あなただけじゃない。ここにもいる。
昼寝をして目覚めたら喉が痛く、頭痛と悪寒がはじまり、意識が朦朧として、布団に入るが寒気が消えず、呻き声をあげながら横になった。体調を崩すと、元気な時に通用していたことが通用しなくなる。横になりながら「隠れて生きよ」と何度も思った。余計なことを言わない。挑発をしない。扇動をしない。情報を増やさない。ゴミを増やさない。捨てろ。捨てろ。減らせ。減らせ。病を得ると清浄になる。これまでの生き方が強制終了され、からっぽになり、方向転換を余儀なくされる。自分が置き去りにしてきたものを、迎えに行く感覚がある。競争社会とは違う、もう一つの世界を見せてくれる。
熱海の土石流災害が起きた時、家の周囲が立ち入り禁止区域に指定されて、ホテルで避難生活を過ごした。私の家は無事だったが、近隣の家は流され、交流のあった人々も何人か死んだ。報道を見た人から「家が無事でよかった。ラッキーだったね」と何回も言われた。悪気はないのはわかるが、友達を亡くしている。友達を亡くした人間に「ラッキーだったね」はないだろと思ったが、言い返せなかった。きっと、自分も似たような発言をこれまでの人生で何度もしてきたのだろうと思った。体験しなければわからない、一度、身を置いてみないとわからないことがある。病は、思い上がりを打ち砕いた。
周囲の環境から自由でいられるほど、私は強くない。クリスマスの時期はケーキを意識してしまうし、年末は年越し蕎麦を意識してしまう。そんなことは気にしなければいいとも思うのだが、やはり、気にしてしまう。みんなが当たり前にできることが、自分にはできない。みんなが当たり前に持っているものを、自分だけが持っていない。この「自分だけ」という感覚は疎外感をもたらし、やがて、自分から周囲を疎外するようになる。誕生日や、イベント事を、自分とは関係のないものとして切り離して、それがなくても平気な振りをするようになる。しかし、本当は、心の内側では強く何かを求めている。思い出しているのではない。求めている。
自分だけだと思うと孤立をする。みんな同じだと思うと、人間的な結び付きを感じる。幸せそうに生きている人が、必ずしも幸せだとは限らない。人にはそれぞれの哀しみがある。出さないだけで、誰もが昼と夜を抱えて生きている。昼の顔は、夜の顔を感じさせない。だが、夜の顔はある。笑顔の裏に、哀しみを隠し持っている。私たちは強さや喜びを志向するが、人と人を繋ぐものは弱さだと思う。哀しみだと思う。苦しい時、人生に絶望をしているように感じる時でさえも、私たちは、探すことをやめない。本を読んだり、スマホを見たりしながら、何処かに自分を奮い立たせてくれるものはないだろうかと、希望を探し続ける。多くの場合ははずれに終わるが、時折、涙が出そうになる言葉に出会う。孤独に寄り添う言葉に出会う。それは「あなただけじゃない。ここにもいる」と言っている。悲しみは、同じ悲しみに出会う時、温もりに変わる。相手の中に、自分を発見する。
兄弟姉妹という言葉に、昔から愛着を感じる。どこまでも遡れば、私たちは一人の人間に行き着く。同じ血を分けた兄弟姉妹であり、家族であり、同胞である。自分だけだと思うと、孤立を深める。分離を深める。兄弟姉妹だと思うことで、見えなかった繋がりが少しだけ見える。誰もが昼と夜を抱えている。人にはそれぞれの哀しみがある。色々な気持ちになりながら生きているのは、あなただけではないですよ、ここにもいますよ。そんなささやきの声に、兄弟姉妹に出会えたような喜びを感じるのだと思う。兄弟だから、姉妹だから、家族だから、時には厳しいことも言う。身内だからこそ、乱暴な言葉も使う。誰といる時よりも、生身になる。それは、嫌いだからではない。好きだからだ。兄弟だからだ。姉妹だからだ。家族だからだ。根底にある「同胞」の意識さえ忘れなければ、きっと、何が起きても大丈夫なのだと思う。たとえ、自分は一人きりだと感じることがあったとしても、本当の思いを生きる時、本当の望みを生きる時、本当の意味で自分を生きることができた時、死んでしまった人も、これから生まれてくる人も、たくさんの人たちが付いてくる。人類全員と、兄弟姉妹になる。人間だけではない。花も、月も、鳥も、涙も、私たちを応援している同胞だったことを思い知る。兄弟姉妹というのは、幻想ではない。一人一人が分離して生きていると考える方が、幻想なのだと思う。 おおまかな予定
12月31日(日)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z