千葉県道9号船橋松戸線は、船橋市本町のJR船橋駅北口に始まり、市川市北部を経由して、松戸市高塚新田に至る、全長9kmの主要地方道である。
この県道、千葉県内有数の主要駅である船橋駅前から始まった直後は道幅も広く、都会的幹線道路の表情である。だが、北上するにつれ典型的な郊外の2車線道路風景となり、終点直前の約1.1kmに至っては、下の地図のように、なんともひょろひょろとして頼りない感じで描かれているのだ。
今回紹介するのがその狭い区間。名付けて、“大野狭区”である。
私は、「現在地」と書いてあるところから北へ、終点を目指して探索を進める。
車窓だけならgoogleストリートビューでも見られるので、私の“感想”が主な内容となる。
なお、この探索のエリアは東京都心(千代田区)から直線距離で19kmくらいしか離れていない。当サイトがこれまで紹介した内容では、もっとも都心に近いかもしれない。
そんな場所にあるヒトケタ県道(もちろん主要地方道)で、路線名も「船橋松戸線」というダブル市名である。もはやそこには、都市間交通を担う瑕疵なき幹線道路の他には、何も入り込めなそうなイメージがあった。
だが、実際の風景とのギャップは、相当だった。
2016/1/21 7:48 《現在地》
ここは市川市大野町三丁目の県道9号上である。
起点の船橋駅北口から約7.8kmの地点で、終点まで残り1.3km弱だ。
ここで私はいま、終点方向を向いて撮影している。
すぐ前方に大きな青看があり、その少し先に、青看に描かれた通りの突き当たり丁字路が見えている。
青看の行き先はシンプルで、左が松戸、右が鎌ヶ谷と表示されている。
県道9号船橋松戸線としては、当然ここを左折するのが正解となる。
青看上にも左の道にヘキサも表示されているが、このヘキサは後から貼り付けたような色合いをしていた。
県道9号のここまでは、何の問題も無い。
左折する。
左折して100mほど進んだのが、この写真の地点。
この先を、右折。
ここが、県道9号“大野狭区”のスタートである。
問題の右折地点のところに、背面を向けた大きな青看があるが、これは直前に左折した交差点を案内するもので、私がこれから進もうとしている“進路”は、描かれていない。(チェンジ後の画像に点滅表示される黄色矢印が、私の進むルート)
なお、ここを右折せず道なりに直進しても松戸方向には行けるので、先ほどの青看の表示に嘘はない。
ただ、県道9号を忠実に辿るなら、ここを右折する必要がある。
今が朝のラッシュアワーのせいもあるだろうが、とても交通量が多く、なかなか右折して県道へ進むことが出来なかった。
なにせ、この交差点には信号も横断歩道も右折レーンもなにもない。
進むべき道は、外見上どこにでもある脇道に過ぎない。
しばらく待機して、先ほどの丁字路の信号待ちの車列がここまで100mも伸びてきたときに、ようやく横断し進む事が出来た。
ラッシュアワー時に私と同じ動きをクルマでやったら、後続車両から顰蹙を買いそうだ。
“大野狭区”に入った直後の県道は、まあ狭区と名付けはしたが、普通の1.5車線道路である。
千葉県道9号船橋松戸線というネーミングに対して私が勝手に抱いていたイメージからは既に乖離が大きいが。
7:51 《現在地》
狭区に入って100m弱進んだ地点から、道はちょっとした丘を回り込むようにカーブしている。
この丘の上には墓地が広がっていて、雰囲気ある大樹が立つ。路傍に複数の古碑。
雨の夜に唐傘オバケでも出て来そうな、いい雰囲気。
なお、古碑には道しるべを期待したが、「馬匹徴発記念碑」と書いてあった。日清日露戦争時代のものかもしれない。
でも、長閑な風景なばかりではない。
丘を回り込む県道から見えるのは、立派な高架のJR市川大野駅だ。
県道は駅を間近に眺めながらも、アクセスせずに素通りする。
明らかに駅は県道よりも新しい。というか、JR武蔵野線自体が県道よりも遙かに新しいのだろう。
県道は、鉄道という新しい都市開発の主役との繋がりを与えられず、ここで古い丘の縁をかじっている。
「昔ながら」という言葉をはみはみしながら丘の縁を抜けると、立派なケヤキ(たぶん)の切り株が立つ十字路に出た。
さて、この一見すればどこにでもある十字路だが、“険道”ファンが地味にチェックする美味みのポイントを満たしていた。
この交差点、県道(しかもその中でも格上の主要地方道である)の側にだけ「止まれ」の標識があり、交差する格下の市道に金星を捧げている。
交差点でどの道に一時停止を求めるかは、見通しや交差点の形状などの色々な要素が絡むのでケースバイケースだが、原則的には交通量の多い道が優先される。
だから道路の格付けと一致しないことも珍しくはないが、それでも、「こっちは主要地方道だぞ!オラオラ」って、心の中で威嚇してから直進した。
続いて、武蔵野線のガード下を潜る。
ここで注目すべきは、ガード下の道路用地の広さだ。
現状の1.5車線道路の倍以上はあり、頑張れば4車線の道路を通せそうな広さがある。
武蔵野線のこの区間が開業したのは、昭和53(1978)年である。
当時から既に県道は認定されており、ここに将来的な拡幅の可能性を残したのに違いない。
だが、前後の道の状況からは、ここが大規模に拡幅を受けるイメージ湧かない。
それに、市川市の都市計画道路計画も調べてみたが、ここを通る路線は存在しない。
7:54 《現在地》
ガードを潜ると道が二手に分かれる。
狭区の始まりから約300mの地点である。
この分岐、地図によって意見が分かれている。
スーパーマップルデジタルをはじめとする、複数の道路地図帳は、左の道を県道として描いている。
だが、地理院地図は右の道を県道としている。
どちらを選んでも大差はなく、300m前後で1本になるのだが、県道ファンとしては正確なルートを辿りたい。
まあ、経験上からいえば、県道の正確性は「市販の道路地図<地理院地図」であるので、右の可能性が高いと思うが。
どうやら、正解は右のようだ。
右の道へ入ってすぐの場所に、県の用地を示す「千葉県」と書かれた立派な用地杭が立っていた。
県有地と県道敷きは等価じゃないが、これ見よがしに道に面して建っていることからしても、ここでは県道敷きを示していると考えて良いだろう。
心置きなく、右の道を進むことにする。
道はまたしても、ちょっとした丘を登る。
谷戸と小尾根が樹枝状に張り巡らされた下総台地の地形的顔貌を色濃く感じさせる経路である。
おそらく、都市開発の波は先に谷戸を埋め、次に残った小さな山地(丘)へ進んでいるのだ。
この丘にある小さな分譲地は、まだ工事が終わって間もない様子だった。
「この先行き止まり」の標識が立っていて一瞬「どきっ」としたが、これは分譲地へ入る道に対してのものだった。
容易く丘を乗り越し、まだ下る。
先にはもう、次に越えるべき丘が見えている。
ここは高架の多い武蔵野線の線路を見下ろせる、県道沿道では唯一の場所。
長閑だ。
殺気だった朝のラッシュから、少し距離を置けている。
この時間帯に都会の道路探索をするのは、本当に、“お互い”にとって益少ないと常々思っているが、この県道は例外的だった。
「船橋松戸線」という名前に、私はどんなイメージを持っていたのだろう。
おそらくそれを開陳するたびに、「あんたが思っているほど都会じゃないですぜ」という地元民のツッコミをいただきそうだ。
この地、市川市大野が、東葛飾郡大柏(おおかしわ)村から市川市に入ったのは、昭和24(1949)年である。
それまでも、またそれからしばらくも、ナシの名産地であったそうだ。
丘を下り、前に分かれた道とひとつに戻って、次の丘を上る。
概ね道幅は1.5車線を維持している。
県道を示すヘキサは、狭区に入ってから一つも見ていない。
この上り坂の路面に、見馴れない道路標示がペイントされていた。
「出合い頭注意」という、少し長い文字列だ。
パンを咥(くわ)えた女学生と衝突するのは、こんな交差点だろうか。
「頭」という文字が路面に書かれているのは、初めて見た。だからなんだということもないが。
なお、厳密にはこれは「道路標示」ではない。公安委員会(警察)が管理しているのは、道路標示と同じだが、道路標示には、道路標識がそうであるように、厳密に種類が定められており(交通教本を見て欲しい)、その定めの外にある表示は全て、「法定外表示」という。良く見る「止まれ」「速度落とせ」「急カーブ注意」などの文字も、路面にある場合は全て「法定外表示」である。詳しくは、瀬拙著「国道? 酷道!? 日本の道路120万キロ大研究 (じっぴコンパクト文庫)」を…。
7:58 《現在地》
坂道を上りきると、即座に十字路。
なるほどこれは、「出会い頭注意」も頷ける。
この十字路は、県道にも交差する市道の側にも、「一時停止」はない。
県道はここも直進だが、道幅が1.5→1車線に縮小する。
狭区に入って約700m、終点まで残り400mとなり、いよいよハイライトといえるものがあるのだろうか。私の不謹慎な期待感が、ひときわ濃く見える森へ吸い込まれていく道の先へ注がれた。
なお、この交差点をgoogleストリートビューで見ると、なかなかの「主要地方道ってなんだっけ」感があった。おすすめ。
スポンサーリンク |
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
|
交差点のすぐ先で振り返って撮影したのが、この写真。
おもわずクシャミの出そうな眩しさに照らされて、1車線だけの路面がテカっている。
なんとなく、直感的に感じるものがあった。
この道は、古くからの生活の道のままなんだろうな。
ずっと歩かれていた道が、明治以降に、ほんの少しだけ広げられて車道になって。もっと地形が険しかったら、歩きの道とは別に車道が作られたりもしただろうが、この程度の起伏ならその必要もなかったろう。そんな何の変哲もない、ありふれていた道の一つが、たまたま県道に認定されたのだと思う。
有名な街道筋という感じでは、決してない。県道に認定されたのもおそらく、将来この辺りに大きな道を通すための中継ぎとして、認定したもののように思う(よくあることだ)。船橋と松戸を結ぶ直線の上に、たまたま立地したというのが、そのほとんど唯一の理由であったのではないか。
森に入って一気に下ると、細い谷戸に出た。
そしてこの谷戸筋が、市川市と松戸市の市境である。
この谷戸を跨ぐことで、船橋松戸線という路線名がはじめて真となったというのに、それを誇るような様子はまるでない。
県道、いや、主要地方道であれば、市境に標識の1本くらい立ててあげてもよいぢゃないか。
そんなことを思っていると――
振り返りざまに、こんな標識を見つけた。
「スリップ通行注意 千葉県」
ヘキサではないけれど、それに匹敵するくらい濃密な“県道臭”を醸し出している。
狭区に入って以来ここまで、県道を感じさせるものは味気ない用地杭しかなかった中で、突然濃厚に示されたその臭い。
「ああ、千葉県もここが県道であることを忘れてしまっていたわけではないのね!」と、なんだか、沈没しつつある船で呆然としていたところ、上空に報道ヘリが現れてハッとするような、そんな心境になった。
7:59 《現在地》
ここから先、松戸市です。(笑)
と、思わず「笑」を強調したくなるような、ヤルの気の欠片もないような始まりです。
おい、主要地方道先生が来てやったんだぞ! 松戸市ぃ、目ぇ醒ませ!
(しかもヨッキれんの本籍地は松戸市本郷だぞ!幼すぎて記憶にないうちに引っ越しちまったけど、多分愛の巣だったんだぞ! 自転車で松戸市の市境を跨ぐのは、これが生涯初だぞ! オブローダーとして凱旋したんだぞ! 凱旋門はどこだ!)
しかも何か「神と和解せよ」とか書いてあっても不思議じゃないような、手書きの看板があるし…。 どれどれ……
出た-!! 公道九尺!!
今までも節々に感じていた古びたイメージを決定的にさせる文言が、現役の看板として現れた。
公道という言葉には色々なニュアンスがあるが、この場合はおそらく、明治の地租改正事業に伴って全国的に整備された字限図(あざぎりず)などの公図に赤線で描かれていたことから「赤道(あかみち)」とも呼ばれた、私道(わたくしどう)ではない公共の道、公道だろう。
明治の道路制度における公道の区分は国道・県道・里道とあり、現在の国道的な幹線道路を除けばほとんどが里道だったから、ここもそうであったのに違いない。
ここからは由来がはっきりしないのだが、公道には9尺幅(2.7m)のものが多かった。10尺や8尺ではなく9尺が多い。当サイトの過去のレポートにも、このように、9尺道という文言はしばしば登場している。9尺のほかは6尺や3尺もよく記録に出てくるが、このことの法的あるいは制度的由来を知っている方がいたらこっそりと教えて欲しい。昔から気になっていて調べているが、分からず仕舞いだ。明治以降ではなく、近世の制度に由来するのかも知れないと思っている。
9尺道区間は、里の森を一気に駆け上がる急坂だ。
両側は私有地という通り、高いフェンスに囲まれた薄暗い区間である。
しかしその割に交通量がある。昔ならば精度の悪かったカーナビに騙されて入ってくる車もいただろうが、
現代の通行人の多くは、純然たる地元人か、あるいはラッシュアワーの抜け道として活用する人々だろう。
対向車が来てしまうととても面倒な区間だからか、みなさん9尺道の時代ではあり得なかったような速度で
一気に通りすぎていく。味わいながら走るクルマが居たら、それは完全に険道マニアかもしれない(笑)。
船橋松戸線の9尺道は、おおよそ120m続く、この狭区のハイライトである。
8:02 《現在地》
坂道を登り切ったところで1.5車線幅の松戸市道と突き当たり、9尺道の終わりとなる。こちら側には例の看板は見あたらない。
そ し て 、
主要地方道船橋松戸線、終点でございます!
え? って思うよね。 思 う よ ね ? (笑)
だって、「ほら、松戸市に着いたぞ」って突然ここで降ろされたら、大多数の松戸市民にとっては、可哀想なことになるぞ。市の中心部は、まだ5kmも離れている。なお、スーパーマップルデジタルなどの道路地図帳はここを終点としているが、地理院地図は、右折して200m先の国道464号交差点まで県道を伸ばしている。
また意見が食い違ったわけだが、今度は(珍しく)道路地図帳軍団が正解だ。
なにせ、県道の管理者である県のサイトで公表されている「東葛飾土木事務所管内図(pdf)」が、そのように描いている。(←)
にしても、酷い描かれ方だ(笑)。
県道は、南接する葛南土木事務所管内からチョロッと出て来たと思ったら、即座に終わっている。
地理院地図が、親切心からではないと思うが、うっかり国道まで県道を延ばしてしまったのも分かる気がする。
こんな場所で唐突に終わる理由が、ちょっと考えつかない。
道がないならまだしも、この終点の丁字路を右折しても左折しても、すぐに幹線道路に出られるのに…。
8:03 《現在地》
なお、県道の終点を右折して200m先にある、国道464号の交差点はこんな場所だ。
2車線の国道と1.5車線の市道が三叉路形状で分岐しており、市道側が旧道のような気配がある。
ここにも、信号機、横断歩道、青看は、ない。
こうして、色々な不思議を感じながら、タイムポケットじみた“大野狭区”の探索を終えた。
帰宅後に少しだけ机上調査を行った。
戦前の地形図を見てみると、案の定、今回探索した県道のルートは、細い二重線である「里道」の一種として描かれていた。
嫋やかさに生活感を宿した長閑な線形も、ほとんど当時のままだと分かる。
現在は普通に2車線道路として整備されている市川大野駅以南の区間についても、当時は全体的に明治由来の里道であり、公道であり、そして9尺道であった可能性が高い。
なお、図示したのは昭和7(1932)年版だが、昭和20年代も同じような描かれ方であった。
県道に認定されたのは、もっと後だということになる。
それでは、いつから県道なのかという疑問の答えは、wikipedia:千葉県道9号船橋松戸線によると、昭和30(1955)年であるという。
戦争からの復興も軌道に乗り、一帯に首都圏を構成する数多くの衛星都市が我先きと発展を目指していた当時、下総地方の重要都市である船橋と松戸を結ぶ路線として、当時あった市町村道を継ぎ接ぎして認定されたものと思われる。
この時点では、遠くない将来に全線が改良され、都市間交通の幹線道路となると期待されていたのではないだろうか。
さらに調べていくと、重大な事実が判明した。
というか、現地でも少し疑っていた事柄が確信に変わった。
右図は、平成4(1992)年に発行された道路地図帳(千葉県広域道路地図(東京人文社))であるが、この通り、当時の主要地方道船橋松戸線の終点は現在の場所ではなく、遙かに松戸市の中心部に近い松戸市松戸にあった。泣く子も黙る国道6号【松戸隧道交差点】が、終点だった!
しかし、平成5(1993)年に国道464号が指定された際に、現在の区間へ5kmほども短縮されたようだ。
また、この古い道路地図は、現在の終点が不自然な位置であるという“謎”の答えも示している可能性がある。
この地図を良く見ると、現在の終点である丁字路は十字路のように描かれ、【この画像の矢印の位置に道があるように描いている】。
実際には、このとおり、道は現存しないが、前掲した昭和7(1932)年の地形図にはそれらしい小道があるし、この区間は平成4年当時まで、いわゆる自動車交通不能区間(或いは未開通)のような状況で、ずっと放置されていたのではないか。それが、平成5年に県道の区間変更が行われた際に、そんな「つかえない」区間を切り捨てた結果、今のように中途半端な位置の終点が生まれたと、私はそう考えている。
最後になるが、なぜ、県道船橋松戸線は、未だに十分に改良されないままになっているのか……という疑問に対する私の答えは、一般県道180号松戸原木線の整備により代用されてしまったのだと考えている。
左図に示したとおり、県道180号は、県道9号の並行路線である。
そしてこの県道180号は、大部分が「市川松戸有料道路」として、現代に一から建設されたものである。
千葉県道路公社が運営していた同有料道路は、昭和41(1966)年に着工し、全線7.8kmが昭和46年に開通した。
無料化は平成12(2000)年と最近のことなので、有料時代に通行した経験を持つ人も多いだろう。
それでは、県道9号は将来にわたってこのまま放置されるのかと言えば、さすがにそんなことは無いだろう。
市川市の都市計画道路計画を見ると、現道の東側に平行して全幅22mの都市計画道路3.3.9号線が計画されている。これがやがて完成すれば、国道464号の交差点以南は、県道9号になるのかもしれない。
……我々が“9尺道”のお世話になる日々は、まだ当分は続きそうである。
完結。