
「する訳ないでしょ!? 依頼はちゃんとこなす、その上であんたが出す答えを見届けるって言ってんの!」
「そか、なら安心やわ」
「……なんなの」
紲星さんは苦虫を噛み潰したような表情を見せるが、私は素直に感情を出してくれる彼女よりも、依頼主の方が余程心配だった。2年度の私達のクラスは、ほぼクラス仲が決裂しかけていたはずで、そんな中それとは真逆を辿ろうとしているようなこの依頼は、やはり私には不自然にしか思えなかった。
「そういえば、依頼の挨拶っていついくん?」
「……はぁ。本当に葵さんに何にも聞いてないの?」
「あー……そやね、紲星さんのやり方、手順よければ教えて欲しい」
手順も何も……とげんなりとした様子で紲星さんは私を見る。結月さんのやり方を見ていた限りだが、大分システム的に依頼をこなしているように見えていたが、違うのだろうか?
「ペアを組んだ時点で依頼者には受注メールが飛ばしてある、だから少なくとも私達が動けるのは明日。みんなここに何か送ってくる時はほぼダメ元で送ってるし、返事が来るとも思ってないからそのくらい遅れてくると思う」
「ほーん……そんなもんなんか」
葵が私に見つからないようにしていたというのもあるだろうが、それでも最後に頼れる場所みたいな在り方に、どこか懐かしさを感じる。
今日は特に出来ることがないなら、結月さんの時と同じように一旦解散になるのだろうかと考えていると、ポーン♪という音とともに、机に放置されていたタブレットが光る。紲星さんは「新しい依頼来ちゃったかな……」と呟きつつタブレットを開くと、その空色の目を大きく開けた。
「どうしたん?」
「明日とかやっぱ無し。依頼の人、今から来るって」
「おお……? 了解や」
先程部屋から追い出されていた時、窓からクラスメイト達が大勢帰宅しているのが見えていたが、その子はまだ残っていたのだろうか……? そんな疑問を抱えつつ、紲星さんと共に依頼主である鈴木さんを迎える準備をすることになった。
◇
数十分後、コンコンコンと扉を叩く音が聞こえ、紲星さんが私の時と同じように「どーぞ」と伝えると、少ししてから「重……」という言葉と共に扉が開かれた。
「依頼、してきたのだけれど……あら、琴葉さん、こんにちは」
部屋に入ってきたのは薄い水色のショートカットヘアに青色のカチューシャをつけた、クラスメイトの鈴木さんだった。向こうには認知されていないと思っていたのだが、名前を呼ばれその上で挨拶された事に少し驚きつつも、返事を返す。
「ん、ども。鈴木さん……で合ってますよね」
「ええ、そうよ。あなたが依頼を受けてくれるの?」
「うちと隣の子、紲星さんと2人で受けさして貰います。その辺は大丈夫です?」
「構わないわ、紲星さんもよろしくね」
「こちらこそ。こっちじゃあれなんで、そっちのソファにどうぞ」
紲星さんの言葉の通り鈴木さんと紲星さんは部屋の角にあるソファ席へ移動する。私は電気ケトルを改めて沸かし直し、3人分の紅茶を用意してから彼女達の元へ向かった。
「……それで、依頼の事ですけど」
私が2人の机の手元に淹れた紅茶を置いた所で、早々に紲星さんは依頼の話を始める。私は砂糖瓶を持ってきてから改めて席につき、2人の話の流れを追うことにした。
「琴葉、佐藤ささらって子知ってる?」
「ん、そりゃ当然。クラスメイトにその子もおるね」
どこまで話してるのかを聞きながら、紅茶に砂糖を入れようとした時、紲星さんから切り出されたのは別の生徒の話だった。その子がどうしたのだろうと思いつつ、砂糖を2ついれた紅茶をくるくるとスプーンで回していると、鈴木さんから言葉が続けられる。
「私が好きな人、その子なの」
「ほーん……そか」
「……」
なんだろう、ティーカップの向こう側からの視線が痛い。ゆっくりと紅茶に口をつけ、まだかなり熱い液体に舌をひりつかせつつ、もう一度彼女と向き合う。
「その子が好きな人、うちのクラスのタカハシなのよ」
「ほなんや」
「…………」
軽く火傷した舌を引っ込めつつ喋ってしまい、少し呆けた言い方になってしまうがそれでもおかしな言葉ではないだろう。けれどやはり彼女の視線は再び痛く刺さる。
「……紲星さん、どこまで何喋ったん?」
「琴葉とそう変わんない。むしろ私は名前を教えてもらえなかったから今知った」
「ほん。それじゃ鈴木さんの依頼は確か『告白の仕方』やっけ。佐藤さんに告白したいんでええの?」
「そ、そうだけど……」
紲星さんの言う通りなら次は依頼の内容を確認するだけ、そう思い、続きを口にするが、やはり鈴木さんの返事は歯切れが悪い。本当に他に何も聞いていないのか流石に心配になり、隣の紲星さんの方へ視線をちらりと向けるが、手を膝下で小さく横に振るうだけだった。
「鈴木さん、気になることがあるなら言ってもらって大丈夫ですよ。別に私達も生徒会の裏でやってる事なので、おいそれと誰かに依頼内容を他言することはないので」
「気になること、というか……」
鈴木さんは少し紲星さんの言葉に悩む素振りを見せ、息を1つ小さく吐き、それから重たげな口を開く。
「女性が女性を好きなのよ? それに最悪略奪愛にだってなる。それに対してあなた達は何も思わないの?」
なるほど、そこか。と合点が行く。しかしだ。
「別に人が誰を好きになろうと自由やろ。ましてや年も同じやったら余計に。告白した結果どうなるかは知らん、けど結ばれる前の状況やったら……誰でも平等にチャンスくらい掴んでええんやない?」
そんな私の言葉に紲星さんが続ける。
「私も大体一緒かな。それにあなたが好きになった人を前者くらい信じられなくて、何が恋なの? 信じたから伝えようって今日覚悟してるんでしょ? なら私達がそれにとやかく言う必要はない。後者だって、好きな人の事ぐらい少しは把握してるんでしょ? 流石に付き合ってる相手にアタックしろは怪しいけど、それでも上手く行かなくても一生に一度ってくらいの気持ちで傷つけに行ったら? って感じ」
意外にも紲星さんと私の意見が重なる。私達の意見としてはやはり、『告白したい』に同性だろうが何も関わりは無く、『好きな人がいる』にも付き合ってる人がいる訳でないなら行くべきだ、というのが答えだった。そこには依頼にあった『告白の仕方』と書かれていたように、やり方次第で如何様にも動けるという保険が効くからだろう。鈴木さんと佐藤さんの関係性は正直まだ知らないが、それでもこれから先も、その想いを秘めたまま生きていくというのは……今の私には勧めたくない事だった。
私達の言葉に呆気を取られたのか、鈴木さんは口を開けたまま暫く動かなくなり、次第に苦々しそうな表情をしつつも、口元に作るように笑みを浮かべた。
「案外、そんなものなのかしら」
「さあ、どうでしょう。でもまずあなたは佐藤さんって人がどう考えるか知るために、ここに来たと思ったのだけど」
「そうね……。あなた達なら信頼できそうだから、改めてお願いしてもいいかしら」
鈴木さんは一度目を閉じてから、再度強く、藍色の目をこちらへと向け、まっすぐと言葉を発する。
「お願い、私に好きな子へ、ささらへ告白する機会をください。成否の在り方は問わないわ。私の勇気を出せるタイミングをあなた達に作ってもらいたいの」
震える声、けれど強い意思の籠もった声と目に応えるように、私達は声を揃えて言う。
「「任せて・任せてや」」
恐らく彼女にとって残された期日は想像以上に少ない、けれどこの依頼は個人的にも、成功へ導いてみせたかった。
◇
それから暫く3人で話し、鈴木さんから佐藤さんと高橋君、3人は幼なじみであること。佐藤さんが高橋君を好きというのは話し声で偶然知ってしまった事などを聞き取れた辺りでチャイムが鳴る。時計を見れば針が回って時刻は既に17時、それは文化祭と部活動の準備や練習などをしている人達以外は帰りなさいと促すチャイムであった。紲星さんはそれに気付くと「今日はここまでにしよ、明日具体的にどうするか私達が考えてくるから」、と話を切り上げる。
「まぁそやな、うちも夕飯の準備帰ってせな」
「そうね、時間も遅いし、明日でも構わないならお願いするわ」
「うんうん、じゃあごめん!急ぐからまた明日!放課後!」
「お、おう」
言うや否や、紲星さんは早々に生徒会室からバッグを持って飛び出していった。何か用事でもあったのだろうか? 鈴木さんもそれに続くように帰り支度を始める。
「琴葉さん、紅茶おいしかったわ。ありがとう」
「いーえ。また明日用意しときますんで」
「それならお茶請けでも用意してくるわ、また明日もよろしくね」
「ええ、じゃあまた明日……あ、ちと待って」
席を立ち上がろうとした彼女を呼び止め、私は1つ気になっていた事を確認しておくことにした。
「文化祭の、うちらのクラスの様子って今どうなっとるん?」
「ああ、あなたは結構すぐに放課後いなくなってたわね。決裂したわよ」
「決裂?」
正直私は去年の今頃、大分受け身というか無気力に近く、他人からお願いされればそれをこなしていたが、自分からは何も口出しせず淡々とその場を流していた。裁縫担当も誰もやりたがらないから私にお鉢が回ってきたに過ぎず、文化祭の出し物も2着作ってからそれ以上何も言われないな……みたいに考えていた記憶だけが残っていた。だから彼女から決裂、と言われてもピンと来ないのだが……。
「劇を続けるか別の出し物にするか、意見が割れちゃったのよ。しかもささらは劇非続行派、高橋は続行派らしくて、完全にクラスが真っ二つだわ」
どうしたものかしらね……と溜め息をつく鈴木さん。どこか他人事のような彼女の言葉が少し気になり、私はもう少し話を聞くことにする。
「鈴木さんて確か劇の流れと台本決めた筈よな、鈴木さんとしては出し物変わってもええの?」
「アレはどうせ2人が主役に選ばれるだろうと思って書いたものよ。だから中身も兄妹ではなく、血の繋がってない義理のって入れてるし。確かにボツになるのは寂しいけど、私としてはそれ以上にあの2人が頑なな理由が理解できないわ。クラスカーストトップみたいな2人が文化祭で対立すればどうなるか分かってるでしょうに。それに出来る方がやらない、出来ない方がやるって言ってるから余計にね……。こんなになるならさっさと潰れてくれた方がいいっていうのが本音だわ。……ごめんなさい、少し鬱憤が」
「お、おお、気にせんでええけど……」
確かに自分が考えていた物がぐちゃぐちゃになりかけているとしたら、うんざりするというか、もういっそ早く終わって欲しいと思うのは分からないでもなかった。それに幼なじみ同士が喧嘩をするのを見続けるというのも、想いを抱えている彼女にとって辛いものがあるのだろう。大変、という言葉で締めくくるにはあまりにアレな状況で少し同情していると、「琴葉さん」と優しげな声を彼女に掛けられる。
「おん?」
「あなたの作った衣装、とても……本当によかったわ。日程的に厳しいと思っていたのだけど、それでも私にとって、本当に唯一、それが日の目を浴びないのが惜しいと思えるくらいに、理想の出来栄えだった。……一匹狼のあなただけにメイン裁縫の担当が振られた時はどうしようか焦ったものだけど、本当にありがとう。そしてこんな事になってしまってごめんなさい」
正直意外ではあった。裁縫担当はほぼラスト、誰もやりたがらなく決まったものであったからだ。鈴木さんに佐藤さんと高橋君の採寸や作りたい衣装、どんなシーンがあるのか事前に全て台本や絵で教えてもらっていたため、私としては作っては彼女にスマホで写真を撮ったのを見せ、完成したのを渡しても終ぞ着る本人達の意思は知ること無く、鈴木さんからこれで大丈夫としか言われなかったからだ。恐らく彼女は知り合いくらいの関係性にならなければ、中々に本音を出すことを難しいとする人なのかもしれないと思いつつ、私は「ええよ、気にせんと」と伝える。
「うちがやったこと見ててくれた人がいるだけで十分や。もし本気で劇を完成させたいならまだ少し……完成はギリギリになるやろけど衣装とか小物とかやれるから、言ってな」
まあその場合は鈴木さんの依頼が少し疎かになるかもしれないが、そこは本人が自分で秤に掛けてくれるだろう。私の言葉に彼女は顔を綻ばせつつ、再度「ありがとう」と口にしてから立ち上がる。
「明日もよろしくね、茜さん……でいいかしら」
「ええよ、また明日な、つづみさん」
彼女はにこり、と私へ返すと、そのまま部屋から去っていった。
私もそろそろ帰ろうかと、立ち上がって目の前の茶器達を片付け始めた時だった、扉がバン!と音を立て唐突に開かれる。驚いて茶器を落としそうになるも、辛うじて身を固まらせたお陰で落とさずに済み安堵する。それから床の絨毯を踏みしめながらこちらへやって来た相手へ文句を言おうと顔を上げるが、私は逆にバツの悪さから目を逸らしてしまう。しかしここで相手を怒らないのも姉の名折れ、彼女に注意をする。
「……葵、扉を開ける時はノックせえ。扉の前に人がいたら危ないやろ」
「頑張ってきた妹に最初に掛ける言葉? それ」
どうやら彼女はそれにとても不服らしく、右手を腰に当てながら異論を唱える。
「家帰ったらご飯作ったるから、葵もこれ片付けんの手伝ってや」
「やだ」
どうやら私の妹は反抗期をようやく迎えたらしい。渋々ながら彼女に顔をあわせる。
「好きなもん作ったるから」
「やだ」
「……帰りにアイス買おうや」
「やだ」
「……手繋いだるから」
「やだ」
万策尽きたかもしれない。葵が怒っている理由は依頼で私が紲星さんを選んだ事なのは分かる。けれど今の彼女に私が出来ることが想像以上に思いつかなかった。
「……お疲れ様?」
「ちがう」
最初の時点で選択肢から捨てていた言葉を思い出し伝えるが、やはりそれも違うらしい。仕方なしにいっそのこと欲しいものを聞くことにする。
「なんしたら許してくれる?」
「……ん」
葵はそれ以上は何も言わない。ただ私に向かって両手を広げ、目を薄く開いていた。
「ん!」
早く、とでも言いたげにその姿を見つめていた私に葵は腕と胸を突き出す。
「ん゙!」
「わかった、わかったから」
次第に震え始めた喉からの声に、私は観念して手に持っていた茶器を机の上に置き直す。トレーでも後で持ってくるか、そんな事を思いつつ葵の方へ向き直し、1歩、2歩と近づきその身体を抱きしめた。
「おねえちゃん」
同じ背をしている彼女から、耳元へ声が囁くように届く。葵の手は昨日と同じように、不安そうに、薄く触れるように私の背を抱きしめる。それを安心させるように、私は抱きしめている背を、髪を梳きながら優しく撫でた。葵は身体を一瞬震わせた後に強張っていた肩を下ろし、再び小さく声を出す。
「おねえちゃん」
「うん」
甘く、脳が蕩けそうな声。それはきっと葵の普段と変わりはしない、私の聞こえ方が変わっただけだと分かっている。けれどどうしようもできないくらいに、その声で足元から崩れ落ちそうになってしまう自分がいた。
「すきなの」
「……うん」
はいともいいえとも返事はしない、できない。それは今の私が絶対にしてはいけないことだから。
「……だいすき」
「……ああ」
強く、強く求めるかのように葵の腕は私の身体を抱き寄せる。私は彼女と胸が近づく度、息が上がりそうになるのを必死に堪えた。心臓が耳にまで届くほど脈打ち、体温が上がりそうになるのを舌を噛み必死に留める。葵の声が1つ耳元に囁かれる度、痛みでこの感情を上書きし続ける。
――早く、終われ。
そんな祈りも遠く、たった十分にも満たないその時間は、私にとって永遠にも近い地獄と思わせるに十分な時間だった。
◇
その後、茶器を廊下の水道で軽く洗い片付け、生徒会室の鍵を締めた私達はもう夜も遅いという事で、緑色の看板をしたハンバーガーショップで食事をしてから帰路についた。
葵がハンバーガー1つ食べ切れた事にも驚いたが、お昼に作ったサンドイッチもきちんと食べきっていたというのにも驚嘆してしまった。流石に魔法瓶の中は少し残っていたが、それでも彼女の胃が少しずつでも改善し始めているのは、私にとってとても喜ばしいことであり、思わず彼女の頭を昔のように撫で回すのも仕方のないことだった。それに対し葵は、生徒会室での一件があったにも関わらず撫でられるのを気恥ずかしそうにしていたが、その様相に思わず私は笑ってしまう。葵にとって自発的に求める事とそうでない事では恥ずかしさの度合いが違うみたいだが、私には普通逆でないかと思ってしまうのだ。そんな知らない彼女の一面を見れたとあらば、その一件は苦しくも良かったと思える出来事に私の中で変わる。
これから約2ヶ月、どこか吹っ切れた葵は、私へ「好き」を何度も伝えてくるのだろう。彼女にとって長年堰き止められていた感情の防波堤は、私が穴を開けてからというもののふとした瞬間に溢れ始める。
――一緒に寝たい。
互いお風呂に入り終わり、明日の依頼に関して居間でココアを飲みながら考えてた時だった。寝巻き姿の葵からそう声を掛けられ、私はどう返事をすべきか逡巡してしまった。
私が昨日、葵へキスした指を差し出したのは、それ以上の事は絶対に出来ない、けれど拒絶する意思もないと、今の私として出来うる限りの答えだった。だからこそ今返すべきは、きっとNoだ。姉妹として前までは普通に一緒に寝ていた時期もある、けれど今彼女に沿うなら、誠実で、健全な向き合い方を目覚める日まで続けるしかあり得ない。あり得ないのに。
「……葵が寝るまででもええか?」
「……! うん!」
私は、どこまでも自分を捨てきれなかった。
冷え切った布団の中、葵を胸に抱きかかえる形で眠ることになる。息苦しくないのかと以前聞いたことがある眠り方だったが、それでも葵にとっては一番これが安心できるらしい。
私はその小さな頭を撫でながら、ただゆっくりと布団の温まりを感じていく。姉として過ごししてきた日々を思い返せば、私にはこの状況は普通の事で、何より彼女の身体の暖かさはとても心が落ち着く。今だって、そう、その筈だった。
「おねえちゃん」
「……どした?」
眠たげな、ゆったりとした葵の声。胸に響き少しくすぐったさを覚えるが、それでも私は彼女のそんな声に愛おしさを感じている。けれど。
「……ありがとう」
「……ええんよ、おやすみ」
「うん……おやすみなさい」
私は、葵が眠りについた吐息に変わった後、首を下げ彼女の額に唇を落とす。
姉としてずっとやってきた行為だったそれは、途端に胸を締め付け、苦しさが自分という輪郭を明瞭にさせ、暖かな彼女から離れようとする意思を拒もうとする。
――あと3ヶ月、あと83日、あと1992時間。
はじめは希望、奇跡のように思えた時間、残された猶予と考えていたが、それは葵を救えるという道筋を立てられつつある私には、もはや別の意味に変わりつつあった。
布団から静かに抜け出した私は、ダイニングの机の上に放置していたココアを口元へあおる。冷え切ってカカオが沈殿したココアは苦味が強く、私の気を逸らすには十分な筈なのに、それでもまだ、まだ胸が痛い。その痛みに耐えきれず、私は両腕と両膝を床につき、塞ぎ込む一歩手前の体勢になってしまう。
――認めろや、もう。
頭ではない、前方から聞こえた声に口で息をしながら顔を上げれば、すっかり向こう側まで透けきった『私』が、呆れたように見つめてくる。
――ボケが。
誰が、認めるか。この痛みの正体なんてとっくに分かってる、とっくに理解している。それでも認識する訳には、絶対にいかない。
――認めんと、進めんやろ。
――うっさい……。
『私』は私の前に膝を折り、私を見つめる。
――抱えてみせろや、それがお前の決めた事やろ。
無理やろ、そう吐き捨てたかった。それにまだ葵の事を知ることが一切出来てないに近いのに、今の私の状況は明らかにおかしいとしか思えない。
――強情やなあ……。
うっとおしい。そう手で彼女を振り払おうとするが、逆にその手を掴まれる。キッと『私』を顔を上げ睨みつけようとするが、そんな気持ちはいつの間にかすり替わった『彼女』の悲しげな表情で霧散してしまう。
『おねえちゃん』
「それは、卑怯やろ……っ」
――お前に壊れてもらっちゃ困るんよ、だから……認識しろ。お前の気持ちを。
嫌だ、嫌だ、いやだいやだいやだ。しりたくない、まだ、まだ知るのは怖い、分かりたくない、考えたくない
『お姉ちゃん』
「あ、おい」
『彼女』に暖かな手を、指を絡ませるように握られる。冷たかったはずの身体がそれを境に熱を持つ。耳は熱く、心臓は脈打ち、胸は苦しく涙が出そうなほどに痛い。なのに、それが全て、どうしようもなく愛おしくて
「ずっと、好きだよ」
言うべきじゃない、認めるべきじゃない、頭では分かっている。けれど、でも。
「あ……ぁあ……あぁ……っ! うち、も……っ……、うちも……っ」
もう、限界だった。
「うちも……っ、あおいが……! 葵がすき……っ! 好きなん……っ」
残り1992時間。それは私にとって、好きな人の好意を受け流し続ける、そんな奇跡の代償とも言える地獄の始まりだった。
◇
翌朝、私は葵のベッドで目を覚ました。冷え切った身体の内側がまだドクドクと脈打っており、震えながらも目を開くと、葵の胸元に抱きしめられる形になっており、もはや抵抗する気も起きず、ただ彼女の心音を聞き、葵が目覚めるのを待った。苦しさで変わらず涙が出そうだったが、それでも昨日の夢とも分からぬ時間よりもマシで、私は本当に彼女への気持ちを認めてしまったのだと、受け入れざるを得なかった。
葵の腕の中はとても落ち着き、少しずつではあるが身体の暖かさを取り戻していく。それと同時に涙が何故か流れ出してしまい、彼女の胸元へと少しだけ寄った。まだ雀の鳴き声は聞こえず、カーテンからも光はない。だから、だから少しだけ……諦め認めてしまった弱い心に沿うように、葵の生きている音の近くに居たかった。メトロノームのように一定のリズムを保つ音はとても安心でき、何より心の底から……本当に、愛おしいと思えた。
けれど、認めてしまった今は、それ以上の気持ちを自然とセーブ出来る自分が居た。胸の痛みはそれまでの非ではない、それでも表の自分だけは冷静になれる、そんなお腹の底が冷えるような乖離の仕方が少しずつ頭で分かり始めた。多分、これで暫くは持ちこたえられそうだと判断した私は葵のベッドから抜け出そうと……できなかった。葵の腕は私の頭を包むように抱きしめているだけで、それは抜け出そうと思えば抜けれるのだが、肝心のそこから下……腰回りが葵の脚で完全に固定されており、無理に抜け出そうとすれば彼女を起こしてしまうことは容易に想像できた。
――勘弁してくれ。
まだ外は暗い。私のいた時期からずれ秋中旬ともすれば、まだ眠ってて良い時間なのは確かだが、それでも今の私は葵に抱き締められてる事自体が毒でしかなかった。それにこの状況で再び眠るなんて到底考えることもできない。本当に、本当に勘弁して欲しい、助けて欲しい、なんでもいいから、誰か。そんな小さな祈りも虚しく、葵は軽く離れようとした私を感じてか、「んん……」と伸びをするような声を出しながら腕の力を強め、胸へと私を抱き締め直し、再びすぅすぅと規則正しい寝息を立て始める。
家族という存在は近親相姦のリスクを低下させるため、人間が本能で思春期になると家族のフェロモンを忌避しだすと言うが、それは魂を分け合った双子姉妹の私達には無効なのだろうか。私は科学者でないから正確には分からない。けれど今間違いなく言えることは、私は葵の匂いで頭がバグり始めていること。そして彼女の柔らかさを知覚し始めた辺りで罪悪感を覚え、息を殺して意識を手放せた自分を称えたい、そんな事だけだった。
再度私が目を覚ました時、ベッドに葵の姿は無かった。重たい瞼を開きつつも時計を見れば、既に5時を指し示していた。少し空け30分後、1階へと降りると洗面所でバッタリと葵と会う。
「わ、おはよ、お姉ちゃん」
「……はよ」
少し枯れた喉で返事をしたため葵に「大丈夫? 凄い声」なんて口元に指を当てながらくすりと笑われ「おん、大丈夫」と返す。
「まだ眠いなら寝てて大丈夫だよ?」
「や、平気。着替えてくるわ」
後ろ手に持ったタオルをいそいそと洗濯機へ放り込みつつ、私は自室に戻って制服へと着替えてから葵に髪のセットをお願いした。葵は変わらず手際よく、途中ヘアオイルが切れたとかで部屋に戻ったりしつつだったが、いつもより早く終わっていた。少し短くなった彼女との時間が惜しく感じつつも、それから昨日と同じようにお昼のお弁当、朝ごはんと作り、一緒に手を繋ぎながら金木犀の香る道の登校を終えた。
その日は休み時間、お昼となっても葵の姿は見えず、ただぼんやりと1日を過ごした。途中文化祭の話し合いも設けられていたが、やはり終始話も進まず、ちらほらと諦めの声も登り始めている状況になっており、気になる人達を見ても、つづみさんは我関せず、佐藤さんは妥協できそうな代替え案を出している。しかし意見はうだぐだとしてまとまらず、明日登校出来ると言われている高橋君が来るまでは、どうにも動きは変わらなさそうであった。
放課後、私は紲星さんとつづみさんの2人と話すため生徒会室へ向かう最中に葵の教室へ立ち寄ったが、葵も同じクラスメイトである結月さんの姿もなかった。実行委員会の方が忙しいのだろうか……? 少し葵と話がしたかった身としては寂しいが、今は互いにやるべきことを優先する状況なのだろうと思い、肩を落としつつも教室を後にした。
「琴葉、あんた達って文化祭でなにするの?」
「……え?」
「えじゃなくて、聞いてた?」
生徒会室でつづみさんを迎える準備をしてた時だった、ぼんやりと電気ケトルを見ていた私は紲星さんの質問を聞き逃してしまう。「すまん……」と謝りつつ、茶器を用意している彼女の言葉をもう一度聞き直す。
「全く……。昨日来たあの子の依頼、どうせもうすぐ文化祭があるでしょ? だからその最中でも打ち上げでもいいから、折をみて告白の機会が作れると思うの。だから同じクラスの琴葉ならあの子が何をするか知ってるかなって」
「ああ……爆散しかけとる」
「爆散!? は!?」
良い提案だな、と最初こそ思ったが、それは難しいだろうとも思った。あのクラスはこのままいけば間違いなく出し物はないし、そんな中打ち上げもできる筈もない。
私は軽く事情を説明し、恐らくその流れになるであろうことを紲星さんへ伝えると、彼女から「ばっか!!!!」と甲高い声で罵られる。
「阻止、阻止しなさい! というかそんな状況で告白をしたら断られる確率が馬鹿みたいに跳ね上がるに決まってるじゃん! ないないないない!! 最悪過ぎる! ない!!」
「それも……そうか」
「そうだよ!!」
彼女はひしと胸の前で両手を握り訴えかけてくる。しかし……そうか、依頼に文化祭の事が紐付けられるなら、私としても是非もない。文化祭の一件以降、校内の素行不良が目立ち始めていたのは間違いなく、それが葵の事故へ変な噂を立てていた人達とも合致する。鬱憤晴らしがそこまで糸を引く心理は分からないし、事故以降私が夢に居られるかも分からないが、それでも変えられるなら変えておきたい出来事には違いなかった。
◇
「無理だと思うけれど」
その後生徒会室にやってきたつづみさんへ紲星さんの案を伝えるが、バッサリと切り捨てられてしまう。
「そんなあっさり諦めないでも……」
紲星さんはそれに対し食い下がるが、なおも彼女の顔は険しい。
「琴葉さんにも昨日言ったけど、意見がぶつかり合っている人間が問題なのよ」
「ああ……つづみさんの好きな佐藤さんと恋敵の高橋君」
「なんか二つ名みたいねそれ……。まあその2人が間違いなくクラスカーストトップだから、やるならどっちかを味方につけて折れさせるしか道はないと思うわよ?」
そういえば昨日の帰り際そんな事を言っていた気がする。反対派は佐藤さん、継続派は高橋君だったか。しかし……。
「どっちについてもうま味が無いなあ……」
「何が?」
「えっとね、紲星さん……」
私が頭を抱えている間につづみさんが紲星さんへ、昨日私へ教えてくれた内容をそのまま伝えてくれる。紲星さんはふんふんと聞いた後、「んー」と一瞬目を瞑り考える素振りをしてから私を見る。
「代役、琴葉じゃだめなの? 自分の衣装だったら作りやすいだろうし、台本も知ってるんでしょ?」
それは私も考えた事だ。しかしそこには葵に先手を打たれている。
「すまん、妹に出ないって約束はしとるから破れん」
「なんで葵が……一体なんの劇やるの」
「メーテルリンクの青い鳥よ、アレンジはしてるけどね」
「ああ、それじゃだめだ」
紲星さんは童話の内容を知っているのか、あっさり身を引く。昨日の葵もそうだが、なぜ一瞬で駄目と言われてしまうのか、私にはどうにも理解できず、いっそのことと思い紲星さんに聞くことにする。
「なんでそんなぽんって分かんねん」
「……ふーん、分かんないんだ。あ、鈴木さんも分かんないって顔してる。だめだなあ……」
「……茜さん、なぜ私は一緒になって殴られてるのかしら?」
「うちに聞かれても……」
結月さんもそうだが、紲星さんも人の気持ちに関して頭の回転が非常に早い。恐らく彼女の中できちんとした理屈があって、私とつづみさんは同一に扱われているのだろうが、それでも理由が分からなければ、それに対し腕を組むしかこちらとしては返しようが無かった。
紲星さんはそんな私達に対し、困ったような、どこか寂しさの混じった表情をしながら「鈴木さんは役者、やるつもりはないの?」と聞いた。
「……これは兄と妹の物語よ。私じゃできないわ」
それに対しつづみさんは歯切れの悪い言葉を返す。
「そういえば主役が誰に選ばれるか分かった上で劇を決めた言うてたっけ」
「へー……ふーん……?」
私の言葉と紲星さんの視線に、つづみさんは視線を逸らす。そんな彼女に私はどこか違和感を覚えた。……そう、彼女はあくまでも物語上、役に似合ってないとしか言っていない。それもそうだ、彼女は誰よりも台本も脚本も読み込んでおり、作中の感情表現も彼女なりに知っている筈だ。それなのに彼女は自分以外なら出来ると一貫している。それは……違くないか?
「別に女性が男性の役回りをするなんて、舞台としてはむしろ普通の事なのに、それでも違うっていうの?」
「…………」
紲星さんの問いに彼女はだんまりを決め込む。
「琴葉、台本知ってるんだよね、ラストの展開って何?」
「あ、ああ、確か……」
『様々な国を渡り歩いた義理の兄妹は疲れ果て眠り、逆に2人はそれにより夢から醒める事になる。青い鳥が見つからなかった2人は悲しみ涙するが、家で共に暮らしていた1羽の白い鳥が青い鳥に変わっていることに気付く。2人は喜び、それを妖精に渡して欲しいとお願いされていた家の病弱な子へ譲り終わる』
そんな展開だった筈。それを告げると紲星さんは溜め息を吐きながらソファへ深く背をつけた。
「それで兄役は継続、妹役は非継続かあ……。あなたは諦観……」
「それが何か?」
「ハッ」
紲星さんは彼女へ鼻で笑いを返す。流石に様子がおかしいと思い声を掛けるも、それでも紲星さんは止まらなかった。
「傷つく覚悟もせずに恋して楽しい?鈴木さん」
その言葉で、部屋がシン、と静かになる。外壁がしっかりしているのだろう、外に音を出さないだけでなく、外の音も可能な限りシャットアウトされているこの場で今聞こえるのは、私の心臓の音だけだった。
少ししてからつづみさんは努めて笑顔で「意味がよく分からないわ」と返す。けれど紲星さんもそれに対し、にこにことしながら「ただ青い鳥を待つだけのお姫様ごっこは楽しいかって聞いてるんだけど?」と返した。お互い笑顔でかつ……据わった目で相手を見ている。今にも表に出ろと言いかねない2人の状況に頭の痛みを感じつつ、私は息を吐いてから紲星さんに説明を求めた。
「紲星さんはつづみさんに何を怒っとるん」
「琴葉がわかんないのもむかつくんだけど!」
「わーった、あんたの怒りはきちんと受け止める。ちゃんと知るから、教えてくれ」
彼女の先程の言葉、それは私にも少し感じるものがあったのは確かだ。多分、そこに今回紲星さんが私とペアを名乗り出た理由も含まれている気はする。だが今は依頼の方が先で、こんな喧嘩状態で依頼がきちんと終了できるとは到底思えない。けれど依頼が結月さんの時と同様、彼女達に何か隠し事があるのであれば、それも知るべきだと私は思った。でなければ正しく彼女達の願いに沿った答えを、私達では出せないだろうから。
紲星さんは少し冷えた紅茶に角砂糖を1つ入れ、混ぜることもせず一気にそれを気持ち悪そうに喉の奥へあおってから大きく息を吐き出した。
「……そいつ、鈴木は恋が上手くいかない、失敗する前提で動いてる」
「なんで」
「まず、劇の題材は鈴木が佐藤と高橋の関係を模したものを当てはめてる、なんでかってこいつは多分、自暴自棄になってるから」
「ハッタリだわ」
「じゃああんたが佐藤から高橋への好意を知ったのはいつ。答えてみなよ」
「……さぁ、忘れてしまったわ」
つづみさんの言葉に紲星さんのこめかみが震え始める。流石にこれは私でも嘘と分かるため、「つづみさん」と嗜める言い方で声を掛ける。しかし彼女は目を逸らすばかりだ。
「つづみさん、頼む。教えてくれんか?」
「こいつに何言ったって――」「紲星さん」「……」
悪いとは思うが、紲星さんの言葉を手で制す。
「つづみさん、うちはあんたに誠実でありたい。あんたの恋を打ち明ける勇気も、恋を自覚して伝えようとした気持ちも、うちは信じたいし、その気持ちがどれだけ辛くて、苦しくて、痛いのか知っているつもりやから。それがどれだけ逃げたくなる、向き合うのもしんどい想いなのか分かってるつもりやから。……つづみさんの台本や衣装の絵を見て、あんたの繊細で、色彩豊かな世界、これでも他の人よりも知ろうとした自信がある。だからこそ、その心を誰かに伝えようと決めたつづみさんに、うちは凄く、尊敬してるつもりなんよ」
私が衣装を作った時期、それはたった2週間しかなく、正直失敗を見越している様な納期にしか感じなかったから私にしか回ってこなかったのだと思う。裁縫担当は本当はもっと最初は何人かちらほら居たのを覚えている。けれど2週間と明かされた瞬間、みんなその手を下げメイン衣装担当から消え去ってしまった。その時たまたま目に入ったつづみさんの表情は、諦めきった表情で、何だかそれが無性に辛く……多分葵の色と重なったのもあるだろうが、それでも彼女に渡された本気の文字も、絵も、確かに私を突き動かすには十分だった。それこそ夢に入った最初の時期、夢の葵を調べるので手一杯の中でも、部屋にあった未完成の衣装を過去より1日時間を超過こそすれど、2日で仕上げ終えて渡せるくらいに。忘れもしなかった。
「だから、ちゃんと教えてくれん? あんたの身の回りの関係、それにつづみさん自身の事を」
この恋という気持ちがどれだけ自分を傷つけ、判断をおかしくさせてしまう物なのか、私はもう分かっている。けれど、それでも、この想いの昇華は、決して自分で踏み潰す終わらせ方をしてはいけないと思うから。
「頼む」
頭を深く下げ、お願いする。
「……あなた」
「……っだぁー! 私からも頼む。私の口が悪いのは謝る、でも本気で、琴葉はあんたに向き合おうとし続けてる。それを無碍にしないでやって欲しい、お願いだから」
隣の紲星さんも私に続いて頭を下げた。私としては他人に怒りを出せる紲星さんの方が余程きちんと向き合っていると思うのだが……。
大体数十秒ほど頭を下げただろうか、つづみさんが小さく溜め息を零してから、「言うから、頭なんて下げないで。心が痛むのよ……」と言って私達のお願いは終わった。
彼女は冷えた紅茶を1口飲んでから「……ずっと、今の関係が続くと思ってたの」と口を開く。
「ささらとタカハシ、それと私の3人で仲のいい幼なじみ。幼稚園、小学校、中学校、高校と変わらず、そのつもりだったのだけれど……。夏休み明けにクラスメイトが何人か、ささらとタカハシが2人だけで居たのを見かけたって噂しててね。別にそんなのは度々あることだったから、気にする必要はないと思ってた。でも高校になってから2人の周囲に人がよく集まるようになっていて、だからこそみんな2人の動向が凄い気になってたんでしょうね、付き合ってるだとかないだとか、そんな話が本を読んでると嫌でも耳に入ってきたわ」
人の噂も七十五日って言うけれど、私には長すぎたわ……。とつづみさんは肩を落とした。
「それまで何ら変わりない関係だった筈なのに、私は焦り始めたわ。一緒に居た2人にいつの間にか、心を置いてけぼりにされた気がして……さながら夕方の公園に取り残された子供みたいな気持ちだったわ。だからかしらね、今までずっと本ばかり見ていた顔を上げた時……どうしようもない寂しさに襲われて……ふと思ったの、これからこの孤独に自分は一生晒されるのかって。そう考えてしまったら、怖くて怖くて仕方なかった。暗闇に塞ぎ込みたくなった。でもそれ以上に、私は……もし噂が本当だった時、すぐにささらとタカハシを祝えない自分の心を酷く恨めしく思ったわ。だから2人から「出し物が劇に決まりそう」、そう教えてもらった時、今しかないと思った、これしかないと思った。私があの子達に追いつけなくてもいい、それでも私としての気持ちを返せるだけ返そうって、もし噂が本当なら、これを贈り物にあの子達に渡せたらって、そう思って何とか出し物の決まる日までに書き上げたの、描いてみせたのよ」
ぽた、ぽた、と机に幾つも雫が零れ落ちる。
「でも、どうしてかしらね。やれる限りのことを尽くしたのに、痛いの。胸の奥が張り裂けそうなほど、ずっと、痛いのよ。私の知りうる限りの言葉も、描写も、演出も、心情も、全て込めた筈なのに痛みだけが出し切れない。でも茜さんの衣装を纏った、本練習している劇を見て分かったの。私がずっと目で追いかけてた人を。寂しいなんて今まで考えたこともないような気持ちが、なんで心を占めてしまったのか」
諦めのように、私の知っている小さな……本当に小さな息を、苦しそうに、笑うように彼女は吐き出す。
「スポットライトに照らされた彼女をみて、居なくならないで欲しい、傍に居て欲しい、そんな独り善がりなこの想いを抱えてしまっていたことに、……噂をきっかけに気付いてしまった。知ってしまったの。知りたくなんて、なかったのに」
「つづみさん……」
彼女は朗らかな表情で、胸を右手で握りつぶしながら、涙を零しながらも言葉を続ける。
「他人の恋路を邪魔する人なんて、文学において死を待つだけの定め。なら私はいっそこの想いを謗られたかった、罵られたかった。そうして、想いの芽を潰してしまいたかった。だからクラスの、2人の意見が割れてる今しかないと思ったの、告白するなら今だって。絶対に振られる今しかないって――」
「紲星!!」
「……っ、たは……!」
衝撃が走り、机の上に置かれた茶器がガシャンと甲高い音を立てる。
咄嗟に右腕をつづみさんに飛び掛かろうとした隣の紲星さんの首元へ差し込んだため、辛うじて彼女の身体も腕も押し留められる。しかしそれでも、その小さな身に籠もった言葉は止まらない。
「自分の気持ちも! 人の気持ちもなんだと思ってんのよ!! 独り善がりだとか謗られたいだとか、全部ぜんぶぜんぶ全部自分の可愛さしか考えてない!! 傷つく覚悟をしないで何が恋よ! 何度も伝えて、相手の気持ちを心を変えようと、死ぬ気でやらないで何が死よ!! ふざけんな! っざけんなぁ!! あんたのその苦しみも痛みも確かにあんただけのもので、それは誰にだって否定されるものじゃない不可侵のものだけど! それでも、それでも……好きになったんだったら、相手にだってそれは思う権利くらいあるじゃん……! きちんと教えて、伝えて、その上で考えさせる時間くらい、あげなさいよ……!! 人生の半分以上を一緒に過ごしてきた幼なじみなら、それを受け止めさせる覚悟も、受け止める覚悟も、もう一度癒える時間も含めて、向き合ってよ……っ」
私の腕を強く、長袖の制服の上からでも爪痕が残りそうな程強く握りながら、紲星さんはそれだけ言うと、力が抜けたようにソファへ座り込んだ。
「簡単に――」
ふぅふぅと荒い息を整える紲星さんをよそに、つづみさんへ視線を戻すと、彼女はとても悔しげに言葉を発する。
「簡単に、言わないでよ……! 誰も彼もがあなたみたいに強い心を持ってるわけじゃない!! 私だって、私だって……っ」
2人の言葉はどこまでも、私の胸を締め付けた。
紲星さんの理想の言葉も、つづみさんの理想を捨てて自分に一番近い現実を掴もうとするのも、どちらも等しく最善であろうとしているのには変わりない。ただそれを狂わせているのはやはり時間で、長い時間この気持ちと向き合おうとした時、それはあまりにも……苦しすぎる。つづみさんにとって死という比喩は冗談でも何でも無い、本心からの思いだろう。それくらいにこの痛みは自分の心を蝕む。
……けれど。
2人とも何かしら相手の言葉に思う事があるのだろう、つづみさんも紲星さんも何かを堪えるように俯き、膝の上でぎゅっと手を握り震わせていた。
……関係が深い相手に、こんな想いを抱えるのがそもそも詰みなのだ。だってもう相手のことを本当であれば十分知り尽くして、何だって分かち合える、何だって互いを気遣える関係は出来ている。なら更にこの想いをつけたしたら、それは独占的な感情が出てきてしまうに決まってる。それを相手に受け入れて欲しいと願うのは、それまで築いてきた関係を壊しかねないものでしか無かった。
……それでも。
「それでもせめて……誠実であるべきやろ。うちらは」
例えこの痛みに屈して塞ぎ込みたくなったとしても、変わってしまう自分がいたとしても、そこだけは譲れない。
「つづみさんにとってその気持ちは今しかない、一生の中での唯一の臨界点かもしれん。でもやっぱり、それは相手にとっても同じはずやろ。どう足掻いても人はいつか変わる、考えも、気持ちも、関係性も。でもあんたにとって幼なじみって事は一切切り捨てられないように、向こうだってそれは同じなんよ。どれだけ綺麗な終わり方になっても、つづみさん、佐藤さん、高橋君の3人は約20年分の関係性を既に背負っとる。それに対して出す答えが、1人で出した考えに誘導させるってのは……自分にも、2人にも、不誠実が過ぎるやろ……」
「じゃあ……、じゃあ、どうしろっていうのよ……。私には……これ以外知らないの……、分からないのよ……」
そう、知らない、分からないから彼女はここに頼るしかなかったのだ。あくまでも1人でも既に道筋は出来ていたのに、それでもつづみさんが言葉にするのも怖い想いを、他人という私達に伝えたのもそれだ。そんな人達が結局、最後の頼みの綱を辿るようにここへ来ている。ならば私に出来ることは……。
「信じて、相手に任せてみいひん? ちいと勇気はいるけど」
最初と最後の、1歩を踏み出すための背中を後押しできる道を作るだけだ。
◇
――文化祭当日、10月9日。
私と紲星さんは隈の出来た目で、暗闇の中に当てられた光を見ていた。
終幕間際ということで、観客達は静かに固唾を呑んで光の中にいる人の言葉を待っている。1人はチルチルという兄の役を演じる、佐藤ささら。
「なんだ……僕達、ずいぶん遠くまで探しに行ったけど……青い鳥は、ここにいたんだね」
鳥籠から青い鳥を出し、それを触れるように抱き締める彼女。ミチルという妹の役を演じる、鈴木つづみはそんな彼女へ言葉を紡ぐ。
「チルチル、この子を早速病の子へ届けてあげましょう」
けれどその声にチルチルは反対する。
「どうして、ミチル? 僕達はこんなに頑張ってこの青い鳥を見つけたんだよ? それにこの鳥は元々僕達の物じゃないか!」
それに対しミチルは「いいえ」と返す。
「それでも約束したんだもの、きっと病の子のために青い鳥を見つけて見せるって。だから私は、約束を破りたくないわ」
「ミチル……」
「それにね、チルチル。あなたとたくさんの国々を回って出会えた、希望も幸せも、楽しいことも悲しいことも、苦しいことも愛おしいことも、青い鳥が居なくなっても私は決して忘れない。これから何があってもそれを思い出して、きっと前を向いて生きていけるわ」
「……っ」
「チルチル、あなたは……?」
「あぁ……僕もだよ、ミチル。きっと、きっと僕達は……大丈夫だ……! さぁ、青い鳥を彼へ渡しに行こう……!」
その言葉とともに、最後の舞台切り替えが行われる。
スポットライトと共に現れたのは、車椅子に乗った彼、高橋。
「これを僕にくれるのかい、本当に?」
「ええ、これで君の動かなくなってしまった足も、きっと元気になるさ!」
けれどその言葉に彼は俯く。
「……やっぱりそれは受け取れない。その青い鳥は君たちが探し出したものだろう? それに僕は……立ち上がるという事が怖くて、きっとできない」
そんな彼に、ミチルは……つづみさんは、「大丈夫」と笑顔で言い、彼の手へ青い鳥を持たせる。
「人は転んでも何度だって立ち上がれる。それと同じように、本当に青い鳥がまた必要になったら、一緒に探しましょう。きっと、楽しい冒険になるわ。だから……ほら」
「……ぁぁ、あぁ……、そうだな、その時はきっと……君たちを助けてみせよう……! そのために僕は……!」
彼は骨折していた足を死ぬ気の思いでリハビリし、たった一週間で震えながらも両足で立てる程度に回復してみせた。その足で、つづみさんに伸ばされた手と共に立ち上がり、3人は涙を流しながらも抱き締め合い、そこで幕を閉じた。
室内からはワッと拍手が巻き起こり、閉めの挨拶のために幕を開き始めた辺りで私達はそこから退散した。
――私が提案した事。それは劇をいっそ利用してしまおうというものだった。
はじめ提案した時は紲星さんに公私混同が過ぎないかと睨まれたが、このままではどうせ潰れる出し物だ、ならばせめてどんな形でも弔いくらいにはなるだろう。それに潰れてしまえば確実にクラスの仲だけでなく、その後の年度にまで及んで溝が出来ると言いくるめ、説得してみせた。
その翌日、足を骨折した高橋君も含め、改めてクラス内で出し物をどうするか話し合いが行われ、恐らく本来であれば何も決まることのない……決裂の日たる時間に、配役と演出変更を私は進言した。
そもそもなぜクラス内で佐藤さんと高橋君の意見がぶつからざるを得ないかと言えば、もう日数が無いのだ。10月3日たるその日から文化祭当日の10月9日、残り6日で出来ることと言えば、劇を押し通すか、解体して6日で間に合うものを準備するか。だが、劇を押し通せば配役や衣装が間に合わず、解体しても大抵浮かびそうな食事は許可が既に降りない、機材も無い、材料費も足りないと、完全に詰みの状態だった。
だから誰も代替案を出せず、ある種2人に責任を押し付けるしかない状況が見事に出来上がっていた。
しかしだからこそ、この私の無理強いに近い意見は……たった2人だけを相手にするだけで済む。
「今から誰に台本覚えさせるのよ、衣装も無いし無理でしょう?」と佐藤さん。
「……俺が言うのもなんだが、それは流石に厳しくないか?」と高橋君。
それに対し、私の出すカードは……。
「……台本と脚本を丸暗記してる人間なら、4人いるわ。そこでなら配役も演出も変えられる筈よ。……衣装は、難があるけれど」
誰も意見できなかった2人に反論したのは、つづみさんだった。
2人はまさか彼女が何か言ってくると思ってなかったのだろう、言葉を詰まらせる。最初に静まったクラスに言葉を切り出したのは継続派だった高橋君だった。
「……言ってみろ、鈴木はどうしたいんだ」
「ちょっと!私はまだ……!」「佐藤」「……っ」
「聞くだけ聞こうじゃないか。……ぶっちゃけ俺たちの言い合ってることは無駄でしかない、最悪出し物がない方がマシになりかねないのが今だ。皆本当は他のクラスの奴らと同じように面白いことやりたいはずなのに、俺たちは馬鹿みたいに代理戦争みたいのやってて……って俺のせいなんだがな! ははは! ……だから、鈴木、琴葉。頼む、何とかできるなら、教えてくれ。俺は、文化祭を、みんなの思い出をめちゃくちゃにしたくない」
それが彼の言葉であり、明確な決定打となった。
つづみさんは黒板の前に立ち、主要な配役を『チルチル:高橋 ミチル:佐藤』から『チルチル:佐藤 ミチル:鈴木 病の子(原作から追加):高橋』と書き、青い鳥を見つけて終わるだけでなく、最後に青い鳥を渡して病の子が治る演出を追加シーンにして終わると告げた。
「これなら今とほぼ、他に出る役者の子は何も変わらない。シーンを追加した分上映時間と小物は増えるから覚える事とやるべき事は増えるけど、これが私達にできる最善だと思うわ」
どよめくクラス。当然だ、本来の日程から遅れているのにも関わらず、更にやることを増やすと彼女は言っているのだ。加え主役に名乗りを上げたのは彼女自身であり、戸惑いも隠せないだろう。けれど、彼女の目は本気だった。
「無理だよ、つづみちゃん」
しかしそれに佐藤さんは異を唱える。しかし鈴木さんは「無理じゃないわ、ささら」と強かにも反論した。
「舞台セットもまだ出来てない、役者やナレーションに道具担当もまだみんな覚えきれてない所だってある、機材を動かす面々も含めてね。なのに遅れてる今に追加? 冗談がきついよ。それに衣装はどうするの? 一番人目に触れる主役がチェンジ、追加配役に至っては何も出来てない。つづみちゃんの言ってるのは夢物語でしかない」
責め立てるように言う佐藤さん。ああそうだ、これは本当に普通じゃやれない、やってられない話だ。時間の無い中、彼女は更に時間の掛かることを要求しているのだ。それが普通で、当たり前の話だ。
――けれど、つづみさんはそれに笑って返す。
「衣装は琴葉さんをメインとして裁縫担当グループを作るわ。幸いチルチルの衣装もミチルの衣装も完成はしてる。そこまでできてるならイメージを崩さないように作り直すくらい……手芸部に勤めてるんだからこなしてみせなさい。適当に選ばれた人間がそこまでこなしてるのを見てて、表現者が悔しくないわけ無いでしょう?」
ガタン!と以前、手を数人下げていた席回りから机の揺れる音が聞こえた。私は怖くて見ていないが。
「追加の衣装は琴葉さんと……隣のクラスの紲星さんを借りれたから、その2人に全力でやってもらう。勿論他の人達も、作るのも覚えるのも毎日18時のギリギリまでやってもらう。今東北先生に全員分の親御さんへ、責任持って帰しますと手紙を書いてもらってるわ。こなせば暫く彼女の課題も免除されるらしいわよ? ……代わりに性別でからかわない様、友人全員に言うようにとも言伝を預かってるわ」
一部の生徒もまたどよめき立つ。東北先生の課題、つまり複数受け持っている授業の課題が許されるのだ。中々にとんでもない公私混同だと思う。私のせいではない。
「後これは持論だけれど……。折角やるなら全力でやって、1位の賞を穫りにいった方が面白いと思うのだけど、どうかしら? ささら」
既にクラスとしてはやる気に溢れている。残りは彼女と彼と、それを慕う生徒たちだけだ。全員が、固唾を呑んで3人の様子を知ろうと見る。
「……本気? それにどうして……?」
「私はいつだって本気よ。理由は……全部これに書いたわ」
意図が読めない、そう言いたげな佐藤さんへつづみさんは、刷新した一冊の台本を彼女へ差し出す。題名は変わらず、『幸せの青い鳥』。
つづみさんは同じように台本を高橋君へも渡し、「やるかやらないか、あとは2人が決めて」と告げ、席に戻った。
2人は顔を見合わせてから席を立ち、少し考えさせて欲しいと言って台本を手に教室を出ていった。不安げ、楽しげ、皆一様に2人が戻ってくるのを見守り、そして。
「頼む、厳しい日程だと思うが……俺はこの出し物でなんとかやり遂げたい。力を貸してくれ……!」
「私からもお願いします……!出来ることなら何だってするから、意見を変えることになってごめんなさい。それでも、どうしてもこの劇をやり遂げたいの、皆の力を貸してください……!」
「「お願いします!!」」
「「「「「「おう!」」」」」」
HRの終わる間近。戻ってきた2人は全員の前で頭を腰よりも低く下げ、劇続行のお願いをした。それに対しクラスメイト達の答えは満場一致で肯定に決まっており、廊下に響き渡るほどその声は大きく2人へ届いた。
◇
「琴葉……コーヒー淹れて……」
「無理……眠い……」
「眠いから淹れろって言ってるんでしょうがぁ……」
私と紲星さんは文化祭当日までの間、一体何時間だけ眠れたのだろうか?というよりも眠ったのだろうか? 記憶が定かではないほど衣装を互いに作り続け、なんとか朝、黙って泊まり込んだ生徒会室で無事高橋君の衣装を完成させていた。見つかれば一瞬でアウトだったが、それでも登下校の時間すら全てが私達には惜しかった。幸い2日に渡って行われる文化祭、今日はこんな死屍累々だが、明日はせめて葵のメイド服を拝めると思えば僥倖ではあった。
「ほら、あんたの……まだるっこしいわね……茜の淹れた」
「ども……」
渡されたのはティーカップに淹れられたインスタントコーヒー。最早紲星さんも限界であることは察するに難い。私はコーヒーの匂いで辛うじて目を開きつつ、彼女へ気になっていることを聞いた。
「紲星さんて、なんでうちのペアに名乗り上げたんです」
「むかつくから」
「えぇ……?」
呼び名が親しみを持ったものに変わったはずが、紲星さんは悪びれもせずむかつくとシレッと言いながらコーヒーを啜った。
「今は……」
「今もむかつくし嫌い、きっとこれから先も変わらないくらいにね」
変わらない、そこまで彼女にとって私は何か根底的な部分で気に触るのか、少し悲しくなる。そんな私を鬱陶しそうに見つつ、紲星さんはソファにどかりと座ってから言葉を続ける。
「最初は葵さん絡みで気に食わなかったけど、今は個人的な意味で嫌い。茜はゆかりさんと同じくらい頭の回転が早い、けど使い方のベクトルが100在りきなんだよね」
「100?」
「普通人間は頭も身体も100%使い続けたりしない、そんなの日常とは言えないから。頭のいい人ほど1日に出来る事を綺麗じゃなくてもある程度……100じゃなくて60~70の内で割り振って、残りは余らせちゃう。だって明日も自分の人生は続くんだから」
でも茜は違う。と彼女は私を指差す。
「今回の依頼、茜は全員に80を要求した。クラスメイト、依頼者である鈴木、関係者の佐藤、高橋、そして私。その上で一番のネックだった衣装……ここに更に茜は自分だけ100を加えた。ねえ、私が手伝うって言わなかったらあんた、何をした?」
「……それでも作ったんやないかな、寝る時間はあったし――い゙だ゙!?」
そう言ったら一瞬でおでこへデコピンが飛んできた。バチン!とゴムが弾けた様な音と痛みが私に届くと同時に、「ばーーーーーか!!」と罵られる。
「茜のその生き方、しかも依頼者やクラスメイトでしかない他人に1日の100どころか自分が一週間寝ない献身? ばっかじゃないの!?」
「いや、でも」
「でもも何もない! 何でこの相談屋がペアが最低条件かわかんないかなあ!?」
「……わからん」
だって、私は、それが知りたくて、『茜屋』の意味を知りたくてここにいるんだから。
葵はきっと教えてくれない、それは2日目の拒絶で分かってる。でも、どうしても私は……知りたいのだ。他人が容易に理解できて、なのに私には理解できない理由も、意図も。それはきっと、葵をいつか傷つける、そんな恐怖が私にはあったから。
俯いた私のもとに、紲星さんは溜め息を吐きながらソファの横にやってくる。眠たく重たい頭に、彼女は「知ってあげなさい」と言いながら、私の頭を抱え、身体ごと横へ倒させた。
所謂膝枕というやつだろう。この一週間横になったら確実に意識を長時間落としかねなかったため、毎日椅子で眠っていたからか途端に眠気が来る。少しくらいコーヒーを飲んでおくべきだっただろうか。そう思いつつも、ぼやけきった視界の中、唯一聞こえた彼女の声を聞き届ける。
「……ペアの理由は、葵があんたのそういう人に尽くし過ぎるのを知ってたからよ。だからあんたの評価はマイナス1億点くらいつけてあげる」
「てきび……しい、なぁ……」
「ふん……。……代わりに私以外に褒めてもらいなさい」
代わり……今回で言えば誰になるのだろうか……? 私は閉じて暗くなった視界の中、ふわりと浮かんだ……その子の名前を口にして、意識を落とした。
「……あおい」
「うん、よく頑張ったね。お姉ちゃん」
◇
――寒い……。痛い……。
「ん……ぐ……」
寒さと痛み、そんな不快感で目覚めたが、あまりの痛みに身体の動かし方は疎か、目の開き方すら分からなくなってしまう。頭から爪先に掛け、まるで全身筋肉痛の様……とそこまで思い、先に痛みの理由を思い出した。一週間も、私はずっとミシンや裁縫といった腰を丸め座りっぱなしの作業をしており、加え眠りすぎないように布団に横にすらならず、眠る時は椅子で身体を丸めるように眠っていた。完全にそのぶり返しが来ているのは間違いなく、この過剰な寒さも不養生の結果風邪でも引いているのだろう。
「ごほっ! げ、ほっ……!」
自分に呆れ、溜め息を吐こうとするもそれは叶わず、喉の痛む咳しか出せず、しかも咳をすれば肺の伸縮で胸すらも痛み、最早私に残されているのはただ寒さにも痛さにも耐え忍び、じっとする事だけだった。
カチ、カチ、と聞き慣れた時計の音、そして無臭の横になっているベッドと枕、掛けられている毛布は、恐らく私の部屋で自分が眠っていることを、目が開けられずとも教えてくれる。なぜ生徒会室で眠ったはずの私が自室にいるかは分からないし、自分が今居る世界が夢とも現実とも判別が出来ないが、理由を考えるには頭が痛すぎるし、息をするのも苦しすぎる。
――さびしい。
こんなに酷い体調は、身体の弱かった幼少期以来だろうか。それを思い出し、心が弱音を吐き始める。
一つ体調を崩せば病院へ戻される生活。それが私の幼少期で、ひとりぼっちの日常だった。家にいればおとんは必ず私を見ていられる物書きへと変わってくれたが、それでも病院ではそうはいかない。見舞いの時刻が過ぎてしまえば私は1人で眠らなければならず、でも苦しくて、痛くて、怖くて、眠るというのは酷く辛いことだった。加え眠れば私は悪夢を必ず見る。最早救いなんてどこにもなくて、一度入院しようものなら一瞬でやつれきった私がいた。そんな私を見るおとんも、たまに葵を連れてやってくるおかんも、私には笑顔を見せていたが、ふとした瞬間に申し訳無さそうな、苦しそうな表情をしていた。
けれど私は……。
「おねえちゃん……」
……そう、葵が……おかんに連れられた、葵に会えるだけで、痛みも苦しさも寂しさも、耐えようと思えた。いつか、いつか、大好きなこの子と一緒に、朝も夜も過ごせるならって。
だから、だからどうか神様、お願いだから……。
「……おやすみなさい」
彼女を、妹を、葵を私から奪わないで……。
私にとってたった1人の……かけがえのない存在なんです。
第五章 10月11日 2度目の夢の終わり
「けほ……」
……いつの間にか意識を落としていたらしく、2度目の目覚め。
気怠さはあるものの、眠る前よりか幾分楽になった私は身体を起こし、重たい目を開いて周囲を確認した。
見知った安心できる部屋、やはりそこは私の自室であり、生徒会室などではなかった。窓の雨戸が閉められており朝か夜かは分からないが、枕の傍に置かれた時計の針は7時を指していた。日付を確認したくスマホを探そうとした辺りで、自分の衣服が寝巻きに変わっていることに気付く。下着類はつけておらず、何らかの方法で帰ってきた後に、葵が着替えさせてくれたのだろうかと考えるも、まだ痛む頭では何も整理できなかった。
「……あった」
ベッドの傍に置かれていた学生バッグを漁ると、奥の方に入ったスマホを見つける。
日付は――10月11日。……どうやら私は文化祭の9日から丸2日眠り続けたらしい。それでもまだ回復しきっていない身体に、自分がどれだけの無理をしていたのかと震えるが、それよりも、とホーム画面に表示されていた一件のメッセージをスライドさせ開く。
『10月10日 紲星あかり・結月ゆかり両名:依頼完了』
メッセンジャーアプリには端的にそう書かれていた。送り主は結月ゆかりであり、恐らくあの後私の役割を引き継いでくれたのだろう。無事に終えられた事に一先ず息を吐いた。
役割といっても、私と紲星さんに後残されていたのはつづみさんが文化祭終了後、納得できたかどうか聞くだけであり、最終日の10日……それも19時過ぎに送られているということは、彼女が納得できる形で無事に終えたのだろう。私には結末を知るよしも無いが、それでも自分が関わったことが最善で終われたのであれば是非もない。
安心し疲れがどっとくるが、身体をそのままベッドへ横たえること無く、私はスマホを置いてベッドから立ち上がった。ベッド隣の机にはペットボトルの水や薬、白湯を入れたコップが置かれており、私は多分、お礼を言うべき人がこの家にはいたから。
「葵……けほ、おはよ」
部屋を出て階段を降り、洗面所、キッチンと回ると、葵はすぐ見つかった。声を掛けると葵は目を少し大きく開けてから、肩を落としながらにこりと微笑んだ。
「おはよ、お姉ちゃん。もう起きて大丈夫なの?」
「うん。まだ怠いけど大丈夫。……葵はなにしとん?」
葵は既に7時だというのに、制服ではなく家用の普段着でエプロンを着け、キッチンに立って何か作っているようであった。
「おかゆ作ってるの。もう少しで出来るけど、食べられそ?」
「食べられると思う……いや、葵学校は?」
私のその言葉に、葵は本当に大丈夫かと言いたげな戸惑いの表情を見せる。
「文化祭の振替休日だよ、今日。明日も祝日で休み」
「……ああ、そやったっけ」
葵に言われてようやく思い出す。2年度の時は文化祭が休日2日に分けて行われていたため、祝日も合わせ2日休みが設けられていた事を。1日休みが実質消えてはいるのだが、まあ文化祭だったということもあり仕方ないことなのだろう。多分。
葵のおかゆが作り終わるのをテーブルで待とうとするが、「何か羽織ってきなよ、身体冷やしちゃう」と言われ、部屋に戻るのも面倒で居間に掛けられていた黒色の厚手パーカーを取り羽織ってから席についた。
既に作り終わりだったのか、私が椅子に座ると同時にお匙に器に入ったおかゆが目の前に置かれる。その後葵も対面に座るが、葵の前には何もない。
「葵は?」
「私はもう別で食べたから。気にせずゆっくり食べていいよ」
「そか……。じゃあ、いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
手を合わせてから、葵の作ったたまご粥を少しずつ冷ましながら食べる。2日寝込んでいただけあってか、身体の塩分はすっかり消え去り、その分薄く塩で味付けされたお粥でも十分私には濃く感じた。それに自分が意識するよりも冷え切った身体に、温かな食べ物はとても染みる。
「おいしい?」
「ん、すごく」
「そっか、よかった」
会話も一言二言に、ゆっくりとまだ痛む喉を労るように食べていると、すっ……と葵に腕を伸ばされ、髪を梳くように頭を撫でられる。お風呂に入れていない身なので少し恥ずかしく、その手から逃げるように身を捩るが、それでも葵はやめない。
「お姉ちゃん」
「……なん」
「おつかれさま。がんばったね」
その言葉に胸がじんとなり、視界が滲みそうになる。思わず私はそれが彼女にバレない様頭を下げる。
「やめてや、恥ずかしい」
「やめない」
その声は真剣だった。けれど視線を少し彼女に上げれば、そこには私へ微笑みかける姿しか見えず、それがまた恥ずかしくて、私は結局されるがままに撫でられつつ、葵の作ってくれたお粥を少しずつ、時間を掛けて食べきった。それからようやく葵が撫でる手を離してくれたのは、彼女へごちそうさまを伝え終えた時だった。
◇
「ご褒美、なんかあげようか」
「ご褒美て、そんな大袈裟な」
お腹いっぱいになり、ぼんやりと食器を洗う葵を机から眺めていると、唐突に彼女からそんな事を言われる。恐らく私が依頼をこなせた事へ引き続き言っているのだろうが、それでももう過剰なほど彼女に貰った私は、やんわりとそれを断る。
「いいじゃん、折角そんなに頑張ったんだから」
「頑張ったいうてもな……それに、そんなら葵だって同じやろ」
彼女だって私とは別ではあったが、文化祭が終わるまで……いや、終わった後も含め依頼をこなした人の1人だ。だからこそやはり、私だけがご褒美、というのにはどうにも引っかかった。
「じゃあ、私もお願いしたらご褒美くれる?」
葵は私の言葉に反応してか、流していた水道をきゅっと止め、暗に何か欲しいと言う。ひんやりとした机の上に乗せた頭で、看病したお礼にも丁度いいかと考え、彼女の欲しいものを聞くことにした。
「ええよぉ。何が欲しいん」
「…………」
返事はない。どうしたのかと思い閉じてしまっていた目を開くと、キッチンには葵の姿がない。
「葵?」
机の上から頭を離し葵を探そうとすると、机の上に出していた手が触れられる。その手の先を見れば、いつの間にか私の隣に葵がおり、彼女は椅子に座ってから真剣な目で私を見つめる。
「ど……したん?」
何か迷っている……まっすぐ私を見ているのに、震えを隠せない握った手がどこかちぐはぐで。
「わたし……」
「……うん」
大丈夫だから。そう安心させるために、彼女の手を握り返す。それでもまだ震えている手に、まだ何か葵に言ってあげるべきだろうかと迷ったが、葵は決心したように口を開いた。
「明日、デートしたい」
「うん、ええよ」
私は彼女の言葉に、即答で返す。それに呆気に取られたのか、葵は神妙な面持ちのまま「いいの……?」と言うものだから、どこかおかしくてくすくすと笑ってしまう。
「なんで笑うの……」
「いや、すまん、ふふ……もっと大きいの要求される思うたから」
それくらいに彼女の目は真剣だった。それとは裏腹になんだか可愛らしいお願いだったので、正直拍子抜けだった……そんな事を思っていると、握られている手の力が、ぎゅっと強くなる。
「……たとえば?」
「え?」
「お姉ちゃんは、私になにをお願いされると思ったの?」
にこり、と葵の口元に弧が描かれる。
「い、いや」
「……教えて?」
握られていた手に指を絡められ、空いた右手が私の頬に当てられる。
そこでようやく気付けた。葵が怒っている事に。
彼女は私に好意をちゃんと打ち明けており、私はそれをまだ受け止められないとずっと流している状態なのだ。なのに、その上で真剣に言ったことへ煽るような事をすれば、葵がこういう手段を取るのも最早必然でしかない。
……けれど、謝っても彼女を余計に傷つけるだけだ。私は正直に何を求められると思ったのかを伝えることにした。
「……キス、とか、お願いされるんかなって」
「ばか」
「……ごめん」
「……明日のご飯代、奢りね」
「わかった、ごめん」
「いいよ」
葵はそれだけ言うと作った笑みを止め、またふわりといつも私に向ける笑顔を見せる。
「お姉ちゃん」
「ん」
「好きだよ」
「……ん」
私は返事しか返せない。ただ、胸の奥で煩いほど高鳴る心臓の音をひた隠しにするのも、そろそろ限界な気がした。
自分の心に重い溜め息を吐きそうになっていると、葵は「私も言ったんだから、お姉ちゃんもご褒美言いなよ」と口にする。困ったように笑っていると、「なんでもいいんだよ」とも付け足され、思わず彼女の唇に一瞬視線が行ってしまった事を、私は強く恥じる。自分の浅ましさに、泣きたくなった。
「……オムライス、食べたいな」
「オムライス?」
自分の本心を蹴飛ばし、せめてと上書きするように、ふと浮かんだ願いを口にした。
「ほら、メイドの葵拝めんかったし、せめて……な」
「ふふ、なにそれ。じゃあ明日の夜はオムライスにしよっか」
「ハートマークと呪文付きでな」
「そういうサービスは無かった……あ、私にもやってくれるならいいよ」
「主人がおらんのよなあ」
「未亡人メイドだね」
「なんやそれ」
そんな葵と交わす、他愛もない話も明日の話もとても楽しく、あっという間に時間は過ぎていく。胸の奥はまだ痛む。けれどもう少しだけなら……きっと耐えられる気がした。
◇
翌日、体調が無事戻った私は、昨日寝る前に葵と約束した通り、一緒の時間に一緒のベッドで起きた。葵に聞かされたデートの内容は朝から決まっており、その綿密さにデートというよりか、寧ろ「1日をどう私と過ごすか」みたいな感じがした。
葵と一緒に起き、葵に髪を整えてもらい、私も葵の髪を整え、一緒に朝ごはんを食べてから、何を着ていくかは別々に選び、お化粧も個別にしてからお互いの姿を見せ合った。
葵は彼女のトレンドカラーである青を基調に、青と白のボーダートップスへ水色のリネン生地でできたロングカーディガンを羽織り、ゆったりとした中にデニムのハイウェストなダブルボタンのショートパンツを履いて、秋らしいスポーティーなコーディネートで合わせてきた。
私と言えばそれと真逆で、黒の長袖シャツに、薄くピンクのラインが入ったブラウンのVネックニットを合わせ、下はロングめの白いプリーツスカートと、全体的に落ち着いた格好になっており、少しもやもやとしてしまう。
「うち、ちょっと替えてこよかな……」
「なんで!!」
葵は理解できない! と言いたげに全力で私の両手を掴みながら、それを拒否する。
「凄い可愛い、似合ってるよ。本当に、本当に可愛い」
「ん、ん……でも、もうちょっと動きやすい格好の方が、ええかなって……」
葵の言葉に頭がくらくらとしそうになる。けれどやはり彼女へ渡すご褒美がデートなのだとしたら、どちらかと言えば私は葵の様な格好で、彼女をリードする立場にある気がするのだ。この服装も葵に喜んでもらえるかな……と選んだものではあるが……。
「……お姉ちゃんがデートするならって、自分で選んでくれたのがそれなんだよね?」
「そ、やけど……」
葵は手を掴んだまま、まっすぐ私の目を見てくる。普段と違い、ナチュラルメイクではあるが私のために更に可愛くなった顔で、私を見つめる。もはや苦しすぎて泣きそうで、早くなにか言うなら言って欲しい。そう強く思いつつその目を見つめ返していると、ふわりと一段と可愛い笑顔で「なら私はそれがいい、それじゃないとやだ」なんて彼女は言った。
「わ、かった」
真っ白になった頭で返せる言葉は、それが限界だった。
ただ、私としてもやはり意地があった。家を出る際、葵が紺のローファーを履いてるのをよそに、私は桜色のスニーカーを選ぶ。葵は「ふーん……?」と何か言いたげにしていたので、私は彼女より先にたったっと足音を立てながら玄関を出て、背中に手を回しながらその場でひらり、と踊るように回転してから、葵に上目遣いになるように腰を低くし「かわええやろ」と言ってみせた。
葵は一瞬呆気にとられた後、目を逸らして口元に手の甲を当てながら「……すごく、うん」と顔を赤めながら言葉にした。惚れた人間が何をされたら嬉しいか、もう分からない私ではないのだ。同時にそんなにも彼女に可愛いと思ってもらえてるのなら、やっぱりこの服装を選んでみてよかったなと強く思う。好きな人に褒められるのは、凄く嬉しいし、それが葵であるなら殊更だ。
私は「いこ!」と彼女に手を伸ばす。葵は仕方なさそうに笑いながら「うん」とその手を取ってくれた。
私はきっと今、恋に恋する女の子なんだと思う。彼女と繋ぐ手も、耳に届く声も、伝わってくる体温も、全てにどきどきしてしまう。この気持ちはきっと葵の想いに最も近く、けれど明確に遠い違いがある気がする。私はあと一つ……その違いが知りたい。葵の気持ちをこれまで以上に知りたくて分かりたい。
だから今日だけは、と後ろ髪を縛っていた紐を解いていた。今まではどれだけ葵にこの身が焦がれても、首筋にかかる冷たい空気が私を最後まで冷静にさせてくれていた。彼女にどれだけ愛を囁かれても、最後の姉としての自分が背中を押さえていた。……けれど、今日に限りそれはもうありはしない。
夢の中で願いを叶えてしまう事は、深く考えずともやってはいけないことだと思う。もしそんな事をしてしまえば、現実に戻れなくなる事だって在り得るだろう。だからこそ私の行いは忌避すべきものだ。……でも、それ以上にわたしはもう、葵の好きを流す人にはなりたくなかった。
◇
葵とのデートコース、まず一つ目の場所は水族館だった。
今日の天気は生憎の曇り空ではあったが、それも室内であれば気にすること無く落ち着いて見て回ることが出来た。
仄暗い室内で最初に私達を出迎えたのは、両手を広げても入り切らないとにかく巨大な水槽。そこには小さな魚が群れや、私の背丈くらいありそうな大きな魚に、エイや鮫など、みな一様に、蒼く澄んだ水の中を泳いでいた。
「おっきいなぁ……」
手をかざせばパクリとされてしまいそうな程に大きなピンク色の魚が、私の目の前をふわふわとしている。目立つ色をしており、他にこの子は仲間がいたりしないのだろうか、そう思いきょろきょろと見渡すも、どこにも見当たらない。その魚の目は開いているというよりかは寝起きのように半開きで、泳ぎも最低限浮くためといった感じであり、もしかしたらいつの間にかここに来てしまっただけなのかもしれない。そう考えていると、ずっと手を繋いでいた葵が私の事を察してだろうか、「お姉ちゃん、あっちに色は違うけど似た子がいるよ」と繋いでた手を上げてその先を指さした。
「おー……おー……?」
一緒にそっちへ歩いて向かうと、岩場の影にこれまた大きめの魚が、きょろきょろと忙しなく泳いでいた。色はピンクではなく紺に近く、近くにあった看板を見るとどうやら雌雄で色が違うらしい。雄はハーレムを作り行動する、とあるが、雄である青色の子の近くに他の子はいない。相変わらず、というかまるで戸惑っているように周囲をくるくるしていた。
「どうしたんだろ、この子」
そう葵が声を出したタイミングで、その子の傍に先程のピンクの子が、やはりまだふわふわとしながらやってくる。それと同時に紺の子がピンクの子に何度も身体をぶつけだし、ピンクの子はそれでやっと起きたかのように、機敏に紺の子の回りを身体を擦り付けるように泳ぎだした。紺の子は岩の中に引っ込んでしまったが、それを追いかけるようにピンクの子もまた岩の中に入っていった。
……ここに看板があるということは恐らく2匹にとって、この岩場は住処になっているのだろう。結局何をしてたんだろうと考えるが、隣で葵がクスクスと笑っていることに気付く。
「葵?」
「どこも変わんないなぁ……」
変わらない、という辺りに引っかかりを感じ「何してたんやろ」と彼女に言うが、葵は「なんだろうね」と困ったようににこにこと笑い返す。
「えー、おしえてえや、分かっとるんやろ?」
「わかんなーい」
葵に分かって私に分からない、それが寂しくて彼女にムスッとした表情を見せるが、葵はそれにもにこにこしながら「ほら、次はペンギン見に行こ。カワウソも居るって!」と誤魔化されてしまう。出来れば知りたかったが、それでも彼女のきらきらとした目よりも優先すべきものはない。私の腕に身体を寄せながらぐいぐいと引っ張る葵に、転ばないよう、彼女が誰かとぶつからないよう気をつけながら私は流される。
「しゃーないなぁ」
「ふふ、ほら、早く早く」
――うちは、葵にずっと思うことがあるん。
葵に連れられた先、そこにはたくさんのペンギンが柵の中にいた。本来のルートから外れているのだろう、少し開けたその場所は屋内と屋外、ちょうどペンギンと私達を隔てた空間になっている。厳密に言えばペンギンのいる場所も屋内なのだろうが、上を見上げればちょっとした吹き抜けが出来ており、空を見上げることが出来た。
「ほらお姉ちゃんみて!ペンギンの赤ちゃんもいるよ!」
葵の指差す先、そこには他のペンギン達と違い、白黒ではなく茶色くもふもふした毛に包まれふっくらとした、けれど一回り身体の小さなペンギンがのっそりといた。
「赤ちゃんっていうにはちと大きくないか……?」
「んん、それもそっか。子供? 幼体?」
「鳥の子やからヒナやな。オウサマペンギンて、ペンギンはみんな大層な名前やなぁ……」
「ここに居る子達、みんな王様なんだねえ……。ヒナはまだあの子だけっぽいから、あの子が継承権一位になるのかな」
「ふふ、ならその子にくっついてる2羽が、あの子にとっての本当の王様と王妃様か?」
茶色のヒナの傍には、その子を温め寄り添い合うように2羽のオウサマペンギンがいる。傍から見るとヒナの方が暖かそうではあるが、それでも仲の良さが3羽から見て取れた。
「そうみたいだよほら、あのタグ」
「おん……?」
葵の視線が少し下がる。ペンギンの解説が書かれた看板の横、そこには自作らしき看板がさらに置かれており、ペンギンの番の説明と、あのヒナと親が写真つきで名前が書かれていた。顔や体格では一見分からないが、彼らの腕には色のついたタグが巻かれており、その色は写真の彼らと同じであった。
「仲良しだねえ」
「そやなあ」
葵はその親子にどうやら釘付けのようであった。柵に手を乗せながら、じっとその3羽を眺めている。その横顔はとても嬉しそうで、私はそんな彼女の頭を撫でたくなる衝動に駆られるが、ずっと手を繋ぎ合っているためにそれは難しい。諦めてペンギンを見つつ、難儀やなぁ……と考えながらぎゅっと手の握る力を強めると、葵はその手をまたぎゅっと握り返す。
私達はあのペンギンのように寒さをお互い凌ぐように、肩を寄せ会える。けれど。
――葵は、いつまで私を好きでいてくれるんだろう。
それからまた室内に戻り、少し進んでクラゲのライトアップの場所でムツメ、ナナツメ、ヤツメといった、一杯のクラゲの中から模様の多い子を葵と探し合ったり、ネコザメと触れ合える場所で葵が鮫を恐る恐る触っている間に私は葵を撫でたり……怒られたが、そんな風に彼女と幸せな時間を過ごした。
「にゃぁ」と鳴く葵へ手を拭けるタオルを渡しながら笑っていると、館内放送で数十分後にイルカショーが始まることが予告される。確かここの水族館は屋外ではなく屋内で開催されるらしく、演出もそれを利用して凄いものとも聞いたことがあり気になっていた。
「お姉ちゃんイルカショー興味ある?」
「ん……そね、行きたいかも」
私と葵は水族館に行ったことはあるが、それは関西での話であり、こちらで葵と2人だけで水族館というのは初めてだった。葵はもしかしたら他の、それこそ友達と行ったり、既にここのイルカショーも見たことあるかもしれない。そんな独占欲のような不安が頭に浮かぶが、すぐに葵の言葉でそれは否定される。
「私もまだここの見たことないんだよね、席埋まっちゃうかもだし、もう行っちゃおっか」
「……うん」
葵は手の拭き終わった軽く塗れたタオルを自分のバックに仕舞いながら、私の手を取る。ひんやりと水で冷えたその手はしっとりとしており、私は温めるようにぎゅっとまた握る。
「よし、じゃあいこ~!」
「おー」
繋いだ手を大きく上げてから、葵は笑顔で歩き始める。私はその歩幅に合わせながら、葵の横顔を時たまみつつ「なあに?」と聞かれては「なんでも」と前を向き直す。
――葵は、いつまでこの手を握り返してくれるだろう。
ドーム型に観客席とイルカのステージが配備されたイルカショー。丸っこいよくある観客椅子に座り、私達は肩を寄せ合いながら始まったショーを見ていた。
そこは完全に屋内になっており、会話の邪魔にならない程度の音量で流れていたBGMがとまり、暗転する。何もない時間、不安になる直前でステージ用のBGMが流れ始め、中央の丸い水槽へスポットライトがあたった瞬間、勢いよく2対のイルカが飛び上がった。2対のイルカはその後着水した後も素早い息の合った動きを見せ、内周から外周へぐるぐると二重螺旋を描くように泳ぎ、最後に一直線にお互いの身体スレスレを中央で交差させるように飛び上がってから魚を与える飼育員の元へ戻っていった。
その後も屋内という事を存分に活用したショーを堪能した。秋と言うこともあり、プロジェクションマッピングで映し出された舞い散る紅葉の中、イルカたちは踊るように立ち泳ぎをする。そこから冬へとゆっくり移り変わり、白い中央のライトへイルカ達が水しぶきを当てる度、それは雪のようにキラキラと会場へと反射した。
幻想的なイルカショーが終わり、感動で思わず息をついでいると、葵が私をにこにこと楽しげに見ていることに気付く。
「どしたん?」
「んー、来てよかったなぁって」
「そやねぇ……めっちゃよかった……」
「ふふ、そうだねぇ」
葵はそれだけ言うと、私の肩へ頭を乗せる。私は興奮冷めやらぬ火照った身体にまた熱を感じつつ、手を繋いでいる逆の手で、彼女の頭を優しく撫でた。
「……疲れてもうた?」
「うん、少しはしゃぎすぎちゃったかも。お姉ちゃんは?」
「うちはまだ全然、って思ったけどお腹ぺこぺこや」
袖をめくって腕時計を見れば、時刻は既にお昼過ぎ。思ってたよりも大分私達は遊び回っていたらしい。葵はそれを見て、名残惜しそうに私から身体を離して一つ「ん~~」と伸びをしてから、「お昼食べに行こっか」と言った。
「こん中、レストランあるらしいで」
「お、奢る予定の人がそれ言っちゃう? 行っちゃう?」
「ふっふ、まかしときい」
実はこっそり未来の私からお金を持ち込んでいる。有りなのかと言われれば無しだろうが、この世界は別にタイムリープの世界でもなんでもない。ダメージは自分自身できちんと負うのだ、多分大丈夫。
そんな屁理屈を重ね、葵と私は既に人が多く出払った会場を後にした。ステージにはまだイルカが残っており、一番印象に残った2対らしき子が、キュイキュイと音を鳴らしながら仲良く水の中で踊っているのが見えた。
――葵は、いつまで私と一緒にいてくれるのだろう。
お昼過ぎという事もあり、人混みの消えたレストランで私達が案内されたのは、窓際の海が一望出来る席だった。生憎の曇り空のため、きれい……とは言いづらかったが、それでもまだ穏やかな海のため、屋内の多い水族館としては、とても晴れやかな気持ちで食事ができそうであった。
席についた私達はメニュー表を開くと、学生の身分では中々にお高い子達がパッと目に入ってくる。けれど私には逆に、葵とそういう大人な場所に来れた事が嬉しく、それにお金の心配も特にないため、心配げな葵にどっしりと「大丈夫よ」と伝えてから一緒に何を食べるか楽しく悩む。
「うちはこの水牛モッツァレラのカプレーゼと、ずわい蟹のジェノベーゼパスタにしよかな」
「おお……。じゃぁ私は……んー、鯛とサーモンのカルパッチョと、アマトリチャーナ? にする」
「ドリンクはどうする?」
「白ぶどうのスパークリングで」
「うちはトニックウォーターにしよかな」
メニューが決まった所で私は手を上げ、近くのウェイトレスに来てもらった。
「畏まりました、それでは暫くお待ちくださいませ」
「お願いします」
私と葵の注文を伝え、聞き届けたウェイトレスはメニューを下げ去っていく。葵はそんな一連の私の動きに「大人だね」なんてにこにこしながら言うものだから、なんだか格好つけたみたいで照れてしまう。
今の私にとって小さな贅沢ではあるが、それでもいつか、きちんとした大人になった時……こういう場でまた目の前に彼女が居てくれたら、それはどれだけ幸せなことなのだろう。ディナーを大人になった葵と食べる、そんな想像が胸をきゅ……と締める。
「次は、天気のいい時に来たいな」
何気なく口にしてしまった言葉。葵は一瞬驚いた表情をした後に「そうだね」と嬉しそうに言葉にした。
――なあ、葵。うちはさ。
「葵、デザートはよかったん?」
「お腹もういっぱいだよ~。これ以上食べたらお夕飯入らなくなりそう」
「おなかぽんぽんさんやなあ」
「あちょ、やだ、お腹見ないで恥ずかしいから」
「はいはい」
葵に顔を赤めながらも睨まれ、私は視線を前に戻す。
レストランを出てお手洗いも済ませた私達は、館内地図を眺めていた。水族館の中はほぼもう周り終わったようで、興味のあった所をもう一度見に行くのかと考えていると、葵は「こっちみたい」と繋いだ手を引いていく。どこへ連れて行ってくれるんだろうと思っていると、連れて行かれた先は水族館から直通で繋がった、また別の施設だった。
映画館の様なロビーで葵は繋いだ手を離し、ピッピッと電子券売機でチケット購入をし、私に1枚を渡してくれた。
「プラネタリウム?」
「お姉ちゃん星とか興味ある?」
「そりゃまあ、結構好きよ」
そう返事をすると葵は「よかったぁ」と胸を撫で下ろしながら笑顔になる。
「大体90分かな、寝そべられるソファで星の解説を聞いてくんだ。勿論星を見ながら、どう?」
「それは……めっちゃ楽しそうやね」
「ふふ、でしょ!」
葵は自身満々に両手を腰にあて、満足気に言う。チケットをみるとどうやらドリンクつきらしく、本当に映画感覚で見聞きできるものらしい。未だ経験したことがない体験にわくわくしないという方が無理というものだった。
お互いに受付でチケットを見せてから、選択式のドリンクで一緒にアイスティーを貰い、3番目のベガと名付けられた館に入る。中は斜めかつドーム型に配置されたソファがあり、上を見上げるとそこには円盤型のスクリーンが大きくあった。感嘆しながらもチケットに書かれた座席へ向かうと、そこは2~3人程度が寝そべれそうな大きなソファがあった。どうやら横のスイッチで頭部や足元を上下させられるらしい。
「すごいな……」
「ほらお姉ちゃん、早く早く」
葵は先に靴を脱ぎ、ソファへと寝そべっていた。ドリンクは?と思い見ると、ソファの横にドリンクホルダーも備え付けがあった。私も靴を脱いでから、葵の傍に寄って同じように寝そべる。そこで気付くが、周りの人が見えないようきちんと背の低い黒の区切りがあり、寝そべっててもこれなら人目が気にならないなと感心する。
お昼ごはんを食べた後のため、少し横になるというのは気になってしまうが、それでも歩きまわって疲れた身体には大分ありがたく、かつ私は少しうとうととし始めてしまう。
「お姉ちゃん」
「ん」
葵はいつも寝る時と一緒くらいに私にくっつき、それからまた離してしまっていた手と手を指を絡ませ繋いだ。何となしに顔を横に向けると、葵と目がかち合う。私はどうしたらいいか分からず、下手な笑みを彼女へ向けるが、葵はただぼんやりと私を見つめる。
「あおい?」
「今日は、ありがとね」
「……なした、唐突に」
「デート、叶えてくれたでしょ」
「ええて、それにまだしとる最中やん」
「ふふ、そうだね。でも……私、凄く、本当に凄く、幸せ」
「それは……」
――うちも。そう返していいものか迷い、言葉に詰まる。
「……よかった」
私も、葵に幸せと言いたい。彼女にここへ連れてきてくれてありがとうと言いたい。今すぐに彼女を抱き締め、またデートしようと伝えたい。それくらい葵とのデートは、楽しくて、幸せで、愛おしい時間の全てだった。
……けれど、それは好きと言うのと何が違う? 私が葵に返事をしないのは、できないのは……自分が空虚で、依存体質で、他人の心を理解できず、葵の傷つける事を知らず、葵の好意の始点が分からないから。私はそれをクリアできたか? 私は自分に葵を渡せると思えるか? ……いいや、私には出来ていない。何も、何も達成できていない。
プラネタリウムの上映がはじまり、スクリーン以外の光は何も無くなる。真っ暗な中、ぴったりと手も身体もくっつけ寄り添い合う私と葵。
私達は今、互いに同じ好きという言葉を抱えているのに、ひとえにその中身は全くと言っていいほど違う。生きている体の時間は同じなのに、経験した時間すらズレが生じている。それでも私達は、双子の姉妹として今ここにいて、同じ夢の中で同じ景色を見ている。
……私はただひたすらにその状況が怖くて仕方なかった。これからもきっと、現実に戻ったとしてもこのズレは直すこともできず、それどころか、一緒にいれば居るほどにズレは大きくなるだろう。そのズレを知らずにいるなんて、分からずにいるなんて私に耐えられる? 無理だ、無理だ無理だ無理だ。恋人になれても、他人になれても、ケンゼンな姉妹の関係になれても、それを抱える私を変えられていない。これは、葵というたった1人の存在へ抱えた欲求。
私は葵が好きだ、妹が好きだ、彼女という人が好きだ。だからこそ――
――私が葵を一生守りたい想いと、葵を傷つけかねないこの欲求が消えずにある、そんなアンチノミーに私は頭が狂いそうだった。
葵を知りたいと思うこの気持ちが怖いのに、もう、止められない。
――うちは、この夢が……
終わってほしくない(星に願ってしまった)。
◇
「あ~~っ!楽しかったぁ!」
シアターを出た葵は、固まった身体をほぐすように両腕を頭の上に伸ばし、ぐっと身体を伸ばしながらそう言葉にした。
「めっちゃよかったなぁ」
「ね!お腹も心も大満足!」
私は葵が伸びをやめたのを見てから、その手を掴み握る。
「あ、私ちょっとお手洗い行きたくて……」
「うちもいく」
「え、そ、そう?じゃあ入り口まで一緒にいこっか」
手を振り払われかけるが離さない。離させない。
お花摘みが終わり、手を洗い終わった後もまた私から彼女と手を繋ぐ。一瞬葵は首を傾げるが、何も言わなかった。
「お土産、買ってかんの?」
「ん……ん~、いいかなって」
ここでのデートコースはどうやらもう終わりのようであり、葵は来た道をそのまま戻り出口へ行こうとしていた。けれど途中の土産物屋もスルーしかけたため、その手を引き止める。「買ったげるよ」と伝えても、葵は困ったように「大丈夫」と言い、寄ろうともしない。
「どうして?」
「……私はもう十分、お姉ちゃんとのこの思い出だけでお腹いっぱいだから。これ以上の記憶が物として残っちゃうと、それは過剰かなって。また来た時には何か買いたいな」
「…………そっか」
葵は笑顔で言うが、その顔の奥の意思は固く動かせそうになかった。残念だけどしょうがない。
外へ渋々ながらも一緒に出ると、予想はついてたが曇り空は雨雲へと変わり、冷たい雨がざぁざぁと音を立てながら流れていた。カバンには折りたたみ傘を準備してある。けれど。
「雨やっぱり降ってきちゃったかぁ……お姉ちゃん傘持ってる?」
「忘れてもうた」
「ありゃあ、じゃあ……小さいけど一緒に入る?」
「うん」
雨の中、葵と私は相合い傘で歩き始める。葵の折りたたみ傘は確かに小さく、お互いが身を寄せ合ってもどちらかの肩が濡れてしまいそうだった。手を繋げない代わりに私は、彼女の腕に胸を強く押し付けるように抱きつく。
「……」
「どした?」
ニコリ、と葵を上目遣いに見る。
「……いや、どうもしないよ」
「えー?」
ウソツキ。
「そういえば、この後はどこ行くん?」
「スーパー寄って帰ろうかなって」
私はその言葉にピタリと足を止める。帰る?
目の前にはもう行きで利用した駅が近付いていた。
「わ、と。お姉ちゃん?」
「……もう少し、デートしたい」
「でも、お姉ちゃん病み上がりだし……それに、これ以上は帰るの夜になっちゃうよ」
「嫌や」
「お姉ちゃん」
「嫌や、やだ」
葵の腕をパッと離し、私は帰ろうとする葵の元から離れ戻る。
「風邪引いちゃうよ」
そう言うのに、葵は私の元に来てくれない。なんで、なんでなんでなんで。
「帰ろう? お姉ちゃん」
「かえらへん」
「……オムライス、家帰ったら作ってあげるよ?」
「いらない」
「お姉ちゃん……」
「帰らんいうとる!!」
「……」
雨がざぁざぁと煩く耳に響く。髪も服も雨水を吸い上げすっかりびしょ濡れだった。けれど葵はそれでも頑としてそこから動かない。
「……うちのこと好きなんでしょ? なら叶えてよこれくらい、うちは家にまだ、帰りとうない」
葵は傘を持ちながらじっと私を見る。
そうだ、いっそそういう所に行ったっていい。あの家に帰ったら私はまたこの気持ちを閉じられてしまう。それは嫌だ、帰りたくない。葵が手を取ってくれるならなんだってしてあげる、だから。
「……お姉ちゃん」
私へ歩いて近寄る葵。そうだ、それで私の手を――
「一緒に、帰ろう?」
「……なんで」
手に握らされたのは、葵の手でなく、傘の柄だった。
顔を上げ葵を見ると、雨に濡れ始めたその顔には悲痛そうな表情が浮かんでいた。
理解できない。葵だって本当は帰るのが嫌なんじゃないか。なのにどうしてそんな頑なに帰ろうっていうの? 分からない、分からない。
「うち、あおいがすき。それでも?」
「それでも」
葵は肩を落とし、儚げに笑う。
「帰ろう。デートは家に帰るまでがデートだから」
「……そか。わかった」
無理だ、と悟った。葵の意思は如何様にも変わらない。それ程までに彼女の声からは、絶対という気持ちが汲み取れた。
葵は駅から逸れ、タクシーを拾おうとしていたが、あまりにずぶ濡れな私達を見た運転手達は、呼び止めても尽く乗車を断り去ってしまう。
「くそっ……」
葵にしては珍しく強い悪態をつきながら地面を蹴る。そんなにも早く帰りたいのだろうか、私はそれだけの事を彼女にしてしまったと分かり、酷く胸が締め付けられる。
私は一時の熱に浮かされ、葵を夢に縛り付けようとしていた。少しでも、少しでも葵とこの夢から私は長引けばいいと、そんな気持ちを抱いただけなのに。
葵に雨が当たり、彼女を濡らしてしまう程に狂った頭に冷静さを思い出させる。私がしたのは、彼女を現実に返さず殺そうとしたんだぞと、やっと築けた葵との信頼をたった一瞬でぶち壊したんだぞと、頭が訴えかけてくる。
結局電車に乗り、葵に裏返したロングカーディガンを頭の上に被せられつつ、少し混雑した電車の中で葵に抱き寄せられながら、流石に座ることも出来ず、立って目的駅まで揺らされた。
「……ごめんなさい」
返事はない。当然だ、私のしたことは殺人未遂そのもの。葵が許す道理なんてどこにもない。けれど自分でさえ分からない、なんで私はあんな事をしてしまったのか。現実より夢が居心地のいい場所になってしまえば、それは現実に帰るという道筋を狭めてしまう事だと分かっているのに。
分かっているから好きに返さなかった、キスも許さず彼女の口に指を食ませるに留めた、なのに、私はそれら全てを無意味にしてしまった。あまつさえ私は何を考えた? 何を口にした? 体の関係なんて持ってしまえば間違いなく彼女も私も夢から出れなくなる。好きを、彼女を引き止めるだけのために使った。それは誠実なんて何もない、ただの葵への冒涜でしかなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
目的の駅についた葵は私の手を引き、もはや傘も差すこと無く私の手を引き足早に家路を歩く。私はその間ずっと項垂れ、ただただ彼女に謝り続けた。泣く権利もないのに涙も止まらない。今は別の意味で、家に帰るということが怖くて仕方なかった。
それから家に着いたのは辺りが真っ暗になった頃。葵は床が汚れるのも気にせず、玄関に入った後互いに濡れた靴下のまま、私の手を引き洗面所へ連れて行く。葵は私を見て暫く逡巡した後「脱いで」と言った。
私は葵の言葉のままに衣服を全て脱ぎ捨て待った。浴室の中から出てきた葵に一瞬眉を顰められるが、彼女に再度手を引かれ、浴室の中の椅子に座らされる。何をされるんだろうとぼんやり思っていると、頭の上から熱めの湯が被せられはじめる。
「あおい」
「黙って」
とにかく時間が惜しいのか、隣では普段であれば電子機器で湯を張る浴槽も、ざばざばと音を立てながら冷水と温水を混ぜ合わせる蛇口で入れていた。熱いシャワーを私に掛けながら、葵は濡れた服を着たままに私の身体をタオルで洗う。
「うち」
「黙れ」
その言葉に俯くと、下の流れるお湯に血が混じっているのが見える。私のそういう日はまだの筈なのに、と考えるが、血の出どころがそもそも違うと気付く。私ではなくもっと後ろ、位置的に葵から流れ出ている。シャワーの音と浴槽に流れる水音に紛れ、ぽた……ぽた……と一定のリズムで葵から何か落ちる音。タオルで私の身体を必死に早く温めようと洗い擦る度、時たま私の背中にそれが落ちる。
「……ごめんな」
「……るさい」
それが何なのか分からないほど、私はもう無知では無かった。葵は気付かれているのが分かっていても、それでも私を温める事を優先し、擦るのをやめようとしなかった。
◇
その後、葵は強引に私を湯船へと入れてから浴室から出ていく。葵の濡れた身体も気になったが、流石に引き止めるなんて事は出来ず、私は口元までお湯に身体を埋めながら目を閉じる。
――どうして、あんなことをした?
「……」
なにも、考えられない。思い出すことも怪しい私の行動。あれが自分のやってしまったことだと未だに認めきれなかった。
好意の暴走? 姉の気持ちの暴走? いいや、あれは何に紐づけても理屈が通らない。まるで本能だけで突き動かされていたような、そんな夢現な状態があの時の私だった。
ただ葵との幸せな時間が続いて欲しい、それさえ手に入るなら彼女を夢へと閉じ込めることも厭わない……そんな歪んだ考え。けれどそれは葵の拒絶によって簡単に終わり、その瞬間に私は普段の思考がぐちゃぐちゃとしつつも取り戻すことが出来た。この一連が誰にとって得かと問えば……。
――夢。
『線』に関しての影響はほぼ断ち切ったと言ってもいい。あの生徒会室以降、私は『線』の影も形も見ていないのだから。けれど断ち切った先にどんな影響があるのか、そこはまだ分かっていなかった。4度目の経験を経ている葵すら『線』を切ったらどうなるのか知らないのだ、この強制力に等しい私の言動は、彼女を夢へ突き落とす物としか最早思えない。
――でも、浮かばない訳じゃない。
そう、どれだけ原因を考えようと、私が結局やったことだと言うのからは言い逃れが出来なかった。頭がおかしくなってたとは言え、あの時間違いなく私は葵へ手を伸ばし、あまつさえ好きの言葉を口にして、利用しようとしていた。それは紛れもない事実で、私がそれを考え実行出来てしまうという真実だった。
――うちは、このまま葵の傍にいてええんか?
分からない。強制力が私にずっと影響があるのかも分からない、けれど葵の口ぶりからして、外部の影響がない限り24日の結末を変えるのは不可能なのだろう。ならば私が強制力に抗えるだけの意思を持たないといけない。
――どうやって?
湯船に反射した自分自身が何度も自分に問いかけをする。それに私は何も答えられない。私は何を言っても、葵の信頼を地に落とした人間なのだ。どれだけ取り繕っても、3度目のもう一度なんてきっと彼女は聞き届けてくれない。最早絶望でしかなかった。
……けれど。ざぁと湯船から立ち上がり、ふらつく身体に鞭を打つ。
どれだけ嫌われてもいい、私は……葵を助けると決めたんだ。好きを抱えてしまったからこそ、尚更それは曲げられない。どんな謗りを受けてもいい、私は葵と関わりが消えないように、話をしにいくと決めた。
身体を拭いてから浴室から出て、髪も乾かすのもそこそこに、葵が用意してくれた寝間着を着て明かりの付いている居間へと向かう。葵は……。
「お姉ちゃん、こっち」
「……葵」
葵は居間ではなくキッチンの方にいた。別の私服に着替え、髪もきちんと乾かした姿の葵はダイニングテーブルにオムライスを2つ用意し、席に座っていた。
私は葵の傍に近づき、「ちと話したいことが」と言うが、「待って」と葵に言葉の続きを止められてしまう。
「先にごはん、食べよ? 冷めちゃう」
「けど……」
「ね?」
「……ああ」
今の私に葵に対する拒否権なんてない、そんな事を言える立場に私は無いのだ。大人しく彼女に言われるがまま、自分の席について、オムライスを食べてしまうことにした。
「いただきます」
「……いただきます」
葵の作ってくれたオムライスはさながらレストランで出されるみたいに半熟で出来たオムレツが割られており、スプーンで差し込めば、中から湯気の立つケチャップライスが顔を出した。葵と約束のしたオムライスであったが、これを食べてしまえばもう、葵の作ったご飯が食べれなくなるかもしれないと思うと、口に運ぶ手が止まる。
葵は不安気に、けれど何も言わず私が食べるのを見守っている。冷めてしまえばそれこそ葵に悪いと思い、オムライスを口に入れ、もぐもぐと咀嚼していると、葵の目が見開かれた。
「お、お姉ちゃん?」
「……なん?」
「だいじょう、ぶ?」
大丈夫、その言葉の理由が分からない。分からないけど、返事をするために無理やり口に入れたものを喉にいれたせいだろうか、胸が痛む。葵の作ってくれたオムライスは、私好みに卵が甘く味付けされており、彼女が私のために、本当に、葵が私のために作ってくれたんだと分かるもので、おいしくて、なのに痛くて、苦しくて。
ふ……と息を吐いた瞬間、涙が口に入る。もう、無理だった。
「うち……葵のことが、すきやわ」
スプーンを皿の上に置き、その言葉を言う。不思議とすんなりと言え、安堵してしまう。
夢だとか現実だとか、姉妹だとか恋だとか、知りたいだとか分かりたいだとか、そういうの全てを放り投げたくなるくらいに、この痛みは嫌だった。でもそれ以上に、私は。
「本当に、うちが、うちが……葵のこと好きなん……!」
自分の意思じゃないタイミングで、自分の気持ちを打ち明けさせられた事が、もっと、もっと、嫌でしょうがなかった。
この苦しみも痛みも、私じゃない何かに盗られた気がして腹が立って、それを自分がどうしようもできなかった事が悔しくて。
「うちがいちばん、あおいがすきなの……っ!」
自分がどうしようもなく許せなかった。2番目に告白するしかないと言う事実を理解したくなかった。
誰にだって譲れない、この想いだけは。
「……私は、その気持ちにどう返したらいいのか、正直分からない」
葵は苦しげに、視線を下げつつ分からないと言う。
「何で急に言う気になったの?って聞いたら、教えてくれる?」
「…………」
「だよね、お姉ちゃんはそういう人だ。だから推理するしかない」
私は言い訳をしたくない。けれど葵はそれが「気に食わないと」言いたげに、鼻で笑いながら眉間を抑えた。葵の乱れた髪が目元を隠しつつ、暗いその中から赤い目が私を睨むように見つめながら「なんだかなぁ……」と疲れきった声を発した。
「プラネタリウム、そっからだよね?」
ぶっきらぼうな声。私は頷かない。
「これでも駄目か。じゃあ私傷ついちゃったから、お姉ちゃんに癒やされたいな。その服脱いでみせてよ」
ズキリと胸が軋む。傷ついた。その言葉に沿うように上着に手を掛けた所で、ガシャン!と音を立て、葵が勢いよく机越しに私の手首を掴み、それは封じられてしまう。
痛いほど強い力で掴まれた手首は段々と白んじてきて、私の感覚を奪っていく。
――その痛みでようやく我に返り、私が今何をしようとしてしまったのか、気付いてしまう。
「あ……おい、ごめ……」
「違うじゃん。お姉ちゃんじゃないでしょ、謝るのは」
「ちがうの」
「違わない!! 悪いのは、全部私じゃん……!」
葵の目からぼろぼろと涙が流れ始め、ぼたぼたと机の上に雫が垂れる。私はその涙を拭こうと、掴まれた手とは逆の手で彼女の頬へ触れようとするが、葵は「やめて」と言うだけで、その手は動かせなくなってしまう。
葵はその固まった手を優しく撫でるように握った。
「……これでもまだ、否定できる?」
泣きながら笑みを見せる彼女。私はそれでも「違う」と言う。
「私のこと、愛してるって言って」
「……っ」
勝手に動きそうになる口を血が出るのも躊躇わず噛み締め閉じきる。痛い、痛い、痛い。
「言え」
「ゔっ゙……げほっ……」
ブチッと口の中で存在しない肉を噛んだ感覚がする。痛い、痛い痛い痛い。
「言え!!!」
――誰が
「ばーーーーーーか!!!!!!」
――言うか
ええか、よく聞け、葵。
「うちは、琴葉茜は」
こんな夢、絶対抜け出させてやるから。
「あんたの姉ちゃんは、琴葉葵が」
だから、もう一個くらい夢にハンデをやる、このクソッタレな夢に。
「妹のことが、世界で一番」
だから、2度と最後のその日まで、どうか。
「いっちばん……! だいすき!!」
うちを、信じて。
「……んっ!?」
私は葵に掴まれた手をこちら側へ強く引っ張り、感覚の無くなるまで掴まれた手を弾き、葵のやってきた頭を後手に支え、そのまま彼女の唇へ押し当てるようなキスをした。
今、私の口の中は血だらけでありロマンチックの欠片も無いが、それでもこれしかもう、私には手段が分からなかった。
葵の言葉は私に対する強制力がなぜか持たされており、言葉でも行動でも簡単に言う通りにしてしまう。けれどそれは今日からの事で、以前にそんなものは絶対存在しなかった。なのにそれを証明できるものが今私には何もなく、葵もそれを信じられるものがどこにもない。まさしく悪魔の証明、それが今の状況だった。
けれどそんなおかしなものに葵との関係を崩されるなんて怒りしか無い。夢から醒めたら言うはずだった好きの初めてすら奪われたのだ。私はもうこれ以上葵との進展もできない関係性が憎くて仕方ない。進展なんてしてしまえば夢に2人して囚われるのは明白だ。
「んっ……んん……」
夢は間違いなく私達を逃さないために邪魔をしに来ている。ならばそれを黙らせるなら、いっそ夢が邪魔する必要がないと思わせればいい。指だけで済ませていたキスを、本物のキスにしてしまえばいい。そんな事をすれば現実に目覚めるのはより難しくなるだろうが、それでも私はもう、葵の信頼と好意を振り出しに戻すことのほうが在り得なかった。振り出しどころか2度と……きっと葵は責任を感じて、本当に夢でも壊れてしまうかもしれない。それだけは、防ぎたかった。
「お、ねえ、ちゃ……」
「……は、ぁっ。……葵」
離したくない想いに蓋をし、彼女から唇を離し、甘くその名前を口にする。
「は、はひ……」
「好きや、愛しとる。この気持ちも言葉も、全部、信じてくれ」
「ど、どうやって……」
「毎日、キスしたってええ」
「……本気で、言ってるの」
「本気」
多分、葵へ私が好きと伝えれば伝えるほど、キスの回数を重ねれば重ねるほど、この夢は確固たる力で葵を手放さなくなる。けれどそれを許容しなければならないほど、今の葵は私に対して不信や恐れを持っている。葵を現実に戻したいと願うほど、この想いは邪魔にしかならない。なのにこの想いがなければ、葵が現実に戻れると信じる事も、私が夢に抗う力も持てない。正にジレンマのような状況。けれど……それが私の考え得る最善だった。
葵を安心させるように笑いかけながら言うが、返ってきたのは「ばかみたい」の返事だった。
「そんな事したらお姉ちゃんまで夢から出れなくなるよ」
「ちゃんと『線』にも葵の声だって越えてみせたやろ?」
「まだ2ヶ月弱あるんだよ!? 私だってこんな意味わかんないの経験したことない……もっとつらい目に合うかもしれない、もっと私の声の力が強くなるかもしれない、そうなってもお姉ちゃんは出来るっていうの……!?」
「約束したやんか」
「え……」
「頑張るから、足掻くから、必ず助けるからって」
「それ、でも……!」
葵は意地でも認めてくれない。そんな彼女を再度……今度は軽く引き寄せ、勘違いした葵は「や……っ」と言いながら目をぎゅっと瞑るが、私は葵とおでことおでこを擦り付け囁くように言葉を紡ぐ。
「……お願い、信じて」
「ずるじゃん、それは……っ」
ずるでもなんでもいい、私の本心はきっと、利用できるのであれば自分の体すら利用してしまえる人間なんだ。それと比べてしまえばこのくらい、どうってことなかった。
「葵」
「~~っ! もう! わかったから! 離して!」
突き放される形で手もおでこも離れ、葵は自分を守るように両腕で自分を抱きかかえながら溜め息をついた。
「信じるから」
「ほんま?」
葵の言葉に思わず嬉しさで身を乗り出しそうになるが、「ただし」と彼女に手で静止される。
「キスは、要らない。しない。起きるまで絶対」
「……そか」
「好きって言うのもお互い……というか私が多分軽率すぎた、ごめんなさい。お互い起きるまでちゃんと抑えよう」
どちらも仕方ないと言えばそれまでだが、私は少し寂しくもあった。
葵は吟味するように片目で私をみつつ「それでもいい?」と言う言葉に、私は渋々ながらも頷く。
「……そんな悲しそうな顔しないでよ、抑えるって言っただけで、別に全部が変わるわけじゃないんだから」
「……うん」
葵は絆されるように少しだけ条件を緩くする。けれどやはり残り74日をそれで過ごすのは、私には少し苦しさが勝る。
「ほら、もうこの件は一旦置いてご飯食べちゃお……って、お姉ちゃん口の中大丈夫?」
「ちと削げただけやから、まあ大丈夫。暫く痛みそうやけど」
「……ごめんね」
「ええんよこれくらい。歯磨きとご飯で死ぬ思いするだけで葵の気持ち手放さなくて済むんなら、安いもんやわ」
葵は私の言葉に戸惑いつつも「そっか」と嬉しそうに笑みを浮かべる。
「あとお姉ちゃんのオムライス、さっきので血が掛かっちゃってるから、これは下げよっか」
「え゙っ」
机の上を見ると、オムライスのオムの部分にだけ綺麗に赤い血がケチャップ代わりにとんでしまっていた。そんな飛ぶような事は……と思ったが、恐らく口を切ってすぐ「ばーか」とか言った時に飛んでしまったのだろう。葵の手とかには飛んでいないようだが……。
「ちょ、手ぇ離してよお姉ちゃん」
私は彼女が下げようとしたお皿を思わず掴みそれを阻止する。
「まだ食べれ――」「だめ!!」「はい……」
「私の半分こしてあげるから、お昼にいっぱい食べたしそれで丁度いいでしょ?」
「……けど」
私は未練がましくも、既に葵の手に渡ってしまった血染めのオムライスを眺める。自分のために作ってくれた料理が捨てられるというのは、なんとも辛いものがある。
けれど葵はそんな私の様子に悲しそうにしながら「その気持ちは嬉しいけど、私だってお姉ちゃんに一番おいしくて安全なの、きちんと食べてもらいたいな」と言われてしまい、引かざるを得なかった。
「ほら、あーん」
「へ……っ」
顔を俯かせていると、目の前にスプーンに盛られたオムライスが現れる。あーんて。
「言ったでしょ、はんぶんこって」
「そ、そやけど」
「じゃあ、ほら」
葵は優しく笑いかけながら、私の口元へその口を開けながらオムライスを差し出してくる。きっと口に含めば痛むその愛情を、私は口に入れる覚悟をした。
「ふふ、どう? おいしい?」
問答で既に冷え始めたオムライス。私のと変わらず甘く作られたそれは、始まりの日の卵焼きを思い出す味だった。
「……ああ、おいしいよ。世界で一番、おいしい」
「ふふ、とーぜん!」
もう2度と、私の言葉を先に越させはしない。この夢から葵を取り戻す、そう強く決心をしたからこそ私は、同じスプーンを使ってそのままオムライスを食べている彼女に1つお願いをした。
「葵」
「なーに? もう一回あーんしてほしいの?」
「キスしたい」
「げほっ!? だめでしょ!?」
葵は顔を真っ赤にしながら口元を手で塞ぐ。する事自体がまずいのは承知の上だ、けれど私はそれでも。
「……お願い。うちも、頑張れるだけの物が欲しい」
「……これっきりだよ」
「うん」
前髪の花飾りをぐしゃりと掴みつつ、恥ずかしそうに彼女は私の隣までやってきてから「……目、瞑ってよ」と言う。言われるままに目をつむると、恐る恐るといったように肩と頬に手が添えられる。
「……茜」
「……ん」
初めて葵に呼ばれる名前。その言葉にびくりとしつつ、彼女の事を待った。
少しずつ近づく葵の吐息。暗闇でも分かる、傍に彼女がそこにいるという安心感。いつその唇が私に触れるのか分からない焦燥感が、胸を強く震わせる。けれど、その待ち遠しかった彼女の唇が触れたのはおでこだった。私は文句を言ってやろうと、目を開けた瞬間だった。
「……ぁ」
「……私も世界で一番、茜が好き」
私と同じ色の目が、視界いっぱいに広がる。返事は、必要なかった。
第六章 12月24日 3度目の正直を
ピリリ、と小さなアラームを鳴らすスマホの音で目を覚ます。慣れたもので、まだカーテンの先は暗がりではあるものの、頭はきちんと起きることが出来た。けれど身体も中々に言うことを聞かない。
――起きろ、馬鹿。
そう心へ言い聞かせ、私はベッドからむくりと強引に身体を起こす。スマホを叩けば、暗闇の中日付と時間がその画面に移り上がる。
『2020年12月23日 5:00』
やっと、ここまで来たと身を震わせる。
はぁ……っと冷え切った部屋の中、白い息を吐き出しながら私はベッドから立ち上がった。
――部屋だけで、10本か。
暗い視界の中、眩しく主張をする『線』が目に入る。まるで天下の大泥棒のために張り巡らされた白の警報線。それを1本1本スキップするようにトン、トン、と越えながら部屋の扉を開けた。
外は暗い。けれど家の中は私にとって明かりが付いているように明るい。目を細めつつ、1歩進む度に倒れそうになる身体に『歩け』と命令しながら階段を降り、明かりの付いたキッチンへ向かう。
「わ、おはよ。お姉ちゃん」
「おはよ、葵」
『線』を幾つも越えた先、そこには愛しのお姫様がエプロンを着て、朝ごはんを作り始めていた。葵は手を拭いてからパタパタと寄ってきて私の手を取った。
「今日は大丈夫?」
「へーきへーき」
「そっか……無理はしてない?」
「大丈夫よ、ちゃんときつかったら言うから」
私がそう言うと、葵は顔を綻ばせ「そっか」と言う。そんな彼女を抱きしめたいと欲が芽生えるが、ぐっと堪え、手を引かれるままに、いつもと同じく洗面所の鏡の前に座らされる。
「今日はどのようにしましょうか」
まるで美容師みたいに丁寧な言葉を使う葵。私はそれにクスリと笑いつつ、「いつもみたく、可愛くして」と伝える。
「ざっくりだなぁ」なんて笑いつつ、葵は私の髪に櫛を通していく。ちらりと鏡越しに見るその表情は嬉しげで、そんな葵につられて私も嬉しくなる。
夢はあれから日々少しずつ強制力を強め、あの日……葵とキスをした日からというもの、暫く見ていなかった『線』が復活をし始める。学校前にあった『線』だけならよかったが、11月に入ってからは家の中でさえ『線』は姿を表し始めた。
初めは葵の部屋、次はキッチン、11月の最終には悪意のある罠のように、階段にすら『線』が引かれていた事もあった。最初の頃こそ楽観視していたが、日が過ぎる毎にそうも言っていられなくなる。なぜなら『線』は消しても翌日には復活し、それどころか次の日には2重、3重と日に日に数を増やしていったからだ。
葵と朝一緒に起き支度をして、朝ごはんとお弁当を作ってから家を出て、学校で授業を受け、便利屋を時たま手伝ってから家に帰り、葵と一緒に夕飯を作って一緒に眠る。ここまでが私にとって夢でのルーティンであったが、ある日を境にキッチンに入ることができなくなり、加え強制力を薄めるために葵と一緒の部屋で眠ることも止める事となる。
11月の20日目までであればまだよかった。そこまでは別に多少のふらつき程度で『線』を越えられていた。けれどその日を過ぎてから1日、1日と越える度吐き気が強くなり、30日目、私は血を吐いて夢の病院に入院することになる。原因は過度な胃への負担による胃潰瘍であり、数日程度で退院は出来たものの、葵からは2度とキッチンに入るなと泣きながら言われてしまう。けれどそれ以上に愕然としたのは、葵と私で『線』の見え方が変わっているということだった。
11月を終え12月、月を跨いで家に帰宅した私を出迎えたのは、おびただしい数の白く光る『線』だった。
1本1本が不快程度に留まるものではなく、全てがぶっ倒れそうになるほどに強い強制力を持った『線』。肝心の葵が見えてない様だったので、気にしすぎてもよくないと考えたのが仇となる。『線』は今まで地面に這ってしかいなかったのに、急激に増えたものは糸を巡らせるように浮いており、触れさえしなければ別段支障はなかったのだ。けれど葵より先に学校から帰宅した日、自室への道中浮いた『線』を避けることだけに頭が行き、階段にあった罠のようにとても薄く引かれていた『線』に気付かなかった。
一瞬の浮遊感の後、お尻に激痛が走る。たった3段、たった3段だが、落ちたのだ、私は。……それを、葵に見られた。葵は結月さんと紲星さんに暫く依頼を受けるのを停止することを伝え、私より少し遅く、けれど追いつこうと走って帰ってきたらしい。
その日から、私達が一緒に眠る日はなくなった。
キッチンには入れず、葵にご飯を作れなくなるのも、本来の未来通り、葵と会わないように過ごす日々も、かなり堪えた。現実に帰るために仕方ないこととは言え、それでも自分が葵のために変えようとしてきたこと、その全てが許されなくなった夢にいっそ殺意すら覚えた。
私はそれにどうしても納得が行かず、葵が言い訳に使う「期末試験が近いから」を渋々受け入れつつ、少しでも夢に抗うように、毎日と増える『線』に勉強中もずっと触れ続けた。ある種怒りを原動力とした不純なやり方だったが、それでも私は12月中、冬休みまで一週間を切るまでの間ずっと、眠る時さえ『線』に触れ続け、ついに克服してみせた。
克服と言っても害があるには変わらないため避けこそはするが、それでも……毎朝ずっと変わらず私にお弁当を作り続けていた彼女を、自ら抱き締められるくらいには『線』への耐性が出来たのだ。流石に真っ白になるほど最も封じられていたキッチンに踏み入れば10分ほどでぶっ倒れたが、それでも意識は失わない私に根負けした葵は、朝の触れ合いだけは許可をしてくれた。
葵に櫛を通される度、彼女に撫でられているようでとても幸せで、そして真剣に、少し笑みを浮かべながら私の髪を触る葵の姿が、本当に愛おしくて仕方がない。けれどその時間は最後に私の前髪に花飾り、そして矢作柄の飾りがついた紐でポニーテールを結び終わる事で終わる。
「はい、完成!」
「相変わらず器用やねぇ」
身体を軽く左右に揺らせば、それを追従するように髪がさらさらと揺れ、ポニテに結ばれた紐の蝶々がふわりと動く。なんだか楽しくなって頭をゆらゆら揺らしサイドヘアーをぷらぷらとさせていると、葵に肩へ手をかけられ止められてしまう。
「葵?」
どうしたのだろう、そう思い声を掛けても返事はない。鏡越しに見ても、前髪が垂れているせいで葵の表情が見えない。そうこうしている内にヤカンの沸く音がキッチンから聞こえ始める。流石に放置するわけにもいかず、もう一度声をかけようとし――
「……葵?」
「……」
ぎゅ、と私の頭に埋まるように背中から抱き締められる。私の胸の方に来た手は小さく震えており、その手をすぐに私は左手で抱いた。
「大丈夫やから、きっと助ける」
冷たい手、それは葵が怖がっている時だと知っている。
右手で彼女の頭を撫でつつ、安心させるための言葉を伝える。『助ける』その言葉はほぼ形骸化してしまっている。葵が3ヶ月で十分余裕のある身体になった事も、東北先生に24日は見回時間を早めて欲しいと伝えた事も、会えない結月さんと紲星さんに葵へ頼んで手紙で24日は17時まで学校に居て欲しいと頼んだ事も、きっと意味があるとは最早思えなかった。それくらいに夢は露骨に私の邪魔をし続けている。今の自分がやれる限りのことは尽くした、尽くしても明日に対する不安は拭いきれず、葵にただ盲目的に私を信じてもらうしか無かった。
「必ず、助けるから」
「……うん」
葵にとって5度目の死ぬ間際の経験。震えから分かる通り、怖くないはずがなかった。
彼女がどこまで毎回意識を保っているのか分からない、けれどそれでも、血を流しているのに身体も動かせず1時間以上1人きり。そんな苦しく寂しい思いを、絶対にさせてたまるものか。
葵は落ち着いたのか私から離れ、背中越しに「信じてるね」と言い、自動停止で沸騰の止まったヤカンを見に、キッチンへ早足で戻っていった。それを見届けてから、私は椅子の背もたれへ深く腰掛け、大きく息を吐いた。
不安は何も拭えない。明日を迎えるのが怖いと言えば嘘になる。けれど、もう足踏みしている時間は無い。痛む胸を握りしめながら「大丈夫」と唱え、虚勢でもなんでもいい、葵の前でくらい、笑顔を見せてあげていたかった。
気持ちを切り替え、改めてキッチンへ向かうと既に日は大きく昇っていた。といっても暗がりから朝の仄明るさになっただけではあるが、それでもその明るさは気持ちを前向きにさせる。葵と6枚切りにしたベーコンと目玉焼きの乗ったパンを1枚ずつ食べ合い、作ってもらったお弁当をカバンにしまって、互いに何も言わずとも、久々に手を繋いで家を出ようとした時だった。外には太陽がもう高く昇っているのかとても眩しく、繋いだ手とは逆の手をひさしにしながら玄関から足を踏み出した瞬間――
――世界が暗転した。
◇
「……は?」
起きると、朝だった。
バクバクと煩いほど胸をうつ心臓。嫌な感覚が抜けず、額に脂汗が浮かぶ。空気は冷えてるはずなのに、カーテンからうっすら覗く光が、息を荒げさせる。
ベッドから起き上がって周りを見る。自室、隣にはスマホはない、時計の時刻は6時半、服装は寝間着に変わってる、学生バッグは机の上。
ベッドから足を下ろし、何かに足をもつれさせ転びながら、それでも床を這って机の上からカバンを引きずり下ろす。吐き気が止まらない、頭がガンガンと痛む。
カバンを強引に開き、中を漁って、前と同じ位置にスマホを見つけ出す。震え焦る手で傾け、指で叩き、数秒してようやく電源が立ち上がり、画面に光を灯した。
『2020年12月24日 6:40』
『起きろ』そう頭に言い聞かせ、すぐに立ち上がり部屋の扉に手をかける。しかし部屋の扉が異様に重く、まるで外で何かが突っかかってるように――
それに気付いた瞬間、扉を勢いよく足の裏で蹴り飛ばす。ガゴン!と扉は音を立て、指二本くらい入りそうなほど隙間を開ける。隙間からは外側に何か大きな物が置かれていることが分かる。
――ざけんな。
この家でこんな事ができる人間はほぼ1人しかいない。私はもう一度下に居るであろう彼女に届くように、扉を強く蹴り上げ、隙間の大きくなった扉に向け叫ぶ。
「葵!! 何してくれとんねん!! 出せ!!! 早く!!」
返事はない。聞こえない。もう一度扉を強く蹴る。
「あ゙お゙い゙!!!」
もう一度蹴り飛ばす。けれど想定されていたかのように、扉は一定以上を境に開かなくなる。恐らく扉の外の物が階段前の柵につっかかっているのだ。
――どうしたら、どうしたら!
焦りで過呼吸になりかけていると、ピロン、とスマホに何かの通知音が鳴る。何かと思い息を吐き出してから、足元に転がったスマホを這うように拾い、ホームの通知画面を見ると、届いていたのは葵からのメッセージだった。
『来ないで』、そう端的に書かれたメッセージは、私の信頼がなくなった事を暗に伝えていた。
「……ぁ、ぁああ……っ」
――嫌だ、いやだいやだいやだ!
メッセージアプリを震える手でなんとか開き、そこから音声通話のボタンを掛ける。
1コール、2コール、3コール。
「お願いします……! お願いします……っ!」
4コール、5コール、6コール……7コール目、ブツリと繋がる音が入る。まるで奇跡に縋りつけたように、私はスマホを両手で握りしめながら彼女へ言葉を繋ぐ。
「あおい……! 今どこにおるん……!」
『……どこって、玄関だけど』
「ま、まだ家におるんやな?じゃ、じゃあうちの事、部屋から――」
『出さないよ。出てこれないと思うけど』
部屋から出して、その言葉は簡単に拒否されてしまう。同時に、やはりこの閉じ込めは葵がした事だと分かる。
「な、なんで……」
『お姉ちゃんが好きだから』
「茶化さんで……!」
『茶化してない。本当に、愛してるよ』
通話越しに彼女の音が聞こえる。トントンと靴を履く音、それはもう通話に阻まれること無く、彼女が学校へ向かおうとしている音だった。
「あおい、止まって、お願いだから」
『止まらないし、止められない。ねえ、お姉ちゃんはさ、もしこの夢が……私の事故で終わったら、どうなると思う?』
「絶対助けるから、お願いだからそんなこといわんで……」
『もう無理無理! 信じられないから! 私はね、知ってるよ。この世界はいつも最後は崩壊し始める。多分私の夢だから続きがないんだろうね、むべなるかな……』
「うち、うち頑張るから……」
『それでね、お姉ちゃんは気付いてなかっただろうけど、お姉ちゃんから最初心臓の音がしなかったんだよね。それって多分お姉ちゃんが完全に外に体を置いてきてるせいだと思うんだけど、でも2度目は違った。お姉ちゃんの心臓は今ちゃんとこの夢の中にある。でもそれってまずいと思うんだよね、だってさ……それってこの夢が崩壊したら、お姉ちゃんも巻き込まれちゃうんだよ』
「お願い……葵……」
『だから私考えたんだ、もしお姉ちゃんが結末を変えられない可能性が少しでもあるのなら……って。現実の私の体ってさ、もう……大分やばいんだ。多分次の夢を見ても途中で終わっちゃうくらいに、弱っちゃってる。だからお父さんもお母さんもあのお医者様を探してきたっぽいけど。まぁだからさ、お姉ちゃんをこのまま夢に置いといたら、一緒に多分死んじゃうし、それは……嫌だから』
『私はこの夢が終わる瞬間、お姉ちゃんを夢から追い出す。それでもう、終わりにする』
「嫌や!!」
まるで声が届かない葵に、私は泣き叫んだ。
もう、もう嫌だ、葵から返事がない人生に戻るなんて、もう絶対に嫌だ。
「もう、もうどこにも行かんで……っ! お願いだから、なんだって頑張るから……っ、だから、もう一度だけ……」
けれどその言葉は葵に響くことはない。
『もう一度なんてない、さよならお姉ちゃん。……大嫌い』
大嫌い。その言葉と共にブツリと通話が切れる音がする。放心しつつ「あおい」と呼び掛けても、もう声は届かない。力の入らない手で通話ボタンを押しても、彼女には1コールも届かず切れてしまう。
「……あおい」
頭が理解することを拒む。葵の言うことが真実なら、あの子はもうすぐ死ぬ? 冗談だと笑い飛ばして欲しかった。大体何で葵がそんな目に遭わなきゃいけない? どう考えたって理不尽だ。もう彼女は十分苦しんだだろう。たった1度じゃない、既に4度死ぬ思いをしているのに、5度目の死ぬ思いをした上で、更に現実でも死ぬ? なんで?
――何度死ぬような経験しても、会いたいくらいに、あなたが好き……。
ふ、と葵の告白を思い出す。葵はそもそも自分で望んで夢を繰り返してると言っていた。それは起きるためだったとも。葵にとって夢から目覚めるために、最後の事故を変えるのは必須事項だったのだ、だからこそ彼女は夢を繰り返していて。
――じゃあなんで、3ヶ月も戻る必要があった?
頭の中に自分の声が反響する。葵にとってこの3ヶ月、なにか重要な意味があったとは私には思えない。それを知れる程に、私は葵を3ヶ月最も近くで見てきた、分かろうとし続けてきた。
――けど、自分にとってはどうだった?
問われて、考えるまでもなかった。私は葵と過ごしたこの3ヶ月、全ての時間を覚えている。葵と喧嘩したこと、文化祭前に抱き締められたこと、依頼をこなせたのを褒められたこと、デートをしたこと、告白をしたこと、キスをしたこと……葵に作って貰ったご飯も、一緒に作ったお弁当も、全て、全て覚えている。それだけ彼女との時間は……狂おしいほどに尊く愛おしい、そんな幸せな時間だったから。
――なら、葵にとってはどうだったと思う?
それは……と言葉に詰まる。大嫌いと宣言された身だ、勝手に彼女の想いを決めるのはどうにも憚られる。
――言われたやろ、考えたのなら口にしろって。……思うなら、自由なんやから。
……葵にとって。
葵は、仲直りしたあとはずっと笑顔だった。私に呆れたり、怒ったり、不安気な表情を見せたりしても、必ず最後には嬉しそうに、笑って私を見つめていた。葵のそんな暖かな表情が見たくて、いつまでもそうして欲しくて、私は何度挫けそうになっても、もう一度と気力を振り絞る事が出来た。
葵と交わした言葉も、想いも、暖かさも、きっと全部本物だった。そう私は信じられる。
「うちと、きっと同じやった」
そう、葵もきっと、この終わり日が怖かったはずだ。何度も挫けそうになったかもしれない、なのに限界まで繰り返した。繰り返せたのだ。驕りかもしれないが、きっとそれは――
「うちが、いたから」
塞ぎ込んでいた顔を上げ、恐らくそこにいるであろう人を見る。
そいつはあの日と同じように、私を馬鹿にするようにくつくつと笑っていた。
『正解』
相変わらずと言うべきか、『私』は透け、立っている彼女の後ろにはドレッサーが見えている。けれど理由はなんとなく、理解できた。
「あんた、夢のうちか?」
葵の夢の中、東北先生は私が差し替わっていると言っていた。それは正しい、けれど差し替わった琴葉茜という人間はどこへいった? 私と葵の混ざった夢の世界といえど、葵にとっての琴葉茜の存在が消し去られるのはおかしい。ならば確実にデータのように残る場所……葵にとって琴葉茜を象徴するもの、『矢作柄の飾りが着いた三輪の髪飾り』に残っていると思ったのだ。
けれどその言葉に『私』は困った表情をしつつ『少し違う』と言う。
『悪夢、見るやろ?うち。女の子……いや、葵が死ぬ夢を、毎日』
「……そ、やね」
『その中で……葵と一緒に寝なかった日で、1年。丁度夢を見なくなった日がある筈や』
覚えは……ある。葵が倒れたその日から、私は一切悪夢を見ることが無くなっていた。
『それは夢を見なくなった訳やない、忘れただけ。なんでかってずっと葵の夢の中に、正確に言えば頭の中に取り残されとるから。うちらが見るのは葵が経験した記憶。でも毎日毎日葵の手を取って話しかけとったせいなんかな、自分の記憶に一片も残らへんのに、葵の夢で……ずっと同じように足掻いてた』
既に私は何度も葵を助けようと足掻いていた、その言葉を聞き、救われるどころか気持ちが沈む。
「それがほんまならうちは4度失敗してる事になるんやけど」
『事実やろ』
『私』は私を指差し、辛そうな目を向けてくる。
『5度目や、5度目なんや、これが。お前と違ってうちには4度分の失敗した記憶がある。全部記憶リセットはされたけど、でも、全部だめだった』
――うちは、夢の影響を受けやすすぎる。
そう笑いながら言う『私』の握る手は、微かに震えている。
『『線』も越えられない、葵の好意に気付いても返す勇気が出ない、デートに何か買ったら駄目だった事も気付けない、11月からはずっとバッタバッタ倒れて……ああ、ほんま、酷かった』
ふと葵の部屋にあったペンギンのぬいぐるみを思い出す。あれは正直、私には買った記憶がない。けれどお揃いで買った筈だという思い出だけが残っている。……水族館のデートなんてしたことがなかったのに。きっと、葵の部屋には夢3度分の何かが他にもあるのかもしれない。姉妹として、なんとか過ごした日々の欠片が。
『……やけど、お前は違う。全部、全部向き合ってみせた、耐えてみせた、抗ってみせた、分かろうとしてみせた、葵を知ろうと、這いつくばってでも彼女の手を何度だって取ってみせた』
「……それは、現実に戻れたからで」
『それでも、変えてみせた!! お前が、自分の力でここまで来たんや!!』
『私』の声と言葉は、俯きかける私を決して下を向かせないように強く頭に響いてくる。
――それでも。
「それでも、うちは、葵に嫌いって……っ」
『本当に嫌いなら、なんでここに閉じ込められる。なんで3ヶ月を何度もやり直す。なんで好きだから、愛してるからなんて言葉をお前に言えるんよ、なあ。……もう分かっとるやろ、お前しかいないんや、あの子に手を伸ばせたのは、お前だけなんよ。お前が最後まで葵を信じないで、どうやって葵がお前を信じられるよ』
……分かってる、本当は分かってるつもりなんだ。でも、どうやってここから出ればいい? 葵の元まで家を出ただけで倒れるのにどうやって辿り着けばいい? 分からない、私には……勇気を出すための髪飾りが、葵に取られていて、どうしようもなかった。
『大丈夫、うちはちゃんとわーっとる』
「なにが……わ、ちょ、なにすんねん!」
彼女は唐突に私の手を引き、机の傍の椅子に私を強引に座らせる。なんとか立とうとしても肩に強い力が加わり立つことが出来ない。『ほら暴れんでな~』なんて朗らかに私の声で言うものだからとても苛立ちが募るが、彼女がどこからか出した櫛を私の髪に通す度、彼女の体がより透け始めていることに気付く。
「な、なあ……体……」
『葵の所に行くんに、こんなぐちゃった髪じゃお姉ちゃんとして示しがつかんからなぁ。ちゃんと最低限のおめかしはせんと』
楽しそうに彼女は私の髪を整える。どこからかヘアオイルまで出し、次第に普段葵にやってもらっていたのと同じくらいに髪がサラサラとしだす。
『サイドヘアーよし、サラ髪よし、泣いた顔はおりゃおりゃ』
「むぶ!?」
顔を強引に濡れタオルで拭かれ息が詰まる。タオルは謎に温かく、文句も言いづらい。
顔を拭かれた後開けた視界では、すっかり彼女の体はほぼ消えかけていた。
「なぁって……」
『最後は……あんたはポニテやったね、じゃあこれで~よし! ほら!』
やたら楽しげに彼女は大きめの手鏡を私に見せてくる。彼女の体の方が余程気になるのだが、意地でも鏡を見せてくるため渋々ながら視界に入れると――
「……なん、で」
鏡には、葵にいつもセットされていたのと同じ私の姿が映る。サイドヘアーもポニーテールも紫の花飾りもあり、なにより……ポニテには、三輪の髪飾りが使われていた。
まさか、そう思い振り返ろうとするが、『私』に背中から抱き締められ、振り返ることも叶わない。下を向けば、手も腕もほぼ輪郭だけになり、星のようにきらきらとしながら少しずつ消えていた。
『なぁ、うち。頼むよ』
「……なんよ」
掠れた声が私の耳に届く。今まで強かだった彼女の声が嘘のように小さくなっていく。
『うちは怖がりで、どうしようもなく臆病なのは知ってる。けど、葵が死んでまうのはもう、嫌やわ……。あん子は本当にええ子なんよ、ずっと、ずっとうちが悪夢を見ないように抱きしめてくれて、だから離れるのだって嫌がって、ほんま、大事な妹やねん』
「知っとる」
『大嫌いなんて思ってもないこと言うて、きっと泣きながら今頃学校へ向かっとる。もう一生仲直りできんかもしれんのに、ほんまアホでなぁ……』
「知っとる……」
『『茜屋』だって、うちが葵ばっかを気にかけるようになったせいで周りを助けんくなったから初めたものやし、髪型はホントは一緒がええ癖して、毎日ポニテでもあんな嬉しそうに髪漉いてくれて。それにうちの悪夢だってなんとかしたい思って大学すら決めて……1年早めに行かなあかんくなったのは予想外だったらしいけど』
「……知らんこと言うな、これから知ってったる」
『ふふ、さよか。……うちの記憶はあげる、だから、葵の事』
「ちゃんと助ける。必ず現実に帰すから、任し」
『……ああ、信じとる』
その言葉を最期に、ふっと背中が涼しくなる。首筋に感じる冷たさに背中を起こし、振り向くこと無く立ち上がる。
「ちゃんと、うちが行くまで葵のこと、引き止めといてくれ」
返事はない。けれど私は信じて、先に着替えることにする。
――最低限、おめかししろ言われたらな。
時刻は既に9時、葵が事故に遭う時間はおおよそ16~17時であり、残り7時間。私は部屋からの脱出方法を練りながら、クローゼットに掛かった葵とお揃いのワンピースに手をかけた。
◇
ガシャン!!と甲高い音を立て、カーテン越しにある窓ガラスが割れたことを確認する。
外は快晴、けれど住宅街だというのに異様な静けさを保っており、案の定という気持ちだった。スマホを一応再度確認するが圏外。
――夢やから許してくれ、おとん、おかん。
娘の一大事なのだ、きっとあの2人は快く多少のお小遣い減額とお怒りで済ませてくれるだろうと願いつつ、私は自分の衣服で組んだロープを、部屋外に置かれていた机の足にくくりつけ、それを窓から下ろしてゆっくりと地面へ降りていった。地面に足をつけた瞬間、『線』の影響か足から崩れ落ちそうになるが、手のひらに布で縛ったガラス片を勢いよく握り、気付けに使う。
「ぅ……ぐ」
痛みで震えつつも、鍵の空いた玄関へ向かい靴を履いてから、先に地面へ落としておいた学生バッグを手に、学校へ向けて走り始める。
『線』は街中にやはり存在した。というか線ではなくまるでほぼ道のように広がってすらおり、手に縛った大きなガラス片を何度使うのかと想像してしまいうんざりとする。……けれど、立ち止まってはいられない。腕時計を見ると時刻は既に11時で、猶予は残り5時間もない。学校までの道のりがいつも30分程度と考えても、そうやすやすと辿り着けるとは思っていなかった。
だって、さっきから大通りに出ているはずなのに、人が1人も見当たらない。それが示すことは……。
『オ゙ォォォ゙オ゙……』
「悪夢やなぁ……」
冬の道だというのに、何やら陽炎のようにゆらゆら蠢く黒い影が見える。形容するならば『悪夢』、としか言い様がない姿の化け物達だった。
記憶の『私』は教えてくれる。あれは隠れても無駄だし、捕まったら一発アウト、触れても『線』と一緒の立ち眩みが発生する事を。
「もうこっちに気付いとんのか……とりあえず商店街までは走るか」
学生バッグには護身用グッズを適当に詰め込んできた。効果があるのは『私』が知っているし、最悪重みで攻撃してしまえばいい。ぼんやりと走るべき道を見ると、以上に張り巡らされた『線』が見えるが、『悪夢』が一番居ないルート。ならやるべきことは一個だった。
私はガラス片を強く握りしめながら全速力で大通りを走り抜けた。
足が震える、手は馬鹿みたいに冷たく感じる、痛みや疲れで気が狂いそうになる。
「おっ……らぁ!!!」
『ガ゙ァ゙ァ゙アァ゙』
たった30分、たったそれだけの道のりなのに、恐らくまだ半分しか来ていない。異常に湧き続ける『悪夢』も、もはや道と同化した『線』も、全力で私が進むのを邪魔してくる。『悪夢』は最悪なことに利口だ。2手以上戦えば、いつのまにか『線』の上に誘導されている。人間は1リットルの血を失うと死ぬらしいが、私はあとどれだけ血を流すことが許されているのだろうか。『線』を踏む度に鼻からも血がどろどろと流れ出る。
邪魔してくる『悪夢』をひたすら倒し続けながら進むせいで、全く進まない。
――ふわふわする。
なんかもう、死ぬのかなとしか思えなかった。それくらいに一歩が重い。少し歩けば『悪夢』が湧き、『線』の無い所で10分休憩してはまた『悪夢』が湧き、おおよそ一定間隔で湧いているのは分かってきた。けれどそれにしたって私より大きい180cm程度の大人の影が一回で十数と襲ってくるのだ。こちとら花の乙女158cmなんだ、加減を知れ。
「橋……」
大体家から学校までもう半分、と思えるランドマークがようやく視界に入る。河川を越えるためのその大きな橋には変わらず『線』があるようだったが……。
「……っ」
私はカバンの中身を多少軽くしてから、一目散に周期が来る前に橋へとガラス片を握りながら走った。もつれそうになる足を叩きつつも、橋の入り口、マフラーとニット帽を被せられたお地蔵様の奥へ前のめりに倒れ込む。
後ろを見れば、周期により発生していた『悪夢』が目前まで迫っていたが、そこで壁に阻まれるように動きを止め、それから一目散に後退して去っていった。
「げほっ……がほっ……ぁ゙ー……」
喉に詰まりかけていた血を吐き出し、腕で目元を隠しながら仰向けになる。痛みと吐き気で白目を向きそうになりつつも、一旦左手からガラス片を外し、口元へハンカチを噛みしめる。
「ふー……すー……っゔぐ゙ぅ゙……!!」
カバンから取り出した消毒液を手にぶちまけ、気絶しそうになる身体に鞭を打ってなんとか手に包帯を巻く。いっそ死んでしまいたい、そんな想いが芽生えそうになるが、隣の丁寧に祀られたお地蔵様に流石に頭が上がらなくなるため、そんな考えを振り払った。念のため持ってきた軽食も最早胃に入るはずがなく、感謝の代わりにお地蔵様の元へ置いてから、震える身体を横になりながら抱き締めた。
寒いのか痛いのかもう分からない、ただとにかく苦しくて仕方なかった。腕時計を見れば、時刻は13時。全快で進んで半分に4時間、残り3時間でもう半分進む? 冗談がきつすぎて涙が出そうになった。
……けれど、止まる訳にはいかない。
「……あおい」
そうだ、その名前を呼ぶだけで立ち上がれる。私がここで立ち止まっている間に、彼女はどんどん死へと近付いていくのだ。怒りでもなんでもいい、とにかく立ち上がって、歩けるだけの気力に痛みも何もかも変換し、ぬらりと私は立って、橋を渡り切るために、ゆっくりと、着実に足を進め始める。
普通の人が見たら私はなんなんだろう、もしかしたらゾンビにでも見えるかもしれない。血を失いすぎて眠たくて眠たくてしょうがない。その度にいけないことだと分かってても、消毒液を左手へふりかけ、吐き気で弱音を吐く気持ちを上書きした。
「あおい」
そうだ、彼女を想うだけで私はきっと何だって出来る。私は彼女のお姉ちゃんで、人生を賭けられるくらい彼女を、愛しているんだから。
心臓が早鐘を打つ。大丈夫、私はまだ大丈夫。彼女を想うだけでこんなにも身体が熱くなれる、痛みすら慣れきったものだ、散々あの子にこの苦しみを味あわせ、味わって来たんだから。
だから、走れる。
もうカバンは重すぎて要らない、『悪夢』に捕まりさえしなければいいのだから、触れられる事くらいは許容してやろう。
「葵……っ」
その言葉が、橋の終わりから駆け出す合図だった。
◇
商店街、橋、並木道と越え、ようやく学校の姿が目に入った最後の大通り。辺りにはやはり人がおらず、異様なほど静かな空気が漂っていた。けれど進むほどに『悪夢』の数は少なくなっていき、校門が視界に入った所で0になった『悪夢』の代わりの人影が現れる。
「……紲星さん?」
「やほ」
私の呼び掛けに応じて片手を上げる彼女。やはり紲星子女、その人であった。
紲星さんは私に後ろ手に近付いてくると、顔や身体、手や足などをじろじろと眺め、「あーあー、こんな怪我して」と笑いながら言ってくる。
そうは言うが、彼女も少し衣服が乱れ、私ほどでないにしろ破けたオレンジのアームカバーからは、血が滲んで見えた。
「色々言いたいことはあるけど、すまん、葵知らん?」
「どこにいるか? ふふ、なんで茜に教えなきゃいけないの?」
「……ほーか」
相手にしてられない。ちらりと時計を見れば、短針はもう3を周り終えている。彼女の傍を通り過ぎ、学校へ向かおうとし――
「っが……ぁづ!?」
身体が浮き、自分が倒れていると認識するも腕がまともに伸びず、受け身を取れずに右肩を犠牲にする形で地面へ倒れる。
「……おい」
左腕はもうまともに動かない。右腕右手だけで這って立ち上がりながら、転んだ原因へ怒りをぶつける。どう考えても紲星に足を引っ掛けられていたから。
返事はない、嫌いでもここまでするか? 理解が出来ない。
再度無視し、そのまま学校へ向かおうとして――
「っい……だっ……!?」
また私は、今度は前に吹き飛ぶ様な形で倒れ込む。流石に両腕を何とか痛みに逆らって動かし、顔を守るようにズザザと腕が地面に晒される。
――ざけんなや。
もうこんな状況で冗談なんて存在しない。私は腕についた砂利を払いつつ立ち上がり、振り向いて背中を蹴り飛ばしてきた彼女を睨みつける。
「どういう了見や、紲星」
彼女ももう笑ってなどいない。ただ私を冷ややかな目で見ながら「学校に行かれると困るな」とだけ口にする。
「理由を言えや!! 2度も転ばしといて困るやないねん!!」
イラつく、イラつく、イラつく!!! 夢は私の邪魔ばかりする、なんなんだ、なんなの、なんなん、本当に!!
「そんな傷だらけで、本当に葵の所に行く気?」
「だったらなんやねん!? うざったい!」
「……やっぱり私あんたの事嫌い、絶対に行かせないから」
「お前に決められんでも、うちは勝手にする」
「もう一回蹴飛ばしてあげようか?」
クソが。心の中での悪態が止まらない。少なくとも彼女とは便利屋に限って言えば良好な関係を築けていた筈だ。なのにどうしてこうも邪魔したがる? 記憶にすら無い彼女の行動。時間の無さも含め焦りだけが頭をいっぱいにする。
彼女の足元を見れば、分厚い『線』が確かにある、なのに平然と彼女は私をじっとそこから見続けている。つまり彼女は『線』の影響を受けずに行動できるのに対し、私は……。
「逃げるなんて無駄な事しないでよ? あんたの方が力も体力もあったとしても、そんなふらふらな状態の身体に追いつくくらい余裕だから」
「……ちっ」
背中側の道をちらりとみるが、『線』は校門前までずっと『道』のように存在する。走って逃げるには分が悪すぎるし、なによりその状況で『悪夢』が現れても詰み。となるとやはり彼女を動けなくするか、話し合って分かってもらうしか無い訳だが……。
「なあ、なんでほんま邪魔するん?」
そもそも紲星はなぜここにいる? ここまで必死に足を進めてきたが、どこにだって人っ子1人見当たらなかった。近くの学校だってそうだ、終業式を終えたばかりにしては嫌に静かで、そもそも人間がいるのがおかしい状況の中で、彼女だけが唯一ここにいる事の方が寧ろ異常な気さえした。
「内緒」
けれど紲星は答えない。それどころか隠していたらしい1m余りのバールを片手に突っ込んでくる。防犯グッズの入ったカバンを置いてきたことを悔やむべきか、いや今はそれどころではない。
「っぶな」
上から下に薙ぎ払ってきたバールを後ろステップで避け、更にそこから反しで戻ってきたのを顔を引き避ける。耳元にはバールの振る音が嫌に届き、彼女は本気で私をやりに来ていると察せた。
『線』を踏まないように足元を見つつ、きちんと彼女の肩や身体の動かし方を目で追い躱していく。顔からの腕、顔からの腹と、必ず2撃で一旦足を引かせてくるやり方はどうにも彼女のバールを取り上げるに至らない、むしろ強引に掴もうとした所を紲星はずっと狙っている節がある。というか……。
「顔ばっか、狙うな! こちとら女の子やぞ!」
「死ね」
顔への突き、怯んだ所で再度顔、からの肩。メ゙ギ……と左肩から嫌な音が聞こえる。
「いっづ……」
3歩引いた先に『線』があるのを気にしすぎて回避も受け身も怠ったせいだ、バール後ろ側の尖りで刺された肩から服へ血が滲み始める。けれどそれを気にしている余裕はないし、見逃す彼女でもない。即座にバールをひっくり返して釘抜部分で私の目を狙って横薙ぎ払い、からのそれに遅れて左腕で反応したせいで、空いた左腹に対し彼女の蹴りが入る。
「お゙……っぇ゙」
腹への衝撃で酸素だけでなく胃酸や血までが口元へと登る。苦い、痛い。意識が飛びかけ前のめりに倒れそうになるが、すんでの所で右足を前に出し倒れるのを防ぐ。そこへ容赦なく、まるで脳天でもかち割ろうとするように振りかぶってきた彼女のバールを右手でなんとか鷲掴みにした。
「なっ!?」
「はっは……げほっ、白刃取りってな……」
紲星はそれを引き抜こうとするが、んな事はさせない。歯を食いしばりながら身体を左に捻りバールを強く持っている彼女事こちらへ引き寄せ、体勢の崩れた彼女の顔面へそのまま勢いよく、下から頭突きをする。
「……っ」
「んぶ……っ!?」
強い衝撃で白む視界。けれどそれで止めはしない。
――ほんま、顔ばっか狙いおって。
怯んだ紲星より先に動き、今度は身体を右に捻りつつ、目の前に差し出された腹へ思いっきり中指の背を立てたパンチを捩じ込んだ。
「お゙っ……ぇ゙……っ」
彼女は衝撃でそのまま尻もちをついた後、痛みで横に丸まりながら倒れた。もしかしたら鼻が折れてしまっているかもしれないが、きっちり2回分返した私は肩を落とし、鼻で息を大きく鳴らして「両成敗やな」と笑いながら言ってやった。
「な、にが……おえ゙っ……両成敗、よ……。ゔぷっ……」
「2回は2回や、肩と腹、顔と腹、変わらんやろ」
「私も女の子……っ、ゔぇ゙っ」
「女の子が暴力に訴えんなや……」
私はバールを遠くに投げ捨ててから、横たわった紲星さんの背中を擦る。あんまり痛みに慣れてないのだろう、軽い子はええなあなんて思いつつ、辛そうにする彼女が落ち着くまで摩り続けた。
暫くして「もういい」と私の手を払い除けた紲星さんは、むくりと起き上がった。しかし私はいいわけがなかった。
「なんでこんなことしたん」
私の言葉に項垂れる彼女。時間は惜しい、けれど彼女と3ヶ月だけだとしても……葵と一緒に過ごした人として、一緒に依頼をこなした仲として、どうしてもこんな事をした理由を知りたかった。しかし口を割らない彼女の姿を見て、諦めて進むべきか迷い始めていると、ポツリと「茜は、なんで立ってられるの」と紲星さんは呟いた。
「おん?」
「その身体、もうずっとふらふらして、服だけじゃなくてどこもかしこも血だらけで、立ってるのもやっとでしょう。なのになんで立てるの」
「そんな奴を転ばせたり蹴るなや……」
呆れたように紲星さんへ軽口を叩くと、彼女は顔を上げ真剣な表情で「真面目に答えて」と声を荒げる。
「庇ってる左腕をやられても、蹴られても……あんたが一番苦しげにしてる所を全部狙ったのに、それでも震え続けてた足で踏ん張って。……ずっと目を狙っても閉じさえしなかったし、あまつさえ最後は止める気なしでこめかみを狙ったのに、それすら閉じずに私が止めれないギリギリまで待ってからバールを掴んだでしょ。理解できないんだけど」
うちには的確に急所を突こうとする方が理解できん、と思わず言いそうになるも抑え、彼女が欲しがってる答えに一番近そうなものを答える。
「葵が待っとるから」
「……意味わかんない」
それを聞いた彼女は顔を覆うように頭を抱える。
「なんで待ってる人のためにそんな傷だらけのまま向かうのよ……。なんで怪我するのも怖がれないのよ……。おかしいでしょ……」
ねぇ……! と覆っていた手を私の首元へやり、襟を鷲掴みにしながらも彼女はどうしてか泣いていた。
「葵の事、本当に大事なの……!? あんたが傷つけば葵だって傷つく、それをちゃんと理解してるの……!?」
「しとるよ」
「してるんだったら何でそんなボロボロになってんのよ! なんでそのまま行こうとしてんのよ! なのになんで……っ! 折れられないのよ……!」
それは……。悲痛な声で訴えてくる彼女にどう言えばいいか悩んでいると、後ろから「もう、やめなさい」と声が聞こえた。
「ゆかり、さん」
いつの間にか後ろに居たのは結月さんだった。彼女はベコベコになった金属バットを片手に、こちらを見下ろしながら「本当に喧嘩したのね」と呆れたように口にした。
「だって、だってこうでもしないと、言わないとこの人は……!」
紲星さんは私の首を掴みながらがっしがっしと揺らしてくる。やめて欲しい吐いてしまう。どういうことだと、揺らされるままに結月さんに視線を向けると、彼女は紲星さんの事を止めてから「茜」と立つように手を差し伸べてくる。その手を借りて立ち上がると、結月さんは重たげに口を開いて喋り始めた。
「……私達は、今日葵の身に起こることを知っています。あくまで葵から聞いただけですが、絶対にこれは変えられない事実だとも。実際その通りに昨日からこの世界は狂ってて、今日に至っては人っ子1人ないし、それどころか黒い影が跋扈する始末。それに加え終業式だと言うのにも関わらず私達は学校にも入れない」
「入れない?」
私の疑問に結月さんは「壁があるのよ」と答える。
「校門前にね、幾ら殴っても蹴っても物を投げつけても燃やそうとしても、絶対に割れない透明な壁があるの。葵は『境界線』って呼んでたけれど」
その言葉にハッとし、少し遠いが校門前へ目を向ける。確かにそこには他よりも濃い、真っ白に絵の具で塗りつぶしたような『線』が見えた。
「私達はあそこから先に進めないし、手を伸ばす事すら許されてない。……でも、茜、あなたなら……先に進めるんでしょう?」
悲しげに笑う結月さんへ、私は「ああ」と肯定する。けれど地面に座り込んだ紲星さんがそれに対し「ふざけないで!!」と叫んだ。彼女はキッと私を睨みつつ言葉を続ける。
「何が「ああ」なの!? 立ってるだけでそんなふらふらしてさあ……っ! あんたなら葵の元まで行けるかもしれない、けど、でも……! そんな傷ついてまで行くなんて絶対おかしいじゃん……っ! あんたのせいで、あんたがいるからいつも葵は笑顔を曇らせて、あんたが傷つくから葵まで一緒に傷ついて! もうやめてよ……! 仮に助けられても、そんなの絶対嬉しくない……!」
紲星さんは再度よろよろと立ち上がり、私より低い背をした彼女は両手で私の首の襟を震えた手で掴み、涙をぼろぼろ零しながらも声を振り絞り訴えてくる。
「自分のせいで傷つく人がいるのがどれだけ苦しい事なのか、どれだけ辛い事なのか、なんにも分かってない……! あんたには、葵にそうやって心に負わせた傷を背負う覚悟あるの!? これからも傷つける事の意味……分かってるの……!? それが出来ないなら、自分勝手に救おうとしないでよ……。それが無理なら、これ以上葵を縛らないでよ……。もう、葵に叶わない夢なんて、見せたりしないでよ……」
「……うちは」
紲星さんの言葉に足るものを、今の自分が持ってるとは思っていない。けれど、それでも言いたいことがあった。
彼女の震え続ける手を血だらけの両手で抱え、涙を流し続けるその目を見ながら真剣に言葉にする。
「紲星さんの言う通り、きっとうちはこれから先……葵を一生傷つけ続ける事になると思う。誰よりも守りたいから一番近くに居ようとするのに、一番嫌な所を見せて、一番辛い所を見せてまう。そのせいできっと何度だって泣かせる、何度だって喧嘩する、何度だってきっと嫌んなりそうになる」
「だったら……」「でも」
「それでも、好きなんよ。どうしようもない程に、痛みくらいじゃ止められん程に、葵が好きなん。嫌われてもいい、この想いが捨てられる日が来てしもうてもいい。それくらいなら覚悟できるくらい、うちは葵に焦がれてもうたから。だから諦めん、この世界が終わるその一瞬まで、うちは何があっても葵の所へ行くよ」
これじゃ、だめか? 紲星さんにそれで言葉を締める。
彼女は私の言葉に目を大きく見開いた後、大きくため息をつきながら首の襟を掴む手を緩め、顔を伏せた。葵にとって親友、私にとって友達と思ってる相手だからこそ、めいいっぱい言葉を尽くしたつもりだが、あまり考えきれてない言葉はやはり伝わりきらないのだろうか。そう不安に思っていると、紲星さんは私から手を離し、それから「そっか」と言って懐から出したハンカチを私の顔に当ててきた。
「だったら、そんな血だらけの顔くらい綺麗にしてから行きなよ。女の子でしょ?」
「……ありがとう」
押し当てられ強めの力で拭かれつつ、ハンカチの合間から見える紲星さんは、仕方なさそうに笑っていた。
「うち、そろそろいかんと」
時計を見れば既に16時へ差し掛かっており、空には夕暮れが浮かび始めている。冬の陽は私の心を嫌でも焦らせてくる。
紲星さんの手を止めさせ、校門へ振り返ろうとすると「茜」と結月さんに呼び掛けられる。
「なん? ……っ」
「……起きたら、4人で飯でもいくか」
「……ええね、そん時は今度こそ金出させえや」
彼女の突き出した拳に強めに拳を突き返し、私は既に学校近くまで湧き始めていた『悪夢』を振り返ること無く、学校へ走り出した。……ゆかりとあかりを信じて。
◇
閉じきられ、鍵の閉められた正面玄関を何度も蹴り飛ばし、ようやくガラスが割れ、中に侵入出来るようになった事で気付いた。床がどこまでも真っ白な事に。
「……づっ゙ぁ゙!?」
冷や汗をかきつつ、つま先だけそれに触れると、全身に電気ショックでも食らったかのような痛みが走る。どうやら余程私という存在に学校に入って欲しくないらしい。刺激で硬直しかける筋肉を落ち着かせるため、大きく息を吐き出す。
近くに転がっていた大きめのガラス片をまた左手に持ち、泣き出しそうになる心を奮い立たせるように胸を何度も叩いた。行くべきは葵の教室への最短ルート、1階南から通路と廊下のみを通って東へ行き、その後階段を上って3階手前階段踊り場。
――大丈夫、大丈夫。
うちなら、やれる。そう言い聞かせ、校内へ足を踏み出した瞬間にガラスを強く握りしめる。先に走った痛みが優先され意識は保てる。けれど足が動かない。私はそれを鼻で笑い、いっそと前に倒れ込んだ。脚は動かなくてもガラス片を握った手と連結する腕は動かせる。なら床を這って進めばいいだけだ。
腕を動かす度、ガラスの食い込む痛みか床からの痛みか、判断の出来ない辛さで涙がぼろぼろと流れる。それでも這って、這って、這って進む。
――痛い。
頭の中で弱音を吐く自分が痛みを叫び始める。分かってる、痛くない訳がない。それでも進まなきゃいけない。
――辛い。
分かってる、なんでこんな痛い思いしなきゃいけないんだって思う。それでも進まなきゃいけない。
――苦しい。
私だってそう思う。だから涙が止まらないんだから。早く楽になりたい、けどそれでも進まなきゃいけない。
――なんで。
漠然とした質問。階段前まで辿り着いた私は、もはや痛みも感じず立ち上がることができた。ガラス片を捨て、階段を2段飛ばしで駆け上がる。
――ねぇ、なんで。
そりゃあ――
「葵!!」
「お姉ちゃん……っ!」
――うちは、お姉ちゃんやもの。
私は階段を上っていた葵まで辿り着いた。けれど落ちる前に止めることは出来ず、背中から落ちてきた彼女をなんとか抱き締め、そのまま一緒に階段から落ちる。
背中への強い衝撃と、バキッと身体の内側から身の毛のよだつような音。けれど頭だけは防ぎきり、意識を保つ。肺から追い出された酸素をハッハッと犬の呼吸のように何とか吸い込み、それから葵に叫ばれていることに気付く。よかった、無事だった……。
「死んだらどうするの!? ほんっと、ほんっと意味分かんない!!」
葵は正面に向き直り、私を強く、震えながら抱き締める。そんな彼女の頭を撫でてあげたいが、生憎べっとりと手についた血が彼女の髪についてしまうためそんな事はできず、ただその身体をぐったりと抱きしめ返した。彼女の服には、病院で見た時と同じ様な色の赤黒い血がじわりとその白い服へ滲んでいく。
「聞いてるの!?」
「はは……きいとるよぉ……」
「夢でもここは痛いんだよ!? 全部の感覚は現実で、ここで死んだら、本当に死ぬかもしれないんだよ……!? ああもう、ほんと、ほんと、馬鹿、ばか……!」
「それもわかっとるよ……」
「わかってない!!」
「分かっとる……!」
今の私では彼女の溢れ出る涙を拭ってあげる事もできない。代わりにおでことおでこをくっつけ合わせ、言ってやりたかった言葉を紡ぐ。
「やって、ここにやって来た時からずっと痛いんよ……。ずっと痛くて、苦しくて、泣きそうで、めっちゃ落ちる時やって怖かったけど……でも、葵やって同じやん。もし痛みがなかったとしても、夢だとしても、目覚めなくなる終わりなんて、きっとめっちゃ怖い。……そんなん、葵に体験させる訳には、いかんやろ……」
そんなの、葵に慣れて欲しくも知って欲しくもない。けれど葵は「……わかんないよ」と声を震わせて言う。
「お姉ちゃんの言うこと、私にはやっぱりわかんないよ……」
「別に難しい事やないと思うんやけどなぁ……」
私は葵の肩を掴み、少しだけ身体を離させてから、彼女の唇にキスを落とした。
「要は……傷ついてほしくないとか、生きて一緒にいたいからとかそういう、自分と同じ……いいや、それ以上に大事に思うから、身体が動く。そんだけの話やん」
その言葉に葵は目を見開いた後、涙を零しながらも笑う。
「……ばか、それなら好きって言ってよ」
地平線へ落ち始めた夕日は、私と同じ色に染まる彼女をきらきらと照らし、とてもきれいだなと心から思った。
本当に自分はこの子を助けられたんだ、その実感が強く湧き、私もその言葉に泣きながら返す。
「好きよ、葵」
「うん……っ。私も、お姉ちゃんが好き……っ!」
◇
ひとしきり抱き締めあった後、ずしりと押し掛かる体重が増え「葵」と呼びかけるが、彼女はすうすうと寝息を立て眠っていた。葵の体は少しずつ薄くなっており、恐らく少しずつ現実へと戻り始めているのだろう。
私は眠り姫を抱っこし、床が正常に戻っている学校の中を歩いて保健室へと向かった。
辿り着いた保健室のベッドへ葵を寝かせ、額へとキスを落としてから体へ布団を被せる。それから棚や薬品箱を漁るが、無い、無い、無い。
蹲りそうな痛みが全身を襲い始め、息が乱れる。
この夢から起きる条件は『私』が知っていた。葵が現実で意識を覚醒させれば自動的にこの夢は私だけが見ている夢になる。ならば後は眠っていることを自覚して起きるために葵と同じように眠れば良いだけだ。けれど――
「はぁ……っはぁ゙っ゙……ぐぅ゙……っ」
痛い、痛い、痛い、痛い……! こんな痛みで、眠れるわけがない。気絶はできるかもしれないがそれではだめだ。私が寝るためには間違いなく痛み止めになる何かが必要なのに、おぞましいことに形だけがそこにあるだけで、瓶や箱の中身は全て空だった。
死ぬ。まず間違いなくこのままだと自分は気絶して、そのまま死ぬのが嫌でも理解できた。それだけ私は血を流し、骨を折り、それでも身体に無茶をさせ続けていたのだ。
蹲りそうな身体を必死に動かし、探す、無い、探す、無い……っ。
「い゙だい゙……っ、いだい゙……!」
いたいいたいたいたいいたいいたいいたい……っ、葵を助けた時からずっと脳が出していたドーパミンが途切れ、心臓が脈打つ度に痛みが増すようだった。髪を引きちぎりたい、顔を掻ききりたい、舌を噛みちぎりたい、なに゙、かな゙いど、頭、がおかしくなりそうだった。
「あ、お……い」
棚に手をつき必死に立ちながら、痛みで勝手に涙が出る中、ふと口に出た言葉。
私はその名前に導かれるように葵の元まで足を引きずり歩き、眠っている彼女の横でぺたりと床に座り込み、その手を取った。
「たす、け――」
――だめや。
頭を、ガン、ガン、と何度もベッドへ打ち付けた。
だめだ。もし葵を今引き戻したら、存在しない24日の続きを見させることになる。それは辻褄が合わない。もしそんな事をしてしまえば、本当に葵は夢から出られなくなってしまう。今夢の主導権は葵ではなく完全に私へと渡っているのだ。ならば私の夢の在り方はまだ間違いなく葵が起きられない世界。そんな世界に葵を引き戻すことは絶対に避けないといけなかった。だから――
――詰みだっ、た。
私はただただ痛みに耐えつつ、ひたすらに手を握る彼女が早く起きるようにとだけ祈り続ける。
私が弱音を吐く前に、私の心が折れ切る前に、私が駄目になる前に、早く、早く、早く……!
「はよ、ぉ……おき、い。ねぼす、け……」
その言葉とともに彼女の体は完全に消え去り、私は冷たくなったベッドへ頭を横たえながら、涙を流しつつ安堵した。
――よかった……最期までお姉ちゃんでいられて……。
そのまま私は、プツリと意識を落とした。
最終章 2月24日 姉妹の見る夢
耳に届く喧騒。正直あまりの煩さに、そのお陰で起きれたのかなと錯覚する程だった。けれど起きると言っても意識だけが薄ぼんやりと保てる程度であり、身体は一切動かせなかった。まるで卵の殻に閉じ込められていると錯覚するような自由の効かなさ。少しでも力を入れようとするが身体の動かし方すら思い出せず、結局力むだけに終わってしまう。
次第に頭が重くなり、恐らくは見ていた夢のせいではあるだろうが……眠り続けていたとは思えない程に疲労した身体は眠気を訴えてくる。これは今日は起きれないかな、とぐったり考えていると、ずっと喧騒を聞き続けていたお陰か辛うじて入り混じった声の中身が聞き取れるようになり始める。一体植物状態の人間の横で何を騒ぎ続けているのだろうと、興味本位で一語一語丁寧に聞き取ろうとすると、少しずつ焦りによる吐き気が込み上げてくる。
声は約5種類。2人は聞き覚えのある声と名前をずっと呼び続けていたためすぐ察せた。
茜、茜と賢明に、人目も憚らず大きな声で娘の名前を呼び続ける、父と母の声。それに続く言葉は「しっかりしろ」「死ぬな」「起きなさい」「お願いだから戻ってきて」
他には妙齢の女性の声で同じく茜さんと呼ぶ声と共に、周りに居る誰かに「除細動器!早く!」と指示しつつ、何かを何度もぎっぎっと押し続ける音。
皆一様に同じ名前を必死に呼び続けながら、息を荒げていた。
――お姉ちゃん。
何が起こってるかは分からない、けれどこのまま横になっていたらきっとまずいと、身体を必死に動かそうとするがびくとも動かない。
――起きろ、起きろ……!
何度も、何度も脳に訴えながら手を、足を、頭を、瞼を動かそうとしても、1年と眠り続けていただろう身体はあまりに重く、全てが石のように固まっていた。
耳に新しく姉の危篤状態が伝わってくる度、何も出来ない、声を掛けることも出来ない自分を、無力感が襲う。どうして、どうして私だけお姉ちゃんに何もしてあげられないの、どうしてこの身体は大事な人が危ない時に動かないの、どうして、どうして、どうして……っ!
――ねぇ動いて……!起きてよ! 起きろったら……!!
幾ら身体の内側から自分を叩き続けても、身体は動かない。疲労により意識の落ちる直前、せめてもの最後に出来た抵抗は、涙を一筋流せるだけの瞼を開けることだけだった。
◇
2度目の覚醒した意識、私はあれからどれだけ眠ってしまったんだろう。眠る直前の抵抗のお陰かは分からないが、眩しい光が私の目元へ差し始め、それにより固まっていた身体が少しずつ解凍されるかのように、瞼、手、口の順で言うことをやっと効かせられるようになり始める。
視界にまず見えたのは眩しい白い光。眉をひそめつつその不快な光をなんとかしようと腕を動かすと、腕が何かを引っ張ってしまいガシャン!と軽い金属か何かが倒れる音が響く。
「……葵?」
その音に反応してだろう、聞き覚えのある低い男性の声が私を呼ぶ。目覚めた直後も聞いたその声は大分掠れているが、それでも間違いなく父の声だと分かる。
「ぁ……ぁ……」
「葵、葵なのか?」
乾ききった口と喉は返事をしようにも声にならない音しか出ない。頬も顎も筋肉が完全に衰え、動かすのもやっとだった。けれど私は父になんとしても聞かなければいけない事がある。肺へ必死に酸素を引き込みつつ、小さく息を吐きながら言葉らしきものを発し、近寄ってきた父に手を伸ばす。
「ぉ、とー、さ……ん」
「ああ、ああ……!葵……っ! そうだ、お父さんだよ……! 痛い所はないか……?心臓が苦しかったりはしないか? あぁ……ああ……!お前だけでも起きてくれてよかった……っ!」
父はその大きな身体で私を優しく起こし、ひしと抱きしめながら涙混じりの言葉を伝えてくる。記憶にあるより父の身体は少し痩せただろうか? 少しだけ心配になりつつも、それよりもと私は父の腕の中で口を動かす。
「ぁ……ぁ、ね、は……?」
その言葉に一瞬父はびくりと身体を震わす。「お前だけでも」、その言葉を私は聞き逃してなどいない。私の言葉に返事はせず、父は「……先生を呼んで来るよ、少し待ってなさい」と私の身体を寝かせようとしてくるが、その腕を振り絞れる力の限り、私は掴んだ。
「ぁ、が……ね゙、は……!?」
父は私の必死な形相へ眉間に皺を寄せ、「……聞いていたのか?」と苦しげに呟く。私は少しずつ動かし慣れてきた口で、必死に「ね、ぇ……!」と声を出すが、それでも父は肝心な所を答えてくれない。痺れをきらした私は父を押しのけ、ベッドから足を下ろそうとするが、「だめだ!!」と父が私の行動を抱きしめ阻む。
「い゙っ、や! おねぇ゙ちゃん、に、あう、の……!」
「ぐぅ……っ!」
私は父の腕を全力で噛むが、それでも父は力を緩めず腕を離してくれない。どうにかできないかと必死に暴れていると、病室前の扉がガラリと開いた。
「……琴葉さん、葵さんは――無事起きましたか」
「先生。……ええ、なんとか」
先生と呼ばれた、緑色の長い髪を束ね、白衣を着た女性。その声は間違いない。茜の治療で指揮を取り続けていた人の声だった。私はそれに気付いた瞬間、もう一度声を出す。
「あかね、は……! あかねは……っ、ぶじですか……っ」
父は変わらず私が暴れないよう、けれど怪我や圧迫が起きないようギリギリの強さでずっと私を抱きしめ、抑え続ける。先生はそれを見て「琴葉さん、解いてあげてください」、とこちらへ近寄りながら口にした。父はそれを渋るが、「お願いします」と彼女の一言で、ゆっくりと気遣うように拘束が解かれる。けれど私はそれに甘んじる身ではない。即座に傍まで寄ってきた彼女の腕へしがみつき、「あかねは……どこ、ですか……!」としつこいくらいに聞く。先生は私のしがみついた手に触れながら、「知る覚悟がありますか?」と答えた。
「待ってください先生! この子に本気で明かす気ですか」
「説明したはずです、葵さんは知る権利があると。私達はそれを選んだ身なんですから」
「ですが……!」
「おとおさ、ん、わたし……しりたいの」
「葵……」
先生に嗜められて尚抵抗する父に、私は言葉を掛ける。父は苦しさを堪えるように私を見るが、私はそれでも言葉を止めない。
「おねえちゃんが、わたしをたすけてくれ、たから。いっぱい、いっぱい、いたいおもいして、だきしめてくれ、たの。だか、ら、おねがい……。せんせいも、おねがい、します。あかね、のこと、おしえ、て、ください……!」
口が痺れ、やっと慣れた喋りもまたつっかえつっかえになり、喋り終えたら終えたで息を切らし咽てしまう。それでもきちんと言い切った筈だ、私の意思を、この2人に。
先生と父は少し黙った後、顔を見合わせ頷く。父は渋々といった形ではあったが、それでも茜の事を聞けるのであればなんでもよかった。
先生はベッドの横に倒れていた点滴のスタンドを起こしてから、その横にあった椅子に座り、姿勢を正して私を見るなり、頭を深く下げた。
「まず、最初に謝っておきます……ごめんなさい。葵さんの夢に茜さんを再度導いたのは……私です。彼女の背中を後押しして葵さんを起こして貰うために夢に入って貰いました。……そしてその茜さんの現状ですが――」
「先生、それは私から伝えさせていただけますか?」
先生が重い口を開こうとした時、それは扉から入ってきた別の人に止められた。
「おかあ、さん?」
「ええ。……起きてくれて嬉しいわ、葵」
母はふわりと穏やかに微笑みつつ、父の隣までやってきて、私の目線に合わせるように床へ片膝をつく。私の知っている限りの記憶では、私が意識を失ってから父も母も私の病室に全くと言っていいほど来なかったはずで、それなのに2人が揃ってこの個室……いや、少し広くなり、ベッドは2つ存在する部屋になっているが、それでも両親が私の元に一緒に居るというのは家族だというのにも関わらず、どうにも違和感が拭えなかった。
先生は母の言葉に苦々しくも「どうぞ」と言い、母はそれに小さく感謝を伝えてから私ともう一度向き合った。
「葵、よく聞きなさい。……茜は、あなたのお姉ちゃんは、もう……起きない」
「おきない、って、どうして」
未だ聞いたことのないくらいに冷え切った母の声、怯えるように身体が勝手に震えるも、母は言葉を続ける。
「脳が、動いてないの。あの子はもう……自分で心臓を動かせていない」
「わ、わたしみたいに、なってるってこと?」
「違う……。茜はもう数日もしたら……死ぬの。葵と違って、あの子の身体はもう生きようとしていないから」
「しぬ、って……え……? や、やめてよ、そんな冗談!」
しぬ、死ぬ? お姉ちゃんが? 意味が分からない、どうしてそうなるのか、頭が理解を拒む。私の言葉に誰もが口を噤み、何も言ってくれない。
「だって、だってだって、私だって1年もいきたじゃん、なのに、なのになんでおねえちゃんが数日なの? おかしいじゃん、ねえ、ねぇ……って、なんとか言ってよ……、お父さん、お母さん……っ」
父と母は顔を伏せるばかりで何も言ってくれない。ならばと先生へ私は言葉を告げる。
「もういちど……私が、おねえちゃんの夢にはいります」
「……ハッキリ言います。医師としてそれは許可できません」
けれど先生からの返事はNoであった。
「なんで……!」
「脳が動いてない、そうお母様に言われたでしょう。茜さんの現状を広義的に言うならば、脳死です。そんな彼女の夢に入る? そもそも夢を見ていない彼女にどうやって? 確かにもしもう一度夢に入れるなら、それは茜さんと葵さん、おふたりが同時に感情や感覚といったものを交感して、その上で同じ現実へ帰りたいと、心から願えば起きる可能性もあるかもしれない。……でも彼女の脳はほぼもう動いていない、そんな状況で意識を茜さんと共有なんてしたら、あなたこそ死ぬわよ」
「それくらいの覚悟……!」
パシン、と首が曲がる勢いで頬に強い衝撃が走る。叩かれたのだと気付くのは、じわりと頬に熱を持ってからだった。
「なにすんの……!?」
私は叩いてきた手の先、母を睨みつけながら抗議するが、返ってきたのはもう一度のビンタと、「死ぬ覚悟なんて、馬鹿言わないで!!」という叫び声だった。
その言葉に母へ私は峻烈に怒りを顕にした。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな……っ!! 私は知ってるんだから……!
「お姉ちゃんへ全部押し付けた癖に、どっちが馬鹿なのよ!?」
私の言葉に母も、父も、先生も、全員が苦々しい表情をする。
元々お姉ちゃんが夢に1度たりとも入ってくる筈がないのだ、だってお姉ちゃんの1度目は疲労の気絶による偶発的な夢入りであり、それさえなければ2度目も、今お姉ちゃんが脳死になることもなかった。では何がお姉ちゃんをそこまで追い詰めた? 何でそこまでお姉ちゃんが疲労を溜め続けた? 全部、全部、全部……!
「私の介助も介護も、全部お姉ちゃんに丸投げしておいて、何で今更あんた達にしゃしゃり出られなきゃいけないの! 何かしらそこに意図があったにしろ、夢の事すら知ってるなら、知っててお姉ちゃんを3ヶ月も放置してるじゃん! 起きてよかった?起きて嬉しい? もっと、もっとお姉ちゃんがこうなる前に何とかできたじゃん……! 私から強引に引き剥がせば、お姉ちゃんは助けられた筈じゃん……! なのにお姉ちゃんは見殺しにしろって何……? いつも、いつも、いつも! そうやって小さい頃から……お姉ちゃんと私を引き離せて、満足だった……!?」
ぐちゃぐちゃとした、ずっとずっと心で渦巻いていた気持ちを留めるなんて、最早私には出来なかった。それくらいこの人達にずっと、お姉ちゃんが1人でお見舞いに来る度に苛立っていた。
けれど私は本当にお姉ちゃんを助けようと思うのであれば、もっと上手く立ち回るべきだった。そうやって全ての気持ちをぶちまけた私に言い渡されたのは、この部屋への軟禁宣言だった。
◇
ベッドの上でぼんやりと、開いたカーテンの間から見える夜空を眺める。私の夢では12月だったが、どうやら世間は既に2月を過ぎているらしく、空には冬の大三角がきれいに見えた。
星で思い出すのはやはり、お姉ちゃんとのデートだろうか。プラネタリウムのシアターでお姉ちゃんはうたた寝をしていたけれど、本当に夢のような時間だった。その時間が一生続いて欲しいなんて、私が紛い物の星に願ってしまったせいでお姉ちゃんをおかしくさせてしまったけれど……。それでも、帰宅途中の2度目の告白だけでなく、彼女自身の……本物の3度目の告白をされたのがどうしようもなく嬉しくて、キスをせがまれたのが嬉しくて、ぼろぼろとその日泣いてしまった。まるで昨日のように思い出せるお姉ちゃんとの日々。
……だから、私は最後のあの日、自分が死んでもいいと思ったのだ。もう、もう十分、一生分の恋をお姉ちゃんにしたから。そういう事が出来なかったのだけが心残りではあったけれど、あの断頭台の様な階段を登るときの心持ちは……いや、嘘だ。本当はもっと、もっともっとお姉ちゃんと過ごしたかった、お姉ちゃんと死ぬまで生き続けたかった、最期までお姉ちゃんの知りたいことを教えてあげたかった。
なのに現実に帰れたと思ったら、次はお姉ちゃんが死ぬと言われた。まるでこの世界は私達姉妹のどちらかを消したがっているようで、そんなの納得できるわけがない。私ならまだいい、いやよくはないが、それでもお姉ちゃんが死ぬのは許せない。好きだからという理由を含めても、それ以上に、あそこまで血反吐を吐きながら人に尽くす人が、死のうとしている事が、私には許せなかった。
「行くか」
私はベッドに備え付けられた木の椅子を外し、手に持ちながら閉じられた扉の前に立つ。
母は言っていた、茜は数日で死ぬと。先生は言っていた、茜の脳はほぼ動いていないと。そう、ほぼ。心臓を動かしたり呼吸したり、そういった生きるために必要な機能はきっと本当に停止してしまっているのだろう。けれど……先生の夢に対する言い方は無茶でも無理でもなく、私が死ぬかもしれないから駄目としか言っていない。それはつまり、お姉ちゃんの脳はまだ辛うじて意識はあるのだ。だからこそ、私をお姉ちゃんに近づけさせないためにこの部屋に閉じ込めているのだ。
お姉ちゃんに会えれば夢に入れる、それが私の答えであり、同時に――
「おー……らぁ!!」
「きゃぁ!?」
――扉を破るため、椅子を本気で殴る武器として扱う。それを行おうとした瞬間に扉が開き、椅子は大きく空振り、まだ身体が本調子ではない私は勢いのまま床にすっ転んだ。
「いったぁ……」
「わ、私が言うのもなんですけど、大丈夫ですか?」
「あ、あかりちゃん……?」
鍵も掛けられ、固く閉めきられていた筈の扉から姿を現し、転んだ私へオレンジのアームカバーがついた手を伸ばしてきたのは、紛うことなく、紲星あかり……私の友達だった。
その手を借り立ち上がり「ご、ごめんね。でもどうしてここに?」と謝りつつも疑問を口にする。彼女はその言葉に「私だけじゃないですよ」と言い、よくよく暗闇の中を見ると、彼女の背の後ろには、同じく友達である結月ゆかりがそこにおり、私が気がつくと軽く手を肩辺りまで挙げた。
「茜の所、行きたいんだろ?」
「そ、そうだけど……」
「じゃあほら、あかり」
「はいはーい、という訳で葵さん、誰かにされたいお姫様だっこか、おんぶ、選ばせてあげましょう」
2人はどこか楽しげに、私の話を聞かずに話を進めようとする。「ちょ、ちょっとまってよ」と言っても「はよ」「さあさあ、どちらにします?」と取り合ってすらくれない。
このままでは本当にお姫様だっこをしかねないあかりちゃんの気迫に負け、渋々なから「……おんぶ」と答えると、温かい目で「りょーかいです」とだけ言われ背負われた。
それから2人の足はとても早く、静かだがそれでも明確な目的地を持って院内を駆けた。
「葵さんは、ちゃんと生きて帰って来ますよね」
あまりの足の速さに、振り落とされないよう必死にあかりちゃんにしがみついていると、彼女が声を掛けてくる。その声はとても静かなのに、私の耳によく届いた。
「……分からない」
その言葉に、あかりちゃんはピタリと足を止めた。
「分からないじゃなくて、ちゃんと約束して」
普段ずっと敬語で私に接してきた彼女が、初めて私に砕けた口調を使う。その言葉はどこか気迫があり、背負われつつも思わず居住まいを正させた。
あかりちゃんの言葉の意味、それは彼女たちが夢の記憶を持っている事。そしてこれから茜の元で私が何をしようとしているのか、それらを全て察した上での言葉だった。
――けれど、だからこそ安易な事を私は言えない。そんな簡単に、約束なんて出来る筈がない。
お姉ちゃんが起きれなくなってるのは、きっと現実と夢の区別がつかなくなったからだ。お姉ちゃんは夢で死ぬほど痛い思いをして、現実では悪夢を毎日見続けて、彼女にとって夢で眠り続ける事こそが、一番心を守る事のできる手段になってしまった。なら私がそこに介入するのであれば、それを癒やすとても長い長い時間が必要な筈なのに、残された時間はたった数日……きっと3日も4日も無いだろう。だからこそ先生達は私の夢入りを許してくれないのだ。お姉ちゃんが死ねば私もきっと同じように現実に帰れなくなり、ミイラ取りがミイラになる状況。私の夢入りは、結局生死そのものを賭けのベットにしようとしているに過ぎなかった。
「あだっ!?」
「お前は本当に茜そっくりだな」
悩み、悩み、考え続けていると、こめかみにでこぴんを食らう。中々の衝撃が頭に走り、痛む所を抑えながら、それをしてきたゆかりさんを睨みつける。
「ど、どこが?」
「睨みながら嬉しそうにするなよ……。そうやって口を閉ざして悩む所がそっくりだよ、あいつに。……だからこそ言うが、葵のその賭け、私も、あかりも勝手に乗るからな」
「……賭けなんて、私言ってない」
本当に、一言も言ったつもりはない。なのにまるで心を読んだみたいに、ゆかりさんはその単語を口にした。
ゆかりさんは溜め息をつきつつ、「考えまでそっくりだよ、ほんと」と言う。
「いいか、もし茜を助けられないとわかった瞬間、私達は葵を茜から全力で引き剥がす。冗談でもなんでもない、腕を折ってでも離させる。その上で葵、お前が起きなくなるっていうなら……一生お前が目覚めるまで待つからな」
「一生って、なにそれ……」
「一生は一生だ。毎日、毎日毎日毎日……葵が目を開けるのを待ち続ける。自分の命だけじゃない、私達の人生も賭けて挑め。それくらいしないとあの馬鹿には釣り合わないだろ」
ゆかりさんの目も、言葉も、本気だった。それに私達と言うからには、あかりちゃんもそれに乗っている。2人は本気で言っているのだ、茜を救うか、4人の人生を棒に振るのかを選べと。
――ずるい。
2人は最初、茜の事を明確に苦手や嫌いという意識があったはずだ。それなのに夢と現実を経て、琴葉呼びから茜呼びに変わり、遂には人生まで賭けるというのだ。そこまで2人からの信頼を得てみせたお姉ちゃんを凄いと思うのと同時に、彼女達が私の知らない茜を知ってると思うと、悔しかった。……同時に、情けなかった。
私は茜の傍に立つために、茜を背負えるくらいになるために今までやってきた筈なのに、未だに彼女を救うために賭けてるのは自分の命。
――でも、葵やって同じやん。
ああそうだ、きっとこんなやり方をしてしまうのは、私か茜のどちらかが助かるかじゃない、両方生きるか、両方死ぬかしかないからだ。だから、茜が一番嫌がる事をしないで済むと思っているから、覚悟が甘くなる。
――あの世でまで喧嘩は、したくないな。
ゆかりさんとあかりちゃんが、秤に乗せてくれなければ気付けなかった。これは最初から選択肢なんてない。私がやるべきは――
「……いいよ、約束する。必ず、茜と生きて一緒に戻るから。……だからお願い、私を、お姉ちゃんの所まで連れてって……!」
「「りょーかい!!」」
――茜を助ける、その一択だけを考えるだけだ。
◇
2人に連れてこられた病室、そこは1人用の個室入院部屋であり、降ろされて部屋に入ると、ふわりと花の香りがした。
――私のいた病室だ。
そう気付くのに時間は掛からず、同時に暗い視界の中、横になって人工呼吸器を取り付けられている姉の姿と、その横に1人の見慣れた女性がいた。
「……やっぱり来たのね、葵」
「……お母さん」
暗闇の中でも見える、さらさらと揺れる長い空色の髪、茜色の目。その目が私をじっと捉える。
「葵」
「あのね、お母さん、私――」
「18歳の誕生日、おめでとう」
「――え?」
母か父を説得しなければいけない、その一心で言葉を考えてきたのに、その一瞬で何もかもが飛んでしまう。
母は私に近寄り、父と同じようにまるでガラス細工でも触れるかのように、恐る恐る、けれどひしと私を抱きしめた。
「おかあ、さん……?」
「……あなたが言ったことに、私達は何も否定しないし、言い訳もしないわ。そして、親としては失格でしょうけど、止めもしない。……けど、ごめんなさい……、行きなさい、とは、どうしても言えないの。それだけは、許して頂戴……」
…………なんで。
「なんで、なんでそんな不器用なの……!」
本当は、本当は分かってる。茜の記憶がうっすらと私の頭の中にあるから、なんで家族が関西と関東で離れなきゃいけなかったのかも、私の介助を茜がたった1人、茜が無理を言ってやっていたのも、父と母がずっとそんな茜の事を見つつ気に病んでいた事も、あの先生を何とか呼び寄せて、少しでも私の治る最後の可能性に賭けたことも、そしてずっと私達の入院費用を誰が出し続けて、2人が倒れている間誰が介助をしてたかも、全部、全部分かって、分かってても子供みたいに喚いたのに、それなのに母は勝手に責任を背負って、反論もしてくれない。
それは、あまりにも、あんまりだった。
「ずっと、ずっとあなた達に生きてほしくて、ただそれだけが私達の願いだった……。お腹の中ですら生死を彷徨わせて、生まれてからもずっと茜も葵も身体が弱くて、どうしてもっと丈夫に生んであげられなかったのか、どうしてもっと2人を一緒に居させてあげられないのか、本当に後悔してた。あなたが事故で起きなくなったって聞いた時は、何度も自分を責めた。……でも、今あなたがここまで来て、ようやく分かったわ。もう十分……あなた達は2人で支え合って生きていける大人に、成長してたのね」
母は私から身体を離し、涙を拭いてからにこやかに告げる。
「ねぇ、葵。お姉ちゃんのこと、好き?」
「……好き」
そう、と母は目を伏せ、それじゃあと言葉を続ける。
「……茜の事は?」
この人は、いや……きっと父も、分かってて何も言ってこなかったのか。
……本当にみんなして、大事なことを言わずにここまで来てしまっていたんだと、やっと気づいた。だったら、私が伝えるべきは。
「世界で一番、愛してる」
私の言葉に母はにこりと笑みを浮かべ、「それなら仕方ないわね」と私の背中を押した。
「行ってらっしゃい、葵。茜によろしくね」
「うん……! いってきます」
私は振り返ることなく返事をし、茜の元へと歩いた。
お姉ちゃんの手は開かれており、その隣にはクッションが敷かれた椅子が置かれていた。私はそこに座り、左手でお姉ちゃんの右手へ指を絡ませ握る。
彼女の膝下で握った手へ祈るように右手を重ねながら目を瞑った。
――どうか、どうか……後一度だけ、茜を私のもとにください。
……その願いは、今度こそ紛い物ではなく、窓から見える夜空へと願えた物だった。
◇
じっとりとした空気。手に感じる生温い感触。耳に入る静かな水滴の音。……そして、血の匂い。
「……っ」
不快感で目覚め、横たわっている身体を起き上がらせつつ目を開く。しかし辺りは真っ暗で何も見えず、ただ手元にはブニブニとした生暖かい感触と、ぽた、ぽたと流れ続ける水滴の音、そして嫌に鼻につく鉄の匂いが、心の中を焦らせてくる。
――怖い。
なぜかは分からない。けれど、私はどうしようもなくここが怖かった。
「はぁ……っはぁっ……!」
今すぐにすべきことは間違いなく視界の確保であり、そのために目を閉じ暗闇に目を慣らした方がいいのは分かってる、分かってるけれど、目を閉じるのが酷く怖い。身体が勝手に震え、軋むような痛さが全身を覆う。額に伝う脂汗を拭うこともできず、ただ漠然とした恐怖に身を包まれ、息を荒げながら身体を抱きしめることしかできない。
――しっかりしろ!!
歯を食いしばり、何とか右手を動かして頭の花飾りをぐしゃりと掴むことで、意識を辛うじて保つ。
「お姉ちゃん……」
そう、私はお姉ちゃんを助けに来たんだ。ここに怯えに来た訳でも、蹲りに来た訳でもない……! そう頭に言い聞かせるように、右手に強く花飾りを握りしめながら立ち上がる。前髪が少し垂れて鬱陶しく感じるが、それでも花飾りのお陰で少し落ち着いた心は、身体の震えを小さくさせる。
少し慣れてきた目で周囲を確認するが、相変わらず酷く暗い。まっすぐに手を伸ばせば、その手は闇に掻き消えてしまう程に、この場所の広さを物語っていた。
――ここのどこかに、お姉ちゃんがいるんだよね……?
少しだけ不安を覚えつつも、まずは一直線に歩き出すことにする。闇雲に歩いても仕方ないとはいえ、まずは壁ぐらい見つけないと位置把握が出来そうになく、それほどにこの場所は闇が深かった。
念のため心のなかで歩数を数えつつ歩く、歩く、歩く……歩く……。
千歩歩いた時点で、一旦足を止めた。空気が生暖かいせいだろうか、嫌に呼吸が苦しい。それに視界もこれ以上広がってくれる様子が無く、4歩以上歩いた先が一切見えないというのは、想像以上に心の余裕をなくしてきた。
最悪の想像が頭をよぎるが、まだそれを確定させるには早い。次は右向け右を正確にしてから、またまっすぐ、歩数を数えながら歩くことにした。
一歩、十歩、百歩、五百歩、千歩……一万。
――ああ、やばいかも、ここ。
ずっと、ずっとずっとずっとずっと耳に水滴の音が一定のリズムで入ってくる。視界はずっと代わり映えがせず、足元の赤しか見えない。
……私は深呼吸を2度大きくしてから、「茜!!」と大声を出した。あまりここで声を出すのはまずいと思っていたが、多分、想像が正しければ……。
――30秒間待っても、何も返ってこない。
声が、叫んでも一切響かなかった。人の声は大体届いて1~2km、音は秒速約340mで進むため、10秒以上声が返って来ないということは、上もNSEWも全てそれ以上の空間がここにできている。なのに一生水音だけが響き続けているというのは、どう考えてもおかしいのだ。だから、つまり。
耳を塞いでも、水音が同じように頭に響いてくる。その知ってはいけない事実を確かめてしまった瞬間、膝を折って地面に塞ぎ込みたくなる。
ぽた、ぽた、ぽた、ぽたと音は一生止むことを知らない。小さな音がずっと耳元で鳴ってるだけなのに、それが数歩先も見えない暗闇というだけで気が狂いそうだった。
「うるさい……っ、ゔる゙さい゙……っ!!」
もう、足を止めてなどいられなかった。私が嫌なだけならまだいい、まだ辛うじて耐えきれる。けれど私にはそれ以上に、ここに茜がいることが許せなかった。あんなに苦しい思いをして、死ぬほどの思いをして、なんでこんな場所に彼女が囚われないといけない、なんで彼女がそこまでの目に遭わないといけない、なんで、なんで!!
怒りに身を任せるように、とにかく私は全力で走った。何分、何十分、何時間か分からない、ぐにぐにとする足場に足がもつれ何度捻っても、痛みなどどうでもいい。ずっと聞こえる拷問のような水音など、心臓の音と声で掻き消し続けた。鼻につく血の匂いなどもはや慣れたものだった。それくらいにずっと走って、走って、泣いて、走って――
「っうぁ゙……!」
何度目か分からない。走り続け疲労が溜まった上でもつれた足は、いとも簡単に私の身体を転ばせた。ぶにゅりと地面に触れた手や顔に走る不快感。早く、もう一度進もうと立ちあがろうとするも、足がぐにゃりと勝手に曲がってしまい、立ってくれなかった。
――痛い。
そこではじめて明確に痛みを実感する。折れたのか腱をやってしまったのか分からない、けれどもう、まともに走る事は疎か、歩くことすら難しいことだけが分かった。
腹這いになっていた身体を軽く起こし、その場でぺたりと足膝とお尻を地面へつけ、呆然としながらふと思った。
――のど、乾かないな。
あれだけ走り続けたにも関わらず、身体が水を欲していない。私の身体が病から起き上がったばかりで、色々整っていないのは理解できる。こんな暗闇の極限状態で、少しおかしくなっている自分も分かっている。でも、ふと考えてしまった。――もしかして、水も食べ物もいらない世界なのかな、と。
想定の域は出ないが、考えてしまった瞬間、嫌な実感が湧き始める。ここで一生……死ぬこともなく彷徨い続ける事になるかもしれないと。
――寂しい。
胸が締め付けられるような苦しさを覚え、前へ倒れるように蹲ってしまう。
弱音を吐きたくない、まだ頑張れるつもりなのに、それでもこの空間は私にとってどうしても苦しすぎてだめだった。生暖かな場所の筈なのに身体がとても冷え切り、自分がひとりぼっちだと実感すればするほど、涙が溢れ出てしまう。
「おねえちゃん……っ」
寂しい、苦しい、痛い。その全てを吐き出すようにその言葉を口にする。私にとっていつだって、焦がれ、暖かだったその人を。
いつまでそうして蹲っていただろうか、ふと強く瞑っていた視界に光が映った。
決して強い光ではないが、暑くなるような熱も感じ目を開くと、目の前の……赤かったはずの地面に花が咲いており、そこだけ赤ではなく、花に照らされるように灰色の地面になっていた。加え花にも見覚えがある、この紫色の花は……。
「フロックスの花……」
お姉ちゃんに贈った、花飾りの花だった。
顔を上げると、花はどこかへ導くように一列に、ずっと遠くへと咲き続けていた。
「……」
――いる。
なぜかは分からない……けれど、確信を持ってそう思えた。この先に、必ずお姉ちゃんがいる気がする。
握り続けていたニコチアナの花飾りを髪へとつけなおし、私は震える足に鞭を打ち立ち上がった。足は上手く地面を踏みしめることが出来ず、1歩1歩引きずるように歩くしかなかった。……でも、さっきよりもずっと落ち着いた心は、転ばないようきちんと、身体を前へ、前へと意志を持って進むことが出来る。
「今、いくから……」
言わずとも待っているとでも言うように、花は風もないのにふわりと揺れる。それに涙を堪え顔を拭いつつ、1歩、また1歩と足を進め続けた。
最愛の人の元へ向かうために。
◇
花の終わり、導かれた先に彼女はいた。
「おねえ、ちゃん?」
「……こんにちは?」
その声は確かに、記憶にある私の姉の声。そしてその姿もまた、私の記憶にある姿ではあったが……。
「お姉さん、どうやってここに来たの?」
それはずっと昔の、幼い頃のお姉ちゃんだった。
「え、えっと……夢を見て、かな」
「そっか、じゃあうちとおんなじだね」
戸惑いつつも答えると、やはり幼少期の姉と同じく、彼女は関西弁と標準語の混じった言葉を扱う。うちの両親はどちらも標準語を扱うのだが、周りとよく喋る姉は「私」と「うち」をよく混ぜこぜに使っており、そんな彼女だけが使う言葉を、私はとても好んでいた。
おんなじ、という事は彼女も夢を見ている自覚はあるらしい、なら話が早い。
「じゃ、じゃあ私と一緒に起きない? お姉さん出口が分からなくて迷子なんだ」
「そうだったんだぁ、ここ広くて大変やもんね。出口ならあそこにあるよ!」
幼いお姉ちゃんが指差す先、そこにはなぜか木製でできた水色の開き戸があった。それは紛うこと無く私の部屋の扉であり、そこに鎮座している。
「あれ、開くだけでいいの?」
「そうだよ。鍵もしまってないから安心して」
疑問は尽きないが、それでもお姉ちゃんがいて出口があるという状況に、心の底から歓喜した。もう、もう大丈夫なんだ。お姉ちゃんと一緒に帰れるんだ! そんな想いを隠すこともせず、私は「じゃあ一緒に……!」と言葉とともに彼女の手を取ろうとするが、ふい、と避けられてしまう。
「ごめんね、うちはいけんから、お姉さんだけで行って欲しいな」
「な、なんで……?」
「待っとる人がいるから」
焦りなんて隠していられなかった。なんなら彼女を抱きかかえて出口まで飛び移ればいいだけだが、それでもお姉ちゃんに断られたという状況が問題だった。
――お姉ちゃんは、ここから帰りたがってない。
こんな拷問のような場所でも、彼女は何故か帰りたがらず、加え待つ人がいるという言葉に、私の心は嫌でも掻き乱される。
――私じゃ、ないの……?
そんな言葉を口にしそうになるが、すんでの所で噤む。私はもう、焦って何も取りこぼしたくはない。自分の心を強く自制し、幼いお姉ちゃんの話を聞くことにした。
「……それって誰か聞いても、大丈夫?」
「んっとな……ごめんなさい。わからへん」
謝られた事で泣きそうになるが、その後に続いた「分からない」で冷静になる。……分からない?
「名前も、姿も?」
「……わからへん」
純粋な疑問を口にするが、それにより彼女は口を固く結び、目に涙を浮かべ始めてしまう。
「ぅ……っぐ」
「あっあぁぁ……っ、ごめんなさい! そうだよね! そういうこともあるよね。お姉さんもよくあるから、だから大丈夫だから……」
膝を曲げ、彼女と同じ目線に立ちながらなんとか泣き止んでもらう。服にあったハンカチでお姉ちゃんの目元を優しく拭いつつ、「でも、ここは危ないよ……」とそれとなく誘導するが、それでも頑として彼女は首を振った。
……多分、強引にお姉ちゃんを連れて行くことは出来る。けれど時間の猶予がまだあるからこそ、それは最終手段にしたかった。
私は仕方なしに幼いお姉ちゃんの隣に膝を抱えるように座り、「一緒に待ってもいい?」と伝えることにした。
「……うん」
「ありがとう……!」
私の言葉に彼女はにこりとし、それから肩を寄せ合って話をした。
「お姉ちゃんはこの夢の事、よく知ってるの?」
「知らない。でも毎日見るから夢なのは知ってる」
毎日。その言葉に引っかかりを覚える。
「毎日、ここで誰かと会ってたの?」
「……違う。ここに居たん。だから待っとるん」
「じゃぁ今日だけまだいない、のか」
「うん……」
少し落ち込んでしまったお姉ちゃんの髪を撫でる。腰まであるその長い髪……前髪にはフロックスの髪飾りと、頭の横には叶結びのバレッタを付けており、やはり離れて暮らしていた頃の姉そのものであり、愛おしさを覚えた。
私が髪を撫でていると、お姉ちゃんは言葉を続ける。
「……いつも、その子、死んでまうん」
「……へ?」
「最初の頃はな、起きたら忘れちゃってた。でも夢を見る度思い出して、助けなきゃ、何とかしなきゃっていっぱい考えるのに、いつも間に合わない」
お姉ちゃんはまるで何かが決壊したかのように、淡々と言葉を続ける。
「いつも血だらけのその子を抱きかかえて、それで夢が終わってまう。夢に来る度に必死に頑張るのに、やっぱりどうしてもその子を助けれん……。そんな夢を見続けてたら、いつからか現実でも忘れられなくなってた。ああ、また今日も助けられなかったって」
私と同じように膝を抱えて座る彼女は、とても震えている。その震えた左手を、せめて少しでも温めようと握りしめながら話を聞いた。
「だからめいいっぱい、その子を助けるために知恵もつけた、運動もできるようになった。でも結果はいつも変わらんで、その子は死んでまう、毎日、毎日、毎日と。だから毎日うちも謝り続けた、ごめん、ごめんな、ごめんなさいって」
右手でその震える身体を擦りつつ、左手を握り続ける。……彼女の言葉で、私は少しずつ何かを思い出し始めていた。
「なのに、いつも夢でその子は言うんよ。あなたは悪くない、って。もう忘れていいんだって。血だらけな癖に、いつも笑いながら言うん。うちは助けられなかったんに、なんで……」
……そうか、ここは。私は……。
「なんで、そんな優しくするん……」
「生きてるもの」
私は大人の姿に戻ったお姉ちゃんへ笑いかけながら言う。
やっと……やっと最後の、知りたかったお姉ちゃんのことを知ることが出来た。
「私は、ちゃんと生きてるよ。あなたのお陰で」
何でこの場所に既視感があるのか、何でここが1人だと怖いのか、何でお姉ちゃんと夢を共有出来たのか、何でお姉ちゃんは悪夢を見続けていたのか、何で、何で、何で。その全てが私の中でようやく繋がった。
「うそや……」
「うそじゃない、ちゃんと……確かめて」
私達がお互いに言葉を隠してしまうのは、きっと言う必要が無いと考えてしまうからだ。相手が分かってくれる存在だと、ずっと感じていたから。
――でも、それじゃもういけない。
左手でお姉ちゃんの左手を取り、私の胸へと押し当てさせる。
「な、なにすんの……!?」
「だめ、ちゃんと触って」
お姉ちゃんは顔を赤らめ視線をそらしてしまうが、ずいとその顔へ近づき、押し倒してしまわないように気をつけながら、目と目を合わせる。
「あ、おい……」
「ちゃんと、聞こえるでしょう?この心臓の音が」
「う……うん……」
私はその返事に満足し、今度は右手で彼女の右手を自分の胸へと誘導させる。
「心臓の音、一緒だと思う?」
お姉ちゃんは目を瞑り、じっと考える。その間に言葉を続ける。
「私は多分、生まれる前にここで一度死んだ。……合ってるよね」
お姉ちゃんは死という単語にびくりとするが、小さく頷く。
「……あなたが魂を分けてくれたお陰で、私は今日まで生きてこられたんだよね。ありがとう、そして……ごめんなさい。忘れてしまって」
私の言葉にお姉ちゃんは「忘れられるくらいの事に出来てたなら、嬉しいわ……」と口にした。
お姉ちゃんの悪夢、それはきっと事故より更に以前、それこそ母のお腹の中にいた時の記憶だ。……そこで私は恐らく、本当に事故でも何でも無く、本物の運命の悪戯で死んでしまったんだ。耳に届く水音はきっと、本来赤子にとって安心できる筈の物なのに、私は死んだ恐怖のせいでおぞましい音に聞こえるようになってしまったんだと思う。でなければ、幼い茜が1人でこの夢にいられるとは到底思えなかった。
「そうか……そか……」
じっと心臓の音を聞き続けていたお姉ちゃんは、閉じた目に涙を浮かべながら、やっと口を開く。
「こんなにうるさい音が、あなたと一緒だと思う?」
「ふふ、そやね……。ぁぁ……、葵はちゃんと、生きとるんやね……。」
涙するお姉ちゃんの両手を取り、どちらも指を絡ませぎゅっと握りしめる。
「そうだよ。だからもう――」
「やけど、ごめんな。うちはいけない」
帰ろう。その言葉はお姉ちゃんの言葉で上書きされる。
「なん、で」
「……もう、うちは疲れてもうた。生きるとか、死ぬとか……もう……考えたくない。もう……寝させてくれ……」
……なにを、返せばいいか分からなかった。彼女の言葉は、それくらいに本心からの言葉だと察せたから。
お姉ちゃんはゆっくり、私との手を離そうとする。手のひら、指の合間、指先と、どんどん私達の間に冷たい空気の壁が出来ていく。
この手が離れきったら、きっとお姉ちゃんは楽になれる、もう苦しい思いもしなくていい。
……、……けれど。
――私は。
私は。
「い……っや、だ……っ!」
その手を、離してあげることなんて、できなかった。
「やだ……っ! やだぁ……っ!!」
まるで子供が駄々をこねるみたいに泣き叫んだ。お姉ちゃんが何か言ってても聞こえない。離れかけた手を強く握り、おでこをぶつけながら必死に訴えた。
「ぜったい、ぜったいもう、怪我なんてしないから……!お姉ちゃんの事だってぜったい守るから……! そんなこと言わないでよ……! 私が毎日ご飯だって作ってあげる……!私がお姉ちゃんのこと一生養うし、先に死んだりもしないから……! 束縛は少しするかもだけど……好きなことして生きていいから……! お菓子だってはんぶんこより多くあげる、行きたい場所にどこにだって連れてってあげる……! 誕生日にだって毎年絶対欲しいものをあげる……! なんだって、なんだってお姉ちゃんの欲しいもの叶えて見せるから……!だから、だから……っ」
「私には、笑った顔を見せてくれるだけでいいから……、どこにもいかないで……」
何を言ったか、もう分からなかった。ただただ、お姉ちゃんを失う事が嫌で、嫌で……ずっと泣き叫び続けた。なんだっていい、彼女を繋ぎ止められるなら、なんだってよかった。
葵、と呼ばれ、祈るように強く目を閉じおでこを合わせ伏せていた顔を、私はその声の主を見るために恐る恐る顔をあげ、目を薄く開いた。
私と同じ色の目と目が、私を見つめる。
「……そんなには、要らん」
ふ、と目が優しく笑う。そんな彼女に愛おしさと悲しさを覚える。
「わたしじゃ、だめ……?」
「そうやない……。そうや、なくて……」
煮え切らない言葉。私に尽くせる言葉はもう出し切った。でも、彼女がまだそれでも、私に出来る何かで生きてくれるというのなら、なんでもしてあげたい。
「ちゃんと、教えて……? おねがい……」
「……っ」
私の願いに応えるように、お姉ちゃんは逸らしかけていた目を戻し、強い眼差しで私を見ながら、その口を開く。
「……うちも、葵のために生きたい。葵のために、生きさせて欲しい」
「……いい、の?」
お姉ちゃんから出てきたのは、意外な言葉だった。生きたいと、彼女自身の口からその言葉が出てきたのだ。どうして、そう思って聞くと、「やって」と彼女は困ったように笑う。
「好きな子から……葵から、そんないっぱいに好きって気持ちも、夢みたいな先の話されてもうたら……揺らいでまうに決まっとる」
「……全部は叶えられないかも」
「言うたやろ、そんなに要らんて……。うちも同じだけちゃんと返す、返せるように生きる」
だから、とお姉ちゃんは言葉を続ける。
「一個だけ、お願いしても……ええかな」
「うん、なんだって言って」
私の本心からの言葉に、お姉ちゃんは戸惑いつつも、言葉を口にする。
「……ずっと、うちだけを見て。うちだけを、愛して……」
もう、限界だった。
私はお姉ちゃんと手を繋ぐのを止め、その身体をこれでもかというくらい、強く抱きしめた。
「あ、あおい……んっ……」
抵抗しかけた彼女の唇を奪ってから、ゆっくりと肩を落としたお姉ちゃんを見て唇を離し、返答をする。
「約束する、ずっと、一生、死んだって、お姉ちゃんだけを変わらずに愛してる。だから……お姉ちゃんも、私のためだけに生きて」
「……約束破ったら?」
とても冷たい声。目はじっと私の中を覗くかのように、強く私の目を捉えている。
「その時はもう、一緒に眠って(死んで)あげる」
「……はは、幻想的な告白やなあ」
お姉ちゃんは目を閉じながら笑う。少し安堵しつつも「ふふ、どきっとした?」と釣られるように私も彼女へ笑いかけた。
「うん、凄く」
お姉ちゃんはいつのまにか抱擁から抜いた腕を伸ばし、私の頬へ手を優しく触れる。その手はほっそりとしつつもとても暖かく、柔らかい。
「ええよ、うちの一生も夢も……葵にあげる」
そう口にしたお姉ちゃんは、穏やかな目で私を見つつ、触れるような、けれどとてもゆっくりとしたキスをしてくれた。
何度目か分からないキスはやっぱりまだしょっぱくて、一番はじめの甘いキスが恋しく感じてしまう。けれどどちらも夢のキスでしかない。
私は息を吐いてから立ち上がり、お姉ちゃんへ手を伸ばした。
「帰ろう、お姉ちゃん」
「うん。葵」
私の手を借りつつ立ち上がったお姉ちゃんは、嬉しげに私の右手と手を繋いだ。そんな彼女を愛おしく思いつつ、私達は扉へ歩きつつ、これからの夢の話をした。
きっと、私達はこれから眠っていた分を取り戻すために、たくさんの苦労もあるだろう。けれどそれ以上に、2人でいられるなら何だって乗り越え、手を繋ぎ進み続けられると信じられた。
ガチャリと扉のドアノブを回し、真っ暗闇のその先。私達はそこへ抱きしめ合いながら飛び込む。
怖いと言えば嘘になる、けれど。
――きっと夢を見るよりも叶えられる世界で頑張れると、私達はお互いの体温を感じながら、想えたから。
きっともう、私達は2人で生きていける。
「だって、私の隣には――」
「やって、うちの隣には――」
お姉ちゃん……!」
「おはよう、
葵……!」
――最愛の姉妹がいるのだから。
あとがき
琴葉茜様、琴葉葵様、お誕生日おめでとうございます。
まず始めに、この場をお借りしてお礼を言わせてください。
今回絵を担当してくださいましたナごと先生、本当に一切期限の猶予が無い中で、素晴らしい絵を3枚も仕上げて頂き、本当にありがとうございました。次に添削をたった3日という期限の中でほぼ眠らずやってくださった、むむぎむぎ様、紅百合様、約1000以上の添削をギリギリまで本当にありがとうございました。このお三方のお陰で、今回無事に本を発行できた事、大変嬉しいと同時に……本当に余裕のない日程ですみませんでした!!
さて、今回のお話、夢の中の君は泡沫の、いかがでしたでしょうか。私はとても楽しかったです。文字数は流石に上限18万文字と考えていたため、やむなく削ったシーンや台詞が多々ありますが、それでも茜ちゃんと葵ちゃんという、この魅力的なキャラクターを、きらきらと魅せる事が出来ていたらとても嬉しい限りです。
本とご一緒に挟ませ頂いた栞は、今回の物語にもゆかりある『花』……、作中ではニコチアナ・フロックスでしたが、アザレア・スターチス・カーネーション・スイセンのハーバリウムを模したものとなっております。どれも素敵な花言葉なので、よければ彼女達と同じ様に調べ、見つけつつ楽しんで貰えたら嬉しいです。
最後に、琴葉姉妹のお二方、3年もお祝いの言葉を伝えられずすみませんでした。9周年おめでとうございます。これからも、どうか沢山の声と夢を、多くの人に届ける姿を見せてください。
それではこの辺で。おやすみなさい。
ご感想よろしければお願いします。
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夢の中の君は泡沫の
執筆 わたあめ
イラスト ナごと
添削 むむぎむぎ
紅百合
(敬称略)
校了:2023/04/21
発行:2023/05/04
頒布:2023/05/05
本作品における文章・イラストの、無断でのアップロード・転載を禁じます。
また、他者への有償の譲渡を禁じます。
2024/01/02 追記
1月1日、1月2日の出来事に思うことがあり、私自身になにか出来ないかと考えた時、今回以前頒布させていただいた小説、「夢の中の君は泡沫の」を1ヶ月という期限をつけ、公開に踏み切りさせていただきました。
皆様方の応援、ご購入あって成り立っている小説のため、正直な所悩みました。ですがそれでも大きな事に巻き込まれた方々や、遠くにいるからこそ気持ちが揺らぎ続けてしまう方々、そんな人々の気持ちを少しでも紛らわせる時間を提供できましたら幸いです。
今回、絵のご許可もいただきましたナごと先生へ深く感謝を。
そして一刻も早く、多くの方々が日常の生活に戻れることを深くお祈りしております。