「エシカル」な選挙という可能性 - どうすれば多様な政治家を増やせるのか?

2021年10月31日、衆院選が終わりました。結果としてはすでに様々なメディアで取り上げられているとおりなんですが、この選挙でわたしが特に関心を持っていたのは政治家にどの程度多様性が生まれるかということ。

結果としては、悪化しました。分かりやすいところで言うと、女性比率は10.1%から0.4%減少して9.7%に、平均年齢は54.7歳から0.8歳上昇して55.5歳に。

これは国民全体の構成比と比較すると大きくズレています。男女比で言うともちろん国民全体では半々ですが、これに対して衆議員では9:1。

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平均年齢についても国全体で高齢化が進んでいるとはいえ、衆議員の高齢化はさらに深刻。国民全体の平均年齢から7歳も上だったりします。ちなみに、大臣などの閣僚だけを対象にするとさらに上がります。衆院選を受けて発足した岸田第2次政権だと61.67歳。

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衆院選当選者の女性比率、9.7%に低下 識者に聞く: 日本経済新聞 
平均年齢55.5歳、最年長は二階氏 20代当選は1人【21衆院選】

つまり、元々多かった男性の割合がさらに増え、そして高齢化が進んだというのが当選者の属性情報という視点から見た今回の衆院選の結果だったのです。これは決して望ましい結果ではないと思っていて、なぜそうなるのか、どうすれば良いのだろうと選挙後に悶々と考えていまして、今回はそんなことについて書いてみます。

なぜ多様性が重要なのか

なぜ多様性に関心を持つかというと、単純な話、世の中は多様だからです。言うまでもなく、政治家は国民の代表なわけです。であれば、その政治家は世の中の多様性を反映しているべきというのは当然でしょう。この点については「クオータ制導入」という議論もあります。たとえば男女間の格差をなくすために、議員の数を男女比に割り当てるというアイディアです。男女だけではなく、議論としては人種や宗教などの様々な切り口があります。

この目指すところは見た目上の平等を実現するというだけではありません。そこで期待されているのは、多様なメンバによってそれぞれの視点から問題を掘り下げることによって、社会をより良くしていくためのアイディアや解決策を生み出していくことです。いわゆるイノベーションってやつです。

この手の話は、民間セクターではやっとやっと最近になって本腰を入れて取り組まれるようになってきました、いわゆる「ダイバーシティ推進」「働き方改革」などという枠組みにおいて。これまで男性中心的な就労スタイルでやってきたものの、様々な弊害が生まれていることにより、男性以外にとっても働きやすいワークスタイルが模索されています。これもやっぱり単純に従業員を働きやすくするという意味だけではなくて(もちろんその視点はありつつ)、成長戦略でもあります。つまり、多様なメンバによる多様な意見を取り入れることによって顧客のニーズを先取りするなど新たなイノベーションを起こしていこうということ。また、人不足となっている日本においては優秀な人材獲得競争のためという位置づけでもあります。

多様性を阻む、選挙の「当たり前」

そんな話がある一方で、政治の世界ではまだまだ。今もなお、選挙期間に入る前から毎日毎日朝夜の駅に立つだったりというようなことが有効な戦略として位置づけられてたりします。これは「徹夜で働いて成果を出す!!」みたいなさすがに最近の企業では古臭くなった価値観そのものですが、政治の世界ではまだまだ定石という位置づけ。

そして、この今の選挙の「当たり前」が多くの人にとって極めて高いハードルになっていて、これらのハードルが政治家の多様性を阻んでいるのではないかというのがわたしの見立てです。ハードルは色々あると思いますが、3つのポイントについて整理してみます。

1. 時間の観点

まずは立候補にあたっては莫大な時間を費やす必要がある、ということです。選挙期間というのは衆院選でも2週間しかない(自治体選挙だと1週間)ですが、その時点から活動をしてもよほど名の売れた有名人でない限り認知すらされないので当選は難しいです。したがって、多くの候補者は認知度を上げるために選挙の半年や1年前から選挙区の駅や公園などの人の集まるところで演説だったりビラ配りだったりをやってます。

当然人が多いタイミングで行わないと意味がないので、そうすると朝早くだったり夜遅くだったりという通勤の時間帯になります。そうなると、普通に働いている人はこの時点でほぼ排除されてしまいます。さらに、育児や介護など仕事以外に時間が取られる人たちはさらに大変です。

2. お金の観点

次に、お金です。半年や1年前からの活動が不可欠であるわけですが、この選挙前の活動はそこに何かの給料が発生するわけではありません(政党に入ってて「XXX選挙区支部長」みたいな肩書があったらあるのかもですが)。そして、本気で活動するとなると働きながらというのは困難なので仕事は辞める必要があります。そうすると選挙までの期間の生活費は貯金を切り崩すということになります

さらには選挙に出るにあたっての金もかかります。よく言われるのは選挙に出るために必要となる供託金。区市町村であれば数十万ですが、衆院選などの国政だと300万。この他にも選挙カーやポスター、タスキ、ビラ、Webサイトなどたくさんの定番品を揃える必要があります。公費での補助があるものの、全部をまかなえるわけではないので持ち出しはある程度あります。

3. 落選リスクの観点

時間もお金もかけたところで、最終的に当選するかというのは投票日当日まで分かりません。今回の選挙でも新聞各社の情勢報道と実際の結果が大きくずれるなど、ちょっとしたことで受かるか落ちるかという結果が変わってきてしまうというのが選挙の現実です。この傾向は特定の政党を支持していない無党派層が増えていることから近年さらに強まっていると言われてます。

結果として当選できればこれまでの努力が報われて良かったね、ということになるのですが悲惨なのは落ちた時。これまで費やしてきたお金が返ってくるわけではありませんし(一定のラインまで票が取れてれば供託金は返ってきます)、しかも多くの場合は仕事を辞めているので無職の状態。金も失い職もなく、という状態になってしまいます。このように、極めてリスクも高いのです。

高いハードルがもたらすもの

こういった厳しい実態に対して、世間の感覚としてはどうでしょうか。正直言って、同情的な見方というのは少ないように思います。政治家という「特権階級」に至るまでのある種の通過儀礼のように捉えて、「それくらいガマンしろよ」という意見の方が多数ではないでしょうか。さらに、こういった根性論的な活動を個々の候補者の「熱意」を測る指標とみなして、むしろこの指標を投票の際の参考にするということも少なくないように思います。

しかし、考えてみてほしいのは、このような極めて高いハードルの存在と、この指標によって測定される現実がもたらすものは、冒頭に書いたような同質化だということです無意識に受け入れられている今の選挙が、このような現状を招いているということです。政治家として何かを変えたいと考えている人がいたとしても、この高い高いハードルを承知の上でチャレンジしようという人はどうしても限られてしまうためです。

たとえば、若者。制度上は25歳から立候補は可能ですが、この時点では大学卒業後にすぐに就職したにしても3年目。まだ結婚している人は少ないので「時間」はあるかもしれないですが、ろくに蓄えもなければ十分にスキルも身についているわけでもありません。そうなると、選挙までの期間を賄うだけの「お金」や落選して転職もできないという「リスク」の問題を抱えることになります。

または、子育て中で共働きの人たち。「お金」の面では何とかなるかもしれないですが、自分たちの仕事があってさらに子どもの世話もあるという中で「時間」を捻出するというのは非常に困難です。養わないといけない家族がいるだけに落選して職を失うという「リスク」に耐えられるかという点もあります。

この他、排除される対象として、政治家としては有能だけど選挙に適性がない人というカテゴリもあると思ってます。選挙活動と政治家としての活動で求められるものは大きく異なっていて、プロ野球の入団テストをサッカーでやるようなものです。選挙が得意な人が政治家として有能であるわけはなく、その一方で選挙は得意でない(強くない)人が政治家として有能であるということも当然ありえます。

もちろんこの括りに該当して当選した議員がゼロというわけではありませんが、それは上記に書いたような諸々の困難を乗り越えてきたごくわずかな人たちというだけです。その背後には困難にも関わらずチャレンジして落選したたくさんの人たち、政治に関心を持ちつつもチャレンジを諦めたさらに多くの人がいます

この結果として結局のところ、これらの方々は多数派になれないことから、その結果として議会はがっちり地盤を持っているベテラン議員もしくは先代の築いた地盤を利用できる2世3世議員ばかりとなってしまうのです。この現状に対して批判的な人は多いですが、その遠因には今の選挙、そしてそれに対する多くの国民の無意識な同意があることはぜひ認識していただきたいところ。

当事者性を失うことの問題

今回の選挙でも「政党」という単位で見ると議席を増やしたり減らしたりという多少の浮き沈みはありました。しかし、結局のところ議会に同質性の高い集団しかいないのであれば、本質的な部分が変わるはずもありません。当事者がその議論に関わることができないためです。女性の割合が減るということは女性の視点が失われるということで、若者の割合が減るということは若者の視点が失われるということです。これは、たとえばそれぞれに関心のある選択的夫婦別姓や気候変動といったテーマについて当事者としての課題感や切迫感といった視点が弱まってしまうことになります。

現状の枠組の中でたとえば「女性活躍」だったり「ダイバーシティ」といったワードが出たとしてもそれは選挙での集票のための単なるイメージ戦略にしか聞こえません。この手の当事者目線のない「施し」は、いざ実行するにしたっておかしな方向に転がってしまいがちです。これは、世間的に保育園の待機児童が問題となっているにもかかわらず「幼稚園/保育園を無償化します!!」という政策が出てきて「なんでやねん!!!」と突っ込んだ多くの子育て世代の方々には強く共感いただけるところではないでしょうか。

「エシカル」という発想

今の選挙に問題があると言ったところで、果たして何かうまい解決法があるのでしょうか。ざっくり言えば「選挙のリスクを低めて、もっと誰でも参加できるようなものにする」ということですが、制度的に何とかするというのは正直なかなか難しいと思います。供託金をなくすとかは実現できるかもですが、選挙前の活動に制約を設けるというのは国民が政治家の活動を知る機会も失わせるなど功罪ありそうです。何より、選挙制度を変えるのは今の選挙で恩恵を受けている人たちなので、それをわざわざ変えてくれるとは思えません。

それよりはむしろ、国民の側の意識を緩やかに変えていくという方向に可能性があるのではないかと個人的には思っています。そこでようやく出てくるのがタイトルに据えた「エシカル」という発想。近年、ファッションや食べ物などの分野で「エシカル」というモノの見方が広まってきてまして、この視点は政治の世界にも転用できるのではないかと密かに考えています。

「エシカル」というのは、言葉としては「ethical」で「倫理的な」という意味。最近いろいろなモノやサービスの消費に関して「環境や人権に配慮した」といったニュアンスで使われています。たとえば廃棄されるはずだった素材をリサイクルして作られた衣服だったり、人権に配慮した労働環境で作られたコーヒーだったり。これは、これまでモノやサービスを最終的な質や価格ばかりで決めていたことに対して、その製造過程にまで目を向けて、より環境や人権の観点から望ましく、持続可能な消費をしていこうという思想です。

経済合理的な観点からこれまで環境や人権に配慮されなかったことの裏返しで、これらに配慮すれば当然価格としては高くなります。しかし、最近の傾向としては先進的な企業がこういった環境などへの配慮をストーリーとして全面に押し出すことでブランドイメージを向上させ、関心の高い層に売り込むという戦略が浸透してきています。

有名な企業で言うとパタゴニア。パタゴニアは環境への影響を抑えるために有害な農薬を使わないオーガニックコットンを100%使っていたり、契約している農家や工場の労働者が(最低賃金ギリギリでなく)十分な生活ができる賃金が受け取れるようにしたりといった取組を行っています。

こういった実績が評価されて2019年には国連の地球大賞(UN Champions of the Earth Awards、環境に対して良い影響を与えた政府や民間企業、市民社会の優れたリーダーに授与される)を受賞するなど、この取組はブランド価値向上に寄与していて、それはもちろん売上にも反映されることでしょう。

こういった消費を求める人が増えてくれば生産コストは抑えられるようになるので従来品との価格や品質の差は徐々に縮まっていきます。さらに、パタゴニアのような先進企業の成功や最近のSDGsなどのトレンドとも相まってブランド価値の向上に役立つことが理解されることで、これまで関心のなかった企業も参入してくる、その参入がさらに新たな参入を呼ぶという好循環がファッション業界などでは生まれてきているようです。

「エシカル」な選挙という可能性

翻って、政治と選挙の話。わたしが提起したいのは、政治についても最終的な「製品」としての政治家ばかりに目を向けるのではなく、その「製造過程」である選挙にも着目していくべきではないかということです。この中で守るべき資源は、世の中をより良くしたいと考える多様な人材です。そして、この限られた貴重な資源を最大限に活用できるよう、政党や個人が(多くの人にとってハードルとなっている)これまでの根性論的な選挙のやり方を自主的に改めて、その意味合いと思いを国民や住民に訴えていくということです。

具体的には、「本業や子育てとの両立のために、選挙前の街頭活動は行いません」とか、「騒音や公費抑制のため、選挙カーは使用しません」とか。まだ色々考えられると思いますが、要するに現在意欲ある人たちの参加を阻んでいるこれまでの「当たり前」から脱して、それを有権者の人たちに問うということです(もっとも、露出不足を補うためにWeb上での露出を増やすとか、持続可能な形で別の戦略を取る必要はあるでしょう)。

これは、迷惑だろうが何だろうができる限り露出して知名度を高めるというこれまでの定石からは完全に外れたものです。したがって、現状で言うとボロ負けする可能性の方が高いでしょう。しかし、正直言って今の選挙の当たり前を、そしてその選挙によって選ばれた政治家にも納得している人は決して多くありません。つまり、伝え方次第ではある程度受け入れられる余地はあるのではないかと思います。

こういった形の選挙での成功事例が生まれれば、その成功を真似て他の挑戦者も生まれることになり、成功が成功を生むという好循環が生まれていく可能性もあります。結果として、これまで以上に多様な人材が政治に関わることができるようになるのであれば、それは選択肢が増えるということであって、候補者を選ぶ有権者にとっても望ましいはずです。

また、こういう視点を持つ有権者が増えてくれば従来型の選挙を行っていた人たちもこれまでのやり方を改めて同じような配慮をせざるを得なくなります。たとえばファッション業界では環境意識の高まりから、H&Mのような大手のファストファッション業界が批判に晒され対応を求められるというようなことも起こっていたりします。

最後に

今回は2021年10月末の衆院選の結果から今の選挙では多様性が生まれにくいこと、そしてそのための一つの可能性として「エシカル」という視点があるのではということについて書いてきました。

ご存知の方もいるかもですが、実はわたしは以前からこんなことを考えていて、そのためのある種の「実験」として2年前の2019年の統一地方選で住んでいる自治体の選挙に出てました。

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そのときに掲げていたコンセプトがこちら。

① 働きながら、子育てしながら活動を行う
② 選挙カー、拡声器を使用しない
③ インターネット上での発信に注力する
④ できる限り、活動のコストを抑える
⑤ 既存の政党に属さない
⑥ 印刷物やWebサイトはほぼ全て自作する
⑦ 出馬表明から投票日まで1ヶ月という短期決戦

我ながら見返してみてなかなか前衛的なことをやったなと思います。試してみたかったことは、「若者や女性、子育て中の人といった職業政治家でないようなフツーの人でも参加できる選挙はどういうものか」ということ。これは、自分がいざ立候補をしてみようと選挙について調べてみたところ、選挙の定石がその当時の自分の生活(フルタイム勤務、そして未就学の子ども2人)にはまったく不可能だったので、逆に自分のような立場でもできる選挙とは何だろうと考えたため。

なので、選挙期間以外は街頭活動は一切ゼロで夜間や休日の空間の時間でのWeb上での発信のみ。お金はできる限り節約するためにWebサイトや印刷物は自作、選挙カーなどは一切使わず。仕事は選挙期間の前まで続けて、選挙期間の1週間は有給休暇を取って対応。

その結果としては落選なんですが、結果は44人中の33人目。得票数は985という結果。落選は落選ではあるものの、思ったよりも反応は悪くなかったなという印象でした(もちろん、これは小規模な自治体での選挙だからこそであって、いきなり国政となるとそうカンタンには行かないでしょうI)。

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今回書いてきたようなコンセプトは、今の時点ではただの落選候補者の空想でしかありません。また、現行制度に最適化された現実主義の前には今のところまったく無力でしょう。しかし、民間セクターにおいて新しい消費のスタイルが生まれてきているのと同じように、今の選挙のあり方が問われる時期は遅かれ早かれ来るでしょう。そして、その時こそが今の停滞する政治を大きく転換できるタイミングなのではないかとわたしは考えています。

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東京都中央区在住。妻と娘2人の4人家族。 仕事はNPOフローレンスのシステム全般担当。関心は待機児童など子どもの社会問題と客観的なデータに基づく行政の実現。Code for Chuo立ち上げたり選挙に出てみたり(中央区議選に挑戦するも惜敗) ※ 発信内容は全て個人的見解
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