「近代日本経済の父」と呼ばれる実業家、渋沢栄一をデザインした一万円札。
日本で最初の女子留学生としてアメリカで学んだ津田梅子をデザインした五千円札。
破傷風の治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎をデザインした千円札。
財務省と日銀は、3種類の新たな紙幣の発行を来年の7月3日から始めると発表しました。
新紙幣にデザインされた3人の功績についてもまとめています。
新たな紙幣には、一万円札に「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一、五千円札に日本で最初の女子留学生としてアメリカで学んだ津田梅子、千円札に破傷風の治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎の肖像をデザインします。
財務省と日銀は新紙幣の発行開始の時期について来年の7月前半としていましたが、2024年7月3日に決定したと発表しました。
紙幣のデザインが変わるのは2004年以来、20年ぶりとなります。
また、新紙幣の発行後も今の紙幣はこれまで通り使うことができます。
新紙幣では、偽造防止の技術を強化していて、世界で初めてとなる最先端のホログラム技術が導入され、紙幣を斜めに傾けると肖像が立体的に動いて見えるほか、「すかし」は、肖像を映し出すだけではなく、紙の厚みを微細に変え、高精細な模様を施しています。
日銀は、来年3月末までに新たな紙幣をあわせて45億3000万枚を印刷する計画で、来年7月以降、需要に応じて順次必要な量を発行したいとしています。
渋沢栄一は、明治から昭和初期にかけて活躍した実業家で、生涯およそ500もの企業の設立や育成に関わり、「近代日本経済の父」や「日本資本主義の父」と呼ばれています。
渋沢栄一は、江戸時代の天保11年(1840年)に現在の埼玉県深谷市の農家に生まれ、若いころは、のちに徳川15代将軍となる一橋慶喜に仕えました。
27歳の時には、慶喜の弟で、のちの水戸藩主、徳川昭武に随行して、パリの万国博覧会を見学したほか、ヨーロッパ諸国を歴訪し、当時の先進的な経済の実情を見て見聞を広めました。
明治維新の後、当時の大蔵省に入ったあと、実業家になってからは、現在の「みずほ銀行」につながる日本初の銀行「第一国立銀行」や、「東京証券取引所」の前身の「東京株式取引所」、現在の東京商工会議所の前身の「東京商法会議所」など、数多くの企業や団体の設立に携わりました。
現在の王子製紙やサッポロビールなどにつながる企業の設立にも関わり、生涯で設立や育成に関わった企業は、およそ500にも上ると言われます。実業家としての渋沢の考え方が記されているのが、自身の著書、「論語と算盤」です。
この中で渋沢は企業の目的が利潤の追求にあるとしても、その根底には道徳が必要で公益を第一に考えるべきだという「道徳経済合一説」を説き、いまの一橋大学など数多くの教育機関の設立や社会事業の支援にも携わりました。
津田梅子は、いまの津田塾大学を創立したことで知られる明治から昭和初期にかけての教育家です。
江戸時代末期の1864年に生まれ、1871年・明治4年に女性初の留学生の1人として6歳で岩倉使節団とともに日本をたち、アメリカへと渡りました。
11年間にわたってアメリカで教育を受けたあと、帰国し、華族女学校の教授を務めました。
その後、ふたたびアメリカに留学してから帰国し、1900年・明治33年に35歳で女子英学塾・いまの津田塾大学を創立しました。
当時は良妻賢母の考えのもと、女性の社会進出が極めて難しい時代でしたが、女子英学塾では、「男性と協同して対等に活躍できる女性の育成」を目指して、英語教育とともに女性の個性を尊重した少人数での教育に力を入れたため、津田梅子は、日本の女性教育の先駆者と言われています。
北里柴三郎は、破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功し、その治療法を確立するなど、明治から大正にかけて伝染病の予防などに多大な功績を上げた世界的な細菌学者です。
北里柴三郎は、江戸時代の嘉永6年に(1853年)現在の熊本県小国町に生まれ、東京大学医学部の前身となる「東京医学校」で学びました。
卒業後は、ドイツに留学し、病原微生物学研究の第一人者「コッホ」に師事し、1889年には当時不可能とされていた破傷風菌だけを取り出して培養する「純粋培養」に世界で初めて成功しました。
さらに、菌の毒素を少しずつ注射しながら体内で抗体を作ることで病気の治療や予防を可能とする「血清療法」も開発しました。
帰国後は、「私立北里研究所」を設立し、インフルエンザや赤痢などの血清開発を続けるとともに、黄熱病の研究で知られる野口英世や赤痢菌を発見した志賀潔など多くの弟子の指導・育成に取り組みました。
大正6年(1917年)には、慶応義塾大学医学科の創設にも関わり、その功績の大きさから、日本における「近代医学の父」とも呼ばれています。