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2012年7月

作品解説 徐枋「芝蘭幽石図」、髠残「霧中群峰図」ほか

青山杉雨の眼と書 書の巨星と中国書画コレクション 図録(1)
  • 塚本麿充

出版者・発行元
東京国立博物館

青山杉雨 中国絵画解説(1)


28 蘭竹図 1幅 文徴明筆 明 16世紀 23×58 東博
文徴明(一四七〇-一五五九)は明代絵画を代表する文人の一人。幼名を璧、字を徴明といったが、のち字をもって行われため、さらに徴仲と改めた。号は衡山、衡山居士、停雲生など。長洲(江蘇省蘇州)の人。科挙の試験に数度失敗したが、嘉靖二年(一五二三)には翰林待詔を授かった。しかし間もなく官僚生活に嫌気がさし、致仕して蘇州に帰ってのちは、詩書画の創作に没頭する日々を送った。格調高く温雅な呉派文人画の首領として活躍し、その作品は多くの影響を与えた。本図は「徴明既写千文、顧研有余墨戯爲画此」の自題より、千字文を書写した残りの墨で戯れに描いたものとわかり、かつてともに表装されていた草書千字文(No.2)がこれにあたる。草書千字文には嘉靖二四年(一五四五)の年紀があるため、この時に描かれたものと思われる。「停雲」(白文方印)、「文徴明印」(白文方印)の印がある。


29 清溪覧勝図1幅 周用筆 明16世紀103×53 東博 弘治二年(1489)
周用(一四七六—一五四七)、字は行之、号は伯川、呉江(江蘇省蘇州)の人で、内閣にまで登りつめた明朝の高官である。弘治十五年の進士で行人から南京兵部给事中に抜擢され、嘉靖十七年には南京工部尚書に、嘉靖十八年に南京刑部尚書となった。九廟の失火に遇って自ら致仕を願い出て帰郷したものの、その気骨のある人柄を慕うものが多く呼び戻されて、工部尚書起督河道から漕運総督、さらに左都御史となり、太子少保を加えられ、嘉靖二十五年には吏部尚書となり、その翌年に逝去した。太子太保を贈られ、諡は恭肅という。著に『読易』、『困知』『楚詞註略』、および『周恭肅公文集』があり、『明史』卷二百O二に伝がある。本図は「己酉七夕雨後、周用画爲静翁年兄正」という自題から、弘治二年(一四八九)、周用がまだ十四歳時の作品とわかる。当時の蘇州では沈周(一四二七―一五〇九)が活躍しており、その書法は晩年の沈周に学んだもので、紅葉のなかにたつ人物と風景の素朴で天真な構図が印象的である。「周用之印」(朱白合刻方印)がある。


30 芝蘭幽石図 1幅 徐枋筆 清 康煕26年(1687)155×54
徐枋(一六二二-一六九四)、字は昭法、号を俟斎、秦余山人などといい、長州(江蘇省蘇州)の人。崇禎十五年(一六四二)の挙人。しかし明末清初の動乱にあった順治二年(一六四五)、父の徐汧が明朝に殉死すると、その命によって死を思いとどまり、天平山の麓に潤上草堂を築いて隠居し、城市に入ることなく、書画をひさいで暮らした。沈寿民、巣鳴盛と共に、抗清の意を貫いた三遺民として知られる。本図は怪石の下に蘭と霊芝を白描風に描いたもの。
画賛のなかで徐枋は、秦末の動乱に際して商山に隠居し、芝を採して自足した東園公、夏黃公、綺里季、甪里の四人の隱士と、同じく亡国の詩人・屈原の作と伝わる「楚辞」九歌、湘夫人を引きながら、南宋の遺民となった鄭思肖(一二四一-一三一八)が元に奪われた国土を描くことをさけて墨蘭に土を描かなかったように、芝もまた無根である、と述べている。徐枋にとっての芝蘭は遺民としての自らの立場を象徴する最適の画題であり、文同の墨竹、楊補之の墨梅、鄭思肖の墨蘭のようなものだとも述べていた(「題画芝」居易堂集』巻十一)。なお画賛の前半部は「題芝蘭図巻」として、また後半部は「題画芝」として、それぞれ『居易堂集』巻十一、十七に所収されている。自題と「澗上」(朱文方印)、「徐枋之印」(白文方印)、「俟斎」(朱文方印)の印がある。


31 蘭亭春稧図扇 1面 王建章筆 明時代・崇禎6年(1633) 縦16.0 横47.0
王建章(?-一六二七-一六四九-?)は字は仲初、号は硯田荘居士。福建省泉州の人。惲向(一五八六-一六五五)、黄道周(一五八五-一六四六)、張瑞図(一五七〇-一六四一)などとも交友し、山水、人物道釈などを手がけたが、詳しい生涯の事跡は明らかでない。中国ではあまり評価されなかったが、福建と日本の関係が深かったためか日本には画作が舶載され、多く伝来している。
本図は東晋の書聖とされる王羲之が、会稽郡山陰県の蘭亭に小宴を催した故事を描くもので、このとき王羲之によって書されたのが著名な「蘭亭序」である。蛇行する曲水に杯をうかべ、あるものは詩作にふけり、あるものは杯を傾ける。右方の亭のなかに鵞鳥をながめるのが王羲之であろう。同様の構図の扇面や石拓は明代に多く制作され、江戸時代には屏風形式でも制作された。自題「蘭亭春禊図 癸酉暮春建章」と、「建章」(白文方印)、「仲初」(白文方印)、「硯田荘居士」(朱文方印)、がある。


31 霧中群峰図 1幅 髠残筆 清 康煕2年(1663) 175×49 東博
髠残(一六一二-一六九二)、武陵(湖南省常徳)の人、俗姓は劉といったが、のちに出家して僧侶となり、法名を髡残、字を石谿,残道者、石道人などと号した。朱耷(八大山人)、道済(石涛)、弘仁(漸江)らとともに「明末四和尚」の一人に数えられる。元代の王蒙や黄公望を学び、豊かな筆墨を用いた奔放な山水を得意とした。順治一一年(一六五四)頃、金陵の大報恩寺の覚浪道盛(浪上人)について修行し、郊外の棲霞寺などに住した後、牛首祖堂山幽棲寺に晩年を送った。当時南京に集っていた銭謙益や龔賢など多くの文人と交流をもち、特に周亮工はその支援者として、程正揆とは親しい友人として生涯の交わりを結んでいる。
本作は康煕二年(一六六三)の秋、天龍古院を訪れた際に、山中に幽栖し閑適する人物を描いたもの。西川寧旧蔵で、寄鶴軒こと青山杉雨に贈られたものである。時に昭和六〇年、西川寧八三歳、青山杉雨七三歳。その後杉雨は石谿の作品をもう一つ手に入れたことを喜び、「二石斎」と号した。五言詩の後に「癸卯秋八月、過天龍古院幽栖、電住石谿残道人」の自題と「介」「丘」(朱文連珠印)の関防印、「残道者」(白文方印)、「石谿」(朱文方印)の印がある。


32 花鳥図軸 1幅 華嵒筆 清時代・17~18世紀 (各)縦28.0 横42.0
華嵒(一六八二~一七五六)は字を徳嵩、秋岳といい、号は上杭の古名である新羅から取った新羅山人、東園生、布衣生、白沙道人、離垢居士などがある。福建上杭県の人。家は造紙を業としていたといわれ、若年に華氏宗祠に壁画をなしたという。郷里を離れてからは一時北京に上ったのち各地を遊歴し、康煕四二年(一七〇三)には杭州に移居した。このころ徐逢吉、蒋雪樵、呉石倉、厲鶚などと交わり、ついで揚州に客寓して張瓠谷や員果堂の支援を受けて作画活動を行い、詩書画に巧みで三絶と呼ばれ、揚州八怪と交友も持ちながら売画生活を送った。晩年七〇歳の頃には杭州に帰って解弢館に居し、そこで没した。画作は初め惲寿平に学んだが、次第に石濤や八大山人の個性的な絵画にならい、明快で洒脱な独特の画風を作り上げ、その画風は任伯年など海上派にも大きな影響を与えた。著に『離垢集』五巻がある。本作には広く空間をあけたなかに、渇筆と淡彩で花鳥が描かれる。丸みをおびたややユーモラスな目元に、華嵒らしい愛らしさが表現されている。


33 瓶梅図 1幅 黄慎筆 清18世紀 112×40 東博
34 画ー展04 菊花竹鶏図軸 1幅 黄慎筆 清時代・18世紀
縦116 横35.0
黄慎(一六八七―一七六八、もしくは一七六六。一七七〇~一七七二とも言う)は、福建省寧化の人。字は躬懋、後に恭懋、恭寿、号は癭瓢。十八、九歳にして同郷の上官周に画を習い、雍正二年(一七二四)より揚州に寓居して鄭燮らと交遊した。雍正十三年(一七三五)より江南の各地で売画生活を送り、乾隆十六年(一七五一)頃には再び揚州に居をさだめた。初め肖像画家として出発し、独特の速筆を用いた人物画が著名である。揚州八怪の一人に数えられ、『湖詩抄』三巻がある。本図には花瓶のなかに梅花が一枝描かれる。自らの号でもある「瘦瓢」を読み込んだ自題の「一筇、一笠、一瘦瓢」とは竹杖と笠と瓢箪を指し、旅人の簡素な持ち物のこと。帰り来たって以前の持ち物にさらに執着があるとは言わないでください、一輪の梅花も「清福」(清らかで静かな幸福)も得難いのですから、と述べる。漂泊のなかに生きた黄慎らしい画面である。「一筇一笠一瘦瓢、愛向峰頭托鶴松、莫道帰来愛故物、梅花清福也難銷、慎」の自題と「恭寿」(白文方印)の印がある。大きな瓶に挿された梅枝を水墨で描く。黄慎の自題がある。
青山杉雨は、黄慎が若いころ貧乏で苦労して母を養っていた頃、画によって身を立てたいと母に言ったところ、「立派な画家になるならば画を習う前にまず学問を身につけなさい」と言われた故事をひき、「こういう心意気というものは中国文人が長年大切にやしなってきた精神であるといってよい」(中国書画談叢、一九九一年)と述べている。


36 十八羅漢図冊 1帖 羅聘筆 清時代・18世紀 (各)24.5 横14.5
羅聘(一七三三~一七九九)は字を遯夫、号を両峰、別号を花之寺僧、金牛山人、衣運道人、蓼州漁父などといい、安徽省歙县の人。揚州に移り住み、二四歳で当時七十歳であった金農の弟子となってからは頭角を現し、その死後の乾隆三十六年(一七七一)北京に上って売画生活を送り、「鬼趣図」が評判をとったという。その後、乾隆四十四年(一七七九)には南京に赴き袁枚とも交友を結んだ。乾隆四十四年(一七七九)、乾隆五十五年(一七九〇)にわたって北京に上り、花卉・人物・道釈の分野で特異な作風を展開して人気を博した。揚州八怪のうちで最も若い一人に数えられる。
本作は十八羅漢を十二枚に分けて描くもの。羅漢は怪奇な姿で表わされるとともに、ユーモラスな表情さえ浮かべている。頭を大きく描く体型や執拗に重ねられた衣文線などは、師である金農の羅漢図を学んだものである。十二開目に「前月花之寺僧羅聘敬写于上谷蓮華池畔為 畴五居士贈」と白文方印「羅」「聘」があり、うしろに申発祥による跋がある。青山杉雨は羅聘について、揚州八怪のうちで「一番ヘンな絵を描く人」で絵画には「一種の妖気がある」 (『書の実相』一九八二年) と評している。


37 疎林山水図 1幅 黄易筆 清乾隆48年(1783)130×52
黄易(一七四四―一八〇二)は、字を大易・小松、号は秋影庵主、散花滩人、小蓬莢閣などといい、浙江仁和の人。父の黄樹穀(一七〇一-一七五一)は書家として名のあった張照の友人で、詩と篆書に巧みであった。父の死後一時困窮したが、監生から山東の属官を歴任し、山東兗州府済寧運河同知に至った。家学を受け詩と隷書をよくし、篆刻を丁敬(一六九五-一七六五)に師事、のち、西泠八家の一人に数えられた。金石に詳しく、山東省で官にあったころ精力的に現地調査を行い、嘉祥県で武氏祠堂石室を整備したことは名高い。全国の漢唐の碑を多く渉猟し、その成果は『小蓬莱閣金石文字』、『小蓬莱閣金石目』、『嵩洛訪碑日記』、『武林訪碑録』などの著作に表れている。同じく金石家である阮元・王昶・翁方綱・孫星衍らとも交流した。文人にとって古碑を訪ね歩く訪碑は無上の喜びであったが、青山杉雨自身も東京や旅先で訪碑を重ね、その体験を「墨堤周辺碑探訪」などのエッセイに綴っている。
本作は元末四大家の一人である倪瓉に倣って描かれた秋景山水である。山容にはやや赤みをさす。黄易の自題と溥儒の題がある。「乾隆癸卯秋日、擬雲林大意、参以勁遒之筆、寒風振■(竹/揖)、似或見之、銭塘小松黄易於任城」の自題と「黄小松」(白文方印)の印がある。


38花卉図冊1帖(12図) 奚岡筆 清 乾隆59年(1794) 21.3×31.0
39 画ー展06 渓山放舟図軸 1幅 奚岡筆 清時代・18~19世紀
縦112.0 横33.0

奚岡(一七四六—一八〇三)は原名を鋼といい、字を鉄生、純章、号を蝶野子、鶴渚生、蒙泉外史、蒙道士、奚道士、散木居士、冬花庵主など。安徽省歙县の人。杭州西湖畔に寓して科挙に応じず、書は古隷を巧みにし、印を丁敬に師事して、のちに丁敬、黄易、蒋仁とともに西泠前八家(杭群四名家)の一人に数えられた。「清史稿」には日本に渡ったとの伝があるが、その確証はない。自題によれば、「花卉図冊」(No.38)は「柳甫四兄」なる人物が画冊を持って絵を求めたところ、冬花庵(奚岡の居所)に数年そのままにしていたが先に四枚が描きあがり、のちに八枚を描いてあわせて十二枚になったものという。画後に「乾隆甲寅冬仲」の自題と「奚岡私印」(白文方印)、「蒙泉外史」(白文方印)の印がある。全十二図で、各図に奚岡の題あるいは印がある。惲壽平風の画法で牡丹、紫陽花、蓮花、菊花、木蓮、海棠、芙蓉、梅花などを鮮やかに描いている。
「渓山放舟図軸」(No.39)は、淡墨による山水図で、高士が舟中から山水に心を澄ませる景を描く。正統派風のおだやかな山水である。


40 緑梅図 1幅 朱昂之筆 清 18世紀 22×31
朱昂之(一七六四―一八四〇―?)は字を青立、号は津里といい、江蘇省武進の人。呉中(江蘇省蘇州)に僑居した。父の朱文嶸は乾隆年間の挙人で、山水と水墨牡丹に巧みであったという。朱昂之もその家学を受け、董其昌から四王呉惲などの正統派山水を学び、次第に独自の筆法を見せる山水を得意とした。北京の官僚である法式善(一七五二~一八一三)のところに出入りして、当時名画家として名のあった朱本(一七六一-一八一九)、朱鶴年(一七六四—一八四四)とともに三朱と呼ばれたという。
やや青緑味のかかる梅花の描写はすがすがしい春先の空気の存在をも感じさせる。「経春雪未消、昂之」の自題と「昂之」(白文方印)があり、これは唐·張謂「早梅」、「応に近水に縁りて花先ず発くなるべし、疑ふらくは是れ春を経て雪未だ消せざるかと」の一句である。画冊の一部であったものが軸装されたものであろう。

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