ゆるっと解説 大河と歴史の裏話
『文化人としての 武田信玄・今川義元を描く』
史料をベースに、脚本家が独自の視点で、時代の荒波を生き抜いた人々の人間ドラマを描く大河ドラマ。『どうする家康』も、最新の時代考証研究の成果を踏まえつつ、脚本家の古沢良太さんが多彩なアイデアを盛り込んで書いています。その執筆を支える縁の下の力持ちが、時代考証。本作の時代考証を手がける小和田哲男さんと、平山優さん、そして『どうする家康』制作統括・磯智明の3人によるトークイベントが、5月4日に愛知県安城市の本證寺にて開催されました。その模様を3回に分けてお伝えします。本證寺は三河一向一揆の舞台としてドラマにも登場した場所そのもの。今も当時の姿をとどめる歴史的建造物でのイベントとあって、話題も縦横無尽に盛り上がりました。当日の会場にみなぎっていた熱い空気をライブ感覚あふれる完全採録で感じ取っていただければ幸いです。イベントの司会進行は安城市教育委員会の齋藤弘之さんです。掲載を快諾してくださった安城市教育委員会には、この場を借りてお礼を申し上げます。
小和田哲男(公益財団法人日本城郭協会理事長)
1944年静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在は、静岡大学名誉教授。文学博士。
NHK大河ドラマでは、1996年『秀吉』、2006年『功名が辻』、2009年『天地人』、2011年『江~姫たちの戦国~』、2014年『軍師官兵衛』、2017年『おんな城主 直虎』、2020年『麒麟がくる』、2023年『どうする家康』の時代考証を担当。
平山 優(歴史学者)
1964年東京都新宿区生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県立中央高等学校教諭を経て、現在は健康科学大学特任教授。NHK大河ドラマでは、大学院に在籍中の1988年に『武田信玄』時代考証担当・上野晴朗さんの助手としての参加を皮切りに、2016年『真田丸』、2023年『どうする家康』の時代考証を担当。
磯 智明(NHKメディア総局第3制作センター ドラマ チーフプロデューサー)
1966年東京都生まれ。1990年NHK入局。NHK大河ドラマでは演出として『毛利元就』『風林火山』、制作統括として『平清盛』『どうする家康』を担当。
~ 信玄と義元 文化人としての一面 ~
阿部寛さんが演じられている武田信玄の人物像も、家康前半生のライバルとして強烈な個性を出していると思います。よく「戦国時代最強の武田軍」といわれることも多いのですが、たいへん失礼な言い方かもしれませんが、そもそも甲斐の山奥の信玄が、なぜ戦国時代最強といわれる武田軍を編成できたのでしょうか。ご専門の平山先生にお伺いしたいと思います。
【平山】
信玄が「この山奥に生まれたことを恨んだこともあった」と苦渋のセリフを吐く場面がありましたが、あれは信玄の偽らざる本音だったと思います。もちろん台本で読んではいましたが、阿部寛さんが信玄に扮してあのセリフを口にすると、もう説得力が違います。とにかく甲斐国には水田がほとんどありません。畑、そしてあと重要なのは山林資源、そして鉱山資源です。甲斐国は信玄の父・信虎の時代に、激しい内戦の末に武田が実権を握ったという経緯があります。親父のおかげで甲斐国内の優力な国衆たちは勢力をそがれ、武田の覇権が確立しました。その後、信玄が父・信虎を追い出して実権を握ります。ですから信玄はある意味、父親が敷いてくれたレールの上に乗って、スタートを切ることができたのです。甲斐の国内を父親がすでに統一してくれていた。そして甲府という首都を作ってくれていた。その過程で、信虎の号令一下、各地に軍勢を動員できるような体制が整えられていた。信玄の基盤はすべて、親父が作っていたのです。
そして最後に父親が残した置き土産が何だったかというと……、あまりにも国内統一を強引に進め過ぎた信虎が、領民たちや家臣たちから買った「大きな遺恨」でした。そこで家臣たちは、信玄を担ぎ上げて、信虎を追い出したわけです。結局それが信玄にとっては「大きなプラス」に働きました。すべての悪行を父親が全部背負って、国から出ていってくれたわけですから。だから信玄はその翌年からすぐに信濃に侵攻し始めているのです。甲斐一国の国力を信虎の時代には周囲の勢力に対して多方向に使わねばならなかったけれども、信玄の時代になると、まず周囲の大名と和睦や同盟を結んで、後顧の憂いを断ち、限られた国力を隣の信濃攻略のためだけに一点集中させることとなりました。隣国信濃は、そのころは中小の国衆たちが群雄割拠している状態で、統一の機運がほとんどありませんでした。それぞれの盆地ごとにそれを統合するような勢力はいたけれども、信玄がそれをうまく攻略していき、領土を拡大していったわけです。戦に勝ち続けると、家臣たちに対するカリスマ性が出てくるわけです。「この人についていけばなんとかなる」という思いを、周囲も強くしていく。周りに与える影響力も強くなっていくわけです。やがて、自分のところに米穀、つまり穀物資源が乏しいのであれば、信玄に従って戦争に行き、ぶんどってくればいいんだ、という強気の考え方になっていく。「信玄についていけば、戦に勝てる」という信頼感を周囲の者に植え付けていったことが、武田軍の強さのバックボーンになったのだと思います。
武田信玄・勝頼の事績を描いた『甲陽軍鑑』という史料を見ると「信玄時代は甲斐国は豊かだった」って書いてあるのですが、なぜ豊かだったかというと、よそに行ってぶんどってくるからですよ。「戦国時代最強だったのは武田軍」といわれることに対して、そんな証拠がどこにあるんだ?と言う方もいらっしゃるかと思いますが……あるんです、証拠が。大和国の『蓮成院記録』という書物の中に、武田と上杉を指して「天下一之軍士」という記述が出てきます。実際に武田軍と上杉軍は強いと、当時の人たちは思っていたようです。だから戦国最強というと「またいい加減なこと言いやがって」という人がいるのですけれども、実はね、当時からそう言われていた根拠が残っているんです。それにしても今回信玄を演じられる阿部寛さんは、身長がもともと189cmくらいおありなんですね。兜をかぶると2mくらいになるのです。それに特殊メイクがすごく怖いんです。あれが攻めてくるとなると、さすがに家康もものすごく怖いだろうな、と思います。
そうしたリーダーとしての能力にたけた武田信玄ですが、彼の文化政策や、宗教人としての面に注目すると、どんな人物だったのでしょうか。
【平山】
先ほど、家康が義元の薫陶を受けた文化人だったという話が出ましたけれども、おそらく戦国の中で、今川義元と武田信玄の2人は、双璧となるような知識人であったと思っています。特に信玄は孫子の兵法などを学んでいたことがよく知られていますけれども、信玄の弟の武田信繁が残した99か条にわたる『武田信繁家訓』は、中国のあらゆる古典の中からその根拠となる言葉を引用して作られていて「お館様に奉公せよ」と繰り返し戒めているのです。信玄と信繁の兄弟は2人ともすごくインテリなのです。信玄の生母・大井夫人の系統には、かなり文化人が多かった。大井一族の中には信玄の従兄弟、あるいは伯父にあたる人たちで和歌に精通した人たちが多く、冷泉為和ら公家が訪ねてくるとそういう人たちと歌を詠み合い、かなり高い評価を受けています。そういう背景があるので、信玄が文化人として優れた人物であったことは間違いないんです。
『甲陽軍鑑』に山本勘助に、信玄が投げかけた言葉としてこのような一節が出てきます。『自分は中国(唐国)から来たあらゆる書物を読んではいるが、それをそのまま現実に適用しようとは思わない。それはあくまで参考でしかない。「現実を踏まえてそれをどう運用していくか」が大将の知恵だ』と。これは信玄がただの教条主義者ではなかったことをよく示しています。
あと宗教人としての武田信玄は実は、特定の宗派の布教を禁止したことは一度もない戦国大名なのです。例えば隣の北条は一向宗禁制なのです。ところが武田信玄という人は、「法論はしてはいけない、俺の宗派が正しいんだって主張するとけんかの元になるから、それは駄目だ」と定めた。それさえ守れば、あらゆる宗派に布教を許しています。そして宗教問題で、大きなもめごとが起こったことは、甲斐国では確認できません。もしキリスト教が甲斐国にも入ってきていたならば、信玄はその布教を止めなかった可能性もある、と私は思っています。ただ信玄自身は伝統的な宗教人としての側面を強く持っていました。禅宗に帰依するとともに、天台宗の保護、とりわけ比叡山延暦寺を護持する気持ちがすごく強かった。最終的には叡山再興を旗印にして信長を打倒しようとするに至ります。ですから本人は当時としては一般的な宗教観の持ち主であるけれども、同時にあらゆる宗派にかなり寛容な主君でもあったと思います。
意外でした。武田信玄というと「武」のイメージが強いので、文化や宗教的な側面がクローズアップされることが少ないのかもしれません。文化人としては、京風の文化を駿河、駿府に根付かせた今川義元もそうだと思うのですが、文化人としての義元はどのような人物だったのでしょうか。
【小和田】
先ほどもお話ししましたが、今川義元は京都から文化人を招いていましたし、そして彼自身も当時はやり始めた茶の湯にのめりこんで、数々の名物茶器も持っていました。すごいなぁと感心させられるのは、お父さんが制定した「今川仮名目録」を時代に合わせて必要項目を追加した「仮名目録追加21条」を制定・発布していることです。法による政治、つまり「法治主義」を重視して力を入れていた意義は大きいと思います。そして三河一向一揆との関係でいいますと、今川家はお寺を非常に大事にして、お寺にさまざまな治外法権的な特権を与えて、優遇していたんですね。ところが家康が今川義元の亡きあと今川氏真の時代に、それまでは許されていた特権をお寺から剥奪しました。寺にとってみればそれは、武家勢力による宗教世界への介入だったわけです。それが三河一向一揆の発端にもなっていったのは、みなさんもご承知の通りでしょう。そういった意味で、今川義元という人物は文化的な素養と教養にあふれ、いろんな文化を政治に生かしていく姿勢が強かった人物だといえると思います。
~ 氏真と勝頼 偉大な父親の下で ~
文化人としての一面は溝端淳平さんが演じられている息子・今川氏真にも十分受け継がれていったと思います。家康との戦に敗れ妻の出身である北条氏に身を寄せたあと、今川氏真はどのような生涯を送っていったのでしょうか。
【小和田】
戦国大名としての今川家を滅ぼしてしまったことから今川氏真は「たいした武将じゃないね」というレッテルをどうしても貼られてしまうんですが、私は「氏真は意外としぶとく生き抜いた人」という捉え方をしています。『どうする家康』でもすでに描かれましたが、武田信玄に駿府を追われて今川氏真が逃げこんだ掛川城を、家康が攻めてその最後の最後の段階で、力ずくではなかなか難しかったので「なんとか城を明け渡してくださいよ」ということで和平交渉の結果、掛川城を明け渡すことによって戦国大名・今川家は滅亡したわけですけれども、その後、氏真との関わりを非常に大事に思っていた家康は、天正3年(1575年)長篠・設楽原の戦いの直後、自分で奪った、現在の静岡県島田市に位置する諏訪原城の城主に、なんと氏真を一度任命しているんですよ。そこで氏真に武将としての力量があったならば、そのまま家康に従う一武将のようなかたちで、徳川家臣団の中に重きを置いたと思うんですが、あまり氏真自身は武将としての力を磨いていなかった……やっぱりこれは私に言わせると、今川義元の「子育ての失敗」と言ってしまうと言い過ぎかもしれませんが、今川家全盛期だったものですから、和歌を習わせたり蹴鞠を習わせたりして、文化的なところに力を入れすぎちゃって、武将としての力量を蓄える機会が氏真にはあまりなかった。
むしろ今川義元の思いは「息子の氏真はそれでいい」「氏真は名前だけの当主でもいい」「竹千代改め、松平元康が氏真の横について補佐してくれるなら、今川家はこの先も無事にやっていける」と考えていたのではなかろうかと思います。これはなにも私ひとりが空想で言っているわけではなくて……そういう例はほかにもありますから。例えば時代はあとになりますけれども、大河ドラマ『天地人』で主役として描かれました直江兼続が上杉景勝についていたので上杉が大名として残ったという例もありますよね。おそらく今川義元は自分の息子に後を継がせて、それを松平元康が補佐をするという「コンビ」を夢想していたのではないかと思っています。ですから、家康は氏真を終生、大事に扱っています。これがドラマで今後どのように描かれていくのかはまだ未知数ですけれども、実際の家康は晩年まで氏真の面倒をしっかりと見続けていました。
氏真の子孫の系図を見ますと、氏真の孫にあたる直房の時には、江戸幕府から今川家に高家として抜てきされています。今川家は旗本待遇として、幕府の儀式や典礼をつかさどる役職を幕末まで勤め続け、範叙の代では、なんと幕府の若年寄までやっています。そういった意味でいうと、今川家は(忠臣蔵でおなじみの吉良家と同じように)典型儀式に関わる高家として、江戸幕府での地位を残していくことができたわけです。家康は確かに今川家を滅ぼしてしまったわけですけれども、今川家から受けた恩に報いるために、今川家が代々続くように残したいという気持ちで、相当な努力をしたのではないか、というふうに私は思っています。
4月30日放送の第16回「信玄を怒らせるな」から、武田信玄の息子・武田勝頼が登場したわけですが、「息子の代で勢力を失っていく」という点でいうと、今川氏真と同じく、武田勝頼も同じ境遇だったと思います。これはどうしてそうなったのでしょうか?
【平山】
武田勝頼を演じられる眞栄田郷敦さん、ものすごく強そうでしょう? 「今年の長篠では武田が勝つんじゃないか!?」と思わせるくらいで。岡田准一さん演じる織田信長もそうですよね。今年は本能寺では死なないんじゃないかって思わせますね(場内 笑)。そもそも勝頼という人は、最初から後継者として育てられたわけではありません。武田信玄の息子たちの中で、たったひとり勝頼だけは武田家の通字である「信」の字がついていないのです。勝頼の「頼」の字は祖父・諏訪頼重の「頼」、つまり諏訪家の通字なんですね。生まれながらにして勝頼は、母方の諏訪家の後継者だったのです。ところが信玄の嫡男・太郎義信が今川攻めをめぐって父・信玄と対立し、信玄暗殺を企てた謀反を主導したとされ甲府東光寺に幽閉されてしまい、永禄10年に30歳で亡くなってしまいます。切腹だったのか、病死だったのか、これまで二説に分かれていましたが、このほど大河ドラマ『真田丸』でも時代考証を担当されていた黒田基樹氏により新史料が発掘されまして(さすが黒田さんと感服しましたが)病死だということが明らかになりました。
当時、信玄の息子のうち、次男の信親=竜芳は10歳で天然痘にかかって失明しています。三男の信之も10歳で夭折してしまった。結局当時、信玄の後を継げるような適齢期の息子は、勝頼ひとりだったのです。そこで信玄は、諏訪家から勝頼を呼び戻して後継者にしようとなったわけです。これは簡単にいうと、同族会社のワンマン社長(信玄)が、会社の経営路線を巡って副社長(義信)と対立した結果、副社長を追い出して子会社を継がせていたお妾さん側の息子(勝頼)を連れてきて「これが後継者だ」と言ったら、居並ぶ重役たちはなかなか従おうとはしませんでした……という図式なんです。勝頼自身は、自分が武田家を継ぐなんて意志は毛頭なかったはずです。まさに、巡り巡って自分のところに転がり込んできた出来事だったのです。勝頼が高遠から甲府に呼び戻されたのがいつのことだったかについても議論になっているのですが、従来は元亀2年という説が有力でした。しかし史料の検討から、最近は元亀元年だったのではないかと推定する人もいます。私はこの説に賛同しています。
どちらにしても信玄が元亀4年には急死してしまったので、勝頼の後ろ盾となって家臣たちと勝頼との関係性を確立させるための時間的余裕は信玄にはほとんど残されていませんでした。わずか2年ないし3年という短い期間でしかなかった、というのが武田勝頼の悲劇の始まりだったのです。彼は当主にはなったものの、信玄が育てた家臣たちへの求心力を最初から持つことはできませんでした。勝頼が求心力を持つためにはどんな手段があったかというと、織田や徳川に対してはあくまで強硬路線をとり続けて戦に勝ち続けることで、信玄と同等、いやそれ以上の実力を持つ後継者だということをアピールする必要があったのだと思います。
長篠合戦でなぜ、勝頼が決戦に踏み切ったのかについては、いまだに「謎」です。……「歴史の謎」なんですけれども、私はやはり勝頼の生い立ちを考慮すべきだと思います。勝頼にとって、戦場で武田軍の目の前に信長と家康が現れたのは、あの長篠合戦の時が最初で最後なのですよ。勝頼にはあの時「撤退する」という重要な選択肢があった。それにもかかわらず「ここで勝ったら、家臣たちに対する俺の主導権は決定的なものになる」という魅力に対して、勝頼自身があらがえなかったのではないか……私はそう見ています。「強過ぎたる大将」といわれた勝頼ですけれども、長篠の戦いで武田家が左前になって滅亡していったというのは、明らかに間違いです。なぜならば武田家が版図(はんと…一国の領域・領土)を最大に拡大したのは信玄ではなく勝頼の時代、滅亡のわずか2年前のことでしたから。滅亡直前が一番領土がデカいんですよ。中部地方を太平洋から日本海まで完全にぶちぬいた大国を成立させていますから。だけどその絶頂期に滅亡してしまう。私はその原因を高天神城の攻防戦だと考えています。決して長篠の戦いによる後遺症で、武田家が滅亡したわけではなかったはずだと、武田氏の研究者なら、みんなそう思っているはずです。その辺りが『どうする家康』ではどう描かれるか? みなさんご期待ください。
~ 歩き巫女・千代 妖しい魅力 ~
最後に私のほうからぜひお聞きしたいことで、俗っぽい質問で申し訳ないのですが、古川琴音さんが演じられている望月千代(女)についてです。ドラマで描かれているような裏工作、扇動活動はともかく「まぁこれはドラマならではの創作なのかなぁ」と思って拝見していますが、役どころとして「歩き巫女」を登場させようとした発想は、どこから来たのでしょうか。
【磯】
『どうする家康』では、大鼠に代表される忍びの面々や、服部半蔵を登場させています。忍者と聞くと、以前は映画やドラマの中で不思議な能力を駆使して大活躍する空想世界の産物として捉えられていましたが、実はここ10年くらいで忍者研究はかなり進んでいまして、忍びたちの実態がかなりリアルに捉えられてきた経緯があり、研究の最新成果を我々もドラマのストーリーに反映しようと努めてきました。服部半蔵についてもこれまでの映画やドラマでは、特殊な能力を持つ忍者の代名詞のような存在とみなされていましたが、実は服部半蔵自身は忍びではなくて、あくまで忍びを統率する武士だったんです。武士なんだけど忍びの統領をやっているという魅力的なキャラクターを山田孝之さんに演じていただいています。家康が強大な敵たちと対じする際に忍びの力を借りる必要に迫られたのは史実でしたから、『どうする家康』でも史実を元に、家康が服部半蔵に命じて忍びたちに働いてもらう場面をストーリーに組み込みました。
しかし強大な敵・武田のほうでも、「草」と呼ばれる忍び集団を大いに活用していたわけです。「歩き巫女」については、実在したのか単なる伝承なのかどちらとも言いかねるギリギリの存在ではありますが、僕がひとつおもしろいなと感じたことがあります。信玄が忍び集団の構成員として登用していた者の中には、戦争で命を落とした戦死者の妻、未亡人がまじっていたらしいという話を聞いたんですが、それがとても信玄らしいなぁと腑に落ちたんですね。それを慈善事業と呼ぶかどうかはともかくとして、戦争で主人を失って残された家族がその後どうやって生活していけばいいのかは、当時も絶対に避けては通れなかった問題だったはずです。信玄はそれにしっかり対処していたわけですよね。『どうする家康』に登場している千代(古川琴音)も、いまはまだ、信玄の密命を帯びて武田の利益になるような動きをしては報酬を得ているらしいという描かれ方ですが、今後はしだいに「なぜ、どんな経緯でこのような仕事に従事しているのか?」も明らかになっていきますし、シリーズのかなり終盤まで結構出番が続きます。「この先どんな人生を歩んでいくのか」についても、かなり意外な方向に展開していく……とお伝えしておきますね。
今回の大河ドラマで脚本の古沢さんがこだわっているのは「女性をしっかり描く」ということです。戦国時代を描くドラマですから武将たち男性陣が目立つ作りになってしまいがちのところを、瀬名(有村架純)、市(北川景子)、於大(松嶋菜々子)、そしてゆくゆくは淀殿も登場しますが「乱世に生きる当時の女性たちが、どんな生き方をしたのか、どんな生涯を送ったのかをちゃんと描く」ことを古沢さんも制作陣も共に目標にしてきました。千代も、そんな乱世に生きる女たちのひとりとして描いていきたいと考えて登場させました。
千代が今後も活躍しそうで、楽しみです。では最後に、今後の『どうする家康』の展開についてお話しいただきまして、磯CPに締めくくっていただきたいと思います。
~ 最後まで続く怒涛の展開 ~
【磯】
実は昨日「本能寺の変」を撮影したんですが、「本当に信長は死んでしまうのか」っていうところもひとつ、楽しみにしておいていただければと思うんですけども(場内 笑)、ものすごく激しい立ち回りシーンも展開しまして、僕もハラハラしながら見ていました。台本も今、小牧・長久手が終わって、数正出奔のエピソードに取り組んでいるところです。放送はついに武田との全面対決を迎えるということで、もう家康の生涯って次から次へと事件が起きるんですよね。第15回「姉川でどうする!」の冒頭で、金ヶ崎の退き口(撤退)をなんで省略したんだ?っていろいろ言われましたけれども(場内 笑)、そうでもしないと全体がとても収まり切れないっていう事情もありまして。
三方ヶ原の戦いという信玄 対 家康の大一番については第17回、第18回の前後編で家臣団たちとのドラマもひとつのピークを迎えますし、それが過ぎたら長篠の合戦で家康としては武田へのリベンジとなる大きな戦いがあり、築山事件、本能寺、伊賀越え、小牧・長久手の戦い、石川数正の事件があって、上京して秀吉のもとでいろいろあって、秀吉が死んだら石田三成が出てきて淀殿が出てきて、大坂の陣とものすごい物語が最後まであって、40年前の大河ドラマ『徳川家康』を作った先輩方が残した「家康の生涯はものすごい話がたくさんあるから、1年の放送ではとても収まり切れない」との言葉を、まさに今実感している状況でして、その中で三河一向一揆に3回も使ったっていうのは、我々としては大きな決断だったわけですけれども(場内大拍手)、大坂の陣が1615年でそのたった2年後に家康って亡くなるのですが、彼はまさに「戦国の世を終わらせるのが自分の使命なんだ」と思って、信じて生きていた人間なんじゃないかな……っていうくらい、そのくらい彼の一生は戦に始まって戦に終わる激動の人生だったんだな、って思っています。そうした彼の人生を振り返っていくと、決して「狸おやじ」ではなくて、一生懸命に誠実に生きた人物であって、だからこそ彼の死後に400年にわたる江戸時代の繁栄が実現したんだなぁ、とみなさんに実感していただけるような物語に仕上げたいと思っています。
そしてそんな家康を体現していただけるのは松本潤さんしかいないと思ってやってきました。だって家康って、……優しいんですよね。信玄にあれほど脅されて「今川潰せ」と言われながらも、結局は今川氏真の命を救ってしまうっていうあの徳川家康のやさしさってなんだろう?って思うんです。そういうところが家康の魅力であって、多分家康自身は、そういう優しい気持ちと「強くならなきゃいけない」という気持ちとの間での葛藤を、生涯背負い続けた人だったんでしょうね。だから「どうする?」「どうする?」と次から次へと選択を突き付けられて苦しみつづけることになる。今川家の滅亡を見つめて、武田家の滅亡を見つめて、織田家の滅亡を見つめて、最後は豊臣家の滅亡も見つめて、……自分が天下を治めていく過程でとてつもなくたくさんの血が流されていくのを目の当たりにした家康の人生っていうのは、ものすごいものがあるんじゃないかな、って思うんです。三方ヶ原の戦い前後編は大きな見どころには違いないのですが、それが終わったあとも家康の人生はどんどんいろんなことが起こっていきますので、是非最後まで……あの最終回はちゃんと大坂の陣までやりますので(場内大拍手)、そこまでをやり終えて、「やっと大きな仕事をやり終えた」っていう充実感の中で亡くなっていく……そんな家康の人生を、どうか最後までご一緒にお付き合いいただき、ご覧いただきたいなと思っております!(また拍手)
長時間にわたり、興味深いお話をいただき、誠にありがとうございました。これをもちまして、トークイベント「大河ドラマ『どうする家康』時代考証のウラ側」を終了したいと思います。あらためまして、ご出演の3人の方に対し、盛大な拍手をお願いします。ありがとうございました。
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