しぃ
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最寄りスーパー行ってみたら5日までおやすみで、次に近いある程度もの揃ってるとこ徒歩20分で、だるみ
誰かが個人的で内的な経験に基づいて、例えばそのなかで自身のトラウマ体験と重ねながら「怒ったときのみ姿が見える無色透明の存在」として誰かを描写するとき、自身の信念の中では怒ったところで姿の見え方は変えられないからと、「デマ」ないしは「誤情報」だと宣言することを作者に求めるのは、さすがにやばいと思わない?
まあ、論点そこじゃないけど。
Reposted by しぃ
なんにせよそれ即問題ではない
「ウィッカンでない魔女もいるから、魔女について創作する際、必ずしもウィッカを学ぶ必要はない」と「宗教性のない魔女もいるから(創作のために)必ずしも宗教を学ぶ必要はない」が同じだと思ってる時点で、あまりに雑なんっすわ。
うちがエアリプなのは、もうこの反論は最初から提示してきたのに、リプ来るたびに論点も言ってることも変わってる上に、誠実に説明しても煽り始めてきてるから、もうこっちにこれ以上時間を費やして相手に説明し直す義務があると思えないからっす。
自分は他者の呪術や呪術等とのつながりについて判断していないというのなら、あなたとっては「創作」でしかない行為について、どうして別の方にとっては呪術である可能性を、実際にそう言っている方がいる中で、呪術でないと言えるのか、あるいは、どうしてそれの結果を、自身が自身の理解で十分に「評価」できると思ってるのか。
非常事態の起こっている際に「仕事で〇〇までいかなきゃいけないのに困る」みたいなコメントが非常に多く見られるの、「仕事」や賃金労働の問題が表れているとしか思えない
「ウィッカンでない魔女もいるから、魔女について創作する際、必ずしもウィッカを学ぶ必要はない」と「宗教性のない魔女もいるから(創作のために)必ずしも宗教を学ぶ必要はない」が同じだと思ってる時点で、あまりに雑なんっすわ。
おかしいと思うときにおかしいと言うのは、「仲間意識」みたいなものでやってるわけではないし、事実今抗議してる者等の間で意見異なることなんてこれまでも何度もあったんだけど、逆に自分が非難されたとき「仲間意識」が理由だとしか解せないなら、これまで自身がしてきた、差別への抗議もまた、単に「仲間意識」に基づいた「いじめ」だったんですか?
全ての非難や批判が常に妥当なわけではないから、納得できないとき自分の主張を守るために反駁することそれ自体に問題はないと思うし、批判者が多いことは批判の妥当性の根拠にはならないけど、いざ自分がいろんな方面から批判からされているとき、その状況を「内輪ノリ」だの「子供の頃のイジメを思い出す」だと形容するのは、さすがに不誠実でしかないだろ。
詭弁だ論点ずらしだ揚げ足だって言うなら、なにが論点なのか明示して、どうしてこちらの反論がそれを十分に攻撃できていないか提示すればいいのにね。
関係ないし争点じゃないからどうでもいいんだけど、「科学の三大原則」として挙げられた「普遍性」「論理性」「客観性」、あんま賛同しないなあ。 普遍性を証明することなんて絶対にできないし、「論理」よりもまず経験やデータが優先される分野も少なくないし、それらを過去の曖昧なデータや理論に依らずひとつのわかりやすい論理で説明するのは往々にして無理だし、「客観性」に至っては主観の一切はいらない観察が可能であると一切思えないし、この理解では逆に研究者の責任に対する自己認識とか否定されるよな
「三大建前」みたいな言い分なら理解できるかもなあ。
自分だったら何だと思うかなーって考えてるけど、ざっと思った感じ、 「共有された、時空間的に連続する世界の想定」 「現象や構造の単離可能性」 「因果関係の論理的説明可能性」 程度な感じがするけど、一個目は強すぎるだろうなあ。二個目から再現性とか出てくる気がするし、これの強いバージョンが「客観性」とか「普遍性」なんじゃないのかなって思ったり。三個目は「論理性」の弱いバージョンなのかなあ。 自分の理解する「呪術」は、これのなかにないなあとは思うし、これらの一部を批判することで発展させようとしてきた理論の例もいくつか思いつくなあとも思った。
あと、「信念」って一般用語だと思ってた、少なくともググって一番上に出てきたWikipediaに説明書いてるけど ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%...
なにが「雨」であるか(あるいは、なにが「雨の降っていない状態」か「地面が濡れてる/濡れてない状態か」)、なにが「雨のふらないことによる被害」であるか、あるいは、「どうしてその被害があるのか」「どうしたらその被害は終わるのか、ないし、苦しみが終わるのか」に関する信念が異なれば、その呪術の実践の理論も方法も結果(の解釈)も評価方法も変わるでしょ。。ってのが反論じゃなくて言葉遊びだと思ってるなら、本気でどこからどう説明したらいいのか悩む。 ってどこまで読んだ、明日続きよも。
言葉遊びが好きですね。たとえ雨の定義変えても、今濡れてる地面が突然濡れなくなったりしないと言ってるんだけど。実践の方法はなんぼでも変わるし理論も変わるが結果は変えられんよ。 神泉苑でも宗教宗派混合で各々のやり方で祈雨やってたけど、宗教宗派によって評価法変えるべきだと思うの? というか >だからあなたの実践の方法に関する理解や信念をもって、他者のそれらを判断するな言うてる ここが繋がらんのよ。「助かる」の定義が個々のケースによって違うのなんか当たり前だし、だから比較的分かりやすく評価できる祈雨法を例に出したのに雨の定義がどうと言い出すから、根本から考え方違いますよという話をしたのであって→
主:「〇〇会の『呪術』の理解」で他者の呪術は評価できる 反論:「『科学』と同じく、呪術でも、流派や理論体系、フレームワークが変われば、実践も評価も変わる以上、その是非や有効性等は判断できない(し、別の理由と相まって、判断すべきでない)」 反駁:「祈雨法を例に出せば、評価も目的も、雨の理解等が変化してもかわらない。だから判断できる」 再反論:「雨の理解等が変われば、結果の解釈も目的も評価方法も変わる、だから最初の反論通りフレームワークが変われば実践も評価も変わる以上、「〇〇会の『呪術』の理解」で他者らの呪術の実践について判断できるとは言えない」
自分が例えに出してるくせにそれが成立しないの指摘したら、今度はゴールが違う可能性も認めたじゃん、やっぱズレすぎ。 いずれにせよ、今問題にしてるのは「〇〇会(に代表されるこぼねさんの)理解」に基づく他者らの呪術の実践のあり方の判断の可能性でしょ、ゴールすらもが違う可能性もあって擦り合せが必要なら、やっぱこぼねさんが他者の呪術の評価を一方的にする正当性は主張できてないじゃん。 bsky.app/profile/nemu...
本当に同意、なんか今はそんなこと言ってないみたいなことも言ってるけど、もし「学ぶこと/学ぼうとできること」が創作の条件なら、誰が誰の何を学べる(あるいは監修をつけられる)環境にあるのかを考えたら、社会的に周縁化されてる方の経験(やそれに基づくものがたり)も社会や世界どのつながりの描写も、どんどん残らなくなっていく。少なくとも「創作」とされているものの多くはこれまでもそんなものではなかったし、今後そうなることでよくなるとも思えない、それは「科学」に基づくものでもそれ以外でもそう。
それこそ「認識論的不正義」とか「スタンドポイント」みたいな話と繋がっていくし、「創作」の範疇と通常あまりされないようなアカデミアですら、今そういう話って(不十分だと自分は理解してるけどそれでも)一定になされていると思う
「科学」についてのうんたら、うちが言っても興味ないなら、ローティでも読めば少しは納得できるんじゃないかな。。 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%...
こっちが認識できてる論点やその前提のすべてについて、なぜ妥当でないのかも、説明のために用いた喩え話が成立しないのかも、反論終わってるんだけど。それが差別性を持っていることも指摘した。反駁あるならしてほしいし、わかりにくいところがあったのなら説明し直すから(すでにしてるつもりなんだけど)言ってほしい。追加の重要な論点があるなら早く言ってほしい。現状、こっちの反論に対して、それがなぜ妥当でないのかとかほとんど返ってきてないし、追加された説明や喩えも論点の支えにならないことも指摘した。 それで「ひとの話を聞く気がない」とか言われても、「しゅんぎく」としか答えられねえです。
同じ話何度も何度もするの疲れたな。とにかくひとの話を聞く気がないのは分かった。こうしている間にもド偏見がばら撒かれていくのしんどい。次にまた同じこと言わされそうになったら好きな天ぷらの具でも答えようかな。しいたけ。
こうしてる間にも、あなたの主張のせいで傷ついている方が増えているんですけど。
論点n点目、「この行為は科学的に効果がある」「科学的に効果がない(正確には、科学的に望ましくない)」の議論が許されるのに、「この行為は呪術として効果がある」「効果がない」が認められるべきでないのは差別的だ、に対しては、「呪術」やその実践は密接に個々の宗教や信仰、アイデンティティ等と連続しているので、そこまでは言えない「科学」と同列で語れるものではない、で十分に反論になってるんだけどなあ。「呪術」を「科学」的な現象の一種とは双方みなしてないんだし。 そのうえで、「科学」も創作物におけるそれも、あなたが想定するような絶対性のはなしでも「正しさ」のはなしでもない、ってことも言ってる。
「呪術」という名目でなされるある行為を止めたいから、「その行為に効果はないよ」って言いたいし、作者にも言ってほしいって程度の話を、今はしたいのかなあ。 でも「簒奪」とか「消費」とか、「科学」か「呪術」かとか、「100%フィクション」か「考証と検証」がなされてるかとか、なに一つ関係ないのはかわらないので論点がやっぱりズレてるけど、あなたの理解している「呪術」に基づいて他者の呪術との関わり方やそれを通じたアイデンティティの理解等を判断するなという反論はここでも妥当だし、そのことを認めながら他者のものを壊すことの是非やそれを止める話はできるし。。 @nemuribi.bsky.social
りんごとはなにか、りんごとは(誰に)どう理解されているものなのか、りんごとは(誰が)どう理解したいものなのか
自分が出した喩えがおかしいって指摘されてるときに、関係ない別の喩え出されても笑うんだけど、「雨」の定義変えたら「雨が降っているか」は変わるんだけど。。 今度は「困ってる物が助かる」か否かの話に変えてるけど、それだって「困ってる者」や「助かる」の理解や確立されてきた助けるための「技術」の体系が変われば実践の方法は変わるでしょ(これはあなの言う「科学」でも同じことだってことも言ってる)。だからあなたの実践の方法に関する理解や信念をもって、他者のそれらを判断するな言うてる→
大学やら時代やらで「雨が降る」の定義を変えられても、雨が降ること自体を変えられないでしょう?という話をしているのに詭弁が好きだな。 祈雨法が何のためにあると思ってるの?雨を降らすためじゃなくて、雨が降らなくて困る者を減らすためにあるの。定義を弄っても作物は育たないし飲み水も増えない。誰かが助かるくらい降ったら「これはいけそう」だし降らなかったら「やり方を変えよう」だし、そこに正統性とか異端とかないですよ。 そして丑の刻参りの件、だから貴方のド偏見に従って倫理面からだけアプローチしても、「呪術的に効果がある」と思っている者への抑止にならん場合が多いのだってば。話聞いてたのかな。
「倫理面」うんたらも、そもそもあなたの言い出した区分なんだけど、別に「科学」的に他者の血飲めば寿命が延びると繰り返し証明されたところで、同意なく他者の首に噛みついたらダメなのは変わらないんですが、他者(や他者の所有物)に(同意なく)危害及ぼす行為は非難されるべきだという話に「『呪術家』の監修」や「考証や検証」の有無や「100%フィクションの呪術」であるか否かがどう判定の基準に関わるんだか、こぼねさん自身のなかではわかってるの?
あと、これ以上争点増やしたくないんだけど、うちはこの話最初から直接的にせよ間接的にせよ追ってたし、リプ送った段階ではかなり遡って読んだうえで書いてたし、以降も全部複数回読んでて、それでこっちが理解不十分ならうちが悪かったけど、「話聞いてたのかな」ってことば、一般に相手の「聞く(読む)」や「聞いたこと(読んだこと)」を理解したり処理したりすることに関してのアビリティに対してのイヤミとなりうるので、自身の状況とか明かしてもない相手にこの文脈で出してくるの、すごくどうかと思う。 bsky.app/profile/nemu...
結局何が言いたいんだ。