歴史

ゆるっと解説 大河と歴史の裏話
『瀬名は、悪女ではなかった⁉』

史料をベースに、脚本家が独自の視点で、時代の荒波を生き抜いた人々の人間ドラマを描く大河ドラマ。『どうする家康』も、最新の時代考証研究の成果を踏まえつつ、脚本家の古沢良太さんが多彩なアイデアを盛り込んで書いています。その執筆を支える縁の下の力持ちが、時代考証。本作の時代考証の一人・平山優さんが、歴史家の目から見たドラマの注目ポイントを語ります!

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平山 優ひらやまゆう 歴史学者

1964年東京都新宿区生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県立中央高等学校教諭を経て、現在は健康科学大学特任教授。NHK大河ドラマでは、大学院に在籍中の1988年に『武田信玄』時代考証担当・上野晴朗さんの助手としての参加を皮切りに、2016年『真田丸』、2023年『どうする家康』の時代考証を担当。

第25回「はるかに遠い夢」を見終わって、深いため息をついてしまったところです。家康が13歳の時に出会い恋仲となって以来、愛し続けてきた瀬名をみすみす目の前で自害に追いやってしまった家康の胸中を思うと……。それにしても、今回もまた長い伏線が回収されました。第1回の桶狭間の戦いにおいて、家康が命じられた役目を “お米を運ぶだけ” と聞いて安心した瀬名が思わず本音を漏らす場面がありました。「瀬名は、殿を戦に行かせず共に隠れてしまおうかなどと思ったくらいです。どこかへこっそり落ち延びようかなんて」というあのセリフが今頃になって、こんなに痛切に響いてくるとは全く予想していなかったので、不意を突かれました。

史実として築山事件をご存じの歴史好きの方なら、第1回で家康と瀬名のふたりが仲むつまじくしているのを見るにつけ、今後ふたりに待ち受ける運命を思うと胸騒ぎがしてならなかったのではないでしょうか? 戦国時代を描いた映画やドラマは数々ありますが、『どうする家康』における瀬名の描かれ方は、私の知る限り前例のないものでしたから、歴史ファンにとっても意外だったと思います。瀬名といえば、今川家の人質であった家康を見下していた傲慢な女性だったとか、家康がお手付きした相手を執拗しつよう折檻せっかんする嫉妬深い性格だったとか……。

瀬名 悪女説ですね。これまでいろいろな作品で瀬名は悪女であるかのように描かれてきたということですが、同じ人物が作品によって正反対のキャラクターに描かれるということが、なぜ起こるのでしょうか? 時代考証の平山先生としては「瀬名は悪女だったのか、そうではなかったのか」史実としてはどちらが正しかったとお考えなんですか? そもそも「悪女」呼ばわりされた女性たちは、何をもって「悪女」といわれたのでしょうか?

まず日本の歴史において、後世に「悪女」と評価された女性たちに共通していることが一点あります。「悪女」と呼ばれた女性たちはみな、当時の政治に非常に大きく関わって、多くの人たちに影響を与えたという点ですね。
例えば鎌倉時代の北条政子、そして室町時代の日野富子、そして『どうする家康』にこれから出てくる淀殿なども、みんなそうです。特に北条政子は源頼朝が亡くなったあとは執権の北条家とともに幕政を差配したので、極めて強い影響力があった。それだけの影響力を女性が持ってしまうと、あらゆる意味で毀誉褒貶きよほうへんが激しくなるわけですよね。女性に対してそのような毀誉褒貶が生じて「悪女」呼ばわりするようになったのは、江戸時代のこと。なぜかというと江戸時代というのは女性の政治参画がほぼなくなった時代です。当時の社会は男性中心でした。片や中世の女性の場合は財産を持つ権利もあったし、また当主が亡くなったあとは女性が当主に代わって家を差配することも当然のごとく行われていた……そういう時代でしたので、北条政子や日野富子などのような女性が出てくる余地があったわけですね。

ところが近世になるとそのような女性の活躍はなくなってしまうので、北条政子や日野富子のような中世の女性を近世の目で見直すと『出しゃばり』と評価されてしまったり、そのように女性が出しゃばった結果『家が傾いた』『社会が混乱した』と評価されるようになってしまい、それが悪女説の根源になったと思われます。とりわけ政子も富子も、彼女たちを取り巻く当時の政治や社会の状況が悪かったこともあり、「あんな女が政治に関与したから、時代が混乱したのだ」と解釈されがちだった辺りにも、悪女説の根源がありそうです。政子ならば、幕府の権力抗争の激化や朝廷との関係悪化など、富子ならば、飢饉ききんや災害、そして応仁・文明の乱の勃発などが彼女たちを取り巻く背景でした。それらが惹起じゃっきした要因に、彼女たちの存在が数えられているのですから、不幸だったといわざるをえませんね。当時の状況を調べてみれば、彼女たちの責任ではないことはよくわかると思います。

戦国時代と、江戸時代に入ったあとでは、社会の中での女性の立場や、見られ方がずいぶん変化したわけですね。

そうですね。女性の立場という話でいいますと、例えば江戸時代の大名の場合は、一夫一妻、そして多妾たしょうといいまして、1人の当主=旦那さんに1人の正室がいて、あと側室がたくさんいるっていう構図なんですけれども、戦国時代の場合は必ずしも一夫一妻制ではなくて、正妻が複数いたり、あと正妻の下だけれども側室よりも身分は上の別妻というのがいたりします。それらすべての奥を取りしきるのが、正室の役割ということになるわけです。そんな事情もあるので、女性の地位が相対的に高いんですよ。ところが後に江戸時代になると、そういう記憶は失われてしまいます。女性の地位が変動してしまった江戸時代では、中世の女性の活躍ぶりはむしろネガティブな評価の対象にもなりえるわけです。

その結果、北条政子も日野富子も中世で活躍した分、後世で「悪女」のレッテルが貼られてしまった……のかもしれませんね……。

その可能性は十分ありますよね。ですから江戸時代の徳川将軍の正室や側室の中にも政治に参画したり、あるいは影響力を持ったりするような人が出てくると、決して良くはいわれないということになります。特に後半になればなるほどその傾向が強い。ただ武家と庶民はまた別です。庶民はやはり女性の力が家族を支えていくうえで非常に大きいので、男が強く見えても女性が旦那を尻に敷くという、今につながるようなことが当時もありました。

なるほど。それで先生、瀬名ですけど……、実際に瀬名がどんな人だったのか、どんなキャラクターだったのかはわかっているんですか? その辺りを伝える史料が何か残っていたりするんですか? 後世にどう伝わっていたかではなくて、瀬名が生きていた同時代に記録された史料があったりはしないんでしょうか?

その辺りはよくわからないんですよ。実際、史料が残ってないんです。

やはり瀬名も当時の政治に非常に大きく関わって、多くの人たちに影響を与えた人だったから、後世に悪女扱いされたって可能性もあったんですかね?

瀬名が悪女だというふうにいわれるようになった最大の理由は、徳川家康が後の徳川家と江戸幕府によって、神君……つまり神としてあがめられるようになったからなんですね。江戸幕府の創設者であり神君である家康公が、正室の築山殿を死に追いやったとなると、これは非常に都合が悪いということになります。それゆえ、家康が瀬名に死を与えなければいけなかった理由が、公式に必要だったわけですね。そこに瀬名悪女説、築山殿悪女説が流布する根本的な背景があったと思います。また、瀬名を死に追いやったのが家康自身ということでは、もっと都合が悪いので、織田信長からの命令という話になったようです。ですから瀬名の実像と、江戸時代から今日まで流布されている虚像との間には、かなり大きなギャップがあるのだろうと我々専門家は考えています。

瀬名=築山殿の死後に後世の人が書いた史料の真偽をどう判断するかは、なかなか難しいということですね。

そもそも根本的に史料が足りないので、築山殿の実像はよくわからないといわざるをえないのですが、ただ事実として、家康と築山殿の夫婦仲が悪かったという証拠はどこにもないんですよ。まず押さえておくべきなのは、家康と築山殿が結婚した時に、築山殿のほうが家康より身分が上だったという点です。そして年齢もおそらく上だったのではないかと考えられています。築山殿は今川義元の一門で重臣の関口氏純の娘でした。ふたりの結婚は家康を駿府で庇護ひごしていた今川義元の意向が強く働いていたことは間違いありません。ですから「家康が今川から離れて自立したあと、今川の後ろ盾を失った築山殿はこれまでさんざん家康を見下していたこともあって、その時から夫婦関係が悪かったんだ」というふうにいわれがちなんです。……しかしですね。例えば、誰を側室にするかの選定とか、あと側室が子どもを産むことについての差配の権限を、築山殿は依然として家康の妻として握り続けていたと推測できるんですね。例えばお葉=西郡の局という人が家康の側室になりますが、この人はもともと、築山殿の管理下にいる浜松にいた女房衆(奉公人)だったんです。ということは築山殿が自身の管理下に置いていた奉公人を自ら承諾して、家康の側室に据えたと考えてもいいと思うんですね。

そういえば『どうする家康』でも、そのエピソードありましたよね。第10回「側室をどうする!」では、瀬名自ら奉公人の中からお葉(北香那)を見いだして、側室になる決心をしてくれるように頼んだりしていました。

そうですね。第19回「お手付きしてどうする!」で家康がお手付きしたお万(松井玲奈)もまた「もともとは瀬名の奉公人だったのに、瀬名の知らないところでお手付きしたとあっては、瀬名の立場がない」というストーリーでした。史実でも結城秀康を産むお万の方については、築山殿の奉公人=下女、もしくは侍女だったといわれています。ところが秀康が生まれたことに対して、築山殿が嫉妬したとあるのは、あくまで江戸時代に書かれた記録の中にしか出てこないんですね。史実では結城秀康について家康はしばらくの間、自分の子どもとしては認知していないんです。では秀康を認知したのはいつだったかというと、築山殿が亡くなったあとでした。ということは……家康は築山殿をある程度尊重していたと考えられます。少なくとも、秀康が生まれるころまでは家康は瀬名に対して、岡崎に残ってはいるけれども自身の正妻であるとして、浜松の女中衆を管理するだけの権限を認め、与えていたわけです。これは決して夫婦仲が悪かったということでは片づけられない、重要な事実だと思います。そのような史実を考慮に入れると、私はある段階までは、家康と築山殿の夫婦仲は、良い、悪いは別にしても少なくとも正常な関係にはあって、築山殿も徳川家の運営に寄与していたと考えます。築山殿が徳川家の女性たち、奥向きを差配していたということは間違いなかったと思います。

江戸時代の正室とか、将軍家の妻と比べると、築山殿の立場や権限は全然違うんですね…。だからやっぱり後世の人々からは悪女呼ばわりされてしまったんでしょうね。

やはり家康が「自分の妻と嫡男に死を与えた」という事実は、江戸幕府の歴史にとって都合が悪いわけなんです。だからそこには正当な理由を付けなければいけない。その理由付けに真っ先に使われたのが織田信長ですよね。信長の命令には従わざるをえなかったというレトリックで「瀬名と信康が命を失ったのはしかたなかったのだ」と、家康の死後、そう説明されたわけです。そのために後付けでつじつまを合わせるために「築山殿が家康に対して、快く思ってないところがあって、そして武田家に内通した。築山殿はそれほどの悪女だったのだ」というストーリーが、おそらく作り上げられていったのだろうと思います。また、後に江戸幕府の二代将軍には秀忠が就いたことも見逃してはなりません。実は築山殿と信康が死を賜る直前に、秀忠が誕生しているんですよ。

ほう。本来は信康が跡継ぎだったはずなのに、もうひとり男の子が生まれた直後に信康は瀬名と共に死んだんですね。

はい。秀忠という男の子がもうひとり誕生したことによって、家康は徳川を継がせるための嫡男の地位を、信康から秀忠にシフトチェンジしたのではないか……いう学説も出てきております。

限られた史料から歴史を読み解くおもしろさと難しさが感じられるお話でした。今後、瀬名のキャラクターに対して大幅に認識の変更を迫られる事態は起こりえるんでしょうか?

歴史が書き換わるとか、あるいは通説が崩れるという背景には2通りあるんです。ひとつは新しい史料が発見された場合。そしてもうひとつは、我々自身が生きているこの時代にまで伝わってきた通説の中に、実は先入観やバイアスが含まれていたと、改めて自覚され、その根拠とされた史料の読み直しが行われた場合。

ひとつ目の、新しい史料の発見で通説が崩れるのはわかりますが……。

「瀬名は悪女だった」という説明の根拠になってきた今までの資料の信憑性しんぴょうせいが、新しい史料の発見によって崩れてしまうということは大いにありえるわけです。築山殿、信康事件に関しては今のところ、同時代の史料がほとんどありません。もし築山殿や信康に関して同時代に記録された史料が発見されたなら、これは後世の江戸時代に書かれた史料よりも信憑性が高いということになりますので、当然書き換えられる可能性が生じますよね。あともうひとつは、私たち歴史学者も時代の子でしかなくて、世の中の状況に左右される存在でもあるわけですよ。やはり知らず知らずに、通説や定説のバイアスを持ったまま、史料を読んでしまう可能性も否定できないんです。

なるほど。史料を解読する際にも自覚のないまま、つい「思い込み」にとらわれてしまうかもしれない、と。

はい。ところが落ち着いて史料を読んでいくと、ふたりが存命中に書かれた記述の中に家康と築山殿の夫婦仲が悪かったと書いてある史料は存在しないので、実は根拠などひとつもないとわかります。ある時期から「お互い、しだいに意思の疎通がなくなってきた」というふうに『松平記』などに書かれたりしていますけど、それはかなりあとの時代のことで。少なくとも、家康が今川から自立して、そして浜松に移るころまでに「意思の疎通がなくなった」という証拠は見つからないんです。

落ち着いて史料を読み直すことで、いかに先入観にとらわれていたかに気づくことがあるわけですね。

江戸幕府成立以降に培われてきた考え方や先入観に、ついつい縛られてしまうことがないとはいえません、ですから、新史料の発見に加えて、史料の読み直し=再検討作業も、歴史の書き換えのきっかけになりえるわけです。そういう意味でNHKの大河ドラマは、実は歴史上の人物なり事件なりの再検証に非常に大きく関わる結果につながっている場合が多いのです。

大河ドラマが、歴史を再認識するきっかけに?

ドラマによって家康や築山殿に脚光が当たる。脚光が当たると、分析しようとする学者たちが増えてくる。そうすると、旧説の矛盾点があぶり出されてくる。より多くの研究者から新しい説が次々と出されて、これまでの通説の整合性が検証、検討されていき、新しい家康像が立ち上がってくる……そういう流れが生じるものなんですね。ですから大河ドラマの題材に選ばれたとたんに、それについて新史料が発見されるということが非常に多いんです。ドラマ化をきっかけに社会の関心がそちらに向きますし、特に歴史や文化財の関係者たちも関心をシフトしていくので「調査をしていたら、こんな史料を発見した」なんて話題も出やすいんですよね。

確かに『どうする家康』が放送されている期間なら、家康関連の史料が発見されれば話題になるでしょうね。

本当は、新しい発見はコンスタントにあるんですよ。コンスタントにあるけれども、意外に報道されなかったり、大きく取り上げられなかったりして、一般の人には伝わりにくい。けれども、ちょうど大河ドラマの題材として放送中で世間の関心が高ければ、「こういう史料が出ました」っていうと、みんなが関心を持ちますよね。ですから我々歴史家にとっては、「大河ドラマ」って実は大変ありがたい存在だと思います。

だから最新の学説をドラマに反映させることにも余念がないわけですね。それをきっかけにこれまでと違う見方ができる新しい研究者が、歴史研究の世界に参加してくれるかもしれない……という期待もあるから。

それも私たち時代考証担当者の役割だと思っています。ですから基本的な史料・データを全て脚本家の古沢さんにお渡しして、質問をいただいた時はそれに根拠をもってお答えする姿勢でおります。もちろん史料やレクチャーをもとに、どういうストーリーをお作りになられるかは脚本家・古沢さんのお力によるものです。ですから私たちは、差し上げた資料がどう料理されて、どんな物語になっていくのか、非常に関心を持って見ているところです。できあがった台本を拝読すると、古沢さんが私たちの提出したデータをいかに丁寧に読んでくださったか、そして史実を踏まえていかにさまざまに考慮してくださったかが伝わってきて、いつも感激しております!

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